第2話【死と乙女】

文字数 1,729文字

 退廃的にくすんだ灰色の瞳が、光を失った世界を捉えようと焦点を絞り込んでいる。数秒後、彼女は自らの手首から滴る鮮血を、呆然と眺めていた。痛みも悲しみも、いや、あらゆる感情さえも失った脱け殻のような身体は、生命反応の有無さえ疑念を抱かせる。
 彼女は、鈍い瞳の輝きと対照の、真っ赤な液体に見とれながら、「綺麗……」と小さく呟いた。その言葉に、特に意図はなく、深い意識もなく、本当にそう思ったのかさえ定かでない。ただ、本能的に、口から零れ落ちただけの言葉だろう。

 彼女は、ここ数日、いや、数ヶ月なのか、若しくは数年なのか……もう数えられない月日を、限界という言葉の意味を痛感しながら生きていた。
 無関心に染まった無機質な社会。見栄と虚勢と自慢で着飾った女達。嘘と欲望とプライドで塗り固めた男達。単調で起伏の無い日常。そして、先の見えない悲観的な将来。何より、存在価値の見当たらない、居場所を見失った自分自身に絶望していた。
 生きていることに、そして、存在していることに、限界を感じていた。

 その時、メールの着信を知らせる電子音が鳴り響いた。友達や恋人、家族……彼女には、電子機器を通じてまでコンタクトを取るような知人はいない。確認するまでもなく、メールの相手はスパムだろう。彼女と他人を繋ぐ唯一の接点は、今では迷惑メールだけなのだ。スパムボットも、元を辿れば人間がプログラムしたシステムだ。皮肉にも、今の彼女に最も近い人間は、迷惑メールなのかもしれない。
 空虚な電子の世界の遥か彼方に、微かに感じる人間のぬくもりを思い出しながら、彼女はメールをゴミ箱に捨てた。これで、また孤独に戻る。自分自身の存在も、ボタン一つで削除出来れば、どんなに楽だろうかと考えた。

 それでも、彼女は知っていた……自分が死を望んでいないことを。死に対し、期待や憧憬に近い感情こそあれ、死を求めてはいなかった。それは、死への恐れではない。生への執着でもない。理由自体が存在しない観念の現象として、死を追求していないことを把握していた。きっと……単に、死以外の選択肢を知らないだけなのだろう。
 手首に付いた傷跡のコレクションが、また一つ増えるだけ。そう分かっているのだが、白銀に輝く鋭利な誘惑を手にしてしまう。
 慰めも理解も求めていない。社会と交わるぐらいなら、一人の方がいい。


 そう、どうやら存在することは望んでいる。
 ただ……その形態が分からない。


 いつ付けたのかさえ定かでないFMラジオが、弦楽四重奏を流している。音の認識と同期して、彼女の中で何か小さな覚醒が起きる。そして、初めて手首の痛みに気付く。しかし、彼女は、ラジオの音楽に耳を傾け続ける。
「綺麗……」同じ言葉を、もう一度呟いた。今度は、零れ落ちた言葉ではない。音楽に対する評価だった。幸い、音楽を受け止める感性は、微かに残っていたようだ。それが、アルバンベルグ四重奏団の奏でる「死と乙女」だとは知らずに、彼女は音楽に集中した。弦楽器の物憂げな揺動に伴い、少しずつ、彼女の中で、何かが溶けいく。
 いつしか、彼女の頬に、一雫の涙が伝った。
「ホント、綺麗な音楽ね」……三度目の呟きは、少し文字数が増え、文章の体をなしていた。何より、決定的に違うのは、今度は哀しげながら、ほんの少しだけ微笑んでいるようにも見えたこと。
 しかし、その時だった。チェロが歌う二楽章の旋律に聴き入っていると、唐突にメールの着信音が不快なハーモニーを重ねたのだ。
 その和声が、音程も音色もタイミングも、あまりにも調子外れで、不躾で、無神経で……一瞬で音楽をぶち壊した。「まさに迷惑メールね」……くだらないことを考え、今度こそ彼女は、確かに笑った。
 迷惑メールの逞しさを羨みながら、少しだけ笑った。

 きっかけなんて、何だっていい。ベットから起き上がった彼女は、頬の涙を拭いながら、鏡と対峙した。痩せ細った青白い表情の、くすんだ瞳の奥に、ほんの少しだけ、消えそうな灯火を見た気がした。そう、まだ光は完全には消えていない。
 そして、生きるという選択肢も、まだ残ってるいることに気付いた。手首の傷をハンカチで押さえ、まだ痛みを感じる自分に安堵した。






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