第一幕(4)

文字数 1,033文字

セレム・ハース・レム・イル・エストラヴェンの手記より。

持てるだけの物を持った。市街を抜け、西へ向かった。国境へ。

誰かに何かをたくせば、たくされた者に危険がおよぶ。別れを告げることもできなかった。風が吹き、黒い木々がざわめく。明後日の六の刻になれば、たとえ私が殺されても殺人ではない。人はただ、正義がおこなわれたと叫ぶだけだろう。


腹立たしかった。あの若い使節、かれの使命のことが、心残りだった。この宇宙に散らばった、人類の住む星同士の同盟。あの話が真実なら、われわれは孤立している場合ではない。外の世界に門戸を閉ざし、ちまちまと国境争いなどしている場合ではない。

手遅れにならないうちにと思っていたのだ。

おのが身にさしせまった危険に気づいているのだろうか。あの、遠い地球という星から来た青年、ゲンリー・アイ。
ゲンリーのリはRじゃなくてLだ。だが、カーハイドの人間は、RとLの発音の区別ができない。
私の足は止まった。私の人生にいまだかつてあっただろうか、ひとつでも、手遅れでなかったことが?
川のほとりに立った。手漕ぎの舟が一艘[そう]、つながれていた。
こんな脅しはやめてくれと僕はどなった。警官が三人がかりで僕を押さえこんだ。
巡視艇は舟底に伏せてやりすごした。雪深い村で積荷の人足にまぎれこんだ。
どのくらい訊問がつづいたのか、どんな訊問だったのか、覚えていない。その間、たえまなく何かの注射を打たれつづけた。
プレファンの強制収容所へ新たな囚人が送られたという情報をつかんだ。
このトラックはどこへ行くのだろう。窓がない。
氷点下にもならないうちからコートを着るような、寒さに極度に弱いあの使節が、プレファンの冬を越せるはずがない。
誰か、僕の服を、返してくれ……
収容所の看守たちの銃はどれも装填されていない。囚人を殺す必要がないからだ。処刑は、飢えと寒さと絶望にまかされている。

看守は三十人から四十人、囚人は百五、六十人。一人として健全な者はなく、まだ宵の口というのに大半が死んだように眠っている。蚕棚にぎっしり並べられた寝袋のうちに――一つだけ、あった。頭一つ分はみだした寝袋が。地球人のかれはわれわれのあいだではずば抜けて背が高い、ゲセン人の身長に合わせた寝袋に、おさまりきらなかったのだ。


私が寝袋を引きずり始めると、看守が寝ぼけまなこを向けてきたので、言ってやった、「だんな、また一人、死んじまったんですよ。」
「そうか。いつもの所へ出しといてくれ。じきに凍るだろう」
音楽。
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登場人物紹介

ゲンリー・アイ

地球出身。惑星同盟《エキュメン》の特使。惑星《冬》ことゲセンに単身降り立ち、カーハイド帝国の皇帝に開国をうながす。長身。性格は誠実で直情的。推定される容貌はアフリカ系。男性。

セレム・ハース・レム・イル・エストラヴェン


ゲセン出身。帝国カーハイドにおける《王の耳》(宰相に相当する最高実力者)。ゲンリーの使命の重要性をただ一人理解する。やや小柄(ゲセン人の平均的体躯)。性格は慎重かつ大胆。推定される容貌はアジアあるいはエスキモー系。中性(両性具有)。

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