第1話

文字数 2,216文字

「ぼくは、先生のことが大嫌いでした」

 手紙の書き出しは、そんな風に始まっていた。



 ***



 ぼくは、先生のことが大嫌いでした。本当に嫌いでした。殺してやりたいくらい、本当に嫌いでした。実際、ナイフで刺したり、銃で撃ちぬいたりして、先生のことを頭の中で何度も何度も殺したくらいです。


 なぜそこまで憎むようになったのか?


 先生ならおわかりでしょう。


 理由は、ぼくの進路を巡る衝突です。先生はぼくの志望大学を見て、「お前の成績じゃあ難しい。ワンランク下げなさい」の一点張りでした。そうまで言われれば、ぼくだって腹が立ちます。逆に態度を固くします。夏休みを過ぎたころから、先生を見るたび、その分厚い面をぶん殴ってやりたい気持ちで一杯でした。

 けれど、先生の言うことは正しかったのでしょう。実際ぼくは、大学受験に失敗してしまいました。第一志望はおろか、第二志望の大学にすら落ちたのです。


「これから、どうするつもりだ」


 卒業式の日、先生がぼくに問いかけた時、圧倒的な敗北感を覚えました。悔しくて、悲しくて、その場に崩れ落ち、両手で顔を塞いで泣いてしまいたいくらいでした。


 その、情けない気持ち。惨めな気持ち。悔しい気持ち。


 この一年間の浪人生活を支えてくれたものは、あの日感じた敗北感です。ぼくはその敗北感を薪に、一年間の浪人生活を途中休憩なし、ノンストップ、全速力で駆け抜けました。

 その結果が合格です。しかも、ただの合格ではありません。現役の頃からは、ワンランクもツーランクも上の大学。東京大学への合格です。うちの高校からは、十年ぶりの合格だと聞いています。


 昨日ぼくが進路報告の電話をした際、受話器の向こうで、先生は言いました。


「おめでとう。俺の負けだよ。俺が、お前の力を見抜いてやれなかったのが悪かった。本当に、合格おめでとう」


 なんだか肩透かしを食らったような気持ちでした。ぼくはてっきり、苦虫を噛み潰したようなあのいつもの嫌な顔で、「そうか、良かったな」とでも吐き捨てるものと思っていました。

 だから、先生が、おそらくは心の底から合格を祝ってくれている、そして、ご自分の負けを認めていると知った時、ぼくは突然、自分の存在が矮小なものに思われました。同時に、先生に対する感謝の念が、胸の裡から井戸水のように溢れてきました。


 ぼくは、先生から直接学んだことは何もありません。先生の授業では全て寝ていたし、進路面談でも、「如何に第一志望へ受かるか?」という点において、具体的で有益なアドバイスは一つもなかったと記憶しています。

 けれど、先生が全力でぼくの前に立ち塞がってくれたこと。全力でぼくと対決してくれたこと。そのことは、いまにして思えば、この上なく幸せで、ありがたいことであったと思うのです。

 その気になれば、ぼくのことを適当に応援し、適当に卒業を待つことだって出来たはずです。卒業すれば他人ですから、ぼくがどうなろうと知ったことではないはずです。

 その方がずっと楽だし、労力がかかりません。嫌われずにも済みます。思うに、大半の教師は、そちらの道を選ぶのではないでしょうか。ぼくが教師でも、そうする気がします。

 先生が壁となってくれたおかげで、ぼくはその壁を全力でぶち壊し、よじ登ってやろうと思うことが出来ました。とんでもない量の努力をすることが出来ました。結果、一年前とは全く違う景色を見ることが出来ました。


 一般的な師弟関係とは随分違うものかもしれません。なにせ、直接学んだことなど一つもないのですから。それでも、直接的な学びの何倍も大事なことを、先生からは間接的に学ばせてもらった。先生のおかげで、いまのぼくがある。いまになって振り返り、そう確信しています。

 だから明日、先生にお時間をもらい、挨拶させてもらうことにしました。ぼくなりに、先生への感謝の意を、お伝えしたいと考えています。

 ぼくは口下手で、その場でうまく気持ちを伝えられるか自信がありません。なので、先生との別れ際、この手紙をお渡ししようと思います。


 先生、今までありがとうございました。


 お身体に気をつけ、これからも頑張ってください。ぼくもぼくなりに、これから大学で頑張っていきます。また、ちょくちょくお会い出来れば嬉しいです。

                                      安藤



 ***



 ぼくは手紙を読み終え、しばらくその場から動けなかった。新居への引っ越しを控え、部屋は荷物で一杯だった。


 この手紙は、結局先生に読まれることはなかった。ぼくが先生に会うことも二度となかった。


 なぜなら、ぼくと会う約束をしていたその日、先生は事故で亡くなってしまったからだ。以来十五年間、手紙は宙ぶらりんのまま、ぼくの押し入れに眠り続けている。


 変わったことと言えば、ぼくも大人になり、教師の職に就いたことだ。肌の張りは失われ、髭はのび、気づけば先生の年齢に近づいている。


「いろいろあるよね、先生も」


 ぼくは、読み終えた手紙を、段ボールの中へそっと入れた。

 あの頃先生から学んだことは、たぶん、今もぼくの中に生きていて、これからも生き続けていく気がする。
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