エピローグ

文字数 4,718文字

 長い長い夢を見ていた。
 わたしはその夢の中で、一人の少女と出会った。
 金色に透き通るような髪の長い女の子。
 その子はトリーネといった。

 わたしがトリーネと出会ったのは森の中。
 深い深い森の奥の、大きな木の根元、秘密基地みたいな洞の中で。
 そこはとっても居心地の良いところで、わたしはすっかりくつろいでしまった。
 そのうちトリーネは誰かに呼ばれてどこかへ行ってしまったけれど、わたしに「そこにいていいよ」と言ってくれた。
 わたしはそこでのんびりと過ごした。
 お母さんの小言も、面倒な習い事も、勉強も、友達の悪口もない、平和な場所。

 トリーネはときどき戻ってきた。
 そのたびにわたしを森の外へと誘ってくれたけど、わたしはいつも断っていた。
 ここが気に入っていたから。

 でもさっきのトリーネは、様子がいつもとは違っていた。
 トリーネは言ったの。
 会えるのは最後になるかもしれないって。

 彼女は人差し指をすっと出して、その指先に雫をためてみせた。

「きれいな雫ね。きらきらしてる」

 わたしがそう言うと、トリーネは嬉しそうに微笑んだ。
 そのときトリーネの指先の雫がぽたりと落ちたから、私は慌てて手のひらで受け止めた。
 するとその雫は、小さな鍵へと姿を変えて……クリスタルみたいに透明できらきら光る鍵。
 それからすぐだった。
 森が光に呑み込まれて、わたしは「わたし」の中に居た。

 ずいぶんと留守にしていたみたいだけど、そこが「わたし」なんだとすぐにわかった。
 「わたし」の中には小さな見慣れない扉がついていて、小さな鍵穴まであった。
 直感で、それがトリーネの扉だってすぐにわかって、わたしはあのきらきら光る鍵を扉の鍵穴にさしこんでみた。

 扉のむこうにはたくさんのトリーネのかけらがあった。
 シャボン玉みたいないくつものかけらは、ふわふわ浮いていて。
 試しにその一つに触れると、中にあった思い出がわたしの中に広がった。
 トリーネの思い出が。

 思い出の中でわたしは一生懸命、字を書いていた。
 何度も何度も練習して、わたしの国の言葉を覚えようとしていた。
 わたしの中にトリーネが溶け込んで、それはわたしの経験になった。
 トリーネの気持ちも、わたしの中へ溶け込んできて、わたしはトリーネの気持ちを抱きしめた。

 わたしは次々とトリーネのかけらに触れて、そのたびにわたしは「わたし」の中に居なかった時間を取り戻した。
 あるとき触れたかけらの中で、わたしは一人の男子に出会った。
 トリーネはとても気にしていたけれど、わたしの体だからって、遠慮していたみたい。
 でも、わたしもこの人、けっこういいなって思ったんだよ。
 トリーネと、そういう話もしたかったな。

 でも、あるかけらに触れた時、わたしは驚いた。
 そのかけらの中には恐れも、痛みも、悲しみも、他のトリーネのきらきらした想い出にはひとつもなかったものばかり詰まっていたから。
 それは、トリーネの、トリーネだけの記憶が入っていた。

 ある日突然、村人全員が領主さまのお城に集められた。
 それは、その村が「魔女」の出身の村だったからという理由。
 確かに村には不思議な力を持った女性が居た。
 奇跡を起こす「聖女」が。
 ただ「聖女」は、領主の敵を呪う仕事を断った。
 それだけの理由で村人全員が集められ、「魔女」の仲間として処刑されることになった。
 村人たちは毎日数人ずつ連れていかれ、領主の犬に生きながらにして食い殺された。
 トリーネもそのまま「魔女」の一味として処刑されるはずだった。
 でもある夜、門番が牢屋の隙間から小さな手鏡を手渡してこう言った。

「その体を捨てる覚悟があるのなら、命だけは助けてあげることができる。覚悟があるなら鏡を見なさい」

 トリーネは迷ったけれど、他の村人たちが次々と鏡をのぞきこんだのを見て、一緒に鏡を見る事にした。
 鏡の中には広い広い鏡の国があった。
 トリーネはあっという間にその中へ吸い込まれて、鏡の国の住人になった。

 鏡の国では、ハインリヒという男が「聖女の代弁者」として皆に説明をしていた。
 鏡の国では思い描いたものが現れること。
 ただし、その現れたものにも、あと鏡の世界に居る他の誰にも、触ることはできないということ。
 鏡の国では何も食べなくとも、まったく眠らなくとも、平気だということ。
 そして一人で思い描いたものはだんだん薄れていくけれど、皆で思い描いたものはなかなか薄れずに残ること。
 村の人たちは鏡の国に村を思い描いた。
 村の周りにある深い森も思い描いた。
 トリーネはお母さんを早くに失くし、お父さんも最初の「魔女狩り」で処刑されて、ひとりぼっちだった。
 だからあの深い森の中の大きな木の根元に自分だけの秘密の寝床をつくって、そこを好きなもので埋め尽くした。
 かわいいお人形やぬいぐるみ、綺麗なアクセサリー、そして楽しい絵本。

 ああ、ここ、わたしが一目見て気に入った場所だ。

 記憶には続きがあった。
 影の村長みたいに振る舞うハインリヒは時々居なくなったけれど、村の人たちはあまり気にしなかった。
 かりそめの村がそこにはあって、飢える心配も殺される心配もなく、生き残った人たちだけだけど、のんびり暮らすことができたから。

 そんなある日、ハインリヒがトリーネのところにやってきた。
 そして見知らぬ国の言葉を教えはじめた。
 トリーネは勉強が楽しくて、その言葉を使って絵本もつくったりした。

 あの絵本、トリーネが作ったんだ!

 やがてトリーネが言葉を覚えると、ハインリヒにお願いされた。

「君のからだを用意したよ。鏡の国の外へ皆で出る準備をしたいんだ」

 トリーネは自分の体が戻ってきたと思って、ハインリヒの言う通りに「聖女」の家の暖炉の中から上の方を覗き込んだ。
 ちょうど女の子が鏡を覗き込んで、トリーネは気が付いたら「わたし」の中に居た。
 はじめは「わたし」の体がちゃんと動かなくて大変だったみたい。
 でも時間をかけるうちに本当の自分の体みたいに動かせるようになった。
 それに、今のわたしみたいに「わたし」の中の扉を見つけて、そこに「わたし」の記憶があって、トリーネはようやく「わたし」がトリーネの体じゃなくて「わたし」の体だってことを知った。

 わたしが鏡の国に最初に来た時、「わたし」の体には別の人が入ったみたい。
 でもその人が「わたし」の体でいくら頼んでも、「わたし」の家族はミラーハウスに来てくれなかったから、その人の代わりにトリーネが「わたし」の体に入ったこともわかった。

 トリーネで良かった。
 「わたし」の中に入ったのがトリーネで、本当に良かった。
 だってトリーネは、とっても頑張ってくれたから。
 「わたし」の記憶を見ながら「わたし」の家族が壊れないようにしてくれていたんだ。
 でもトリーネが頑張れば頑張るほど「わたし」のパパとママはケンカして、そしてママはカッくんを連れて家を出て行ってしまった。
 落ち込んだパパを、トリーネは一生懸命元気づけてくれた。
 トリーネは、名前を変えてカッくんと文通もしてくれたし、どんなときも決して諦めずに、「わたし」の家族を大切に守ろうとしてくれていた。

 トリーネが、森の中に戻ってきたときの記憶も残っていた。
 「わたし」のところへ、ある日、ハインリヒの使いがやってきたの。
 その人はこの国の自動車という乗り物を動かすことができて、トリーネを時々、ホラーランドへとこっそり連れて行ってくれた。
 ハインリヒはトリーネに、トリーネの家族に「移住」できるかって聞いたけど、トリーネがパパとママが離婚しちゃったったから無理だって答えていた。
 トリーネは、鏡の国の人なのに、「わたし」の家族を守ってくれていた。
 トリーネには感謝しかない。

 トリーネが森に戻ってきたとき、鏡の外では何年も時間が経っていたなんて知らなかった。
 大きな樹の秘密の洞に居たわたしは、トリーネがいなくなって、ほんのちょっとしか経ってないって感じていたもん。
 だからトリーネがわたしを外に誘った時、わたしはまだまだここに居たいって答えた。
 ホラーランドでカッくんの面倒を頼まれていたのに、ミラーハウスを見つけて一人で遊びに入っちゃったことを、怒られるのが怖かったから。

 わたしが「わたし」に戻ろうとしなかったから、トリーネは「わたし」の中に戻ることにした。
 ハインリヒに利用されないように「この世界のことをもっと調べてくるから」って約束して、「わたし」のことも守ろうとしてくれた。
 わたしの一番大切な時間を奪ってしまったと、トリーネはいつもひとりで泣いていたことを、わたしはようやく今になって知った。
 鏡の世界では誰に触れることもできなかったから、無理やり連れだすことができなかったって。

 わたしは今、トリーネの思い出に触れて、そんなに長い時間が経っていることを初めて知った。
 秘密の洞の中で過ごした時間は、ほんとうに少しだけだったから。
 鏡の国は、一瞬で、そして永遠で、時間の外側にあったから、わたしは浦島太郎みたいにとても長い時間を鏡の国で過ごしてしまった。

 トリーネの痛みが、悲しみが、憂いが、申し訳なさが、守ろうとしている気持ちが、わたしの中に流れ込んでくる。
 干したきのこを水につけてもどすみたいに、わたしの中で広がったトリーネの記憶が、わたしと「わたし」の過ごした時間の差を埋める。
 わたしはトリーネの記憶を抱きしめる。
 これは「わたし」の記憶でもあり、わたし自身でもあるんだと思う。
 トリーネの記憶と想いがわたしの中に溶け込んで……ね、安心して、トリーネ。
 わたしは長い時間を失ってなんていないから。
 トリーネが大切にしまってくれていたから、どんどん思い出せるの。
 わたし自身の人生を。

 わたしはトリーネと一緒に長い長い人生を歩いている。
 わたしの中にトリーネは溶け込んでいる。
 そして時々、光のあたる道を歩いていると、視界の端にきらきらと光るものがさらりと流れるの。
 あれはきっとトリーネの美しい髪の毛ね。

 わたしはトリーネの部屋を出た。
 この鍵があれば、いつでもわたしはトリーネに会える。大好きなトリーネに。

「ねぇ、おねえちゃん」

 わたしは「わたし」の中で声をかけられた。
 カッくんじゃない……その子は……その子たちは、時代劇の貧しい村に住んでいるようなみすぼらしい格好で、みんな震えていた。

「おねえちゃん、助けて」

 わたしもトリーネみたいに、誰かを助けたいと思った。

「助けてあげる」

「おらたちだけじゃないんだ。ともだちもたくさんいるんだ」

「助けにきてくれたひとはいるけれど、全員は入りきれなくて……だからともだちも助けてほしいんだ」

「そうなの? じゃあ、助けにいかなきゃね」

 トリーネがわたしを助けてくれたように、わたしも誰かを助けられるなら、そうしてあげたくて。

「うれしいな。こっちだよ。こっち。みんな待っているんだよ」

「そうね……みんなで一緒に行こう」

 皆の喜ぶ声が聞こえた。
 とてもたくさん、たくさんの声が。
 わたしの中に声が降って来る。
 蝉時雨のように、たくさんの笑い声が。





<終幕>
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