ささささささ、る

文字数 6,454文字

 九月――私が転校してきて、半年が過ぎようとしていた。
 今ではすっかりこの中学校にも馴染んでいる。父の転勤に合わせて何度か引っ越しを繰り返しているので、どう振る舞うべきか染み付いているからだ。

 目立たなければいい。

 周囲の目を引くような言動さえなければ、時間が私を馴染ませてくれるのだ。
 ただ、この校舎にはなかなか慣れない。今まで見てきた校舎の中では新しい部類に入る。しかし何というか、どこかよそよそしいのだ――この校舎は。

 建物は新しいけれど、クリーム色をした廊下には、上履きで走り回った跡や、机や椅子を引きずったような――擦ったような黒い線がいくつも走っている。
 廊下の真ん中あたりが黒ずんでいて、端に向かうに従ってもとのクリーム色をしている。それはそうだろう。わざわざ歩きにくい端っこを選んで歩く生徒は少ないはずだ。今だって、私の視界にある限り、みんな中央付近を歩いている。

 階段も同じだ。手すりに手を添えておしとやかに上下している人を、私は見たことがない。みんな真ん中を駆け上がったり、下りたりしている。だからそのあたりが黒いのだ。

 上履きの足底で、少し強めに廊下をなぞってみる。
 こうして黒い傷を刻むことが、この学校の一員になることなのかもしれないと思った。

 + + +

「ねえ、笹川さん」

 あれは四月、転校してきて一ヶ月が過ぎようという頃だった。土地柄、転校生はそんなに珍しくないらしく、私は早くもクラスに馴染み始めていた。
 クラスメイトの彼女に話しかけられたのは、そんな頃だったと記憶している。

「校内はもう見て回った?」
「うん」

 私は頷いた。先生やクラスメイトに連れられて、必要な箇所は確認した――当然、校内の全てを見知った訳ではないが、しかし、彼女はそんな細かな事情を知りたいのではないだろう。

 だから私は、ただ頷いたのだ。

「校庭の隅に白い木があるでしょ。その木の話、聞いたことあるかな」

 彼女は、前の席に横向きに座って、話し始めた。
 校庭の隅、山際のあたりに一本の木があることは知っていた。
 見て――覚えていた。印象に残っていた。
 けれど、彼女が何を言いたいのかは分からなかった。

「木の話? さあ、聞いたことないと思うけど」

 彼女は微笑んで、私の目を見る。

「実はね、この学校が出来る前――ずっとずっと昔。ここは山だったんだって。それを切り拓いて、道路を通したり、畑や田んぼにしたり――学校を建てたらしいの」

 休み時間の喧騒の中、彼女はわざわざ、転校生に学校の歴史を教えてくれようというのだろうか。しかし話は、校外にまで及んだ。

「県道の先に野球場があるでしょ。プールもあって。あの辺は合戦場だったんだって」
「合戦場――」
「江戸時代よりずっと昔。源氏とか、平氏とか、そんな時代だって」
「そんなに昔なんだ」
「それでね、戦に負けた武士がね、ひとり逃げ延びて、この辺の山に逃げ込んだんだって。ちょうどあの、校庭の木の近くに」

 私は、校庭の隅の光景を思い浮かべた。
 校庭と裏山との間にはフェンスが張り巡らされている。金属製の、胸の高さくらいのフェンスだ。その手前に、木は生えている。

 フェンスの向こうには小さな川がある。細くて浅いドブ川だ。フェンスと山の崖に挟まれて、少し低いところを流れている。幅も狭く、私でも飛び越えられるほど。

 水量は少なく、傾斜も緩く、水を下流へと運んでいるのかどうかすら怪しい。よく目を凝らさないと、ただそこに溜まっているようにしか見えない。もしかしたら川と呼ぶより、水たまりといったほうが適切なのかもしれない。

 かつてはどうだったろう。大昔は地面と同じ高さにあって、その武士は――木の根元に腰を下ろして、川の水で喉を潤したかもしれない。血で濡れた長い髪を垂らしながら、あの水を啜ったのかもしれない。

「そしてそのまま、あの木の下で死んじゃったんだって。戦に勝った、源氏だか平氏だかを恨みながら」

 どちらなのだろう、と気になったけれど、すぐに忘れた。私には関係のないことだ。

「それ以来、あの木はずっと葉っぱを付けないの。何十年も、何百年も、あの形のまま立っているんだってさ。学校を建てるときも、祟りがあるかもしれないからって切り倒さずに、あんなところで残ってるんだって」

 たしかに不自然な位置に木はあった。
 校庭の北側、野球部やサッカー部の練習場所からも離れ、山の影に隠れて太陽もよく当たらない、ジメジメしたところにそれは立っているのだ。

 周囲は整地された堅い砂地になっている。他に植物はなくて、ただ一本だけ、取り残されたように根を生やしている。

 名前は知らない。幹の太さは、私が抱きつけば指の先が触れ合うくらいだろう。幹の色は明るく、黄色というより白に近い。薄暗い裏山を背景に、その木だけが浮かび上がるように白いのだ。

 枝には葉がない。寒そうな樹木だ。

 裸の枝は無数に伸びていて、どれもが空に向かって尖っている。初めは幹から横や斜めに伸びているが、先端に近づくにつれて、皆一様に、天に向かって曲がっているのだ。

 私はその異様さを、針金細工のようだと思った。

「今もあそこには武士の恨みが残っていてね、その恨みを買った子は、あの木の枝に串刺しにされちゃうんだって」

 彼女は、まるで昨日観たテレビ番組を話題にするかのように、気軽に言った。

「ほら、戦に負けたでしょ、その武士。だからいわゆる『勝ち組』が許せないんだってさ。お金持ちになった人、出世した人。部活で全国に行った人とか、彼氏がいる子だとか――そういう人はね、近づいちゃいけないんだよ」

 どうやら時代を経ることで、祟りというのは曲がった解釈をされるのではないか――私はそう勘ぐった。戦に勝った軍勢を恨むのと、成功者を無秩序に羨むのとでは、随分と開きがあるような気がした。

百舌鳥(もず)早贄(はやにえ)――」

 変わらぬ口調で、目の前のクラスメイトは言う。

「その落ち武者はね、そういう子が近づくと、刀で斬り捨てて、あの木の枝に串刺しにして、眺めるんだって。たくさん枝があるでしょ? あそこにね、突き刺して吊るしておくって」

 そうなの、怖い話だね。私は神妙に――けれど大げさになりすぎない程度のトーンで相槌を打つ。

 初めて触れた怪談に半信半疑、でも大変興味が沸いたように装った。この場合は、それが正解なのだろうと思った。

「しかも怖いのはさ、忘れられちゃうの」
「忘れられる?」
「そう。学校のみんなからも。友達や先生から、家族の人たちからだって忘れられちゃうんだって。居なくなったことに、誰も気づかなくなるの。探してもらえないし、お葬式だって上げてもらえない。落ち武者みたいに忘れられて、死んじゃって」

 どこにも居なくなっちゃうの――そう言った彼女の瞳は昏かった。

「だからさ、笹川さんも気をつけたほうがいいよ」
「どうして」
「だって笹川さんのお父さん国家公務員なんでしょ。お金持ちなんじゃない」

 そこまで言われて、ようやく私は合点がいった。
 別に私の家は裕福ではないし、父母は外見も性格も地味そのものだ。彼女がイメージするほどの生活はしていない。けれど、それとは別に、こうした話を私に――転校生に吹き込む理由に思い当たった。

 この町には大きな企業の社宅がいくつも建っている。全国的な電機メーカーなどの社宅らしい。この町はいわゆるベッドタウンで、隣の市に向かう国道沿いにも、いくつか新しい団地がある。

 いつだったか、食事時に父が話していた。

「何度か、景気のいい時代があったらしい。その度に人口が増えたんだろう。だから国道沿いに大きな店が多いんだろうな」

 つまり転校生も多かったのだろう。中には都会での暮らしを自慢気に語る転校生もいたのかもしれない。
 鼻持ちならない転校生を脅かすために、元々あった祟りの話に尾ひれが加わったのではないだろうか。

『大人しくしていろ』

 彼女たちからのそんなメッセージのように私は思えた。

 言われるまでもなく、そのつもりだった。
 同じであること――それが集団に溶け込むための最適解だ。同じような音楽を聴いて、漫画を読んで、ファッションには興味があるけれど自由にならないふうを装って。先生の悪口を囁いたり、誰と誰が付き合っただの、別れただの、初体験を終えただのを噂したり。

 慎ましやかに日々を送ることが何より重要だったし、私はそれを実行できた。
 そうして過ごした一学期は、概ね平和だったと思う。

 五月には、他のクラスにも転校生が入ってきた。その時もこの学校は大騒ぎなどせず、淡々と受け入れた。

 受け入れて、きっと誰かが、静かに脅しているのだろう。
『あの木には近づくな』と。

 + + +

 それは六月だった。私の嫌いな季節だった。梅雨は開けきっていなかったけれど、夏が近づいているのは分かった。くもっているのに暑い日だった。

 私は掃除当番の割り当てで、校庭のゴミを拾っていた。ふと、足が校庭の隅へと向いた。私はもう学校の一員だ。近づいたって大丈夫だろうと思った。

 恐れはなかった。
 むしろ、風に乗って散らばったゴミを集めようというのだから、根元に棲むという何かにも、感謝されてもいいくらいだろう――と、思っていた。

 ひとりで向かった。あんな噂があるから、近寄る生徒は少ないようで――その一帯には活気というか、人が立ち寄った気配そのものがなかった。空間そのものが虚ろだった。

 木の根の近くにゴミがあった。近づいてみると、アイスクリームの袋のようで、風雨に晒されて随分と経つのか、泥にまみれて汚らしかった。表面が泥に浸食されたようなそれを火バサミで拾って、ゴミ袋へと押しこむ。

 それから木の真下まで歩いて、見上げた。

 白い枝が、灰色の雲に向かって伸びていた。忘れられた誰かの忘れられた言葉――枝は、彼らの叫びそのものなのかもしれない。

 山のほうから湿気を孕んだ重たい風が降りてきた。針金めいた枝が、微かに揺れる。

 ポツリと、頬に雫が当たった。夕立になるのかもしれない。このところ、降ったり止んだりを繰り返している。雨に濡れる前に戻ろうと思った。

 きびすを返して、校舎へと向かう。一度、木を振り返ったが、木は何も言わない。何者も現れない。

 ――そういえば、隣のクラスに来た転校生はどうだろう。

 彼はまだ来たばかりで、学校の一員とは言えないはずだ。ここへ連れて来たらどんなことになるだろう。少しだけ好奇心を持ったが、そんな目立った行動をする気はなかったので、思うだけにした。

 再び校舎に向かって歩き出そうとした時――
 私の目の前に制服姿の女の子が居た。校舎に帰ろうとする私を、阻むようにして立っていた。

 私を見ている。
 長い黒髪に隠れて、表情が分からない。
 けれど見ている。
 鼻の先と、口だけが見えた。
 笑ってもいないし、怒ってもいないようだった。

 人間ではない、と思った。
 少なくとも、生きてはいないだろうと思った。

 全身が黒かった。
 制服も黒かった。
 夏服ではなく、冬服のセーラー服だった。

 濡れたカラスのような黒髪。
 その隙間から見える肌も、また黒かった。
 手も黒ずんでいた。

 ぶすぶすに腐った――、
 みかんの皮のように、青黒かった。

 スカートからのぞく膝も、
 すねも、
 足先もどす黒い。
 裸足だ。爪も黒い。

 黒い黒い女の子が、私を見ていた。

 私は震えた。
 手にしていた火バサミも、ゴミ袋も校庭に落ちた。

「えあ」

 間抜けな声を出して、私はなぜか助けを求めるように木のほうを振り返った。

 枝には、葉があった。
 さっきは丸裸だった枝に。

 真っ黒い葉。
 いや、花かもしれない。
 腐った果実なのかもしれない。

 黒いそれ(、、)は刺さっていた。
 ニンギョウだ。
 セーラー服や学生服の着せかえ人形。
 脇腹を貫かれ、反対側の脇腹から枝が伸びている。手足に力はなく、重力に従って垂れている――針金のような枝が、制服を着たたくさんのそれらを、貫いて伸びている。

 無数の枝に、さらに無数に。
 いくつも。いくつも。
 一本の枝に、いくつも、いくつも。

 でも――それは、
 人形ではなかった。
 だって人形は血を流さない。

 目から、鼻から、口から、耳から、
 黒々とした血が流れていた。

 木の根元は一面、黒い液体で水たまりになっていた。その水たまりは、わずかばかり傾斜のあるほうへ――ドブ川へと向かって広がっていた。傾きに従って、フェンスの下をくぐり、川へと注いでいた。

 たくさんの枝、
 たくさんの人間、
 たくさんの液体。

 背中で、黒い少女の気配がした。
 すぐ後ろに彼女は居る。
 間違いなく――居る。

 私をあの枝に突き刺す気だ。

 私は振り返りざま彼女を突き飛ばし、走った。
 校舎だけを見て走った。ポツポツと、水滴が顔に当たったことを覚えている。

 + + +

 そして七月が過ぎ、八月が過ぎた。
 そのあいだも私は廊下を歩いていた。

 九月が来た。まだ日差しは強く、みんなは教科書で顔を仰ぎながら廊下を歩いていて、先生に注意されたりしていた。

 始業を告げるチャイムが鳴り、みんなは教室へと駆け込む。
 私たちは廊下を歩いていた。夏服も冬服もいた。たくさんの生徒とすれ違うが、お互い目も合わさない。それぞれ馴染んで、慣れているからだ。

 + + +

 初めのうちはみんなに気づいてもらいたくて大声をあげていた。休み時間の廊下を、叫びながら走り回っていた。転んだ。また走った。それでも、誰も気に留めなかった。梅雨は嫌いだった。
 クラスメイトの足にすがりついてみた。何事もなかったかのように、歩み去っていった。

 目の前で泣いてみた。
 気づかれなかった。

 ――私の体は刺さっている

 そうして夏休みが来て、生徒が減った。
 廊下を歩く、私たちだけになった。

 たまに部活動かなにかで登校してくる生徒がいた。
 話しかけてみた。肩を強く握ってみた。
 無視された。

 ――私の体は刺さっている

 廊下に視線を落とした。
 黒ずんだ傷が無数に付いていた。
 上履きで強く擦ってみる。

 擦って、擦って、擦って、擦って、

 ここに居ることを示してみる。
 廊下には、新しく黒い線が走った。
 少しだけ笑みがこぼれた。

 ――私の体は刺さっている

 私の体は、針金のような枝に刺さっている。
 刺さって、刺さって、
 さ、

 さささ、
 ささ、ささっている。
 刺さっている。

 血を流している。
 目から、鼻から、口から、耳からも、
 黒い液体が止めどなく流れている。
 水たまりを作って、
 小川へと注いでいる。

 ――ああ、そうか。
 
 あの水は流れるのだ。
 この町に流れる大きな川へと繋がって、
 混ざっているのだ。

 流れるだけではないだろう。
 幾分かは地面に染み込んだりもするのだろう。

 この町の人たちは、
 その地面の上で暮らしているのだ。

 私たちを()け者にしたおまえたちは、
 私たちの血を(すす)って生きているのだ。

 私の体は、刺さっている。

 この町の隅で、ひっそりと刺さっている。
 私たちは刺さっている。

 お前たちを■■ために血を流している。
 
 私の体は刺さっている。

(終)
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