第2話

文字数 6,038文字

 今いくつと言ったのか。聞き逃してしまった。二十八歳か。そうだとしたら、私より年上でしょうが。「お姉さん」なんて呼ばれているけど。目の前の男は、にこやかな笑みを小出しにして、時々私の瞳を覗きこむようにし、同意を求める時に、
「ねー、お姉さん」
 と言う。もうこのシャツでは暑いのでは、と思う位厚手のチェックのシャツにダウンベストまで着ている。寒がりか。それとも気に入った服を、季節を無視して着るタイプなのか。
「今度の彼は、運命的よ!」
 恵が連絡してきたのが、十日前。こんな潤んだ目をして見つめているけれど、多分出会ってか
らニ週間も経っていないだろう。どれだけの速さで、恋に落ちていくのか。いつも。
「名前が、征二っていうのよ。セージよ。スパイスの!」
 川北征二。彼の両親も、またスパイスの名前を子供に付けたというのか。そんなことはありえないのに、運命でくくるあたり、本当に恵はめでたい。今も、なにかしら話す度に触れあって。私に見せつけたくて、やっているのか。全然羨ましくないから。
「セージとナツメグよ。香り高きお料理ができそうじゃない?」
 私の名前は、含めてほしくない。この男は、今までの恵の男達となんら変わらず、調子の良い中身のないことを、次から次へと言っている。・・・と言うことは、別れるのも大体同じニ、三ヶ月後だろう。全員知っているわけではない。むしろこうして会う方が、珍しい。今回は、あんまり恵が運命だと騒ぐので、会わざるを得なくなり、やって来ただけだ。もう帰りたくなっている。
「お姉さんは、気づかなかったんですか?」
 だから、そう呼ばれるのはおかしい。少し笑うが、言葉で反応を返すことはしない。征二という名前であることも、どうでもいい。全く興味がない。こんな小さな偶然で大騒ぎしている恵の方が、不可解。
「お姉ちゃんの仕事はねー」
 恵の言葉を遮るように、
「川北さんのお仕事は、何ですか?」
 と尋ねる。手の中のワイングラスを転がすように揺らして、
「不動産です」
 と言う。あ、今日は水曜日か。この服装は、一度帰宅して着替えてきたのではないのか。今日は、休日だったのだ。カジュアルなワインバーだから、許される服。テーブルの上のろうそくが、シャツの赤い部分に映り込んで征二の上半身全体が、ゆらゆら揺れているようだ。
「そうなのー、宅建持ってるのー」
 始まった。何ヶ月ぶりだろう、恵のこのしゃべり方。恵の身体の中に腹話術師が入っているのかと思うくらいに、いつもと違う声。男用の音色。宅建は、普通持っているだろう、この年の不動産業の男なら。
 恵自身は、気づいていない。自覚症状は、ゼロ。私には、この声は恵の恋愛の幕開け、ファンファーレのようにも聞こえるし、すでに破局へ向かう序曲のようにも思える。
 そこまで言ったら、意地悪すぎるか。大体つきあい始めの頃に紹介され、その数ヶ月後に別れた、という報告を聞くのがいつもの流れ。一体どのタイミングで、地声に戻るのだろう。まさか別れ話まで、このような鳥肌の立ちそうな声でやっているはずもなく。それも、別にどうでも良い話ではある。
 その日は、三時間ほどでお開きになった。征二は、酔うほどに余計に人に気を使いだし、恵が興奮して話す身振り手振りがぶつからないよう、ワイングラスやデキャンタをどけてあげたりしていた。食べ物がテーブルの上にこぼれたりすると、そっとナプキンを使って拭いたりもしていた。恵は、そんな征二の行いに全く気づいていない。恵がこうやって新しい彼氏を連れてくるのは、私に対する自慢が目的だと思う。だから、ここで新しい男の良いところなど、いちいち目に留める必要はないのだろうけれど。

「奈津さん」
 退社時、駅の改札あたりに突然征二が現れたのは、その翌週の火曜日のことだった。    
 スーツ姿で、全く印象が違うので、呼びとめられても暫くはわからなかった。あの日は「お姉
さん」で通していたくせに、呼び方まで変えてきたのだから、余計に混乱した。
 話がある、と言うので恵も一緒かと思ったら一人だと言う。手短かに聞いて帰りたかったので、駅前のカフェに入ることにした。ほんの少しだけ持ち合わせている姉としての自覚が、そうさせたまでだ。
「奈津さん」
 再度名前を呼ばれる。今日は、これで通すのか。本当は、苗字で呼んでもらいたい。
「僕は、奈津さんを好きになってしまいました。いけないことだと思いつつ、どうしても止められない」
 この告白を聞いた時の私は、きょとんとしていたと思う。もし恵がいて、私の様子を見ていたら、
「お姉ちゃんたら普段言われ慣れていない告白なんてされたもんだから、思い切り驚いちゃってさー。でも、どこか嬉しそうだよ。やっと私の番ねって感じで」
 などと言うだろう。そう思われてもしかたない。何しろ、あまりにもおかしくて、笑いをこらえ切れなかったので、嬉しそうに見えたとしても否定出来ない。実際は、こんなチンケな茶番を待ち伏せまでして実行する征二が滑稽すぎて、つい笑みがこぼれてしまったのだ。
「僕と恵が運命的なら、奈津さんだって同じだ。いや僕は、奈津さんにこそ運命を感じる」
「あの・・・スパイスの名前の件で、そう言っているのかしら? だとしたら、ごめんなさい。私全然気にもしていないから」
 今年初めてのアイスコーヒーをストローで飲みながら、征二に伝える。征二は、これ位の拒絶は想定内であったらしく、次のステージに駒を進める。周囲の人が聞いていないか様子を伺ったが、大丈夫みたいだ。長居をする人も少なく、左右の席には、来た時とは違うカップルが座っている。
 そして私は、お里の知れない屈辱感を味わう。こんなにも簡単に気持ちを乗り換えられる男に、好かれてしまったやるせなさ。好意を持ってくれている人間に対し、喜ぶ気持ちが全くないという侘しさ。人としてのまっとうな感情を、その機会に持つことが出来ないのは、やはり自分の来し方が影響しているからだろうか。急に自分だけの世界に入りこみそうになる。過去に思いをはせると、私は必ず少し上の空になってしまう。
「実は僕。子供の頃両親から虐待されていて」
 征二は、私の心の動きなどかまいもせず、突然に話し出した。
「親父が事業に失敗して、だんだんアルコールの量が増え、気に入らないと僕を殴ったんです」
 私の頭の中は、完全にニュートラルの状態。征二の言ったことを消化することが、できない。
「母親は、一生懸命かばってくれようとしたけど、あまり僕の肩を持つと母親までやられちゃうから・・・。暴力からは守ってくれようとしたけど、基本邪魔者扱いで」
 征二の目は、うっすらと涙の膜が張っている。これ以上話すのは、止めた方が良いのでは? 落涙してしまう。
 無言の私。征二は、同情でもしていると思ったのか。こういう時に流れるありがちな雰囲気が漂い始めた。私が言葉を発するのを、待っているのだろう。
 征二は・・・なんて明るい人なのだろう。ほぼ初対面の私に、いとも簡単に身の上話をしてしまう。
「僕って、こんなに辛い人生を送ってきたんだ」
 手品のタネあかしでもするかのように、少し胸も張り気味に言い放つ。多分初めての告白ではないだろう。今まで友人に、同僚に、もしかしたら先生や上司にまで、
「実は・・・」
の枕詞を用いて打ち明けてきたはずだ。手垢にまみれた単語たち。それでいながら簡潔にまとめられた、あらすじ。そしてこの話を聞いた相手が取るであろうリアクションを、明らかに私に期待している。いや強要している。 
 こんな明るい人に、同情をする必要はあるのだろうか。近しくもない人に、すぐに身の上話をするのは、ある意味卑怯だ。今後つきあっていく上で、
「あの人は、辛い思いをしたから」
 というエクスキューズの種を蒔いているわけだから。征二が私に望んでいる言葉は、
「それは大変だったわね。本当にお辛かったでしょう」
 そんな類のものだろう。そして、今までの人達も似たような言葉を返したと思う。それは、本心から出たものではない。その人そのものに感情移入をしていない時期に、そこまで寄り添える奇特な人は、殆どいない。通り一辺倒の慰めを口にして、早く明るい話題に変えたいと思っているのに、それを真に受ける征二は、心底おめでたい。
 本当の言葉とそうでないものを、見抜けないのだろう。すぐに身の上話を始めてしまう征二の明るさは、鈍感、無神経、または能天気とも言いかえられる。このような気配は、恵にもよく感じる。
 相変わらず黙り続けている私への、見立て。
「今の話に衝撃を受け、何か慰めの言葉をかけてあげたいが、口を開くと泣いてしまいそうなので、やむを得ず沈黙している」
 こんな感じか。征二の方は、涙の膜も消え、多分本番終了直後の舞台役者みたいな気分なのだろう。悲しい生いたちの男の役を、今日も完璧に演じきれた、というような。
 だんだん店内が混みはじめ、私は空腹を覚えてきた。ここで何か注文しようか。いくらなんでも今話を打ち切るわけにはいかないから、場所を変えて食事にするか。それは、ある程度受容の合図にもなるから、避けるべき。しかたがない。このまま耳を傾けることに決める。
 隣のカップルは、映画に行くことにしたみたいで、席の予約が出来る映画館を調べている。楽しそうだ。身体を傾けてタブレットの同じ画面を見ているが、その距離が絶妙。偶然を装って近づく彼女と、ここまで近づくと、下心ありとみなされないかと取り越し苦労をして、スッと肩をずらす彼。男と女は、こういった駆け引きをしながら、一つずつ親密になって行くものだろう。女にとって、そんなことの一つ一つが、いくつになってもドキドキさせてくれる人生の着火剤のようなものなのに、征二は、それらのやりとりを全てスキップしてくるわけだから、呆れる。あつかましくもある。
「あのですね」
 征二、今度はどんな作戦か。音色を変えて、話し出す。哀れみ乞い作戦第二弾であるなら、こちらも絶対に屈しない。
「奈津さんのこと、いいなぁと思ったのは、あの日の帰りの電車の中での出来事なんです」
 電車の中。何かあっただろうか。
「ほら、文庫本を落とした人がいて・・・」
 それだけ言われてもわからなかったが、征二の詳しい説明により、漸く思い出した。初めて会った日、途中まで電車で一緒に帰った。少し混んでいたので、征二と恵は二人で座り、私は向かいに一人で座っていた。すぐに乗り換えるので、何をするでもなく座っていると、ボトッという鈍い音がした。右を見ると、寝入っている中年男性の足の間に文庫本が落ちていた。手に持っていたのだろう、お釈迦様の掌をもう少し丸めたような形で固まっている右手。私は、文庫本を拾い上げた。どこへ置こうか。迷った。膝の上では、また落ちるかもしれない。「落ちましたよ」と起こすのは、無粋のような気がした。そこで私は、そーっと、お釈迦様の掌に本を戻した。落ちたことなど、なかったかのように文庫本は、お気に入りの小屋に戻った子犬のように、すっぽりと掌に収まり、男性が大船でも漕がない限りそこにとどまっていられるくらいの安定感を保っていた。それで、私も安心した。ただ、それだけのこと。
「あれを見た時、僕は感動しちゃって。相手は、眠っちゃってるんだから、感謝されないかもしれないのに、そんな親切をさりげなくできる奈津さんは、本当にすごい人だなーって」
 そうですか。眠っていた相手は、文庫本の角が掌に刺激を与えてしまったのか、起きて寝ぼけた口調で、
「どーも、すみません」
 とお礼を言ってくれましたよ。でも、それは本当に普通のこと。感謝する、されると騒ぐようなことでもないし、お礼を言われなくても、なんとも思わない。現に、今まで忘れていた。
 しかしながら、こんな些細なことで、心が揺れ動いてしまい、つきあい始めの彼女の姉に告白する征二は、正常な判断力を持ちあわせていないのでないか、と心配になる。たとえ私の行動を見ても良い人だな」程度で思考をストップすれば良いし、「それがきっかけで私のことを好きになったとしても「いくらなんでも彼女の姉にこんな早い時期に告白するのはヘンだろう」とブレーキがかかるのが普通。
 私は征二の生いたちよりも、こちらの感覚の方を哀れに思った。本当に。
「落ちていたから、拾ったまでです」
 ただのつなぎ言葉。本当は、無反応で通したかったけれど、あまりに黙り続けているのも悪いし、と思って言っただけ。それなのに。
「あー、そういうところ、本当に奈津さんは人間できているんですよー」
 会ったその日に、行為に感動。二回目で性格分析。この分だと五回目位には墓碑銘でも考えてくれるのではないか。五回目は、ないけれど。
 征二は、わざわざコースターを移動してからグラスの位置を変え、乗り出しても安全なスペースを確保して、私の目を覗き込む。もちろん、私は椅子の背もたれに身体をピタッとつける。籐細工の背もたれが、しなるほどに。
「上手く言えないけど、奈津さんとは根本に流れているものが同じというか・・・そんな感じがしてならないんですよね。不思議なんですけど」
 天晴、征二。そういう獣の勘みたいなものは、働くわけだ。少しだけ、見直した。その通り、私も虐待されて育った。同じ匂いを放っていても、おかしくはない。
「恵には、全く感じないんですけど」
  しかし。私は、絶対に言わない。
「実は、私も・・・」
 なんて。こんな男に言うわけがない。言って、どうする。傷を舐め合うのか。どちらの方がひどいか、比べてみようか。無意味だ。意味がないどころか、有害である。
 私は、こういう状況を避けてきた。それも、相当に、周到に。何故なら、これは私の命のつっかい棒に作用することだからだ。角度によっては、その棒が倒れてしまう危険性をはらんでいる。つまり、生きて行くことができなくなる。そんな根源を揺さぶるような思いを、出会ったばかりの征二と共有するわけがないではないか。
「私は、そんなふうには全然思わないけど」
 はっきりと告げる。
「そうかなぁ」
 腑に落ちない征二に対し、更に厳しく、
「私は征二さんとおつきあいする気は、ありません。今日のことは恵には絶対に言わないで下さいね」
 と釘を刺す。これだけの勢いで言っても、落胆する素振りを見せないところは、あられもなく幼少時を語るのと同じく、感受性が鈍いとしか思えない。交際を断っているのに、回を重ねれば気が変わるとでも思っているようだ。大丈夫か。ニ度と会うつもりはないけれど、小さい子供が一人で横断歩道を渡っている時に感じるような心配が胸に迫る。

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