第1話

文字数 200,986文字

ダイイングホライゾン



































   Ⅰ




















 場所を変え、新たに店を構えた加穂留の元に、一本の電話が入った。
 ナルサワトウゴウの遺体が発見されたという警察からの連絡だった。半ば、あの事件の直後には、覚悟していたものの、半年もの月日と、新しい店をオープンさせるための準備に、奔走していたため、ナルサワトウゴウが出血多量で、しかも行方不明となっていたことに、意識が向いてなかった。忘れていたわけではなかったが、自分の生活を建て直すために、必死になっていたのだ。
 その電話は心底、加穂留を驚かせた。スマートフォンを持ったまま、何の反応も返すことができなかった。
「坂下さん。坂下加穂留さんで、よろしかったですね。聞こえてますか。電波が悪いのかな。坂下さん。大変な衝撃を、受けたでしょうが、坂下さん。答えてもらえませんか。ナルサワさんには、今は、身内が誰もいないそうです。一番、頻繁に通信のやり取りをしていたのは、秘書の方でした。リナ・サクライさんとおっしゃる女性で。ご存じですか?しかし、こちらはなかなか、繋がりません。お忙しいようで。かけ直していただけるよう、他の方に、お願いしておきました。坂下さん。あなたとは、大変付き合いが長いそうで。メールのやり取りを、ざっと、見させてもらいました」

 呆然としたまま、再オープンした店の準備も、これで、一気に滞ってしまいそうな予兆を感じた。
「私は、どうすれば」
 加穂留は、力ない声を何とか紡ぎ出した。
「あ、よかった。繋がった。坂下さん。警察の方に一度、ご足労願えませんか。本人の確認を、一応してほしいんですよ。お忙しいとは思いますが。それと、葬儀の手配も、お願いできたら」
 この男は、確かに、私たちのメールでのやり取りを、完全に把握しているようだと加穂留は思った。
「わかりました。伺います」加穂留は即答した。

 このまま店に居ても、何の準備も、捗ってはいかなそうだった。今日の営業は中止だ。
 加穂留は、臨時休業を伝える張り紙を製作し、扉の外に張り付けた。
 黒系統の暗い服を選んで、素早く着替えた。ナルサワトウゴウが死んだ。そんなことは
わかっていたことじゃないかと、自分に言い聞かせた。何を期待していたのだろう。まさ
か、再開した新たな店に、彼がふらりとやって来ることを、期待していたわけでもあるま
い。しかし、不思議と、この半年間、加穂留は、ナルサワトウゴウの不在を実感すること
ができなかった。そればかりか、まだ、この辺りを彷徨っているような気がしていた。危
篤状態のまま、生死の境に、ぎりぎり存在しているような。まだ死は確定することができ
ない。生き返るとは思わなかったかもしれないが、それでも、意識の境界線にいるような
感じがしたのだ。だから、ナルサワトウゴウは、すぐ傍にいるような気がしていた。それ
は以前、彼が元気なときよりも、ずっと身近に感じることが、多くなっていたからだ。
 その状態が、あまりに自然で、このままずっと続いていくんじゃないかと、本気で思っ
ていたのかもしれなかった。その平穏さが、突然立ち切られた瞬間だった。目を醒まされ
たのだ。
 加穂留は、車を運転していくことをやめた。
 タクシーを呼ぼうとしたが、何を思ったか、母親に電話をかけていた。母の坂下マナミは夜の飲食店に勤務していたが、まだ家にいる時間かもしれないと思ったのだ。
 午後の四時を回ったところだった。母はすぐに出た。ナルサワトウゴウが死んだことを伝え、彼との関係を簡潔に伝え、今から遺体の確認に警察に行くことを、伝えた。坂下マナミも、驚きの反応を返してきた。
「ちょっと、待ちなさい。今から、あなたの所に向かうから」と彼女はタクシーであっという間に姿を現した。その早さに加穂留は仰天し、思わず笑ってしまった。ありえないスピードだった。
 加穂留は店のカウンターに母を座らせた。お茶を出して二人で並んで座った。

「いつ以来かしら。あなたとこうして二人きりになったのは」
 連絡してくれてありがとうと、坂下マナミは言った。親子の外見は似てなかった。母の、水商売で働いていながらも、どこか素朴な従順さのある美貌を、娘はまったく受け継いでなかった。二重ではあるが、切れ長のその目が、二人をまるで他人であるかのように、その類似性を排除していた。親子関係だけでなく、加穂留は他の誰に対しても、そうした一線を引いたような存在感を醸し出していて、実際心のやりとりにおいてもそうだった。
 母は、そんな娘の性質を心配した。客商売には向かないだろうと思ったのだ。だが加穂留の作る料理には、不思議と人間の暖かみのようなものが宿っていた。母は初めて娘が作った料理を食べたときのことを思い出していた。時間は少しかかるかもしれないが、店は繁盛するかもしれない。この味をわかってくれる人にとっては、離れられなくなる店になる可能性があった。坂下マナミは、その料理を口にした時から、娘に対する新たな思いを宿すことになった。そういった一面が、娘の心の奥には、確かに眠っていて、全面的に開花する機会が、待っているのかもしれなかった。そして、その根幹に、同級生だった男性は初めから気づいているような気がした。親のこの私よりも早く、誰よりも早く、気づいていたのかもしれなかった。その男性が、この世からいなくなったのだ。私が行かずに、いったい誰が、彼女を助けてあげられるだろうか。強靭な支えを、娘は今失っているのだ。私にできることは何だろう。時間の許すかぎり、傍にいてあげることだった。
「仕事には、もう行かなくちゃ、駄目でしょ?私は大丈夫だから。行って」
「何を言ってるの。今日は、休むに決まってるじゃない」
「やめて」と加穂留は言った。「お母さんらしくもない。そんなのお母さんらしくないわ。あなたは、どんな時だって、仕事を優先にしてきた。運動会も、卒業式も、お店が、オープンするときも、あなたはいつだって、自分の仕事を優先してきた。私は怒ってるんじゃない。尊敬してるの。一度だって、私は寂しいと思ったことはない。私は嬉しかった。誇らしかった。自分の母親を、誰よりも自慢したかった。あなたは、家族や他の何よりも、自分のことを大事にした。あなたは正直な人。そして、腹の座った逞しい女性。父親のことだって、私には何も話さなかった。一人で生んで、一人で育てて、愚痴ひとつ聞いたことはない。今もそれを貫いている。それでいて、私を片親だけだからと、そういった扱いも一切しなかった。私のために、自分を犠牲にすることだって、一度も。あなたは仕事に信念を持っていた。それは見ればわかる。でもあなたは、そのことすら、私には何も語ることはなかった。あなたはいつだって、私と共有するどんな行為も、生み出すことはしなかった。それでいて、私は少しも、あなたが冷たいとは思わなかった。あなたから愛情を受けたというよりは、あなた自身が愛情そのものだった。それで十分だった。仕事に行きなさい。あなたは最後まで、あなたであるべきです。私のことは大丈夫だから。あなたの娘なの。私はあなたの娘なのよ。あなたを、間近で感じ続けてきた、娘なの。あなたはこんな些細な事に、左右されるべきではない!ごめんね。電話なんかして。こうやって、駆けつけてきてくれて嬉しかった。あまりのスピードに、コントかと思ってしまったけど。でも、これまでだって、あなたの愛情は、いつも一緒だった。今日、駆けつけてきてくれたように、いつだって、感じ続けてきた。ありがとう」

 加穂留は、母を見て微笑んだ。坂下マナミの目は潤んでいた。何も言葉を返すことができなかった。娘が立派に育ってくれたことが嬉しかった。そして娘と初めて心から繋がりがもてたことにも驚いた。その瞬間は突然やってきた。
 本当に何も言うことができなかった。口元を手で覆い、今にも嗚咽しそうに、表情を歪めながら、ただ頷いていた。
 坂下マナミが店を出た後、加穂留は電話の履歴を確認し、今度は関根ミランに連絡をとった。


 関根ミランはすぐに緊急事態を察知したらしい。警察からは直接、連絡がいっていないようだった。ナルサワの所持品からは、彼女の会社と結びつける情報が完全にロックされていたのだろう。加穂留はナルサワトウゴウが死んだことを簡潔に伝えた。
「どこで?」と関根ミランは、遺体の発見場所を、すぐに訊いてきた。
 加穂留は即答できずに一瞬躊躇してしまった。そういえば、どこだっただろうか。あまりのショックに、肝心な具体情報が何も入ってはこなかった。警察の男の言葉を、思い出そうとした。ナルサワさんの遺体が発見されました。そのあとだ。しかし記憶の中に蘇りはしない。いや、そもそも、あの警察官は、どこだとはっきり言っただろうか。何も聞いてはいない。ただ、警察署の遺体安置室には、すぐに来てほしい、としか言ってはいない。
「まだわからない」と加穂留は言った。その答えに、関根の方はかなり驚いたらしい。
 予想外の返しに、彼女自身が固まってしまったかのように、加穂留には感じられた。
「まだ、ってどういうことよ」
「ごめん。警察の人は、言ったかもしれないけれど、動転した私が、聞き逃したのかもしれない」
「そう。わかった。それで?」
 関根ミランの声は、加穂留にはいささか、冷たく聞こえた。
「いや、警察から、あなたには連絡は来てないでしょ?だから、私が教えてげなきゃって」
「どうして、私?」
「どうして?そんなの決まってるじゃない。仕事のパートナーだったじゃない。私の店で、何度も、あなたたちは待ち合わせをしていたし。情報を交換し合っていた」
「そうね」
 関根のそっけない声が、鳴り響いた。
「あなた、これから」
「なに?」
「忙しいの?」
「ええ。今日は、抜けられそうにない」
「そうなんだ。あなたも、一緒にどうかと、思ったんだけど」
「葬儀?ああ、お通夜の方ね」
「じゃなくて、遺体の確認」
「ああ、それか」
「いいわ。私ひとりで行ってくる」と加穂留は答える。
「ああ、そうだ」
 関根の声色が、急に、弾んだものに変化した。
「リナさん。リナさんには、連絡した?」
「トウゴウの秘書の方ね」
「彼女も、あなたの店には、よく来ていたでしょ?」
「よくは来ていないけど。最後のあの一度だけ。私たちが、三人で、トウゴウを待っていたあのときだけ」
「連絡したの?」
 してないと、加穂留は答えた。リナはすでに、アンディ・リーの直属の秘書に、転職している。彼女の連絡先など、元より知らない。
「あなたは知ってるの?知ってたら教えて。彼女にも伝えるから」
「あの女。どういう反応を示すのかしら。そして、真実もついでに、付き添えてみたらどう?」
「真実って?」
「ナルサワトウゴウが、殺された真実よ。誰が何の目的で、実行されたものなのか」
「まだ、捜査はこれからよ」
「真実はすべて、確定済みなのよ」
「何を言ってるのか、わからないわ」
「私たちの会社は、もう、その真相を、完全に把握しているのよ。それを、あのリナに、伝えたらどうかしら。彼女は、どんな反応を示すのかしら」
 敵意がむき出しになってきたミランの言動に、加穂留はだんだんと、寒気がしてきた。
 すぐに、通信を絶ってしまいたい衝動に襲われた。
「何も知らないのね、あなた。そして、警察の方々。遺体が発見されたってね、何も変わらないわ。むしろ、この、今までの期間で、どれだけ捜査は進展したかしら?容疑者を特定して、逮捕、起訴しているのかしらね。動機を解明して、真の黒幕を特定して、連鎖していく、事件の因果の羅列の全体性を、きっちりと、世間に公表したのかしらね。いいや。私の知る限り、警察は何もしていない。捜査が難航しているとか、そういったレベルじゃない。何もしてないの。進捗させようとしてないの。すでに降りている。それは、遺体が発見されようが何も変わりはしない。捜査の実態は、すでに完了している。遺体確認ですって?あなたに?あなたになの?馬鹿じゃないの。あなたはただの言いなりに連れ出されて、それでこれは、ナルサワトウゴウさんですねと言われて、ハイと俯き頷き、そして書類にサインさせられる。この一件は、簡単に処理されてしまう。事実上、おしまい。利用されているのが、あなたにはわからないの!」
 これまで、そんな強い口調で話す彼女に、接したことはなかった。
 本性を垣間見たような気がした。
「利用されては、駄目。警察はアンディの息がかかっている」
 言われていることが、どうしても要領を得ないと加穂留は思った。
 そして反論せずに、関根にしゃべらせることで、理解の片鱗を掴もうとした。
「背後には、アンディ・リーがいる。私たちは、そっちの側については、駄目なのよ。思考停止の状態で、ただ操られるがままに、そっちの側に流されては、駄目なのよ」
 加穂留は、心が次第に静まっていくのがわかった。母親に会っても、まるで平穏さを取り戻せなかったこの気持ちだったが、初めてあるべき場所に、収まり始めているような気がした。
 関根は、警察以上に何かを知り得ているようだった。考えてみれば、彼女の仕事柄、それは当然のことなのかもしれなかった。探偵が、タッグを組む、探偵がもっとも頼りにしている調査会社なのだ。彼女は事の真相を、すでに掴んでいるのだという。この半年のあいだ、私と違って、彼女はひたすら調査を繰り返していたのかもしれなかった。私が哀しみにうちひしがれ、その状態を打開するためだけに、店を再開するべく奔走していたのとは異なり、彼女はその哀しみを憤りに変え、事実を掴み、真実へと昇華するために、日々過ごしていたのかもしれなかった。そう考えると、この爆発させたかのように感じられた、彼女の憤りもまた、ある種の演出のように感じられてきた。虚ろな意識のままの私を、起こすために、あえて意図的に強い口調で演じてみたような。
 さらに、気持ちに安定感が増してきているように思えた。
 関根は、事実のいくつかを確実につかんでいる。裏付けもとっている。そこから浮かび上がってくる、背後に潜んだ大きな絵もまた想像できている。
 彼女は依頼された案件に対して、挑むように、この個人的な一件に対応したのだ。
 その掴んだ全容を元に、彼女は何をしようとしているのだろうか。その口調からは、警察に、情報提供するつもりはなさそうだ。そっちの側に立っては駄目なのだと、彼女は言った。そっちの側に、無償で、情報を渡すことなど、ありえなかった。じゃあ、どうするのか。何か考えはあるのか。今すぐにでも訊いてみたかった。
 だが、加穂留は、先走らなかった。自分が何ができるのかを考えた。自分はどんな形で、その真相に貢献することができるのか。それが何より、トウゴウへの供養になるに違いないと思った。
 加穂留は完全に、自分の心の置き場を今見つけたのだった。


 加穂留はわかってくれただろうか、私が意図していたことを。しかし、私は何をしていいのかわからない。何をしたところで、勝ち目などない。DSルネと連絡が取れなくなったことに、関根ミランは今やっと、それがあまりに自分にとって大きなことであることを自覚していた。ナルサワトウゴウの死去もまた、ルネとの別れを予兆しているかのようで、不安は募っていった。近くに居た男たちが、皆、自分から離れていくようにも感じられた。加穂留にはそのことまで伝わっていないように思う。だが、彼女は大事な親友を失ったのだ。私にとってのルネのような存在だったのかもしれない。それを思うと、気丈に振る舞う加穂留の姿からは、深い哀しみのようなものを感じた。
 とにかく今は、誰の後ろ楯もなかった。行動するには、あまりに戦力が整っていない。アンディを遠くから、観察していることしか、できないだろう。何らかの行動が、必要な場面が必ず来るはずだと、関根は思った。そのときも、ルネとは断絶したままなのだろうか。ルネはどうして、行方を眩ませてしまったのだろう。アンディからの仕事は今も受けているのだろうか。ルネには電話もメールも何度かした。返信は当然なく、メッセージが届いたのかさえわからなかった。こんなことなら、加穂留に付き添って、ナルサワトウゴウに会いに行けばよかったじゃないか。何の意地を張っていたのだろう。直接、遺体を断定することが、怖かったのだろうか。そういえば私はいつも逃げ続けていたような気がする。人が死んだ事実に対面することを、避け続けてきたような気がする。

 関根は、ルネと付き合い始めたときに、ある予感を確信したものだった。
 ルネと結婚するのか、付き合い続けるのか、別れてしまうのかはわからなかったが、それでも、彼か私のどちらかが先に死んで、後に残された方が、確実にその最期を看とるというイメージだった。どちらがそうなっても。最期は二人で、一緒のときを過ごす。この世における、最後の繋がりを確かめ合い、別れていく。そうした絵が、確実に存在することを、関根ミランは確信していた。

 そのことはずっと忘れていた。きっとそのことが、私のそれからの行動に、何らかの影響を与えていたのかもしれないと思った。そして加穂留が、トウゴウの最期を看とることとは、無縁だったことにも思いが移っていった。彼女は突然、太い幹を斬り倒され、そして長い時間放置され、今やっと彼女の元に、すでに朽ちてしまった真実が、舞い戻されたのだ。もしそれがルネであったのなら。私が当事者であったのなら。今から遺体安置所に、この自分が向かっているのだとしたら。ルネが半年前に、大量の死んだと思われる痕跡を残しながら、消えてしまったのだとしたら。残された証拠の数々が、死を示している中、物理的な最終決定が、ずっと引き伸ばされたままに、私は生きなければならなかったとしたら。どんな生活を、余儀なくされていただろう。脱け殻な状態のまま、私は何を日々していただろう。これまで同様、調査会社で仕事を一心不乱にこなしていただろうか。いや、この場合は、調査会社にいることの特権を、発動させて、真実をナルサワの件以上に血眼になって、追い求めるに違いなかった。それだけのために人生を捧げるに違いなかった。成果が上がろうが上がるまいが、そんなことは何の関係もなかった。集中できる対象が欲しいだけだ。どこまでも、全霊に取り組むだろう。その様子を、関根ミランは今想像していた。
 そうなっても、全然おかしくはなかったのだ。




























Dying HORIZON



































   Ⅳ




















 関根ミランは言う。
「ムーンは、陰陽二種類のカードで、プレイしていく、個人ゲームなのよ。ディーラーは、いない!完全にひとりでやるゲーム。個室が与えられているわけではない。カジノの大きな空間の中で、ぽつんと、一人でおこなうゲームらしい。変わってるわ。実に変わってる。そして、その場所は、一ヶ所に限られている。プレイするときに、そのカジノ場が、どんな状態になっているのか。周りに人はいるのか。それはわからない。実際に行っているところを見る以外には。映像も、インターネットには、あげられていないようね。完全なるシークレットな空間で、誰もやったことのない事が、秘めやかにおこなわれている。左でキーカードを決め、つまりは月系か太陽系か。どちらかに決めて、そして台の上に積まれたカードの山から、次々と引いていき、そのカードが、同じ太陽系月系であるのなら、プレイヤーの勝利。違えば負け。それを、高速におこなっていくらしい。超短時間で、ありえないくらいの金額が揺れ動いていく」

「そんなゲームの、どこが面白いんだろうね」
「わからないわ。ただ、表向きに見える、単純さに比べて、そこで発生するエネルギーの量は、半端ではないらしい。その目には見えないエネルギーの交換が、場を特殊なフィールドに作り上げ、そして、プレイヤーは陶酔していく」
「なるほど」
「そのカードに、特殊な加工が、施されているわけか。ルネが開発した」
「そう。設計者ね」
「実際に作った人間は、別にいるわけだ」
「彼は、プログラマーよ。プログラミングだけで、全てを操る魔術師なのよ」
「魔術ね。ふふふ。そういった、おどろおどしさとは、全く無縁な装いの男だったがな」
「思い出した?」
「ああ、だんだんと。確かに、そういえば、おかしな男だったかもしれない。何か変わった思想を、俺を相手に、ぶちまけていたような気もする。あ、そうだ。彼は、僕の親友だったんだ。ずいぶんと、近い関係だったんだよ」
「あの男の中にある、哲学のようなところが、明確に埋め込まれている。どうして、アンディに売り込んだんだろう。実用化する上で、アンディの企業が、最も影響力があると考えたからだろうか。時代の波と直結させることが、容易なルートだと、判断したからだろうか。タッグを組む相手として。絶大な影響力を欲した。この地上において。地上の覇者たる人間に、近づいていった。利用じゃない。取引きだ。アンディ側にも絶大な利益がもたらされていたに違いない。けれども、わからないな。大きく普及させないのは、いったい何故なのか。スペースクラフトや、キュービックシリーズのような、汎用性のラインに乗せていかないのは、いったい何故なのか。これからそうするのか。今はまだ、試運転段階なのか」
「注視して、様子を見守っている以外には、ないわね」


 今日も来てしまったなと、シュルビスは両手に含まれたカードの存在を見て、溜め息をついた。負けは続いている。借金は再び、膨大な領域に突入していることだろう。アンディからまた何かの要求が、やってくるかもしれない頃だった。だが何故かしら、清々しい気持ちだった。わだかまりが吹っ切れたというか、肩にのし掛かった重荷が、とれたかのような。
 シュルビスは、落ち着いた、穏やかな心情でカードを手にし、身動きひとつとらなかった。こうしてこの場に居て、何もしないというのは、初めてのことだったかもしれない。席につけば、すぐに急き立てられるよう、ゲームへと没頭するのを余儀なくされる。今思えば、何かにそう導かれていたような。誰かがこの体を使って欲望を満たそうとしているかのような。静まり返ったカジノ場全体を、体で感じとっていた。誰も何の勢力もなかった。こんな気持ちになれたのは、本当に初めてのことだった。
 シュルビスは、カジノ場の壁を思い浮かべ、その外側に思いを馳せていった。

 この建物、グリフェニクス本社ビル全体を、素早く駆け抜けるかのごとく、壁をすり抜け、そして全体を把握すると、さらに外へ上空へと、舞い上がっていく意識を、今感じ取っていた。一瞥した瞬間に、気づけばこの肉体に意識は戻ってきている。ゆっくりと手を開き、カードを台の上に置いた。いったい自分は何をしてきたのだろうか。これまで何をしてきたのだろうか。ただのギャンブル狂いだったのだろうか。いや違うと、シュルビスは思う。何か、別の理由でこんなことになっていたに違いなかった。この状態をもたらした深い理由が、周囲を蠢いているような気がした。シュルビスは、今ここに、自らの点を濃く刻印することで、この生の全体像を把握することが、できるのだと思った。過去へと遡り、さらに過去へ。そのあいだに、未来もまた垣間見てしまうことになる。その全体像が、まるで地球儀を見下ろした子供のような姿で、この自分と重なって感じられるのだ。
 もう、ムーンを、プレイすることはできないかもしれないなと、ふと思った。
 ムーンに対する、心残りもなかった。ただ、ムーンは、自分の人生のある時期にやってきて、そして去っていった。ただのそれだけなのだ。ムーンに選ばれたのだと、このとき初めてシュルビスはそう考えてしまった。これは、ムーンが俺を指定したのだ。他にもプレイヤーはいただろうが、そのすべてはムーンが自ら選んだ人間だ。飛躍した考えだったが、何故かしら、真実味が感じられた。ムーンが、自らの意思を備えた、有機体のような気がしてくる。そしてその蜜月は、今解消した。別々の軌道へと戻っていく。ムーンは、生き物だ。ムーンは、プレイヤーから生き延びるための、ある種のエネルギーを、吸いとっていたのだ。こうして俺は、生命力はすべて、抜き取られてしまったのだ。確かに、そうだ。今こんな穏やかな心が存在するのは、脱け殻のようになってしまったからだ。それ以外には考えられない。ただ、立ち上がることすら、不可能になっているじゃないか!廃人だ!ここは墓場だ。ここで俺は朽ち果てるのだ。しかし、さっき一瞥した地球儀には、ここで生が終わるようには、感じられない。しかし、生きる気力は、徹底的に低下していっている。シュルビスは、その反する二つの感覚に、悩まされ始めた。その二つを、静かに見つめていた。いつのまにか、台の上から、カードが消えていることに気づいた。
 隣にふと、別の生命体の感触があった。振り向くと、そこには人間と思われる輪郭が、鮮明に浮かび上がってきていた。

「ご苦労様」とその男は言った。
「はじめましてだね。ようこそ、ムーンの世界へ」
 順番が、全くのめちゃくちゃだと、シュルビスは思った。
「私が、制作者のルネだ。会社ではDSルネと呼ばれている。君もそう呼んでくれたらいい」
 シュルビスには、状況が全く見えてこなかった。
「君は、ずいぶんと、気に入ってくれたようだね。感謝するよ」
 シュルビスは、何か答えようとするものの、言葉が全く浮かんでこなかった。
 伝えたい何のイメージも浮かんではなかった。生命力だけでなく、自身の思考もまた、空っぽになってしまったかのようだった。そんなシュルビスに、ルネは気遣うように言った。
「いいんだ。何も、言わなくていい。ただ、ご苦労様と、私は言っただけだ。素直に受け取ったらいい。ゲームの終了と共に、制作者がはじめましてと、現れるのは奇妙か?私は、礼儀を重んじる男なんだ。どんなに、コンピューター化した文明になっても、挨拶は、大事なものだと心得ている、古風な人間なんだ」
 DSルネは右手を差し出し、握手を求めてきた。
「ムーンは、君からは撤退する」
 握手に応じるエネルギーすらないシュルビスは、何の動きもすることなく、ただ頷くことすらできなかった。
 ルネは右手を下げ、代わりに言葉で、その行為の空白を埋めようと、話を続けた。

 これは、一つの密教なのだと、彼は語った。
 このプロジェクトは、密教徒を養成するための、その始まりの門のような役割を、果たすのだと彼は言う。「つまりは、宗教なのだ。そして、私もまた、その密教徒なのだよ。仲間を増やすべく、しかし大人数じゃない。才能に溢れた、物事の真髄に、センサーの働く、そんな少数の人間を、私は集めたかったのだ。そして、私が選定するのではない、ムーンそれ自体が、教徒を選ぶことのできるよう、私は、自分が持っているスキルのすべてを、投入して、このムーンのプログラムを完成させた。実に長い歳月だった。そのあいだに、たくさんの依頼されたプログラムを、製作していった。そして、自分でも率先して、仕事とは関係のないプログラムを立ち上げては、捨てていった。日々が試行錯誤で、そしてそのすべては、一つのプログラムへと、実に結実していくことになった。私はすべてをなげうって、これに賭けたともいえる。これは、ギャンブルなのだよ、シュルビスくん。私こそが、ギャンブラーなのだよ。全霊を込めて、人生の、生活の、他のすべてのことに使うべき、エネルギーを、ここへと放りこんだのだ。捨てたものは、大きかった。愛する女性が居たことも、告白しておこう。流れ出ていく、他への支流を、私は、自らの意思で、封印していった。結実したプログラムだったのだよ。君のような人間がそう、人生を捨てるほどに、自らを見失うほどに、没頭してしまうことは、いた仕方のないことなのだよ!私のすべてのエネルギーが、投入されているのだから。しかし、勘違いしないでほしい。これは、私が考えた教義が、込められたものでもないし、私が教祖でもない。私が、自らのエゴで、仲間を集め、そして、自分の帝国を築こうとしているわけでもない。私もまた、ムーンに使われた一人なのだよ。密教徒なのだよ。そのことに、初めは気がつかなかった。私は、自らの欲望だと、勘違いしていた。野望といったらいいか。プログラミングが、天から与えられた運命だった。そのプログラミング技術を、極めること。そして、極めたその能力を、掛け合わせることで、この世を創造する、神の領域に近づくこと、そして、新たに世界を創造すること。創作といったらいいか。しかし、それは、真実ではなかった。私に、ムーンの概念が、浮かんだときに、それは、ムーンが私を選んだことを知った。このプログラムは、神が事象を下げて、生命を産み出し、人間を産み出し、この多様で対極に、溢れた世界を作りだしていった、そのプロセスを、最後まで味わい尽くして、終了させ、元来た道を、逆に辿って戻る、その旅に導くような、そんな役割を担っていることを、私は知ったのだった!欲望や野望とは、まるで反対方向に、その進路は向いていっている。わかるだろうか。私が、何を言っているのか。生命の多様性というのは、欲望の体現化なのだよ。あんな身体を、持ってみたい。あんな場所で、あんなふうに、生きてみたらどうだろう。ああいったこともできる。こんなこともしてみたい。欲望が新しい形態をつくり、そして、新しい体験をしていく。その体験のデータを、多様に収集したいから、神はあらゆる欲望を、生まれ出た新しい形態に許した。その欲望は、とどまるところを、知らない」
 しかしと、DSルネは言う。
「行き着く場所というのは、実に、あるものなのだ。その欲望と、多様性の構造に、気がつくこと。新しい形態、新しい体験を生み出したと、勘違いしている、そのことに気がつくこと。それは、全て、同質の同じ次元における、実に似せ絵であることから、目を背けることができなくなることでね。そう。そこで初めて、終始符が打たれることを。引き戻る必要があることを、自覚することで。その先には、何もないのだよ!背後に振り返り、そして、戻る必要があるということを。ふふふ。立ち止まるその地点は確実にあるのだ。そう。まさに、そこの誰かさんのようにね。ふふふ」
 DSルネは、目の前の男を、はっきりと指差した。


「で、なんだっけ?」
「何だっけって、あなたが調べろと言ったんじゃないの!」
「これは、陰陽のゲームなの。確かに、表面上は、ただの陰と陰、陽と陽、陰と陽を、組み合わせるだけの勝敗ゲーム。そこで発生する金銭のやり取りを、プレイヤーと胴元、つまりは、カジノ経営をしているアンディの会社との間で行っている。けれども、プレイヤー個人の中で、何が起こっているかというと・・・」
「そんなことまで、分かるのか?」
「私を何だと思ってるのよ」
「ルネの思惑が、そこには色濃く反映している。ルネの意図がね。プレイヤーはただの、ギャンブル中毒になっていると、そう誰の目にも思わせるトラップがここには。陰と陽は、対立しているものではないの。けっして、交り合わない。対立物ならば、衝突して消えてしまう。互いの属性は、その瞬間に消えてしまう。でも、対立物ではない、反対の極同士は、消えやしない。第三のエネルギーが、発生して、放出され続ける。それは消えない。蓄積していく以外にない。やればやるほどに。同時存在させれば、させるほどに。そして、さらに、そのエネルギーの発生を助長するように、周りを巻き込んでいく。その輪廻は止まらない。誰かが、最初の状況を設定してあげさえすれば。あとは自然発生的にどこまでも、第三のエネルギーは生み出され続ける。ところが」
「この世のこの世界において」
「通常、その現象は、起こらない。自然な流れにおいて、陰陽は出会うことなく、それぞれの世界は、増長していき、出会わないからこそ、対立し、その対極は、相互を増長させていき、さまざまな生命現象を、引き起こしていく。そして、新しく生まれた物質は、さらに分岐していき、多種へと流れ出ていく。その流れは止まらない。対立という火種を残して、生命は、バラエティ豊かになっていく。ところが、それに待ったをかけるプログラマーの存在があった。DSルネよ。彼は、そうした地上の自然の摂理に逆行する、プログラムを、ゲームに埋め込み、そして放置した。よりによって、このグリフェニクス本社の中に。単なるギャンブルゲームの顔を装って、見事に入れ込んだ。誰の目も誤魔化せた。けれども私の目は、誤魔化せない。私たちの目は。ね、ユーリさん」
「私たちに感謝しなさい。設立して、いきなり大きな貢献をしたのよ。ネズミの駆除よ。まあ、こんなもののために、実験研究をしているわけじゃないけど。これも副産物ね。とにかくムーンは、排除。撤収させて。うちの事業からは、放逐しなさい。そして、その制作者を呼び出して、その人間を消去しなさい。その人間は、うちの会社を利用した危険人物。生かしておくわけにはいかない。うちの会社に害があるだけではない。世界を破滅させることに寄与する、男なのよ。DSルネ。もう調べはついている。しかし、彼を捕らえ損なった。すでに、自宅はもぬけの殻。我々のような人間に、ムーンの真相が発覚することを、予測できていたようね。その男にしてみても、単なる実験だった。その実験は、大きな影響力を持つ場所でしてみたかった。そして、彼は姿を消した。成果を得たのかどうかは、わからない。捕らえてみないことには。とにかく、それは、うちの部署の管轄外。だから、あなたに相談を。軍事を司る、あなたにお願いをしているの。はやく捕らえてほしい。アンディ会長にも、報告済みだから。会長からも、言われているでしょ。もう動いているのよね。すでに捕まったとか?」


「私はね。それでも、最後の最後まで、迷ったのだよ」
 DSルネは、シュルビス初に諭すように言った。
「アンディ側につこうか、それとも、つくまいか」
 ルネは、葉巻を取り出して火をつける。
「本当に迷った。寸前まで、アンディ側の人間であることを、ほとんど確信していたくらいだった。あの男は、信用に足る男だ。彼の言われるがままに、言われた通りのリクエストに、ただ応えていくだけのプログラマー人生でいいんじゃないかと。莫大な報酬と、人生全般に渡る、安定した生活。そのとき付き合っていた女と、一緒にでもなって、豊かな生活を、共に歩んでいったらいい。もう道は、見えていた。光景がはっきりと、私を呼び止めていた。未来は確実に凝固していた。そうなるはずだった。だが、私は直前に、そうした未来を拒絶した。見事に。そして気づけば、私はアンディに、ムーンを採用してくれと説得を始めていた。女とは連絡を絶ち、採用が決まった直後に、行方を眩ました。今、私の所在を知っている人間は、君くらいしかいない。誰も追跡することはできない。私は最後の仕事が残っている。君と、そして君と同じく、ムーンに選ばれた勇者を訪問して、その真相を伝えることで、起きてくる未来への準備を、しっかりと整える義務が、私にはある。生んだものの責任が、そこにはある」
 DSルネの表情には、緊迫した安らかさが、滲み出ているように、シュルビスには感じられた。
























   Ⅱ




















「老衰どの。おられるのでしょう?お答えください。老涙どの」
 みすぼらしい納屋のような住まいに、鎧を着た若い男が佇んでいる。
 目の前には、腐りかけの木の扉がある。しかし、叩けば崩れ落ち、内と外とを隔てる家としての機能を、自分が完全に奪い取ってしまうのではないかと、男は恐れ、ただ声を張り上げるばかりであった。
「おられるのは、わかっております。老衰どの。何とぞ、面会を可能にしてください。あなたのお知恵が必要なのです。僕はもう、他に訪ねる場所はありません。あてがないのです。あなたのお噂は聞いております。この戦国の世にあって、あなたは常に、大きな戦乱が起こる直前に、回避なさる知恵を、人々にくださったと。今では、伝説になっております。なにとぞ、面会を」
 男は繰り返した。他に、誰の同伴者はなかった。
「あなたのお考えを。是非。そして、これは、今の私たちの戦況に与える影響だけには、とどまらないのです。今後の似たような、同じ出来事に遭遇した、我が子孫たちにも、かけがえのないお知恵となるはずですから」
 男は、自らの利益のためだけに、来たのではないことを強調した。
「何とぞ、お知恵を」
 幾度となく、繰り返した。時間を置き、同じ言葉を繰り返し続けた。

 雨が降り風が強くなってきても、男は動こうとしなかった。日がくれ陽が昇り、それでも男は頭を下げ続けた。願いが叶わないのなら、ここで死んでも構わないといった気概が、こうした時間の経緯と、自然の激しい転調の中で、強く芽生えてもいった。実際、本当に男には、行き場所がなかった。戦地と化す祖国の地に、戻るつもりもなかったし、生きるための新しい国は、どこにも約束されてなかった。周囲の国は、皆、次々と参戦へと事を進めていて、その波は中国じゅうに連鎖していった。大陸さえ越えて、戦乱の世は拡大していくことを、男は予感していた。地球上が、殺戮に満ち、その果てまで行かない限りは、終わりは来ないかのような、異様な乱気流が、分厚く空に立ち込めてもいた。その分厚さは、今起こったことではないは地上に人間が誕生したときから、いやそれ以前から、生命体が宇宙に誕生した時から、蓄積してきた怒りと、やるせなさのすべてが塊となって、体現されているかのようであった。宿命すら、帯びているかのような、そんな気が男にはした。
 それを承知で、男は最後の頼みの綱を、かつて人々を、戦いから悟りへといざなった、無意識なる混乱から、目覚めの穏やかさへと導いていった、教師としての老衰、という男に、託していたのだ。だが老衰は、若き時も、同じ名を語っていたものの、今となっては、その呼び名が、この世での正当な存在感を、実に適切に比喩していたのだった。いったい何歳なのかもわからない。ずいぶんと世代を跨いで、男の存在は細々ながらも、言い伝えられていた。実際に会った人間すら、今では、いなくなっている。教師としての仕事は、とうの昔に引退していた。かつて、共に暮らしていたとされる、彼の弟子たちも、また、全員が亡くなっているのだという。男の祖父が、彼の弟子であったことから、幼き時から、老衰の話をずっと聞かされていたのだ。それが、今強烈に蘇り、目の前に固く現れ出てきているのだった。そんな老人など、もういないのかもしれない。祖父が弟子だったというくらいだ。その倍以上も、年上だったに違いない。全く生きているなんて考えられない。ほとんど男もそう思っていた。馬鹿馬鹿しい行動なのは、百も承知だった。しかし、男には、もう頼るべき場所がなかった。信頼にたる、人間もいなかった。そして、自分自身の中の、いったい何を主軸に、この戦乱の世を見つめるべきなのか。すべては失われていたのだ。
 何もない、実に薄っぺらな人生だった。
 何をどう生きてきたのか。今となっては、全ては失われていた。
 はじめから、何も意味などない、どこにも、繋がることのない無益な人生だった。振り替えるまでもなかった。戦乱の世のせいにできる、何の持ち合わせも、自分にはなかった。
 そのことが、男を、この地上からすべての居場所を、取り除いてしまったのだ。
 男は、本質的な教育を、何も受けてこなかったことを自覚し、そして求めてもこなかった自分に、対峙せざるをえなかった。若き日から、老衰と名乗るその人物と、もっと若い時に出会いたかったと思った。祖父が実に羨ましくも思った。そんな老衰と、実際対面までして、会話までして、しかも生活まで共にする機会に恵まれていたのだ。だが男は、そこで、強烈な憤りが沸き上がってくるのを知った。祖父に限らず、それだけ弟子がいたにも関わらず。男は思った。何をやっていたのだ!祖父のことが、強烈によみがえってきた。祖父の風貌が、草原の中で蜃気楼のように揺らめいていた。あなたは、何をやっていたのだ。あなたは、それほどの機会に恵まれていたのに。あなたは老衰の何を吸いつくしたのだろう?彼から何を受けとったのだろう。あなた自身、何を実らせていったのですか。祖父に限らず。彼らの顔には、特別な光は、何も浮かんではいなかった。内からにじみ出ている、どんな安らぎさえ、そこにはなかった。地球全体を、宇宙全体を、見通したような、透徹した眼差しの存在は、何もなかった。寝ぼけた目に、光のない肉体。亡霊のように、彼らの肉体が草原の中で、どこまでも連なっているように見えた。そして、それはそのまま、戦場に駆り立てられた、または自ら突進していった男たちの、戦死が運命づけられたその姿と重なり、彼らはこの時代に益々増長していった、無知をただ置き土産に、無能な生を終えていった人間に、次々と重なっていったのだ。
 だが、口から出てくる言葉は、老衰を求めるしゃがれた声だけであった。
「いないのですか。おられるのは、わかっております。どうか、顔だけでも。お姿だけでも、拝借したいのです。それだけでも」
 ふと、納屋の中で蠢いた。何かがいるような気がした。
 そのときには、男はもう周りなど見えてなかったのだから、当然、家の様子も目で確認したわけではなかった。祖父の亡霊もしかり、夢うつつの、ぼやけた視界しか、すでに持ち合わせはなかった。
 納屋の奥に耳を澄ませた。このとき初めて、男は耳で物を見ているような感覚がした。耳で感知した情報を、脳の外には出ていかない閉ざされた鏡に、視覚として、映し出そうとしていた。そういう感覚で、男は納屋の存在に集中していった。
 たとえ、老衰などという人間がいなくとも、この状況が、そうした行動を止めることを許さなかった。そういうふうに、物事を見るのだと言われているような気がした。
 そして、納屋の中の様子を把握するべく、闇の中の探索を男は始めた。


 その老人は異様な風体をしていた。彼そのものが、闇を体現しているように感じられた。老人は闇に囲まれていたはずなのに、その闇の方が、彼よりも明るく感じられたのだ。それでいて、彼の目は明瞭に闇の中で輝いている。その空間自体の濃淡が、まるで狂っていると、ナルサワは、そのとき思った。
 どうして今ここにいるのか。この場に気づけばいるのだろうか。部屋であるはずなのだ。扉を手で開けるか、自動で開いたか、何らかの事が起こって、今ここにいるはずだった。その間が、綺麗に抜き取られているかのようだ。
 異様な老人の背は、全く曲がってはいない。目はこれまで見たことのない人間離れをした威力を放っている。一度見てしまえば、二度と逸らすことのできないその磁力は、半端ではなかった。
 老人の目は何も語ってはいなかった。
「ムーンの制作者だと聞いたが」と、力のない声が闇の中に響き渡る。
「ムーンのことを、訊きにきたのか。君たちは」
 君たちは、という言葉が、妙に意味深に聞こえてくる。
 老人がしゃべったのか?そんなふうには見えなかった。
「ムーンのことを、知りたいのか?君たちは。本当に、そうなのか?想いは一致しているのか?君の中の想いも、統一されているのか?そして、周りにいる、君の分身たちの想いも、また」
 分身?
「想いが統一しているのなら、それで構わない。本当に心底、そのことが知りたいのなら。他に訊きたいことはなかったのか?本当に、それでいいのだろうか。後悔はないのだろうか。そのとおりだ。私が製作したものだ」
 闇に声は響き渡る。
「その原型は。そこの男が原型を利用して、現代にアレンジし直した。そして、ゲームとしての装いを施した。その個人の才能をもってして。私にその才能はない。どんな意味においても、私に才能の持ち合わせはない。私だけでは、まるでこの世における存在価値はないのだ。才能は、君たちにあるのだ。分け与えられているのだ。それぞれが違った色の。実に、様々な人間がいる。その、ムーンの制作者の彼。君はある種、ある部分で開通している。君は見事に、己の力を引き出している。私のビジョンと、しっかりと繋がったのだ。その一瞬といえども、太く繋がったのだ。そのパイプの残像を、生かしなさい。そこの基盤を、常に入り口として、今後の人生でも、利用しなさい。そこを基点に、世の中で行動を起こしなさい。そうしたらいい」
 老人は間を置いた。
「そして、君は、ムーンに、魅せられているね」
 老人の波長が、急に、穏やかになる。
「君は、そのことによって、自らの扉を開き始めている。いいだろう。まさに、ムーンが、この世に産み落とされたその意味を、全面的に、体現した男になった。君が始まりになる。君のように、ムーンに反応する人間が、これから出てくることになる。君がムーンとの太いパイプを、築いたのだ。そのパイプは、潜在的に、ムーンを必要とする人間全員に対して、目覚めを、誘発していくことになる」
 もう知りたいことは、聞けただろうか。
 闇は、震動の仕方を、次々と変える。
「もうじき、ここも襲撃される。砲弾される。確かにここは、未来における、カジノ場の原型のようなものを経営している。だが、その装いも、メッキは、剥げ落ち始めている。もう薄々、勘づかれている。この戦国の世にあっては、どんな偽りの看板も、すべては、白日の元にさらされるわけだ。戦いに不必要なものは、とことん排除だ。こんな娯楽施設ですら、営業が許可された、当初の頃とは、勝手が違う。そういう意味では、君たちが、今、ここに来てくれてよかった。ぎりぎり、私も存在していられた。この闇の営業も、終了、時間の問題だ」
 ここもまた、すぐに納屋の廃墟と化すことになる。
「誰も寄り付かない、雑草だらけの場所に、成り果てることだろう」
 一抹の噂を残して。娯楽施設を装った、その真意を見抜いた君たちのような訪問者が、私との出会いを、後世に残していく可能性は細々と残っている。そして時間を越え、場所を越えて、この戦乱の世が繰り返されたとき、あるいは戦乱とは無縁な世の中にあってもまた、君たちのような人間が、きっとこの場所を探し当てることになるだろう。


 男は黙々と一人、カードを両手で凄まじい早さで、移動させている。
 テーブルには、カードの一山がある。彼は、物理的に一枚一枚、引いているようには見えない。カードもまた、一枚一枚くっついて、折り重なっているようには、見えなかった。
 カードの束は、浮き上がっているように見えた。左手には、キーカードを持つ。陰陽二種類で、すべてが構成されていて、そのどちらかを、キーカードとして左手で設定する。右手で、テーブルのカードの束から捲り、そのカードが、キーカードと同じ極であるなら、プレイヤー側の勝利。対極であったなら、胴元の勝利。その対戦が、無数に行われていた。
 すでに、外から見ているだけでは、何をしているのかわからなかった。勝敗の過程を肉眼で追うことはできなかった。一秒間に、何局もが取り行われていた。あっというまに、金額が変動していく。カードは光を帯びていた。自ら発光しているようにも見えたが、おそらく、ライトアップされているせいだろう。だが、観客など誰もいないのに、ショーアップされているのが、不可思確議だ。実に、誰かに見せているような演出だ。映像として、撮影されているのかもしれなかった。不正がないよう、記録として、すべての対局が残されているのかもしれなかった。カードが重なっているはずの箇所も、光の具合なのか、浮いているように見えた。カードとカードが、直接の接触を拒むかのように、僅かながら離れている。たとえ、同じ極のカード同士でも、対極のカード同士でも、違いはなさそうだ。
 そういえば、男の指もまた、カードを確実に触り、掴み上げているようには、とても見えなかった。手の中に、カードが吸い付き、離れていくときは、勝手に落ちていくといった、光の中の遊戯を見せられているようなのだ。
 男が光を操り、連動して、カードも動かしている。
 この対局の勝敗が、いったい、どうなっているのか。
 どれほどの巨額の金銭が、今動いているのか。知るよしもない。
「そうですか。あのときの対局を。あなたは見ていらっしゃったのですか。カジノの人だったのですね」男は言った。
「いいえ、そうじゃないんです」私は否定する。
「アンディの会社の人でしょう?」
「まあ、そんなところでしたか」
「訊きたいこととは?」
「いえ、別に」
「おかしいですね。あなたの要望に応える形で、こうし会いてにきたのに。僕は、もう、あのゲームには、関わりたくないんですよね」
「ムーン自体が、プレイヤーを選定していた。あなたは、選ばれたんです」
「餌食にね」
「そう、お思いなんですね」
「廃人にしますから」
「そこのところを、詳しく聞きたいんです」
「ほら、やっぱり、あなたの方から、僕にオファーが来たんだ」
 私は答えなかった。そういうことならそういうことで、全然構わなかった。
「すべてをごっそりと、もっていかれる。あとに残るのは、この無気力な、自分だけ」
「あなたは、今、そういう状態なのですね」
「ゲームにハマっていく前とは、ずいぶんと違う」
「ならば、そうなのかもしれませんね」
「ムーンがムーンであるために、さらなる生命力を得るために、ある種の人間を、必要とした」
「あの、ムーンを製作した人間を、ご存じですか?」
「いいや、知らないね」
「私は、知ってるんですよ」
「興味ないね」
「プレイする以前の状態に戻りたいとは、思わないんですか?」
「なんだって?その人間に頼み込めば、それが可能なのか?」
「そういった意味では・・・」
「それに、誰が、今のこの状態が、嫌だと言いましたか?」
「そうなんですか?大丈夫なんですか?」
「無気力のどこが、悪いんですか?」
 私はすっかりと、面食らってしまった。
 男が開き直っているのではないかと、穿ってしまった。

「あのとき、そう、あなたが見てらっしゃった、どこでどのように視聴していたのかは、知りませんけど、あのとき。確かに、あのときは、事のすべてがおかしかった。それまでは、そんなことはなかった。あのときは、色んな映像が、カジノ場の、そう天井やら壁やら四方八方に渡って・・・現れては消えてはいかない。現れては現れていった。360度ぐるりと。いや、もう、次元がよくわからない。縦にも横にも、さらに、それまでの次元に、追加していくような、折り重なった、増え方をしていった。だから、消えなくても、混在して、混沌と混ざりあってはいかなかった。巧みに回転して、無数の次元に新しい映像が、付け加わえられていったような感覚だった。あの日、あのときだけにそれが起こった。僕はすでにムーンをプレイしているなんて感触は、失っていた。ギャンブルをしている感覚は、まるでなくなっていた。カジノ場にいることすら、忘れてしまっていた。地面もなく、壁も天井もない、その多次元の映像の海の中で、自分もまた、そのうちの一つの次元の映像のように、その中に、溺れていってしまった。それは本当に、海のようだった。いろんな角度から、交差しない波に襲われていた。何者でもなくなっていた。その居るはずの、居たはずの一つの光景もまた、どこかにいってしまって、自分はそこから。外れてしまっているかのような、ずいぶんと、遠ざかってしまったかのような。あんなことは、あのとき以来、ありません。その海の中心に、僕は吸い込まれていってしまった。底のない中心に、堕ちていってしまった。僕はそこから今、浮き上がってくることのない現実にいる。それを、僕なりに、人にわかりやすく表現したのが、無気力状態だということです。あなたが思っているような状態では、実はないんですよ。僕はただ、そこに瞬間的に止まってしまっている。あなたが、どこから来たのかは知りません。でも、おそらくは、その多次元のキューブの中の、一つからでしょう。偶然、アクセスできてしまったのでしょう。束の間の出会いです。こうして出会って、対面までしているのです。縁があるのでしょう、我々は。何か、意思疏通をする意味があるのでしょうね。僕は、あのとき、そう。あの前から、ずいぶんと、ムーンに没頭していた。やる度に、そのプレイは加速していった。おそろしいくらいに、高速に。ムーンに纏わるあの状況は、すべての粒子が細かく揺れ、特殊な状態になっていった。薄々、感じてはいたんですよ。やる度に、とんでもない方向に進み始めているなと。やめようとは思いませんでした。やめられるとも思わなかった。もう号令は出てしまっている。僕は突き進む以外に道はない。加速は止まらない。おそらく肉体的に、肉体側が感知できる最大限の臨界点を、突破してしまう、そう、そのときに、その現象は起こったのです。ただの、陰陽ゲームではないことを、知りました。その陰陽は、ある一つの面として、人間の人生の展開を、示していたのだと。そのとき見えたのは、一人の芸術家の存在でした。その男の風貌は、まるで僕には、面識がなかった。誰なのかもわからない。縁も所縁もない、人間なのでしょう。ひとつのサンプルとして、ひとつの焦点場所として、無作為に浮かび上がってきた、入り口だったのでしょう。その焦点を起点に、芸術家つまりは、物を創造する人ですね。そのときは、画家であり、音楽家だった。彼は、陰サイドの人間だった。そして、対極の陽サイドには、別の人間がいた。社会から距離を置いて、ひとり黙々と製作している、芸術家とは対極のその男は、社会のど真ん中で、人々を啓蒙するべく、声を張り上げ、組織を導いていた。しかし、芸術家は一方で、陽サイドでもあった。そして、その別の極には、同じような境遇でありながらも、何もしていない、つまりは製作をしていない、無能な芸術家の姿がありました。これが陰サイドです。そして、彼は、目を閉じたまま、ずっと動かなかった。後にそれは、瞑想という行為をしていたのだと知りました。これは、ただ一つの焦点において、明らかになったことです。このように、世界は、次々と、陰陽の連鎖で繋がっていました。陰は陽でもあり、そのどちらかも、また、それぞれの対極を持ち、展開していっている。すべては無数に、そのような次元をもって、混ざることなく、同時に存在していました。あらゆるすべてのことに共通する、一つの法則を、見せつけられているようでした。その男の対極には、女性の姿があった。陽に対する陰です。その女性は、宮殿に住む、貴族だったようです。まだ、結婚前の、若いお嬢さんでした。アンティークな家具が、そこかしこにあり、壁には絵画もかけられている。それを描いたのは、あの画家だ。あらゆる物に次元を越えた関連性が見えてきていた。細かく焦点をしぼり切れば、おそらくすべての事が見えてくるのでしょう。詳細なる多次元の地図が、製作することができるのでしょう。そのお嬢さんは、陽になります。陰には、年配のやつれた、病気がちの汚い身なりの女性がいました。酒を飲み、その夜も男を受け入れていました。すでに、金銭を払ってはくれずに、女は夜の闇に捨てられていった。そんな女性であってもまだ、抱く男もいるのです!一種の驚きです。女性は使い物にならなくなった娼婦でした。その女性もまた、陽にもなります。そうやって、次元の連鎖は留まることを、全く知らないのです。その世界全体が、ムーンをも取り込み、ムーンを取り巻く現実をも、簡単に消し去ってしまいました。僕は、あのとき、確かにカジノ場からは、姿を消していた。僕はそのことが、あなたに訊きたい唯一のことなのです。僕はあのとき、あの場所に、本当に居ましたか?」
 突然、質問返しされたことに、私は一瞬、戸惑ってしまった。
 記憶の中に、その答えを求めることを、余儀なくされたのだった。
 そこで私は、一つの重大な事実に、気がついた。


 政治の指導者、リーダーとして陽の存在であるとき、対極の陰では、経済学者として、表舞台の政治の影で暗躍する世界の支配者たる、行動をしている人物がいる。また、その極が、そっくりと反転して、表舞台でビジネスマンとして市民生活を送る、陽に対置した政治家ではないものの、政治に強い影響力を与えている老境の男が、浮き上がってくることもある。そのバリエーションは無数だった。
 原始的な世界で、共同体の祭りのような行事を指揮する人間に、陽のレッテルが貼られれば、地下で一人黙々と、実験に明け暮れる錬金術の研究者の姿もある。地下の防空壕のような場所だ。外では各国を巻き込んだ世界大戦が始まっている。またはその祭りの対極には、規模を圧倒的に縮小した、舞台芸術、演劇集団の講演が行われていて、やはりそこでも、対極の構造になっていた。個々の客が、チケットを自ら購入して、座席についていたのに対して、一方では民衆が分け隔てなく、自由に祭りに参加して、出演者と鑑賞者をわける境界線もなく、全員で一つの世界を築き上げていた。天に捧げる一大イベントとして、集まった生命力は上昇していた。かと思えば、舞台芸術が陽に置かれ、その向こう側には、部屋で一人キャンバスに向かう画家の姿があった。譜面に向かう音楽家の姿があった。一人で様々な表現媒体を、自在に操る男がいたかと思えば、それぞれが分岐して、細かく細かく、分担が分かれていく世界もまた、存在していた。その部分部分に焦点を当てていくことでしか、この光景を表現することはできそうになかった。その全体性を伝えようとすればするほど、複雑で、重層的な世界へと、迷い混んでいかずには不可能だった。そして、そんな必要はなかった。全体を一瞥すれば、事の真意は理解できる。すべてが自分だとは思わなかったが、しかし、無数の役割を、これまで、演じてきたような気がした。そして今、そのどの役割にも、はまることを拒んでいる自分がいた。もう結構だと、もうたくさんだと、うんざりしている自分がいた。何故かしら、この見えてくる役目の中から、そのどれかを選びとるよう、促してくる圧力があった。そして、その圧力に反抗している自分がいた。こうして眺め見ている時間は、どれほどたったのか。どこにも動く気のない、動くことのできなくなった意識体は、この多次元に入りくんだ球体からは、距離を置き、近づくことなく、遠ざかることなく、互いに対置していた。
 これもまた、陰陽の輪廻を形成しているのだろうか。
 自分はいったい、今、どっちの極として表現されているのだろう。
 私だったのだ!
 そのムーンをプレイしていたのは。
 この私だったのだ!
 映像を見ていると思っていた私。その男を観察していたと思われたその私とは、プレイヤーでもあった。プレイする自分の姿を、ただ見ていたのだった。自分がだた、自分の姿を見ていたのだった。その距離は、プレイするときにはもちろん間はなく、じょじょにじょじょに、ムーンに没頭するうちに、離れていったのだった。そしていつのまにか、別人であると認識するほどに、解離していたのだった。その生まれた距離に現れた、幻影の回転体に、私はずっと、心を奪われてしまっていたのだ。夢を見るように、ずっと見続けてしまっていたのだ。
 さらに、私ははっとさせられることになる。
 この自分は、いったい誰なのか。シュルビスなのか?シュルビスが、ムーンの、プレイヤーではなかっただろうか。他にも、確かいるのだろうが、私は知らなかった。シュルビスしか知らなかった。なら、それなら。シュルビス初が、この自分とは同一の人間であって、没頭する彼から、次第に解離し、彼そのものを見下ろしているこの意識体が・・・それがこの自分だった。私だ。つまりは。
 さらに、別の人物もまた、眼下には見えてくるようだった。


 シュルビス初は、いつのまにか自分がムーンをプレイしていることに気がついた。
 前後がよく繋がらなかった。今自分がムーンをしているというのは、全くのあるべき姿ではない。場違いな状況にあることを、直観した。自分はここにいるべきではない。ここにいるのは、実におかしなことだ。現実味がまったくもってない。ありえない。
 シュルビスはこの身体もまた、自分のもののようには思えなかった。他人事のように、ただ、プレイを見守っている自分がいた。ここに来る前、自分はいったい何をしていたのか。今回は、どういった状況の元に、ここに来たのか。すでに、ムーン中毒であったのは、遥か昔のことのように思えてくる。自分のことのようには、思えなくなっている。ムーンと自分の関係は、とっくに切れているように感じる。なのに、こうしてここにいる。無意識に、プレイしている自分がいる。何故なのか全然わからなかった。何がここに導いてきたのか。ふとさっきまで、殺したはずのあの男と、談笑している光景が浮かんでくる。死んだはずのあいつが、俺を訪ねてきたのか。こっちから会いにいくはずもなかった。あいつが勝手に現れたのだ。殺した張本人に復讐をするために?
 そんな緊迫感など、少しも感じられない二人の表情に、シュルビスは唖然とした。

 手持ちのカードが、そのキーカードが、どちらの極に設定されているのか忘れてしまっている。プレイは自動的にどんどんと進んでいってしまっている。誰も止めることはできない。シュルビスは、自分の肉体をうまく制御することができないことに気がついた。まるで繋がってなどいない。確かに、自分の肉体なはずなのに。何の反応も示してはくれない。肉体だけ、別の誰かのものになってしまったかのように。そうだ。そうに違いなかった。肉体は、誰か、別の人間のものになったのだ。その誰かが、自分の意思で、こうしてカジノにやってきた。その人間がプレイしたくて、これはしていることだ。俺には何の関係もない。己の捨てた体に、未練があったのだ。だからこうして、その後を見にやってきている・・・。
 シュルビスは、夢の中にいる可能性もまた考えていた。
 己の体を捨てるだって?
 なら、俺は、その前に、死んだことになってしまうじゃないか。
 俺は死人じゃない。自分で息を止めたわけじゃないし、誰かに殺されたわけでもない。
 俺が、別の人間を殺したのだ。記憶の錯誤も、実に甚だしかった。
 あいつ、ナルサワトウゴウを殺害して、いや、そういえば、あいつの遺体。どこにいってしまったのだろう。俺がどこかに捨てたわけではなかった。移動させるつもりもなかった。そのまま放置していた。その遺体が、現場を去るときに、いつのまにか消えてしまっていたことを思い出した。あの奇妙な一件が、今、突然激しく、揺り戻しを始めたのだ。どうしてあのとき、そう、あのときに、その現実に深く突っ込むことがなかったのか。仕事は中途半端に終えていたのだ。どうしてそのまま、立ち去ることなどできただろうか。立ち去ったとして、その話をアンディに報告して、共に対策を練るべき事柄であったのに。何故、たいした事でない風を装ってしまったのだろう。装い続けていたのだろう。深層では、確実に気になり続けていたはずだ。何をしていても、あの一件がいつも、心の中に引っ掛かり続けていたはずだ。あのあと、何度ムーンをプレイしにいっても、まるで集中などできなかったことを、シュルビスは今思い出したのだ。それが原因なのだと、シュルビスは思った。ムーン中毒から、抜け出せたのは、それが原因なのだ。あのときの一件が、解決していないからであり、自分の意思で、中毒から抜け出せたわけではなかった。すべてが中途半端で、宙ぶらりんなままに、この自分は生きているのだ。だからなのだ。この身体に何故か、現実感がないのは。ほとんど抜け出てしまって、その脱け殻は、誰かに利用されている。シュルビスはここである事に気がついた。意識全体が凍りついた。あの男、ナルサワトウゴウが、まさか、あいつが、俺の肉体を使って?こうして、入り込んでいるのか?そうかもしれない。死んだあいつは、この地上に深い未練があって、それで、都合のいい肉体を探して、それで・・・。ムーンをプレイしている。そうだ。何となくそういう感じがする。この今、プレイしている誰かは、ムーンには熟達してはいない。まだ、よく掴めていないあやふやさが、シュルビスには感じられた。自分が初めてプレイしたときの、あの不自然さが、注意深さがあった。
 だが、そう思えば、今度は、自分が初めてプレイしたときの状況が再現されているのだと、考えられなくもこともない。
 さらに、シュルビスは、ナルサワトウゴウを殺し、集中しきれないムーンをプレイした、その後の状況のことが甦ってきていた。あのあと、煮えきらない感情のやり場に困って、街を彷徨い歩いていたことも、思い出した。そのとき、偶然出くわしたセミナーに参加したときのことも、思い出してきていた。あのときの講師。あのときの薄っぺらいテキストの存在。その後に起こった、地震とは異なる、奇妙な揺れ。あの揺れを、ひとりでは体験しなかった。何故だか、アンディの会社に自分はいた。そう。アンディに呼び出されていたのかもしれない。それで本社ビルに、ひとりで向かった。そこまでは確実に、ひとりだった。その後だ。応接室で、何人かの男女と鉢合わせした。確かそうだった。
 あのセミナーは、その後に起こった揺れを、暗示する内容だった。
 まるで、事前にレクチャーを受けた、あの応接室においては、唯一の人間だったような気がする。そして、その場にいた皆に、やはり、事実を伝えていたような気がした。まだ、正確には、思い出せてはいないが、大筋はそう外れていない。
 変わらず、眼下の肉体は、ムーンをし続けている。
 次第に、プレイに慣れてきたのだろう。明確な意図をもって、対戦に望んでいる、気概のようなものが感じられてくる。そうするにつれて、この身に実体が伴い始めてきた。さっきまでは、別人の、解離した肉体のように思えたものが、長い解離を経て、ようやくあるべき場所へと戻ってきたかのようだった。
 確実に、自分の肉体だと宣言できると、シュルビスは思った。
 シュルビスは、ムーンの世界と再び一つになった。だが、以前とは違うことがあった。
 俺は、ムーン中毒ではない、という想いだ。
 ムーンに呼ばれ、ムーンに操られ、いいようにエネルギーを吸いとられ、そして捨てられる、そんな自分は、今ここにはいなかった。ムーンに自分の実体を絡めとられてはいない、初めての時を迎えていたのだ。自分の意思でプレイしている、とも言い難かったが、それでも、ムーンと一体となっている二つの存在を、少し離れた場所から見ている、自分の意識があった。それでも、肉体と、完全に解離しているわけではなく、左手に乗せられたキーカードの感触はあったし、右手で、テーブルの上のカードの束を、めくっている、その感触もまたあった。そうした状況が、しばらく続いていった。そしてこれは、初めてのことだったが、勝敗をこれっぽっちも意識してなかったのだ。元々、勝敗よりも、プレイしている体感こそが、目的ではあった。それでも、お金を賭けている以上は、やはり勝つために、プレイしていることに変わりはなかった。ところが今は違った。この加速していく対局が、自分をどこに導こうとしているのか。明らかに勝敗ではなかった。ムーンの言いなりでもなかった。自らのエネルギーの損失は、少しも感じられなかったのだ。プレイの終わりが、金銭が尽きるそのとき、エネルギーが尽きるそのとき、あるいは、借金が上限に達したそのときではなく、別の終わりのときに向かって、路線が変わってしまっているかのようだった。それは、ムーンの意思ではなく、自分の意図でもなく、意図を越えた空間が、その終わりを受け止めようとしているようだった。ムーンを越えようとしている。そこには誰の意図もなく・・・。
 シュルビスは、加速していくプレイを、ただ見守るしかなかった。
 再び、肉体感覚が、離れようといた。


 己の存在のすべてを、差し出している自分が感じられた。
 すべてをベットするのだと、自分の声もまた聞こえてくる。
 無力化していく自分に囁きかけるその声が。
 それでも、不思議と、エネルギーが失われていく気がしない。
 身体を越えて、みなぎっているような感触だった。自分を越えて、全面的に、行くべき場所に向かって、加速していっているような。地上もまた、ある種の空洞になっているかのような。地上に生きる生命体から、一斉に何かが抜け出して、上昇してしまっているような。一斉に飛び立っていく、翼のない、命そのもののような気がする。誰にも止められない。加速して、連動しあって、その上昇は、あらゆる存在に、伝播していっているようだった。あのときのDが、あのときのテキストが、その続きを誘発しているかのように、個別の実体験を、授けられたかのように、上昇は留まることなく続いていった。


 あのとき、何が起こったのか。今それが起こっているのだ。
 ブラッキホール。この自分だけではない。すべての物質があるべき外側だけを地上に残して、中身は枠をすり抜け、上昇の気流に乗っている。あのセミナーに現れた老人の講師は、その言葉で現実を指差した。
 今自分は感じているのだ。時間の差をもって。あのときの状況が、甦ってきているようだった。再び自分はその場にいる。次々と天へと、中身は吸いとられていく。見た目の、外側だけが、地上に張り付いているかのごとく、見下ろせる。
 あの講師、確かDと名乗った男だった。あの男がふと、雲の上から、その姿を垣間見せているかのような気がした。その影をシュルビスは感じたのだ。まるで、彼の元に向かって上昇しているかのようだった。彼の傍に吸い込まれていくかのようだった。彼が呼んでいるかのように。その吸引力は、重力を思い起こさせることなく、次第に強くなっている。天地が逆転してしまったかのごとく、雲の遥か上に、存在する彼の王国に、手招きされているかのようだった。すべては彼の元に還りつく。

 あのDとは、いったい誰なのだろう。あのセミナー自体が、不可思議で、現実味のあるものではなかった。あの男が何故か、この自分に向かって、講義の続きを個人的に授けてくるように感じられた。
 ホワイテスタホールだと、シュルビスは叫びたくなった。
 ブラッキホールは、ホワイテスタホールへと、変わるのだ。
 その変わり目は、確かにある。
 もう、それが起こる状況が、この集合体においては、完全に整っている。
 あとは、それぞれが、個人的に体験して通過していくのみだ。
 通過していくと男は言った。今言われているのか、あのとき言われたのか、それとも言われたという事実は、まるでないのか。ただの幻想なのか。Dという男は、シュルビスに伝え続ける。
 すべてを吸い尽くしたとき、と彼は言う。この地上は、完全にブラッキホールと化すだろう。まさに、その状況が、ブラッキホールだ。そしてそれが、達成された瞬間、その瞬間だ。世界は、ホワイテスタホールに変わっている。それは、共存しない。二つは共存が不可能なのだ。ブラッキホールが現れた瞬間に、それはホワイテスタホールになる。
 通常は、どちらもが、この世には存在しない。いずれは、そのどちらもが存在しなくなる。これは通過するための、ただの橋渡しの役割しか、果たさない。
 そう、これは、扉なのだとDは力強く宣言する。三次元世界に表出するゲートなのだと。この地球が、人間が、生物が、次の時空に移行するために、出現するゲートなのだと。
 今から君は、その地上の様子を、目撃することになる。君は、今、起きる出来事を目撃できる場所にいる。そういった状態にいる。この瞬間に感謝することだ。そして抜けろ。確実に抜けるのだ。個人的に体験する以外に、我々に方法はない。それは、君のゲートなのだ。君のために現れた、ゲートなのだ。もうすぐ、臨界点へと達する。吸い上げられるすべての波動が空洞化に必要なすべてが、宙に舞い上がり続けたそのとき、ゲートが現れる。君もまた、その吸い上げられていく要素の一つなのだ。そのまま、力をさらに抜いていったらいい。なるようにさせていけばいい。止まることはないだろう。君は、協力するのだ。力を抜ききることで。私が開発したムーンというゲームの真の目的が、今達せられることに、私は非常な喜びを感じる。君もまたひとつのサンプルなのだ。君の前にも、後にも、多くの人間が、こうしてゲートが現れる状況に近づき、そして躊躇いもなく、通過していくことになるだろう。君に抵抗する力は、ほとんど残っていない。これまでのムーンのプレイで、その無駄な力みはすべて、除去されているから。君は昔、私の弟子だった。私は、ある密教の総帥だった。悟りを開くことに最も近づいた、総帥だった。だがそのときは、弟子を悟りに導くことも、自分が悟りを得ることも、何も叶わなかった。しかし、約束だけはしたのだ。弟子たちに。必ず私は悟りを得て、この世のすべてを知り、君たちも同じように、その状態へと導くと。私は約束し、そして死んでいった。私は未来で、自分がそれを達成していることを知っていた。ただ知っていた。私は人間の運命を、ある程度、見ることができるようになっていた。私は確実に、あとの世で、君たちを導くための、きっかけとなるものを開発していると。そのときの私は、今のような宗教を連想させるような、装いではないかもしれない。それはすまないと思っている。姿かたちは、想像もできないほどに、変わってしまっていることだろう。このカリスマ性すら、なくなっていることだろう。皆を集団で率いていく魅力は、どこにもないかもしれない。そして、私だと、気づく要素もまた、どこにもないのかもしれない。だから、忘れてほしい。今の私たちの関係性は、綺麗に、忘れてほしいのだ。私の死と共に。だが私は確実にあなたたちの元に現れる。私という人間としての輪郭は、あるいは存在しないかもしれない。違うかたちで、君たちと出会うはずだ。私だとは、到底、気づくまい。しかしそれは私が開発したものだ。私の息のかかったものなのだ。私を通過していったものなのだ。それもまた、ゲートだ。この世のすべては、ゲートに満ち溢れているのだ。そのことに気づいたのも、私が悟った後だった。そこらじゅうに、ゲートがあるということを。いつでも手を招いて、私を受け入れていたことを。そのときは気がつかなかった無数の出会いが、宙を漂っているということを。しかし人は気がつかない。君たちもまた気づくことはない。私は君たちに気づかせる新しい何かを、創造しなければならないだろう。それが私の役目だ。そしてこの世に、無数のゲートが存在しているわけがわかった。それはあらゆる種類の人間に働きかけるための、無数のバリエーションが、必要なことがわかったからだ。
 私は君たちのための、君たちだけのための、独自のゲートを存在させなければならない。そうしなければ、君たちは気づくことはないだろう。いや、それさえ、出会ったときには気がつくまい。理由なく引きつけられ、中毒になるほどのめり込んでいく以外に、理解できることは何もない。それがサインだ。

 のめり込み、繰り返し、体験していくことで、君たちは思い出していくことになるだろう。
 私の存在を。私との過去の関係を。ゲートの存在を。君は今知ったのだ。行きたまえ。そこに答えはある。自分で行って、見てくるのだ。私はここまでだ。私こそが、ブラッキホールなのだ。すぐにホワイテスタホールへと変わる。私の存在はなくなる。瞬時の邂逅は過ぎ去る。数知れない思い出は置いていきたまえ。ここに。もう君はさんざんに、私との関係を構築した。捨てなさい。それはもう、役には立たない。その先にある世界に、何の力みもなく行きなさい。それ以上、上昇させるものは何もなく、そうなる地点に、もうすぐ到達する。行きなさい。行かせなさい。何も心配することはない。

 シュルビスは、今、ブラッキホールに包まれ、ホワイテスタホールへと変わる、その瞬間に、この身をすべて捧げようとしていた。






















   sanpietoro STONECIRCLE




















「ちょっと、待ってくださいよ。今になってからの、変更ですか?」
 建築家Bと呼ばれる男は、声を張り上げる。
「仕方がないだろ。俺の意向じゃないんだ」
「それで、いつまで、なんです?」
 建築家Bはしぶしぶ、納期の話を持ち出した。

「三年後」
「えっ?」
「三年後だよ」
「それは、また」
 建築家Bは、言い淀んだ。
「そんな、無茶苦茶な要求ばかり、どうしてって。時間もまたとんでもない短期間を、要求されるのかと思ってましたよ」
 一瞬、ほっとした表情を見せてしまったことに、建築家Bは、激しく後悔した。
 ユーリ・ラスは、じっと建築家を見つめ、視線を逸らすことなく、自分の伝えるべきことを、頭の中で反芻していた。
 ユーリ自身もそこまで長く、時間をとるだろうとは、夢にも思ってなかった。
 これはゆっくりと丁寧に細かく、仕上げてくれということなのだろうか。それとも・・・。

「なにか、言ってくださいよ」
 建築家Bの声が、鳴り響く。
「俺にも、正直、わからん」
 そう言うことしかできなかった。
「あの男の、考えていることなど、わかるはずもない」
「いいかげんにしてください。あなたがわからないものを、この僕が、理解できるわけない。そうでしょ?」
「とにかく」ユーリ・ラスは言った。「伝えたからね」
「もう一度」と建築家Bは言った。「もう一度、丁寧に、一つ一つを確認していきましょう」

 念には念を入れてかと、ユーリ・ラスは思う。
 この俺が、すべてを組み立てなければならないのだ。
 今後、この会長からのたたき台を形にしていくのは、あくまでこの俺なのだ。
 俺が会長の意向を会長以上に理解して、そして業者と共に現実化していかなければならないのだ。
 ユーリ・ラスは、会長との一蓮托生に、すでに嫌気がさしてきていた。
 いつか会長とは、袂を分かつ日が来るのだろう。今は漠然と、そう思うだけだった。
 しかしその時というのは、だいぶん先のような気がした。少なくとも、この世界が大きく変形したその後だとユーリは思った。


 治外法権のある、自主独立の国をつくろうと思っている。
 彼のそうした発言から、この建築プランは発動したのだった。
 仮に、第一プランと名づける。会長アンディ・リーはそのとき、八つあまりの事業を所有、運営していた。業務のほとんどを、事実上動かしているのは、この自分、ユーリ・ラスだった。しかしもう今となっては、自分はただの飾りであって、事業はほとんど、何もしなくとも勝手に自動運転がなされているかのようであった。すべてアンディ会長が、その算段はつけて、あとは見張りのためだけの誤差が生じたときに修正するためだけの、人間を配置するといった、機械的なものになっていた。
「バチカン市国のようなイメージに、近いのかもしれない」とアンディは言った。
「けれども、本質的には違うし、形ももしかしたら違うかもしれない。けれども、取っ掛かりとしてね。何でも、最初のインスピレーションが感じられる瞬間があるものだろ?それは、ただのきっかけにしかすぎない。君としては、まあ、聞き流してくれたらいいんだ」
 それで、ここからはちゃんと聞いてほしいと、アンディは居住まいを正した。
「クリスタルガーデン跡地にね」
「ああ、はい」
「実は、七百階建ての建造物を、つくることを予定していた」
「七百ですか?」
「ああ、そうだ」アンディは、平然と答えた。
「けれども、予定は、急に変わってね」
「予定ですからね」
「その、バチカン市国のために」
「本社のグリフェニクスと、ウチの所有するクリスタルガーデン東京の跡地を接合するために、そのあいだにある、全ての土地を買収した」
「したって、もう?」
「ああ。それで、同じ敷地としてね、その広大な土地を、そっくりそのまま一つの国にしてしまおうと思った」

 ユーリは、溜息をついた。

 この男は一体、どこまで本気なんだと思うまでもなく、それは事実なのだろうと思い直した。
 ユーリは何も反論することなく、ただ受け身であることに全身を集中させた。
 そのユーリの内面の僅かな変化に、呼応するように、アンディはそれまでほんの僅かに存在していた躊躇を、投げ捨てたかのように、ユーリには思えた。
「まず、河があって、そこに掛けた橋を渡る。大きな門を通過して、我が国へと入場する。広大な広場が、出迎える。その円形の広場に沿って、太い柱廊がぐるりと取り囲む。真ん中には、オベリスクが天に向けて、高く聳え立つ。噴水が周りに配置されて、華やかな雰囲気を演出する。そう。この国は、陽の当たる、強烈な陽のエネルギーに、照らされた楽園なのさ。この門が、一種の境界線だ。陰鬱な国との境界線。世界は反転する。一瞬にして。一気に。そこには意識に与えられたショックがある」

 アンディは淀みなく続ける。おそらく、バチカン市国をなぞっているに違いなかった。
 そうやってなぞり、この自分という他者に放り投げていることで、立ち上がってくる、何かに、彼は注意深くなっていくのだ。
 いつだって、そうなのだ。彼さえ把握していない、彼の内側にある、ビジョン。それを引き出すための行為を、彼はいつも無意識に繰り返す。
 アンディ王国。ただの戯言なのだが、思いもよらぬ別の重要な何かに、接続がなされるのかもしれなかった。
 ユーリは、完全に受け身になることで、アンディの力になりたかった。
 今は、自分が、その役割の最前線にいる。広場の正面には、大聖堂が出迎え、さらには斜め奥には、礼拝堂が続いていく。礼拝堂は、これまた、巨大な美術館へと繋がる。そしてそれは住居である、宮殿に繋がり・・・。
「その宮殿。住まいはもちろん、クリスタルガーデンを改装した、その場所だ」
 アンディは言う。

 クリスタルガーデン東京とは、今は、誰も住民のいない、超豪華なマンションのことだ。
 元々は、死刑が執行され続けた留置場のあった場所だった。アンディが、その忌まわしき記憶を持った土地を、格安で手にいれた。その暗い過去を華々しく、払拭させるがごとく、豪勢な装飾と最先端のテクノロジーを搭載した、値の張る建物としてブランド化した。だが今となっては、住人は誰もいない。アンディ曰く、もう、その事業は終わりなのだそうだ。利益は回収できた。長くやる事業じゃない。ただ、その土地が欲しかっただけだ。表向き用の言い訳のようなことは、もう終わりだ。
 そう語った。

「いや、そうじゃないか。そのクリスタルガーデンの跡地が、広場になるわけだな。じゃあ、門は、その辺りに設置しよう。その外には、橋を設置するための河が、必要になる」
 アンディは、独り言のように呟いた。ユーリは、気のない相槌を打つ。
 その後も、第一プランとユーリが呼ぶ、おそらく、どこまでもバチカン市国をなぞったような描写が続いていく。すでにアンディは、バチカンは自分が構想して造ったものだと勘違いしているに違いない。描写はどんどんと、細部に向かって流れ出していった。
 その度に、ユーリの意識は薄れていき、興味は遠ざかっていき、相槌は形だけのものとなっていった。
 その、第二のプランが、突然、生まれ出るまで。


 錬金術師+(プラス)は、その構造では駄目だ。構造に問題があると、施工主に言い続けた。
「何が、問題なんだ?」
「すべてですよ。ただし、全体という意味では、ただの一つと言ってもいいかもしれませんね」
「馬鹿にしてるのか?」
「その逆です」
「お前の言うことは、いちいち、わからない」
「時間が埋めてくれますよ」
「どうだかな」
「私と、あなたとでは、時間の軸が違うだけですから」
 施工主は、沈黙した。
「わからないことに、いちいち、思考を巡らせないことですね。そして、わかっていると、思っていることにも。深く追及して迷路に迷い込むよりも、たとえ、限定的な視界しか、もたなくても、その中で、最大のカメラアングルで全体を捉えることですよ」

 湧いてくる怒りを鎮めるのに、施工主は必死だった。
 そうだと、施工主は思う。この目の前の男を対象物として、ただ見つめていてはいけない。この男の言動に対して、この男を責めることは、間違っている。反応しているのは、この自分なのだ。自分を見なければならないのだ。自分の心の内における、『動き』なるものを、見つめなければならないのだ。ふとそう思った。
 その荒れ狂う心を引き起こしたのが、たとえこの男だったとしても、この荒れ狂う海そのものを、男がこの自分に植え付けたわけではないのだ。大海はすでに自分のものなのだ。その実態が、この男の言動によって、ただ炙り出されているだけなのだ。この男に怒りをぶつけ、たとえ一時、発散したとしても、それでこの海そのものが、消えるわけではないのだ。波が静まりかえっただけで、変わらず、この自分の中にはその海は存在する。そして再び荒れ狂う機会を待つ。
 はっとして、施工主は目の前を見上げる。
 構造に問題があるのだと男は言う。
 そういうことなのか。
 男に、目を向ける。
 男は笑う。
「わかってくれましたか」と言わんばかりに。
 男が、この僅かばかりの沈黙を引き継ぎ、そして破ってくれる瞬間を待った。
 しかし、時は止まってしまったかのごとく、その向かい合う二人の人間は、延々と互いの目を見つめるだけだった。

 そうじゃないと、施工主は再び思い返す。そうじゃないのだ。
 見つめ合ってはいけない。その構造では、駄目なのだ。
 しかし、目を外すことはできない。そうしようすればするほど、男の目の内奥へと、吸い込まれていくようだった。男を見てはならない。男を見ているようで、その目は、自分を見ていなければならない。目の前の男は、ただの鏡だ。そこに写っているのは、この自分なのだ。どう映っていようとも、それは自分なのだ。錬金術師+はますます不敵な笑みが、顔じゅうに広がっていくのを感じた。それは自分なのだと、施工主は思うことにする。今笑ったのは自分なのだ。そして男は話しかけてくるように口を開いたのがわかった。
 構造が違うのだとあざ笑っている。君のその誤った構造で、世界を見ている限りは、君が描いた建物だって、未来のヴィジョンだって、まるでお門違いな構造で仕上がってしまうのだ!それを僕は指摘している。男はあざ笑い続けた。
 君が外を見るその構造が、すでに間違っているのだ。ではどうすればいいだろう。
 よく考えるんだ。その誤った構造を、どう是正するのか。是正したら、君も立派な、建築家だ。正しい建物を、この世に建てることに、寄与できる。そうした仕事に貢献できる。だがその今の間違った構造の目で、次々と誤った建物を立てるように、指示したらどうだろう。君は世界をさらに誤った方向へと誘う、伝道師としての勲章がもらえるに違いない。どうしたらいいのか。考えるまでもないことだが、君は考えなければならない。哀しい性だ。そして考えあぐねた末に出した答えもまた、大いなる誤りだ。考えれば考える程、その歪んだ誤りの歪みは、肥大化していく。では何もしなければいいのか。いいや、駄目だ。何もしない。それは退化だ。君は正解へと導くための試みを、その歪んだ構造を用いて、突き進んでいかなければならない。
 哀しい。実に哀しいよ!
 その堂々巡りに、脱出口はあるのだろうか。よく考えてみたらいい。私はこう考えているのだ。何も、そうした誤った構造を持っているのは、君だけではない。君だけが誤った分子であるかのように、指摘したことは実にすまないと思っている。何せ話している相手が君なのだから。しかし、あらゆる人間が、同じ構造を持って、すでに生まれてきてしまっている。そして生まれた後の地上での生活によって、さらにその歪みは強調され固定されていく。まるで変えられはしない、変えることのできないレベルにまで、到達させたいがために、生まれてきているかのように。
 そう。自分ではもう、その間違った構造を矯正することは、できないのだ。
 どうしたらいいのだろう。これからも、多くの『そうした人間』が、生まれ続けることになる。どうしたら、その流れを、止めることができるのだろう。いや、そもそも、止める必要があるのだろうか。
 ここが、問題、なのかもしれないね。
 だが、とりあえず私は、私に限っては、それは止める必要があると考えた。
 だからだよ、まずは、君を通して、その実現の第一歩を進み始めようと考えたのは。


「反転させるのさ」とアンディ・リーは言う。
 脈絡のない言動を発することに、ユーリ・ラスは、すでに慣れていた。
 しゃべらすだけしゃべらせることが、自分の役割なのだ。
 そして、その文脈の行きつく先は、誰が導いたわけでもないのに、一つの帰結をみるというのが、パターンだった。
 それはユーリでもない、アンディでもない、誰か第三者が、この会合に加わったかのごとく、奇妙な『修正』が加わる。
 何をどう、反転させるのか。反転させるというのは、どういう意味なのか。

 ただ、疑問ばかりが、頭の中を回るばかりだと、ユーリは思う。
「この広場だ。ここが決定的に、間違っている。そこに誤りがある」
 そういうことだからと、アンディは、ぽんぽんとユーリの左肩を叩く。
「こちら側の国。つまりは今、我々が生きている国。陰鬱な陰の方の国。ここから河を渡り、新しい国の門が現れる。門をくぐれば、広大な広場が出現する。仮にアンディ国とする。陽の国だ。この広場。この空間こそが、非常に重要なものとなる。ここには、見える機能など何もない。バチカン市国は、キリスト教の総本山なのだから、イエスに関する重要な日には、世界中から、信者が集まってくる。それを収容するための広場だ。教皇が現れ、司祭が結集し、そして、信者に崇められる。そういった場所だ。ここに、キリスト教の本質がある。つまりは、広場はその象徴だ。『収容する』ということだ。信者を収容して、そして権威に対しての服従を、約束するための場所だ。我がアンディ国は、そうであってはならない。そういう場所であってはならない。従って広場の意味も、役割も変わる。まるで違う。まず、最初の簡単な意味としての反転とは、そういうことだ」
 いつ終わるとも知れない長い会話が、今始まったことに、ユーリは覚悟を決める必要があると感じた。


「誤解を恐れずに言えば、アンディ王国はこれから、宗教国家へと、ある種変貌を遂げるということだ」
 アンディは、臆することなくそう言う。
「教義も何もない、それこそ、信条も信念もない、つまり信仰のない宗教だ。規律もお布施も、そして運営組織も。当然、信者などいない。生まれようもない。そうしたこれまでにない宗教が、打ちたてられる最初の機会となる。一方からの見方では、それは千年に一人、出現する芸術家が生み出す、芸術のようであるのかもしれない。その絵。その曲。その詩。その本。それらは、ある種、人々の祈りの対象になることがある。目の前に聳え立つ、圧倒的な畏怖を携えた、それでいながら、包み込むような温かさ。天へと意識を舞い上がらせる厳然性。その、両極の激しい融合の中で生まれ出た、奇跡の聖地。ある種、人々は、その場に居合わせることで、心に何かが刻まれる。芽が植えられることも」
 しかしと、アンディは言う。
「それでその芽は開花したことがあるのだろうか。人間の誕生から終焉までをも、はっきりと見渡せる千里眼を、獲得できた人間を、生まれ出したことがあるのだろうか。この宇宙全体における、誕生と終焉を、明晰にとらえることのできた人間が、生まれ出たであろうか。芽は、開花しただろうか。いいや。ない!その芸術は、生み出した芸術家でさえ、そうした芽を、息吹かせはしなかったのだから。開花した芸術家が、生み出したものではなかった。そして、生み出すことで、開花することもなかった。そのとき、その瞬間に、あらゆる地上と、天上のバランスが極度に安定したときに、奇跡的に着地しただけの・・・再現性のないものだった!それが、事実だ!現実だ!事故のようなものだ!計らずとも、起こった事故のようなものなんだ!そんなものに期待はできない!芸術に期待はできない!あまりに、計算ができない!そんな、何千年ものあいだの何人か。しかも、ある一時期、ある瞬間にしか、そのような状態にはない機会に、一体、何が期待できるであろうか。そんな無責任な話はない!偶然の奇跡を、宗教に取り込むわけにはいかない。私はそんな愚か者にはならない!」
 アンディの口調は、次第に熱を帯びていった。

 ユーリ・ラスはいつものことながら、アンディに寄り添うように、全身で受け止めていた。しかしいつもとは何かが違った。目の前の男は、確かにアンディではあったものの、どこか違うように思われるのだ。肉体は、完全にアンディであるものの、中身はごっそりと抜け出てしまい、別の何かと、入れ替わったかのような。アンディが、宗教国家を?この国の中に、二重に囲い出でた、さらなる別の国を創造?そんなことができるはずもない!バチカン市国の歴史を、どこかで見聞きしたのだ。ただのその影響で、一時的に熱くなっているだけど、ユーリ・ラスは、そのいつもとはちがう違和感を、自分なりに説明づけた。
「教義も、規律も、信仰も、信者も、象徴となる聖物も、何もない。神話もなければ、何のエピソードもない。組織もなければ、長もいない。権威もない。目に見える形として、明晰なる存在がどこにもない。それでいい!それがいい!唯一の象徴物。いや、そうじゃない。象徴物じゃない。そんな実用性のない、夢物語を浮かべただけの、無意味な広告ではない。誰かにアピールする、そんなセールス広告ではない。恐怖を植え付けるための、権威を煽るための、あるいは自身と同化して、誇らしくなるための、そんな象徴物ではない!そんなものではない。役に立たないゴミではない。それ自体が、確実性のある、現実的な装置なのだ。そう。それは装置だ。精巧に仕上げられたシステムだ。それが、この広場だ。一見、何もないその広場。空間が拡がっただけの、人を収容するように見える、ただのだだっ広い広場。普段は、観光客の通り道として、行き来して、その権威の建物たちを、眺めるための、絶景の写真スポット、そういうものでは決してないのだ。広場を通過する人間。広場に佇み、空を見上げた人間。彼らの意識の構造を、それまで生きてきた、生まれる前から、維持し続けたその構造を、完全に反転させて、新たなる固定を施す。そう、外科手術が、そこでは行われることになるのだ!誰も横になる必要はない。誰かの手によって、物理的に体を開閉することもない。外側から、内部の芯なる奥へと、一瞬で届くそのレーザーによって、世界の認識の仕方が、一変する。それが、アンディ国の唯一にして、最大のやり方。在り方といっていい。誰に、何の、アピールすらする必要はない。それは、ただ起こるだけだ!そして起こり続けていくだけだ。芸術のように、他人がつくったそれを見て、それも、滅多に起こることのない、その万一の、奇跡的な作品を前にしても、潜在性の僅かな芽しか宿せない、宿らない、それとはまったく異なるものにしなければならない!
 芽は、確実に一瞬で浸透する。細胞への影響は、即刻、なされる。その、全的な変化は、一瞬で起こる。一変した、新しい構造は、元に戻ることなく、維持される。そして、さらなる助長を、誘発していく。外側から、サポートされることは、一切ない。最初のその一撃のみが、外側から。あとは、外側からの影響は、何一つ受けなくなる。何においても。自らの全的変化の記憶が、その次の展開を、自らに施していくだけだ。そしてさらに。さらに。その後における、その人間においては、時間というものは、その一変した、最初の構造の濃淡を、より濃くしていくことと、同義となる。そして、時間とは、本来そういうものであることを、理解するようになる!それで完了だ。アンディ国ができることは、何もなくなる。アンディ国とは、二度とその後、関わり合うことはなくなる」

 意外な言葉だった。確かにこれまでの宗教の在り方とは、全く違った。
 アンディは、宗教を盾に、自分の権力を拡大すること。あるいは、自分の主張を指示させ、洗脳させ、奴隷にして取り込むこと。自分のビジネスの利益を、拡大させること。そのどれにも繋がることのない何かを、しようとしている。
 最初に、アンディに感じた違和感は、これだったのだ。
 アンディが、最初に宗教国家を作ると宣言したことと、従来のそのイメージから来る、彼から発せられるだろう雰囲気が、まるで異なっていたのだ。
 そしてユーリは、どうもこれは、科学抜きでは考えられないことを自覚してきた。
 さらには、科学だけでは、まるで意味も現実味もなさない。科学と対極にありながら、科学とは相いれないながらも、芸術でも、政治でも、経済でもない、その何かの存在が、鍵なのだった。
 アンディが持っているのか。持っている誰かが、いるのか。そんな分野が、すでに水面下では開発されていて、それをアンディがすでに、手中に入れているのか。
 何なのかはわからなかったが、ユーリには、正にアンディが新しい分野に、足を踏み入れているのは、確実なことように感じられた。


「やっと、会えましたね。どうぞ、どうぞ。ご足労頂いて、大変感謝しております。誰よりも、あなたとの邂逅を夢見ていました」
 アンディ・リーは自社の本社に、まさかこの男を招くことができるとは、思わなかった。
「だいぶん前から、あなたの所在を、掴もうとは奔走していました。我が社総勢で。未来の社運がかかっている。それよりも、私の個人的な興味の方も、もちろん、大きい。ところで、何とお呼びしたらいいでしょう。Dさんで、よろしいでしょうか?」
「構いません」
 見た目は、思ったよりも若いようだと、アンディは思った。
 もっと老齢な、場合によっては老境に差し掛かっている一人の男を想像していた。
「今日は、どういった、ご用なのでしょう」
「我が社には、あなたが、必要なのです」
「具体的に、お願いします」
「あなたを、アドバイザーとして迎え入れたい。つまりは、私どもは、これから一つの、新たなる国を創造したいのです。事業で築き上げつつある、この資本と流通を基盤にして、次なる段階へと進み出でたいのです。しかし、そこには、高い壁がある。あなたの力が必要だ。あなたと手を携えて、歩んでいきたいと。もうずっと以前から、そう考えておりました。あなたの著書を、拝読したときから、その芽は生まれていました」
「私の著書?」
「ええ。我が社の、二大事業の一つである、キュービックシリーズというメディア事業における、第一弾の出版物。あなたが登場した、あなたをメインとした、ドキュメンタリーのような書物。もちろん、あなたが筆者だったわけではないが、あなたそのものが、本になったようなものだ。あれは、世間的には、不評であったものの、セールスとしては、実に低調ながらも、長い売上げを記録している。私はこう思うんです。セールスは、まったく落ちないのではないかと。そんなこと、常識では考えられない。ところが、あなたの著書は、その出現のときから、永遠に同じセールスが続いていくのです。あなたを求める人の数は、常にあるということ。時代の波においても、個人的な趣向においても、影響はまったくされない。つまりは、そういったものとはまるで無関係に、あなたは求められている。この数字というものは、実に興味深いものだ。それは私のこの想いと連動しているかのようだ。私の想い、それが形となって、現れているかのようだ。私だけじゃない。誰の心の中にも、一定にある、何にも影響されない、しかし、確実にある『それ』に対応している。あれは本当のところ、数字ではないのではないかと、思っているのですよ。そう考える私は正気じゃない。しかしそう思うのです。あなたは永久に、求められ続ける。そして私もまた、ずっと求めてきた」

 Dと呼ばれた男は黙って、ソファーに腰掛けていた。微動だにしなかった。
 目を閉じて、静けさに浸っているようだった。
 アンディ・リーは、そんなDの様子に、居心地が悪くなっていった。
 つまらない話には、はやくも嫌気がさしてしまったのではないかと危惧した。
「そんな我が国においての、顧問を、あなたにお願いしたいのです」
 単刀直入に、そう切り出した。
「あなたに、伺いたいことは、それだけです」
 アンディは言い切った。それ以上の、どんな言葉が必要だろう。
 この男は何もかも、すでに了解済みなのだ。アンデ意図など、最初からすべて見抜いている。Dは相変わらず、目を閉じ続けている。反応はない。催促することも、できなかった。アンディはひたすら待つことしかできなかった。何か試されているような気がしないでもなかったが、とにかく待つことしかできないことを覚悟した。
 主導権は自分にはない。この男を相手に勝てる要素など何ひとつない。こうして対面できただけで勝利だと思わなければ、事は前には進んでいかない。
 アンディ王国は、この男と共にあるのだ。この男がうんと言わない限り、何の進展もない。次の次元に進んではいかない。もちろんこの次元においては、事業を進化、拡大していくことは可能で、それはこの自分の手にかかっている。だがと、アンディは思う。それはあくまで、この次元においてだ。自分にできるのは、その限定された、この地上における創造物のみである。しかしアンディには、その次元での先が見えていた。事業が、この地球上をすっぽりと覆い、ある種、事業を手段に、アンディ帝国のようなものが築かれたとしても・・・。それで、その先には、何があるのだろう。事業が成功しようが失敗しようが、とにかく同じ土俵における、ただのゲームにしかすぎないように思える。
 そのアップダウンからは、興奮の類は得られるかもしれない。絶望と歓喜の、一時的な高揚は、多分に得られるに違いない。しかし、それだけだ。間違いなく、それだけだ。それならば今と何ら変わりやしない。何もなかった以前の自分や、スタートした地点の自分と、何ら変わりやしない!アンディは、いずれやってくる、成功の絶頂における失望を、すでに感じ取っていた。確実に、やってくる結末を、感じ取っていた。ならばと、彼は考えた。はやければ、はやいほうがいい。いずれやってくるのだ。その局面は。ならば、今であって何が問題なのだろう。むしろ、今が、最適なのではあるまいか。何者でもなかった、あのときときとは、違い、地上における成功者として、快進撃を続けるこの身において、とりあえず、やりたいことは何でも独断でできる状態になっている、今このときにこそ。これ以上、会社が大きくなり、事業がより複雑に、多岐に渡って、展開されたときには、当然、自分の手に負える範囲を、軽々と逸脱してしまっていることだろう。そうなってしまえば、自由の翼を広げることは、逆に困難になってしまう。今なのだ。

 思考を巡らせていることに、はっと気づき、目の前のDに目をやる。
 彼は目を開けていたのだ。両目をはっきりと見開いていたのだ。
 そして、アンディを見つめていた。しかしアンディを、確実に捉えていながらも、何故か彼のことはまるで見ていないように、アンディには感じられた。見ているのに、まるで見てはいない。見開けば見開くほど、閉じたときよりも、閉じて見えてしまう。不思議な目だった。
 そしてこの存在感。そこの空間に、色濃く刻まれれば刻まれるほど、静けさが増していくのは、一体どういう道理なのか。そこにいるということが、希薄になっていくのだ。
 ほとんど、もう、ここには居ないのかもしれない。誰もいないのかもしれない。
「Dさん」と、アンディは、声に出して言ってみる。自分に向けて言ったのだ。
「あなたは私の苦悩も全て、見抜いているはずだ。だからやってきた。あなたはそうした人間を、見過ごすことはできないのだ。私の声を、あなたは聞いた。私の祈りを、あなたは見過ごすことができなかった。私を憐れんだんです。だから、あなたは来た。あなたはイエスともノーとも言わない。そうです。そうなるはずです。それが、あなたなのだ。私にはわかっていた。あなたは、イエスともノーとも言わない。言えるわけがない。あなたはただ、同情心から、やってきただけだ。あなたの意志ではない。あなたは操られるかのごとく、こうしてただ、通りすがりのようにやってきただけだ。これまでも、そうしてきたはずだ。これからも、そうしていくはずだ。あなたが、この地上で生き続けている限り、それは続いていく。あなたの存在意義が、そこにはあるのだから。そして、彷徨い歩いていく。今は、私のところにいる。今は。今だけは。それは、確実なことだ。今は、私のもとにいる」

 アンディは、その現実を、確実に定着させたい思いから、何度も心に刻み続けた。
 そうしない限りは、もう次の瞬間には、彼は消えてなくなってしまうように思えたのだ。
「一度、あなたが、建設予定地に行ってみたらどうですかね」
 突然、Dが話しかけてきたことに、拍子抜けしてしまった。
 何も返せず、思考も停止してしまったかのようだった。
「あなたが、行ってみるべきだ。あなたがまずは体験してみるべきだ。あなたの国です。あなたが、体験したことしか、表現できないはずだ。顧問などいりません。顧問はあなただ。あなたが顧問になるべきだ。そしてあなたは、事業から、国の運営に至るまで、全ての役職から、その身を引くべきだ。そうあるべきです。顧問とは、あなたの居場所を意味している。私のために、用意した場所ではない。あなた自らが、留まるべき空間の、それは呼称です」
 Dは再び目を閉じた。今度は、永久に目を覚まさないのではないかと、アンディは危惧した。
 あなたがその足で、ご自分の国にある場所を、歩いていかれたらどうでしょう。そして、あなたが体験するべきだ。Dの伝言がいまだ空気を震わせ続けているようだった。
 不思議なものだった。その震動は弱くなり、消え去ってはいかないのだ。
 強くなりもしなかった。ただ発せられたそのときの状態を、絶え間なく、維持し続けていた。まるで彼を題材にした、その書物が、世にリリースされたときのように。
 そのセールスは、初めから、決まった数字を示し、そして今も変わらず同じ数字を示し続けていた。


 Dがいつ帰ったのか、すでにグリフェニクス本社の中にはいないのか、わからなかったが、アンディは一人、取り残された形となった。今から視察をすることに、疑いの余地はなかった。今こそ、自分が買った敷地の全容を、自ら体感する時なのだ。Dを顧問とし、迎えることはできなかったが、彼との邂逅は、一つの契機になるに違いなかった。ユーリ・ラスを呼ぶこともなかった。本当に一人きりで視察をする。まだ、すべての土地が整地されているはずもない。それでも、以前の建物は取り壊されたと聞いている。グリフェニクス本社のある、敷地を出るまででさえ、相当な広さがあった。途中でうんざりしてやめてしまうこともありえる。それでもアンディは、自らの敷地を通ることでしか、まだ建物のない、茫漠としたその土地に、踏み入れることはできなかった。事業も会社のことも全て、ユーリに引き継がせる算段は、すでについている。何の問題もない。技術テクノロジー部門の責任者である、ドクター・ゴルドにも、今後のことはすべて任せている。会社からは、すでに一歩引いた身として、会長職についている。国の創造における、人頭指揮をとる気が満々だった。だが、そのプロジェクトからも、Dは外れろと言ってきた。顧問という一歩引いた立場で、事を静観しろと。その役こそ、Dが適任だと思ったが、その役をこの自分がやれと言う。じゃあ、Dが先頭に立って、陣頭指揮をとれと言いたかったが、そんなことを言えるはずもなかった。しかし、アンディは、何か、非常に重要なことを言われたような気がした。言葉以上に、何か重大なことを。アンディは歩きながら考えた。考える時間は十分すぎるぐらいにあった。このグリフェニクスの敷地でさえ、相当な広さがあった。すべての役職から退け。しかし完全にではない。傍で見ている場所は確保しろ。手出しはいけない。率先して引っ張るなんて、もっての他だ。これまでとは違う。これまでのように、物事は進んでいかない。違うのだ。ここは重要な境界線だ。スタイルは変わらざるをえない。それを自覚するのだ。Dがそのように言ったわけではなかったが、Dの雰囲気は今だに、アンディの周りで震え続けていた。変わらなくてはいけない。あなたが私に会ったことは、その変り目の表現なのだ。その象徴としての私、という存在なのだ。それ以外には何もない。あなたが、そのことを、はっきりと理解したとき、私という存在は姿を消す。今はまだ、消えないだろう。あなたに付きまとうことだろう。しかし、いつまでも、のさばらせておいてはいけない。私を崇めること。私に耳を澄ませること。私に愛着を持つこと。私を求め続けること。そのすべては、一蹴されなければならない。そのときと、Dは言った。そのとき、私の存在は、あなたから消え去るのです。そしてあなたもまた、この世界からは消え去るのです。
 あなたもまた、消えるのだと、彼の存在は自分に伝えてくる。
 あなたもまた、消えるのだと。私が消えるのと、あなたが消えるのは、同義なのだと。我々は消える。私は、あなたを道連れに消える。あなたが、私を求めているとき、私は消えない。あなたもまた、消えない。我々はいつのまにか一心同体になっている。我々は共に歩いているのだ。
 我々は、共に歩いている。
 アンディは、歩き続けた。
 二人は歩き続ける。
 気づけば、アンディは、王国の敷地を最奥のグリフェニクス本社から、入り口の門へと遡っていた。森が続き、庭園が続いている。もうすぐ自宅が見えてくる頃だった。
 宮殿と呼ばれるその豪奢な建物は、アンディの隠居の地として、地上に確定しているかのようだ。文字どおり、アンディは、国の顧問として会社においては会長として、完全に蚊帳の外ではないにしろ、ほとんど重要な決定事項以外は、何の口出しもできない立場に置かれている。未来の自分が、見えてくるようだった。宮殿には家政婦が数人、身の周りのことをしている。パートナーの姿は、どこにもない。アンディは結婚してはいないようだった。女性は離れて、暮らしているようだった。この敷地の中に、その存在は感じない。遠い距離をとり、交際を続けているように思えた。ほとんど互いの人生には、我関せずといったスタイルを貫いている。合意の上に築かれている。アンディの仕事にも国にも、何の関連も関心も、抱いている様子はない。間もなく、美術館のあるエリアへと到達する。こう見ると、自宅と美術館が、非常に近い距離にあった。あまりにも近すぎると、アンディは思った。全体の配置として、これはいかがなものか。他の建物同士の距離から比べて、この二つはあまりに近い。そのことが、アンディの心を何故か不安にさせていった。ここがものすごくアンバランスのように感じられたのだ。どうして今さらとアンディは思った。時間の感覚は完璧に狂っていた。まだ建ててもいないものに対して、もう建て終ったかのような感覚を抱いている。変更のきかない最終決定が、すでになされてしまっているかのように感じてしまう。すべて、事は為し終えた後に、今こうして過去を回想しているかのような、そんな感じになっている。
 自分は今、どの空間を、横切っているのだろう。不可思議な気持ちになってくる。
 美術館は、宮殿と比べても、かなり巨大だった。ルーブル美術館と、さほど変わりはないかのような大きさだ。だが、ここにもやはり、作品はびっちりと埋め尽くされていた。美術館のある一角には、画家のアトリエまで設置されている。ある一人の画家の、専用の美術館だった。これほどの量を、たった一人でかき上げていたとしたら、驚きだった。だが、画風は、階ごとに違うものの、一貫した同一性が、根柢を貫いているように見えた。階ごとに、その絵のコンセプトは、違っているようだった。そして階によっては、まだ、展示物が極端に少ないところもあった。かと思えば、濃密なところもあった。作品の数よりも、その存在の濃密さで、埋め尽くされている階もあった。もちろん、びっちりと隙間なく、飾られた階もあった。しかし、不思議とそこは空気の濃密さは感じなかった。画風が生み出した空気の濃淡さが、それもまた一つのまとまった作品であるかのように、三次元空間に染みだしている。そして階層となって、建物そのものを装飾しているかのように見えた。さまざまな計算が、画家の中に存在していて、物質でないものにまで、与える影響力を、緻密に計算している様子が浮かび上がってくるようだった。物質でないもの同士までをも意識した、そんな繊細さが感じられてくるのだ。そしてその見えないもの同士の関係が、またさらなる緻密な階層を作り上げているようで、その連鎖は、終わりのない渦を作り出しているような気がした。空間そのものが旋回して、その中心へと、気づけば引き込まれ落ちていくような錯覚がしていった。逃げようとすればするほど、その中心に引き込まれ、騒げば騒ぐほど、暴れれば暴れる程、叫べば叫ぶ程、あがけばあがく程、止まらない永遠の連鎖に、嵌りこんでいくような気がした。何なのだ、この場所はと、アンディは思った。普通の美術館のそれではない。これはそもそも、美術館ではない!作品を制作して、飾って、それを鑑賞するような、ただの美術館とは違う!一見同じように見えるところが尚更、中身の異質さを際立たせる。ここに来てみればわかる。ここに立ってみれば、わかる。これでもまだ中には入場していないのだ!核心には迫っていないのだ!まだ入り口にすら、到達していないのだ。まだ何も建設は始まっていないのだ。
 王国の臍のような場所だなと、アンディは思った。ここは臍だ。ブラックホールだ。周りのすべての空気を、吸い込み、回収する空間なのだ。これは美術館なんかではない。美術館という形で表現された、何か別のものだ。底にあるコンセプトが、まるで違う。存在する目的がまるで違う。その意図が明確に、ここには埋め込まれている。それを今、探ろうとは思わないが、いったい誰のどんな意図が、埋め込まれているのだろうか。ここは、俺の国ではなかったのだろうか。俺の把握していない、一体何があるというのか。それも、自宅のこんなにも近くに。芸術という仮面を被った、いったい何があるというのか。しかし、王国の臍であることに違いない。引き込み、吸い込む力が、ここにはある。アンディ国における暗部なのかもしれなかった。人知れず、起きている、地底の循環器のような、存在なのかもしれなかった。地上に存在する、生きている生命体を吸い込む、ある種の地上での活動における、終りの地として、最後にたどりつく場所としての空間。終焉の場所。地上から消える場所。俺もまたあそこから消え去るとでもいうのか。隠居した住処の、傍にあるというのは、そういうことなのだろうか。
 今は、先を急ぐことにした。


 礼拝堂と大聖堂は、入り組むように、互いに絡みつくような構造な迷宮構造を、地上で表現していた。聖堂から礼拝堂、また別の礼拝堂から、大聖堂へと、複数の出入り口が設けられ、行ったり来たりが可能な、同格な空間として、設立されていた。大聖堂は、人を多数収容できる構造であり、天井が高く、横への広がりもあった。多数の人間が、同時に同じ意識を共有でき、それが大聖堂を超えて、広がっていけるような仕組みが内包されているようだった。一方、礼拝堂は、いくつもの小さな空間に分けられ、天井こそ高いものの、横幅はかなり窮屈に狭められていた。これは、一人の人間が、意識を散漫にさせることなく、天上へと意識を誘導するためである。一人で努力することの重要性。そして、大聖堂では、その一人の努力は、他者と共有できるものであり、その重なり合った集合意識は、一人の天上への意識と、まったく同格であり、同質であるということを、理解するようになるのだ。そして、複数の人間で、巨大にしていった意識を、今度は一人、礼拝堂で自分のものにし、いつでも誰の助けもなく表現できるように定着していくのだ。その意識の新しい構造をつくること。定着させることが、宗教のすべてであり、この新しい国を設立する、唯一にして最大の目的であるということを、アンディは他人事のように自覚した。
 ここでも彼は、これが自分がつくる国のようには、とても思えなかった。誰か、別の人間が、別の時代に、別の目的で意図して、現実化していくことのように思えた。そして、それは、すでに実在していて、あるいはまだ実在はしていないが、誕生は確定していることが理解できた。だが、自分がこの手で、この頭で、生み出すもののようには、とても思えなかった。これまでの事業や会社の設立とは、わけが違った。そして、その礼拝堂や大聖堂が象徴しているような、その意識に新しい構造をもたらす意図について、アンディは、深く考えざるをえなかった。その構造とは、いったいどのようなものなのか。その唯一の核心が、最初にアイデアとして、存在していないことに、アンディは自らに驚きを禁じ得なかった。最初にして、最後の、その一歩目が、自分の中には存在していないのだ。それでいて、その存在していないビジョンが根柢にある、国を創造しようとしていたのだ。そんなもの、建つはずもない!事業も芸術の創作も、何であろうとも、その最初のビジョン、最初の動機、モチーフ、メロディなくして、いったいどんな物質が、この世に生まれ出るというのか。それが、すっぽりと抜けた状態で、自分は何をしようとしていたのか。ないにもかかわらず、堂々と、ユーリにまで宣言してしまっている。まったくの驚きだった。しかしアンディは、今この瞬間に思いを馳せた。今その最初のビジョンが、掴めるときなのではないか。今にしか、それは獲得できないものなのだ。そしてその一瞬がやってくることを、自分はずっと知っていたのではないだろうか。確信していたのではないだろうか。だからこそ、無謀なゴーサインが、ずいぶんと前から発揮されていたのではないだろうか。未来にある、確実な瞬間を知っていたからこそ、あのような・・。アンディは、心を鎮めた。余計なことを考える隙を埋め、耳を澄ませた。全身の細胞が今、自分を取り囲んでいる空気の震えを、細かくとらえるために、目を閉じた。
 この礼拝堂や大聖堂に埋め込まれた、最大にして唯一の意図。その意図が反映した、その意図だけが反映した、目には見えないその根柢部分。その根柢が、礼拝堂を設計し、大聖堂を建設させた。そして、その意図は、そこらじゅうに、組み込まれている。複雑なデザインと、華やかな装飾に入り乱れていく複雑な多岐性に隠された、その奥に埋め込まれた、唯一無二の本当の設計図。そこらじゅうに、埋め込まれ、礼拝堂、大聖堂を超え、はみ出て、アンディ王国じゅうの敷地に、埋め込まれたその構造。それがその国に居を定めた、あるいは外部から訪れた人々を、人々の意識の在り方を、一変させる。新しい意識の構造へと、導いていく。だんだんと、現れ出てくるような気がした。

 もう少しだと、アンディは思った。
 その全貌が、今現れてくるのだ。
 王国を王国たらしめる、その構造が。そして、その埋め込まれた最初の意図は、アンディ王国の敷地を、完全に埋めることに飽き足らず、それははみ出て、元々の国へと、染み広がっていく。国中に広がり、国境を浸食し始めていく。隣国へと拡がっていく。隣国は、またさらなる隣国へ。意識の構造が変わった人間が、まだ浸食されてはいない別の国へ。帰っていく。訪問していく。そこでも、新しい影響力があり、浸食されるその時への、綿密な準備として、大地は受け止めていく。そうして、地球全体に渡り、広がっていく。地球を埋め尽くし、密度を濃くしていくことで、さらなる浸食が、宇宙へとなされていく。臨界点が、時間の差をもって現れ、外側へ外側へと、拡大していく。アンディ王国は、その最初の外部への浸食が、始まるときに、消えかかり、広がっていくにつれて、その存在を完全に消滅させていく。姿かたちもなくなる。最初の構造だけが、宇宙に広がっていく。そして、その構造は、元々、宇宙から来たものであり、アンディ国が独自に開発したものではない。開発したものなら、それは、従来の宗教であるのだ。その新しい宗教は、文字通り地上には何も残さない。


 Dは、その最後の講演でこう述べていた。
 シュルビス初はもちろん参加した。偶然出会った最初のセミナーから、すでに半年以上が経っていた。そのあいだずっと、彼は、Dという名の男が開催するセミナーに参加し、彼が発信する出版物を購入し、彼を追い続けた。しかし追えば追うほど、彼との距離は縮まらず逆にもっと開いていくかのようだった。走れば走るほど、全力で回り込もうとすればするほど、彼はさらに加速度を増して、遠ざかっていくようであった。それでもあきらめずに、シュルビスは追っていった。
 追う事しかできなかった。こうしている限りは、どこにも行きつくことはないことがわかっていた。だが、追う事をやめたとしても、掴めるものは何もない気がした。結局、何をどうやっても、彼を捉えることなどできやしないのだ。だんだんと、シュルビスはDそのものを、いつのまにか追っていることに気づいた。Dが発信するものではなく、Dそのものを。それが、原因なのではないかと思った。Dが残していったもの、それが肝心なはずなのに。いや、それと完全に同一に違いなかった。ならば、同じことではないか。けれども、違うような気もした。そして違うからこそ、こうしてDそのものを追っていることで、すべてが空回りしているのだ。
 遠ざかっているように感じるのだ。それは、過ちであることを悟らせるかのように、シュルビスの気持ちを落ち込ませていった。さらに、シュルビスの元に残っている、ほとんどなかったが音声であったり、テキストであったり、そうしたものもまた追えば追うほど、掴みたがっているものからは、遠ざかっていくようだった。
 そうして、無意味な行動をとり続けことで、逆に何が重要なのか思い知らされてくるように感じられた。Dが残していったかのような、錯覚がする無形の、その何かに事の核心はあるのだ。その錯覚の中に真実があるのだ。目に見えない、無形の何かこそが、自分の求めている何ものかなのだ。
 シュルビスに、Dの最後の講演の情報が入ってきたのは、ちょうどその頃であった。


 これから私は、サンピエトロストーンサークルの制作にとりかかろうと思う。君たちに講義をするのは、これが最後になるだろう。私は君たちと顔を合わせることは、今後なくなる。セミナーという形でも、書籍という形でも、お目にかかることはなくなる。私を無責任だと思わないでほしい。ストーンサークルに全てを込めて、私はこの世界から退出する。それは私の形見であり遺産だ。私はこの世界から退出する。退出が許される。それが私の最後の仕事となるだろう。あるいは最初の仕事であったのかもしれない。そして建設はすでに終えている。いや、最初からそれは、そこにあったのかもしれない。目には見えなかっただけで。そう。そこには確かにあった。世界中にそれはあった。あらゆる空間に、それはあった。どの場所の空気にも含まれていた。ミクロのレベルにまで。ナノレベルにおいても。私が作り出したというのも、ただの便宜上の表現にすぎない。それは、そこにあった。元々あった。たまたま、サンピエトロストーンサークルという名前で、そういった装置として、表現される一形態であると考えてもらいたい。それは世界で唯一の独創的創造物ではない。それはどこにでもある。誰もが常に生きているかぎり、接している物事の在り方だということを、理解してほしいのだ。そのために私は、これまで講義を繰り返してきた。その唯一の目的のために。私がそれを表現したときに、その名前が浮かび上がってくるだけなのだ。
 まず、知ってもらいたいのは、その目だ。君たちの目。その目がこの世界を見る構造こそが、全てを誤らせている。その視覚の構造こそが、あるがままの物事を歪めて、誤解の生を作り出していることに、気づいてほしいのだ。その、物心ついたときから、何の疑いもなく見ている目に映る構造を、無条件に正しいと、そう感じてもらいたくはない。それは間違っているのだから。だが、そんなことを言っても、何も始まりはしない。あるがままの、あるべき構造にならなければ、何を考えても、どう変化させようとしても、さらなる混乱と矛盾の苦しみの世界が、より複雑になっていく以外に、道はないだろう。道は大いに踏み外すべきだが、その行きつく先では、反転が待っている。唯一可能な、あるべき道への回帰は、そうした誤ちが、究極まで進んでいった結果としてしか、起こりようがない。生半可な踏み外しでは、何の効果もない。そう、人間の歴史というのは、その進化においては、どれほど道を踏み外していくかにかかっているともいえる。その境地における反転。全てが完全に誤りであったことを自覚する、その瞬間こそが、あるべき始まりへと回帰できる、唯一の機会であるかもしれないのだ。ならば、私の役目とは、何なのだろう。それは、人々を、過ちの境地へと導いていくことなのか。おそらくそうなのだろう。それも生半可ではない。引きかえすことさえ不可能な、闇の底にまで人々を導いていくこと以外に、私の存在意義とは一体なんなのだろう。
 サンピエトロストーンサークルに、話を戻そう。
 君たちの視界が放つ、その構造が、間違っているのだと、私は言う。
 あるべき形が、すべての始まりにあったのだと、私は言う。
 そのあいだにある、サンピエトロストーンサークル。
 その三つの位置関係を、まずはきちんと、把握してほしいと思う。
 スライドをしっかりと見てほしい。位置関係というのが、今の君たちにとっては、最も分かりやすい、伝えやすい、理解しやすい、とっかかりやすい、そういうものとして便宜的に使用していることを理解してほしい。これはただの方便であり、ただの矯正のための、道具であるということを、理解してほしい。
 あいだに、サンピエトロストーンサークルが入ることで、何かが起きる。
 あるいは、何かを起こそうとしている。そう、考えてくれたらいい。ある種、私は、外科手術を施す役割があるのだから。毒に犯された身体には、別の正しい毒を、宛がうことでしか、最初のあるべき形に戻すことはできない。だから、サンピエトロストーンサークルそのものが、清廉潔白で神聖で、美しくて、正しいものであると、受け取ってはいけない。それは、邪悪な牙にまみれた、この世に決して存在してはいけないものなのかもしれない。決して、この世に残しておいては、いけないものであるかもしれないということを、きちんと認識してほしいということだ。
 さて、その広場のことに、話を移そう。
 その広場は、ただの空間があるだけの、何の特徴もない場所なのだが、そこに足を踏み入れた人間には、その異変はすぐに、感じとれることだろう。これまでの、君たちが見ていた視線が構築した視界の世界は、揺らぎ、揺さぶられる。君と君が見ている世界の対象物という、二点間が奏でる世界は、ほんのわずかだが、揺れ続ける。震え続ける。何故だか、わかるだろうか。その広場には、レーザー光線が、絶えず降り注いでいるからだ。あらゆる角度から、その広場を照射している。広場全体に、同じ濃度の、同じ角度からの、レーザーが精密に照射されているからだ。一種の、特殊な場が出来上がっているのだ。それが、答えだ。それが、私の最後の置き土産だ。最後は、君たち一人一人が、体験しなければ何も仕上がりはしない。こんな講義では、何の効果も生み出せない。これは、前段階。事前準備にすぎない。長い、事前準備にすぎない。そして、それもまた抜かしてしまうわけにはいかない。すべて物事は、順序で成り立っているのだから。この物質世界においては。何かをすっ飛ばしたり、入れ替えたり、それだけで、結果は意図したものと大きく異なってしまう。レーザーの中身については何も語れはしない。体験する以外に、何も意味はなさない。最後は、どのような意味合いにおいても、人体実験以外に、人間を本当の意味で変化させられることはない。ある種、人間というのは、人体実験の歴史であったともいえる。そしてその実験は、失敗に失敗を重ね、行き着くところまで行く。自然に任せても、それはある程度のところまではいく。人間というのは本来、堕落していく本能を持っているからだ。だが急激に進めていくことはない。人間はそれでも、自らを清廉潔白だと思ってないにしろ、ある程度の言い訳を、常に必要としていた。堕落の道を間違いなく進んでいたとしても、あからさまに露骨に表現することは決してないのだ。私のような人間が、その最後の一押しをしなければならない。そしてその装置こそが、サンピエトロストーンサークル。私における最高傑作。そのレーザーを浴びた人間、浴び続ける人間は、次第に、その視覚構造を変化させていくことだろう。ゆっくりとゆっくりと、浸透していき、そしてある時を境に、その構造は一変されることだろう。
 君たちはここでもまた、入った瞬間に、その場に入った瞬間に、それは起こらないのかとそう抗議してくることが考えられる。
 いくら急激に事を起こすといっても、それはあんまりだ。君たちは、人間の長い歴史というものを、全く考慮にいれていない!その長い歴史における最後の瞬間。大きな目線で見たときの、『一瞬』というものなのだ。実際に、地上で、そこに立ち合う人間にとっては、その感じ方はまるで違う。何を今、ここで語ろうとも、事は始まらない。そのサークルが、君たちの眼前に現れることを祈っている。それは誰に対しても、平等に開かれたものではないのだから。誰もが発見できる、共有の場所ではないのだから。しかし人間は必ず、この最後の門へと辿りつく。門の方がやってくる。どちらでもいい。必ず遭遇する運命にある。最後の人体実験は、無条件で執り行われる。視覚構造が揺らぎ始め、視界は変わる。君たちは、新しい目を獲得する。その目は、君たちの体に張り付いたその目ではない。その身体とは、まったく乖離した、別の目なのだ。その祈りの広場で、また会おう。そこでの再会を、私は楽しみにしてる。ここで解散。今までどうもありがとう。


 シュルビス初は、その広場、サンピエトロストーンサークルが、まさに同じ名前で自らの生活圏内に現れるとは思わなかった。
 しかも、アンディに関連したその場所で。自分がほんの少し前には、ギャンブルのために通ったその敷地内で。しかし今、敷地は広大になっていた。あの巨大建造物のグリフェニクス本社はそのままに、グリフェニクス社とアンディの家を加えたその間の地区も、すべて買い取り、美術館と博物館、大聖堂に礼拝堂、公園、庭園を加えた『国』と自称した敷地を、彼は所有するようになっていた。そしてその入り口の門から通過した、すぐそこに、その広場はあるのだという。
 私有地であり、許可なく入ることは許されなかった。しかしそれも国として、その存在が正式に認められた時には、通行証なく、一般にも公開され、誰もが出入国が可能な状態に、すぐになるのだという。その全面工事が始まったときから、シュルビスは、グリフェニクス本社への入場が禁じられた。カジノは閉鎖され、それに伴ったホテル機能もまた停止された。スペースクラフトバイブルやキュービックシリーズのテクノロジー事業は、継続されていたものの、カジノを中心とした娯楽産業は、何故か廃止が決まり、シュルビスが嵌りに嵌ったゲーム、ムーンもまた中止が決定し、アンディとの個人的な連絡も、今は全くとれなくなってしまった。つまりは、アンディの会社に対するギャンブルによる借金もまたチャラになったということだった。このギャンブル生活の終りには、ずいぶんと不思議なことも起きた。だが今となっては、その全貌は全くわかりようがないし、記憶もまた薄れてきていた。自分にはもう、ムーンは必要なかったし、グリフェニクス本社への入場が不可能になったことにも、何の感慨もわかなかったのだが、アンディ・リーの世の中へのその動きに対しては、何故かいつも、敏感な自分がいた。アンディとの関係は途切れてしまい、しかもセミナーを通じての、Dとの関係も、これで消えてしまった。彼はセミナーの終了を宣言し、そして存在を消してしまった。もう二度と会うこともないだろう。現れては消えていくその特異な人間たちを、シュルビスはやはり、何の感慨もなく見つめていた。誰かにとっての、この自分もまたそうなのだろう。醒めたその目線は、日を追うごとに益々色濃くなっていった。Dが最後に語っていた、ストーンサークルのことが気になり続けただけだ。所詮、人間とは、その消えゆく個人の存在よりも、残していく遺産の方が、存在感が増してくるのだろう。そして、その遺産すら、時の推移には勝てずに、跡形もなく消えてゆくのだろう。だが今は、その遺産の方は、確実に現れようとしている。それが、アンディ側に出現するとは思ってもみなかった。アンディのその馬鹿げた王国の、その敷地のしかも、ど真ん中に現れ出るとは・・・。Dとアンディが共に謀ったかのごとく、このタイミングで何故。我々の知らないところで、いや誰も知らないところで、あの二人は確実に繋がっている。繋がっていたのだ。ということは。シュルビスは、このDの消失もまた、ポーズなのではないか。彼はどこにも消えてはいない。そもそも、表舞台にすら出ていない男だ。彼はアンディと共に歩んでいる。そして、彼の元に完全に身を潜めた。何か重大な犯罪事が始まるのだろうか。その罪を一身にかぶり、その姿は、アンディ王国という馬鹿げた国の中に、匿うという形で閉ざす。アンディ王国というのが、その重大な犯罪者を封じ込める、隠れ蓑のような気がしてくるのだった。そのために、そのためだけに、こんなにも大がかりな装置を作ったかのように。そしてDもまた、そのことを承知でむしろ最大のメリットがあることを自覚して、アンディに協力する。逆なのかもしれない。アンディの方が、乗ってきたのかもしれない。どちらにしろ、グルであることには、変わりはない。
 噂では、アンディは、宗教に目覚め、独立した宗教国家を樹立しようとしているのだと聞いている。宗教が中心にある、ほとんどそれだけが中心にある、それでいて、従来の宗教のように信仰もなく、教祖もなく、権威の組織もなく、信者もなく、若干の芸術作品。芸術産業くらいはあるだけで。さらに、その芸術に対しては、今後さらなる展開があるかもしれないと、基幹産業となる可能性を、匂わせてはいるが、永続的になる可能性は、低く、ある種の、ある時期における、特殊で瞬間的な起爆剤としてのものになることを、密かに宣言していた。そして資金源となる、これまでのテクノロジー事業は、継続、発展させていくことは、確実に約束している。
 シュルビスは、ない頭で、その全体像と、深淵にある広がりを、想像してみようとした。
 だが、そうやって深みにはまっていくことは、誰かの思うつぼなのではないかと、妙に穿ってしまった。だが、とにかく、ストーンサークルだけは、意識から外すことはできない。それだけが、日々の中で、存在を色濃くしていくのだ。しかもサンピエトロだなんて。カトリックの総本山として、キリスト教の歴史における、その頂点に君臨するその場所。その名前を、そっくりと使うなど、いい度胸だった。そして、それに飽き足らず、ストーンサークルという言葉と、くっつけてしまっている。相容れない二つの世界を、くっつけてしまっているのだ。宗教、それと、一体何をくっつけているというか。テクノロジー事業者であるアンディとか?ということは、Dが宗教側であって、その合体を意味した、サンピエトロストーンサークルなのだろうか?しかし、ストーンサークルは、テクノロジーだっただろうか。いや、古代においては、そうだったのかもしれない。古代宗教におけるそれは、最先端のテクノロジーそのものだったのかもしれない。ドルドイ教の祈りの場として、しかも、その巨石を組み合わせたサークルは、天体観測場として、宇宙の動きを、この地上において反射投影した、テクノロジーと宗教が高度に融合した、地上でも稀に見る、場所として存在していた。そしてここアンディ王国で、繰り返される。古代の儀式が、ここで蘇ろうとしているのだろうか。ということは、アンディの会社のテクノロジー事業というのは元々、宇宙を目指した、宇宙を対象とした、宇宙を反映した、そうした遥か遠くの場所と、この地上との回路を結ぶための、そうしたビジョンだったのだろうか。何もわからない。シュルビスには何もわからなかった。だが、ここには確実で明確にして、単純な柱が、存在しているようであった。それがわからないからこそ、意識は混乱し、理解は不能となり、複雑怪奇なグロテスクさを、自らの中に溢れさせていくのだ。
 とにかく今はストーンサークルの出現にしか、手掛かりはなかった。
 それが存在する時を待つしかなかった。
 そこに降り立ち、体感するときにしか答えはないのだ。
 シュルビス初は沈黙した。


「これが、最後の開発になるよ」とゴルドは、グリフェニクス内研究所で、一人呟いた。
 机の上にはかつての同僚であり、親友である原岡帰還の写真があった。
 彼は研究員で大学からの同級生だった。一心不乱に研究に打ち込み、そしてある日突然、彼の生命スイッチはばっさりと切られてしまった。
 急性心不全で亡くなってしまったのだ。ゴルドと深く関わった、坂崎エルマという女性もまた、今は意識のない植物状態で、時を刻んでいた。グリフェニクスの地下室に、今は半年にも及ぶ入院状態から、その冬眠場所を移されている。坂崎に生体反応はあったが、ほとんど絶望的な状態だと、医学は宣告した。あとは万に一つ、ご家族が親しい間柄の人間が、日々身の周りの世話をすることで蘇生するという、儚い願いしか残されていないということだった。
 そのように、身の周りで起こる死に、ゴルドは無頓着ではいられなかった。
 何故こうも、自分に親しい人間から消えていくのだろう。関わりはあっても、それほど深くはない人間は、まるで無傷だ。まるで自分が殺しているようだった。彼らの芳醇な生命力を、この自分が巨大な障害物としてあいだに据え置かれているような。彼らのあるべき生命体の循環に、何らからの障害を、自分が与えているかのような。ゴルドはアンディ・リーとも、仕事上、強力なタッグを組んでいたものの、どこか心は閉ざしたままだった。彼とは距離を置かなければ駄目だと思ったのだ。彼の危険性には最初から気づいていた。だが今は仕方がない。今は組まなければ自分が消滅してしまう。原岡のためにも、ここで。自らの研究を滞らせてしまっては駄目だ。そして原岡の研究もまた、俺が世に出してあげなければならない、そんな使命にも燃えていた。
 アンディが絶好のパートナーだった。タイミングもまた絶好だった。互いが引き合うことが運命づけられていたかのようだっだ。原岡とエルマに対して、ゴルドは懺悔を伝えるかのごとく、これが最後の研究開発になるかもしれないと彼は呟いたのだ。
 ドクターゴルドは、自らの肉体を、最後に研究材料として選んだ。
 自分は、どこかこれまで、そのときそのときで、最も身近にいた、最も心を通じ合わせていた人間を、実は実験台に使ってしまっていたのかもしれないと考えるようになった。無意識に、彼らを利用していたのではないだろうか。自分の研究は全て、人間の意識に働きかける装置の開発であった。実在する人間を相手に、どこか、実験をしたいという願望を、心の内に秘めていた。そしてそれは、自分でもあからさまに認めたいことではなかった。さらには人を通じてしか、最終的にはテクノロジーは完成を見ないことを知っていた。ゴルドは巧妙に、自らが加担することを避け続けた。自分の意識を危険にさらしてまで、することではないと思った。それに開発者はこの自分なのだ。自分が危険にさらされてどうするのだ?そして究極、死んでしまえば、一体誰がその最終的な仕上げをしてくれるのだろう。そういった言い訳を、ゴルドは常に自らに持っていた。自分だけは安全なところに身を置いていないといけない。それは絶対条件なのだ。ずっと見て見ぬふりをしていた矛盾の亀裂が、大事な人の死という形で、丸裸に晒されていた。その繰り返しに、ゴルドはいつも居たたまれなくなっていった。
 積もっていく偽善の罪悪感は、最後にはアンディを、道ずれにするという意図的な親交さえ創出しようとしていた。逃げ道をこれでもかと、考え続ける自分にも嫌気がさしていった。だがアンディはそうした動きを察したわけではなかったが、急に他の人間との接触を絶つようになったのだ。自宅に引きこもりがちになり、噂では密かに旅行を続けているということだった。国内にいることが少なくなり、彼は別の何かの道を探っているかのように、自らの方向性も、指し示すことが急激に少なくなっていった。
 ゴルドはそうした犠牲者の最大の対象が、不鮮明にぼやけていくにつれて、誰もいない世界に、一人取り残されてしまったかのように感じていった。周りじゅうが、闇に囲まれ、その闇は、鏡のように、この自分だけを映している。どこを見てもこの自分しかいない。この世には自分しかいないのだ。発狂しそうになった。どこにも意識を飛ばすことができないのだ。誰に転化することも、誰に投影することも、できなくなっているのだ。どうしてこんな状況に、陥ってしまったのか。考えるまでもなく、自明なことだった。これまで積み重なった、他者への犠牲の垂れ流しによる鬱屈が、ここで臨界点を迎えたのだ。
 これは最後になるとゴルドは感じきった。
 今度はのこの自分が対象にならざるをえない。
 そう考えると、エルマも、原岡も、どこか彼らの研究や行為は、最後であることを自覚していたのではないだろうかと思った。自分を対象にの最後は行ったのだ。だからこそ、彼らは失われていったのだ。ということはやはり、自殺だったのだろうか。自らが消えていくことを知っていた。そう働きかけたことを自覚していた。何も知らなかったのは、この自分だと、ゴルドは思った。何一つ、真実など知らなかった。今彼らは自分に語りかけているような気がした。次はお前なのだと。お前も自らを賭けるときが来たのだと。そしてそうしない限りは、お前の最も重要な責務は、果たすことができない。これは終わりのときを迎える歓喜のフィナーレなのだ。誰もが確実にやってくる、その時なのだ。お前は今なのだ。最後は、自分を研究の対象にするがいい。人体実験の唯一の材料と、するがいい。四方八方から、そのような声が聞こえてくるようだった。誰もいない闇の鏡が、ゴルドの心象を拡大して木霊していた。
 この鏡の出現は、もちろん幻想だったが、これが鍵になるとゴルドは確信した。
 この状態を、まずは引き起こす必要があるのだ。世界を、他者を、外側を、見ているこの通常の視界に、この闇に囲まれた四方からの鏡に照らされた状態を、付け加えるのだ。通常の第一層に、二番目の層を、人工的にレーザーで重ねていく。この二重の情況を、誰でも瞬間的に、体験することができるテクノロジーが、何故か必要な気がした。この新しいテクノロジーの開発こそが、キュービックシリーズとスペースクラフトバイブルを次なる進化へともたらす、鍵であるような気がした。これはもしかすると、これまで商品化したものとは違っることはないのかもしれないと彼は思った。自ら単独で華々しく、表舞台て、単独で、世に出には出ていかない。単独ではまるで機能しない。しかしあらゆる物の背後に組み込むことのできる、万能型のテクノロジー。そして、様々なテクノロジーや商品に、その機能が劇的に更新するような働きかけを、もたらすことのできる、普遍性がある。二つの層がは今できている。その相容れない二つの世界は、必然的に、その二つを見つめる三つ目の層を、誘発、創出していく。二つを同時に感じ取る三つ目の次元が、急激に育ってしまうのだ。でなければ、認識はおかしくなってしまう。この三つ目の層は、二つから距離をとるという形で、見下ろすような位置へと、ある種上昇していく。どの方向であっても、それは高さとして測定できる。その乖離状態は、第二の層を次第に強めていくことで、第一の層がますます尖鋭化し、そして二つを同時に見る、第三の層もまた、鋭敏になっていく。乖離は益々増していき、三つの層の状態は、急激に明晰化していく。
 物事の在り方を、変化させたいのだとゴルドは呟く。
 これまでのように、何をするのか、何ができるのかを加えていくことで、地上における優位性を競うような世界には、もううんざりだ。在り方を変えたい。反転させたいのだと、ゴルドは、遺影に向かってそう語りかけた。反転したそこには、何故か、死んだはずの原岡が居て、生死の世界を彷徨っている坂崎エルマが、居るような気がした。そして、そのレーザーは、自分が実験台となって、自らの肉体を提供することでしか、その互換性の中でしか、達成できないことを、ドクターゴルドは生まれたときから、知っていたような気がした。


 DSルネがプログラミングの仕事を辞め、別の事をすることに決めたことを、大口の顧客であったアンディに報告するべく、グリフェニクス本社に来ていた。
「まあ、入れよ」
 ソファーに腰掛けるよう、アンディは指示を出す。
 何故わざわざ、彼が呼び出したのか。DSルネは強力な警戒心と共にやってきていた。アンディは近頃、あまり人と会わなくなっているらしく、自分の会社の人間とも、文書によるやり取りだけに留めているらしかった。
 DSルネは、自ら先に口を開くことはなかった。仕事をやめる意思は固かった。
 アンディはおそらく、説得交渉のためにこうした場を設けたのだろう。警戒心が募っていたのは、何か脅しのようなやり方で、仕事の存続を約束させられることを、恐れていたからだ。
「話は、聞いた」とアンディ。
 ルネは、答えない。
「何か、深いわけありのような、話し方だな。私には別に、話してくれなくて、構わない。言いたくなったら、いつでも、どうぞさ。君に今、緊急に頼む仕事は、実は何もないのだから。だから、今においては、君を仕事に引き留める要素は、何もない。ただし、君との関係は残しておきたいんだ。いつ君が必要になるのかわからない」
 予想された話の展開に、DSルネは辟易としてきた。

「それでだ」アンディは続ける。
「一つ、君の次の仕事に関して、協力できることは、最大限にしたいと思っているのだよ。私も、君に頼む仕事が、次にやってくるまでは、だいぶん時間があると感じている。そのあいだを持て余すのも、実に効率が悪い。金も時間もエネルギーも、遊ばせておくよりは、君の次なる才能に、投資しておいたほうが、遥かに実利的だ」
「次の才能?」
 思わずルネは声を上げてしまった。相手の思う壺だった。
 罠に乗ってしまったと、DSルネは激しく後悔する。
 しかし時間は止まってはくれない。
「そうなんだろ?そうに決まってるじゃないか!これまでの君の才能を、私は高く評価しているんだ。そんな君が、それを投げ捨てて、いや、私に言わせてもらえば、それはただ脇に置いておくだけだが。今はゆっくりと、休ませてあげるだけだ。疲弊は、人生の長丁場においては、致命的な弱点になるからな。回復にはそれ相応の時間がかかる。私にはわかっている。エネルギーの使いどころ。投入の仕方。一気呵成に瞬間瞬間、全霊で入れ込むその時期。そのあとに来る、短くはない休息期間。そのバランス。君のような素晴らしい仕事をする人間に関して、私ほど理解がある人間もまたいない。そして、私もそうした人間の一角を成す同類の人種だ。君が何をしようとしているか。どんな時期であり、どんなエネルギーのバランスを、保つ必要があるのか。よくわかる。君は、そのある種の休息期間に、別の才能に投資しようとしているのだ。空白を持て余すことになり、埋めようと、湧き出てくる君自身における、別の芽の存在を、君は感じ取っているのだ。私も感じ取っている。いいか。君がこれから、目指そうとしていること。私には見当がついている!言っていいのかな。それとも、自分で明言したいか。明言するために、こうしてわざわざ、足を運んでもらったのか。私と約束しようとしているのか。契約にまで、発展しようとしているのか」
 すっかりと、アンディのペースになり、翻弄されている自分がいた。
 DSルネは、こうしてやってきたことに、今さらながら、深く後悔した。
 しかし、逃れられるはずもなかった。一度、アンディと関わってしまったこの人生なのだ。そう簡単に抜け出せないこともわかっていた。逃れられないこの現実を、深く見つめる以外に、逆に逃れる道などないのだとも思った。
 仕方がないとルネは意を決し、今後考えている自分の道をすべて、アンディに話し始めた。
 アンディは口を閉ざし、前のめりに、時に後ろに反り返り、小刻みに頷きながら、ルネの話を傍からサポートしていった。
「つまりは」とアンディは言った。
「脚本家になる、ということだろうか」
「ええ。絵の才能は、まるで、ありませんからね。建築家にもなれない。音楽家にもなれない。造形作家にも。美術的センスもなさそうです」
「消去法なのか?」
「そうとも、言えませんけど」
「で、書いた戯曲などは、どうするんだ?」
「まだ、そこまでは」
「そこまで、考えるんだ」
「今ですか?」
「落としどころまで、決めてしまう。今、私となら。実は、新しい事業を立ち上げようとしている。今、会社という領域から、国を創造しようという別の次元へ、仕事を移行させようとしている。極秘に土地を買い集め、広大な敷地に本社、宮殿、美術館、大聖堂を配置した、一つの独立国家の創造を目指している。そこに一つ、オペラの劇場を建設する。そこを、君の発表の場にしたらいい。どうだろう。君は、そこで上映するオペラを書く作家になる」
「オペラですか?」
「いや、何も、ジャンルを気にする必要はない。自由に書いてくれてかまわない。人の作るものというのは、何だって、オペラになるものさ。これまでにない傾向を帯びていたとしたら、新しいジャンルとして、華々しく表現していったらいいしな。そのあいだ、君は、劇作家として、活動していったらいい。プログラマーは休止だ。それは、いつかまた、復活の時が必ず来る。そのときも、すぐに、移行できるよう体制を、同時に作っておいたらいいだろう。そのすべてに、私は協力できると考えている。いや、私にしか、それは不可能だ」
 アンディが何を考え、次なる展開に入ろうとしているのか、まるでわからなかったが、自分に関して言われていることに対しては、何の異論もなく、受け入れられることのような気がした。
 だが、ルネは、即答するのも癪だったので、その場で全面的に受け入れることだけは拒絶した。アンディはゆっくり考えたらいいさと、無理強いしてくることはなかった。
「君の考えてることは、何となくわかるよ」
 アンディは、遠くの誰かに語りかけるように話した。
「これまでの、プログラマーとしてのキャリアは、実は途切れてはいない。それは繋がっている。ある種の転用なのさ。君が、プログラミングで得たその構造を、別の何かに転用して、つまりは表現活動だな。そこに運用して、違うジャンルで、構造物をつくろうってことだ。だからさっき、建築家だの、画家だの、音楽家だのが、引き合いに出されたのだ。つまりは、言葉は悪いが、表現手段は、何だっていいということだ。しかし、表現したい衝動が、君の内側では、確実に起こったということだ。その、出所に悩み、奔走せずにはいられなくなった。外に放出するための道筋をつけることが急務になった。ちょうど仕事には疲れ始め、行き詰まりが起こっていた頃だ。転職には絶好のタイミングだった」
「何でも、お見通しなんですね」
 ルネは、そう言うしかなかった。
「女のこと、以外はな」
「女性ですか?」
「そう。まさに、女の心情はよくわからん。つまりは、文学やら芸術やらにおける、心象の動きというか、そういうものには、かなり疎い自分がいる。芸術系じゃないんだ。だから、かもしれない。そういったものを見て見たい。知りたいと思うようになった。それなら、才能のある奴を援護して、その本物の心象とやらを、開陳させて、目の前に出現させたい。圧倒されたいって、思うようになった。そう、圧倒されたいんだ、私はね。芸術にね。こんなことは、今までなかったことだよ。君にも、その一角を、担ってもらいたいんだ。君だけじゃなく、優秀な天才かもしれない、それらの人間に、莫大な量の質の高い作品を制作させて、この世界に勃興させてほしいのだ。ある種、これは、巨大建造物といって構わない。私は物理的な建造物に関しては、思いのままに建てることができる。だが、心象分野におけるそれには、全く向いていない。芽のある人間に投資して、全霊なる支援によって、無数の華が咲いてくれることを、望んでいる。そのための投資は、厭わない。これまで稼いだ資産のすべてを、注ぎ込んだとしたって構わない。ただし、その心象世界に関して、私は疎いかもしれないが、君と同様、骨格に関しては非常にうるさい。君がこれまで培ってきたプログラムによる抽象世界の構築については、理解しているつもりだ。その転用に関しても、完全に把握できている。それは、ある種、層の重ね合いなのだ。そうだろ?別の異なった次元による、異なった方向による合体なのだ。いや、合体は、本当のところ、してはいない。そんなことは不可能だ。相容れない別の次元を、組み合わせてこそ、混ざり合わない合体の強行こそが、肝なのだ。そう、それは、人工物の究極。そうでなければ、意味はない。人工物の究極でしか、人工物を超えていくことはできないのだから。テクノロジーは、まさにそうだ。そして、芸術もまたそうなのだ。それだけはわかる。中身に関しては疎い。すまない。女心の一つもわからない男だ。たくさんの違った性質の女性を、いくら並べてみても、いくら同時に付き合ってみても、私には理解が深まったようには思えない。そう思えば思う程、私には、亡くなったある女性のことだけが思い出されてくる。そう。私はかつて結婚していたのだよ。そして、新婚生活がスタートしたその矢先に、その彼女は急死してしまった」
 突然の告白に、ルネはどう答えていいのか、わからなかった。
 何事もなかったかのように、アンディは話を本筋へと戻した。
「一つの言葉、次なる言葉。一文。次なる文。あるメロディ。別のまたメロディ。登場人物と登場人物。さらには、作品と、また別の、作品。一作家の作品群の全貌。また、別の作家の全貌。同士。相容れない、決して、混ざり合わないもの同士の共存。同じ時空における、同化のない重なり。そういうことなのさ。君のやりたいことは。いつだって同じなのさ。これまでと同じ。これからも。ただその主題が、外からの依頼によるプロジェクトなのか。君自身を、媒体として出現する、表現活動であるのか。その違いがあるだけだ。構造は全くの同じなのだ!そして君は、その構造に、両方の仕事を通過させることで、極まっていく。磨き上がっていくのだ。そして、その終わりのとき。最期を迎えるときが、必ずやってくる」
 ルネは、アンディの演説の内側に、いつのまにか、すっぽりと入り込んでしまっていた。
 気づいたときには、もう引き返すことのできない、まさに、アンディ王国の一角になっていた。
 アンディが、次の段階に歩を進めていたことが、この自分にも、何らかの重大な変異を、ずいぶんと前からもたらしていたかもしれないと、ルネは身震いをしないではいられなかった。自分の運命とアンディが、非常に近いところに感じられた。


 アンディは自らの退場と引き換えに、君に会わせたい人がいると、ルネに伝え、ルネは言われたとおりに、グリフェニクス本社内の別の階の部屋へと、案内された。
 アンディは、いつのまにか消えていたが、部屋にはその会わせたい人物が、すでに待機していた。
 ルネは、その男の風貌に驚いた。痩せ形だったが、筋肉の程よくついた、髪の長めの若い男だった。その顔には、光喜が彩り、深い眼差しが、ルネの居住まいを真っ直ぐに貫いていた。だがよく見ていると、男はそれほど若くはないのかもしれなかった。ただ印象としては、若々しかった。清々しいというか、その透明感は、見張るものがあった。
 やはり、見れば見る程、その年齢は混沌とした渦の中に吸い込まれていくようだった。その深い眼差しには、単純な明るさとは違う、闇を通過してきたような、浄化の煌めきもまたあった。
 男は立ち上がり、右手を差し出してきた。ルネも右手を差し出し、握手を交わした。
 どちらからも、言葉が発せられることはなく、二人は向かい合い、ソファーに着席した。
 向こうも向こうで、この状況を理解していないのだろう。アンディは仲介の言葉を何ら残すことなく、消えていた。アンディが二人の男をただ、脈絡もなく引き合わせたかっただけのようで、その場に置かれた二人の男は、しばらくは凍りついたように無音の中で探りあっていた。
 ルネの方が先にこの沈黙に耐えられなくなった。
「DSルネと申します。アンディ・リーは、うちの大口の顧客で、彼とはたくさんの仕事をしてまいりました。今後も、彼とは継続して、関係を保っていきます。ただし、僕に関しては、少し職種が変わる予定です。今日は、その話をしにきました。先ほどまでしてきました」
 ルネは、男の吸い込まれそうな目を見ながら言った。年下のようには見えるが、本当のところはわからない。大きなその瞳には変わらず深い影が克服されていて、その年輪を感じずにはいられなかった。
 この男はある意味、若返っているのではないか。若返ってきているのではないかと、ルネは思ってしまった。
「スギサキです」と男は言った。「ケイロ・スギサキ。画家です。アンディさんとは、絵を通じて。僕の絵をすべて、買い取ったという人物でした。僕が生涯をかけて制作した、作品をすべて、まとめて購入なさったそうです。僕の絵は・・・」
 そう言いかけて、ケイロ・スギサキと名乗る男はその先を突然躊躇した。
 まるで誰かに、その先は言ってはならないと、口止めされているかのような。
 ケイロは慌てて思い出し、口を噤んだ。そんなふうにも見えた。
 だが、ケイロは、その一瞬の躊躇を、一気に払拭するべく猛烈にしゃべり始めた。
「僕という画家は、少し特殊でして。元々は、世には一枚も出さないそんな画家だったのです。ずいぶんと、昔の話ですけど、ある公募がありましてね。大手の不動産会社や商社、美術界や政府なんかも一体となって、あるプロジェクトがあったんです。一人の画家を発掘して、彼が生涯かけて制作した作品のすべてを、一つの美術館に所蔵しようという計画です。だから、僕が制作する作品は、その美術館の外には出ていかない。もちろん、それは巨大な美術館でした。美術館そのものが、建設されるのもまた、かなりの年月を要したようです。僕はそのあいだもただ描き続けた。そのあいだ、時間は素早く過ぎ去っていきます。時代はどんどんと変遷していった。潮流もまた、変化に変化が、加わっていった。文明は急速に変化していった。僕だけが、周囲から取り残されたように、すべてはあるべき道筋で進んでいった。どれほどの完成品が、溜まっていったのか、僕にはわかりようがなかった。そもそも、一つ一つの絵は、それぞれが完成品だと感じたことがないのだから。生涯をかけて、僕は全集を描いていくのが、目的だった。そういう意図で、公募もされていた。そこが一致していた。そこだけが一致していた。その他の全ては、常に乖離していた。何も、嚙み合ってはいなかった。僕はずっと、誰とも分かり合えなかったし、どんな時代の情況とも、整合することはなかった。ただ、すべてを描き終えたときに、乖離していたすべての事象が、一つに集約される。終結すると。そこだけが一致すると思っていた。僕は、その瞬間こそが、一つの作品を描き終えるということだと思っていた。その感覚だけが、取り残された僕を、唯一、前へと進ませる原動力となるはずだった。僕はただ描き続けた。外を見る余裕などなかった。僕は自分の心に浮かぶ事柄を、すべて絵にして、昇華させないといけなかった。いつかは、終わりが来るだろう。しかしそれは予想を遥かに超えていた。僕には吐きださなくてはならない絵画の題材が、膨大に蠢いていた。書く材料に困ることなんてありえなかった。僕にとっては、それは、喜ばしいことには思えなかった。終わりが、いつになっても見えない事だったから。しかしある時、僕は思った。何年、いや、何十年が経過していただろう。僕には感じられた。終わりはそう遠くないところにある。初めてのことだった。終わりのない旅であり続ける雰囲気すら、あったのだから。しかし、その行為には、確実に終わりがあるのだと感じられた、最初の瞬間だった。もちろん感じたからといって、すぐに終わりが来るはずもない。終わりへのプロセスが、見えるわけでもない。残りの道筋が見えたわけでもない。何も変わらなかった。それまでとは何も変わらなかった。そして再び、膨大な時が過ぎていき、その時の重みそのものが、制作する絵画と重なりあっていった。僕にはマネージメントがしっかりとついていた。出来上がった絵は、速やかに所蔵の準備へと移っていった。丁寧に保存され、そして出来上がる美術館における、その配置に関しても、僕の知らないところで、確実に進行していった。僕の作品がすべて出そろう時に向かって、美術館もまた、完成に向けて、突き進んでいっているように感じられた。つまりは、僕という人間は制作が終わらない限りは、その絵は日の目を見ることがない。僕という人間の制作が完全に滞り、終えることでしか、つまりは僕という人間が、この世においては用済みになり、この世から去るときになって初めて、それと入れ替わるように、絵画に生命が灯り、美術館を彩り、そして人々はそこを訪れるようになる。時にその絵画は、別の展覧会のために外に出ていき、旅路を始める。長い放浪の末に、再び元へと戻ってくる」
 自分は、何の話をしているのだろうと、ケイロ・スギサキは我に返った。
 しかし、一度噴出したものは、止めようがなかった。
「僕には、確かに終わりがきた。正確に何年、何十年、いや、何百年と経ってしまっているようにさえ、感じられた。本当に、正確な時間はわからない。つまりは、僕は自分が何歳であるのかがわからない。どう思いますか?あなたにはどう感じられますか?僕が。おそらくアンディ・リーは、そのことの答えを、あなたが提供してくれると感じているに違いない。つまりは、あなたは、正確な鏡というわけだ。僕の質問を正確に反射してくれる、鏡というわけだ」
 鏡という言葉に、反応している自分がいた。ルネはそう感じた。
「僕は描き終えた。ある種、終わりが来たことに、僕は驚きさえ感じた。確かに来ることは途中から感じられた。もう遠くはないことも。そしてだんだんと、急激に短縮されていっていることにも。けれどもそれは、コンマ何秒においても、終わりはずっと、引き伸ばされるものだと思っていた。僅かなところで、それは延命を繰り返し、僕は永遠に絵画の中に閉ざされ、不死の存在へとなっていくのではないか。しかし、そんな幻想は、無残にも叩き壊されました。最初は、終わりがずっと見えないことに怯え、途中からは終わりがあることを自覚し、逆に引き延ばされていると、都合よく解釈し、そしてすべては完成され、美術館も完成され、僕は最後の一枚の仕上がりと共に、この命は潰えていった。僕のいない世界では、僕が書いた絵だけが、無数に舞い狂っている。そうなった。そうなるはずだった。ところが」
 ケイロ・スギサキは、何故かここで、たっぷりと間合いを取った。
「アンディ・リーの登場が、すべてを一変させた。彼は、僕の絵画すべてを買い取ったのです。そんなことができるのか。一体どんなルートを使って?しかし僕には何もわからなかった。始まりはすでに、遥か昔に遠ざかってしまっている。僕はそう、あのときの公募に応募した状況を、誰にも言うことができなかった。もう関係者は、すべてが死んでいたのだから。引き継いだ組織は、どこにもないようだった。僕が制作していたその長い期間の間に、年号は何度変わったことか。継続性のない時間の中、存在しないプロジェクトのために、僕は、この地上において、居場所が失われてしまっていたのです。僕の絵は、どこでどのように、管理されていたのかわかりません。そこだけは、引き継がれていたのでしょうか。僕はこれまで、どの地上で泳いでいたのでしょうか。僕は何歳なのでしょうか。あなたに訊いているのですよ。あなたが答えるべきなのですよ。あなたが答えを持っている。アンディには、そう言われているようなものだ。あなたが全てを説明してくれると。アンディは、あなたにそれを託したのですよ。あなたは逃げられない。あなたが僕に纏わるすべての情報を持っている。そして、僕は画家ではなくなった。僕に描ける絵など、もう何もない。天が絶筆を宣告してから、どれだけ時間は経ったのだろうか。それすら、感覚がわからなくなっている。今も、あなたが、この部屋に入ってきてから、どれほどの時が経過しているのか、まるで感じられなくなってしまっている。僕は、時の世界の住人ではなくなっている。僕はどこにいるのですか?こうしてあなたと、対面できているということは、あなたもまた時の住人ではないということですか。あなたもまた、乖離してしまったのですか。ずっと?これからも?それとも、何かの間違いで、今だけ?」
 確かにと、DSルネは心の中で呟いた。ここはどこなのだろう。この男は誰なのだろう。この邂逅は、いったい何なのだろう。アンディの意図は。そして展開とは。不穏だった。実に不穏だった。
 そういえば、アンディが、自ら創造する国において、その敷地内に美術館があることを示唆していたことを思い出した。そうだ。あそこが、この男の絵が、展示される場所なのだ。さらには、その付近には、これから書くことになる自らの脚本が提示する舞台が、上演されるオペラ座まである。共通点がありすぎた。だが、決定的に違うそれにも、ルネはすぐに気がついた。目の前の男は、すでに絶筆していたのだ。仕事はすべて終えているのだと彼は語った。すでに、この世における存在理由を失くしているはずなのに、存在している。しかも、その見た目は、何なのだ?俺よりも若く見える!何か交わってはいけないものが、共存しているような居心地の悪さが続いていた。


 ルネは一度自宅に帰り、そのあとで関根ミランに電話をかけた。
 関根は、料理屋の『加穂留』を、会う場所に指定してきた。すぐに向かうと、関根はカウンターに一人で座っていた。開店前らしく、女将の姿は見当たらない。店の奥で仕込み中なのかもしれなかった。
 関根は立ち上がり、テーブル席の方へと移動した。
 DSルネは、関根の真向いに座った。
 長い沈黙の後で、関根はルネの顔を睨むように見つめた。関根は目を逸らすことなく、長い間ルネの深奥に、ゆっくりと入り込んでいくかのように、静止を続けた。
 ルネは、その沈黙に耐えた。
「いいわ。許してあげる」
 彼女はそう言った。ルネは黙り続けた。
「どういうつもりなのか、知らないけれど。どうして別れた女をまた呼び出したのかしら。会社も勝手にやめちゃって。連絡がつかなくなって、大騒ぎしてたのよ。私も質問攻め。居場所を何か知ってるんじゃないかって。事情を何か、知ってるんじゃないかって。捜索願いが、警察に出される寸前までいった。それは何とか私が阻止したけど」
「どうして、そこまでして、俺を庇った?」
「付き合ってたからよ。恋人だからよ。捨てられたけど」
「俺は、捨てた覚えなどない」
「じゃあ、何なのよ。何でまた、呼び出すのよ」
「仕事を頼みたいんだ」とルネは答えた。
「仕事?」
「俺は、もうその会社の一員ではない。外部の者として、君の会社に、調査を依頼したいんだ。君を指名している。極秘にやってほしい」
「どこまで、私を利用すれば、気が済むの」
「頼れる人が、他にいない」
「私が、何をするの」
「ケイロ・スギサキって、男が居てね。画家なんだそうだが、俺は初耳だ。その男について、洗いざらい情報が欲しい」
「あなた、今、何をやってるの?何の仕事をしてるのよ。引き抜かれたの?それとも、単独で?私しか頼れないって、どういうことなのよ。誰かに追われてるの?匿ってほしいの?」
 ルネは、何も答えなかった。
 だが、一言付け加えなくては、事は前に進まないことを察知したのか、しぶしぶ語り始めた。
「転職したんだ」
「えっ」
「もう、前のような、仕事はしない」
「プログラマーじゃなくなった」
「ああ。まったく、違う分野にね」
「教えてくれないの?」
「脚本家だよ。オペラの」
「オペラ!」
「かどうかは、まだ分からないが。とにかく、舞台芸術の」
「まさか」
「正式にそうなったわけじゃない。それを目指して、準備していこうとしている」
「えっ?そんな。まさか、どういうこと?前から、そう思っていたってこと?信じられない。そっちの系の、片鱗すらなかったわよ」
「その準備を、始めようとしているのだが、そこで出会った、一人の男がいた」
「それが、その」
「ケイロ・スギサキだ」
「ああ」
「聞いたことは?」
「ないわね」
「すぐに、調べられる?」
「簡単なところは」
 関根ミランは、テーブルにコンピューターを置き、電源を入れ、素早くセッティングを完了させた。
 機械を操作し、膨大なデータの海の中に、その手を挿入していった。
「ケイロ・スギサキ。画家。享年37歳」
「なんだって!」
「ちょっと、声が大きいわよ」
「享年って」
「2018年」
「32年前じゃないか!」
「どうしたのよ。落ち着いてよ。俺は昨日、会ったんだぞ!」
「これが、写真。当時の」
 コンピュータを反転させ、ルネの方に向ける。
「確かにこれだ。この男だ。間違いない」
「死ぬ三年くらい前に、撮られたものね」
「昨日、会ったんだぞ」
 ルネの言葉は無視して、関根はさらなる深海へと、その身を沈ませていった。
「生涯制作点数は、二万点」
「二万」
「小品も、すべていれると。大作もいくつかある。ただし、彼は全く有名ではない。美術の世界でも、名前は全く刻まれていない。世の中には全く流通していない。全作品がセットで個々に剥がされることなく、一体化している。それが、市場に出回らない理由ね。バラ売りの禁止。売買も元々は認められていなかったけれど、作者の死後三十年を経て、それは可能になったらしい。一度、売買の痕跡はある。誰と、誰の、売買?って、今思ったわね、あなた。彼には生前から、エージェントがついていた。エージェントが完成した作品の保存、管理をきちんとしていた。死後もずっと。そして二年前に売った。富豪の実業家に」
「アンディだよ」
「えっ?アンディって、アンディ・リー?」
「あいつから、直接、聞いた」
「アンディと、つるんでるの?あなた」
「いいや」
「で、その、実業家が、一括で全作品を手に入れた。確かにアンディだとしたら、可能よね。スペースクラフトバイブルの利益だけでも、相当な」
「ほとんど、全額投資したって話だ」
「そんなに、値段がするの?」
「そういう、情報は?」
「まだ、今の時点では、把握できない」
「それで、その、これまで管理していたって、エージェントは誰なの?」
「それも、今はよくわからない。細かく精査しないと、出てはこない領域の話。ただ、その昔、噂では一人のアーティストを生涯作家として見い出して、その人間が紡ぎだした作品のすべてで埋め尽くした巨大美術館を建設するという、計画があったらしい。官民一体で行ったプロジェクトで、当時、停滞していた、いや、ほとんど、存在感をなくして未来の存続が危ぶまれていた芸術の世界と、利害関係で乗ってきた商社や不動産会社、政府までもが関係した、一大事業だったらしく。で、そのアーティストは、公募で選ばれて、華々しく、記者会見まで開いて、お披露目をしたのだけれど、その後何年経っても、経過は発表されず、消息は途絶えてしまった。追跡調査するメディアも、全くなかったってことね。しかし、制作は継続されていた。それから三十年にも渡って。その専属美術館こそが建設はされなかったものの、準備は絶えず進められていた。タイミングをずっと計っていたというような動きは、あったということね。しかし、それも、立ち消え、肝心の作者もまた、37歳の若さで死亡。残った遺産の存在。それが売却された」
「まあいい。その作品群が、本当にあるとして、アンディが本当に手に入れたとして、そして、自らの事業に活用して、あるいは、その絵が表舞台に出てくるとしよう。しかし、その購入に費やした、莫大なお金は、いったいどこにいった?誰にどのような形で、振り込まれた?」
「そこもまた、何とも。あなたは、急な要求をしすぎる」
「あとでいいから、しっかりと教えてほしい」
「そもそも、何で、知る必要があるのよ」
「昨日会った、あの男の正体が知りたい」
「何故」
「実を言うと、アンディが仕向けたことなんだ。ケイロとの会合が、アンディを通じて、セッティングされていた」
「アンディとも、三人で会ったの?」
「二人だ。アンディは、その場には来なかった」
「なるほど」
「アンディに、どんな意図があったのかは、知らん。そして、俺が、こうしてその後に調べ始めることも、わかっていただろうに。アンディは、調査結果を、手に入れたいのか?だとしたら、俺なんかを使わずとも、直接、君の会社と契約を結べばいい。堂々と、公に手にいれられる。それをしたくはなかった。極秘に、非公式に、影で、裏で行いたかった。ということは、絵画の入手の方法も、合法じゃなかった。そして、アンディは、個人的にケイロについて、遡って調査することができなかった。何としても知りたい。だから」
「あなたも、知りたいのね」
「あれは、トリックなのか?ケイロの姿は、トリックだったのか?ヴァーチャルリアリティだったのか?ケイロの風貌を使って、誰かが、つまりはアンディそのものが、俺と会話をしていた。ケイロになりきって」
「知らないわよ」
「何のために」
 とりあえず、関根は、ここでの調査は限界であることを悟り、コンピュータを閉じて、一度だけ宙を見上げ、ゆっくりと目を閉じていった。


 自らの意識の第二層に入っていくため、ドクターゴルドは日夜できるだけ、目を閉じて、その層の在りかを闇の中で探った。
 視界を消すことで、残りの聴覚、触覚、嗅覚に、意識を集中させた。そして、その嗅覚と触覚と聴覚は、次第に一つに混じり合い、自分の肉体の輪郭は融解し、外側とも内側ともつかない微妙な身体性の中へと、統合されていくようだった。
 水ではない、何かの海の中を、漂っているようだった。ふとそれは、感情ではないだろうかとゴルドは思った。感情の海の中を、自分は泳いでいるのではないだろうか。感情そのものの中へと、入っているのではないだろうかと。そして、感情は、自分の内側ではなく、何故か外側にあるような気がした。様々な感情で出来た細胞が、蠢く異様な生命体が、自分の外側に存在して、その中で、ある種この新しい自分に肉体は包まれていた。包まれた中で揺蕩っている。その細胞は、さまざまな感情を生成していて、それはゴルドに色とりどりの照明の存在を、盲目の中で想起させた。ゴルドが向ける意識の方向、角度、エネルギーの僅かな違いによって、反応する細胞が異なっていて、千差万別の反応をとっている。その刻々と変わる、状況の海の中に、揺蕩い続けている。その微細な違いばかりが、目立つ感情は、いったい何によって、生まれ出ているのか。感情の細胞を操作している何の存在があるのだろう。ゴルドは、今、言葉にならない感情の推移の中、その後ろ側、背後にある指示系統の存在のことを思った。その奥には、感情を誘発するための、ある基盤が内臓されている。問題は感情ではないのだと、ゴルドは思った。感情はただの反応を示した、信号にすぎないもので、大事なのは、その背後の基盤、構成なのだ。感情に囚われてはいけない。ゴルドは、心理学者のごとく呟いた。ただし、感情を無視することもまた不適当なことだ。これは乗り物なのだ。ある種、誘発された感情という名の信号には、背後の基盤からの道が出来ている。無数の道が、反応した痕跡として残されている。ある種、何度も似たような道筋を辿れば、太く鮮明になっていくはずだ。細いが、確実に存在する道もある。その無数の道は、血管のごとく、複雑に張り巡らされている。逆に辿っていくのだと、ゴルドは思った。そうすれば、感情でさえ、全く無駄な生成物ではなくなる。それは、重大なヒントになる。辿った先には、配電盤のような基盤があるはずだ。そして、その基盤をある程度把握できれば、どのように、反応としての感情が生成されたのかが、明白になる。そうすれば、いちいち発生する感情に心揺さぶられることもなくなる。ある種、感情は、そこで消滅してしまうのかもしれないと思った。意味のなくなったものは、そこで存在意義を失う。配電盤は変わらず、存在している。しかしそれまでは気づかれることなく、隠れていたものが、白日の下にの晒される。はっきりと、この目で見ることができる。そして、感情が発生すればするほど、明確な道筋が見え、より辿りつく配電盤が、そこには浮き上がって見えてくる。浮き上がれば浮き上がるほど、感情が生まれ出ることにはまるで意味はなくなっていく。減っていき、起こらなくなる。そして、配電盤とは、一体なんなのか。それはおそらくとゴルドは思う。ある種の、それは信念、思い込み、この世界を我流に切り取る、目であるような気がした。偏見といっても、構わなかった。その独特な切り取り方こそが、それに元づいた世界観を生み出し、そして、目の前の現実、現象に対して、好きか嫌いか、心地よいか不快かを引き起こし、つまりは、感情を引き起こしていく。その配電盤とは、考え方、捕らえ方、見え方、何とでも、表現はできそうだった。その人間の、ある種の傾向だった。これまで生きてきた中で、溜めこんだ、積み重なった傾向だった。それは、生まれつき有しているものでもあった。生まれる前から、あるいは、先祖や文化から引き継がれたものでもあった。その配電盤の存在が、明確になる。感情はもう、必要なくなる。感情は、本当のところ、その配電盤の存在を我々に知らせるために存在していたのかもしれなかった。ほら、ここに、こんなものがあるよと。気づけば、その役割は終了する。そして配電盤は、さらなるその奥、つまりは、配電盤を生み出した何かの存在が、その奥で蠢いていることを、暗示している。気配が感じられてくるのだ。何もないところには、何も存在はしない。何らかの因果があるからこそ、そこには存在している。生み出した根本が、遡ったその場所にはある。配電盤は、さらに先にある、本丸の前にある、やはり手掛かりに、すぎないのだ。その配電盤は、何が生み出したものなのか。この、人間個人における、ものの考え方、捉え方、偏狭的で、変調をきたしたこの歪みは、一体、何が原因だったのだろうか。何故、ある人、あるもの、ある事柄に対しては、強烈な好き、が生まれ、執着が生まれ、所有しようとまでするのだろう。その逆もしかりだ。欲しいというその気持ち、それにつきると、ゴルドは思った。それを手にいれたい。自分のものにしたい。その原動力こそが、配電盤を生み出しているのは明白だ。それは欲しくない、別にどうだっていい、あるいは絶対に欲しくない、いらない、排除したい、そう欲するものも、あることを示している。元を辿れば、両者は、同じひとつの現象だ。配電盤という基盤が、あるものを好み、あるものを嫌う傾向を、有しているだけのことだ。ということは、配電盤とは、ある種のものを、欲しいという、概念なのだ。配電盤は、その人間が、何を欲っしているのかを、表現しているのだ。ほとんどそれにすぎない。そして、その欲望の根源へと、遡ること、それが配電盤を明確にして、その奥へと遡る、唯一の道であるように感じられてきた。

 俺はいったい、何をやっているのだろう。ドクターゴルドは、ふと我に返った。
 自分が、何の実験をしようとしていて、何を開発しようとしているのか。一瞬、いや、全体に渡って、何も見えなくなっていることに気づいた。俺は何をしようとしているのか。これまで何をしていたのか。どんな仕事をしてきて、どんな結果を出してきて、世の中に何が残せて、どんな利益を生み出すことができたのか。その全てを、彼はこのとき忘れてしまっていた。その瞬間的な記憶喪失具合は、思ったよりも長引いた。その迷走具合は、ゴルドを今いる場所そのものを、徹底的に、不明瞭にさせていくことに、大きく寄与していた。記憶に限らない存在そのものを喪失していた。自分という、人間の手掛かりを、急激に失ってしまったかのように感じられた。そしてそれが、少しも止むことなく継続していた。長く継続していく予感を孕んでいた。
 そのことが、何よりも、ゴルドを震え上がらせた。本当に忘れているのだ。
 これまで歩んできた道を。自分の資質。仕事のすべてを。どうしたというのだ。
 ゴルドは唖然として、行く末を案じた。何をどうしたら抜け出せるものか。わからなかった。あがけばあがくほど、深みに嵌っていきそうな気配がする。何もしないのが、正しいのかもしれなかった。
 ゴルドは、闇の中、自分にそう言い聞かせた。そのときだった、自分が目を瞑り、心を鎮めていたことに気づいた。そうだった。自分はただ、目を閉じていただけだった。開ければ、すべては元に戻る。そうに違いなかった。ゴルドはゆっくりと、目を開けようとした。そして開けた。そこにはいつもの書斎があった。まだ何も始まってはいないし、何も進んではいない。大丈夫だと自分に言い聞かせた。まだ何も起こってはいない。予感ばかりが闇の中を蠢いている中、やはりゴルドはそうした予感の海の中を、泳いでいるような、揺蕩っているような気がした。
 第二層という言葉が、何故か浮かんできた。
 第二層を隈なく見抜くこと。その全貌を知ることこそが、今回の研究そのものなのだと思った。そしてその第二層の対象者は、この自分だった。自分の第二層を徹底的に解明してこそ、その普遍的な仕組みを、新しいテクノロジーに反映させることができる。この自分が実験台になってする、最初で最後の開発になるだろうと思った。それだけはわかっていた。そして、その副産物としての、つまりはその第二層を埋め尽くす、この自分という傾向を、見ざるをえない、受け取らざるをえない状況が、作られてしまうのだ。
 ゴルドは、研究の最初のきっかけが今つくれたことに、一安心し、ゆっくりと休息をとれる気がした。


 関根の調査は、難航した。ケイロ・スギサキの全作を、誰がどのように、アンディに売却したのか。ケイロ・スギサキの生前、そして死後に渡って、ずっと背後にいたエージェントは、一体誰で、どのように機能していたのか。そこが全くの空白だった。
 そのエージェントの関係者の情報もまた、出てはこない。ずいぶんと月日が経っているのだ。関係者もまた、死亡していることは考えられる。さらにおかしなことは、DSルネがそのケイロに直接会ったとまで言い出したことだ。三十年も前に死んでいる人間に、さっき会ったと彼は言ったのだ。そいつのことを、少し調べてみてくれと、まるで実在する人間のように、彼は扱っていた。そして心底実感していた。その男の過去がほんのちょっと知りたいのだと、そういったノリだったのだ。だが任された方としては、半端ではない難題の登場だ。会社を通さずに、何の報告もすることなく、影で調査をするには、ここが限界だった。正直にすべてを話し、そして会社ぐるみで、本気で調査にあたるのか。限界を受け入れ、ルネに降参の意志を伝えるのか。それとも、自力で突破しようと、無謀に形のない敵に挑んでいくのか。関根は、最後の選択肢を、何故かとるような気がしていた。これは私個人に対する運命からの挑戦なのだと、解釈したのだ。これまでやってきたことの集大成を、見せるときなのだと。私の胆力が試されている。ルネがそういった意図で、私を試していなくとも、彼もまた知らないところでは、妙に了承しているのかもしれなかった。その仲介の役を、喜んで引き受けたのかもしれなかった。
 頭を少し整理してみようと、関根はテラス席のあるカフェを探した。ピザのおいしそうな一軒の店を発見する。外の席に座り、コーヒーを注文した。コンピュータは持ってこなかった。ぼおっと、焦点のない目で、何も考えることなく、頭の中を整理しようとした。浮遊し、無秩序に動きまくる虫のような思考の断片は、それ以上の許容を、何も受け入れはしない体制を、とっているようだった。静まり返るのを待っていた。
 関根はただ、その奇妙な動きを見つめていた。その全体性を見つめていた。
 何のイメージすら沸いてこなかった。このまま何も浮かばず、動きは止み、そしてすべての断片が消滅したら、どんなにいいことだろうと思った。だが、そうにはならないこと。最終的には、今の私では、ある種のイメージを持ってしまうことが、わかっていた。そのイメージの元に、事態は動き出してしまう。そのことは確実だった。まだ、私には消化しなければならない、イメージのゴミが、この自分の中にはある。消化という、通過をしない限りは、そのゴミは絶対に消えはしない。関根は、当初、そんなことは思わなかったのだが、この仕事についたのは、もしかするとそういうことが目的だったのではないか。処理したい、自らの中にあるこの情報群を、仕事といった形で、誰かの依頼といった、別の形態を伴った状態で、通過させたかったのかもしれない。そんなふうに、今は思うのだ。
 そして、その仕事は、永遠ではない。終わりはある。
 私が仕事を必要としない、仕事もまた、私を必要としない、そんな状態が、遠くはない未来に、訪れるような気がしてくる。あるいは、この非公式な案件が、最後の決定的な終幕への、引き金となるのではないか。そんな予感すら感じている。
 意識をわざと、別のことに向けてはいたが、次第に、無秩序な断片の暗躍はそのスピードを自ら落とし、じょじょに、描かれた何かの絵が、浮き出てくるかのごとく、イメージが関根に届けられてきた。
 ケイロ・スギサキの死後、三十年が経って起きたアンディへの売買、譲渡。それまで誰が預かっていたのか。売ることなく、バラすことなく、管理していたのか。ふとケイロ本人ではないだろうかという考えが浮かんできた。
 ケイロに違いない。ケイロ本人が自ら制作した絵を持っていたのだ。ケイロ・スギサキは生きているのだ。まだ。ルネが目撃したのも幻想ではない。トリックでもない。実物だった。アンディが仲介したことも合点はいく。
 アンディはケイロが実在することを知っていた。ケイロと連絡をとり、そして交渉をまとめた。アンディが欲しがったのだ。ケイロもまた了承した。了承に足る内容だったに違いない。ケイロは引き渡す相手を、ずっと待っていたともいえる。ということは、ケイロは、それまで死んだと思われた三十年のあいだ、誰にも相手にされることなく、地下の闇で生き続けていたということか。いや、でも、彼は生涯画家として、一大センセーショナルな公募で、派手な登場を一度している。そのあとで、その後援サポートを、約束していた事業者たちが、次々と撤退して、彼は置き去りにされてしまったのだろうか。とりあげるメディアも、何故か存在しなく、そのまま世間は忘れてしまった。何年、何十年という月日が、そのことを物語っている。ケイロは、そのあいだも、闇で描き続けた。情報によれば、彼は元々、絵かきでも何でもなく、画家になる意思も、芸術に対する興味も、まるでなかったそうだ。その公募を見て、彼は突然、これは自分のために現れた道なのではないか。突然手を挙げたのだ。何故か、当選し、そのあとで初めて、画材を集め、描き始めた。その経緯もまた、不可思議なものだった。そうか、そういうことなのか。ケイロは、その突然の画業において、まったくの初期においては、制作はできなかった。完成品を、仕上げることができなかった。下積みから、地道に始めなければならなかった。少しの猶予は、認められたものの、次第に呆れ果てた後援たちは、契約違反だと、次々と撤退した。それでも、最後まで粘り強く、サポートした組織もあった。しかし、その願いも空しく、やはりケイロから、離れざるをえなかった。あまりに無能で、あまりに遅々としていて、あまりに稚拙なその出来栄えに、当初のコンセプトは完全に崩壊し、そして何もかもが、雲散してしまった。荒れ地となった場所に、取り残されたのは、ケイロただ一人だった。まさか、そういった状況が、本当にあったのだろうか。関根は信じられなかったが、次々と訪れるイメージの奔流は、ドキュメンタリー映画のように、映像を流麗とよこしてくるのだ。
 ふと一気に、結末までいってほしかった。一息つけば、そのあいだにどっと、疲れが押し寄せてきそうだった。四方から、圧力を感じながらも、崩壊を免れる、そのわずかにとられたバランスを信じ、関根は成すがままに任せた。
 DSルネの言った、風貌は、自分よりも若かったという証言が際立ち蘇ってくる。だが、それ以外においては、その事実を避けるかのごとく、周囲は一層激しく、一つの結末へと向かい奔走していく。ケイロは長い時間をかけて、絵をものにしていった。芸術を自分の表現手段として、染めていった。やはり彼は、選ばれし画家だったのだ。運命が選んだ画家だったのだ。ああいった、センセーショナルな始まりには、意味はあったのだ。だが時がついてこなかった。しかしケイロは場所こそは違ったものの、闇の中で華を咲かせた。闇の表現者として、闇の中で君臨していた。闇が制作場所であり、闇が制作テーマであり、そして闇が、自身の在り方そのものだった。彼の人生そのものだった。まさか、そこを描かせたいがために、運命はわざと、そんなふうに仕向けたのだろうか。とにかく彼は、描き終えた。三十年と、プラス、彼の生前とされた画業期間十五年余りを足した四十五年。五十年近くかかって、ようやく一つの帰結をみた。そこに現れたのが、アンディ・リー。知っていたのだろうか。元々、彼に目をつけていたのだろうか。それとも、偶然、そのタイミングで、彼と知り合うことになったのだろうか。彼を知る誰か、別の人間を通して、紹介されたのであろうか。それはわからなかったが、とにかく、二人は出会った。そして意気投合した。あるいは、アンディの、一方的な説得交渉だったのかはわからないが、とにかく一つの合意へと至った。一つのビジョンを二人は共有した。未来の設計図を。それはいったい何なのか。二人は何を思い描いたのか。そしてそのビジョンは、アンディがケイロの絵の全てを買うこと。ケイロはケイロで、そのすべての絵を売り渡すこと。アンディに託すことで達成される、達成に近づくものがあった。二人は強力なタッグを組んだ。いやしかし、そうとも限らない。一方が仕方なく従った可能性はある。それ以外に自分にはやりようがない。受け入れるしかない。救いの手として、それに飛びついた可能性もある。つまりはアンディが、ケイロに手を差し伸べたという形だ。ケイロ自身を助けると共に、その絵に関しては、アンディの未来の利益に直結する。タッグを組んだのとは少し違う。だが両者が互いを、今、この瞬間において必要としたことは間違いない。
 ふうっと、一口コーヒーを飲んで、関根は大きく息を吐いた。
 それはいい。そこまではいい。最後にいつまでも、煌めいている、一つの事実以外は。
 その風貌は、どうなるのだ?何故変わっていなかったのか。むしろ、ルネに言わせれば、自分よりも若かった。印象としては、若返っているのではないか。昔を見たことはなかったが、そのように感じたと、ルネは語った。ルネの人を見抜く目は、本物だ。彼は鋭敏な目利きだった。その捉え方は、一側の真実を、捉えているのだろう。この三十年間。死んだとされた三十年間。三十年後に、再び、存在を露わにする。若返っている。断片を繋ぎ合わせることではなく、無秩序な自然な旋回に任せ、自分は何にも惑わされずに、その様子を静かに中心で見守る。事は落ち着き、一つのイメージの出現へと、転換される。
 やはり、描いていた。そして、描いていたそのあいだ、その時間は、通常の時間の推移ではない別の領域に、彼の肉体は飛び出てしまっている。時間のない別の世界と、彼は行き来している。そうしたことまで可能になっていたのだ。そうか。だからか。そんなことにまで、突き進んでいたからこそ、通常の意味での絵が、まるで仕上がらなかったのかもしれない。そして、だとすると、通常の意味における絵の技術もまた、彼には通用しないものだった。そんな通常の技術を、彼は必要としなかった。別の手段、別のコツが、彼には必要だった。そして手に入れた。開通した。多くの時間を、その領域で過ごした。だから、時間の流れが、彼と彼以外とでは、まったく異なってしまった。ケイロは戻ってきた。その異相領域から。そして、そこから、絵も持ち帰ってきた。なら、誰かが管理しなくても構わない。その異相領域こそが、最大の理解者であり、最大のパートナーであった。彼と彼の絵は保持された。すべてを終えた。領域を出る。彼はこの世界、つまりはこの地上において、後ろ盾を必要とした。そのタイミングで、絶好の男が姿を現した。事は成就した。ケイロはルネと引合された。二人は何らかの意思疎通を、はかった。そして別れた。
 その、意思疎通とは、何だったのか。
 関根の中に、煌めくイメージの屹立が、突然消滅する。我にかえった。
 テラス席が視界に戻ってきた。大通りには、通行する車と、歩道を歩いている多数の人間の存在が確認できた。音もまた、蘇ってきていた。ずいぶんと、煩い席であったことを、このとき知った。しかし、秋も深まってきた中、やってくる本格的な冬の到来を前にした、束の間の暖かい日であった。そのまましばらく、日向ぼっこをする猫のように、澄んだ空気の中で、関根は身を鎮めて揺蕩い続けた。
 二人の男は、目の前から消えていった。


 待てど暮らせど、関根ミランからの連絡は来なかった。
 依頼した案件の情報は、まったく途絶えていた。関根の携帯電話にかけても、繋がらなかった。一度、自宅に行ったものの、エントランスでの応答はない。会社に連絡をすることはなかったが、関根の周囲を伺うに、彼女はまったくあの日以来、姿を消してしまったようであった。関根が良からぬ事件に巻き込まれているのかと心配するも、それよりも、関根自らが、自分の意志で連絡を絶ってしまったような気がした。彼女は、ケイロ・スギサキのことを、何か掴んだのだろうか。掴んだ上で、俺には知らせたくはない。自分だけの胸の内に、収めておこうと決めたのだろうか。それとも、知ることができなかった。何も報告することはないため、連絡を絶った。どちらかを選べというのなら、前者しかない。では、情報を掴んだ上で、何か秘密を掴んだ上で、それを誰かに狙われた。身を隠す必要性があった。ルネだけではなく、誰との連絡をも、絶つ必要があった。関根は狙われている。そういった可能性もあるのだろうか。わからなかった。
 ただ何となく、関根に振られた元恋人のような雰囲気が、ここにはあった。
 これは仕返しなのかと、ルネは思った。そういう可能性も、もちろんあった。あいつが何か核心を得たときに、それでそのまま、逃げ去ってしまうような、そんな人間のようには、ルネにはやはり思えなかった。
 いずれ何らかの形で、彼女とは再び繋がるだろうと、楽観視しながら、彼はオペラの最初の戯曲を、今なら何か書けるのではないかと、感じた。
 今しかできないことに特化すること。それが脚本家としての第一歩であることを、この空白に教えられているような気がした。














 配電盤のその先にこそ真実がある。その真実を見ることなしに、人はどこにも行くことはできない。どこにも行きつくことはない。帰るべき場所を失った孤児以外には、なれない。どんなに虚飾を巡らそうとも、その空白の事実に、思い患う時間が、人生の最期には必ずやってくる。見るべきものがあるとしたら、それは早い方がいい。
 晩年の、最期の瞬間にまで、引っ張る必要などまるでない。なるべく早い方がいい。早くにその意識の向きを変える必要がある。反転させ、心奥の根源に、遡らせるエネルギーの流れを作るべきだ。それは自然に反しているのだろうか。動物を始めとした、生物の本能からは、逸脱した行為なのだろうか。自然に任せていては、絶対にそうはならない、特殊な流れなのだろうか。だとしたら、テクノロジーの出番は必須だった。自然に任せていては、確実にそうはならない。いいじゃないか。ゴルドは思う。そこにこそ、人間の知性における理想的な介入だ。これは、時間を遡ろうとしているのかもしれない。そもそもの始まりに、戻ろうとしているのかもしれない。未来を拒否し、過去に遡り、そして、その過去の記憶を通過して、記憶が積み重なるその前へと、戻るための技術なのかもしれない。感情の入り乱れた海の奥には、それを引き起こす人間の欲望の数々が、あった。欲望そのものも入り乱れ、複雑な枝葉と共に、矛盾した支離滅裂な図形を描いている。その欲望の全図を、捉える必要があった。その全体を、一瞥する必要があった。全体を一瞬で見抜く以外に、この混沌とした海を、抜け切れる道はない。
 その先を、さらに遡ることはできない。その欲望の全図は、どうして存在することになったのか。その目で、一個人が、確認することなしには、誰も教えてあげることはできない。その根源へ。根源にある、強烈な、一つの意志の存在。それこそが、その一つの願望こそが叶えられずに、他に代用品としての欲望を、無数に作り上げていく。
 その、全図の一瞬による生成。そこから続いてく、人類の誕生と終焉。生と死の輪廻。人生の生成。一個体の隆盛。感情の激発。入り乱れた混沌とした海。現状。現在へと漂着する時間。この瞬間。前へ前へと人生が進んでいる、あるいは、自らも進めていっている人々の自然の本能において、そこに待ったをかける。まずは、この自分自身が。それは、未来を思い描かないことから始まる。これまで知っていた生は、先には存在させないことを、意思することでもある。道はない。どこにも急ぐ必要はない。到達するべき場所は、どこにもない。退路の創造。退路はすべて、精巧にすでに存在する。退路は無数に枝分れしていく。そのすべての道を、一瞬で全図としてとらえること。意識に焼きつけること。とらえることのできるその場所に、この身を置くこと。その空間にまで連れていくこと。自然に逆らったその行動を支えきるテクノロジーの力。これまでの自分の歩みのすべては、その最後の開発に結実している人生の真相。ゴルドは、書斎でゆったりと椅子に腰かけている。ふと、受話器が点滅していることに気づいた。留守電のボタンを押すと、アンディ・リー会長からのメッセージが入っていた。
「仕事中、すまない。話したいことがあるから、一区切りついたら、折り返し連絡をしてほしい」
 ゴルドはすぐにそうした。アンディは出た。
「今度の敷地における、広場のことだがね」
 何のことを言われているのか、わからなかった。
「君の次の研究の成果を、そこに投影させてみるというのはどうだろう」
 何度、頭の中で反芻しても、意味が、少しも形をなしてこない現実を、ゴルドは他人事のように見ていた。
 アンディは何の衒いもなく続けた。
「ぱこっと、嵌めこむ感じで、いいと思うんだよ」
 その、ぱこっとという表現が、妙におかしく、ゴルドは思わず笑ってしまった。
「広場って、何のことですか?」
 やっと、もともな会話のできるくらいの自分は取り戻せてきた。
「ああ、そうか。何も言ってなかったか」
 アンディはふと、自分の脳だけが先走り過ぎていたことに気づき、今度は丁寧すぎるくらいに説明を始めた。ゴルドは頭の中でその新しい国と呼ばれる領域に光を当てていた。そこが独立国家として、国の中の国として、存在することが本当に実現するのか。全くわからなかったが、アンディがそう言うのだ。これまで彼の言ったとおりに、全ては実現してきている。今度もまたそうなる可能性が高いと、ゴルドは思った。異論を差し挟むことなく、とりあえずは聞こうと思った。そしてこの俺にとっては、それが実現しようがしまいが、何の関係もないことだと、心の中で呟いた。アンディのことなのだ。それはアンディのことなのだ。アンディの好きにしたらいいのだ。それに俺はもう、ここで終わりなのだ。これが最後の仕事なのだ。そのことに関しては、アンディには何も言うつもりはなかったが、もしかすると薄々、何かを感じとられてしまっているのかもしれなかった。
「そういう計画を、していたんですね」
 ゴルドは、調子を合わせるように言う。
「次なる展開は、すでに、完璧に思い描いている。さすがです」
 ゴルドは言った。
「君の研究開発も、次がそろそろ出来てくるんじゃないかと、ふと思ったんだよ」
 アンディはゴルドを無視して、自分のしゃべりたいことをしゃべり続けた。
「研究者という人種も、実にそういうものだからね。起業家も芸術家も、みな一緒だ。時間が経てば、前の仕事のことは忘れ、いや、無意識では完全に繋がっていて、どのような意味においても、続編ではあるのだけれど、再び、新しい創造に向けて、内側の鼓動が暗躍し始める。そうだろ?そういったサイクルの中に、入ってしまっている。すっぽりと。自力で、無理やり、頭の中から捻りだすものではない。すでにサイクルの中に、ぽつりと存在してしまっているのさ。芸術家や研究者には、自分からなるものじゃない。それはもうなっているものなんだ。ただ気づく瞬間があるだけで。そして走り出してしまえば、もう勝手に事は起きていく。出し尽くして、一つの完成を見たときに、疲れ果てて二度とすることはないだろうと、そのときは思うのだが、それもまた時間が進み、季節が変われば、状況はまったく一変してしまう。その仕事で、死ぬと思い込んでいた事態は、次の季節では、完全に忘れられている。死と再生は、勝手に繰り返されていく。さっきも言った。波があるだけ。サイクルがあるだけで」
 その後もアンディは一人ぺらぺらと、しゃべり続けた。結局、何が言いたかったのかと思うほどに。しかし一つだけ確かな事があった。この今の研究開発が完成をみたとき、その活動の場は、すでに与えられているということだった。そしてそれは近い未来には確実に、完成が約束されていることをも、意味していた。


 DSルネは、そうして第一作目である『サンピエトロストーンサークル』を書き終えた。
 三週間にも満たない時間で、一気に書き上げた。最初はここまで滞りなく作業が進むとは思いもしなかった。一進一退、四苦八苦して、書き上げるものとばかり思っていた。そういう理想を抱いていたふしもあった。だが事はあっけなく、しかし強烈なエネルギーを使うことで、体の一時的な変調。その後の、まとまった一定の休息が、何よりも必要なことを知った。そうなのだ。一時的には、この身体は機能を全面的に衰退させてしまうのだった。ばらばらに解体されたかのごとく、おそらく今、検査のようなものをすれば、すべての値は、異常な数字を叩き出すことが、実感としてわかった。だが次第に身体は急激に回復していく。
 それは、プログラミングと似た作業でありながら、決定的に違うものでもあった。
 共通して言えることは、その作業中には誰とも接触を求めることがないにも関わらず、終えたときには圧倒的な性体験を欲するということだった。当然、関根ミランに連絡をすることになるのだが、今回は、まったくの音信不通だった。それは一か月が経っても同じだった。彼女は、この自分の生活圏からは、完全に外れてしまったようだった。彼女に、その役割を求めることはもうできないのだ。DSルネは、次第に回復していく身体を細かく観察していきながら、そう思った。この第一稿と呼ばれるであろう、実物を目の前にして、おそらく推敲というものが、必要であることは何となしにわかった。まさか、最初のこれで、オーケーなわけがなかった。丁寧に時間をかけて、読み込み、そのあとで時間の差をもってして、客観的に手をいれるべきなのだろう。整合性をもたせ、余計なところを削り取り、言い足りない場所を補強する。きっとそうなのだろう。
「そういうことだから。よろしく」と頭の中で、ユーリ・ラスが言った。
「わかりました」と建築家Bは言う。「ぽっかりと、その広場のところは、空けておけばいいんですね」
 二人は、納得の笑みを浮かべて、別れの握手をする。
「一度、見に行ったらどうだ?」とアンディ・リーは、目の前にはいない、ユーリに向かって言った。
「そうですね」ユーリは答える。
「しかし、私もそうですが、あの男にも、同じことを言ったらどうでしょう」
 あの男とはシュルビス初だった。
「俺は、言ったつもりだよ」
 アンディは、答える。
「そういう、あなたこそ」とユーリは続ける。
「僕はもう行ったさ。買収する前に。誰よりも、早く」
「なるほど」
「ぱこっと、嵌めるっていう言い方が、可愛らしいですね」
 帰ったはずの建築家Bが、言う。
「それが、一番難しいことなんだ」
 アンディは、急に深刻そうな表情を、浮かべる。
 一瞬、人を殺した、その後のような印象の表情をしたことに、ユーリはぎょっとする。
「僕には、無理だったよ」とアンディは続ける。
 今度は哀しそうな表情を浮かべる。
「それでも誰かが、誰か一人は、必ず実現してくれると僕は信じている」
 これまで見たこともない表情だと、ユーリもまた哀しげに受け止める。
 建築家Bは完全に帰ってしまったようだ。すでにやるべき作業に向かっているのだろう。
「出来上がり、現実に人々に開放する前に、誰かが一度、確認のために」
「それが、シュルビス、なんですね」
「そういうつもりで、ずっと、彼とは接していた」
「ずっと?」
「出逢った、その最初から」
「どういうことです?」
「つまりは、あの男は」アンディが、一息呼吸を入れる。
 言葉は、その後の空白を、埋めようとはしない。
 ユーリもまた、聞き返すというような、野暮なことはしない。
「最後を見届ける人間が、一人は、必要だということだ」
「制作には、直接、関わってはいない、しかし、無関係ではない人間」
「そうだ」
「彼が、適任ですね」
「最初から、そのつもりだった」
 ユーリとアンディは、とりわけ握手をかわすこともなく、挨拶もなく、もう二度と関わり合うことはないかのような、あるいは一度も関わりあったことがないかのような、別れ方をする。
 その様子を、DSルネは見ていた。
 これは、どのシーンなのかと、その挿入先を想像する。
 足りないピースがまだいくつかあるんじゃないかと、自らの内の中に取り残されてしまった断片の数々を、探しに出る。

































 シュルビス初は、言われたとおりに、こちらの国からあちらの国へと向かっていた。
 夕暮れ時で、空は淡い紫色とピンク色の狭間のなかを漂っていた。
 雲が多く、折り重なっていて、今後の天気の変化を、危ぶんでいるように見えた。
 川沿いを歩き、目印の橋がやってくるのを待った。そのあいだ、陽はすっかりと暮れ、藍色の様相を呈してきていた。
 シュルビスは何かに操られるかのごとく、狂いなく川沿いを歩いた。まだその国に入場した者はいない。自分が初めてであることを、誰かにずっと、言われているような気がした。この自分の、初という名前は。まさに、今日のために、あったかのようでさえあった。その瞬間に立ち合う運命を、あらかじめ見越しての、天からのプレゼントのように思えた。そうなのだ。これから天と繋がるために、こうして一人やってきているのだとシュルビスは思った。こちらの国からあちらの国へと渡り、そして『その場所』で天と繋がり合うことで・・・。
 シュルビス初は、いつのまにか橋を渡り始めていた。

 まだ、距離は遠かったが、門の姿ははっきりと確認できていた。その巨大な門は刻々と身近に迫ってきていた。この自分は全く身動きがとれなくなってしまった状態で、門の方が迫ってきているような錯覚がした。いつのまにか、門からの目線に同化している自分がいた。王国はこの自分を待っている。誰の存在もない。プランを立てた人間も、建造を指揮した人間も、実際に建てた人間も、誰も今はいなくなっている。そして新しい住人と、新しい訪問者の数々を迎える準備のために、誰の立ち入りも拒否している。
 この自分を除いて。この自分はその僅かな隙間を埋めるべく、選ばれた人間なのだ。一つの試運転としての役割が担わされている。
 門を見上げるように、身近で対峙をする。こんなにも大きく、大袈裟な建造物にも関わらず、この表面に埋め込まれた繊細な彫刻の模様に、シュルビスは驚嘆してしまう。
 その作業は、気の遠くなるような作業だ。業者があるデザインを元にした、人海戦術でもって、埋めた仕事では全くないのだ。これは芸術家の仕事だった。しかもこれだけの量を、一体どの機関が、一体誰が、何人で進めたものなのだろうか。考えただけでも、溜息がつく。まったく信じられなかった。すでに完成していたこの門が、どこからか、瞬間的に運ばれてきたようにしか思えない。規模は違ったが、ギザのピラミッドのような、その場に相応しくない存在の仕方をしていると、シュルビスは思った。そういった印象を持つ建造物が、入場口に聳えていることが、この国の存在意義を、如実に示しているような気がしてならなかった。あらゆる意味において、この敷地に入ってしまえば、後戻りは許されない。まったく、そこに存在していること自体、不可思議なほどの規模と、精巧さで、それはそこにある。
 すぐに広場が現れてくる。遠景には宮殿と思われるシルエットや、他にもいくつか直方体の巨大建造物が、立ち並んでいるのが見える。
 砂漠に浮かぶ、蜃気楼のごとく、遥か遠くに揺らめいている。本当にどれだけ広大な土地なのだろう。あそこまで歩いていけということか。仕方なく、シュルビスは視線を自分の周囲に集める。遠くを見ることなく、あくまで、この今居る場所を。その空間を。そこを感じとるのだと、何故かそう思うようになった。
 この広大な土地全体に、今は意識を向けるべきではない。
 むしろ。シュルビスは、振り返った。そうすることもまた、間違ったことのように思えた。そうではないのだと何度も言い聞かせた。どういうわけか、心の中が急に乱れてきていた。動悸も早まり、落ち着かなくなっていった。天気の急変を、感じ取ったのだろうかと、空を見上げる。あっと、シュルビスは思わず、声を出してしまった。空へと上昇するその空間が、捩れて、旋回しながら、舞い上がっているように感じられたのだ。すぐに、足元がぐらつき、一気に不安定になっていることを知る。いつのまにか、体重を感じなくなっている。空間と共に、舞い上がってしまったかのごとく、広場を上方から見下ろしている。遠景にあった建物群も、今ははっきりと輪郭を色濃くしている。焦点を絞っていけば、外装の素材まで言い当てられそうだった。この無人の建物にも、急に生命が宿ったかのように、生命体が与えられたかのように、光輝いているような錯覚まで起こってしまった。だが気づけば、シュルビスは地面をしっかりと踏みしめた自分の足を目撃する。舞い上がってなどいない。広場の中心に、いつのまにかいる。この広場ですら、相当に広い場所だ。人が居ればまだしも、一人でいるため、その空虚感は半端ではない。今度はぐるりと、円形の広場そのものが回転しているような気がしてくる。ぐるぐると回って、そのまま捻じれ、旋回して、丸ごと上昇していくかのように。そして再び、重力が消えと思ったが矢先、視界が完全に消えた。ブラックアウトしたのだと焦った。だが一瞬だった。何故か、そこが、黒い闇の海であるかのように感じた。その海の中に、自分は漂っている。闇に包みこまれている。そう感じた。ある一点だけに、僅かな隙間があるのか、光が漏れているように見えた。当然、そこに意識を集中する。心臓の鼓動が大きくなっていく。闇の海が鼓動に合わせて、大きく揺れている。闇が鼓動そのものように、大きく揺れる。鼓動の中に、自分がいるようだ。そしてその思いは、この場所が、実は自らの身体の中なのではないかと思ってしまうのだった。その鼓動の中、シュルビスは、まさに自らの感情が自分の外側にあるように感じられてきた。感情に取り囲まれている。感情に自分は執りつかれている。そしてその感情は厚い膜のように、続いていて、それは永遠に続いてはいない。その外側にはまた、別の膜の存在を感じた。感情を引き起こしている、さらに奥にある別の蠢く生命体がある。それが感情を引き起こしている。何なのだろう。それは永遠不変に、そこにはあるような気がした。これが取り除かれなければ、感情は気まぐれで、無軌道に、生まれ続けるのだ。それに好きに操られ続ける。踊らされ続ける。そんな憐れな自分が、見て取れた。何とか取り除かねばと、シュルビスは思う。だが、どうしていいのかがわからない。次第に、闇は白く、淡い広がりを持った存在へと変化していく。シュルビス本人が、眼下には佇んでいるようだった。周囲に景色はなかった。同じ白くて淡い闇のようなものに、シュルビスと、そしてそのシュルビスを見下ろしている、この眼は包まれている。

 この状況はいったい何なのか。制御することのできない展開に、シュルビスは驚きつつも、何も為す術はないような気がした。シュルビスに関わる状況や人や出来事が、彼の周りに現れ、そして消えていく。その光景とシュルビス本人を、同時に見ている《その眼に》、今はなっている。《その眼》は、光景の無軌道な展開を、ただ見つめている。そして次第に光景は連結し、連動し、一つの人生全体を映しとった塊のように、集結していくように見えた。さらには、その外側には、別の光景もあった。塊は別にも存在していて、その塊はさらに別の塊をも引きつけ、あるいは引き離し、互いに連動しながら、揺れているように見えた。
 その景色の全体を、『その眼』は、見ていた。ずっと見ていた。
 あらゆる塊は、旋回していた。その眼だけが、動きのない、唯一の定点のような気がした。
 その塊の一つに、映っては消えていく光景の一つに、この広場もまたあった。
 広場を中心とした、広大な敷地の存在があった。隅々まで詳細に語ることも、可能な気がした。今はやめたが、その広場が中心にあることは、間違いないようだ。
 そしてその中心に自分はいた。自分から抜け出し、その眼に今は居た。
 その眼が位置するところに、居た。そういうことなのだろうか。シュルビスはふと思った。
 そういうことなのだろうか。今自分は、自らの、その中心に入っているのだろうか。
 この場が、それを誘発した。中心に入る流れを作り出した。そういうことなのだろうか。
 それを誘発するのが、この場所の存在目的なのか。そうした機能が埋め込まれていたのか。そうしたテクノロジーが。そしてシュルビスは、その中心から自らの意志で逸れることが、もうできなくなっていることに気がついた。それはシュルビスを捕らえ、シュルビスに居続けることを、強制するかのごとく、エネルギーが生まれ、促し続けた。

 元より、シュルビスに、抵抗する道はなかった。
 光景は厚みを増し、連動具合も濃く深くなっていった。隣り合っていても、侵入を許さない意思を、感じていたその塊同士が、次第に侵入を許し合っているような感覚がした。
 そんな流入が、許されていいのだろうか。
 時間の基軸は、崩壊してしまう。十代の自分に、八十代の自分が入り込んでしまっていいのだろうか。その一部が、混ざり合ってしまっていいのだろうか。さらに、そんなものじゃない。さらに大規模にその混じり合いが、起ころうとしている。そんなことが許されていいのだろうか。
 シュルビスは見ていた。
 そして塊はその個別性を次第になくし、融合するというよりは、別の生命体が生まれ出るかのように変異していった。
 いつのまにか、巨大な一つの塊が形成されているように感じた。
 もうそのときには、塊のようではなく、輪郭さえあやふやな、一つの海のように、その浮遊体にシュルビスは包み込まれていた。
 これが、ストーンサークルなのか、とシュルビスは思った。
 あちらの国、すでに、あちらではなかったが、ここが存在するその意味が、今、始まりかけているのだと、シュルビスは思った。そして、その最初の開通のための、儀式を、この自分が担っていることを、シュルビスは色濃く認識していった。

 これは、ただの始まりにすぎない。最初のきっかけになるにすぎない。
 シュルビスは、その一つの眼、そのものになっていた。そして、その一つの眼の存在が、次第に・・・。その一つの眼という、虚ろな存在をまた、見下ろしている別の何かを、シュルビスは感じずにはいられなかった。天と繋がる、天との回路そのものとなるこの場所で。
 シュルビスは、変貌を遂げ続けていくのだった。




                 sanpietoro STONECIRCLE   完



































































ダイイングホライゾン バレー




















 アンディは、ユーリに事業を引き継がせ、自分は独立国家をつくるべく、その構想と、敷地内の中心地の入口の広場に設定した、サンピエトロストーンサークルの建造を、ドクターゴルドに最後に任せたことで、完全に、その身は空っぽになっていた。脱け殻になり、何もする気にはなれないでいた。
 スペースクラフトは売れ続けた。しかし、すでに、市場の保有率は、百に近づいてきたため、飽和状態ではあった。キュービックシリーズは、遅々とした売れ行きが続いたが、その後、僅かな上昇気流を描き、そのまま急拡大することなく、順調に伸び続けていった。このスペースクラフトと、キュービックシリーズの人々の占有率が、同等になる、つまりは、百に限りなく近くなったときに、何かが起こることを、アンディは予期していた。
 がしかし、それについては、意識的に何も考えないようにしていた。できるだけ、遠ざけていた。それは起こるときには起こる。そして、何が起きるのかは、この俺には皆目わからないと、アンディは思っていた。ないものとしていたが、意識の片隅には、その未来の現実は、確実に存在し続けた。起こることが、決まった事実が、アンディ自身の到来を、今か今かと待ち望んでいるかのようであった。その二つの他にも、アンディの事業は、幅広く展開していて、次なるテクノロジーを生むべく、化学研究所の運営、エネルギー産業に参入するべく、その研究と実用化。さらには、宙空を市場の軸とした建築業、不動産業、観光業。自社の本社内に、カジノ場をもうけ、そこでアンディの会社が自らが開発したゲームによる収益。さらには、賭博以外のゲームの開発にも、日々勤しんでいた。会社の外部から、プログラマーや研究者、マネージャーや創作家と、個別に契約していて、その中身を絶えず、補填するよう、システム化していた。アンディがいなくとも、収支が勝手に回っていく仕組みが、すでに確立していた。さらに、アンディは、芸術部門を、本格的に始動させるべく、多量の作品をすでに保有している画家と、契約を結び、その公開と販売の算段をつけるべく動いた。それももう、アンディには、どれだけ昔のことであるのだろうと感じるのだった。時間の感覚はなくなっていた。自分のやるべきことは、もうないのだと悟っていた。画家の他に脚本家も現れた。専用の劇場を作るからと、オペラの制作をすでに依頼したのは、やはりどれだけ前なのことだろう。アンディは、その制作者の、仕事の途中経過を気にすることも、状況を覗き見することもなかった。まるで放っておいた。放っておくことこそが、自らの重大な仕事であることも、知っていた。宗教部門も構想していた。そこを担う男も、すでに目星をつけていた。だが、直接依頼はしたが、彼は受けてはくれなかった。二人で対面した、あのときから、どれほど経ったのだろう。何も進展してなかったが、これはこれで、あるべき姿であることを確信していた。やはり、目には見えない領域で進行していることを、アンディは心得ていた。国の中に国をつくり、政治にも当然関わろうとしているアンディだったが、今はそれについては、特に思い付くことも、頭を悩ませることもなかった。ただ、地のない空間に、何の支えもなく浮いているイメージしか、持つことはできなかった。付き合っていたどの女性とも、今は会ってなかった。こういうときこそ、一人に絞り深く付き合うことができそうだったが、何故かアンディの元には、誰一人として、その候補が存在してなかった。むしろ同時に、それぞれを、あれだけ忙しく行き来していたときの方が、個々とも、最も深く交流していたという、感覚が残っていた。アンディは、自らの事業が急激に生まれ始め、横並びにほとんど同時平行的に、連動させていったときのことを、思い出した。あのときが最も、その一つ一つとも、じっくり深く付き合っていたのかもしれなかった。それと同じことだった。こうして、全てのエネルギーが、ピークを迎え、越え、低下し続ける、その状態を眺めている、今においては、誰とも何とも、深く関わりあえないのかもしれなかった。そうしたほとんど死んでいる状態のアンディの意識を、突然、激しく打ち揺るがす、出来事が起こったのだった。


 秘書のリナ・サクライから、プライベートの携帯電話の方に、連絡があった。リナに、食事にでも誘われるのかと、一瞬期待もしたが、それもすでに、彼女に対する情熱は驚くほどに消えてしまっていることを知り、我にかえった。
「先方は、アポイントがありません」とリナは言った。ならば、断ればいいだろうと、反射的に答えるのを、アンディは回避し、じっと次の言葉を待った。
「大事な話だそうです。私の直感で、お通しすることにしました」
 そうだった。この秘書の前職は、探偵の窓口だった。嗅覚は卓越していた。アンディは、通すように言った。
 アンディは、グリフェニクス社本社の屋上から、さらに乗り物で上空へと移動した自宅に、ほとんど篭っていたため、下界にわざわざ降りていかなければならないことに、微かな面倒臭さを感じた。しかし、自宅に見知らぬ人間を招くわけにはいかない。いや、知り合いの女でさえ、ここに入れてはいけないのだと、アンディは思っていた。

 応接室にはまだ、誰の姿もなかった。アンディは、訪問者の到来を待つことになった。
 だが、これがいつになっても、来やしない。リナに指定されたその場所を間違えてしま
ったのだろうか。携帯電話は、自室に置いてきてしまっている。あるいは、訪問者が、ど
こか別の廊下へと、さまよい出てしまったのか。間違って、カジノ場に降りたってしまっ
たとか。だが、リナが、応接室まで、きちんと同行するはずだった。社内の至る場所には、
監視カメラがあった。何かが起こっていれば、その映像から、全ての事柄は特定できる。
一瞬、リナに何かが起きたのだろうかと思ったが、それも、こうして、ほんの少し人に待
たされることに不馴れな、微量の苛立ちであることに思い至り、一回だけ呼吸を深く吐き
きることで、気持ちをリセットしようとした。
 そのとき、ドアは無造作に開いた。何のノックすらない、無声の到来だった。アンディは反射的に身構えた。だが、息を深く吐ききる、その途中であったことともあいまり、全身は完全に静止してしまっていた。神経だけが生き生きと、場の全体を瞬時に把握していた。
「突然の訪問、申し訳ありません」
 予想外に、律儀な男のような雰囲気を感じた。
「ナルサワトウゴウさんとは、お知り合いでしたよね?」
 だが、律儀さとは裏腹に、内容には気を許すことのできない、棘だけが存在していた。
「ナルサワ?いいや、知らないね。友達にそんな人間はいないし、仕事の仲間にも、いないな」
 男は、ここで間をたっぷりととった。アンディの視界は、さっきの呼吸のせいか、妙に臼ぼんやりとしてしまい、この二人の邂逅を、ずいぶんと遠くから見ているような情景に変わっていた。グリフェニクス本社の外にまで、その視界は広がり、そのサイズから、この一室を見ているような、視線に変わっている。男を細かく観察する視点が、いまいち自分にはなくなっている。このアンディという男はいったい、次にどんな言葉を返すのだろうと、まるで他人事のように、場面を見ているようだった。ドラマか映画を、画面で見ているようだった。
「ご存じないですかね。そんなはずは、ないんですがね」
 男は、今になっても、名乗る気はないようだった。
「ナルサワトウゴウさんが亡くなられたことは、ご存じですよね?」
 質問は変えたようだが、言ってることは、まるで一緒だ。アンディは思った。
「それも、存じあげないですね」とアンディは、答えるしかなかった。
「いえね、実を申しますと、私、ナルサワさんの、旧知の友達なんですよ。同業者と言いましょうか。ナルサワさんとは、急に連絡がとれなくなってしまって、しかも、何としても、相談したいことがあって、それで、彼の所在を、実にしつこく突き止めようとしていたんです。何か事情があって、私と個人的に、連絡をとりたくないのだとも、思ってしまいました。しかし、調べていくと、なんと、ナルサワトウゴウさんは、一年も前から行方不明になっていて、しかし、その不明になった場所では、多量の彼の出血と共に、忽然と姿を消している。事件じゃないですか。けれども、メディアはまるで、報道してはいない。なかったことになっている。その後ずっと、ナルサワトウゴウさんは、行方が不明なままだった。ところが」
 男はまた、たっぷりの間をとる。
「彼が亡くなったという報告が、警察から、彼の付き合いのあった女性に、入ったというじゃないですか。彼女は、遺体安置所に、すぐに向かったそうです。そういう話です。ですが、その彼女もまた、それっきり、消息は途絶えてしまった。どういうことですか。事件の臭いが、ぷんぷんとする。私は本腰を入れて、この一連の出来事を、調査しようと決心した次第なんですよ」
「それで、何で、僕のところに?」
 アンディは言った。
「あなたたなら、何か、知ってるように思われたからです」
「わからないな」
「シュルビス初さんって、ご存じですか?」
「ああ、そいつならもちろん」
「ご存じなんですね」
「知ってるも、何も」
「そうですか」
「もう調べは、ついてるんじゃないのか」
「あなたが経営なさっているカジノに、出入りしていた客です」
「そう。大量の借金を、我がカジノにしている」
「そのようですね」
「ナルサワさんと、彼を結ぶ線が生まれてくれば、あなたにも繋がります。ナルサワさんと、あなたは、間接的にだが、確実に繋がっている。私を取り次いでくれた秘書の方。お綺麗な人ですね。あの秘書さん。そう、ナルサワトウゴウさんの所に居た人です。私は何度も見たことがある。まだナルサワが生きていた頃に。彼の事務所で。すべては繋がっている。で、その彼女の動きも、明らかに不自然だ。彼女は、ナルサワトウゴウさんの不明を期に、あなたのところに転職している。どういうことなんですかね。私、こう思うんですよ。端的に言いますよ。つまりは、あなたとリナさんは、思いを一つにしている。ずっと以前から。要するに、共謀して。あるいは、彼女が主導だったのかもしれない。あなたは断りきれずに。いや、やめましょう。とにかく」
 男は間をずいぶんととった。その間をとるタイミングが、アンディにはよくわからなかった。どんな法則がそこにはあるのか。掴み所のない浮遊感がそこにはある。
「長ったらしい過程が、私は苦手でね」
 男は言った。
「では、どうされたいんですか?」
 逆手にとって、アンディは、そう切り出してみた。
「あなたと、取引きがしたい」
「どんな」
「リナさんです」
「はっきりと、言ってもらえますかね」
「リナさんを、僕のところにください」
「転職させろって、こと?」
「どう取ってもらっても構いません」
 今度は、アンディが、たっぷりと間をとってやった。男の目的が皆目わからなかった。
 目を見続けてみたが、その瞳の背後にあるはずの、どんな意図をも、アンディには、読み取ることができなかった。
 とりあえず即答は避けるも、一考の余地はあるね、とだけアンディは答えた。


 その男からの連絡は、その後まったく来ることはなかった。今の平凡な日常に、ほんの一欠片の悪夢が差し込まれたかのような、異質さだけが角を尖らせて光っていた。
 リナを呼び出そうとしたが、やめた。いったいどんな直感で、俺にあの客を通そうと思ったのか。何を感じたのか。以前からの知り合いなのか。向こうは、リナのことは元々知っているといっていた。そもそも何故、あの男は、シュルビス初のことを知っているのだろう。そうか。シュルビスとあの男は、知り合いなのだ。シュルビスが、この我々の秘密の一端を、あの男に漏らしてしまった。そうとしか考えられない。それをネタに、あの男は俺を揺すりに来た。俺の弱味につけこもうとした。金は全く要求されなかった。リナだった。あの女を手に入れたいのか。ただそれだけなのか。それともそれは見せかけで、やはり、本丸は、この俺の事業そのものなのか。リナも金も権利も、あらゆるものを根こそぎ、手にいれたいのだろうか。何とも不穏な男が現れたものだ。まさに、この案件こそが、シュルビスの出番だった。シュルビスに活躍してもらわなければならなかった。しかし、今度の件は、シュルビス本人も絡んでいる。彼を使うことはできない。いや、個人的に、呼び出して、話をさぐればいいのか。シュルビスはそもそも、今回のことを知っているのか。アンディは、様々な可能性を模索するも、思考の糸はどれも、さらに絡まっていくばかりで、むしろ何もしない方が、遥かにマシのようにも思えた。ここまで、事業を急拡大してきたその裏側を、巧みについてくる存在は、何も、この男だけに限った話では、ないように思えてきた。ほんの始まりにしかすぎないのかもしれない。この男を消したとしても、似たような輩は、次々と、俺を訪問してくるだろう。いちいち相手などしていたらキリがない。アンディは思いきって、無視することにした。ただ完全に、ないものとするのではなく、事実だけを、目の前に並べて見ていることにした。映画のワンシーンのように、ただ眺めていることに。

 アンディは、強ばっていた両肩が、一気に溶解していくのがわかった。リナのことも、放っておこう。事業のことも、ユーリに任せたまま、放っておこう。そう思った瞬間だった。そのユーリから、電話が入ったのだ。大変なことが起こったから、すぐに来てほしいと言われた。どこにと、訊くまでもなく、グリフェニクス本社ビルの応接間だった。あの男と会った、その場所だった。まだ数日前のことだった。いや、昨日だっただろうか。数時間前だったような気もする。感覚がわからなくなっている。時間の経過のリズムが溶解してしまっている。
 ユーリは青ざめていた。良からぬことが起こったことは、一目瞭然だった。どうしたのかとは、訊かなかった。
「すべてが、止まってしまいました」
 ユーリは、声を絞り出すようにそう言う。
「我々の事業は、すべてが、ストップしてしまいました」
 それ以上、彼は繋げる言葉を、持ち合わせてなかった。放心状態で、彼自身の機能がすべて、停止してしまったかのようだった。
 それでも、どうしたのだとは、訊かなかった。
 しばらくすると、ユーリは、落ち着きを取り戻したらしく、目がじょじょに、この空間に定まっていき、一度、抜け出てしまった身体が、やっと戻ってきたかのようだった。
「あのですね、いや、その、本当に、何から、話していいのか。その、すみません。めちゃくちゃかもしれませんが、とにかく、全部しゃべっちゃいます。吐き出してしまいます。いいですか?そのあとで、あなたが整理してください。僕には不可能だ。ああ、どうして、こんなことに。わからない。何故だか、まるでわからない。何の脈略もない中で、どうして。わからない!とにかく、わからないんです!僕が説明を受けたいぐらいだ!だってそうでしょ。理不尽極まりないじゃないですか!僕には何の落ち度もない。いや、あったのかもしれませんが、それでも、すこしくらいの脈絡くらいは、あるものでしょ?予兆だったりとか、それが何なんですか?まるでわからない。全部、停止してしまったんですよ!スペースクラフトは走行不能に。キュービックシリーズもまったく無反応に。うちの科学部門の機能も、停止に。ドクターゴルドに連絡するも不在に。建築業も今、進行中の建物が崩壊。これまで建ててきたものも、次々と、綻びを見せ始めている。観光業も機能せず、カジノの客も、何故か、急にぱったりと来なくなってしまった。誰も客はいない中・・・どうしたんですか?急に、人の流れが止まってしまった。電子機器は、それまでのように、正常には動かない。進化させてきたテクノロジーは停止し、それだけではなく、自己崩壊の道を辿っている。最初の、何も発展していない元素に、自ら戻ろうとしてるみたいだ。何なのです?あなたが生み出し、築き上げてきたすべてが、それ以上の発展を拒み、それこそ、赤ちゃんに戻っていくかのような感じで。生まれる前の種に、戻っていくようだ。いや、そんな程度だじゃない。そんな遡りは、限りを知らない。我々が知っているそれ以上、それ以前へと、引きこもっていくようだ。なんなのですか?反動なのですか?何の反動?そうだ。反動に違いない。これまでの発展は、この反動のために必要な、ただの助走だったんだ。ステップだったんだ。これは利用されたんだ!あなたは利用されたんだ!あなたの思惑を、都合よく使い、別の、何らかの目的を持った、誰かが・・・きっと、そうに違いない!誰なんです?我々は、騙されたんですよ!誰にですか?誰が何を企んでいるんですか!僕はたまらない。僕だけなら、まだいいですよ。あなたもまたコケにされたんだ。僕には、それがたまらなく、くやしい!どうしてあなたは黙っていられるのですか。どうしてそんなに穏やかな顔をしていられるのですか。あなた、ずいぶんと、安らかな顔をしている。そうか。あなたは、半分、引退の身だからだ。なんてことだ!そういうことか。あなたはもう、何が起ころうとも、知らんぷりを決めるつもりなんだ!なんということだ。なんなのですか。これから起こることは、全て、僕に、押し付けることで。僕に擦り付けることで。まさかそんな。そのために、僕を利用した?僕をこんな要職につけた理由も。まさか。そんなことはないですよね?あなたに限っては、そんなことはないですよね?僕は信じてますよ。最後まで信じてますよ。あなたがそんな人だとは、まったくもって、思いませんでしたよ!」
 まさに、そう言ってること事態が、俺のことを、信用していないようじゃないかと、アンディは思った。だが一時的に、彼は錯乱しているだけだろうと思った。それほどショックなことが今起こってしまったのだ。そして、アンディは、自分だけは冷静に、全体像をとらえようと、我が身を見返した。
「要するに、これまで動いてきた、働いてきた、進化、発展してきた事業の中身と、そして、それが回ってきた経済活動が、何らかの要因で、ストップしてしまった。機能不全に陥ってしまった。そして、君の口調からは、何の予兆も前兆もなく、原因も不明なままに、それは起きてしまった。今も進行中で」
「そのとおりです!」
「わかったよ。要点はつかんだよ」
「有り難うございます」
「少しは落ち着いたか」
「はい。あなたに、全てを吐き出せて」
「それはよかったな」
「それで、僕は、どうしたら」
「君が社長なんだぜ」
 正常に戻り始めていたユーリの表情が、一気に曇り始めた。また見捨てるのですかといった目が、アンディを、捕らえていた。
 よっぽどなことなのだ。こうした究極な状況を、やはり彼には、受け止められなかったようだ。初めから、わかっていたことだった。そのために、この自分はまだ、会長という名で、権限を絶大に残していたのだ。
 そして、アンディは、こうも思った。これはまだ始まりにしかすぎないんじゃないのか。まだまだ事は、やってくるに違いないなと。まだほんの数ピースだ。本番は、始まってもいない。そして、加速してくる。ある時を境に、それらは、互いに絡まり始めるに違いなかった。それまでは、ただやってくる事を見逃さずに、手にして、卓上に並べておくことにしよう。よく見えるその位置に、確実に、把握できるその位置に、揃えておくことにしようと。


 だが、全停止状態が起こったのは、我が事業だけでないことを知るのに時間はかからなかった。世の中の流通は、すべてが停止してしまっていたのだ。ユーリはすぐに、アンディの所に戻ってきた。人の動きも、物の動きも、ほとんどは止まってしまっていたのだ。
 流通システムは、すべてが凍結され、移動はもっぱら、徒歩による近距離のみ。文明世界以前に戻ってしまったかのようだった。システム障害が至るところで起こっていて、そのクラッシュは、今この現在においても、どこでどの規模で起こるかは、不明で、政府はすべての電子機器の使用さえ、制限するようにと、国民に通達していた。ニュースはそれ一色になった。ユーリはみるみる顔色を取り戻していった。以前の落ち着きを払い、極端に直感の働く、ユーリが現れ始めていた。ふとアンディは、DSルネのプログラミングのことを思い、彼の仕事に、不具合があったのではないかと、瞬時に意識はそこに飛んでしまったが、どうもそういうことでは、ないらしかった。国規模で、それが起こっていた。原因は今のところ、わからず、それよりも今、稼働させ続けることの危険を、ニュースでは警告しているだけだった。海外の情報も、ネットが使用制限を受けている中で、何とかCNNなどの大手の大雑把な情報だけが、手に入れられた。なんと、外国でも状況は似たようなものだったのだ。ユーリの顔色は、完全に元に戻っていた。自分に非がないことが、完全に証明されたのだ。
「アンディ会長。これ、この現象というのは、実は、僕が以前に、予測したこと。そのままでしたね」
 まるで、さっきとは別人と化しているその男のことを、アンディはじっと見つめていた。
「僕、忘れてましたよ、ずっと。自分が言ったことを。自分が考えていたことを。あなたから、全事業を、引き継いだものだから、そのことで舞い上がってしまって。いや、責任感が芽生えて、何としても、あなたの期待に応えよう。あなたが作ったものを、ちゃんと維持していこう。僕はいささか、いつのまにか、管理人のようになってしまっていたんですね。目が覚めました、今度のことで」
 それはよかったなと、アンディは言ってしまいそうになるも、口をつぐんだ。ユーリに、続きをしゃべらせなければと思った。
「会長が、以前、僕にある役割を与えましたよね。ある部門を、創造して、そこを、僕が発展させるようにと、そういう指令を、あなたからはいただいていました。もちろん、それは、忘れていません。ちゃんとやってきたんですよ。でも、そのちゃんとやってきたことを、いつのまにか、忘れてしまっていた。不覚ですね。人間っていうのは、状況にだいぶん流されてしまうものなんですね。でも、いつかは目覚めさせられる。外部から。起きろって」
 アンディは、聞いているうちに、だんだんとまどろっこしくなっていった。
「測量部門ですよ」
 突然、ユーリが、そう言った。
「うん?」一瞬、何を言われているのかわからなかった。そうなのだ。この俺自身が、そのことを忘れていたのだ。
「図形予報が、今後、重要な指標になってくるって。未来の」
 アンディ自身が、ずっと忘れていたことだった。
 いつだったか。ユーリラスに、あるビジョンを、指示していたことがあった。
 ユーリは当然真に受け、密かに、その任務に邁進していたのだ。サンピエトロストーンサークルの構築のために、頭のほとんどを使っていたため、それ以外のすべてのことに、意識は行ってなかった。そのためにユーリがいた。それ以外のすべてを、任せるために。アンディには、他者が必要だった。その要は、今はユーリになっていた。
「そうだ。確かに、測量部門を作れといった」
「いや、作ったのは、あなたです。僕は任命されただけです。もっとも、僕しか所属していませんが。もう一人、坂崎エルマという人間も、あなたは配属させましたが、残念ながら、彼女は死亡しました」
「死んだ?彼女は、確か、ドクターゴルドの恋人だろ?」
「元、ですけどね」
「どうして、死んだんだ?」
「ずっと、危篤状態で。意識を失っていたんですね。過労だということでしたけど。その、あれでしょうね。彼女の身体を、ゴルドは、実験台のように使っていたということですから。その障害が、一気に溜まって、悪化していったのでしょう。臨界点を越えてしまったんでしょうね。キュービックシリーズは、彼女を通じて、最後は、生み出されたということですから。僕には、どういうことなのかわからないですけど。彼女の身体そのものが、キュービック化してしまったみたいで。まだ時期尚早というか。急激な進化に、彼女の存在の方が、追い付かなくなってしまった。でも、持ち直すと、僕は思っていたんですけど。駄目でした」
「駄目でしたって・・・。そういや、ゴルドは、大丈夫なのか?最近、会ってはいない」
 いや、そんなこともないなとアンディは思い直した。
 自分の身近な人間においては、そのゴルドこそが直近に会った、唯一の人間だった。
 サンピエトロストーンサークルの中心の広場に、新しいテクノロジーを投入してほしいと、直接指示をしていた。あの男は、次なるテクノロジーを生み落とす時期にきていると、俺は直感したのだ。俺の構想と何故か、連動している。その一体感を捉えたのだ。ゴルドには、いちいち細かく、説明はしなかった。君にはわかるはずだ。何か生まれようとしているはずだ。それをぱこっと、その広場に嵌めてくれればいい。そう依頼したはずだった。
 あれはどうなったのだろう。事は終えているのだろうか。その最中に、エルマは死んだのか?何か関係があるのか?いや、そもそも、このタイミングでの、流通システムの全停止状態は、そのゴルドの発明と、何かリンクしているのだろうか。そんなはずはないと思いながらも、何故か、意識に引っ掛かってしまう。そんな、ただの一つの開発でもって、全世界に影響を与えることなど、そうはあるものではない。たまたまだと、アンディは思い直した。そんな影響力を保持するものを、自分が、自分の領域が、作り出したとはとても思えない。そんな自惚れもない。だが、タイミングがあまりに良すぎる。まるで、違うリズムを持った、様々な存在が、同時にその一点で同期しているような、そんな気がしてならない。そして、あの男の訪問だ。ナルサワトウゴウさんはお知り合いですかと。彼は死にましたと。あなたは、シュルビス初を通して、彼と繋がっています。そのナルサワトウゴウさんは、長い危篤の末に、亡くなりました。
「なあ、ユーリ。その測量部門は、立ち上がったのか?俺も思い出してきた」
「そうですね。僕も、思い出してきました。未来を予測するための」
「天気予報のようなものだ」
「ええ。その天気予報も、また、これからは天気を予測することさえ、困難になる。図形予報。地質学調査に基づいた。時空の」
「そう。時空だ。時空が、どのように変化していくのか。どんな流れの中にあり、どう変化していくのか。長いスパンの中で、その全体性におけるビジョン捉える。そして今、どんな状態に置かれ、何を意味しているのか。災害や経済の未来、そういったものも、すべて」
「お前は、そう、確か、時空と言ったな。その時空も、時間を特定していくのは、とても難しいのだと。そんなことを言っていた。空間の方を、予測できれば、時間の方も必然的に」
「確かに」
「もう?最初の時から、そんなことを」
「考えてました」
「普通じゃない」
「空間というのは、ずっと捩れ続け、組み変わっていくものなんですよ。組み変わり続けているものなんですよ。それを正確に捉え、未来を予測して、対応していくこと」
「その開発を、君に指示をした。いつのことだったか」
「ええ。確かに、僕は他の事業を滞りなく、チェックしていく一方で、その研究を続けてきましたね。ですが、まだその途中で、今度のような激震が、足元で起こってしまった。一気に吹き飛んでしまった。激しく動揺してしまった。申し訳ないです。あなたと僕の、そこが決定的な違いだ。あなたは今このときも、全く、動揺する素振りさえない。実際、動揺などしてないのでしょう。ちょっと鈍感なように、見えてしまうのですが、でも、全然違う。あなたの視線は、いつも全体を見ている。全方向から眺め、その全体を超越させた目線もまた感じる。むしろ、あなた自身が、その部門を開拓して、担当なさった方がいいのではないかと。そう感じすらしてしまいます。僕なんかでは・・・」
 じゃあ、とりあえずは、二人でやって行こうかと、アンディはユーリに言ってみる。


 そのあいだにも、ニュースは世界の情勢を伝えていた。
 どこも似たようなものだった。モノの流れは止まり、人の流れは止まり、人々はほとんど停止した住居空間に特化した、スペースクラフトに、閉じ籠るか、その付近を物理的に歩ける距離で、移動するか。飛行機や長距離移動のための鉄道は、すべて運休。いつどこが、突発的に、クラッシュしてしまうのか、予測がつかないことが、唯一の理由だった。
 DSルネに、アンディは電話をした。プログラミングのプロの彼は、この状況をどう分析するか訊きたかった。けれども、彼は出なかった。オペラの創作に没頭してるのかもしれなかった。俺と今話したくないのかもしれない。そもそも彼は、ニュースを見ているのだろうか。ずいぶんと遠くに行ってしまったように、アンディには感じられた。
「そういえば、お前。坂崎エルマのことは、自分に任せてくれと言ってたよな。彼女の内部で始まってしまったキュービック化を、より確実に、進化させるのは、自分の仕事だとも」
「死んでしまったんです。仕方がないじゃないですか。彼女はすぐに、危篤状態に、なってしまったんです。僕に出番は、まるでなかった」
「遺体解剖でもしたら、よかったじゃん」
「正気ですか?」
「いや、すまん。でも、あの話は、結局、どういうことだったんだっけ?彼女がキュービック化してるって」
「認識のことです。彼女が、世界を捉える、その認識のことです。つまりは、普通の人は、キュービックシリーズを、リーディングしているときにのみ、それが起こります。しかし、彼女は通常、常時、そのような状態の意識に、なってしまった。受けとる方だけが、そういった状態が続くのは、実に、辛いことです。ならば、そういった、キュービックな状態のままに、キュービック的な何か、モノを、生み出していけるよう、サポートしたいって、確か、僕はそのように提案したと思います」
「そうだと思う」アンディも同調した。
「キュービックシリーズを、どれだけ読み込んでも、その状態は、読むのをやめてしまえば、元に戻っちゃうんだよな」
「今のところは」
「それでもめげずに、続けていったら?」
「変わらないと思いますよ」
「行ったり、来たりを」
「ただ、一種の免疫作用は、できてくるとは思いますね」
「彼らの中で」
「潜在的な可能性を、刺激されている」
「エルマのようになる可能性の種を」
「坂崎さんは、彼女本人が、人体実験されましたから」
「そういった体験が、必要なんじゃないのか?」
「誰にです?」
「我々にだよ。我々、全員にだよ」
「よくわかりませんね」
「わからないか?この状況を見て」
 ほんのわずかな、空白の後、ユーリの表情は一変した。
「そうか。このクラッシュ」
「わかったか?」
「図形予報。時空の測量部門。坂崎エルマ。キュービックシリーズ。つまりは、そうか。このクラッシュは、時空の構造が変わった象徴なんだ。だから、これまでの時空に合わせて、構築されていたモノが、全てクラッシュしてしまった。齟齬をきたしてしまった。鍵と鍵穴が、嵌まらなくなってしまった」
「そうは思わんか?」
「そうか。そうかもしれませんね。あなたは、何も考えていないように見えて、ズバリ核心をついてくる」
「何も考えてはいないさ」
「だとしても」
「お前はさ、自分が言ったことを、覚えていないのか?覚えていないんだろうな。たまに、ほんの一瞬だが、とんでもない発想を、お前は天から受け取っているんだぞ。天との回路が、一瞬、繋がる時がある。そういう能力がある。でもその繋がったとき、それは無自覚だ。意識にしっかりと刻印されてはいない。無意識に交信しているだけだ。だから、俺がその側で、お前が受信したものを、記憶しておかなくちゃならない。俺はね、そういった部分部分に、能力が特化した人間を見抜いて、彼らが気づいていないことを、サポートするのが、実に得意なんだ。ほとんどそのセンスしかない。あとは空っぽだ」
 ユーリは、黙って聞いていた。
「お前はな、この文明社会が、テクノロジーが、行き着いた、そのときに、クラッシュが起こるとはっきりと言ったんだ。俺は覚えているし、今はっきりと甦ってきた。確かに、そう断言したんだ。その瞬間、拡大は終わり、激しく圧縮すると。激しくというのが、どれほどの体感なのかは、知らないが。おそらく、これから味わうんだろう、我々が。この地上そのものが」
「キュービック化が、鍵なんですか?」
「すべては、そういう構造に変化する。その始まりさ」
「時間をかけて、変わっていくんですか?」
「それも、お前、前に、自分で言ったじゃないか。時空だと言いますが、時間のことを断定させるのは、とても難しいですと。空間を把握できれば、時間の方も必然的にって。やはり、覚えていないな」
 ユーリは、沈黙した。
「その構造が、どう変わったのかを、君の測量部門が、明確に掴んでいなければならないんだぞ、本来は。そして、図形予報を、しっかりと発令させていないといけない。そもそも、こんなクラッシュが起こる、だいぶん前にな。しかも、図形予報師を、多数、醸成していないといけない」
「すみません」
「今からでも、遅くはない」
 ユーリは、すぐに自分の足元を再び見るべく、自身の研究に没頭する科学者のように、足早に、アンディの元から退席していった。
 本当にこれでまた、もう一人、モノを作る人間をその道に導いてしまったかのように、アンディには感じられた。自分はそれでいいのだと思った。モノを作り出す能力は、皆目ないのだ。そういった人間を、周りに多数配置させることこそが、自分の唯一の存在理由であることを、また認識させられた瞬間だった。


「本当に、大変なことになりましたね」
 あの男が再び、訪ねてきた。アンディの携帯に、直接、電話をかけてきて、二人で会いたい旨を、伝えてきたのだ。
「ご足労、申し訳ありません。こんな事態になってしまい、外出して移動するのも大変なときに。でも、どうしても話したいことが。直接。あなたの会社で会うのも、どうかなと思って。不審な男が、何度も出入りしていてはと
 確かに、密室で二人で会うのは、健全なことのようには思えなかった。
 アンディは、自分の身を守るために、身構えていた。人目はたくさんあった方がいい。向こうも考えは同じだったのか。とにかく、外の空気を入れた方がいい。
「こないだの件は、考えていただけました?」
 脈略のない男の会話を、アンディは無視するように、ただ超然と、この場面を、遠くから眺めていた。何故かしら、男の顔を、うまく認識することができない。身体全体も、輪郭がぼんやりとしていて、体格がいいのか、背が高いのか低いのか、纏っている雰囲気だけが、曖昧で、その都度濃淡までもが、変化しているみたいだった。ひとつの個体に安定していかない、変異中の、ウイルスのようだった。そうだ。ウイルスなのかもしれない。これは、男というよりは、人に寄生する、ウイルスなのかもしれない。人を介して、生き延びていく、ウイルスなのだ。
 そう思ったら、何だか気が抜けていった。どんどんと、リラックスしていく身体が感じられた。ウイルス相手に、話し合いも何もない。
「本当に大変ことになってしまいましたね」とウイルスは言う。アンディは、そうですねと、今日初めて、ウイルスを相手に、言葉を発する。
「ナルサワトウゴウとは、知り合いさ」
 アンディは言った。
「ナルサワトウゴウは確かに、だいぶん以前から、知っている。会社をつくる、ずっと以前から。俺らは、個人的な知り合いだった。友達ではないが、よく知った間柄だった。これは、他の誰もが、知らないことだ。誰に言うつもりもなかった。だがこれだけ、しつこく、付きまとわれて問われているんだ。白状しようか」
 アンディは、さらに肩の荷が下りた。ウイルス相手に、そう言った。
「あなたが、僕らの関係をどう考えているのかは、わからないが、おそらくは、理解はできないだろうが、ずっと昔から、彼とは、ひとつの約束をしていた。もし、自分の身が危なくなったときには、その身辺にいる近親者や、知り合いのことを、よろしくと。引き取り、危険から守る役目を果たそうと、互いに約束していたんだ。まだ、二人が何者でもなかった頃に。俺もあいつも。ただ、その頃に、一度だけ。それ以降は、ない。二度と、そんな話はしなかった。そして、互いに、道は開かれていった。人生は、飛躍していった。互いに会うことすら、なくなっていった。そもそも、友達じゃない。僕らの関係は、僕らでさえ、うまく表現することができない。ただ、どんな疎遠になろうとも、相手が、今、どんな状態でどんな仕事をしていて、何に取り組み、何に悩み、行き詰まり、また何が軌道に乗って、うまくいっているのか。そのすべてを、誰よりも把握していたのだろうと思う。それにあいつは、探偵だった。そんなことは、得意中の得意だった。俺もまた、いろんな人間を使って、あいつの実情を、絶えず情報として得ていた。その、水面下でやっていることも、互いに、しっかりと把握していたように思う。僕らはずっと、意識し合っていた。そしてついに、あの約束が果たされることになる。その、ただの一回がやってきた。あいつの、身が危ないことがわかり、俺は、肉親のいない、あいつの、最も身近にいた、仕事上のパートナーの秘書の、その後を、引き受ける必要性を感じた。そう感じただけだ。それで十分だ。俺らのあいだの事なら。そして、彼女の再就職先を、算段つけた。それの何が悪い?こんなことを知って、お前には、何の得がある?あとは、シュルビスか。あいつは、ジャンキーだ。賭け事なしには、生きていくことのできない、生粋のギャンブラーだ。廃人だ。何かへの溺れによって、確実に、死が約束されていた男だ。常に、死に場所を探しているような男だ。それが、たまたま、俺のところだった。墓場をつくるのが、俺の役目だ。ただ、安らかな最期を迎えることを、俺は願っているよ。あいつに、ナルサワの殺害を、依頼しただって?そんな事実はない!」
「そうは言ってませんよ。誰がそのようなことを、言いました?」
「お前だよ。そう言っているようなものじゃないか!」
「あなたは、ご自分で、自白なさっています」
「俺はな、表面上のことなど、どうだっていいんだ。大事なのは、真相だ。底の、さらに底にある、運命の真意だ。天の意志だ。それだけが、大事なことだ。俺にとっては。お前は違う。お前は浅い些末なところだけを取り上げて、そこを徹底的に、突こうとしている。わかるよ。たいがいの人間は、そうだ。俺だって、そういう部分はもちろんある。人間だからな。だがそれだけじゃない。俺にはもっと、幾重にもわたった層がある。お前は、その層に切り込める器ではない。これは器量の問題だ。理解力の問題だ。直観による、次元の異なる認識だ。その底の浅さ、了見の狭さが、お前のその、風貌にな、漂う空気に、すべて、丸裸になってしまっている。一目でわかる。帰るんだな。俺に付き合っていて良いことなど、何一つない。もちろん、俺にとっても。ナルサワトウゴウが死んだって?当然じゃないか!もう死ぬことになっていたんだから。誰よりも、俺が知っているさ。誰よりも、俺が、はやくに悟ったんだから。そして、それに向けて動いてきたんだ。何を言われようと、どう思われようと、俺は自分のできることをした。あいつとの約束があった。互いに顔向けできないことをするわけにはいかない。俺ら二人のあいだのことに、いったい、どんな輩が入ってこれるというんだ?それはもちろん、リナだって同じことだ。誰だって同じことだ。理解の及ばない領域のことだ。俺らは約束を交わしていた。それだけを、お前には言う。それ以外に発する言葉は、何もない。帰れ!」

 男との邂逅は、十数分で終わった。男はあっさりと帰っていったのだ。
 アンディは、さらなる反論、さらなるまとわりつきを、感じ取ったが、何故かそういった現実は、やってこなかった。今後も、不定期に、あの男はやってくるようには思えない。本当にこれで、きっぱりと縁が切れたかのような感覚だった。あの男がいったい、誰であるのかは、それ以上考える気にもならなかった。ただの通りすがりのような幻だった。
 ふと、外出したこのカフェで、アンディは食事をしていこうと思った。ここのところ、あまり外出をした記憶がない。あの男にでも呼び出されなければ、こうして外の空気すら、吸ってはいなかった。カフェは閑散としていた。どこで、電気システム系統がクラッシュするかわかったものではない状況だ。しかし、カフェは別に、複雑なテクノロジーが張り巡らされているわけでもない。別に危険度などないのだが、人々は外出そのものを何故か控えるようになり、街中にはほとんど歩く人の姿もない状態だった。システム障害の対応に、どれほどの人間が当たっているのか。そのシステム障害の煽りを、最小限にするべく、行動自粛を強いている多数の人々。この静まり返った文明の中心地は、不動で、それこそ台風の目の真ん中に入ってしまったかのようだった。アンディは、女たちのことを考えた。この時期、彼女たちは、どのように過ごしているのだろう。江地凛は元々、体が強くなく、部屋に籠りがちだったから、今もたいして生活は変わりないのかもしれない。マナミは、クラブのママだから、店の売り上げは、大変な痛手を被っていることだろう。ハルカタトゥも活動的で、外でライブばかり開催して、生計を立てていたから、窮地に陥っているはずだ。だいぶん前に別れた、あの頭のいかれた円雷花のことも、思い出した。きっと彼女はこの時期も、部屋に男を連れ込んで、セックスばかりに捌け口を見いだしているのだろう。それぞれが、この止まってしまった文明世界において、行き場のないエネルギーの、のたうち回りを、経験しているに違いなかった。だが、ふと、自分と自分の周りについては、それらとは全く異質な状態を、維持しているような気がした。特に際立って、思い起こされたのは、ドクターゴルドだった。DSルネだった。自らの探求に没頭している。こういった事態が、発生する少し前から。まるで予知していたかのように、自らのシェルターに入り、そして、それぞれの探求を、スタートさせていた。そんな彼らには、逆に、この事態は、エネルギー的には、追い風になっているのではないか。彼らが身の内に、より深く進んでいくのに、追い風になっているのではないか。天からサポートされた導きのように、普段よりも容易に、事が進んでいっているのではないか。構造が変わってしまったのだ。時空の構造が、反転してしまったのだ。聳え立った山は谷へと変わった。外側に突きだした構造は、内側へと捲れ、地を徘徊し、ぐるぐると回っていたエネルギはー、内への気流を、発生させたと同時に、上昇の気流をも、作り出していく。そして拡大。
 ユーリだって、今、その道に踏み出し始めたのかもしれない。この前の、我々の会話を最後に。さらに別の誰かも。それも、身近な誰かも。皆、同じように、今度のことを追い風に。女たちもそうなのだろうか。女たちも、ここぞとばかりに。アンディは、これまで、関わってきた人間たちの顔を思い起こしては、時の流れにまた手放し、別の姿が映ってき始めた人物へと、意識を移動させ、また手放した。そんなことを繰り返しているうちに、さっき会ったあの男の輪郭が、鮮明になってくるように思えたが、それは勘違いだった。
 アンディは食事を済ますとすぐに、自宅へと引き返した。


 俺は何か、今この時における核心を、掴みかけている。いや、ほとんど掴んでいるのだ。その掴んでいることが、完全に意識に浮かび上がってきていないだけだ。そのもどかしさが、何ともいいようがなかった。瞬時に把握したかった。会長職にある人間としては、誰よりも正確に、理解しておくべきことだった。遅すぎる。その遅い自分自身に、アンディは苛立った。身の回りの天才系の男たちは、すでに走り始めているのだ。ただ彼らは、何もわかってはいない。本当の意味での、何故自分がそのような行為に走っているのかが。むしろ、それはわからない方がいい。わからないからこそ、盲目に、ただ全霊で自分を、エネルギーを、自分の人生そのものを、すべてを賭して、邁進することができる側面がある。だがこの俺は違う。部分に才能などない。核心を、誰よりもはやく掴んで、次の一手を素早く打つ、ただのそれだけが、自分の存在意義なのだ。もどかしすぎた!アンディは、部屋に戻ると、ソファーに腰かけることなく立ったまま、ずっとうろうろとしていた。時おり、思いついたように、窓から外を眺め、停止と静寂に満ちた眼下の世界に、目を細めた。ここから見る世界は、いつだって静かなものだった。地上が繁華街と化して、喧騒の極みにある時でも、実にそのような体感からは解離していた。ただ夜になれば、照明の暗さに、街がいかに活気づいてないかが、一目瞭然なはずだ。アンディは、机の上に置きっぱなしになっていたキュービックシリーズDが目に入った。そういえば、まともに対峙したことはなかった。何度か、その仕組みを、ゴルドから説明を受け、それならこういった売り出し方があるんじゃないかと、他人事のように、指示を出した。キュービックシリーズを開き、リーディングするといったことも、一度くらいしかない。あとはずっと、机の上に放っておいている。そのキュービックシリーズが何故か、この俺を今呼んでいるような気がする。この宙空にただの二人きりであるかのように。実際、誰の存在も、ここにはなかった。部屋には、モノは特に置かれていない。ソファーに照明くらいしかない。アンディは、趣味の持ち合わせも、コレクションの類いも、まったなかったので、部屋は閑散としたものだった。ここに、女を呼ぶこともなかった。たとえ呼んでいたとしても、彼女たちが帰ってしまえば、やはりこのような状況が簡単に生まれる。ここで過ごした一人の女性のことに、意識が行くことを、このときも、アンディは避けていた。あまりに短い時だった。婚姻関係にあった。それはすぐに奪われ、アンディには、巨大な空白だけが残された。その空虚はいつだって、ここにあった。いや、この自分の輪郭、存在自体が、空白なのだ。本当は存在などしていないのだ。その空虚を埋めよう埋めようと、そんな自意識はないと思っていたが、自分の行動は、それとは裏腹であった。地上を制覇したい。経済的にも、政治的にも、芸術的にも、そして宗教的にも、性的にも、ありとあらゆる手に入れられるもので埋め尽くしたいと。消去法ではなかったが、そうやって手にいれていく度に、リストからは外していく自分を、アンディは見ていた。まだこんなものがある。まだあんなことがあるじゃないか。そうやってずっと、未来へと何かを引き伸ばしていた。だが今こうして、生業がすべてストップしたことで、ある実態が、浮き彫りにされる形となった。その巨大な空白が、目の前にそびえたっているのだ。対置しているのだ。そしてそれは、自分からは切り離された他者として現れているのではない。それも、また、自分そのものであり、対置しているこの二つの存在は、まるで別のものではなかった。ただの一つだった。そのただの一つを、眺めている、この自分がいる。そこにも、対置の関係があった。しかし、それさえも違う二つではなく、同じ一つなのだ。そうやって、何度も何度も繰り返していくことで、アンディはいつになっても終わらない作用が、繰り返されていくことを知った。そして、この自分という存在は、いったいどこにあるのか。部分的に暫定的に、ここだと思い込む以外に、その場所はうまく見つけられなくなっていた。かなり凝縮して限定的に封じ込めなければ、このアンディという存在を、うまく証明することができない!アンディは我に返るように、机の上のキュービックシリーズに目を向けた。
 まさか、キュービックを見ていたことで、何かの幻覚が、引き起こされたのだろうか。キュービックシリーズはクラッシュにより、当然、リーディングすることもできなくなっていた。ただの箱になっていた。ただの塊にすぎなかった。何の反応もない。物語を、送り寄越してくることもないし、ある種の世界観の中に、引き込む力も、発動していない。これが普通の紙の書籍であるのなら、そんなクラッシュとは無関係に、開いて、普通に文字を読んでいったらいい。アンディは、さっきの自分からは、どんどんと遠ざかっていく視線の引きを、思い出していた。そして、このクラッシュしている状況と、重ねていた。ユーリが言っていたことを、思い出した。今までが、山型の時空構造だとしたら、今は、谷の波動です。だから山は、その谷を受け入れられずに、対立軸を鮮明にして、全停止してしまったのです。なので我々も、変わらなければなりません。我々そのものが。我々の個々が、それぞれ。そのそれぞれというのは、職業のことだ。専門分野のことだ。個性、才能のことだ。俺は俺の役割の中で、その谷化を達成しなければならないのだ。頭に浮かんできた言葉は、デスバレーだった。死の谷。ドクターゴルドに発注した、アンディ王国の広場に設置する、何かの存在。お前にはわかっているはずだと、アンディは言った。それをその場所にただ、嵌め込めばいいんだ。アンディには、そのことだけが、わかっていた。確信していた。そういう物事の決め方を、これまでもしてきた。それで成功させてきた。全てを。中身を理解する前に、そうしなければいけないことだけが、明確にわかる。そして捉えたときに即刻為す。それ以外に方法はない。おそらく、ゴルドにとっても、絶妙のタイミングだったはずだ。彼は次なる研究に勤しみ始めていたはずだ。そういう波動を感じた。俺は、誰かの、何かの、そう、天からの代理人のように?時空の境目境目に、的確な場所へと、方向づける役目があるのだ。このアンディ王国にしても、実は、私利私欲から生まれたものではなかった。しかし、途中から、自分から生まれ出た野望へと、切り替わってしまう危険性は常にあった。アンディは、この自分もまた、あいつらと同様、このクラッシュを逆手に、自身の時空構造に働きかける必要性を感じていた。自分自身を実験台にする必要性を感じていた。


 DSルネは、この世の中の惨状を横目に、オペラの原作・脚本づくりに没頭していた。
 ルネはこの時期、人生でもっとも、外部からの情報、人、物を、できるかぎり、遮断し
て生きていたので、ほとんど彼自身の生活には、影響はなかった。それでもルネは、一日
に三十分ほど、公共放送を見ていたので、今世界がどのような状況になっているのかの認
識は、毎日、更新されていた。今、現状がどうであるという情報は、入ってきてはいたが、
ルネはそれよりも、別のことを思っていた。今この自分が傾けている仕事と、この世間の
惨状が、何故かぴたりと、符号しているのだ。あまりにタイミングが合いすぎていた。ル
ネが製作に入り、しばらくして、こういった事態になったのだ。プログラマーの仕事をし
ているときだったら、もちろん、ルネは率先して、この不具合の調査に、先頭をきって切
り込んでいっただろうし、また、これまで自分がしてきたプログラムの責任も、担わされ
たことだろう。復旧に、不眠不休で取り組む、自分の姿が想像できた。だがその直前で、
ルネはまるで来たるべき事態を予感するかのごとく、逃れていた。そういうつもりは、毛
頭なかったが、そういうタイミングだった。そして、新しい段階における仕事に、着手し
ていた。会社をやめ、大口の顧客だったアンディリーからも、了解をとりつけ、退いた
のだ。
 アンディは何故か、繊細な理解を示してくれた。有りがたいと同時に、やはり気味
の悪い洞察力を持った男だとも思った。当然、今は、彼から、連絡が来ることもない。プ
ログラミングに関する事態の改善を、依頼されることもない。もちろん彼は、ルネの元居
た会社に、発注をして、別の担当者が、事にあたっているのだろう。関根は多忙なのだろ
うか。関根に、個人的に依頼した、画家ケイロ・スギサキの情報は、滞ったままだったが、
こうした事態にでもなれば、益々来ることは期待できなかった。そして、彼女とも、それ
以来会ってはいない。
 ルネは製作に没頭した。オペラをどのように書くかなど、習ったこともなければ、手本にしたものもない。完全な思いつきに、アンディからの力強い後押しで、偶然導かれていったようなものだ。だが、アンディは、形がどうだとかいう前に、とにかく、この胸の内に溢れ出てくる奔流の出所を、何としても作りたかったわけで、ただそのために、今は書いていると言ってもよかった。形にするのは、その後でいい。出揃い、いささか溢れ過ぎた、その洪水後の町並みに対して、次にするべきことを、考えればいいのだ。それもまた、厳しい作業になるだろうが、とにかく、段階を踏んでいかざるをえなかった。
 そういうところは、以前の仕事と共通するところだった。ルネ独自が編み出した、手法だった。それを応用するだけでいいといった、アンディの言葉も、蘇ってきていた。このオペラが完成するときにも、アンディは、その出口で待っている光景が目に浮かぶし、それを上映する劇場は、彼の事業で新築した、敷地内にあることは、ほとんど確実のような気がした。

 すでに、出だしは、スムーズに発進し、最初の山場に向かって、疾走してるところだった。どんな内容なのかは、ルネ自身にも、いまいち掴みきれてなかった。ストーリーの展開は、書き進めていかない限りは、結果として、見えてはこない。ただ一つ確実に言えたのは、その構造だった。むしろ、ルネは構造こそが、自分が設計する唯一の素材であって、そこにストーリーやら、展開やら、人物やらが、自然発生的に、ただ生まれててくるものであるという認識だった。自分は、構造を設計する役割を担っている。そして、その構造を、産み出すことが唯一の仕事でもある。アンディの、言う通りだ。そして、この今書いているオペラは、あるいは、自分にとっては最初にして、最後の唯一の作品という可能性が非常に高いのだと思った。ほとんどこれ一作のために、転身したのだ。そして終わればまた、プログラマーに戻るのかもしれない。それは余生だ。すでに、余生が始まるのだ。だがルネは、その事実を寂しいとは思わなかった。まだ、そんな現実は、来てなかったし、それに、そういった現実が来ることは、この仕事が完成し、思惑が達成できたことの、証しであるのだから、喜びの極みの、状態でもあるはずだった。DSルネは、とにかく、没頭したストーリーを書き続けていった。そのあいだも、構造には、細心の注意を払い、構造が変化するそのときを、静かに待っていた。ルネには、事前に準備した構造があり、それを元に、その上を、適切に今歩み始めているのだ。しかし、その構造は、突然、思いもよらぬ変異を余儀なくされる。強烈な圧力の元に、ひっくり返されてしまう。その予兆を感じながら、繊細に素早く、時間を展開させていった。そのどこかで空間は歪み、その歪みが極まったときに、時空は反転する。引っくり返る。そのイメージが、抜けなかった。そして、今、外の世界では何かが起こっている。この共時性だ。何かが深く共鳴し合っている。無関係じゃない。ルネはしかし、外の現象には、特段、のめり込むことはしなかった。深く調査探求することもしなかった。それは、今の自分の仕事ではなかった。それは、誰か別の人間がやることだった。別の専門性を持った人物が、やるはずのことだった。後から、その調査結果を元にした、研究の報告書を読み込めばいい。今は、自分のことに集中するのだと、ルネは思った。人との接触を絶ち、これまでの仕事からの退路を決め、アンディとの奇妙な約束をし、ルネは自らの新しい道を歩んでいった。その反転は、書いているどこかの時点で、必ず起こる。その起こったときに、当然、それまで続いてきたオペラの構造は変わる。やはり、過去のどの作品も手本にしてはいないといえ、確実に、その構造に関しては、踏襲しているはずだった。じゃなかったら、何もないところに、何かを書くことなんて、できやしない。それは、オペラとして流布している、これまでの構造を、踏襲している。あらゆるエンターテイメントが奏でてきた構造を模している。それは、
人生における、人間の当たり前の時間の感覚であり、物理的に、そこに居るという、空間感覚そのものでもあった。


 アンディは、機能しないキュービックシリーズを、ずっと毎日眺める時間が増えていくにつれて、ふと、何かの文字の羅列が、浮かんでいるように感じられる時があった。
 アンディは、ニュースを見ることも、情報をどこかから、取り寄せることも、何もしなかった。世の中の状況を、アンディは、自らの直観だけで捉える節が、元々あった。ヒマラヤの山頂に、世間から引きこもった仙人のような一面があった。アンディは、そうやって、物事をいつも決めてきた。情報などを取りに行かなくても、世界では何が起こっているのかがわかる。何が起こり、どう展開していくのかまで、感じるものだ。むしろ、余計な、しかも、人工的に湾曲を起こしている情報を、受け取らないからこそ、その未来を正確に捉えることができた。地上に跋扈する情報ばかりを、体内に入れることで、そう、入れれば入れるほど、不思議と未来が感じにくくなる。黒い雲で塞がれたようになる。何か不安や怒りのような感情が、自分の中で掻き立てられるからであろうか。とにかく、直観は淀み、何も決断ができなくなる。アンディはこういう時だからこそ、なおさら、自室に引きこもり、とにかく、地上からは離れていること。宙空に浮いている場所にいることを、強く確認することに、時間を割いていった。そして、空を眺め、その先にある天の存在に、意識を傾けていった。天と繋がり、天そのものとなり、そして、地上を、睥睨している。その天へと、どこまでも突き抜ける感覚と、地上のある地点に、その広がりすぎた意識を、凝縮していくことを、同時にすることで、アンディはいつもよりもさらに、研ぎ澄まされた神経を発動させるのだった。
 これが俺のやり方なのだと、アンディは思った。ほとんどこれしかしてこなかった。
 今もこのときも、やることは同じだった。そして今は、より極端に、究極的な意識の使い方を、体得しなければならなかった。ここに何かが集まってきているのだ。この人生、生涯に渡って、張り巡らされたエネルギーを今、ここに持ってこなければならないのだ。ここに結集させて、爆発させないといけないのだ。そうせずには、そのエネルギーは、全生涯に渡って、実に弱まった拡散を、してしまう。そんなむなしいことはさせないと、アンディは自らに誓った。そんな生殺しのような生にはさせないと。誰に向かってではなく、ただ天に向かって、そう宣言した。そんなことは、絶対にさせないと。ならば今、ここに、圧縮させる以外にはなかった。だんだんと、アンディは、自分が居る場所、そして自分の体の輪郭が、不鮮明になり、巨大な鳥になっているかのように、感じられていった。グリフェニクスだ。会社の全事業の、そして、王国の化身であるグリフェニクスが、今現れているのだ。アンディは、いない。アンディは、そこにはいない。グリフェニクスが、今世界を覆っている。世界を越えた、その時空そのものとなり、さらなる別の領域へと、飛翔しようとしている。グリフェニクスではない、別の領域へと、拡大していこうとしている。別の存在へと変態しようとしている。今は、この流れに乗るべきだ。意識だけはかろうじて保持しているアンディは、溶解した自身の肉体を、探すことなく、上昇していく気流に、ただ身を任せていった。


 ユーリは、屋内にいることに気詰まり、外に出て散歩することにした。こうして、自ら街を歩くのは、どのくらいぶりだろうと思った。自分の目で風景を見て、自分の肌で、風を感じるのは、素直に気持ちがよかった。スペースクラフトは今や、まるで機能のしない、ただの巨大な箱と化していた。箱といえば、キュービックシリーズもまた、ただの置物と化していた。動かない箱ばかりが、そこらじゅうに存在するようで、まさにそれが今、世界が置かれている現実なのだと、ユーリは自覚した。
 人は生きているはずなのに、こうもひっそりと、街そのものが、固まりり凍ってしまったように感じるのだ。屋内にじっと身を潜めているのだろうか。あれだけの人々が、皆一斉に?外に出ればいいじゃないか。自分の身体で、歩き回ればいいじゃないか。運動でもすれば、いいじゃないか。どうして屋内に留まっているのだろう。ユーリは、不思議に思った。そして、真夜中、ほとんど店が閉まってしまった時間に、散歩しているかのような気分になっていった。本当にどういうことなのだろう。
 ユーリは、アンディから引き継いだ事業の今後については、何も考えないようにした。急に引き継いだ責任感みたいなものが薄れ始めていた。あれは、あくまで、アンディのものなのだ。自分がでしゃばるべきではなかった。何をいじくり回そうとしても、あるべきバランスを乱すことだけに、寄与してしまうのだ。所詮は、自分の領域ではない。静観しているのが、正しいのだ。それに、この不具合は、自分たちだけのことではなかった。この文明社会が一斉に、その動脈を停止してしまったのだ。それよりもと、ユーリは思う。それよりも、このクラッシュがどのくらい続くのかはわからないが、その後のこと。クラッシュ後の世界のことに、ユーリの意識はいった。クラッシュから、これまでどおりの復元が、なされるのであれば、それはそれでいい。そのまま、元には戻らなくてもそれでいい。それぞれ道は、別の方向に開かれていくだろうから。どうしたって、どこかには、進み始める。それは、個人の意思ではないし、力で捩じ伏せられることでもない。流れに身を任す以外にない。ただし、クラッシュ後の世界は、いずれにしても来る。どんな世界だろうが、来る。その世界で、自分は、何をしているのか。どうあるべきなのか。このままでいいはずがなかった。このままアンディから受け継いだ腰掛けを、続けていいわけがなかった。この状態を逆手にとり、本当のやるべきことに、今邁進する必要があった。そのための空白の時間が、与えられているのだ。この散歩は、そういった意味があるのだ。そしてこの空白は、自分だけに与えられているものではない。今散歩している人間は、皆、自分と同じことを考え、同じ過渡期を迎えているのではないだろうかと、ふと思った。
 ユーリはほとんど、無人と化した街を見つめていた。猫の姿ばかりが、目についた。歩調を合わせようとすると、猫は皆去っていった。合わせることをしなければ、猫もまた勝手に、そこに居るだけだった。今この瞬間も、街を徘徊している人間は、少なくない数いる。ユーリは、目を閉じ、心を研ぎ澄ませた。必ずいるはずだった。この空白の意味に気づいた人間が。アンディは、確実に気づいている。ドクターゴルドに、ふと意識がいった。あの男は、クラッシュの前あたりから、社内では姿を見なくなった。おそらく、研究室に、執拗に籠り始めたのだ。あの男の行動も何か、今のクラッシュを予期しての、現象の一つとして、考えられなくもなかった。身近にいた男たちを、ユーリは、考え始めた。坂崎エルマは、危篤中に亡くなった。他には、DSルネか。あいつは、そうだ。やはり、ぱったりと見なくなった。本社を訪れる機会が、まったくなくなった。ルネは、外部の人間だったから、当然といえば当然だったが。それにしても、タイミング的には、同じだった。シュルビス初はどうだったか。やはり見なくなった。あいつは、ここで、まとまった人数で、邂逅したときに、ずいぶんと目立った発言をしていた。そうだ。あいつこそが、このクラッシュを予言するようなことを、連発していたじゃないか。あいつに連絡をとるべきか。いや、放っておこう。今、会うべき時期じゃない。今は、一人で、ここを通過するべきだ。皆が、個々、別々のことをしていなければならない時期だ。そうでなければ、クラッシュ後の凸凹は、まるで填まることがなくなる。それぞれが、違った凸凹を、確立していなければ駄目だ。アンディに指示された、測量部門を確立し、ここでしっかりとした結果を生み、クラッシュ後に世界に対して、表現しなければ、そのとき自分に、居場所などない。
 その後の世界のことばかりを、ユーリは、考えるようになった。

 測量部門、というくらいだ。今、この状況を固定させ、まずは、その地質状況を正確に把握しなければならないと思った。地質というのは、何も、地面のことではなかった。地面の捉え方を、まずは変えなければ。地面というのは、もう今は宙空を含めた三次元の世界なのだ。これまで二次元だったものは、三次元に移行している。三次元だったものはそれ以上に。それが通常の有り方になる。いや、なった。すでになったのだ。だから、その齟齬がクラッシュをもたらしているのだ。あらためなければならない。そうか。その改め、つまりは更新こそが、測量部門のやるべき柱、根幹、なのかもしれなかった。世界が更新したことを正確に捉え、認識していない人に伝え、どう認識していることが正しいのかを、正確にレクチャーして、そこを基盤に、どう生きていけばいいのか。どう、その先へと進んでいけばいいのか。飛躍、進化させていけばいいのか。自然な気流の流れに乗る方法。一体となる方法を、しっかりと伝達、伝授することこそが、測量部門なのだと、ユーリは今、その核心部分に、触れたことを知った。そして、それは、そこが確立するからこそ、アンディの会社の中での存在意義が出てくる。それまでの彼の事業が、そのクラッシュ後も続き、さらなる発展をしていく、その起爆剤、その後ろ楯にこそ、なるのではないかとユーリは考えた。
 それはものすごく、重要な役目を担っている。本来、もしかすると、そういう意味での引き継ぎ、明け渡しなのかもしれなかった。全事業を、そのまま維持していこうとしていた、これまでのあり方は、まったくもって的外れだったのかもしれなかった。完全に無駄とは言わないまでも、自分は何の貢献もしていない、逆にちょっとずつ、後退させていく、障害物だったのかもしれなかった。だが今、更新の機会は、訪れていた。このタイミングで思うこともまた、アンディには、お見通しだったのだろうか。それはわからなかった。


 その機能を停止している箱を、ずっと見つめていると、何やら文字が浮かび出てきていることが、アンディには感じられた。最初は、シークレットフォールズだった。そのあと、縦続けに、セブンスパイラル、クラスターウイング、ブルーオーシャン、ニューレムランティズ、そして、ブラッキホール、ホワイテスタホール・・・。キュービックシリーズは、今も生きていることが、アンディには感じられた。おそらく、その言葉、概念だけでは、何もわからない。ただの、目次のような存在だ。中身はそれ以上、開示することはなかった。入ることはできなくなっている。だが、アンディは、ずっと見つめ続けた。視線をほとんど動かすことはなく。眼球を止めることが、重要なのだと思った。瞬きもできるだけせず、ただ自分のすべてを止めるかのごとく、微動だにしない意思を、キュービックシリーズに伝え続けた。
 世界のテクノロジーが、すべて停止している今、人間もまた、停止しなければならないのだ。アンディは動揺し、さまよい出ていく心の動きを、それとは別に、ただ静止している場所から眺めていた。眼球の動かないその世界の中に、アンディ自身が吸い込まれ包まれているような気がした。その状態でも、キュービックシリーズは、少しも作動はしなかった。アンディは、機能しないキュービックシリーズの中に、その呼ばれもしない箱の中に、自ら入っていくために、自分の中心をとにかく静止させた。
 やはり一連の言葉は、浮き出てきている。この順番通りに、本の中には、世界が描かれているに違いない。ポイントを捉えた、その言葉の羅列なのだ。ということは、まずは、シークレットフォールズから始まる。この世界の状況こそが、まさに、シークレットフォールズの始まりのように思えた。ということは、この新しいタイプの書籍の中身には、こうした事態が引き起こされることを、予期した、そのキーワードが書き込まれているということか。予言の書として、その半年、一年以上も前に、世にリリースしているということか。アンディは、自分が選び、そして、新しいテクノロジーに適合させたこの書籍を、そんな予言の書として、認識などしてなかった。何においても、中身は後から、アンディを追ってきていた。常に先走り、何の自覚もなく、ただ先手を取り実現させ、結果を取る。それが何だったのかは、あとから、こうしてわかる。
 アンディは、この空白の期間に、これまで先走ってきた、自分の事業の、その中身を、こうして確認する義務を感じるのだった。フォール、滝。シークレット。秘密、秘境。秘境の滝。流れ落ちる。落ちていく。その構造。谷だ。デスバレーしか、考えられない。
 山型から谷型へと、その構造を変えた。時空の構造を変えた。その象徴だ。認識の構造が変わった。シークレットフォールズが起こった状況が、この書籍には照射されている。まさに今だ。今が始まりだった。セブンスパイラル。七つの螺旋。七層かもしれない。一つの層をぐるりと旋回し、次の層。次の層へと移行。七つ目の層を越え。とても下降しているようには思えない!上昇している。セブンスパイラルは、上昇の気流。加速の気流に違いない。シークレットフォールズ。我流の解釈としての、デスバレー。死の谷。その構造になった瞬間、気流が発生する。螺旋状に。そして、上昇していく。意識がだ。
 クラスターウィング。クラスター。塊。ウイング。羽。塊の羽。上昇。上昇していく中で現れる羽。螺旋。旋回している。旋回して吹き上げられていく。羽などいらない。上昇するために現れたものではない。何なのだろう。羽。必要のない羽。不必要な羽だ!塊。塊のように、まとわりついた不必要な羽の存在。それが現れ、元々あったものなのだろうか。元々存在していた、でも見えなかった、認識できなかった、その塊が、複数の塊が、多重の塊が、重りだ。それが、羽のように現れる。羽だと、それまで思われてきた不必要な重り。重荷。それが舞い上がる。強烈な上昇気流と共に。撒き散らされる。分解させられる。粉々にされ、舞い上がり、散っていく。情景が浮かび上がってくるようだ。ブルーオーシャン。わかる!そういうことか。その重荷が、粉々に散った、後の世界。地上ではない。まったくの重荷のなくなった青い世界。静けさ。祈り。ニューレムランティズ。新しい何かが。新しい地。約束の地。天地を結ぶその空間。時空間。あたらしい時空間。ブラッキホール。ホワイテスタホール。わからない。わからないが、それは構造が変わったことを意味する言語だ。ブラッキホールからホワイテスタホールへ。その一連の作用の全体性。しっくりくる。そういう内容が描かれた書籍。それをあたらしいテクノロジーで、文字を読むことではなく、伝達するレーザーシステム。アンディは、大きくため息をついた。

 キュービックシリーズは、まったく息を潜めるかのごとく、微動だにしなかった。本当にこれまで、その多重に折り重ねた、レーザーによって、読者の意識にエネルギーを送り続けていたのだろうか。本当に、ただの箱にしかみえない。それまであったはずの機能こそが、束の間の夢であったかのように、鳴りを潜めている。世界そのものも。アンディの事業そのものも。
 これまで動き続け、流れ続けてきた、拡大し続けてきたこと、そのものが、幻であったかのように。
 アンディは今、認識したことを、誰かと共有したい想いにかられていった。そして、ゴルドに、そういった内容で間違いないかと問いたかった。だが彼は、キューブの技術者であって、著作者ではない。著作者はDだった。いや違う。Dは、この話の中に出てくる中心人物。つまりは、登場人物にしかすぎない。書いたのは史実家という、おかしな名前の作者だ。一度、連絡をしたことがあった。彼に、その後の書籍のことも、よろしくと言われたような気がした。何故か、そのときのことが、臼ぼんやりとしている。史実家なんて男は、実在していたのか。Dに会ったことは、はっきりとしている。史実家とは、電話で一度だけ。そうだ。そのあと何度も、連絡した。だが彼は電話に出なかった。直接、彼を訪ねたのだ。ひとりで訪ねていったのだ。彼の事務所に。彼の書斎に。そして、真実を知ったのだ。史実家は、だいぶん遡った時間の中で、すでに故人になっていた。彼は死ぬ直前に、CIという人工知能が執筆する機能に、これまで書いてきた未完成の原稿を接続して、その後の仕事を完成させるべく、算段をつけて他界した。そのチューブに繋がれた植物人間のような、世界観に圧倒され、アンディは退室したのだ。それ以来、行ってはいない。そもそも、キュービックシリーズは、その第一弾がヒットするのが、おそろしく遅く、ほんのつい最近になって、軌道に乗り出したばかりだ。Ⅱ以降の準備に追われることもなく、ユーリに、その後を、引き継がせていた。そのⅡの必要性が出てきていた。だが、テクノロジーは、全停止してしまっている。急を要する状況ではない。けれども、クラッシュ後の世界では、そのⅡのリリースが待望される。シリーズというくらいだった。続けなくては、意味がなかった。ゴルドに、その原稿というか、原作を提出しなければならなかった。この俺が、CIのある、空調の良すぎるあの場所に、出向く以外に手段はなかった。
 あのCIと、対面するのは苦痛だった。ずっと無意識に避け続けていたことを、アンディは知った。CIはすでに、無数のシリーズを仕上げ、この自分を待っているのかもしれなかった。そう考えるだけで、恐ろしかった。
 この自分を完全に飲み込む、巨大な暗渠がそこには待ち構えている。スペースクラフトのⅡもリリースしなければならないだろう。次の世界はすでに待ち構えている。再び陣頭指揮をとる、その場所への回帰を、アンディは決断するときがきていた。


 ただ、何の目的もなしに、歩き続けているうちに、ユーリの意識はいつのまにか、そこにはなくなっていた。どこかに吹き飛んでしまっていて、自分は今、寝ているのではないかと、ユーリは勘違いしてしまいそうになる。寝心地のよい布団の上で、夢うつつに、朝を迎えているような。ほんの一瞬、ひやりと冷たい風が、肌を掠めたことで、ユーリは我に返った。そこには二本の足があった。ふくらはぎに、僅かな負荷がかかっていた。コンクリートで徹底的に固められた地面からは、太股への負荷は、全く感じられなかった。
 ここまで、出歩く人に会わないとは思わなかった。地上は、徹底的に、スペースクラフトによる移動一色になっていて、人々はもうそれ以外には、戻れないのだろうかと思ってしまう。陽は次第に傾いてきていた。ユーリはどこをどれほど歩いているのか、位置情報を確認できる機器を、何一つ持っていないことを自覚した。だが、それも思い直した。
 今の状況では、携帯電話でさえ、発動はしないかもしれない。ユーリは、今歩いてきた道を引き換えそうかどうか迷った。だが、そのまま進むことにした。半分投げやりな気持ちはあったが、ユーリには引き返す場所など、どこにもないことを、ここではっきりとさせたかった。この街の状況を、自分の足で確かめたかったのだ。この地上の体感としての地形を、知っておきたかったのだ。ここでは、体感がすべてだった。感覚をどこまでも研ぎ澄ませ、そこから、あらたな今ある時空の、真なる構造を、読み解きたかった。何か、際立つ目印があるはずだった。ユーリは、その最初の出現に、意識を集中させた。だが、そうすればするほど、目には入ってはこない。やはり起きているか、眠っているかわからないくらいの周波数まで、落とすべきだった。より高く、より広い、認識のもとに、焦点をぼやかせていく必要性があった。それは、身体感覚からの解離もまた、意味していた。それでいながら、身体にはまだ、在るという感覚を少し残す。矛盾しながらも、そのぎりぎりの状態を探るべく、ユーリは歩き続けた。周囲の風景など、気にならなくなっていった。その状態を達成することだけに、感覚を研ぎ澄ましていった。その建造物が現れたことに、ユーリは心底驚いた。
 ほとんど真ん前まで来ていたのだ。石造りで、直線上に、階段の登り道がついている。その側面は天へと向かって、なだらかに突き進んでいっている。後ろを振り返った。遥か先には、似たようなピラミッド状の、つまりは、山型の建造物が聳えたっている。その二つの山型は、一直線状に聳えたっている。一本の道が貫かれている。大きな通りだった。遠近間が、いまいち狂っていたので、二つの建造物が同じサイズなのかどうかも、見当がつかなかった。ただ互いが見つめ合っているような配置なのだ。それは、まるで、生き物のように見えた。動きをやめた生命体のように見えた。ずっと静止し続けることが、運命づけられたその二つの物体の間を、エネルギーが行き交っているような気がした。循環していた。明らかに、この道は、そのためだけに作られていた。人やモノの交通のために、作られたものではなかった。これは、エネルギーの通り道なのだ。それも、二つのピラミッドの。肉眼で見れば見るほど、ユーリには現実感が薄れていった。目を閉じ、あるいは、半分だけ薄め、体全体がとらえる二つの建造物に、ユーリは集中した。この二つ以外に、世界には、何もなくなっている。人もモノも死に絶え、気流もまた、消えていた。この二つの生命体以外に。この二つの間には、激しいエネルギーの交流がある。そのそれぞれが、天との回路を有しているように、ユーリには思えた。個々が、別の約束のもとに、その回路を有している。そこには、個々ではないと、アクセスできない、違う約束のもと、違う目的のもとに、全くの次元の異なる回路が、聳えたっている。ところが、その地上の二つは、それ同士が結び付くための、道を必要とした。互いが交流するべく、道を必要としたのだ。同じ天との回路は、共有することができない。しかし、交流したその後における、得たもの解き放った後の状態で、繋がり合う必要があった。それは、それ以前、ではない。後だ。そして、この道がその交流を可能にする。地を這うこの大通りが、唯一の。そして、互いの交流の果てに、今のこの二つの建造物の状態がある。これは、もう、交流した後なのだ。天とそれぞれが、繋がりあったのは、もっと遥か前のことだ。そうやって、段階を経てきたのだ。そしてそれは、僅かに今、エネルギーの存在は感じたものの、すでに終えてから、長い年月が経ってしまっている。そうだ。これは、ある種の遺跡なのだとユーリは思う。それはほとんど、脱け殻なのだとユーリは思う。完全に脱け殻になる一瞬前に、自分は辿り着いたのだ。ぎりぎり間に合ったと、ユーリは何故か、そう思った。まだ残っているうちに、自分には見るべきものがあると思った。体感すべきことがあるのだと思った。これは、ある種の違ったエネルギーを感じる。この人間においては、どちらかが男で、どちらか女であるような。エネルギーに煮え立つ荒々しさと、ある種の不活発な安らぎとも、倦怠ともいえる、そういった対極な構造を、この身に感じるのだ。どちらがどうなのかは全然わからなかったが、この僅かに交流しているエネルギーからは、対極のそのような二つが、混じり合うための、完全に融合するための、瞬きのようなものを、感じるのだ。交わろうとしているが、どこか反発もしている。弾き合いながらも、統一されているといった。そうなのだ。そういったこの状態こそが、最後の形なのかもしれなかった。消えることなく、ずっとその状態でぐるぐると、回り続けているのかもしれなかった。太陽のように、激しく煮え立つ、ほとんど噴火を思わせる荒々しさと、それをすべて受け止め、超然と見ているかのような、両者。もし、芸術に、二種類あるとしたら、これなのだろうと、ユーリは漠然と思った。何を創作することもできない自分だったが、そうした火のピラミッドを創造するとき。水のピラミッドを創造するときの二つの時期が、別々に分かれて、存在するような気がした。そして、それには順序があり、まずは、火のピラミッドから始まり、燃えつき始めたところから、水のピラミッドが始まる。両者は、共に存在する時間を経験し、次第に、火のピラミッドは、勢いを失い、朽ち果てていく。水のピラミッドの存在感は、増していき、そこが完全になることで、火のピラミッドは、その役割を終え、自らを焼き尽くして、最期のときを迎える。煤にまみれた脱け殻だけを残して。まさに、このように。そして、水のピラミッドは、その最盛期へと向けて、ひた走っていく。だが激しさとは縁遠い、その時代は、静かに、だが確実に、その歩を進めていく。そして、華々しさとは無縁の、寂しい一人きりの、ほとんど天からは見捨てられたかのような、自身もまた最初からそこに存在していたことを、疑うほどの、微量な奮起でもって、最期をのときを迎える。ここに、脱け殻二つが、揃う。地上では、おそらく、火のピラミッドと水のピラミッドが饗宴していた、その時間の分だけ、交流の通り道が、現れていたのだろう。火のピラミッドが、死に絶えると同時に、その道は、まるで用をなくした。火のピラミッドが、建造されたことで、地上に解き放たれたエネルギーは、すべて、水のピラミッドに吸収され尽くした。そして、火のピラミッドを内包した、水のピラミッドもまた、最期のときを迎える。時間の差をもって。相当な時間の差をもって。それから、そのかつての交流の事実を、目に見える形で、残しておくために、こうした大通りが整備され、今、ユーリが目にできている形で、残されている。ふと、我に返ると、その二つの建造物は消えていた。そんなものなど、どこにもなかった。大通りさえ、見当たらなかった。だが、確実に、それはあると、ユーリは思った。ここに、今も、それはあるのだと、叫びたかった。叫ぶ必要はないほどに、冷静にそう思った。誰にアピールする必要も、なかった。それはある。ここに、今も聳えたっている。その二つの残骸は、有するエネルギーこそ、枯渇していたものの、いや枯渇しているからこそ、その二つを融合した、地上からは、だいぶん離れたその宙空に、二つが融合されたかのような、巨大な寺院の存在が、浮かび上がってくる。それは確かに、物理的には存在しないものの、二つのエネルギーは、螺旋状に互いに巻きつき、天へと向かった上昇気流を生み出している。そこには、天と繋がるための回路など、なかった。地上から、全霊で祈りを捧げることで、やっと繋がる儚さは、まるでなかった。回路なんかでもなかった。それはただの、上昇気流だった。下降してくる流れのない、ただの上昇気流だった。どこまでも舞い上がっていく、終わりのない作用だった。そこには、天という概念も、当然のことながら、なかった。上昇と下降のその流れが、一体となって、回路なるものが存在するのだ。上昇し続けるその場所に、天なる場所などなかった。これが、その時空なのだと、ユーリは思った。そこにある寺院から吹き上げ続ける、構造こそが、その谷と化した現在の時空からの、次なる飛躍なのだ。飛躍というよりは、ただの移行だった。その地上の、二つの象徴的なピラミッドと、宙空に発生した寺院の間に、まるで橋渡しのように、その何かは存在していた。ただの、空白の広場が、そこにはあるようだった。だだ広いその場所には、人の姿はなく、彫像や建造物の存在もない。ただの円形の巨大な空白だった。しかし、ただ、何の目的もなく放置された、場所のようには見えない。綿密な何かの計算の元に、生み落とされたかのような。何なのだろう。あまりに広すぎて、例えが見つからない。何人の人々が、収容できるだとか、そんなことは、見当もつかない。一体何なのだろう。地上であることは間違いなかった。だが、純粋に地上だとは言えない違和感が、そこには漂っている。場所がうまく掴みきれない。とらえどころのない気流で、満ちている。そう、人やモノが、何もないにもかかわらず、そこには妙なエネルギーで満ち溢れている。それは、そうかもしれない。あの火のピラミッドと水のピラミッド、宙空の寺院の三点を繋いだ、唯一の場所なのだから。ユーリは、この場所を、今から探す必要があるのだと感じていた。ここに、何かの強烈な秘密が隠されているような気がしたのだ。どうしたら、その場所に行き着くことができるだろう。その場所は、現れるのだろうか。蜃気楼のように、雨の後の虹のように、それは、ある瞬間にだけ地上に現れる、特殊な事情のもとに、浮かび上がる、特異な現象なのだろうか。それはこうして、文明テクノロジーが停止している、今このときにしか、現れ出るものではないのだろうか。ユーリはいまだ、自宅に引き返す気にはなれなかった。


 アンディは、地上に降り、徒歩で、史実家の仕事場向へとかった。史実家はすでに亡くなっていたが、その彼の家に、今はCIの機材が入っていて、部屋そのものは生前同様、保存されているのだという。一時間以上も歩いたのは、久しぶりのことだった。そのあいだ、人影はほとんどなく、店は軒並み閉鎖していた。天気の良い日で、気温も二十度近くまで上がっていた。透明なガラスが、外側に設置された近代のマンションだった。インターホンで名前を告げ、ドアは自ら開け、人のいない白亜のロビーへと進んでいく。エレベーターは停止しているため、階段で53階まで上がる。何度も途中で休みながら、アンディは額に汗を流して進んでいった。部屋の前に来て、インターホンを鳴らした。返事はないが、アンディはドアノブを回し中へと入る。空調が効いていて、少し肌寒いくらいだった。部屋じゅうに、機材が張り巡らされているのを確認する。細長い管や、曲線のホースなどが複雑に要り組ながら、配線もまた、剥き出しで、繊細な位置どりを、それぞれが果たしているように見えた。思ったよりも、部屋は広くはなかった。天井もそれほど高くはない。あのエントランスからして、もっと豪奢な家を、想像してしまった。延々と、作業が継続しているような静かな音色が、そこかしこから、聞こえてくる。空気をとりいれ、吐き出すような音。物理的に紙を印刷しているような、複数の音。さらには、電子音が、細かく刻まれている。その違和感に、アンディはなかなか気がつかなかったが、やっと気づくべきものに気づいた。どうしてこれらの機械は、滞りなく動いていているのだ?今のこの状況が、わかっているのか?どうして、クラッシュしていない?その心の声が、キャッチされたかのように、人間の声が僅かに、その隙間から聞こえてきたような気がした。振り替えると、そこには女の姿があった。円雷花。「円雷花じゃないか。どうしてここに」

 予想外の、その女の登場に、アンディは激しく動揺した。二度と会うことのない女が、目の前にはいるのだ。お久しぶりね、などと、軽い口調で、話始めるのではないかと、アンディは身構えた。
「どうして、ここに。円だよな。円で間違いないんだよな」
 アンディは、彼女から、目を逸らすことができなかった。彼女と過ごした日々が、辛うじて、記憶の闇から立ち上がりかけていた。
 円は何も言わなかった。ただアンディよりも、CIのシステムの方を見ていた。状況が全く読めなかった。自分と、CIの置かれた部屋。そして円。ちぐはぐすぎるこれらの組み合わせは、遠くから見るとどのように映っているのか。何故、こんな配置を、天は所望したのだろうか。誰からも動くことはなかった。何をしたらいいのか、アンディ自身が止まったままだった。ただ何かをしなくてはと、意識が、先走っていくことだけがわかった。どういう流れで、ここに来たのか。どんな展開で、未来に移行していくのか。まるでわからないままに、今、この場違いな瞬間に、全ては固定されていた。
 円雷花はあいかわらず、CIを見ている。CIは、我々には構わず、システムを稼働し続けている。何故、CIは、クラッシュの影響を受けていないのだろう。このマンションそのものも、テクノロジーは、停止してしまっている。エレベーターや自動ドアすら、作動させてはいない。念には念を入れて、注意深くなっている。必要以上に、電源を入れることを、人々は今躊躇している。そうか。この部屋を管理している人間が、CIを止めていないということだ。円は何をしているのか。円が管理しているのか。
「お久しぶりね」と円は言う。その言葉から、全てが再び動き始めることを、アンディ予期する。
「二度と会うことはないと思っていたよ」とアンディは言う。
 あらかじめ、用意されていたようなセリフとシーンに、アンディは、茶番を演じているような気に、だんだんとなっていった。
 ここで吐くセリフなど、すべてが、事前に用意されているみたいだった。円もまたそうだった。だが、その台本の全体像を、今、把握してはいない。次にいったい誰がどんな言葉を吐くのか。円は何も言わなかった。
 次は俺から、何かを言うのだろうか。「君は、ここの管理を、任されているのか?」アンディは言う。
「こことは?」
「俺は知ってるんだ」
「知ってる?」
「CIのこと」
「なにそれ」
「惚けるんじゃない」
「わからないわ」
「君は何をしてるんだ?」
「友達よ」と円は、冷たい視線を、アンディに送る。初めて目が合った。
「友達って、その友達が、この部屋を管理してるのか?」
「そうよ。ここは、彼女の部屋なのよ」
「女なのか」
「同僚よ。というか、彼女の母親と、私が同僚。クラブのね。彼女の母親が、オーナーの。高級クラブ。私、そこで働いているの。そのママさんの娘と、私は、友達なの。その彼女の部屋に、遊びにきていて、何が悪いのかしら。そこでたまたま、昔の知り合いに会った。あなたに。そういう状況よ」
 冷たい物言いに、冷たい視線。あれほど、俺のことを愛していると言っていた彼女の面影はどこにもなかった。あれほど絶叫して、性の絶頂を表現していた彼女の姿は、どこにもなかった。あの病的なのめり込み方。浮き沈みの激しい不安定な感情。淫乱な性的傾向と見事に嵌まり合い、偏狭的な愛情として、相手の男に牙を向いていく。あの怪物。まったく身を潜めている。
「ずいぶんと、変わったな」アンディは、心のなかで呟いたつもりだったが、実際には口に出してしまっていた。
「その友達は、いないのか?これから来るのか?」
「あなたこそ、彼女の何なの?付き合ってるの?」
「用事は、CIだって、言ってるだろ」
「あなた、ずいぶんと大きくなったのね。有名になったのね。企業の、会長さんになったんですってね。その若さで、すでに会長だなんて」
 円は吐き捨てるように言った。
「いいから、事情を説明しろ」
「加穂留は、今日は、来ないわよ」と円は言った。
「加穂留っていうんだ」
「松下加穂留。料理屋を一人で営んでる。その仕込みに、今は、忙しいはず」
「で、君は、ここで何を」
「何だっていいでしょ。まさか、あなたが、彼氏だなんて思わなかった」
「勘違いするなよ」
「合鍵持ってるんでしょ。信じられない。どうして、私に付き纏ってくるのよ。いい加減にして。私の人生に関わらないでくれる?それでさえ、あなたのことは、嫌でも目に入ってくるんだから。耳に入ってくる。あなたの会社の商品ばかりが、世の中には溢れかえっている。ああ、気持ち悪い。なんなのよ、ほんとに。嫌がらせ?私を苦しめたいの?どうしてそうなのよ。あなたは勝手よ。私を。もてあそぶだけ。もてあそんで、捨てた。なら始めから、相手にしなければよかったのに。すべてが勝手なのよ。手に入るものは、何でも手にいれて、それで用がなくなったら、ポイっと捨てる。きっと、今も、あなたはそうなのね。あなたの会社だって、きっとそうなのよ。あなたの仕事だって、何だってそうなのよ。やってきたチャンスを、あなたは都合よく手にいれて、それで好きなだけ、自分の思うように扱って、それで絞り尽くして、その旨味を十分に堪能して、それで出尽くしたときに、ポイ。その脱け殻に、あなたはいつまでも執着はしない。捨てている意識さえ、ないのかもしれない。当然、罪の意識も。あなたの周りでは、そうして捨てられたものだらけが、蠢いている。もちろん皆、あなたのことは忘れようとする。あなたと関わった記憶そのものを、ないものとして、新しい道を探っていこうとする。あなたはいい。あなたは、勝手に、もう別の可能性に、移っているのだから。けれども、捨てられた方は違う。自分の意思じゃない。あなたに、その意思を、そもそも奪われて、骨抜きにされ、それで枯渇したそれを、ホイって返されても・・・。過去が、私を縛り、そしていつまでも、重りとして、付き纏ってくる。追い討ちをかけるように、世間からは、あなたの情報が、嫌でも入ってくる。あなたの分身が、そこらじゅうに見え隠れしていて、ウザすぎる。何なのよ、本当に。どう逃れろっていうのよ。地獄よ。拷問よ。この世から、私が消えてなくならなければ、それは不可能なの?」
 だんだんと、円雷花は、その本性をさらけ出し始めていた。
「加穂留からも、色々と、聞いている。加穂留の幼馴染みの男性は、あなたに殺されたってことよ。私、その噂を聞いたときに、彼女となら、友達になれる。親しくなれるって思った。私の方から、近づいていったの。ママの、マナミレミールさんが、お客さんと話していたのを、こっそりと聞いてしまった。娘さんがいること。その娘さんがひどく、精神的に落ち込んでしまっていること。幼馴染みの彼が亡くなったこと。そして、その死に、何とあなたが関わっているという噂があるということ。私の心は浮き足立った。あなたに対する、復讐心が沸き起こった。そして、彼女となら、一緒にやっていける。共通の目的であなたに向かっていける。私はそう願った。そして、機会を伺っていた」
「それが、今日なのか」
「違うわ!それは違う。たまたまよ。あなたの方がやってきた。私はまだ会いたくなかった。準備ができてなかった。あなたの方がやってきた」
「俺はずっと、君の影を感じてきた。ずっとさ。気づかないふりをしてたけど、どこか、君の影が、蠢いていることを知っていた。事あるごとに、もしかして、君に見張られているんじゃないか。君が背後に隠れているんじゃないか。何か、狙われている予感がいつもあった」
「そんなの嘘よ!あなたは、捨てた女のことになんて、まるで意識は向いていないわ。女だけじゃない。あなたが利用したもの全てによ。今を成り立たせている、すべての要素に。そういう人なのよ。あなたは。そして、そのことに、無自覚」
「なあ、その加穂留って子が、このCIを管理してるのか?どういうことなんだ?どういう繋がりなんだ?料理屋をやってるって」
「店は閉めたのよ。あなたのせいよ」
 アンディは、円を見つめた。
「あなたが、彼女の大事な人を奪ったから。彼女は店を閉めた。まだ、望みは抱いていたの。けれども、その半年後に、彼は遺体で発見された。そのときには、一度閉めた店を、彼女は再開していた。でも、それで終わり。その死をもって、彼女は立ち直れなくなった。店は閉めた。それでも、生きていかなければならない。何かをしなければ」
「だから、どうして、その彼女が、CIと結びついたんだ?」
 アンディは、そこを何度も訊いたのだが、円雷花の話の矛先は、常に別の方へと向かってしまった。


 いつのまにか、ユーリは、グリフェニクスの本社ビルの前に立っていた。無意識な状態で、身体が向かう先は、やはりここ以外になかったのか。今、会社に戻っても、どんな任務も、確信を持って応えられそうにない。ユーリは空を見つめた。夜明けには、まだだぶん時間があるはずだ。ふと、月の輪郭を見つめた。月の縁が、何故か、気になった。その縁が取り囲んだ中身は、空っぽな空間が存在しているように思えた。そうして、縁だけを欠けさせたり満たしたりと、変化させているだけで、その中央にある空白は、いつだってそこにあった。何も変わらず、見た目だけを変え続けた。ずっとその空白を、ユーリは見続けていた。
 そのとき、ユーリは一瞬で、鳥肌が立ってしまった。太陽が、普通にそこにある。今は真夜中だった。太陽は南中の空に、燦然と輝いているのだ。少しも悪びれることなく。今は出番ではないその闇の中心に。ユーリは、戸惑った。
 一瞬前には、月の姿を見たはずだった。共演してはいけない、その対極の存在が同時に、同じ場所に姿を見せているのだ。いや、違った。月は、北の空、しかも、低くに舞い上がっていた。太陽のそれよりも、二回りは小さかった。共に輝いている。背景は闇だ。光の量が圧倒的に違った。空の両極に、二つが輝いている。この現実を、いったいどう受け止めたらいいものか。ユーリは、受け止めるしかなかった。それが、今の現実なのだ。
 ユーリは、その二つの存在を、同時に意識しながら、そのどちらにも意識を集中させることなく、その状態を維持した。焦点は、どこにも合わせてはいない。それでいて、月と太陽以外の、どこか三つ目の点を、見ているわけでもなかった。グリフェニクス本社の輪郭も、ちゃんと把握している。あの二つのピラミッドか!と突然、ユーリは思う。火と水のピラミッド。今も確かに、この地上に存在している、あの二つの。それぞれを照らし出しているその源が、ここに姿を現したかのようだった。火は太陽が後ろ楯となり、水は月が。今までは、見えなかった存在たちが、次々と、ユーリの前に飛び出してきているようだった。他にも、何かあるのだろうか。そうか、寺院の存在だ。地上の二つのピラミッドのエネルギーが、融合して、上昇したその場所に、寺院の存在がある。どこだろう。天空には、月と太陽が饗宴している。その間の宙空に。その寺院へと繋がる、繋げるための、仮初めの場所。空白のその場所。ユーリは、いつのまにか、グリフェクニス本社を含んだ、新しい広大な土地に、立っていた。
 アンディが、付近一帯を買い占め、グリフェニクス本社が中心ではない、本社もまたその広大な敷地の、ただの一角を担うだけの、そんな新しい構想の、まさにあの男の妄想、アンディ王国の建設地。そこに、ユーリは、一人で立っていたのだ。
 人影はまるでない。敷地内には、ただの一人も存在してはいない気がする。アンディの住まいはあるのだから、どんなに他の人間を閉め出しても、彼はいるはずだったが、その彼の存在までもが、まるで感じられない。アンディ王国なのに、アンディの存在が感じられない。彼と二人で会って、会話した後で、彼はどこかに出ていってしまったのだろうか。アンディは、王国の構想を、この自分に託して、あとはしかるべき人間たちが、具体的に進めているあいだに、彼は別の場所で、別の仕事に勤しんでいるのだろうか。
 ふとここは、どこなのだろうと思った。王国の敷地内にいる。その王国の中において、ここは、どこなのだろう。その全体における、ここはどこに当たるのだろう。その全体像が見えないのだから、ここがどこであるのかを問う資格は、ないのかもしれない。それでも、ユーリは、研ぎ澄ましたこの感覚で、それを捉えようとした。もうここまで、理解は進んでいるのだと、自分を励まそうとした。ここが、その寺院へと繋ぐ、空白の土地であることは、すぐにわかった。ここは、アンディが語っていた入り口の門から入って、すぐの所にある、広場なのだ。あのバチカン市国における、サンピエトロ広場だった。あれだけ熱心に語って聞かされたのだ。そこに信仰を埋め込むのだと。アンディ王国は、宗教国家に生まれ変わるのだと。ここを起点に、この小さな国そのものが、信仰と同義になるのだ。必要があれば、アンディ王国を内包している、元の国家そのものを、アンディ王国が、内包してしまえばいい。そうやって、他国へ、さらに拡大していったっていい。それが、自然な在り方であるのなら。さらには、その信仰に、教義はない。従うべき戒律もなければ、お布施もない。思想もなければ、目的も何もない、それこそが、宗教であるということを、アンディ王国は、身をもって体現する。あの男は確か、そのようなことを語っていた。実に熱っぽく、狂人のように。そう、あの男は、狂人だった。そのサンピエトロ広場に、今自分は立っている。そう思った時であった。無人ではあったものの、巨大なクレーン車のような存在が、複数、いるのが見えた。暗闇の中、臼ぼんやりと浮かび上がってきて、動き続けていた。音が聞き取れないために、その動きの闊達さは、見えなければ、何も感じられなかった。だが、ユーリは目をさらに半分閉じて、感じようとした。闇の中で蠢く、そのクレーン車の動きを、感じようとした。クレーン車の大きさを捉え、彼らがいったい何をしているのか。いつまで、作業を続けるのか。他にも、機材車がいくつも、集まってきているような感じがする。そのどれもが、地上の工事現場では、見ることのできない巨大なサイズであることがわかる。いったいどんな規模の、何を、建設しようとしているのか。これは建設現場なのだ。この大きな広場に、何かを建てようとしている。だがそれは、建造物ではなかった。アンディの言葉を借りれば、そこには、何も建てるべきではない。そこには、ただの空白があるだけだ。王国に入場してくる人は、まずここを通過する。ここを経ていかなければ、アンディ王国に入場したことにはならない。それは洗礼だと、彼は語る。ここはただ、通過するためだけの場所。広大な円形の空虚。だとしたら、何故なんのために、こんな機材車が、集まってきているのか。真夜中にいったい、どんな作業を繰り返しているのか。わからない。このクレーン車が、形どる、その複数のアームは、いったい何を持ち上げ、どこにどんな形状で、その素材を埋め込もうとしているのか。何もわからない。

 ユーリは、その闇の中の作業を、延々と見続けた。そのまま、夜が明けたとしても、全然構わなかった。今、この状況で明けるはずもないのだ。太陽と月が、同時に存在する中で、明けるはずはないのだ。夜でも昼でもない、そうだ、あれは、月でも太陽でも今はないのだ。火のピラミッドでも、水のピラミッドでもない。すべては、何ものでもなくなっている。今、この状態を、どう捉えたらいいのか。工事中。建設現場である。資材はない。地上に立てる何かではない。だが、何かをしている。宙空に、これから存在することになる寺院。その橋渡しとしての、何もない広場。アンディがレーザー光線の話を、ドクターゴルドに仄めかしている絵が、浮かんでくる。ゴルドを引き込もうとしている。ゴルドに、何らかの研究をさせようとしている。すでに、開発した何かの技術を、ここに使おうとしている。搭載しようとしている。嵌め込もうとしている。新しいテクノロジーだ。スペースクラフトでもない、キュービックシリーズでもない、全く新しい次なるテクノロジーの存在を、埋め込もうとしている。そしてそれは、これまでのように、見える形では残らない。
 ユーリは今、その中心地で、闇でも光でもない時間を、通過しようとしていた。まさに、入口の門を通過して現れる、洗礼のあの広場であるかのような、この場所にいた。


 円の言葉がずっと、体の周りにまとわりついて離れなかった。あなたは自分のものにして、利用して、そしてあっさりと捨てるのだと。そうやって、私のことも。他の人のことも。仕事のことも。事業のことも。あなたの人生は、全てかそうなのだと、円の幻影は囁き続けた。円とは、とっくに関係はなかったが、今も付き合ってる女性たちが、何人も立ち上がってきていた。身体の強くはない、色白の翻訳家の江地凛。彼女のマンションを訪ねなくなって、どれほどの期間が経つのだろう。江地凛から連絡が来ることはない。いつだって、俺の邪魔をすることを気にかける、控えめな女性であり続けた。皮膚が弱く、陽に当たることを極力避けていた事をいいことに、アンディはほとんど、彼女のマンションでしか会瀬をしてなかった。彼女と体を重ねて、彼女の作ってくれた料理を食べて、それで帰宅してしまうのが、ほとんどだった。抱けば抱くほどに、残された僅かな生命力が、枯渇していくように思われた彼女のことを、何故、突然、訪問することをやめてしまったのか。他の女に関しても、全く同じだった。あるときを境に、つまりは、事業を全て、ユーリラスに引き継がせた時に、女に対してのケアも、そこでぷつりと切れてしまったのだ。情熱は、一瞬で消えてしまったのだ。あれほど同時に付き合い、はしごをするように渡り歩き、一晩で何人も相手をすることもあった、あのエネルギーの奔流は、完全に潰えてしまっていた。何度、彼女たちの中に精を解き放とうとも、途切れなかったあの炎が、あの時を境に、消えてしまっていた。その後、アンディから彼女たちに、何か伝言したこともない。来ることもなかった。その事実にも、アンディは唖然としていた。向こうもまた、俺を必要としなくなったのだろうか。元々、たいした必然性も、なかったのだろうか。何故だか、彼女たちに、アンディは見捨てられたような気がした。彼女たちはそもそも、俺を必要としてなかった。ただの、暇潰しであったのかもしれない。あればあったでいいような、俺が求めさえしなければ、消失してしまって、構わないかのような。マナミレミール。坂下マナミは、ホステスだし、特に、恋人関係にもなかったから、別によかった。ハルカタトゥーは、どうだ?どうして、あいつからも、連絡は来ない?どうして、俺と会えないことが、何の支障も生じさせない?そして、秘書のリナに対する欲望も、見事に消えてしまっていた。あれほど彼女を手に入れたいと思い、わざわざ秘書にまでして、近くに置いておきたかった俺とは、いったい何だったのか。リナに対しては、他の女と付き合いながらも、ゆっくりと男女関係を築いていこう、その過程を、じっくりと楽しんでいこうと画策していた、あの自分は、そもそも何だったのだろうか。いつのまにか、リナに対する興味すら失っている。それもすべて、同じ時期だった。そして今も、復活してくる気配すらない。円雷花の登場は、そうした今付き合っていた、彼女たちの幻影をも、呼び起こして、アンディの周りを旋回していた。そのすべての声を結集させた、円の登場だった。アンディは、坂下マナミに電話した。出勤前だったらしく、彼女はすぐに出た。娘さんの友達に、偶然会ったことを、話した。娘さんは、あれ以降、ひどく落ち込んで、店も畳んでしまったんだってね。アンディは言った。
「私の店で、少し、仕事をしてみたんだけど、すぐにやめたわ。やはり肌が合わなかったらしい」
「今は?」
「特に何も。脱け殻みたい。私の家にいる」
「仕事は?」
「してないわね」
「何か、管理の仕事をしてるって、その友達には、聞いたんだよ」
「わからないわね」
「そもそも、あまり、会話をしていない?」
「ええ。ほとんど。部屋に引き込もってる。でも、夜、私が出ていった後で、何をしているのかまでは、わからない。外出してるのかもしれないし。そういえば、そうね。何かはしてるのかもしれない」
 アンディは、それ以上、マナミからは、何も得られないことを察した。
「ママは、今、店の方はどうなの?」
「商売あがったり」
「だよね」
「いちおうは、粘って、開けてはいたんだけど。それも、もう、終わりね。どれくらい続くのかしら。すぐに復旧するのよね?」
「ああ。いつまでもってことはないさ」
 アンディは、適当に答えて、すぐに電話を切った。かろうじて、通信の一部だけは、死んでなかった。
 何の実りもない通信だったが、ふと、加穂留というその娘は、CIには、何の関わりもないんじゃないかと思い始めた。加穂留と友達だという円雷花など、存在はしない。CIと二人は、何の関係もない。あそこで会ったという、事実もないのかもしれない。円の幻影に翻弄された、ただの白昼夢だったのかもしれない。アンディは再び、CIの置かれた事務所を訪れることにした。一時間以上もかけて、歩いていった。マンションのインターホンを押す。豪奢なエントランスを通り、エレベーターへと向かう。作動はしない。階段で53階まで登る。インターホンを再び鳴らす。中に入る。暗い。昼間なのに、あまりに暗い。音だけが聞こえる。やはりずっと作業が繰り返されている。電子音から、紙の刷れるような音まで。空気が吐かれたような空調。すべては、休みなく、作業が続いている。史実家が書いた、原稿を読み込み、完成へと向けて修正が延々と繰り返されているようだ。自動創作機として、人工知能を発展させたCIだったが、今は史実家の未完の原稿を整理するべく、創造的な切り落としと、加筆を繰り返していた。史実家の命は、力尽き、あとはテクノロジーに託して、彼は死んでいった。死ぬ直前に、別のチューブに、その命をある意味、繋ぎ直した。照明のスイッチは、どこにあるのだろう。寒すぎる空調も、調整したかった。誰かが、部屋の中にいる様子はない。誰かがやってくる気配もない。円が居たというのは、やはり勘違いだったのかもしれない。円に対する気持ちの引っ掛かりが残っていたために、あの日は、突然、その欠片が集まった塊として、彼女が、白昼に浮かび上がってきたのかもしれなかった。記憶が作り出した、新たな記憶なのかもしれなかった。自分の神経回路が、また別の存在である坂下マナミの娘へと繋がり、二人は友人同士という設定に、勝手に繋げ直してしまったのかもしれなかった。

 ここでいったい何をしているのか。何をしにきたのか。何もわからないまま、アンディは、暗闇に馴染むしかない、この止まった現実を、見つめ続けた。音に耳を澄ませ続けた。複雑で入りくんだ音色は、それぞれが、別のリズムを持ったままに、まるで交わらないハーモニーを奏でている。その音色を聞いているアンディという存在を、この闇の中で凝視し続けた。闇を凝視するのではない。音色に身を委ね始めているアンディを凝視した。アンディと闇、そして音。CI。この組み合わせ。配置。そして、閉ざされた一室。昼の世界。今も、アンディとは関わりなく生きている、女性たち。アンディの恋人たち。停止してしまった全事業。いや、とアンディは、思い直した。ひとつだけ、作動しているものがある!忘れていた。忘れていたからこそ、着実に、建設が続いていたのかもしれない。ドクターゴルドに依頼して以来、忘れていたサンピエトロストーンサークルだった。
「誰だ?」
 そのとき、背後に女の香りがした。久しく遠ざかっていた、懐かしい女の香りがした。


 まさか、この無人の建築のために、世の中のすべての機能が停止してしまったのか。そんなはずもあるまい。ユーリは呆然と、その闇に蠢く、巨大なクレーンの残像を見つめていた。それは、この広場だけではなかった。アンディが買い占めた敷地内に立つ予定のある、すべての建物が、今、同時に、急ピッチで仕上げられている様子が目に浮かんでくるようだった。激しく、その建築は進んでいっている。一つ一つが丁寧に、といった具合ではなく、何百人何千人と、人力を投入されているわけでもなく、一気に、同時に、連動させることで、ある部分に費やしたエネルギーが、別の建ち始めたエネルギーによって補填され、また別の部分は、他の部分から組み立てられた後の、エネルギーを前借りするかのごとく、補填のし合いが、そこらじゅうで起こっているような感覚が、ユーリにはあった。時間の流れが、そこでは完全に狂っていた。前が後ろに、後ろが前に、ただ激しく行き来している状態が、全体としてのエネルギーを急激に上昇させてもいた。その中央には、今ユーリがいる。空虚の地がここにはある。何もない巨大な空間があるからこそ、他のすべての建物が、安心して、自らの建造に集中できるかのごとく。その夜の出来事を、ユーリは、その後もずっと、内なる記憶として保持し続けた。完成した、その国を眺めるたびに、ユーリは、その成り立ちを知っているという感覚を、持ち続けた。これは、自分の国でもあるのだという想いもまた、持つことができた。


 そのとき、背後に女の香りがした。だが、その香りは記憶の中の、かつてのどの女とも、照合しないものであることが、直感的にわかった。誰だの後の言葉が出てこない。女であることは、間違いない。女はすでに待機していたのだ。闇の中で、俺が来るのを待っていたのだと、アンディは思った。いつからだ?そう言葉にしようとするも、声にはまるでならない。そうだ。この前も、この女が居たのだ。新しいその女を、認識できないからこそ、かつての女の記憶を、無理矢理にくっつけ、張りつけていたのかもしれない。だから、円雷花のような幻想ではあったが、円だけではない、他の女たちの記憶をも、切り貼りしていたのだ。混在した、よくわからない存在になっていたのだ。どの女とも違う。今までのどの女をも、内包した、何か別の存在なのだと、アンディは思った。身動きがまるで制限されている。アンディは、この待ち伏せされていた、女の存在を、天に問う。何故ここに。この場所で、待ち構えているのですか。何故、ここだったのですか。アンディは、失われた欲情に、僅かな光が灯ったのがわかった。香りは近づいてきていた。アンディの顔の近くを彷徨い始めた。次第に、首に絡み付き、上半身に絡み付き、アンディそのものを、内包していった。俺をどうしたいんだと、アンディは言いたかった。ほとんど割れんばかりに、アンディの下半身は、膨張してしまっていた。苦しかった。アンディの身体よりも、遥かに大きく拡大しているような気がするのだ。もうやめてくれと、アンディは無言で叫んだ。それでも膨張は止まらなかった。これまで溜め込まれた、精のすべてが、一気に蠢き始めているようだった。そういえばと、アンディは思う。そういえば、前に出したのは、いつのことだったか。前に女の中に放ったのは、一体、いつのことだったか。その時の感触を、アンディは、完全に忘れてしまっていた。感覚は失われていた。どの女だったのか。特定すらうまくできない。誰だったとか、どんな状況だったかと。そもそも、アンディには、自身が膨張したときのことさえ、記憶からは欠落していた。膨張は止まらなかった。アンディの身体は、そこには、もうなかった。何もなかった。ただ膨張だけがそこにはあった。膨張していく何かの存在だけが、そこにはあるだけだった。それを、アンディの意識は、捉えていた。膨張とアンディの意識は、拮抗を保ち、わずかに膨張が越えれば、意識はそれに連動して、さらに外側へと逃げ出ていった。そして、膨張に再び捕らえられ、さらなる膨張が。突然身体に意識が戻った。苦しかった。終わりのない膨張に、身体そのものが、耐えられなくなっていった。アンディは、その未知なる女の香りに、包まれていた。香りは膨張と交わり合い、一体化し、そして別離することなく、遠い世界に飛翔していった。アンディは、解き放っていた。身体の感覚は、どれだけ時間が経とうが、戻ってはこなかった。アンディは、その特定のできない場所で、ずっと、漂うように浮かんでいた。女の姿はない。アンディの形もない。そうだ、ここには、CIがあったのだと、思い当たった。その認識が、アンディ自身に戻る、きっかけを与えてしまっていた。アンディは、精を解き放った後の、身体感覚を得ていったのだ。しかし、不思議と、液体は、何も出てはいない。そもそも、その液体を、内部に出した女の体がどこにもなかった。何が起きたのか、全然わからなかった。そういえば、CIが作動し続けている音のようなものが、まるで聞こえてはこない。静寂の中には、微かに、人間の吐息のようなものが混じり始めている。女が近くにいる。やはり待ち伏せされていたのだ。女に何かされたのだ。アンディがいつもしていたように、今度は、女に体を弄ばれたのだ。いや、女じゃないかもしれない。やはり女など、誰も居ないのかもしれない。この部屋には、CIとこの自分しか居ない。CIと交わったのだろうかと、気の狂った事を思い始めてしまう。何かが違う。数分前とは、何かが違った。この身体感覚の何かが違う。何かが入っている。その違和感が、拭いきれない。それに、急速に馴染もうと、細胞が意識を改めているのがよくわかる。異物として、排除しようとしているのではない。取り込もうとしている。自分のものにしようとしている。むしろ、乗っ取られることを、奨励しているかのように。ずっとそのことを、望んできたかのように。それは、特定の何か、特定の女、にではない。そういったものではない、別の存在に。そして、図らずも、その何かは今流入した。進行は止められない。アンディはただ、その現実を見つめていた。何も怖がることはなかった。すでに、やるべきことを、事業として勃興させていたアンディには、この世に未練など、まるでなかった。アンディの気を引く関心事は、すでに何もなかった。やるべきことは、すべてやり終えていた。まさか妻が?数週間の間だけ、婚姻を結んでいた彼女が、戻ってきたのか?結婚生活は、あまりに短く、唐突に終わりを告げていた。彼女が、この世に残したのは、巨大な暗渠だけだった。そのためだけに、一緒になったようなものだった。あのときからある、空白を、アンディは自らの事業を立ち上げることで、最後には、国まで仕上げることによって、埋めていこうとしていた。埋まらないことは、わかっていたが、埋めようと奔走することこそが、残された人生そのものだった。エネルギーの、在るべき場所だった。
 香りは、その役割を終えたかのごとく、アンディの周囲からは消えていた。


 加穂留の居場所を、やっとのことで、関根ミランは掴んだ。小料理屋を訪ねたものの、店はすでに無くなっていた。ナルサワトウゴウが死んだときにかかってきた、電話を、冷たくあしらうように切ってしまったことを、関根ミランは、ずっと気にしていた。すぐに直接出向いて、加穂留と話をすればよかったのだが、関根ミランは、なかなか自分に素直になれなかった。それに、DSルネからの妙な頼み事もあった。結局、ケイロスギサキの調査は、途中で断念した。加穂留のことが、あまりにも、心配になり始めてもいた。ケイロスギサキの情報収集は、難航した。データが、どこにも蓄積されておらず、ルネが直接会ったという彼の風貌こそが、最大の情報であったかのように、関根からは、掴めそうだった断片が、ことごとく逃げていった。まるで呼ばれてはいないかのごとく。関根が追えば追うほどに、ケイロは、その進行方向の彼方へと消えていった。関根は追うのをやめ、色濃くなっていく加穂留の幻影と、向き合う必要性を感じていった。しかし、こちらもなかなか、アクセスすることができない。加穂留の店を畳んだ後の行動が、追跡できない。街のどこにも、痕跡を残さずに消えてしまっていた。ナルサワトウゴウが、クリスタルガーデンでシュルビス初に刺され、大量の血を流したままに、その場で消えてしまったのと同様。関根は、仕事柄、何か彼女もまた、事件に巻き込まれてしまったのではないかと、急に不安になっていった。狂ったように、調査を開始しようと思ったそのとき、大規模なクラッシュが起きてしまった。そして、それ以降、人々は、さらなるクラッシュが、今あるテクノロジーを、破壊してしまうことや、物理的に人が傷つき、時に死んでしまう危害を受けることを、避けるようになった。自主的に機械の操作を控える、といった風潮に、世界は飲み込まれていった。関根もそうした。ケイロだけでなく、加穂留の調査も、これで完全に凍結してしまった。だが、関根は、自らの足で、一番簡単な行動で、彼女の居場所をあっさりと見つけてしまった。彼女の唯一の肉親である片親の母、坂下マナミの自宅、つまりは、加穂留の実家に、彼女は一人引きこもるように留まっていたのだ。マナミの家を訪れ、母に娘の行方の手がかりを探ろうとしたそのとき、マナミは奥にいた加穂留を呼びにいったのだ。なかなか二人は現れず、おそらくひと悶着あった末に、やっと、加穂留は姿を見せた。母親は、唯一無二の親友が訪ねてきたのだと、勘違いしたらしく、この娘の現状を、少しでも上向かせるための格好の素材がやってきたことに、気をよくして、全力でサポートするつもりだったらしく、関根にとっては、願ってもない好都合だった。加穂留は、気のない様子で、呆然と現れ、関根の顔を見ても、特に何の感慨も示さなかった。
「ちょっと、外にでも行く?それか、部屋に入れてくれないかな。話があるのよ。あなたに。その、たいした話じゃないんだけれど。私があなたと居たいの。お願い。このあいだの対応はごめん。私も行くべきだった。あなたと一緒に、彼の遺体の確認に行くべきだった。ごめん」
 関根は、玄関で謝り続けた。マナミの姿はなかったが、彼女には、確実に聞こえているように感じた。
 加穂留の目は、まるで死んでなかった。関根はその目に向かって、語り続けた。
「私も、トウゴウとの別れを、ちゃんと、しておくべきだった」
 関根は続けた。
「私にとっても、大切な人だった。今になって、実感してきた。ごめん、あの時は」
「いいのよ」と加穂留は言った。決して投げやりではない、どこかしら、暖かみのある声だった。
「あなたは、あなたなのよ。私とは、状況も全然違う。彼との関係も、違う。いいのよ。私は大丈夫だから。気にしないで」
「いいわけがないよ。放っておけない」
「大丈夫だから。私は平気。時間が少し必要なだけ。それに、今は、世の中の流れが完全にとまってしまっている。どういうわけか。まるで私の個人的な事情と、見事に連動してしまっている。そんなはずはないんだけど、そう思ってしまう。すべては止まってるのよ、関根さん。まるで、私を回復させるために、こうして。だから、大丈夫なの。ただ、やり過ごしていけばいいの」
「あなたは、強い人なのね」
 関根は言う。
「そんなんじゃない。トウゴウはもういないの。この前、あなたが話してくれたこと。あれは、事実なのよね?実業家のアンディ・リーが、彼の殺害に一枚かんでいる。いえ、ほとんど、主犯のような存在。部下に命令して、トウゴウを殺害させた。その目的は」
 加穂留は、すべての文章を、一気に読んでしまおうとしたが、やはり、胸につかえてしまったかのように関根には見えた。
「くだらない目的のために。信じられないわ。信じられないわよ。信じたくもない」
「いいのよ。理由なんて」
 加穂留は言う。今度も穏やかに。
「理由なんて、たいして、意味などないんだから」
 関根には、言ってる意味が、それこそよく理解できなかった。
「それは、取って付けただけ、ということの方が、遥かに多いんだから。ナルサワトウゴウがよく言っていたわ。理由なんて、たいしたことはない。誰かが、または、自分がただ都合よく、事実を受け止めるための、ただのレッテルだって。誰に、何の意味ももたらさないことのほうが多い。私ね、彼が死んで、そう、死が確定した段階で、ようやく彼が生前、言っていたことがわかるようになってきたの。そんな言葉は、もちろん忘れていた。彼がほとんど死を確定させた状態で、行方不明になってからも、思い出すことなんて、なかった。でも、このあいだ、彼の最期の姿を見たときから、こうして、一人で過ごしているうちに、どんどんと彼の生前の姿が甦ってきて、その言葉も、生き生きと復活してきた。彼は私に、何かを、伝えたがっているわけではないと思うけど」
 関根はただ、頷いて、聞いているしかなかった。玄関で、二人の女はずっと立ったままだった。
「そうした理由は、表向きにはもちろん、用意される必要があった。とりあえずの納得を、得るために。関わった人間が、理不尽であっても、とりあえずは、そう結論づけることができるように。でも、そこに、どんな理由があったのかは、誰にもわからない。本人にしかわからない。本人たちにしか、わからない。いいえ。彼らにも、本当のところはわかっていないのかもしれない。あなたの会社がする業務は、理由を追求するわけじゃないわ。それに、追求したって、誰にわかるものじゃない。いいの。それは、放っておいて。掘り下げるものじゃないないの。あなたたちの業務は、正しいの。事実が大事なことなの。そこで処理できれば、それでいいの。次の事象に移ればいいの。案件は引きも切らずに、やってくるんでしょ?それでいいの。ただ、当事者だけは、そこに、その後も縛りつけられてしまうことがある。それは、当事者の問題。あなたには、関係がない。だから行って。私に構わずに、行ってちょうだい!じゃないと私」
 加穂留の言葉は、突然、途切れた。
 沈黙が続いた。母親の坂下マナミが、ここで現れてくれないだろうかと、関根は思ったが、彼女はすでに家にはいないような気がした。さっきまでは確実に、あったはずの存在感が、ぽっかりとなくなってしまっているようだった。別のドアから、外に出ていってしまったに違いない。彼女は、夜の店を経営している。仕事の準備のために、出ていったのだろう。この親子は、それぞれが別の店を持って、商売をしていた。
「私だって、当事者よ。今度の件は。だから、そんなふうには言わないで。あなたの言ってることは、よくわからないけど、でも理解できるように努力するから」
「努力なんてするものじゃないわ。それに、あなたの仕事を否定してるわけじゃないの。勘違いしないで。人の奥底に、流れているものなんて、調査でわかるものじゃないわ」
 じゃあ、何でわかるものなのかと、関根は、語気を荒く問いたかった。だがやめた。
「一度、アンディ・リーに、会ってみたい」
「はっ?」
 突然のことに、関根の思考は、停止した。
「直接、二人きりで、会って話がしたい」
 加穂留の目は、真剣だった。いつだって、彼女の目は、死んでなどいなかった。彼女の身体全体から、妖気のようなものが溢れ出ていることに、関根は気づいた。あの会ったばかりに漂っていた倦怠感は、どこかに吹き飛んでしまっていた。生きる気力を、失ったかのような、あの閉じたエネルギーの奔流は、いつのまにか消失していた。
「会いたい」
 加穂留は、繰り返し言った。
「会うべきなのよ。一度、彼とは、会うべきだったのよ。今になってしまった。遅かったのか、どうなのかはわからない。早いのかも、わからない。でも今よ。今、彼のところを、訪ねるべきなのよ。私は大丈夫だから。あなたは関わらないで。あなたには、関係のないことだから。あなたは、会う必要はない。行きなさい!次の案件に、行きなさい。このクラッシュ後の、再開される世界に行きなさい。もうすぐ夜は明ける。その前に私はやるべきことをやる。アンディは、待っている。アンディは待っているのよ。この私が来るのを。彼は待っている。引き合っている。私は行くわ」
 その言葉は、まさに、彼女が、これからアンディの元に一人乗り込み、彼を刺し殺すのだと、関根には、そう聞こえてしまっていた。
 関根は、止めることも、同意することも、共についていくことも、何もできないことだけが、唯一自覚できたのだった。


 山型と谷型を繰り返していくものなのだよと、学者は語り続けている。
 その境目が、極めて大事なわけだ。そこを、正確に読み取り、前もって対応しておくこそが、我々に求められていることだ。
 学者は、大勢集まった学生たちに対して、そう繰り返す。単純にして、ほとんどそれだけを理論として、学者は自らの著書を出版していた。それが大衆に受け、こうしてまた、大学に職を得ることになった。大衆の熱狂ぶりはすごかった。学者は奉られていった。だが、彼は、そのことでいい気になりはしなかった。二度と失態は繰り返してはいけない。こうして復学できた幸運を、二度と手放してはいけない。山型と谷型を繰り返していくものなのだと、その主張は、自分の人生の浮き沈む曲線として、表現されては、決してならない。山であり続け、つまりは、平らであり続けることこそが、自分の未来でありたかった。
 学者は、世界が山化を終え、谷化へと向かうその時を、明確にとらえていた。そのとらえたときは、失職している最中だった。谷化が始まったことに、気づき、自らをその谷型に合わせて、作り変えていったのだ。失職しているという状況を、最大限に逆手にとるべきだと考えた。そして今、不遇のすべての人もまた、谷化をとらえ、自らを谷型へと、変容させるために、奔走するべきだとも思った。自らがその変容を達成し、その変容を促すことのできる、単純な理論を編みだし、大衆に向かって投下する。感化させるのだと。学者の思惑は当たった。人々は飛びついてきた。谷化はほんのわずかではあったが、じょじょに始まっていたし、それに気づいている人もいたからだ。ただ、学者のようにわかりやすい、単純な目に見える理論として、提示できた人間がいないだけだった。学者は、そうして、人を感化させ、導くことのできるプログラムを、作成していくにつれて、自らにおける変容にも、多大な寄与をもたらしていることに、その相乗効果を、体感していくことになった。自らの、谷化の達成と、そのプログラムの完成、それを世界に提示。人々がどっと押し寄せてくる。アカデミック機関からの講師の要請。教授の就任。現場への復帰。すべては、同時に、一気に波として、襲ってきたことだった。学者は気を引き締めた。こうした状況は、初めてではなかった。一度、いや、何度となく、それは繰り返されていた。今度は、慎重にやらなければならない。その谷化を、どこまでも維持していかないかぎりは、それは簡単に山型へと戻ってしまう。谷化を完全に固定させなければならなかった。浮わついた心こそが、いくらでも山型へと、反転させる、機会に満ち溢れさせることになるのだ。山になど、誰にでもなれる。凡庸な大量生産がなされる、世界だ。谷は違う。谷に変容することは、ある種、非常に厳しい。だが、一度、谷に変容すれば、すぐに山へと戻ってしまうことはない。けれど安定させ、強固に持続しない限りは、またいつかの時点で、反転する運命が、待っている。どれだけ長引かせようとも、いや長引かせれば長引かせるほどに、その後待っている反転は、急速で、そして激しいものになる。死ぬとき以上に、長引かせることはできないものか。学者は当然、今度は、はじめからその心づもりで、変容のプログラムを開発することにした。しかし、やはり、一度の達成で、完全に固定することは不可能だ。だが、今度は、可能かもしれない。この地球上が持つ、エネルギーのサイクルが、そうした谷化を促進し、助長するような流れを伴っている気がするからだ。滅多にないチャンスだった。そこに気がつき、自らの状況を、すべて谷化に注ぎ込めば、それは一度の変容で、持続可能な谷型が達成することができるのかもしれなかった。憶測にすぎなかったが、これまでの失敗は、全て、そのような地の力や、空からやってくる天からの後押しが感じられなかったからでもあった。ただ、見捨てられたような無力な一人の男が、強引に無理矢理に、谷に仕向けていくような、そんな向かい風を感じたものだった。向かい風の中だからこそ、そこに立ち向かえる、自らの状況を、運命は恣意的に作り上げていったようにも思う。わざと、不遇や軋轢などを、作りだすことで、そこにエネルギーを発生させようとしていた。それを利用して、山型の世界で、谷の状態をつくりだそうとした。そして、それは達成された。だが続かなかった。もちろん、一度の達成で、浮かれてしまったことが、最大の原因ではあった。だが何度も失敗を繰り返すうちに、自覚したはずだ。強度は、それほどあるわけではないことに。谷化を達成するために、してきたその行為を、その後も、地道に続けていくこと。その重要性に、気づいていたはずだ。
 だが、安楽に、快楽に流された。天と地の後押しが、なかったことを嘆くその前に、自らの後押しがなかったことを、戒めるべきであった。


 大学には、革命家を名乗る連中が、集まり始めていた。学者は警戒した。そして、彼らはこぞって、この自分を支持してきていた。学者は、彼らとは注意深く距離をとり、その上で、自らの理論に地道に取り組むことを、奨励した。ただ、そのことに、専念すれば良いということを、学者は知っていた。そして自らも、その繰り返しを怠ることなく、実践するべき時でもあることも知っていた。革命家を名乗るその盲目な学生たちは、山型の世の中を憎み、破壊することを、目指していた。徹底的に根絶するべく、暴力に訴えかけることを、意図していた。そして、自分たちだけではなく、他の全ての人にも強要するべく、活動をしていた。そこで目をつけたのが、同じ大学に在籍している学者の男だった。彼もまた、山型から谷型への変換を説いているのだ。共鳴しないわけがなかった。学者もまた、この山型の世界を憎んでいるに違いない。山型に適応できなかったのかもしれないし、適用させようともしなかった。だから、それとは異なる谷型を、開発し、そして山型の社会にぶつけた。見事に成功した。その改心の一打に、学生たちは狂喜した。
 学者は、警戒した。自らの理論が、彼らに都合のいいよう、利用される危険性がある。しかも、彼らは暴力に訴えることに抵抗がない。この自分に向けて、暴力の矛先が来ることも考えられる。脅し、彼らの先ぼうを、担ぐよう、命令される危険性もある。思いもよらず、こんなところにも、自分を堕落させる要因が現れてきた。それでもただ、静けさを保ち、やるべきことをやり続けることだけが、重要なことはわかっていた。だが、気が気ではない。彼らがいつ、牙を、こっちに向けてくるのかわかったものではない。彼らは今、熱狂的にこの自分を支持しているのだ。信望しているのだ。彼らの思惑と外れた行為をしようものなら、途端に、この自分には、憎しみが跳ね返ってくるだろう。だがこうして、彼らを熱狂させたのは、間違いなくこの自分であった。要因はすべて、ここにあった。学者は考えた。彼らをどのように導けば良いのだろうと。彼らが、谷化を達成するためには。そうだ。いや、彼らこそを、自分の側に、しっかりと引き寄せればいいのだ。自分の分身のような存在を多数作り上げたらいい。信望者をそのまま、のさばらせておいてはいけない。彼らこそを、ちゃんとした谷化の典型的なモデルとして、作り変えなければならないのだ。彼らがモデルになるのだ。あの熱狂的なエネルギーは使えるのだ。誰よりも一つのことに費せる才覚を、示しているのだ。他の、誤った矛先に、撒き散らさせてはいけない。その矛先をしっかりと指導し、谷化の道筋をつけてあげなければならない。その状態へと、達成させてあげることこそが、最も大事なことであった。そして、それはもしかすると、これまで道半ばで頓挫してきた、この自分の持続力のなさを補う、唯一のことなのかもしれないなと、学者は思い始めた。


 加穂留は、アンディリーの会社に電話をかけたが、ふと今は繋がらないような気がして、すぐにやめ、徒歩でグリフェニクス本社へと向かった。その巨大な建物の存在は、嫌でも知っている。だがあると思われた場所に近づくにつれて、その外観は驚くほどに変わっていることに気づいた。以前のグリフェニクス本社建物は、オフィス街にあり、他を圧倒するほどのビルであったものの、建物は他にも連なっており、その一棟だけが特別、その存在を主張しているわけではなかった。しかし今、それらの別のビルの存在は、なくなっている。というか、グリフェニクス本社があるであろう、その場所に、向かえば向かうほど、何故か、郊外へと進んでいるかのように、建物は閑散としてくるのだ。人の通りが激減している今の状況だから、余計に、ものわびしさが目についてくる。川沿いを歩いていくと、豪奢な門まで現れる始末だ。そして、門を潜ることで、グリフェニクス社へと通じる広場へと、出ることになる。まるで、その奥には、会社ではなく、宮殿があるのではないかと思うほどだ。そして実際に、宮殿は現れてしまう。何もない広大な広場を、かなり歩いた後のことだ。さらに奥には、似たような建物が何棟かあり、さらに、森のような場所が、背後には続いていく。いつのまにか、タイムトリップしてしまったかのように、風景は一変してしまっている。後ろを振り返るも、すでに門は、手の平に乗るほどに小さくなっている。グリフェニクス本社ビルは、そのさらに奥へと進むと、唐突に現れた。周囲との齟齬の激しさに、加穂留は仰天するしかなかった。この敷地内において、まさにあのままの姿で、本社ビルは立ち聳えていたのだ。オフィス街のど真ん中に立ち並んだ、あの風貌で。どういうことなのか、加穂留の意識は、混濁した。考えられる可能性は、ただの一つだった。グリフェニクス社屋を、そのまま維持しながら、周りの土地を買い取って、手を加えたということだ。だが信じられなかった。ほとんど森の中じゃないかと、加穂留は頭を抱え込む。いくらアンディーリーの会社でも、程がある。それだけの利益はあるのだとしよう。でも物理的にこの広さはありえない。だが加穂留は、こんなことでいちいち仰天などしていられないと思い直した。そのアンディーリーに、これから会わないといけないのだ。アンディーリーが、グリフェニクス本社に居るとは限らなかったが、とにかく、今日中に、彼と連絡がとれる状況にしなければならなかった。そういったチャンスは、そうないことが、加穂留には感じとれた。今、扉は開かれたのだ。今だけ開かれているのだ。通過してきたあの入口の門が、すべてを象徴している。これから起こることのすべてを、象徴している。時が止まったかのような、社会状況だったが、そのさらに奥底にある淀んだ時間の渦。それが開くことのなかった門を、今、開けている。門に備え付けられた、厳格なセキュリティーシステムを、今解錠させている。加穂留は、グリフェニクス社の前に立つと、それまであった周囲のすべての設備のことは、忘れた。
 ドアを開け、勝手に中に入っていっても、警備員は、誰一人やってはこない。しばらく進むと螺旋階段があった。その階段を、まるで音も立てずに、優雅に下ってくるその女性を見たときに、加穂留は息を呑んだ。
「どなたかしら」とその女性は言った。美しいと、加穂留は思った。女性を相手に、そんな感情が掻き立てられることは、滅多になかった。
「アンディリーさんに、お会いしたいんです」
 加穂留は言う。
「アポイントはしていません。こんな状況なので」
「ご用件は」
 この女性は、誰なのだろうと、加穂留の頭の中は、彼女のことで一杯になる。そうか、この人なのだと、加穂留は閃く。
「あなたが、リナさんですね」
 少しだけ、驚いた表情を見せた。
「秘書のリナさんですね。リナサクライさん。以前は、ナルサワトウゴウの事務所に居た。そうですよね」
 女性は静かに頷いた。
「その件は、大変残念なことでした。あなたもさぞ、気を落とされたでしょう」
 リナサクライは、首を僅かに傾げた。
「いや、その突然、そんなことを言われても、そうですよね。ごめんなさい。私、申し遅れました。ナルサワトウゴウの幼馴染みの坂下加穂留と申します。以前は、料理屋を開いてました。トウゴウさんには、贔屓にしてもらっていました」
 加穂留は、リナのゆったりとした時間に馴染めず、かき消すように、沈黙に上書きをしていった。
 リナは何も答えなかった。時は完全に止まってしまっていた。
 加穂留は、その後を、うまく繋ぐことができない。グリフェニクス社のまだ入り口辺りで、ただ何の目的もなく、見つめ合っている。そして、加穂留はだんだんと、気が遠くなっていく自分をも、見つめていた。二人の女が佇んでいる。しかし、共通点はあった。ナルサワトウゴウだった。
「あなたが、トウゴウを支えていた、人なんですね」
 加穂留は言う。
「今日は、何の用件で?」
 リナは、ナルサワトウゴウの話をかわして、本題にもっていこうとしていた。立場上、当然のことだった。
「アンディさんに、一体、何の御用があるのでしょうか」
 そう言われてみれば、用件があるわけではなかった。緊急を要する、何かの事案があるわけでもなかった。関根ミランにも、ただ思いつきで、アンディと会って話をしなければならないと、そう主張していた。
「申し訳ありません。本人以外には、口外できないことなんです」
 咄嗟に口に出た、言葉だった。
「わかりました」
 どういうわけか、リナは了承した。
 彼女に何が伝わったのか、加穂留には全く理解できなかった。
「どうぞ、こちらへ」
 リナは、螺旋階段を下りきり、奥の扉の方を、指し示しながら、歩いていった。加穂留もまた続いていった。本社の中の大半が、木で作られていることが、実に意外であった。しかし、扉を開ければ、次に現れた部屋は、全くの鉄筋ものであった。
「ただいま、アンディは、この建物にはおりません。お呼びしてきます。しばらく、お待ちください」
 ロビーを抜け、さらにロビーが現れ、幾重にも折り重なったようなロビーの層を抜ける頃には、加穂留の意識は、心地のよい混濁具合になってしまっていた。どういう意図で作られた内部なのか、やはりわからなかった。リナは、慣れた足取りで、目的地までの道のりを、優雅に素早く移動していった。本当に、トウゴウは、この女を秘書として雇っていたのだろうか。聞いていた彼女の輪郭とは、まるで違う・・・。と、そのとき、加穂留は、重大な事実が、いつのまにか抜け落ちていたことに気づいた。リナサクライ。彼女とは、これまでだって、何度も会っていた。料理屋に、彼女は何度も足しげく通ってきている。何度だって、会話をしたことがある。ナルサワは、うちの店で、彼女と待ち合わせさえしていた。仕事の話をしていたし、他に、外部の調査会社の、そう関根ミランも交えて、よく打ち合わせをしていた。プライベートな会話こそ、したことはなかったが、それでも数えきれないほどに、リナとは顔を合わせ、会話をしている・・・。何故、その現実が、抜け落ちてしまっていたのか・・・。意識がどうも飛び始めている。辻褄が合わなくなってきている。あれは、本当に、リナなのだろうか。こうして、リナの後に従って、歩いているのだろうか。そのエントランスで会ったときの、彼女のことを思い出してみる。やはり、リナだ。雰囲気は変わってしまっていたが、顔立ちは、完全にリナだ。しかし、リナもまた、私のことを初めて見るようだった。あの首の傾げる仕草が、甦ってくる。私たちは、初対面同士として、再会していた。加穂留は応接間に案内され、ソファーへと座る。リナは退出し、アンディを呼びにいく。広大なアンディリーの敷地の中で、ぽつりと取り残されたままに、加穂留は延々と、その登場人物がやってくるのを待つことになる。


 もちろん、谷型が山型へと変わる、時代の変わり目だってある。何度となく起こってきた。しかし、この自分の残りの生涯にあっては、そのような現象は、起こらない!二度と起こることはない。山型は呆気なく、見納めたのだ。そして、必ず近い未来に、クラッシュが起こると、学者は呟いた。その前に、彼らを、谷型の重要なモデルへと仕上げないといけない。無謀で支離滅裂な戦士に、育ってしまってはいけない。彼らは、どちらにでも、転んでしまえる微妙な存在だった。そして、社会学的にも、そのような分子が、どちらに転ぶのかによって、社会全体に及ぼす影響は、絶大であるはずだった。そのような要素を、潜在的に持つ、多数の分子の行く末までもを、左右するようになるからだ。最も革命的な血の荒い、大きなエネルギーを持った連中が、進んでいく方向ほど、大事なことはない。それも、若い分子なのだ。他の幾分、弱いエネルギーを持った分子の行く末は、必ず連動してしまうことだろう。流されてしまう、といっていい。ここが分岐点だった。社会がクラッシュを起こすそのときまでに、彼らを変容させないといけない。この今のタイミングでしか、彼らを導く時は、他にはもうないのだから。さもなければ、彼らは、そのクラッシュの波に乗じて、もう破壊されることが確実な山型へと向かい、さらなる無意味な破壊行為へと、走ることは確実だ。無意味な、とどめを刺すことに、有り余るエネルギーの全てを、注ぎこむに違いないからだ。そして、彼らは、歓喜する。その後の結末に盲目な、若者の憤りの発露だ。それは、即刻、自分自身に跳ね返ってくる。自らを、破壊していたことに気づく。時はすでに遅い。その後、生きていかなければならない、その土地を、その社会基盤を、自らが嬉々として、破壊しつくしてしまったのだ。そうなってはいけない。山型は自壊していくのだ。それを追ってはいけない。ただ見守っていればいいだけだ。見過ごすのとは、違う。じっと注意深く追っていけばいいのだ。見届ければ、それでいいのだ。影響されてはいけないのだ。ただ、超然と、自らの成すべき事を、していればいいのだ。自壊していく山型に、手を出す意味など、まるでないのだ。いくら、ありあまる、情熱をもっているからといって、無駄づかいはいけない。それはすべて、谷型に注ぎ込むべきものなのだ。誰かがそれを指南しなければならない。この自分が適任だった。この変わり目を、シンプルに的確に、表現する役目があった。そのために生まれてきた。時間は迫ってきていた。彼らをしっかりと、自分に引きつけ、それでいて、谷型へと変容させることを、個々が自覚する過程へ、しっかりと踏み入れていきたい。彼らの自分に対する熱狂を、理解へと、着実に変えていきたい。盲目であってはならない。自覚しなければならない。ここが、正念場だった。そして、二度と、山型はやってこない。この自分は、すでに、山型が自壊していくその世界の姿が、確認できる。本当に、手にとるように、これから推移していく地上の有り様が、目に映ってくる。山型とは、距離を置き、見つめながら、影響を受けることなく、個人で、ある種、肉体からは離れて、超然とした意識の中で、谷化へと向かっていく自分自身をも、見守っていなければいけないのだ。
 つまりは、山型の自壊と、谷型の勃興を、共に引いた目で、見届けなければならないということだ。


「お待たせしました」
 その男が、部屋に入ってきた瞬間を、加穂留は見逃していた。
 いつのまにか、視界の正面に入っているのだ。その中心地に、腰かけているのだ。そのあいだの映像が、加穂留には、全く抜け落ちてしまっていた。
「どうも」と加穂留は、口ごもったまま、中途半端に立ち上がり、不格好なお辞儀をした。
「まあ、いいから座って。あなたのことは、よく存じ上げておりますよ」アンディリーは、父親のような優しい口調で言った。
「いいから座って。今日は、腰を据えて話し合いましょう。他に邪魔は入りませんから。リナくんには、向こうからは、来ないように言っておきました。誰も来ません」
 その言葉に、加穂留は、背筋が少し冷たくなった。誰も来ないだって?誰にも邪魔されない?何をする気だろうか。
 アンディリーの両目を、見つめた。
 そういう男なのだろうかと、アンディという男の存在を、加穂留は凝視した。一ミリたりとも、動かさず、そこに固定させた。この男の背後を、読むためには、視線がここに定まっていなければならない。凝固されなければならない。加穂留そのものが、そこに、永遠に凝固してしまうかの覚悟で、逸らさないでいなければ。
 今ある意志のすべてを、そこに注ぎこんだ。
「いい目をしてるな」とアンディリーは言った。アンディもまた、まったく逸らすことなく、加穂留という存在そのものを、凝視し続けた。この空間には、二つの視点が、互いに激しく行き交っていた。固定されたその線上で、時はまるで止まっていた。そこには、男と女がいた。加穂留は、目の前の人間に、強烈に男を感じた。そして、自分が女であることも、思い出していった。いったいいつから、私は自分が女であることを、忘れていたのだろう。ナルサワトウゴウに対しても、男を感じたことはなかった。二人は友達であり続けた。付き合うことは永遠になかっただろうし、そうした芽生えもなかった。そもそも私は、男を好きになったことなどあっただろうか。まるで思い出せなかった。惹き付けられた男がいただろうか。現実、引き寄せることも、なかった。自ら近づいていくこともなかった。意識すら、させられることもなかった。母の店で、ホステスの真似事をしてみても、その疑似的な恋愛でさえ、まったく私には理解することができなかった。恋をしたこともなければ、愛し合ったこともなかった。そういった行為だけは、したこともあったが、それも火のない薪で、無理矢理に鍋をかけたようなものだった。思い出したくもない。
 加穂留は、目の前の存在を見続けた。すでに自分も相手も、そこにはいなくなっているように思えた。ただの成熟した男と女が、いるだけだった。僅かに、自意識は残っていたのか。この目の前の男は、何歳なのだろうと、くだらない問いが、頭のなかを一瞬掠めた。この男は、何歳なのだろう。年上であることは、間違いない。けれども、だいぶん上ではない。ありえると、加穂留はまだかろうじて残る自意識で、そう確認した。それが最後の抵抗であったかのように、加穂留には思われた。混じり合う異質の波は、次第に一つの奔流へと統一された。それらは何にも影響されることなく、微量な上昇と下降を繰り返し、再び二つの層へと分かれ、地をはうように、行ったり来たりを繰り返して、その後激しく、上昇していった。その瞬間、自分が性行為をしていたことに気づいた。
 すでに、身には何もつけていなく、その裸身は、エネルギーを使い果たし、アンディの身体に、全てを預けていた。
 アンディの体の上で、果てていたのだ。アンディはまだ、この身に入ったままであった。はっきりと感じとれた。アンディはここにいた。みぞおちの、さらに奥のそのあたりに、しっかりと収まっていた。アンディはいまだに、エネルギーが脈打っていた。このまま終わってほしくないと、加穂留は思った。加穂留は目を瞑り、そして身体を動かしていった。また巨大な奔流が、体を越えた領域で、蠢き始めていた。包み込まれているようだった。主体は再び、この自分ではなくなった。意識は飛び始め、自分が、アンディの上にいるのか下にいるのか、横にいるのか、わからなくなっていった。そして果てた。すると再び、アンディを感じた。その奥深いところに、アンディがいた。そう思うと、加穂留は再び、自身が熱を帯びてきていることがわかった。こんなにも熱いエネルギーを、自分は持っていたのだ。気づきさえしなかったその蠢きは、冷たい殻にずっと覆われたままだった。まるで、今このときに、この男によって、開通させられる運命であったかのように。付き合ってるわけでもない、愛しているわけでもない、ただその存在だけを、強烈に知っている、ほとんど実体は何も知らない、男を相手に。こうなることだけが、確実で、あったかのように。
 加穂留は、この僅かに開いた扉に、その身をすべて捧げた。


 学者は、血気盛んな若者を講堂へ集め、自らの理論を、何度も彼らに伝達するべく、マイクを握った。そして講義の締めは、実践で終えた。そうだ。まず、鼻の頭を見つめなさい。ゆっくりと力を抜いて。鼻の頭を見ることに、集中してはいけない。それは決していけない。淡く見なさい。力を抜いて。そう。何となく。視界に入ってくる程度に。そのまま静かに、目を閉じなさい。他には誰もいない。あなたしか、いない。ここは、大学でもない。あなたは、一人で、部屋にいる。目を閉じても、わずかにその残像としての鼻の頭を、ぼんやりと、見ていなさい。目を固定させなさい。動かしてはいけない。不用意に、さまよってはいけない。そうだ。それでいい。そこから旅は始まる。君たちは、内面の感覚へと入っていく。
 君たちが、目指す対象は、目を開き、ふらふらとさまよいながら、うつろに探し求める何かではない。いいかな。まずは、鼻の頭を見ることを起点にしなさい。入口にしなさい。そうだ。それでいい。目を固定させなさい。させ続けなさい。君たちが、これまで、ただの何も掴めなかったのも、ただの何も目指す場所が、特定できなかったのも、すべては、この行為を抜かしてしまったからなのだ。これは、単純にして、それまでの全てを覆らせる、唯一の方法なのだ。地味だが、これは身に付けなくてはいけない。派手な騒ぎを、常に求めてはいけない。むしろ激しく、自身を爆発させたいのなら、ここを通過させなければならないことを、肝に命じておきなさい。何事も、少しの辛抱の後で、訪れるものであることを、自覚しなさい。体感しなさい。これはほんの助走だ。エネルギーをただ、周囲に撒き散らすだけの害悪から、君たちを遠ざける、唯一の行為なのだ。これまで、誰も、そのことを教えてこなかったことが、不幸なことだった。不運なことだった。しかし、今をもって、君たちは変わる。ここを通過しない限りは、どんなことをこれからしても、それは、君たちの身になることはなく、君たちに行く末が結実してくることはないだろう。このことを、本来、教育者は、全員、若者に教えるべきなのだ。だが、彼らもまた、習熟してはいない。そんな話は、聞いたことも体験したこともない。今聞いても、そう、今私が懇切丁寧に話をしてても、誰も本気に受け取ってはくれないだろう。誰一人、真剣には取り組んではくれないだろう。彼らはもう遅い。内なる扉は、もうすでに閉じてしまっている。期限切れだ。君たちのような、まだ何者でもない、そう守るべきものさえない、無謀な若者こそが、最も可能性が、開かれているのだ。私は大学教授に復帰した。ゆくゆくは、さらに年少者へと、指導を広げていきたいと考えている。私にとって大学は、その手始めとしての、入口にある。
 学者は、マイクから、顔をふと逸らした。
 学生たちは、皆、一応に目を瞑り、わずかに身体を揺らす者はいたものの、それぞれが以前とは違う世界へと、入ろうとしていた。
 そのままじっと、目を動かさずに保ちなさい。こうした試練は、最初の時に、十分に体験するべきだ。後が楽になる。もう二度と、こんな訓練などしないために、今を全力で、エネルギーを傾けなさい。半端にやり残せば、再び同じ道を、辿らざるをえなくなる。今、我々の、この授業という機会を、利用しなさい。テストは無いのだ。ただ講堂に出席し、私の指導どおりに、こうして続けていくだけで、クラスはパスすることができる。試験勉強に、あとで取り組む必要はない。だから、今を大事にしなさい。そうだ。体が揺れてしまうのを、恐れてはいけない。静止させようと、緊張させてはいけない。体はリラックスさせる。ただ、目を動かしてはいけない。閉じた闇の中で、虚ろに遊ばせてはいけない。固定し続けなさい。次第に、君たちは、わずかにその固定された軸を、基点にして、少しだけ、ほんの少しだけ、回りながら、軸からズレるという感覚を、得るはずだ。わからない人は無理にわかろうとしないでいい。とにかく、目を固定させ続けることに、集中させなさい。その軸を鮮明に、強固にしなさい。わかる人は、その軸から外れていく意識の状態を、感じとりなさい。そして、あなたが今、目を閉じて座っているその姿を、少し離れたところから、じっと見ている誰かの存在がいる。その誰かに、あなたがなりなさい。あなたを見ている目が、そこにはある。あなたはそれだ。あなたは少し離れたところから、あなたを見ている。そこには、あなたしかいない。目を閉じた、あなたしかいない。そのことに集中しなさい。さらに、そうしたら、状況は、見えて来始める。ここはやはり講堂だ。あなたの周りには、あなた以外の学生が、同じように目を瞑って座っている。その様子を見なさい。壇上に目を向けると、私の姿もある。それも確認しなさい。そして、あなたを見なさい。やはり、あなたを見るのだ。あなたを中心に見なさい。しかし、その周りには、学生や私という背景もある。その状況を見なさい。あなたを含んだその光景を見なさい。あなたの姿がそこにはあるということを、何よりも重視しなさい。それでいい。そのままでいい。続けなさい。あなたの意識は、さらに軽くなってきていて、上昇をし始める。見える光景は、さらに拡大していく。あなたは、あなたを含んだその光景を見下ろしている。それが、ある種の現実だ。一つの立体的なシーンとして、今度はそれを、固定させなさい。それを基盤にしなさい。基軸にして、固定させ続けなさい。それは、今という状態なのだということを、認識させなさい。あなたという暫定的な個人における、それは、一つの現実なのだという認識を持ちなさい。それは、一つの現実にすぎない。さらに、上昇していきなさい。この講堂の外に出ていきなさい。この講堂が、どんな建物であって、この部屋が、その建物の中において、どこに存在していて、また建物は、この大学の敷地内において、どういった設計のもとで存在しているのか。つまりは、この一つの部分は、全体においては、どういった位置に存在しているのか。全体におけるココという感覚を、持ちなさい。全体におけるココ。すると、上昇はさらに、進んでいくことになるだろう。この学校は、いったい、街全体における、どのような場所に、どのような状態で、存在しているのか。さらには、この街は、近隣の街と、接続されて繋がっている。その付近一帯の地域における、全体性の中で、どんな街としてそこにあるのか。さらに、さらにと、その全体を捉える枠を、拡大していきなさい。ただし、そこでも、基点となっている、最初にして、唯一の基点となっている、あなたという存在を、忘れ去ってはいけない。あなたは常に、そこにいる。どんなに上昇していっても、あなたというミクロな存在は、常に視覚化していなさい。あなたを見下ろしているという視線を、維持しなさい。強固に維持していきなさい。その上で、自然に上昇して、拡大していきなさい。それでいい。そこには、国があり、大きな大陸があり、海があり、また別の大陸があり、さらに上にいけば、いつかは地球を見下ろしている所まで、いってしまうだろう。さらに、地球からは離れていき、暗い宇宙があり、別の煌めく星や天体までもが、見えてくる。ただし、あなたという存在を、常に見ている、見下ろしているという、その構造は、維持しなさい。まだ放棄してはならない。どこまでも維持していきなさい。その上でなら、どんな拡大も構わない。好きにさせない。自由にさせなさい。今、この宇宙の、さらに、その外側にまで、飛び出てしまった人もいるかもしれない。好きにさせなさい。その宇宙の、全体性の中における、ココ。あなたというココという構造を、鮮明にさせなさい。人によって、その拡大された規模は、違うはずだ。これは、誰かとの比較ではない。ただ、あなた自身の事なのだ。他の何かを気にすることは、やめなさい。ただ、あなたのことだけを、考えなさい。そして、どんな規模であろうとも、その全体における今ココという、あなたを確実にしていきなさい。あなたは、今、ここに生きている。全体における、世界の中の、今ココに生きている。存在している。そのことを、確定させなさい。その先に、今後は、進んでいく。今日は、ここまでだ。その状態のままに、しばらくリラックスしていなさい。焦ることは何もない。すべてはうまくいっている。私に静かについてきなさい。気づけば、あなたは変容している。あなたはより静かに、その目は定まり、運命は定まり、するべきことは、明確になり、そして破壊することではなく、自然体で生み出すこと、生み落とす世界へと、羽ばたいていけるはずだ。今日は、講義に出てくれてありがとう。また次回、皆の参加を待っている。さあ、ゆっくりと、目を開きなさい。目に飛び込むその世界に、ゆっくりと、馴染んでいきなさい。すぐに立ち上がろうとしては駄目だ。おしゃべりを始めては駄目だ。再び、淡く、鼻の上を数秒見たあとで、視線を外しなさい。深呼吸を五回してみなさい。その間に、私は、講堂から出ていきます。また次回、この場所で会おう。今日の講義を終わります。
 学者は去っていった。


「そうだ。お前は、測量部門に専念するんだ。それでいいんだ。これまで、よくやってくれたな」
「そんな。降格ですか」
「専念しろと、言っただけだ。お前のいるべき本来の場所へと、戻れと」
「ということは、あなたが、社長復帰?」
「名前など、なんだっていい」
「そのまま引退していく、ご予定じゃなかったんですか」
「気は変わった」
「そんな勝手な」
「気っていうのは、俺の気のことじゃないぞ。状況を見ろ。すべては変わってしまった。クラッシュ真っ只中の、止まった暗闇の中で、すべては蠢くことなく、死に絶えてしまっている。お前に、これが建て直せるのか!お前が再び、グリフェニクス社を大きく羽ばたかせていけるのか。お前は今どんな手を打とうとしている?言ってみろ。具体的に上げてみろ!今すぐ。ここで。俺の前で、さあ」
 地についた意識を取り戻した加穂留は、男たちの言い争うような、やり取りの渦中に、何故か、自分がいるということに気づいていく。
 その矢先、二人の男は、沈黙してしまった。ずいぶんと長く続いていく。その静けさに加穂留は耐えられなくなっていった。間に入ってこの無をかき消してしまいたい。暴れて一悶着起こしたい。アンディの横にいるその男は、いったい誰なのか。アンディの会社の社員であり、部下の男であることはわかるが、この男そのものは、一体誰なのか。
 加穂留は全身、服を着ていることに気づいた。あのあと、いったい、どうやって服を身に付けていったのだろう。いやそもそも、服を脱いだ記憶すらなかった。服を着たままで?でもそれにしたって、ズボンを履いているのだ。下着も脱がなければ、そんな行為には及べない。アンディもまた、まるで脱ぎ着したような様子は、どこにも見受けられない。部屋には、二人きりの世界は、すでになくなっている。二人の男は、私という存在を気にすることなく、会話を続けている。私はそもそも、ここで、何をしているのか。さっきまで何をしていたのか。アンディを、訪ねるまでのことを、思い出してみようとするも、リナの存在が、大きくなりすぎていき、その前後の記憶が、激しくかき乱されていく。
「そうよ。リナ」加穂留は、大きな声を、出していた。二人の男はやっと、女がこの部屋にいることに気づいたかのごとく、加穂留のことを凝視した。まるで呼んでもいない、不法侵入者の存在に、今気づいたかのような。もちろん私は、この会社には、何の関係もなかった。
「お前、ちょっと、席を外してくれないか」
 アンディは言った。加穂留は、自分が言われたのだと、一瞬思ってしまったが、もう一人の男は、無言で反応し、部屋を出ていった。
「すまなかった」
 アンディは、加穂留に言った。
「うちの人間だ。つい、さっきまで、社長をしていた男だ。半年以上も前に、仕事の大半を、彼に、引き継がせたんだ。そのまま俺は、静かにフェードアウトしようとしていた。最後に一つだけ、大きな仕事があって、それを、指示していた。役目は全て、それで、果たしたのだと、俺は思っていた。本当に引退しようと思っていたんだ。後のことは、もうなるように、なっていくだろうと。俺が率先して、提案して、立ち上げて、調査していくことなど、もう残されていないだろうと、そう確信していた。だが、今度のことだ。このクラッシュのことさ。これが、俺をまた、あるべき場所へと戻す、導き手となってしまった」
 アンディは、大きく息を吐いた。
「君が来ることは、薄々、感じていた」
 話の流れを、アンディは、大きく変えたことを、自覚しているようだった。
 加穂留の座るソファーに近づき、隣に座った。
「リナさん」と加穂留は言った。「さっき、リナさんに、会った。あれは、リナさんなのよね」
 アンディは、無言で頷いた。
「以前と比べて、ずいぶんと、雰囲気が変わった。リナさんだと、最初から気づいていたんだけれど、でも、彼女と対面していると、何故だか、初対面の人のように感じて」
「君は、初対面だとは、とても思えないな。昔からの」
「そうなの?」
 加穂留は、その交わりが、いったいいつだったのか、特定することができない不安定な時間の中で、浮かんでいるような気がした。
「ずっと、君が、そばにいるような気がしていた。本当に、初めてのようには感じなかった」
 身体に、確かに残ったままにある、アンディの感触のことを、加穂留は思った。やはりあったのだと、加穂留は思い直す。不思議なことに、今も、アンディが体の中にいるような気がする。今も、アンディの熱い奔流が、この私の体の中を駆け巡り、アンディにそのエネルギーを、押し戻しているかのような気がする。その巡りは、こうして、離ればなれになっている今も、感じていた。目を瞑り、身体から意識を離すように、リラックスしていけばいくほどに、アンディはより私と強く結びつき、混じり合って、上昇していくような気がしていく。
 この男が、ナルサワトウゴウを殺したのだという話を、ずっと忘れていたことに気がついた。そうだった。それを追求するために、自分は今、こうして来ているのだった。本社にまで押し掛けてきたのだった。あの門だ。あそこを潜ったときから、そんな本題など、すっ飛んでしまっていた。そうだ。あの門をくぐり、広場を通過し、宮殿のような建物を横目に、ここまで辿り着いたのだ。途中で、リナサクライにも会った。彼女を見たときに、すぐにここに来た本題を思い出してもよかった。だが、見事にスルーしてしまった。何かが変わってしまっていた。大きくそれまでの現実とは、ズレてしまっていた。同じ名の、同じ存在が、まるで異質な別次元のものとして、こうして目の前に現れ出てきているみたいだ。まるで見知らぬ男だった存在と、束の間の結びつきをも、引き起こしている。その体感は、何故か、抜け出てはいかない。性行為とは、そのようなものなのだったのだろうか。一度体験したことは、いつまでも持続的に残るものなのだろうか。だとしたら、何回も重ねて、しかも、違う男と重ねていくにつれて、いったい、どのような感覚の集積がなされていくものなのか。経験数が、圧倒的に少なかった加穂留には、わかりようがなかった。
 だが、このまま帰ってしまおうが、アンディと離ればなれになってしまおうが、この感覚だけは、残るような気がした。ただの一度の交渉が、永遠に尾を引きそうな気配すら、漂っていた。
 そう思ったとき、加穂留はやっと、ナルサワトウゴウのことを切り出すことができた。
「彼が、私の大事な人だということは、ご存じだったわけ?」
「君が?ナルサワの?」
「その反応は、知らなかったわけね。私をいったい、誰だと思っているの?どうして私が、ここを訪ねてきたのかはわかるの?ナルサワトウゴウは、私の大事な友人だった。その彼を失ったのが、私なのよ。あなた、私に、決定的な空白を作り出したのよ。その私が、ここにこうして、一人で来ている。あなたの前に現ている。どう受け止めるべきなのかしら。あなたは真実を話すべきなのよ。包み隠さずに、すべてを正直に。私にだけ。どんな事実も受け入れるわよ。わかったでしょ?私はどんな事実をも、受け入れるの。覚悟はできているの。その覚悟を、示したったかったのかしれない。あの行為は。その現れ、だったのかもしれない。話しなさい。誰にも話したことのない、その真実を。すべて。私にだけ」


 DSルネは、一心不乱に、最初のシーンを書き上げていた。
 ずいぶんと時間がかかったが、実際に書かれた量は、驚くほどの微量であった。DSルネは落ち込んだ。創作とは、こんなにも遅々として進まないものなのか。こんなにも、時間もエネルギーもかけた結果が、たったのこれにしかすぎないのか。一つの作品が完成するのに、あとどれほどの労力が必要なのか。考えただけで、ルネは、全身に悪寒が走ってきた。このままやめてしまえれば、どれほど幸いなことかと思った。だがルネは、しばしの休憩の後で、再開していくことがわかっていた。
 もうすでに始まってしまったのだ。どれだけ自分がやめたくても、シーンは次々と、展開していき、先走っていくことだろう。だが、その先走りもまた、創作としては実に遅々たるもので、そのギャップに、ルネはこれからも悩まされ続けるだろうと思った。ある女と男が出会うシーンから、話は始まることは予感していた。女と男が出会う必然性を、ルネはずっと、闇の中で探っていた。というよりは、それが起こるのを待っていた。通常ではありえない結びつきが、このクラッシュの元では、起こるような気がしていた。今だからこそ、それは可能で、これが過ぎてしまえば、そんな出会いなど、現実にはありえない。けれども、クラッシュが終わった後も、その出会いから派生した物語だけは、続いていく。出会いは、闇に葬られるものの、その後の展開だけは、光の元に晒され続ける。
 要するにと、ルネは思う。その最初の闇の部分を、書く必要があったのだ。今このときに。この状況こそが、書かせているのだ。この遅々とした進みもまた、現実の時間の流れとはリンクしていないことを悟り、やはり書くことが止まってしまう日まで、全霊で、意識を傾注しなければならないことを、彼は天に約束していた。
 女が愛し始めたその男は、女の幼馴染みを殺した男であった。彼が、別の男に指示を出して、殺害を実行させた。女はその噂レベルの真相を確かめるために、男を訪問した。だが、その道中に、意識は変転し、対面した男に、特別な反応を示している自分をも、発見してしまった。男は会社を経営していた。自ら創業した、テクノロジーを基盤とした、現代を代表する会社であったが、次なる展開における過渡期にもあたっていた。時代の変わり目でもあった。女は、そうしたタイミングで現れた。二人は一瞬にして、強烈に結びつき合った。その後、女は我に返り、自分がここにやってきた本当の理由を思い出していった。男もまた我に返り、部下に対して、事業の今後を、指し示し始めていった。


 アンディは、その女を帰したあと、一人、応接室でずっと座ったまま、一連の過ぎ去った展開を、ぼんやりと思い返していた。加穂留という女だった。もちろん、今さっきまで、知らない女だった。ナルサワトウゴウに、そんな女が居たなどとは知らなかった。もっとも、付き合ってはいなかったらしいから、事前の調査でも、上がってはこなかったのだろう。ナルサワトウゴウのことで、話があったらしい。だが、その話は、結局、掘り下げられることはなかった。最後にあの女は、その話を持ち出してきたわけだが、その案件だけが、二人のあいだの宙に浮かんだきり、何のエネルギーの炸裂もなく、そのまま浮かび続けていただけだった。ナルサワトウゴウという共通点は、二人をどこにも導いてはいかない、ただの雑念にしかすぎないようだった。
 次第に彼女も諦め、それ以上引っ張るようなことはしなかった。居心地の悪くなった彼女は、すぐに退席を申し出て、去ってしまった。連絡先も何も聞いてなかった。ただ突然、見知らぬ女が乱入してきて、しかも、このクラッシュの時期に、あっという間にこの俺の中の入り、精を奪い、いなくなってしまった。そうだと、アンディは思い返した。無防備に、彼女と結び付いてしまっていた。無防備に、夢中になり、無防備に解き放っていた。すでに、体の中に残量は、何も感じなかった。溜まっていた全ては、彼女を相手に、出しつくしてしまっていたようだ。何も、二人のあいだを遮るものはなかったように思う。大丈夫なのだろうかと、アンディは思う。しかし、不思議と残量物は感じないのに、それが、物理的に出ていった痕跡を、見つけることができないのだ。だいたい服さえ脱いでいない。何もしていないといっていい。本当に、そんなことはしていないのだ。それなのに、まるでしたような気がするのは、一体何故なのか。身体全体が、その記憶を有しているのは、何故なのか。だいたい、初めて会った気もしなければ、初めて交わった気もしないのだ。
 一人でいるアンディだったが、体の一部は相変わらず、別の身体の中に、今もいるような気がするのだ。そのエネルギー体は、今も孤立して、存在していた。さっきからぼんやりと、それを眺めていたのかもしれなかった。二人が結びつき、繋がり続けているその独立物を、見ていたのかもしれなかった。
 ドアがノックされ、返事をする前に、すでに、ユーリラスは入ってきていた。
「よかったですか?もう」
 アンディは、焦点を、目の先に戻していくのに難儀した。
「何をしに来たんだ?」
「何って、あなたが少しのあいだ、席を外してくれって、そう言ったから」
「そうだった」
 いまだに、焦点が、目の前へと、移動してはいかない。何故か、自分の、鼻の頭ばかりに、ピントが合ってしまっている。その状態のまま、目の前の男を見ることがうまくできない。口だけを動かし、会話を続けることにする。
「大丈夫でしたか?」とユーリは言った。「何か、トラブルでは、ないですよね?あなたと関係のある、女性の一人なんですよね?」
 どう答えていいのか、アンディにはわからなかった。
 これまで、同時に付き合い続けてきた大半の女性を、ユーリは知っている。
 その彼をしても、まったく見知らぬ女であったわけだ。警戒心が丸出しになるのも、無理もなかった。
「俺の女じゃないさ」とアンディは答える。「あれは、ナルサワトウゴウの女だ」
「えっ」
「というよりは、ただの知り合いだ。ナルサワトウゴウの、かつての知り合いだ」
「まじですか。大丈夫なんですか。シュルビスですか。あいつが何か、余計な事をしゃべって」
「そうじゃない。シュルビスじゃない」
「そういえば、あいつ、最近見ないな。カジノ場にも、足を運んでいないようだし」
「カジノは、閉鎖したよ。潰した」
「えっ」
「そんなものは、もうない。ほんのさっき指示を出した。シュルビスも、ここに来ることはないし、特に関わりもなくなる。今後は」
「聞いてませんよ」
「これから、色々と、指示を出そうと思っている」
 ユーリラスは、黙ってしまった。
「まあ、いいです。それはそれで。そんなことよりも、ナルサワトウゴウの件ですよ。彼の死について、不信感を持って、それで乗り込んできたんじゃないですか?脅されたんですか、まさか」
「落ち着けって。そんな事にはなっていないよ。だいたい、ナルサワに、俺は何をしたっていうんだよ。確かに、シュルビスが、あいつを刺したことは事実だ。そして、ナルサワの秘書だったリナサクライが、その後うちに移ってきたのも、確かだ。皆、何か、勘違いをしている。そこに、因果関係は、実はないんだよ。シュルビスに、俺が何か、指示を出して、それで彼が、ナルサワを殺害しに行った。皆、そう思い込んでいる。お前もそうなんじゃないのか。俺がナルサワを殺したんだって」
「だって事実」
「そうじゃないんだよ。そんなわけないじゃないか」
「でも」
「でもじゃない。もしそうなら、俺は今頃、警察に捕まってるぞ。シュルビスを共犯者とした、俺の主犯でな」
「まだ、警察が、掴んでいないだけで。それに、あなたが、警察に何か働きかけて」
「だから、そんな事実は、全くないんだよ。どうして、そうなるんだよ。リナだな。リナが、そのタイミングで移籍してきたからだな。おそらく、そういう噂を、君たちはしてるんだろ。リナサクライを手にいれるために、ナルサワを殺してって。そんな馬鹿いるか?たかだか、女一人だぞ。他に、たくさんいい女などいる。どうしてリナにそんな執着を示す?それに、俺は、リナとは付き合っていない。付き合う気もない。互いに、惹かれ合ってもいない。いい加減にしてくれ。君がそんなことを考えているなんて、思いもしなかった。そんなくだらない噂に、首を突っ込んでないで、やるべきことをやってくれよな。グリフェニクス社のために」
「それは、もちろんです。ただ、はっきりさせておきたくて。あなたという人間を、今後も信用して、ついていくために」
 アンディは、溜め息をついた。結局は、すべて、そこに行き着いてしまうのだ。あの加穂留という女を引き寄せたのだって、そもそもがコレだ。もしかすると、この自分も、その現実から、逃げ続けていたのかもしれなかった。確かに、ユーリの言動は、事実とは異なっていたものの、そう思われても、仕方のないような行動を自分はとっていた。しかも、そのように誤解されることを、逆に自ら、奨励していた節もある。そうなんだ。そういうことなんだよと、それで、自分もまた、納得させようとしていた節が、確かにあった。アンディは、ナルサワトウゴウの殺害事件の深層に向き合うタイミングが、今来ていることを、素直に認めざるをえなかった。


 講義は始まる。学者は、前回と同様、学生に目を閉じさせ、視線の向きを反転させる行為を、執拗に繰り返させる。このことが肝であるということを、言葉だけでなく、何度も体感させなくては、意味がなかった。この入りだけは、講義がどんなに進んでいこうと変わらない、唯一の型なのだった。当たり前のように、こうした入りから始めていく。自分の鼻の頭を、ぼんやりと見ながら、目を閉じていく。目はきょろきょろと動かさない。微動だにさせない。その鼻の頭の、幻影のところで止めたままに、呼吸を落ち着かせる。いつだって、同じだ。いつも外へ外へ、対象から対象へと、移ろい続けていたその視線は、今は消失している。完全に、消失はしていないが、今この瞬間にだけは、消失している。これが、安定して凝固していけば、目的は果たす。学者は続ける。
 ほんのわずかだが、体の中心からは、解離している感覚を持つものもいるはずだ。ほんの少し捻り、そして、解離しているような感覚を。そのときだ。今、あなたの姿を見ている外からの視線を感じ、その視線と同化している。あなたの姿を見ているその視線が、あなたそのものとなっている。あなたは離れていく。そのままエネルギーのなすがままにさせなさい。解離し、上昇し、広がっていく事実を、目の当たりにするかもしれない。そうならなくてもいい。ならなくても、焦ってはいけない。そんなイメージを、無理矢理に持つことをしてはならない。何が起きても、起きなくても、それはあなたにとって、すべては正しいのだから。あなたに必要なことは、いつだって、起きている。同じ現象を、皆が揃って、得るものだと考えてはいけない。それぞれが違う。それでいい。あなたの身体を、それでも、あなたは、外側から見つめている。どんどんと、上昇していったとしても、あなたの身体を見下ろしているという構造を、けっして崩してはいけない。それだけを、意識してほしい。あとは自由にさせなさい。あなたはどんどんと、リラックスしていっている。もし時間があるのなら。時間が経過しているのなら、あなたは、その経過と共に、どんどんとリラックスしていくだろう。軽くなっていくだろう。あなたはあなたを見ている。空間は、人それぞれのサイズがあることだろう。前回も言ったように、この講義が行われている教室が、全体として機能している人。敷地を越え、海にまたがる、その大陸を見下ろしている人。さらに、地球を凌駕してしまっている人。大事なことは、その大きさのほうではない。あなたの身体を向こう側から、見続けているという、ただその一点だけが、重要なことだ。発言は、前回と全く同じだ。さて、と学者は、口調を少しだけ変えた。
 ここからが、前回とは、違う領域に入るということを、暗に指し示すために。今、あなたたちは、そうした状況にいる。その状況を、固定してほしい。それが今という暫定的な時間だ。さあ、あなたたちは、こうして、私の話を聞いている。聞き始めた時と、今は、まるで異なった場所にいる。そのさっき固定した今からも、時間は過ぎてしまっている。もし、あの場所に、今を固定したと仮定するならば、そこからはまた、刻々とズレてしまっている。君たちは、今も前もこれからも、ずっと、ズレ続けていることになる。これが、時間だ。ズレること、それが時間だ。つまりは、ズレ続けている。それ以外に、君たちの存在する場所はない。今をもう一度感じてみよう。そこに今、見えている、見下ろしている時間を、固定してみよう。それは、仮初めにしかすぎない。いつだって、暫定的にしか、今という空間を、捉えることはできない。さあ。それでは、そのズレ続けていった空間たち。そう、空間は、固定させた時から、同じ空間ではあるものの、微量な変化を続けていっている。さっきと、今。そのわずかな変化は、さほど目に見える程ではないだろう。しかし、ここで、そのズレをもっと大きくとっていこう。君たちは、今、大学の二年生だ。一年のときがあっただろう。来年には、三年になっている。そこには、見た目にも変化があるかもしれない。もっと大きくとっていこう。幼い時が、記憶として甦って来る人もいるかもしれない。ひとつ大事なことは、どんな空想をしても、かまわないということ。がしかし、あなたの姿、身体を、今もこうして、あなたの今の空間サイズから、見下ろし続けるということだ。この構造だけは、けっして、変えてはいけない。あとは好きにさせなさい。エネルギーが動くがままにさせなさい。そして、そのズレていく幅を大きくとっていきなさい。過去に大きく遡りなさい。未来に大きく進ませてあげなさい。その両サイドが、君たちの人生、生涯そのものになるのだから。あっというまに、その範囲を越えて、さらに両極が、広がっていく人もいるだろう。好きにさせなさい。あるいは、数年くらいの幅しか、持てないひともいるかもしれない。それも構わない。とにかく嘘をつかないこと。自分の思い通りに事をさせないこと。在るがままにさせることだ。広がっていくのを許しなさい。可能な人は、このあなたの生涯の両サイドを、さらに逸脱させていきなさい。その外側に、自由に広げていきなさい。もっといけるはずだ。もっともっと。あなたの風貌は、大きく変わっていることだろう。その拡大は、全く止まる気配すらない。好きにさせなさい。そして、その把握できたズレの範囲を、全て包み込みなさい。そのすべてが、あなたそのもであるように。そして、変わらず、眼下には、今のあなたの身体がある。それを見つめ続けなさい。もう、うまく、今のあなたの原型がとらえられなくなってしまうかもしれない。でも、できるだ限り保ちなさい。簡単に手放していけない。手放すタイミングは、まだだ。保ちなさい。学者の声は、どんどんと、大きくなっていった。
 学生は、誰一人として、目を開けることはなかった。それぞれが、それぞれの谷化の過程を、静かに踏んでいる。これほど、静かになれるのだと、学者は思った。人間は、正しい方向に導いてあげれば、このように、静かになれるのだ。まだそれは、不安定な段階であるには違いない。この講義の中だけでしか、彼らは、静かでいることができない。講義が終わり、個々に戻ってしまえば、またすぐに・・・。それは、仕方のないことだ。だが、元に、戻りにくい人間も、中にはいるはずだ。人それぞれに差はある。しかし、全員に共通なのは、以前のその人では、確実にないということだ。わずかながらも、進んでいっている。彼らの中に、谷型の芽が宿り、その芽は成長していっている。わずかであっても、構わない。変わっていっていること自体が、重要なのだ。その芽は、短期間では、開かれないかもしれない。こうして講義として、関わっていられる間には、まるで、芽吹かないかもしれない。でも、それでいい。彼らの中で、人知れず育っていく可能性はある。また、あるとき、思い出したように、その芽の突起に気がつき、突然の成長を始めるかもしれない。本当に人による。そして、もちろんと、学者は思う。この講義の最中に、芽吹く人間が、多くはないが、存在する。たった一人かもしれない。必ずいる。そういう予感がする。もちろん、一人もいなかったとしても構わない。そのことで、講義をしない意味などは、ないのだから。だが、確実にいる。少なくとも、この講義で、すでに目にしている人たちの中に。今もこうして、彼らの中では、大変な反転が起ころうとしている。学者は、それ以上、考えるのはやめた。言葉を続けた。
 いや続けるための、どんな言葉の持ち合わせもなかった。ただ、そのままの沈黙を、続けていればよかった。それぞれの、拡大現象を、ただ見守っていればよかった。誰かが、見守る必要があった。こうして私が、その役割を今果たしている。広がりは続いていく。講堂の中は異様な空気に満ち溢れていた。それぞれの拡大が、相互作用を引き起こし、さらなる大きな飛翔に、一役かっているような感じだった。その流れに、学者自身も乗った。彼らと同じような過程を踏み、飛翔していった。その飛翔もまた、学生たちに、連鎖の反応をもたらしているはずだった。学者は、自らの静けさに、意識を集中させていった。学者もまた、自分のその姿を、見下ろしているという構造を、最後まで崩さないよう気をつけた。
 どこまでも維持していくことを、唯一の努力とした。その努力が、まったくできなくなる、その地点が過ぎるまで、延々に続けようと心に決めた。


 男は女に促されるがままに、話をさせられた。それは、自分でも思ってもみなかった真実であった。男は言う。「自分と、その殺された男の間には、純粋に何のトラブルもなかったと。この俺が、彼を殺せと、部下の男に指令をしたのは、その男の秘書の女とは、何の関係もかったのだ」
 アンディは言う。「ナルサワトウゴウに対する殺意は、俺には、これっぽっちもなかった。殺意があったのは、シュルビスの方だった。シュルビスは長いあいだ、ナルサワには、個人的に恨みを抱いていた。殺害のチャンスを、ずっと伺っていた。ナルサワとシュルビスはかつて、仏教徒が通う学校の同期だった」
「仏教徒の学校?」
 加穂留は、困惑した表情を浮かべた。
「そんなことは、知らない」
 アンディは、構わずに、続けた。
「彼らは、ある時期まで、非常に仲の良い友人だった。その学校は、仏教を学ぶだけでなく、その学生たちは、授業料を払う代わりに、新たに進められていた寺院の建築に、労働力を提供することで、賄う制度になっていたんだ。当然、彼らも一日の半分を、その労働に費やすことになる。あるいは、途中からは、その労働の方が、メインになっていったのかもしれない。しかしやはり、普通に建築現場で働いているのとは違う。その作業もまた、一つの大事な修行としての、過程を踏んでもいるのだ。カリキュラムの一環として、仏道を理解する上で、非常に重要な行為でもあったのだ。それぞれの特異な能力ごとに、セクションは別れていたようで、彼らは、自らの才能と体力を、惜しみ無く伸ばしていくことで、寺院建築にも貢献した。学校組織と、個々の学生は、相乗に資源を提供し合った。非常に良い関係が築かれていた。しかし、そうして、どんどんと、寺院に関する作業が、日々の生活の中で重要度を占めていくにつれて、彼らの仲は急速に悪化していったのだよ。個々の能力や才能ごとに、抜擢される仕事は、それぞれに違う。そこに嫉妬が生まれたんだ。ナルサワは、寺院の設計にまで、踏み込む役目を担い、シュルビスは、相変わらずただの一介の肉体だけを提供する、作業員のような存在であり続けた。シュルビスは、似たような境遇の作業員が、その過酷な労働の果てに、体を壊していく様子を目の当たりにするようになっていった。学校側、寺院側の対応は、ほとんど見捨てるかのごとく、適当な対処に、終始していった。まるで、使い捨てられるかのごとく。この自分もまた、そうなのだろうか。シュルビス初は、寺院側を疑うようになっていった。そして、同期生は、どんどんと少なくなっていった。寺院はあまりに巨大であり、作業に終わりなど、見えそうになかった。全体像が希薄なのだ。それに比べて、とシュルビスは思った。あのナルサワは違った。どんどんと階級を上げて、待遇が変わり、作業は楽になり、そして、設計に深くかかわり合っていくにつれて、全体像はより明確に、なっていったのだ。自分らとは、まるで正反対だ。壮麗な寺院の、その光景を、彼は見ていたのかもしれなかった。それに反比例するように、俺は、俺らの運命は、次第に血に染まっていったのだった。そうだ。これは、血で染められた死の寺院なのだと、シュルビス初は、考えるようになっていった。そして、怒りの矛先は、全て、ナルサワトウゴウに終始していった。だが、ナルサワとは、その後、卒業するまで、顔を合わせることはなくなった。そのことが余計に、準備された、運命の違いを、突きつけられたようでもあって、シュルビス初は、強烈な憎悪を身に抱いたのだった。卒業後も、二人の道は、交わることはなかった。それに、仏道の道に、彼らは職業を得るようにはならなかった。ナルサワは、大手の探偵事務所に就職し、その後、独立。シュルビス初は、日雇いの仕事ばかりで食いつなぎ、やがては、ギャンブルに溺れ、うちのカジノにも、現れるようになった。その頃、シュルビスは何故か、独学でだろうか、探偵事務所を開いて、商売をするようになった。その辺の経緯のことは、わからない。だが、ナルサワとは再び、遠くはない場所に、生息するようになった。その犯行が起こる以前に、彼らは再会していたのか、それはわからない。ただあったとしても、互いが互いを認識し合っていた可能性は低い。面識はあっても、学生のときのあいつだと、断定していたとは限らない。むしろ、シュルビスの方は、知っていて、近づいた可能性はあった。知っいて、自分も同じ業界を選択したとも考えられる。ナルサワの方はわからない。あの殺害された夜に、シュルビスと対面した時に初めて、認識したのかもしれなかった。とにかく、あの日、あの時刻に、当時ナルサワの事務所が入っていたマンション、クリスタルガーデンで、彼は昔の同期の男に刺されることになっていた。そういった運命が設定されていた。シュルビスもまた、気づいていたかは定かでなかった。気づいていたら、あるいは、運命は回避されていたのかもしれない。だが、それは、決着をつけられべき事柄であった。そのセッティングをしたのが、俺なのだ。ただの仲介者としての存在が、この俺なのだ。それも、今思えばだ。あのときは、無意識に、盲目的に、したことだった。そう。あの時は、当事者の誰もが、虚ろだった。誰もが自覚などしてなかった。こうして時間がだいぶん経ったことで、その真相が明確になってきたのだ。あれは、三者のそれぞれの了解の元に、行われた茶番だったのだ。演劇だったのだよ!本物の血が流された、演劇だったのだよ!たしかに、俺が、シュルビスを呼び出して、彼に、ナルサワのところに行くよう、指示は出した。どうしてそう動いたのかは、そのときには、わからなかった。わかっていれば、少しは違った行動が、とれたのかもしれない。しかし、盲目な俺も、運命に動かされた操り人形だった。そして、その時は、やってきた」
 アンディは、自分が今、誰かのエネルギーを借りて、しゃべっているように感じられていった。完全に盲目では、今はないにしろ、自分で口にしていながら、驚きの事柄ばかりであった。
「ただ」とアンディは先を続けた。「その彼らが通っていた、仏門の学校が建築した、寺院。その事業だよな。そこと、俺が、関わりある未来は見えていた」
 その言葉にも、アンディ自身が驚かされた。
 そんなふうに思ったことなど、一度もなかった。
「寺院は巨大化していき、そして、細分化もしていく。この地上に、新しい寺院は、無数に立ち並んでいくことになる。今も、水面下では、その建築が、急ピッチで進んでいっている。ことあるごとに、グリフェニクス社と、その土地の争奪戦が、繰り広げられる運命にある。欲しがる土地が、重複するのだ。いつも対立候補として、互いを認識するようになる。トラブルの芽は、そこに育つ。つまりは、未来も含めた、俺らは、三角関係に最初からあったわけだ。そして、そのナルサワが刺された後に、そのほとんど遺体と化した彼の肉体を、持ち運び去った人物がいる。その男は、我々の中では、Dと呼ばれている。彼と、彼の弟子のような部下の数人の男たちが、ナルサワの遺体を速やかに、あの場から移動させた。そして、彼らは、ナルサワの蘇生を試みていたのだ。半年のあいだ、それは続いた。ナルサワは、意識を取り戻して、普通に歩いて生活できるまでに、回復している時もあった。ナルサワはあのときに、即死したわけではなかった。そのあとずっと、昏睡を続けているわけではなかった。彼は一度、ちゃんと蘇生したのだ。彼がまだこの世に残っていた未練のようなものを、着実に消化していったのだから。そういう時間と機会を、与えられたのだ。彼は、その半年間、それまでの何十年と生きてきた、その全てをもってしても、軽々と凌駕するほどの、充実した生を過ごしたのだ。そのDと、周りの人間のお陰で。Dたちは、ナルサワトウゴウの運命を知っていた。しかし、その事前に介入することはしなかった。彼らは闇の中で息を潜めて、そのことが起こるのを、静かに待っていた。そして、起こったがすぐに、彼らは闇の中から即刻ナルサワを救出するべく、行動を開始した。それが、真相だ。血の海だけが残され、事実は遺体と共に、地上からは消え去ってしまった。残された者たちが、頭を抱えてしまうのは、いた仕方のない事だった。あなたも、突然一人、理不尽にも、取り残されてしまった。同情しますよ。あなたにとっても、この半年は、いつもとは違った、生だったのではないですか。Dならそう言うはずです。冷たくも、そう突き放すはずです。これは、ナルサワトウゴウさん一人の身に、起こったことではない。一連の世界における、社会的な出来事、そのものなのですと、彼はそう言うはずだ。僕はただ、状況をコーディネートしただけだ。僕に個人的な殺意は何もなかった。個人的な想いは、何もなかった。そのことだけは、分かってもらいたい。あなたには。そして、因果は、直接、彼とは繋がりがなくて、むしろ、そのDと、僕は、今もこれからも強く結び合ってしまっている」
 加穂留は、じっと下を向いたまま、涌き出てくる何かに、必死で耐えているようにも見えた。
「それでも僕が、引き金を引いてしまったことは、申し訳なく思っています。でも、それが、僕という人間なんです。事情は何もわからなくとも、ただやるべきことだけが、天から降ってくる。いつだってそうなんです。盲目に、事だけを成し遂げてしまう。その代償は良くも悪くも、後からとるようになります。それが、僕なんです。わかってください。僕には選べない」
「私との事も、そういうことなのね」加穂留は、顔を上げた。
 睨みつけるように、この自分のことを威嚇するのだろうと、アンディは身構えた。だが、加穂留の表情は、実に穏やかだった。
「私は違う」と彼女は言った。
「私は確実に、自分の気持ちが、理解できてから、それで、すべてに納得して、行動を起こしたい。そういう女なの」
 そう言って、加穂留は、アンディの領域にすっと入り、体に巻きつき、その身をアンディと同化させていった。まだ誰にも本気で愛されたことのない、そんな身体のように、アンディには感じられた。


「あなたの言うことは、よくわかった」
 二度目の交わりは、双方にとって、確実に、初めから終わりまでを自覚的に行うものだった。これまでした、どんな性交渉よりも注意深かったと、アンディは静かに回想した。
「私以外に、その話で納得する女なんて、この世にはいないかもね」と加穂留は言った。
 アンディもまた、その通りだと素直に思った。自然と結びついたこの関係の未来を、アンディは考えたくなかった。
「それでも、俺はね」アンディは無防備な状態で、言った。
「ナルサワトウゴウとは、確かに、繋がりはない。会ったことも、正直、ない。でも、彼とは、不思議と、それ以前に約束を交わしたような気がしていた。彼とは、固く、互いに、同じ約束をし合ったような。つまりは、もし、自分の身に何かあったとしたら、自分の一番身近にいる大切な人のことを、宜しくと。力になってあげると。立ち直るまでのあいだを。今度のことでは、それはリナだった。ナルサワの避けることのできない運命の結果、俺は、リナを手助けしなければならない約束をしていたんだ。だから雇った。一瞬、女としては、見てしまったけれど。でもそれだけだった。リナは有能だ。そして、リナもまた、何の自覚もないかもしれないけれど、俺のところに来る定めだったのを、薄々知っていたのではないか。ナルサワトウゴウの、もしもが、訪れることを、無自覚に予期していたのではないか。移籍の提案に、彼女は自然に乗ってきた。今も、普通に働いている」
「私って、彼の一体なんだったのかしら。彼の、何がわかっていたのかしら」
 加穂留は、アンディの胸に顔を乗せながら、呟いた。まだそんなに、たくさんの経験をもっていない感じのする、その身体を、アンディは、丁寧に丁寧に、硬さを解きほぐして、進んでいったことを思い出した。まだ、ほんの締まりの緩い、わずかに脂肪のついた肉体でいながら、触られ慣れていない、肌の僅かなざらつきを、アンディは愛しくも、これから自分が開発者として進んでいく自覚を持ちながら、時に微量に、激しく、その意志を彼女の皮膚に乗せて、侵食させていった。開花していない、無尽蔵のエネルギーが、僅かに漏れ出ているだけの存在に、アンディは、時に包み込まれ、時に激しく襲われ、抵抗され、それでも、その初々しい匂いに、自らの性もまた、掻き立てられていったのだ。ものすごく濡れてはいたものの、滑らかには進んでいかないその時にも、アンディは全てをさらけ始めている彼女の息づかいに感動し、絡み付いて、その場に留まるよう、仕向けてくる彼女の中の感触にも、その後は二度と体感できない、貴重な瞬間であることを感じて、自分の未知なる領域を刺激されているようで、今にも爆発しそうな状態になった。彼女もまた、この自分を、開発させるべく、そんな要素を、多様に持ち合わせているのではないかと思った。互いに開発するための材料が揃った、そんな組み合わせなのかもしれなかった。その欠けた部分を、互いが持っている。アンディは、今、そんなことは考えたくはなかったものの、彼女と共に歩む新生のグリフェニクス社が、目の前に立ち現れてくるような気がしていた。だが、アンディは、そんな幻影などは振り払った。今の爆発する寸前の、その領域に、すべてを集中させていった。まさに、自分が信頼できるその相手の男に、すべて身を投げる女のように自らを解き放っていった。僅かに残った意識の中で、これは、ナルサワトウゴウからの贈り物なのではないかと感じていた。


 序章から始まる音楽が、ここから長く続いていく。イメージだけを詳細に記して、あとは音楽家に作曲を依頼しようと、DSルネは思う。そのイメージは、当然歌詞として、役者が歌うために書き残しておかなければならなかった。それまで成功してきた事業からの脱皮。大事な友人であった男が殺され、その事件の一端を担っていた男のことを、愛し始めてしまった女。二人の恋が、オペラの序章を、綺麗に縁取り始めていた。天使の歌声は、過去の悲哀を掻き消し、歓喜の上書きを、華やかに施していく。天の意思は、天使に反映し、天使はまた、二人の男女の吐息をも、天へと返していくのだった。
 その序章は、天との回路を太くしていき、突然、地上を流れ回る、これまでのエネルギーの回路を、止めてしまう。完全に止めてしまう。地を這うように、旋回するそのエネルギーは、天から下降する、天へと舞い上がっていく、その縦型の回路の出現によって、滞らされてしまう。その現れが、間もなく、地上の世界全体を覆う。
 それは、黒く巨大な雲が、地球全体を覆ってしまったかのように見えることだろう。これまで、息を潜めていた地上の悪魔が、一気に徒党を組んで、占拠してしまったかのようにも、感じられるだろう。だがそれは、ある方向から見た、一面にすぎなかった。クラッシュと呼ばれるその時期を、人類は通過することになる。ここに、その雲が、設定されていたことに気づく者は少ない。いつだって、無自覚な操られた人形なのだと、天使は、男の代弁者のように歌い続ける。だが、美しいメロディーがに流麗にその歌声を掻き消していく。地上の人間の叫びを代弁する、天使の声は、次第に後方から鳴り響く、数々の澄んだフレーズによって、上書きされ続けていく。いまだ、クラッシュは続き、先年、万年と、旋回し続けてきたエネルギーの渦は、復活する気配すらない。
 天使の声は、完全に掻き消された。複雑に組み合わされているものの、それぞれは、シンプルなその旋律が、世界を覆うように、なっていった。クラッシュしているという現実そのものが、消え去り、次第に人々は、何も起きてはいないという自覚と共に、かつての幻想を、後方へと置き去りにする瞬間がやってくるのだった。再び、天使の声が鳴り響く。しかし、そこに悲哀の影はない。躍動する調べばかりが、複雑に重なり合い、重なれば重なるほどに、全体はさらに軽くなり、地面そのものが、上昇していくような、蒸発していくような歌声で、満ち溢れていくようになる。


 ナルサワトウゴウの死を、二人は共有した。世の中にクラッシュが襲ったのは、その一ヶ月後だった。文明のすべてがストップしてしまったその現象を、彼は、ホワイトロームと名付け、その白い霧の中で、行く末を模索する、地上の人間社会を、彼はただ見守り続けた。すべての人間にとって、それは我が身に降り注いだ、時代の変わり目であった。男もまた、業務のすべてを一変する必要に迫られていった。
 アンディは、ユーリを呼び、再び彼に全権を付与するべく、彼の担当の測量部門の進展具合を、訊ねた。
「まずは、サンピエトロストーンサークルの建築が、終了したことを、伝えよう」アンディリーは、切り出した。
「無人の建設が、効を奏したようだ。クラッシュの最中でも、あれだけは、まるで、影響を受けなかった。うちの事業の中で唯一」
「なるほど」とユーリラスは、言った。
「広場だけではない。敷地内のすべての建造は、終了した」
「ということは、国ができたんですね」
 そうだとアンディは答えた。
「あなたは、国王だ」
 アンディは、それには答えなかった。
「前に何度も言ったが、そこは宗教を中心に据えた、信仰の国だ。つまりは、その支柱に、王はいないということだ。組織もない、聖職者もいない、聖書も規律も何もない。ただあるのは、テクノロジーだけ。それもただ、人間の生活を便利に豊かにしていくことに、寄与するだけの技術ではない。人間の内側。内部の奥の、さらに、内へと意識を反転させるための技術だ。外へ外へと、彷徨い続けることを、さらに助長させる、これまでのテクノロジーとは、まるで違うものだ」
「新しいテクノロジーは、ドクターゴルド氏の開発なんですよね?」
「そのとおりだ。彼は、キュービックシリーズのその先を生み出すことができた」
「彼は今」
「長い休養に入っている」
「だいぶん、お疲れなんじゃないですか」
 そういうレベルの話じゃないと、アンディは答えようとしたが、止め、それよりも、君の測量部門はどうなっているのだと、あらためて訊き直した。
「ご存じのとおり、このクラッシュのあいだ、ホワイトロームが発生しているそのあいだに、我々は、時空調査をしてきました。街に出て、あらゆる場所で測定しました。ドローンも飛ばせない状況でしたから。とにかく歩いて歩いて。要員もだいぶん使いました。そして、サンプルをできるかぎり、集めました。谷化です。時空は、所々で、谷化の構造を示していました。それ以外は、山型です。これまでの、その山型に、谷の構造が混じりあっている不思議な状態でした。おそらく、これが、すべてのコンピューターテクノロジーのプログラムを、停止させてしまった要因です。これを取り除かないかぎり、いや、この状態を変化させないかぎりは、街は止まったままでしょう。では、どうしたらいいのか。どんな働きかけを、我々はしたらいいのか。しかし、悩む必要はなかった。このまま何もせずに、ただ見ていればいいだけです。我々は、測量部門です。ただ現状を計りとれば、それでいいのです。そのピンポイントを、局地的かもしれないけれど、正確に細かく、分析にかければ、それでいいわけです。世界は、自然とあるべき状態へと、今、移行しているだけなのでしょうから。むしろ、余計な手など、加えないことのほうが、遥かに大事なことです。ただ、我々にも、やるべきことはあります。それは、個々において。個々がそのあるべき状態に移行するための、働きかけをする必要がある。ピンときました。あなたのその、信仰の国ですか?あなたにとっては、それだった。あなたは、ご自身の変容のために、その装置が必要だった。だから造った。我々や、他の人間にも、指示を出して。そして完成させた。だが、それは、あなたのためのものでありながら、いやだからこそ、他の人間にも、他の大勢の人間にとっても、似たような効果をもたらす可能性を秘めている。個人が、今は、その新しいクラッシュ後の世界のために、するべきことをする。個人による自分への働きかけしか、できることはないんです。我々もそうです。測量部門を確立すること。あなたのおっしゃる通りです。そして、その谷化と山型が混在する今このときに、我々は、その新しい芽の方に肩入れをして、そこを助長させる方法の創造。それが、最も重大な任務であることを、確認したのです。この移行期を、いかにスムーズに、そして、強力な理解を得ながら、波に乗って、変容していけるか。我々は、その谷の痕跡を、丹念に集め、計測、分析を繰り返しました。そして、時空工学なるものを編み出しました。ホワイトロームが進んでいく、その後にやってくる世界。そのときの時空の構造。さらなる、変化への予兆の芽生えを、掴む方法。その向こう側を、予測すること。図形予報なるものも、生まれてきます。それを担う、図形予報師の育成。その専門性。または、一般化。情報の喧伝、展開。そのトータルの、工程の創造に、我々は、この短期間、情熱を集中させてきました。そして、そうすればするほどに、ストーンサークルが、肝になっていることもわかってきました。ここが確立することで、その全ては始まる。ホワイトロームは、次第に、小康状態へと進んでいく。新たなる夜明けが、やってくる。連鎖的に、色んな部門が立ち上がっていく。我々も、そのひとつであることを、自覚していきました。グリフェニクス社の、一部分であるわけですから」
 アンディは、黙って聞いた。
「大方の青写真は、作成できました」とユーリラスは言う。
「そうか。ありがとう」アンディは、ようやく答えた。
「その分野がな、ほとんどグリフェニクスの重要な、そして、唯一の事業になることを、君には、自覚しておいてもらいたい」
「唯一の?」
「そう。グリフェニクス社は、ここで、大きく変転する」
「といいますと?」
「スペースクラフトと、キュービックシリーズの生産は終了する」
「えっ?」
「それと」
「Ⅱ、Ⅲと、バージョンアップしていくはずじゃ」
「もちろん。ⅠはⅡとなり、ⅡはⅢとなっていく。そう。実体は、そうに違いない。がしかし、形は変わった。もう、そういう名の下での、これまでの延長線上には、物質形態としては、ないということになった」
「姿形を変えていく」
「そういうことだ。物という形で、存在する意味はなくなった。人間と、その外にある、モノという関係性ではなくなった。人間に内蔵されることになる!」
 ユーリは、薄々、そのような発言が、アンディからなされるはずだと、不思議にも、予測していたように感じた。
「内蔵型に。なるほど。その工程に、ストーンサークルがあるんですね。そこでのテクノロジーが、スペースクラフト、キュービックシリーズを、次なる段階に進ませていく。そこに、ものすごく関係した、技術なんですね」
「すでに、スペースクラフトも、キュービックシリーズも、世界には行き届いている。人々は、それに対する免疫も、耐久性も、すでに持ち合わせている。だからこその、このタイミングでの、投入なんだ。そして、このクラッシュなんだ。まさに、すべては連動している」
「なるほど」ユーリは、何度も頷いた。
「さらには、測量部門の立ち上げだ」
「その、一連の工程を、理論的に説明する機関が、必要だったわけですか」
「そう」
「理解するということが、何よりも、大事なことですもんね」
「無自覚に、ただ事が起こるのと、何が起きていて、今はどこを通過していて、どうなっていくのか。そこでは、何に注意するべきなのか。どこを重点的に意識していくのか。科学的な、裏付けが、必要だ」
「たしかに」
「宜しく頼むよ」と、アンディは言った。
「本当に、ほとんど重要にして、唯一の事業に、これはなる」
「わかりました。ところで、社長。そのことをもっと、詳しく教えてくれませんか。スペースクラフトも、キュービックの生産も、やめるって。他の、これまでの事業の存続に関しても、私は、把握しておかなければならないと思います。いちおう、一時期、事業全体を引き継いできた身としては。どうなるんですか?そこで上がっていた、莫大な収益は、いったいどうなってしまうのですか?」
 ユーリラスは、アンディリーに問い続けた。


 学者を囲むように、四人の男たちが背中を丸めるように佇んでいる。学者は折り畳んだ紙を丁寧に広げ、細かな設計図に赤いペンでしっかりと指し示した、その場所を、再び自らの指で示し直した。
「ここが、クリスタルガーデン東京の跡地だ。今は、更地を経て、グリフェニクス社という企業が、その辺り一帯を、買い占めてしまった。だから、ただの空白地帯でもある。ちょうど、その場所は、彼らの敷地内においては、ただの広場になっている。ここが、クリスタルガーデン跡地だ。我々の目標物は、そこだ。いいな」
 四人の男たちは、頷いた。
「これは、私の講義とは、直接何の関係もないことだと、認識してくれていい。これは、私のもう一つの側面だ。実に、社会的ではない裏の顔だ。陰に隠れたまま燻り続けた、もう一つの私の顔だ。いや、顔たちだと言っておこう。表は大学教授。それも、ごく最近に復帰。それまでは、その影の顔ばかりが、私の存在を覆っていた。だが、時代は、変わり目へと突入し、私に照らされた運命の側面も、それに合わせて、移行していった。私の人生は、陽の側面が、急速に、これから育っていくことになる。だが、ここは、変わり目だ。まだ完全に切り替わってはいない。境目なのだ。ちょうどここが。私は、陰の世界に別れを告げる。別れを告げる前に、一つやらなければならないのだ。別れを告げる儀式のような行為が、一つの任務として、天からは、与えられていることを、避けるわけにはいかない。君たちの協力が必要だ。君たちは、今は学生ではない。私との関係も、ただの生徒と教師、という間柄からは、逸脱している。君たちとは、実に深い縁で繋がっているのだ。我々は、同じ一つの舞台に、所属しているのだ。その襲撃先が、この赤いペンでなぞられた、その場所だ。我々は、同じ志をもったフラットな関係。とりあえずの、仮初めのリーダーの真似事を、私がしているだけだ。さて、ここに、照準を合わせた君たちの銃口は、寸分狂いなく、同時に、四方から発砲されなければならない。私がそのタイミングを指示することになる。今夜だ。闇が最も深くなるその時。白い霧が、最も地上の視界を霞めるその時。変わり目のその瞬間が、顔を覗かせるだろう。打つんだ!」
 学者は、その昼の顔とはまるで異なった側面を、ただ見ていた。
 声まで、まるで違うじゃないかと思った。だがこれが最後だ。これまでの陰の顔が、終了するその合図を、自分に示すためにも、この行為は通過させなければならない。儀式のようだった。そして、その四人の男たちにとっても、同じことだった。彼らのにおける、その陰陽の変わり目を、自らに照射しなければならない時なのだ。身体には深い切り込みが残るだろう。それこそが、その後の道を、確約していく。世界もまた、そのタイミングで移行する。ホワイトロームは消え、クラッシュからの復活が約束される。その瞬間というのは、ある種、天体の星たちが一直線上に、並ぶときなのではないか思ってしまう。
 学者は、銃を一本一本、当事者の男に手渡した。
「もう、こうした夜を迎えることは、ないだろう」と学者は言う。
「次に会う時は、また、講義の中だ。そして、遠くはないその日に、我々は、講師でも生徒でもなくなる。それは、君たちの谷化が、達成されるときだ」
 学者は彼らには言わなかったが、この夜を境に、それが起こるということを知っていた。
 もうすでに、彼ら四人の谷化は、最終段階に入っていて、わずかな一押しさえあれば、
すぐに、谷へと転じてしまうほどに、満ちてきていた。だからこそ、こうして集まった四
人だった。機の熟していない多くの学生は、ここには来ていない。学者は、その事実は言
わなかった。彼らに余計な意識をさせてはいけないことに自覚的だった。彼らの内なる状
況を、外側から、宣告してはいけないのだ。そのとき、その瞬間が訪れたときに、自らが
自覚すればいいのだ。臨界点にまで上がってきている現実を、ぶち壊すような事を、教師
自らが、指摘するわけにはいかなかった。学者は静かに見守った。彼らは最終段階に入っ
ているのだ。
 あえて学者は、このとき彼らには、外に対象があるということを、初めて言った。これまでは、ただ内向きに意識を反転させることだけに、集中させてきた。それだけを毎回、指導してきた。彼らは素直に従い、ここまでやってきた。だが、ここで、初めて、外側に意識を向けなさいと言うのだ。それは、内向きに意識することが、その最終段階においては、実に害悪と化すことを、私は知っているからだと、学者は無言で呟いた。これまでの固定された努力を、最後に放棄することこそが、必要な一打になることを、私は知っているからだ。その方便として、あえて、外側に焦点を作り出したともいえる。彼らにとっては、そういうことになる。彼らにとっては、その外側の点というのは、たいした意味をもたないのだ。何だっていい。ただそうしたタイミングで、本質をよく知る人間が、ちょっとした手を添えてやることが、大事なことなのだ。これまで、信頼関係を築いてきた、その先駆者だけが、その役割にあるのだともいえる。
 学者は、四人に銃を手渡し終えた。
「クリスタルガーデンは、ゼロポイントという、その空間を意図的に作っていた。建物のちょうど中央に、その空洞はあった。風水的な実利のために、空けられた穴ではない。その土地には、長い歴史があった。姿かたちは変わってきていたが、変わらない一つの積み重ねがあった。人が死んでいく場所として、長いあいだ、役割を担ってきた。直近では、処刑場があったということだ。もっと遡れば、多様な死せる場所として、その役割を見つけ出すことになるだろう。だが、我々には今、そのような歴史の講義は必要ではない。この前までは、クリスタルガーデン東京という名前で、高級マンションが立っていた場所だ。もちろん、そこでは、人が死んだ。死すべき場所のエネルギーは、すぐに消えるものではない。だが、相当に弱められてはいる。その土地が持つポテンシャルは、多大に封じ込められてきた。そうしたことをよく知る業者が、その内部に大きな空洞を作ることで、人を天へと召すその力を、閉じ込めようとした。折り畳んで、地中に埋め込んでおこうとした。しかし、それでも僅かに、漏れゆくエネルギーの発露は、防ぐことはできなかった。一人の男が亡くなったのだ。その後、クリスタルガーデン東京の解体は決まり、その土地を、別の目的のために、グリフェニクス社は使用することに決めた。それが今だ。そして、我々は、その新しい役割に協賛している。彼らとは、関係はないが、微力ながらも、サポートしたいと考えている。一つの後押しが、必要なことが明白だった。私が影から、その最後の一撃を加えるのには、適任であることに気づいた。この陰の時代が終わる、終わらせるその象徴としての行為、儀式には、うってつけでもあることが、明白になった。そして、君たちのこともある。君たちの後押しをも、私は、使命として担っている。一つの行為で、多重の意味をもたせることができる。一つの行為で、多重の目的が、達っせられるのだ。たとえ、私が、望んでいなくとも、天がそれを望んでいる。そんな地上の影の配置に、今はなっている」
 そうなのだ。私はそのように、人の後押しとなることをする運命にあるのだと、学者は思った。
「君たちが、ある種、革命家として、人間が作り出した社会体系に、反逆の意を示し、暴力行為に訴えて、反転させるというその要素を、多分に持ち合わせた若者であるということは、私でなくてもわかる。私の講義には、そうした若者が、惹きつけられてやってくる運命にある。君たちは、その暗く、激しい要素を、そのようなくだらない行為のために、使ってはいけない。そして、自らの中に、抑圧し、ないものとして、涼しい顔でやり過ごしてもいけない。それは、変容させなければならないものだ。そのエネルギーをそのままに、自らの谷化へと、注ぎ込まなければならないのだ。そして、注ぎ込んだのだ。君たちは、最終局面にまで注ぎきったのだ。だが、それでも、君たちに埋め込まれた呪いは、完全に消えることはない。いつか、どこかで、その種は、芽吹く機会を待っている。根こそぎ刈り取る最後の行為というのが、どうしても必要なのだ」
 そして、通過してくれ、と学者は言った。
 我々は、ここで解散だ。あとは、個々が、役割をきちんと果たしてほしいと私は思う。夜が明けたときに、我々は、再会する運命にあるだろう。そのときはと、学者は言う。
「そのとき、我々は、教師でも、生徒でもなく、革命家でもない、テロリストでもない、別の衣装を伴って、その後の人生を、共に歩んでいくことになるだろう。その瞬間まで、しばしの別れだ」
 教師としての顔は潜め、学者は、彼らの前から姿を消した。


 あの日、教授とは、そこで別れました。私は一人、ホワイトロームの中、指定されたクリスタルガーデン跡地へと、向かいました。ほとんど満月に近い夜だったと思います。しかし私は、すぐに異変に気がつきました。月の昇った東の空とは、反対の空に、さらに強い光を放つ球体があったのです。もう一つの月なのだろうか。私は二つの月が出ている夜なのだという認識を、改めて受け止めました。何が起きても、その夜は、不思議ではないような気がしました。私は地図の描かれた紙をポケットに入れて、銃を担ぎ、急いで目的地へと向かいました。川沿いを歩き、とりあえずグ、リフェニクス社の門を確認すると、すぐに引き返し、東側へとぐるりと、敷地に沿ってまわり、それからどんどんと、グリフェニクス社からは、遠ざかっていきました。本当にこんな距離で、撃ち抜くことができるのか、疑問に思いました。そして、射撃の訓練さえ受けていないこの自分に、任務が可能なのかとも思いました。しかし教授は、私にとって絶対的な存在でした。教授が大丈夫だと言うのです。あとはこの銃が、勝手にあるべき目標物にたどり着き、あるべき事柄を引き起こすだろうと。大事なのは正しい時間に、正しい場所に銃を配置させることだと彼は言いました。狙撃手の腕には、何も影響されない。ただそのタイミングで、スイッチが押されれば、引き金を引けば、すでに出来事は、設計済みなのだと、教授は語りました。教授がそう言うのだからそうなのだろう。四人の学生は、それぞれが、役割を担うその場所へと、向かいました。皆、この空の異変には、気づいているのだろうか。まさに、その異変こそが、私の心を、妙に落ち着かせてもいたのです。教授に対する信頼は厚かったものの、それでも銃自身が、勝手に正しい道に導くという話には、懐疑的でした。しかし、この今の空の状況が、まさにありえない出来事を、当たり前に進めていく、その象徴であるかのように私を照らしているのだと思いました。そうだ。あれは、あっちの光源は、太陽なのかもしれない。太陽と月が、同時に登っているのかもしれない。そして、この夜の境目を越えた時には、その両方が、消えてなくなっているのかもしれないと、私は思いました。そして、月のない、太陽のない空には後日、第三の天体が立ち上ってくるのかもしれない。未知なるその光源が、世界を照らしている。見える光景はまるで違っている。そこでの、私という認識も、今のものとは、まったく変わってしまっている。街の風景も、街を支えているシステムも、科学技術も、今とは、全く一変してしまっているのかもしれない。
 約束の時間まで、すでに、五分を切っていました。思いのほか、心を準備する時間がなかったなと、私は思いました。だがそれも、すべて、教授の計らいだと思いました。彼は綿密な計算の元に、自身の話を調整し、四人を配置へと移動させた。そのすべての時間の推移を、彼はコントロールしている。必要以上に、時間を余してはいけないのだろう。私は、安全装置を解除し、そのターゲットに向けて、銃口を光らせました。まさに、銃には、空から、二つの天体の光が降り注いでいました。これこそが、我々の任務の全てを見守り、そして導いているのではないかと。私はこれまで感じたことのない安らぎを得ていったのです。さっきまでの疑いが、すべて晴れ、まさに今、自分が何故ここに生を受け、存在しているのかが、これほど確信めいた状態であることはなかったことに気づかされていきました。私は、正しい時に、正しい場所にいる。ここに、これまでの推移はすべて、集約してきている。時間はまだ三分ほどありました。そのあいだにも、私は益々、ここに凝結していくのだろう。あまりに、小さな焦点へと、結実していくに違いだろうと。そして、発射までの数秒に至るとき、ほとんど、その微小になった存在は、まさに発射と同時に、凝縮の飽和点へと達し、この世から消えるのだろう。発砲者は、そこに消え、四人の実行者は、地上からは蒸発する。銃もまた、発射した瞬間に、消失する算段がつけられている。ターゲットに、四方から同時に射撃され、そこで何かが起こる。その起こりだけを、人々は、確認することができ、その起こったことだけが、人々に、影響をもたらしていく。その行程のすべての後ろ楯に、天空が関わっていることは明白のようでした。太陽と月が同時に輝く闇の夜が、すべての目撃者である。そして、彼ら自身も、その形態を、この夜で打ち止めにする。この世に存在する、すべての生命体が、そのようにこの一点に向けて、今意識を統一しようとしている様子を、私は感じながら、引き金を引いたのでした。


 意識が戻ったとき、私は、自分が誰であるのかを見失ってはいませんでした。私はまだ私であった。空を見上げた。だが、天体はどこにも存在してはいない。月でさえ、なくなっている。雲はない。新月なのだろうかと思うまでもなく、私には月そのものがなくなってしまったことを確信しました。発砲は成功したのだろうか。目標物を確実に、撃ち抜くことはできたのだろうか。だが、世界はあまりに静寂でした。何かが起こった様子はない。火も上がっていなければ、壊れゆく音、騒ぎ立てる人間の声、五感を刺激してくる何の現象も、確認することができなかった、そのときです。背後から一人の男が現れました。その後ろからは、さらに、三人の男たち。教授でした。そして、生徒たち。私を回収して、五人の男は、スペースクラフトに乗りました。教授とはあのとき、永遠に別れるつもりで一人きりになったので、そのあまりに早い再会に、私は拍子抜けでした。しかし教授は、何かの準備に余念のない様子でした。今から救出に向かうと、彼は言いました。一人の男が、このスペースクラフトに乗り込んでくる。瀕死の重症だ。我々が蘇生を試みる。だが男は確実に、死ぬ運命にある。我々は、その遺体を埋めなければならない。彼の遺体は、通常の死後の行程を、経ることはない。そのへんに、放置させておくわけにもいかない。どういうことですかと、一人の学生が訊ねた。火葬でも、土葬でもない、一体なんなのですかと。
 教授は答えなかった。
 瀕死の男は、すぐに、我々のいたスペースクラフトに、積み込まれていきました。男に外傷は見当たりませんでした。眠っているようにしか見えません。でも、確かに呼吸をしている様子はない。胸に空気は、まったく出入りしていようには見えない。何か、我々が、先ほど発砲したことと、この男は、関係があるのではないかと私は思いました。まさかこの男を、我々が狙撃した?それで、その遺体を回収して、処分を?
 突然、私には、その発砲した瞬間の映像が、脳裏に甦ってきました。
 それは、銃弾ではなく、レーザー光線でした。その光線が、四方から放たれました。その四方から、中心点に。音もなく、吸い込まれるように。そして、その光線は、二つの天体からの光もまた、浴びているようでした。その瞬間は、地上と空が一体となって爆発したかのような、そんな現象が、この眼に焼き付いていました。その残像が、今もこうして、戻ってきたのでしょう。何度も、その爆発の中に、私は入っていけるようでした。私は、この地上に包みこまれていました。私だけではなく、誰もが。そして、来たるべき爆音が、その後、今になっても、全く聞かれないことに、私は不思議な空白を感じていました。そこに、何かのズレがあるかのように。時空の裂け目が、激しく起こっていたかのように。そのズレの中に、私自身が、嵌まりこんでしまったかのように。それが今も、続いているかのように。その中を、教授と我々は、移動しているかのように。
 教授には、焦る様子は、少しもありませんでした。しかし、我々に、この瀕死の重症者を、しっかりと見守っているようにと、指示を出していました。皆が見守り続けないと、教授は言いました。この遺体は、いや、まだ遺体じゃなかった。遺体になるこの存在は、すぐにでも、どこかへ行ってしまう。眼をそらさないこと。視線を固定させること。その視点に、意識のすべてを、結実させること。そうしなければ、彼はあっというまに、消えてしまうはずだ。我々の手の届かないところに、行ってしまう。皆が協力してくれ。皆が、それぞれの自分の行為に、集中してくれ。その言葉は、いつかどこかで聞いた、聞き続けた言葉でした。講義の中で、教授が常に、言い続けてきたこと。我々に、訓練させ続けたことでした。我々は無言で実行し続けました。スペースクラフトは、目的地に着いたようでした。我々はしかし、視線を外すことはしなかった。そしてここには、確かに、男は横たわっている。彼は、この移動の間に、さらに死んでいっているのだと私は思いました。
 蘇生はすでに不可能なこの人間の死を、決定するための場所を、我々は目指しているのだとも思いました。教授は、遺体の四方を、我々に持つよう、指示をしました。我々は、スペースクラフトを出ました。再び、夜の街へと出ていきました。我々は、小高い丘のような場所にいました。街には白い霧が覆っていました。天から降り注ぐ光などなく、天体の姿もなく、逆に地上からは、その霧を照らす、色とりどりの光が、ありました。地上のネオンのような灯なのだろうか。我々は、山頂から、雲海を、見ているようでありました。教授は、その男をここに、埋葬するよう指示を出していきました。この霧の底に向かって、今手を放すのだと。我々には、このときも、心を準備する時間は、与えられませんでした。我々は、放りなげるかのごとく、あるいは、そっと脱力することで手放すかのごとく、いや遺体の方が、我々との癒着を溶くべく、解離するかのごとく、我々の腕の中との関係を、必然的に、解いていくように、霧の中へと吸い込まれていきました。その手の感触は、離した瞬間に、忘れてしまいました。本当に、そこに、一人の人間がいたのかさえ、確信ができないほどに。そこには、私の他にいた、三人の学生の姿もありませんでした。教授の姿も、ありませんでした。私は、白い霧でできた、奈落を、ただ、見下ろしているだけでした。


 夜の埋葬は終わり、天使たちは、雨上がりの小鳥たちの合唱のように、歌い上げた。
 そこに舞い込んできた、地上のクラッシュのニュースだった。
 さらには、クラッシュが始まってから、一ヶ月後、事の真相を暴露する、軍部関係者が出てきた。名前と役職を出さないという約束で、彼はメディアに話をした。それは、軍部による極秘の封鎖であったというのだ。軍施設が、ある五人の男たちに、乗っ取られたのだというのだ。そして、素早く、彼らは戦闘準備体制を整え、首都を攻撃する行動に移っていったというのだ。意表をつかれた形となった軍部は、苦し紛れに、街中のエネルギーをストップさせるべく、公共、民営問わずに、発電所や科学技術施設などの運転を、急遽、ダウンさせた。電波を妨害する体制も整えた。そのあいだに、五人の男たちの暴走を、止めるべく動いた。政治的には話は通っていた。しかし、国民には知らされなかった。五人の男たちの正体を突き止めるべく、警察、公安は激しく動いていた。市民はこのクラッシュの本当の理由がまるでわからなかった。様々な憶測を呼んだ。ところがと、暴露する男は言う。その情報は、間違っていると、これまた、若い四人の男を引き連れた中年の一人の男が、軍部の元にやってきた。
「我々は、Dジャンケットと申します。会社組織です。時空工学を柱に、測量部門を担当してます。グリフェニクス社の」
「グリフェニクス社?」
「スペースクラフトの発売元の」
「ああ、それか。一体、何の用ですか」
「我々は、ひとつの事実を、突き止めました。あなたたちは、間違っている。ピントのずれた政策を続けている。軍事施設を、乗っ取った男なんて、どこにもいない」
「どうして、それを」
「我々は、あなた方の行動は、掴んでいます。もちろん、証拠は、何もない。ただの憶測です。現場を押さえたわけでもない。憶測をするのが、我々の部署なんです。それで、だいたいの所は、わかります。時空工学に当てはめれば。つまりは、これは、人為的な現象ではないということです。あなたたちが、街を全封鎖しているつもりになっているが、それも、事実とは違います。あなたたちは、何も止めては、いないのです。止めた気になっている。ただの偶然なんです。これは、本当にクラッシュしている。あなたがたが、止めたから、そうなっているんじゃない。たまたま、そのタイミングで、クラッシュが起きたにすぎない。まるで、あなたたたちにしてみれば、予定どおりに、自分たちで、したことだと思っている。では、解除してみなさい!自分たちで解除してみなさい。できないのです。それはできないのですよ!人為的に全停止したのではないのですよ。人為的じゃないのなら、復旧も、また、簡単な人為的操作では、なされることはない。人為的に復旧させるにしろ、そのやり方では、無理なはずです。これは、時空工学でいう、谷化なんですよ!山型の、これまでの構造で、モノやシステムは、すべてが構築されています。プログラムされています。あなた方。そう、我々の意識も、また。山型の前提のもとに、組み上げられている。その思考回路。その感情の発動の仕方。欲するその心。すべては、山型の構造と相似形だ。そこに、谷型の風が、強風が吹いたわけです。クラッシュが、起こりました。今も停止したままです。あなた方は、誰かのデマに、翻弄された。信じてしまった。信じなければ、すがり付くものを、あなた方は、見いだせないままに、路頭に迷う。それだけは避けたかった。都合よく登場した、そのデマに乗った。実際、目撃者も、複数居た。軍事施設に入っていくところを、見たのだから、きっとこれは、乗っ取って暴発させる算段に入っているのだろう。何とか、止めなくてはいけない。電子系統、エネルギー系統を、すべて、止めてしまう以外に方法はない。あなた方は実行した。そのあいだに、犯人たちを探し出して、排除しようと。ですが、一ヶ月が経っても、そんな人物、影も形も、ない。あなた方は、困ってしまった。そこで気がついたわけです。そもそも、そんな事実などあったのだろうかと。偶然が偶然を呼んで、そのようなデマに、乗ってしまった。そう。クラッシュは、その前から、じょじょにじょじょに、街を巣食っていたのですよ。そうした現象に、あなた方は敏感だ。異変が起きていることを、市民よりも微細なレベルで、あなた方は検知できる。そんな神経を尖らせ始めた、絶妙なタイミングで、軍事施設に侵入した男たちの情報が入った。彼らが、何かをしでかそうとしている。しかし、何も掴めはしない。軍施設を暴発させる前に、止めないといけない。軍以外の施設にも、何か、布石が打たれているのかもしれない。全停止だと、素早く緊急事態に対処した。ですが、所長。そうやって、あなた方が停止させたと思っているすべてのことが、実は、事の初めから起こっていて、じょじょに侵食していた、人為的ではない、クラッシュだったという発想は、今もお持ちではないようですね。我々が忠告しに来たんです。つまりは、あなた方は、何かをしているようで、実は何もしていない。いいんですよ。ただ放っておけば。所詮できることは、何もないんですから。あなた方だけでは、ありません。政治だって、何もできやしない。科学者だって、科学技術だって、何もできやしない。占い師や陰陽師が、祈祷したって、何も。このクラッシュを終える手段を、我々は、何も持ち合わせてはいない。これだけは、忠告しておきたくて。あなた方に今度のことで責任を感じてほしくないから。ただそのことだけを言いたくて。これは、いた仕方のないことなのです。偶然、あなた方が、居合わせただけのことだ。あなた方が別に、引き金を引いたわけでもない。いずれあなた方は、犯人など誰もいなかったことを、知ることでしょう。軍事施設は乗っ取られていないことも。それなのに、勘違いして、世の中のすべての電気エネルギー系統を、止めてしまった。そして、そのまま一ヶ月も、止めたままにしてしまった。その代償は、復旧しなくなってしまったこと。あなたたちは、その罪悪感と共に、より焦って、元に戻そうと、再び奔走するはずです。けれども、反応は何もない。止まったままです。そのことで、あなたたちには、何の責任もないことを、ただ私どもは、伝えたくて。こんなにも長々と、申し訳ないです。でも。余計な感情を抱いてほしくないから。その無駄なエネルギーを、もっとこれからやってくる時代の本質的なことに、使ってもらいたいから。このクラッシュは、どうなってしまうのか。もちろん、社会的なことは、私には何もわからない。そういったことは、結果として、現象が現れた後で、検証するべきだ。そう、検証です。我々は、検証する組織であります。起きてしまったことを、時空工学において分析するだけです。その分析が、未来の予測を可能にするだけです。グリフェニクス社の、中心的な事業にこれからなります。宣伝ではありません。あなた方に深く同情したからなのです。何の他意もありません。どうぞ焦らずに、ご自身を見守ってください。ひとつ言えることは、この谷化の風には、谷化をもってしか、応えられないということなのです。元に戻ろうと、それまでの生活に戻ろうと、足掻けば足掻くほどに、谷型とのクラッシュは、深みに嵌まっていきます。何も動かなかった方が、遥かに生産的だったことにも、気づいていきます。だいぶん後になってから、気づきます。そうではないのです。谷型をいちはやく捉え、自らが、谷型の構造に変容することが、唯一の近道となるのです。すべてが止まってしまったわけでは、実はないのです。お一人お一人にとっては、それは、何も止まってなどいない。よくご覧になってください。個人的に捉えてください。個人においては、何ひとつ、止まってはいないわけです。クラッシュなどしていないわけです。クラッシュは、幻想なのです。集合的に、集団において、それは起こっているように、見えるだけなのです。そこに嵌まりこんでは、いけないのです。我々は、その研究を、日々しているのです。その移行期において、どうやったら、個人が谷化を達成できて、流れていくことができるのか。そして、未来予測です。個人においては、そのように谷化への導きを、理論的にサポートしていく必要がある。社会的、集合的には、そうした個の連なりが、どのように、世界を変えていくのか。全体の流れは、どこにどのように向かっていくのか。それを遥か先まで予測することが、我々のもう一つの役目でもあります。ですので、どうかお気になさらず。そして、あなた自身の人生を、大事にしていってください。外側の集合的な現象の上部に、引っ掛かってはいけません。外側を見るのなら、そこに、本質を見るべきです。それは、結果、内側なのです。あなたの内側と同じ領域なのです。どうか、そのように反転させる技を、磨いてください。我々もまた、あなたのような人たちの力になれるよう、測量部門を確立して、充実させていきます。それが、亡きアンディ会長に報いる、唯一の方法であると、考えているからです」
 四人を背後に引き連れ、男は、軍施設からは姿を消した。
 その長くはない時間の経緯を、軍施設の所長は、何度も思い返そうとしたが、彼らの消失と共に、すべては現実味がなくなってしまった。


 ユーリは、アンディと過ごした、最後の時を思い返していた。あれが最後になるなんて、誰が、予測できただろうか。アンディに健康問題などなかったし、そもそもまだ、十分に若かった。あの後、アンディは、話終えるとすぐに部屋を出ていき、しばらく街を歩いてくるといって、そのまま長い時間戻らなかった。秘書のリナサクライから、ユーリに何日か経ってから、連絡が入った。社長が戻られていないようなんですけど、何か聞いてませんでしたかと。ユーリは、グリフェニクス社内に居たので、すぐにリナの所に顔を出した。リナの顔は、真っ青になっていた。
「今、たった今、連絡があって。警察から」
 ユーリは、身構えた。
 リナは、言葉をすぐに、繋げることができなかった。何度も不規則で、不自然な呼吸を繰り返し、その息継ぎの途中でつっかえ、咳き込んでしまった。嗚咽を無理矢理に、抑えこんでいるかのようにも見えた。
「社長が、お亡くなりになりました」
 ユーリは何を言われたのか、しばらくわからなかった。社長がお亡くなりに?一体どこの社長が。秘書は一体、誰のことを言っているのか。ユーリの意識はずっと、誰なのだろうという俊巡を、無意味に繰り返し続けた。
「倒れて、動かなくなっているところを、通行人に発見されて、病院に、搬送されたそうです。すでに亡くなっており、その後、警察に遺体が移されたそうです。簡単な死亡解剖が行われ、事件性はないことが確認されました。事故でも、自殺でもないようです。死因は特定できていないようですけど、とにかく、急死だということです。持病も特にないようでしたし。最近、体調を崩したというようなことは何も。警察の方の質問にも、私はそう答えました。そうですよね?」
 リナに話を振られるも、いまだに、その社長というのが、誰のことなのかわからない状態だった。
「ちょっと、しっかりしてください」
 リナは、大きな声を出した。それでもユーリに、正気は戻ってこなかった。そんな馬鹿な。どうしてアンディが。やっと、ユーリに、事実をそのまま素直に受け取れる体制が整ってきたのがわかった。そんな馬鹿な。昨日だって、何の異変さえなかった。溌剌かどうかはわからなかったが、いつものアンディのように、饒舌に今度の事業のビジョンを、俺相手に語り尽くしていたじゃないか。時に、しつこく、うんざりすることはあったが、基本的に、アンディが自分を相手に、考えを捲し立てていく光景は、好きだった。アンディがこの自分を相手に、何でも話してくれることが、嬉しかった。理解に苦しむことばかりだったし、無謀な暴挙ともいえる計画を、押し付けけてくることもあった。その現実的な調整は、全てこの俺がやらなくてはならなかった。その後が、いつも大変だったが、それでも、アンディの側に、ずっと居続けたいと思った。手となり足となって働きたかった。そういう人生が続くものだと思っていた。自分が死ぬそのときまで続くものと思っていた。まだ、始まったばかりじゃないかと、ユーリは叫びたかった。俺を残して、どうして今。まだクラッシュさえ、明けていないじゃないか。その開けた後の世界のことを、彼は、あんなにも熱心に、語っていたじゃないか。その張本人が、どうして行ってしまう?
 ユーリは、その理不尽さの因果を、捉えることができずに、取り残された応接室で、リナを相手に、呆然とするしかなかった。
「それで、ご遺体なんですけど」リナは、静かに口を開いた。
「このご時世、葬儀や火葬場も、操業は停止しています」
 ユーリの方を、リナはちらりと見る。
「それでも、唯一、ライフラインとして、行政が細々と稼働させている公営施設で、他の方と一緒に、集団で、火葬された模様です。後日、会社の方に、位牌が届く予定です」
 ユーリにはやはり、言われていることが、全く理解することができなかった。リナもそう思ったのか、ユーリに何度も、同じことを説明した。
 集団だって?何体もの遺体を、一緒に焼いた?なんということだ。アンディがそんな最期を迎えるなんて。そして、自分は、何の別れすら許されていない。交わした最後の言葉は何だっただろうか。
 ユーリは、そのことばかりに意識がいき、位牌がどうだとか言われても、まるで、どうしていいのかわからなくなった。
「昨日、いや、三日前か。まだ、それしか、経ってはいない。会社内で、最後に会ったのは俺だ。そのあと、社長は外出した。気分を変えるために、散歩をしにいくと。それっきり」
「そうです。間違いありません。社長の行動の大枠は、すべて、把握しております」
「どうして、側にいてやれなかったんだ。一緒についていけばよかっただろうが」
 ユーリは、理不尽な結末の憤怒を、リナに当ててしまおうとしているのか。その対象を探している自分に、気がついて、ほんの少し顔を歪めた。
「一時間以上も、彼とは、話こんだんだ。もっとかもしれない。久しぶりに彼は、グリフェニクス社の、その先の未来について、語り始めた。サンピエトロストーンサークルが完成して、新しい国として構想したグリフェニクス社がスタートした、そのタイミングで、郊外に、ブラックタージと呼ばれる黒い建物が、出現することになると、彼は言った。これは、この自分には、何の相談もなかった建物だ。作るように、指示されたわけでもない。元々あったものなのか。とにかく、アンディは、それが目印になると言った。広大なグリフェニクス社の新社屋とブラックタージを結ぶ、その間にある街のさまざまな建物。施設。道路。自然環境。どれもが、グリフェニクス社の、つまりは、アンディ王国の内部になると、彼は言った。その二つの建造物は、互いに呼応している。地上における陰と陽なものだと、彼は語った。古代都市における、それは、太陽のピラミッドと月のピラミッドのようなものだとも言った。互いに、気流を交換しながら、街全体を、エネルギーの渦にしていると。その二つが、同時に完成をみることで、新しい世界がスタートする。そこには、確かに、一企業としての、グリフェニクス社というものがある。これまでと変わらぬ一企業がある。企業である以上、業務がある。利益を上げる、構造がある。しかし、新しい我が社は、前にも言ったとおり、それは王国になる。王のいないね」
 その王のいないという言葉が、今のユーリには、異様な響きをもって迫ってきていた。
「王のいない王国。それは、宗教を唯一の基盤とした、信仰の国と、同義にもなる。ここは、信仰の国。教義も組織も、お布施も信者も、当然教祖も誰もいない、宗教国家になる。一見何もない広場に、その秘密が隠された、そこが唯一の、基幹事業になる、我が国がある。テクノロジーが見えない形で、下支えしている。スペースクラフトとキュービックシリーズの生産は終了し、その利益は、次なるテクノロジーの開発に、全ては投資されていく。ゴルドの研究所が、その膨大な資金を管理運営させていく。少し離れた場所にある、ブラックタージは、寺院としての役割を、果たしていく。漆黒に塗られたその建造物は、人々の祈りを捧げる場所としての、機能を果たしていく。ストーンサークルに導く道としての役割も果たす。ストーンサークルからの帰還を果たす、人の通過する地としての役割も果たす。ある種の、門の役割を果たす。サンピエトロストーンサークルの広場に通じる、門のさらに、手前の門の役割を果たす。門があり、広場が現れ、さらに奥には、美術館があり、オペラ座がある。礼拝堂があり、大聖堂もある。横には、グリフェニクス社の宮殿があり、住居がある。そこには、君が住んだらいい。測量部門が、中心になるんだ。表向きはそんな会社となる。測量時空工学を元に、君は世界に発信していく役割がある。人々を、ストーンサークルへと呼び寄せる、広報のような役割も担う。地質学と時空調査を基にした、理論の発表を、常に更新していくことになる。まずは、クラッシュ後に、そのクラッシュ中に発生した、爪痕の谷バレーの調査、発表。無数にあるはずの、ひとつの亀裂の発見を手始めに。そして、谷化の本質。谷化時代の、人々の通過の仕方。谷そのものに、個人がなっていく過程。その方法。グリフェニクス社が提供できるもの。それらを、順次、広報していくことだろう。それに合わせて、我が社では、専用の劇場での、オペラによる講演の開始。そして、絵画を始めとした、芸術作品の発表。これも、専用の美術館が完成している。測量部門の喧伝を補足していくことにも、貢献するはずだ。もちろん、芸術は芸術として、完結することはもちろんだ。だが、連動作用が、そこには確かにある。ブラックタージと、アンディ王国との関係のように。陰と陽の関係。月と太陽のピラミッドのような。君の測量部門は、街のその後の改造にも、着手するはずだ。神殿都市構想と名付けたその設計は、もちろん、君のところの測量部門の探求と、深く関わっている。研究結果は、必然的に、地上の構想と、連動してしまっている。素直に自然に、表現していったらいい。いくつかのシンボルとなる、建造物の創造から、事は始まっていくであろう。私には、なんとも言えないが、その例えば、立体曼荼羅のようなものを、表現した寺院の建築なども、頭に入ってくるはずだ。
 さて、いずれにしても、君の部門が、中心になることははっきりとしている。多義的に展開していくことも、はっきりとしている。谷化後の、世界の時空構造のさらなる進みと変化を、予測していく、図形予報なるものも、確立していく。図形予報師なるものも必要となり、その養成にもまた携わる。そして、さっき少し話した、芸術部門だが、その本格的にこれまでなかった、新しい分野に乗り出すわけだが、これはもちろん、宗教国家であるアンディ王国と、深く関わっているし、また、それそのものだといってもいい。すでに、発表する作品は、揃っているし、揃ってもきている。絵画はすべて、用意ができている。オペラの方は、もうすぐ、完成を見ることだろう。つまりは、すでに、構想は完全にそろっている。今後の新しい作品の生み出しについて、君に、補足しておくだけだ。準備のできた作品の作者たち。彼らは、今後、制作を続けていくことは、なくなる。彼らはすでに、亡くなっている者もいれば、ほとんどこれを最後に、引退を決めている者までいる。続きを希望する人間は、まったくいない。またできるとも考えていない。ここで終わりなのだ。よって、今後の新しい作品は、誰によって制作がされていくのか。それは、人間ではない。CIだよ。CIが、すべてを紡いで、いくことになる。その設置も、すべては終わっている。今はまだ、動き出してはいないが、いずれ時が来たら、勝手に、作動し出して、しかるべき作品を生み出していくはずだ。そのことについて、君は、何の心配もいらない。すでに、ゴルドとは話がついてるし、ゴルドだけじゃない。様々な科学者によって、それはもう、算段がついていることだ。詳しくは言えないが、つまりは、その死んでいる、あるいは、引退を決めている、彼らの天才的な能力をすべて、技術として取り込んだ、人工知能がだね、人間を越えた意識の照射を、宇宙エネルギーから流しこんで、その融合させた力で、地上に刻印を掘っていくよう、紡ぎ出していくことになるのだよ。それは、人間ではない、CIにしか、不可能なことだ。そして、そうした芸術が、今後は必要になる。人間が人間のみで、生み出すべき作品のすべては、用意ができている。スペースクラフトとキュービックシリーズの利益で、すべてが回収できている。テクノロジーに資金を投資するよりも、遥かに大きな金額が、すでに使われているのだ」
 今は亡きアンディの声が、生きてるとき以上に、ユーリの頭の中で駆け巡っていた。



「今後、政治というものは、世の中からは無くなる。そのことも、認識しておいほしいと思う。その移行期においては、アンディ王国が、仮初めの働きを、待望されることもあるかもしれない。だが、その仮初めに溺れてはいけない。次なる橋渡しに徹底すること。自らに権力を宿さないこと。王はいない、アンディ王国であることを、肝に命じてほしいと思う」
 再び、王のいない国という事実が、再確認されるようで、ユーリの胸は一杯になった。
「そして、いずれは、グリフェニクス社の事業もまた、無くなる日が来る。その日のために、それまでの事業が存在するともいえる。終わりに向かって、すべては進んでいっている。そのこともまた、いつもではないにしろ、頭に入れておいてほしい。必ず、道の岐路には、そのような、存続させるためには、生き延びるためには、どうしたらいいだろうか。どっちのほうがいいだろうかと、迫られる瞬間がある。だがそれは違う。終わりに向かって、その過程を踏んでいるという事実を、常に、今見えている現状と、照らし合わせてくれ。決して、もっと生き延びよう。もっと繁栄を謳歌しよう。この地上での力を拡大させよう、そういう道を、選びとってはいけない。それが滅びの道だ。アンディ王国並びに、グリフェニクス社は、地上における終わりの道を、最初から歩んでいるということ。それを忘れないでほしい。創業者は、そのことを知っていたし、受け継いだ経営者たちもまた受け入れている。そう、あり続けてほしい。それこそが、唯一、滅びの道ではないのだから。今はわからなくとも、いずれわかるときが来る。だから、私が残したもの以外で、自分たちが何か、事業を生み出したいと思うときはいつでも、時間の経過と共に、この時空内において、折り畳んでいくような設計を、意図してほしいと思う。それだけが唯一、心配なことだ。気がかりなことだ。
 アンディの残響は、いつまでも続いていくように思えたが、突然ぷつりと途切れてしまった。それを最後に、二度とアンディとの対面することは、叶わなくなってしまった。ユーリの中に、大きな空洞ができてしまった。サンピエトロストーンサークルの広場の空白とも、呼応していた。今、ユーリは何故か、その場所に一人立っているような気がしていった。あの場所は、むしろ、自分の内側に存在しているのではないのだろうか。ユーリは、そこに、立ち続けた。周囲の背景は消え失せ、ただ何もない空虚だけが、ユーリとの共存を認めている。さっきまで話していた、リナサクライの姿もなくなっている。アンディの幻影もまた、なくなっている。ユーリは一人きりで、そこに立っている。ここに自分の方がやってきたのではない。最初からむしろ、ここに居たのだ。今はなき、風景の方がやってきては、再び去っていったかのようだった。その繰り返しの中で、ただ最初から居たはずのこの場所を、忘れてしまっただけなのだ。ユーリはまさに、世界が反転する瞬間に、立ち会ったかのようだった。そこに居ると思っていた場所は、実はただの背景であって、背景の彼方へと、隠れてしまった場所こそが、最初から居た空間。ユーリという暫定的な、幻想と紙一重の存在を、基点にして、その内と外がぐるりと、入れ替わったようなそんな感覚があった。この広場だけが最初からあった。外側からアンディはやってきて、そして去っていった。不思議とアンディがいなくなったことへの哀しみが、消えていることに気づいた。アンディは最初から、居なかったのかもしれないとさえ思う。ならば、この自分もそうだった。人間だけではなく、事象のすべてもまたそうだった。起こったことのすべてがそうだった。それは、外側からただやってきては、多少の滞在を経て、去っていった。そこに、時間的な意味をつけるのも、人間のただの願望だった。来ては去っていく。決めごとの上を、流れていったことに、過ぎなかった。ユーリは一人、そのような無数の幻を、為すがままにさせていた。手は何も加えられていないし、何も反応はしてくれないのだ。その実体を、ユーリは、噛み締めると、失っていた風景が、再び戻ってきた。
「どうされましたか」リナは、ユーリに訊いた。
「ずいぶんと、穏やかそうな顔に、なってましたけど」
 ユーリは、微動だにしなかったが、僅かに微笑んだ。
「秘書として、ここに、居続けるんだよな?」
 リナは、じっと、ユーリを見つめていた。
「君はずいぶんと、有能だと聞いた」
 リナは少しも、表情を変えなかった。
「これからも、社長室の秘書であり続けてほしい」
「ええ」
「誰が社長になろうとも。いや、誰が社長としては、存在しなくなっても」
 リナは、何度か頷いた。
「それで、アンディのことは、他には誰が知ってるんだ?」
「いまのところは、私とあなただけです」
「わかった。ゴルドには、俺が知らせておくから。DSルネという、うちと関係の深い、プログラマーの彼には、君の方から連絡をしておいてくれ」
「わかりました」リナは答える。「他にも何か、お申し付けがあったら」
 思い当たることは何もなかったが、何か頼むことがあるかもしれないと、ユーリは再び、アンディの鳴り響く木霊を、呼び起こそうとした。




































PS

 講義のあと、駐車場に、自らのスペースクラフトを取りにいったとき、それが、すでになくなっていることに、私は気づきました。
 探そうとしましたが、そこには何と、自分のスペースクラフトだけではなく、置かれていたすべてがなくなっていました。私は一瞬、途方にくれてしまいました。しかしすぐに、スペースクラフトは再び、視界に現れ出てきました。私は疲れていたのでしょうか。講義に集中しすぎていたのでしょうか。意識は、通常の世界に、戻ってきてなかったのでしょうか。そのズレは直りました。ところが、帰宅するときにも、何も異変はなかったにもかかわらず、何かが起こりそうな気配が、ずっとしていました。何かが大きく変わってしまう。その変わり目の瞬間に、今、立ち会おうとしているかのような、影の存在をずっと感じたままでした。影はこの私をすべて覆いつくして、すでに影ではない実体として、この私こそが、唯一の影として、立場を変えようと、しているかのようでした。その変わり目の一種の不安定な安定感に、入り込んでしまっているかのようでした。その状態は、家に着いてからも続きます。夕御飯を準備している時にも、続きます。私はだんだんと、体が、だるくなっていくような気がしました。体を動かすのが、億劫になっていきました。何もしたくはなくなっていきました。私は食事を軽くとった後で、ソファーでぼんやりと、座り続けていました。やはり、何かが変でした。でも、嫌な感じは少しもなく、ただ私を含めたこの空間自体が、それ以上の存続を、希望していないように感じました。
 私という単独の個体ではなく、私はこの空間、認識できる、地上の空間そのものの、ただの断片であり、その空間自体が、これ以上の存続を望んではいない。したがって、この私もまた、従わざるを得ない。抵抗感は、まるでありませんでした。おそらく、そうなのだろうと、同意している身体をも、私は発見してしまいます。私に漲る意思のようなものは何もありませんでした。私は、骨抜きにされていることを、認識しました。私は、状況に、抵抗しようとする意識が完全に欠落していきました。それは、本当に一秒、時間が進んでいくにつれて、倍増していくようにも感じました。あれほど目的のない、マグマのような奔流を、身のうちに感じ続けてきたそれまでの人生は、消えてなくなりました。あの教授の魅力に引き寄せられ、講義を受け続けていくことで、私は変わってしまいました。こうしてあと一歩も、動く気力が沸いてこないのです。昨日までは、それでも、ご飯を食べ、普通に洗濯をして、学校へいき、授業に出て、人としゃべり、と確かに、最低限のことはできていたにもかかわらず、それはもう、今日には叶わないことになってしまいました。急変しました。一気に行動は低下していきました。しかし、身体反応は、急激だったものの、私の意識としてはやはり、じょじょにじょじょに、失われていったように思います。少しずつ少しずつ、私は自分という存在の濃淡が、世界において、薄くなっていっているのがわかるようでした。ずっとその過程が、続いていたように思います。誰にも、わからなかったことでしょう。自分でさえ、その感覚が正しいとは、確信できませんでした。しかし、今日、この動作の急落を目の当たりにすると、そうしたこれまでの薄まりを、確実に、認識することができるのです。私はソファーから動けなくなりました。夜が始まります。静かな夜でした。私は耳を澄ませることしかできません。それには、気力の何をも必要としないのです。私はソファーに座っている。次第にその様子が、斜め上の方から見ていることに気づきました。私という身体が、眼下には存在しているのです。微動だにしませんでした。目は半分閉じているように見えます。その身体が、私なのでしょうか。いや、このこちら側にいる意識こそが、私であると、思い直します。私は、部屋全体を見下ろし、家の外側から、眺め、さらには大学を含む街全体へ、その街を囲む、別の街を含めた、そうして、さらに大陸、さらに海へ、さらなる大陸、地球全体、その外へと、空間は広がっていきました。それが、私そのものになりました。身体は、ほんの小さな点として、眼下にはまだあるようでした。この大きな広がりの空間こそが、私でした。そして、私は、この地球上を自在に移動できるかのごとく、あらゆる場所に、焦点を絞って、降りていくこともしました。そのときでも、私は、この空間すべてが、私であるという意識が消えることはありませんでした。私という身体を、詳しく見たければ、そこに焦点を絞って、降りていけば、いいだけのことです。ソファーの上に、座り続ける私がいました。私は再び、上昇して、その空間を、目一杯広げるために、飛翔しました。認識はまだ終わりがありませんでした。私は昨日のことを思い出しました。昨日の講義のことを。すると、そのまま、昨日の講義中の教室の様子が、目の前に現れてきました。その天井から、私は、私の身体を、見下ろしていました。講義が粛々と行われています。それは確かに、昨日の光景のようでした。さらに遡って見ました。初めての講義の光景が現れ、さらに、この教授に視点を絞っていくと、彼の過去が映像となって、プロフィールの羅列のように見えてきました。私は不思議な感覚に陥りました。時間の旅行が、できてしまっているように感じたのです。それはより細かく、焦点を当てていけば、それに連動して、見える光景も変わっていく。再び大きな視点に戻ろうとすれば、上空高くに舞い上がっていく。私は、さらに高くへ、遠くに、意識を飛ばしていきました。ピントは、どこにもあってはいない、変わり目を越えて。さらにさらに、ピンぼけの具合を、色濃くしていきました。
 上昇するだけの鳥になったかのように、さらにさらに。


 それでも、この意識は、失うことはありませんでした。私は一瞬でまた、身体の存在する空間が、見渡せる場所に、居ました。戻ってくるというより、そこにも、最初からちゃんと居たかのようでした。そして、また上昇してもいきました。この空間の筒とは別の空間の筒を共に並べて、見ることもできました。無数の筒がそうして、自分を無限に取り巻く様子もまた、目にしました。望むならどんな形体にでも、変幻可能なようにも思いました。私は空間を自在に移動し、時間の境目を、自由に越境していました。そして私は、身体に、完全に戻っていたことに、気づきました。体に重みを感じ、動かそうと意識すると、そのように、身体もまた反応しました。その重みは、わずかずつでしたが、軽みを覚え、そこも自在に動かせるように、なっていきました。ただ以前とは、何かが違うのです。以前のような軽さが、戻ることはないのです。それは感覚なのですが。決して、以前よりも、動きが遅くなったということはないのですが。それでも、コンマ何秒、動かそうと、意識して動くまでのその隙間のギャップを、感じてしまうのです。私はそうして、身体との一体化を、再び取り戻しました。しかしまた、ソファーに座ってみて、その自分を向こう側から、見るように回転していき、斜め上へと離れていこうとすると、それは達成されました。再び、身体の重みは消え、私は空間そのものと溶け込み、自在になっていくのです。時間の筒の現象も、また、同じです。それは意識すれば、意図も簡単に、変幻していくのです。私の予感は、現実のものとなりました。私は、確かに、この日を境に変容しました。

 あの教授の講義が、打ち切られたことを知ったのは、翌日のことでした。その講義だけが、前期の終了を待たずになくなってしまったのです。単位は、後期までのフルが、もらえることが決定していました。テストもなく、その後の労力は、何もありませんでした。教授そのものが、一身上の都合で、大学をやめることになったそうで、彼の存在はたしかに、その後キャンパスで見かけることはなくなりました。もちろん、世間では有名な人だったし、その著書も今だに健在ではありました。しかし以前のように、メディアに、もて囃されることはなくなり、ただひっそりと、アマゾンのリストに存在しているだけでした。しかし私には、今も、教授は自分に必要な生徒、自分を必要とする生徒を、確実に手招きしているように感じました。自分はもう、縁は切れてしまっていましたが、次なる出会いを、彼はじっと待っているかのように、私には思われました。
 私は、その後、この意識状態がなくなることはありませんでした。
 教授のいう、これは、谷化であるということにも、その瞬間に気づきました。というより、すでに、知っていたと言った方がいいでしょう。散々講義の中で、体験していたことであることを、私は理解しました。いや、そもそもそれ以前から、私は知っていたかのようにも感じました。教授を介する前から。教授はただ、その元々あるものに、気づかせるためだけに、あのような指導をしていたように感じました。私は今もスペースクラフトは使っています。移動にも。そして滞在にも。しかし、生活においては、補助的にです。キュービックシリーズを、たまに見ることもあります。それも、補助的にです。教授には、こう言われているような気がしました。キュービックシリーズによるリーディング体験は、それこそ、運動選手が引退後も急落させることなく、体力を維持することを目的として、トレーニングするようなことなのだと。身に付けた外語語を、その後も維持し続けるために、練習するといった、そういう存在であるのだと。そして、スペースクラフトはまた、それ以上の進化は何もせずに、シリーズとしてはそこで打ち止まり、しかし、物理的に、地上に生きる我々にとっては、移動手段としては、その後も最適なものであり続けること。プライベート空間としても最適。またちょっとした、人との会合においても、会議室として使用することは、最適であり、まさに、日常生活における補助的な最高のパートナーとして、ずっと存在し続けているのです。
 私は、目の前の現実を、常に見つめています。
 身体にいながらも、身体から少し解離させ、認識を拡大させ、空間を広げ、焦点を自在に変えながら、広大なこの地上の状態を、把握する。光景を目撃する。目の前のひとつのシーンだけで、判断することなく、そのように拡大させ、全体を把握して、総合的にとらえることを、私は続けているのです。さらには、時間を越え、さらなる光景を、同時連動的に把握することで、さらに、全体を、総合的に、観測することを常としているのです。そして、意識として身体ではない移動を、可能にすること。そこにまさに、居るように、意識だけを遠隔移動させること。物理的な接触が、必要ではないときには、これで移動して、そして、人とも、そのように会合を重ねていくのです。だいたいが、これで済みます。あとは、本当に、物理的に一緒に過ごしたいときに、補助的に、このスペースクラフトに乗り込んで、高速で移動して、会いにいくのです。
 私は、あの日以来、こうした生活へと一変しました。そしてそれは、おそらく、私だけではないと思うのです。私と同じように、あの講義を受けていた生徒たちだけではないと思うのです。少なくない人たちが、そのような生をすでに、営んでいるのではないでしょうか。あるいは、ほとんど全ての人ちが、すでに、そのような生を謳歌しているのではないでしょうか。


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