第49話 店の名は
文字数 2,206文字
32話からの続き
【これまでのあらすじ】
高校生の鷲宮秀一 は、テニスを教えてくれた恩師岩田の頼みで故郷のみずほ町にやってきた。それは兄の葬儀以来久しぶりの帰郷だった。
岩田との話しが済み次第すぐに東京に戻る予定だったが、幼馴染のコータの言動や何かに怯える涼音 の様子が気になる。兄の元妻由美子から夫の死因は自分にあると告げられた秀一は、従兄弟で警察官の正語 に相談するためにも町に留まることにした。
そんな中、コータが女子更衣室に忍び込み女の子たちのカバンに悪戯 をしたとの騒ぎが持ち上がる。秀一がその場に駆けつけると、今度は岩田が倒れていると夏穂 が知らせにやってきた。
岩田の手は、小さな体に似合わず大きくゴツゴツとしていた。
「坊ちゃんに会えて、ガンちゃんも嬉しかったでしょう」
冷たくなった岩田の手を握る秀一 の横で、みずほ町の前町長、水谷秀臣 が静かに言った。
「持病の発作が原因のようですが、長い時間苦しまなかっただろうと、医者が言っていました」
秀一にはまだ信じられなかった。
岩田と話したのはほんの数時間前。
公民館の受付事務所に入っていくのも見ていた。
秀一はそのあと二階の集会室に行ったが、すぐに野々花 と夏穂と共に階下に降りて、事務所のドアをノックした。
岩田を最後に見てから、事務所のドアの前に立つまで時間にしたら十数分程度。
その間に発作が起きたということか。
——なぜ自分は何も気づかなかったのだろう。
秀一の後悔は深かった。
「さあ、坊ちゃん、そろそろガンちゃんを見送りましょう」
秀臣は秀一の肩に手をかけた。
夏穂が岩田が倒れていると知らせにきた後、皆がゾロゾロと公民館へ集まったが、一番頼りになったのはちょうどやってきたこの秀臣だった。
AEDを使い蘇生を試みながら、救急病院に連絡させて医師を待機させるように指示した。
そして自分の車に岩田を乗せて病院に搬送しながら、一緒に乗り込んだ秀一に心臓マッサージをするよう促した。
だがその甲斐なく、岩田は病院で死亡が確認された。
この後、岩田は清められて棺に入る。
秀一は秀臣と共に病室を出た。
「私は手続きがあるので病院に残ります。町の者がこっちに向かってるので、誰かに送らせますよ」
「……ん……わかった……」
秀臣は秀一の肩を優しくポンと叩くと行ってしまった。
秀一は病室の外の長椅子に腰を下ろして考えた。
岩田は渡したい写真があると言っていた。
——驚きますぞ。
岩田はそうも言っていた。
受付事務所に入ったということは、あの部屋にその写真があるということか。
(ちゃんと受け取らなきゃ! こんなところで、ぼうっとしてちゃダメだ!)
秀一は立ち上がり、病院を出た。

みずほバイパス沿いにあるこの病院は、湯川市行きのバスは本数が多いが、みずほ町行きは一時間に一本程度だ。
(ちょうどのバスがありますように!)
財布は持っていないが、バスの運転手に事情を話せば何とかなるだろう。
秀一は病院前のバス停に向かい走った。
だがバスは行ったばかりだった。
あと一時間は待たなければならない。
(ダッシュすれば三十分でつける!)
秀一は走り出した。
炎天下の中を走っていたら、汗なのか涙なのかわからないが、目の前がぼんやり霞んできた。
(……ガンちゃんは事務所に入る前、立ち止まって会釈していた)
誰かが中にいたはずだ。
その人に聞けば、岩田の最後の様子がわかるかもしれない。
突然、後ろから車のクラクションが鳴らされた。
続いて聞き覚えのある大声。
「秀ちゃああん!」
振り返ると、正思 が軽自動車の窓から顔を出して、笑顔で大きく手を振っていた。
秀一は車に駆け寄った。
「おじさん! オレをみずほ町まで連れて行って下さい!」
「えーっ! まだ行ってなかったの?正語 はどうしたの? ケンカしたの?」
秀一はスライドドアを開けて後部座席に乗り込んだ。
「公民館までお願いします!」
「『みずほふれあいセンター』ってやつだね。だとしたら、旧道通るより、このままバイパス走った方がいい感じかな」
正思 は車を走らせた。
正思 に旧道と言われて思い出した。
秀一は母親が亡くなり東京の九我の家に預けられることになったが、町で過ごす最後の夜、コータと二人だけでお別れ会をした。
場所は旧道沿いにあったカフェ。
母親とは何度も来たことがあったが、子供だけでくるのは初めてだった。
コータとワクワクしながらパフェを食べていたら、柄の悪い連中に絡まれた。
店の人が連絡してくれて、駆けつけて来たのが岩田と兄だった。
(……ガンちゃんはいつも、オレのことを心配してくれた……)
——それなのに自分は何も恩返しができなかった。
「秀ちゃん、大丈夫?」
顔を上げたらバックミラー越しに、正思 と目が合った。
「正語 と何かあった? なんかいやらしいことされちゃった?」
普段はよく喋る正思 が黙っていると思ったら、知らないうちに泣いていたようだ。
秀一は首を振り、下を向いた。
下を向いたら派手に嗚咽が漏れた。
「……秀ちゃん、正語 のことは嫌いになっていいけど、僕のことは嫌いにならないでね」
旧道にあったあの店。
今はもうない、母さんが好きだったあのカフェ。
ずっと出てこなかったあの店の名前を秀一は思い出した。
それは子供が覚えるには難しい名前だった。
”ミルヒシュトラーセ”
それが店の名だった。
【これまでのあらすじ】
高校生の
岩田との話しが済み次第すぐに東京に戻る予定だったが、幼馴染のコータの言動や何かに怯える
そんな中、コータが女子更衣室に忍び込み女の子たちのカバンに
岩田の手は、小さな体に似合わず大きくゴツゴツとしていた。
「坊ちゃんに会えて、ガンちゃんも嬉しかったでしょう」
冷たくなった岩田の手を握る
「持病の発作が原因のようですが、長い時間苦しまなかっただろうと、医者が言っていました」
秀一にはまだ信じられなかった。
岩田と話したのはほんの数時間前。
公民館の受付事務所に入っていくのも見ていた。
秀一はそのあと二階の集会室に行ったが、すぐに
岩田を最後に見てから、事務所のドアの前に立つまで時間にしたら十数分程度。
その間に発作が起きたということか。
——なぜ自分は何も気づかなかったのだろう。
秀一の後悔は深かった。
「さあ、坊ちゃん、そろそろガンちゃんを見送りましょう」
秀臣は秀一の肩に手をかけた。
夏穂が岩田が倒れていると知らせにきた後、皆がゾロゾロと公民館へ集まったが、一番頼りになったのはちょうどやってきたこの秀臣だった。
AEDを使い蘇生を試みながら、救急病院に連絡させて医師を待機させるように指示した。
そして自分の車に岩田を乗せて病院に搬送しながら、一緒に乗り込んだ秀一に心臓マッサージをするよう促した。
だがその甲斐なく、岩田は病院で死亡が確認された。
この後、岩田は清められて棺に入る。
秀一は秀臣と共に病室を出た。
「私は手続きがあるので病院に残ります。町の者がこっちに向かってるので、誰かに送らせますよ」
「……ん……わかった……」
秀臣は秀一の肩を優しくポンと叩くと行ってしまった。
秀一は病室の外の長椅子に腰を下ろして考えた。
岩田は渡したい写真があると言っていた。
——驚きますぞ。
岩田はそうも言っていた。
受付事務所に入ったということは、あの部屋にその写真があるということか。
(ちゃんと受け取らなきゃ! こんなところで、ぼうっとしてちゃダメだ!)
秀一は立ち上がり、病院を出た。

みずほバイパス沿いにあるこの病院は、湯川市行きのバスは本数が多いが、みずほ町行きは一時間に一本程度だ。
(ちょうどのバスがありますように!)
財布は持っていないが、バスの運転手に事情を話せば何とかなるだろう。
秀一は病院前のバス停に向かい走った。
だがバスは行ったばかりだった。
あと一時間は待たなければならない。
(ダッシュすれば三十分でつける!)
秀一は走り出した。
炎天下の中を走っていたら、汗なのか涙なのかわからないが、目の前がぼんやり霞んできた。
(……ガンちゃんは事務所に入る前、立ち止まって会釈していた)
誰かが中にいたはずだ。
その人に聞けば、岩田の最後の様子がわかるかもしれない。
突然、後ろから車のクラクションが鳴らされた。
続いて聞き覚えのある大声。
「秀ちゃああん!」
振り返ると、
秀一は車に駆け寄った。
「おじさん! オレをみずほ町まで連れて行って下さい!」
「えーっ! まだ行ってなかったの?
秀一はスライドドアを開けて後部座席に乗り込んだ。
「公民館までお願いします!」
「『みずほふれあいセンター』ってやつだね。だとしたら、旧道通るより、このままバイパス走った方がいい感じかな」
秀一は母親が亡くなり東京の九我の家に預けられることになったが、町で過ごす最後の夜、コータと二人だけでお別れ会をした。
場所は旧道沿いにあったカフェ。
母親とは何度も来たことがあったが、子供だけでくるのは初めてだった。
コータとワクワクしながらパフェを食べていたら、柄の悪い連中に絡まれた。
店の人が連絡してくれて、駆けつけて来たのが岩田と兄だった。
(……ガンちゃんはいつも、オレのことを心配してくれた……)
——それなのに自分は何も恩返しができなかった。
「秀ちゃん、大丈夫?」
顔を上げたらバックミラー越しに、
「
普段はよく喋る
秀一は首を振り、下を向いた。
下を向いたら派手に嗚咽が漏れた。
「……秀ちゃん、
旧道にあったあの店。
今はもうない、母さんが好きだったあのカフェ。
ずっと出てこなかったあの店の名前を秀一は思い出した。
それは子供が覚えるには難しい名前だった。
”ミルヒシュトラーセ”
それが店の名だった。