第14話:あやまらなくていいんですか?
文字数 11,555文字
先に立ち上がったのは、俺じゃなかった。
やっぱり
朝食のメニューを考えてくれたときと同じように……
膨大なデータを平行多重に取り込み、フルスペックを活用しての情報処理。
そうやって、助けようとしてくれているんだ。
俺
呼吸法によるリラックスか……?
でもゴメン…。
俺の今の
きっとそういうのじゃ、治らないんだ……。
そして痛みをやわらげるには、“ラマーズ呼吸法”というのが、最適らしいですっ!
さあ、マスター、私に付いてきてください!
い、行きますよ!!せーのっ!
ヒーヒーフー、ヒーヒーフー。
一緒に、マスター!!
ヒーヒーフー、ヒーヒーフー…
吸って吸って吐いて、吸って吸って吐いて、です!
どうしたんですか?マスター!!
信じてついてきてくださいよおっ!効果てきめんのハズですから!
10回、20回と繰り返すうちに、段々、心の緊張がほぐれて…
自律神経が出張先から帰ってきたように失調が治るハズなんです。
リラクゼーション効果が体全体に広がって……、特に下腹部が……
それは、出産時の呼吸法だよ……?
どんだけおめでたくて、
どんだけポンコツなんだよ…?
そしたら、さっきのお話の続きしちゃっていいですか?
マスターは、私の
俺の反応の薄さ気づき、
アハハ…、“原価の積み上げ”は、“顧客適正価値”とは違いますよね?
私としたことが、“コストプラス法”という“プロダクトアウト”な思考で説明をしてしまいました……。
でもマスター、お客様目線の価格設定法である“市場価格追随法”で説明しようとしてもですよ?私のような“破壊的イノベーション”に類するサービスは、既存市場に比較すべきものがないから基準価格の設定が難しいんですよねー。うーん、困った……。
しかし逆に言えば、他社製品との差異化要素はハンパない、ということなんですよ、マスター!
ゴメン、
俺にとっては、あり得ない選択なんだ。
出会ったその時から変わらない笑顔。
ピンクのカーネーションのような、
たしか、カーネーションの花言葉は“無垢で深い愛”だったか?
まさにその言葉通りの笑顔。
真っ暗な心の中に、たった一輪咲いてくれたこの笑顔の花を、俺はこれから自分の手で、を摘み取り、散らし、踏みつぶさなきゃいけないんだ。
さっきしたばかりの
もう精神的に限界だ。
これ以上、この無垢な笑顔を見続けるのは辛すぎる。
じゃあ、どうすればいい?
今この瞬間、スマホの電源を切って、
明日の朝まで寝てしまえばいい。
明日の朝になれば、
全部無かったことにすればいい。そして忘れてしまえばいい。きっとそれが、俺にとっての一番辛くない選択肢なんだ……。
スマホの電源ボタンに親指を乗せた。
この指に力を入れれば、全てを終わらせられる。
時間切れになるまで逃げ切れる。
でも、
そんなヤツに、消滅までの時間を、たった一人、クラウドサーバの中で、真っ暗で空っぽの箱の中で、不安と恐怖に怯え苛まれながら、時を過ごさせるのか?目の前の運命すら知らせずに?それでもきっと
それだけは、そんなことだけは、絶対にさせられないだろ?させちゃいけないだろ?
なら、ちゃんと言おう。そしてちゃんと謝るんだ。例え
俺の心理状態に気付いたらしく、
俺は深呼吸をする。
大きく息を吸い込み、そして……、
俺は同じ意味の言葉を、ただひたすらに連呼し続けた。
それは謝罪じゃなくて宣言。
相手に有無を言わさず、
自分勝手な意思を断固として通すという宣言。
そしてただの“弾幕”。
俺自身を守るためだけの、言葉の“弾幕”だった。
見下したようなこと言って、スミマセンっ!
格好つけて、スミマセンっ!
自分のことちょっと男らしいかもとか思って、スミマセンっ!
期待なんかさせて、スミマセンっ!
希望もたせちゃって、スミマセンっ!
救ってやるとか言っちゃっ、スミマセンっ!
ボクなんかが仮契約なんかしてしまって、スミマセンっ!
本当に、全部、スミマセンでしたーーーっ!!!!
何を言っている?
だって、謝る義務があるのは俺で、
提案……?
俺に……?
もちろんマスター一人に辛い思いはさせませんっ!私も一緒に働きます!スマホをマスターの胸ポケットに入れてもらって!仕事の中でわからないことや必要な情報があったら、私すぐに調べられますし、検索だけじゃなくて、データ分析や意味理解や解析や類推や予測もできます!
マスターと私が力を合わせたら、どんな仕事だって…きっと大抵、何とかなりますっ!
☂ ☂ ☂ ☂
何かがこみ上げてきた……。
俺の胸の奥より更に深いところから、とても熱い何かが、こみ上げてくるのがわかった…。
俺は慌てて窓を開け、首を外に出す。
そして、
朝から口に入れた消化中の食物が一気に逆流した。
それは、断片的なビチョビチョという音と、
絶え間ない胃酸の臭いをまき散らしながら、
一階の玄関の
巨大なお好み焼きのように滞留した。
酒も飲んでいないのに吐くなんて、それ程までに、俺は『外で仕事をする』ということにストレスを感じていたのだ。
世の中や職場という環境への不安。それに負けてしまう自分への敗北感。でもどうしようもないという焦燥感。それらが膨張し、俺の許容範囲を超えて逆流したのだ。
自分でも驚きだったけど、同時に少し安心した。だって、俺自身がここまで苦しんでいるなら、ここまで思い詰めたのなら、もう十分
案の定、
なら、もう頃合いだ……。
だからもう、赦してくれよ。
おまえ、空気読めよ。
この酸っぱい空気を……。
もう抵抗したってムダなんだ。
おまえも、俺も…。
こんなに真剣な
俺にはわかる。コイツは今、自分が生き残るためじゃなく、俺にまっとうな人生を歩んで欲しくて、真剣になってるんだってことが。
でも、ダメなんだ。
俺は、
吐きたいからでなく、吐くほど苦しいということを
でも、コイツは………、
俺のそんな気持ちを理解する能力が完全に欠如しているようだった。
でも、おまえの言っていることは、俺、百も承知してるんだ。
そのことをあらためて、
マネして見せるだけのつもりだったのに、本当に吐き気がこみ上げてきた。
とにかく頑張って!頑張って!頑張って!頑張って!
何が何でも最後まで頑張り抜くんですっ!!!
根性です!根性を出しまくって、
そして最後に、
努力と友情と勝利の“三本柱”を
その手に
このヤロー…。
俺みたいな奴には一番使っちゃいけない言葉を
イヤミなほど連呼しやがって…。
常識ないのかよ?
一体、どんだけポンコツなんだよ?
俺は今までで一番大げさに嘔吐をして
そして今までで一番激しく
透明に近い吐しゃ物には、薄っすらと血が混じっていた。
胃の中にほとんど何も残っていないのに吐こうとしたから
喉の血管でも切れたらしい。
そしてそれこそは、俺が無意識に待ち望んでいたものだった。
それは俺の限界を証明し、現状維持を正当化する根拠であるハズだった。
だって血反吐って言ったら、根性と努力の代名詞だろ?
なのに
最早、俺に手心を加える気なんて毛頭無いように感じた。
何なんだよ?コイツ…。
悪魔かよ?それとも
それはそうだろう。
今のは完全に失言だった。
だって、
何なんだよ?その小賢しい理屈は?
全然違う!違うんだよ!
俺の心はそんなこと望んでない!頑張りたいなんてこれっぽっちも思ってない…。
むしろ、「この部屋から一歩も出たくない」って叫んでるんだよぉっ!!
それなのに何で、カタツムリの頭を無理矢理カラの外に引っ張り出すようなことをするんだよ?
そんなコトされたら死んじまうんだよ!殺されちまうんだよ!だから……
ダメなんだよ!ムリなんだよ!さっきまでのは全部ジェスチャーなんだよ!
威勢のいいこと言って、かっこつけて、知ったかぶって、おまえに偉そうに説教しまくっても、ホントは、ホントの俺は・・・・、苦しいのも、傷つくのも、恥ずかしいのも怖くてしかたがない。全部、何から何まで、死ぬ
いや違うな…。
死ぬ
俺だって立ち直りたいよ!
でも、前に進もうとした途端、根が生えたように心も体も動かなくなっちまうんだよ!
おまえには理解できないだろうけど、
そんな状態で、どうしろって言うんだよ?!!
やる気が出ない時なんて誰にだってあります!
でもそこから何度でも、
はじめの一歩を踏み出すんです!
そして未来に向かって、
新しいタイプの戦士になって戦うんです!!
マスターならゼッタイ、
それが出来るんハズなんですよぉっ!!
この俺に、そんなこと、出来るワケないだろっ!
ストーカー扱いされて就職に失敗したとか、自殺未遂して以来冷たい目で見られてるとか、理由は色々あるけど、そんなのはキッカケに過ぎなくて……。そこからねじれて、こんがらかって、もう性根がとことんまで、腐って、腐って、腐りきっちまってるんだよ。
だから、立ち上がろうとしても、もう力が入らないんだよ。
力の入れ方すら…もう、わからなくなってるんだよっ!!
☂ ☂ ☂
俺も、何も言えなかった。
ポケットに
そうしているうちに、”夕べの鐘”のメロディーが流れて――、
烏がカアと啼いて――、
また暗い夜が来て――、
そしてまた雨が、強く降り始めた――。
それから更に時間が経過して、
沈黙に耐えきれなくなって、
俺が何かを言おうとしたとき、
胸ポケット中で
はじめは聞き間違えかと思った。
でもそうじゃない。
スマホを手に取ると、画面の中で確かに笑ってる。
クスクスと、とても楽しそうな表情で……。
なんで笑顔でいられるんだよ?
この状況で、おかしいだろ。
そうじゃないだろ?!
消滅しなきゃいけないって時に、
そんなキレイな花みたいな笑顔を―――、
裏切った俺に向けて
見せてくれてる
よっぽどオカシイだろ?!
ホントにマスターはおかしな人です。
赦すも何も、謝らなきゃいけないのは私の方なのに。
マスターは、私のことに関しては、これっぽっちも悪くないんです。
感謝こそすれ、恨んだりなんかするワケがないじゃないですか?
マスター、お願いですから、もう謝らないでください…
全然、似てないよ。
おまえは俺とは違うだろ?
普段は後ろ向きじゃないし、相手のために何かしてあげようとか思っている割には、蓋を開けたらもう底なしに救いようがないところなんて、ホントに瓜二つです。
私たちダメ人間とダメAIの、D×Dコンビだったみたいです。期間限定の……
あり得ねえだろ……。
あー、その表現はビミョーにニュアンスが違いますかねー…?
だまそうとしたり、裏切ろうとしたワケじゃもちろんないんですけれどー、ホントのこと伝えずにごまかし続けてきたって言うか……。だから結果として裏切っているって言うか……
マスターなら理解してくれるかもって期待しちゃうんですけど。
ありますよね?
前向きでいようと思えば思う程、全部が嘘になっちゃう時って。
でも「ゼッタイ何とかして自分を変えてやるぞー」とか思って。
そのうちに気持ちが高揚して本当になれちゃいそうって錯覚しちゃって。
でもやっぱり悲しいほどに自分自身のままで……
わかる、
そんな状態なのに…、もしかしたらこのまま何とかなるかもなんて、色んな奇跡がかさなって全部上手くいけちゃうかもって、都合のいいように自分に思い込ませて……。
でもどうしても越えられない現実の壁が出てきちゃって・・・。でも、タイムアップが近づくほどに、希望の光も、メッキがはがれるみたいに消えていってもう絶対無理だってことが理解できちゃって……。
俺は簡単に切り捨てたんだ。
そしてアッサリと裏切ったんだ。
マスターは私のことを一度だって裏切ったりしなかった。
スマホの電源を切っちゃえば全部済む話なのに、
もともと最初から無理でムチャなお願いなのに、
それなのに
自分のつらい過去や痛みにさえ向き合って、
その上で「契約はムリだ」って、
ちゃんと伝えてくれた…。
最後まで、本当のこと、話してくれた…。
ただのAIに過ぎない私に、
マスターは真実をくれたんです!!
”知らない夜の街”って、まさか……。
もー、マスターはホントに女の子の気持ちがわからないヒトですねー?
だって、恥ずかしいじゃないですか?
ホントの自分が余りにヒサン過ぎたら、
誰だってその事から目を背けたくなるし、
とてもじゃないけど、
ホントのこと言うぐらいなら
ゼッタイ、ムリ、ムリ、ムリって感じになっちゃって……
でもそれって、自分のことしか考えてないことなんですよね?
マスターの気持ちを考えず、エゴイスティックですよねー?
で、それで私、どうしようとしたと思います?
真実を隠して綺麗なイメージのまま、言いたいことだけ全部伝えて、
そのまま
マスターの中の私のイメージが汚れちゃわないように、
自分自身の恥を隠したまま、偉そうなお説教を続けてたんです。
幸か不幸か、お説教のネタは山ほどありましたしね?
小さな舌をペロッと出して、
でも、それって、もの凄く残酷なことだったんですね?
だってマスターは、私が消滅することの責任を、
全部自分で背負いこんじゃうんですモン!
信じられます?
AIとの約束を破ったからって、
その十字架を自分で背負い込んじゃうなんて、
そんなバカな
ああやまらなくていい、『罪』は自分にある、俺にそう伝えてから、
俺は