第24話 下準備

文字数 9,265文字

●24.下準備
 藤木とアメリアはグラインダーを作業を黙々と続けている池田の傍らに行った。
「池田君、どうだ終わりそうか」
藤木は、ヘッドセットに割り込めるマイクで呼びかけた。
「はい、まもなく終わります」
「順調順調、何よりだ。後は俺が引き継ぐ」
藤木が言うとも池田はほっとしたようにゴーグルなどを外し始めた。藤木も素早く、バーチャルスーツなどの一式を装着した。

 藤木がアイロ2から送られる映像をゴーグル上で見ていた。一見するときれいに残骸が取り除かれているが、留め金の幅分が1センチきれいに残っていた。
「そうか、留め金のことを説明し忘れていたな」
藤木がぼそりと言っていた。
「どうしたの」
アメリアがヘッドセットに割り込んできた。
「1センチの削り残しがあったんだ。今から削る」
「大気圏突入のタイミングに間に合うかしら。後、1時間よ。無理だったら明日に延期するように連絡するけど」
「いや、削るのに15分、タイルを取り換えて固着するまで30分だから、間に合う」
藤木はそう言ってる間も、アイロ2を操作していた。

 耐熱タイルの交換に時間がかかっているので、不安に感じた陸は、別回線で案内ガイドブースに無線を入れていた。その無線は藤木のヘッドセットにもリンクされていた。
「藤木さん、耐熱タイルの交換は終わったのですか。まだアイロ2が船内に戻ってきていませんけど」
「いやいや、耐熱タイルの交換はちょろいもんだったんですがね。念には念を入れて軌道シャトル船を点検しているものですから」
藤木は軽い調子で言っていた。この間もアイロ2の作業は進められていた。
「予定通りに地球に戻れなくても、クレームは言いませんよ」
「大丈夫です。任せてください。評価5つ星以上を付けていただくのがモットーなんものでして」
藤木はちょうど削りの作業を終えていた。
「でも、なんでアイロは戻って来ないのですか」
陸は安心していない様子だった。藤木は一瞬、ヘッドセットをオフにし、舌打ちをしてからオンにした。
「それは快適で安全な旅をお約束する証なんです。もうまもなくアイロ2は船内に、あ、もしかするとハッチにいるかもしれません。確かめに行ってください」
藤木はそう言うと、リンクを解除していた。
 
 アイロ2は、予備の耐熱タイルをはめ込み、固着ジェルを噴霧して、周囲のタイルと溶け込ませていた。まだ交換部分と周囲の色に違いがあるが、少しずつ同化し始めていた。アイロ2は、それを見届けると月往還船のハッチの方へと漂って行った。途中にある月往還船の丸窓には、待ちくたびれたような顔をした陸の顔が見えていた。

 軌道シャトル船は、予定時間通りに大気圏再突入に向けて切り離された。軌道シャトル船は、炎に包まれ地表に向かって、どんどん落下していく。その後、太平洋の海原が一面に広がってる上空でパラシュートが開かれ、落下速度は緩くなった。今回は藤木たちの時と違って、パラグライダー経験が豊富な鈴木が搭乗しているので、八丈島の宇宙港に着陸することができた。

 翌日、今回搭乗した3人に対して、マスコミが取材に押しかけていた。宇宙港のロビーで、椅子に座ったホワイト、鈴木、陸は挨拶をし、まだ地球の重力に適応していないので手短にと言っていた。
 「今回のツアーでルナ・ロジスティックス社の対応に問題はなかったですか」
在京系のテレビ局の記者が言っていた。
「問題はないですね。全て順調でした」
ホワイトが応えると、その記者はちょっと残念そうな顔をしていた。
「月面で採取した石などから、今回の利益を出すわけですが、個人的な所有権になりますよね」
と新聞社の女性記者。
「その辺の所はわかりませんが、かなりの利益になりそうです」
陸は嬉しそうにしていた。
「月面は国際共同開発がルールになっていますが、どうですか」
と別の在京系のテレビ局の記者。
「そこもルナ・ロジスティックス社の人が上手くやってくれるはずですから、」
鈴木は、控えめな声で言っていた。
 吹き抜けになっているロビーホールの上の階の通路を藤木たちは、さり気なく歩いていた。
「なんか恣意的な質問ばかりね」
アメリアは、取材を受けている3人を見下ろしていた。
「でも、あの3人は俺らのことを悪く言わないだろう。全て予定通りだったからな」
藤木は、ちらりと下を見ただけであった。
 藤木達は、宇宙港の建物から出ると、打ち上げ塔に宇宙開発機構の物資輸送船を搭載したロケットがそびえ立っているのを目にした。それを横目に帰還した軌道シャトル船が置いてある格納庫に向かった。

 格納庫の架台の上に軌道シャトルが載っていた。架台の周りをゆっくりと見て回った藤木たち。
「ねぇ、あそこの黒っぽいの何かしら」
アメリアが指さしている方向を一緒に見る藤木。
「えぇ、耐熱タイルの留め金が飛び出して溶けているようだぞ」
藤木は、架台の真下に入り、溶けている箇所を注視していた。
「おぉ、補修した箇所とは別に、こんな所があったとはな…」
「別の箇所なの」
「ああ。後、数分長く高熱にさらされたら、タイルが剥がれ落ちていたかもしれない」
「となると爆発したかも知れないのね」
肝を冷やしているアメリアと藤木は顔を見合わせていた。
「ぞっとするな。大失敗に終わったら、マスコミが大喜びするところだった」
「次回の打ち上げまでに軌道シャトル船の耐熱タイルは、新しい別の方式にする必要があるわね」
「今回は、運が良かっただけだろう。宇宙に出て戻ってくることに慣れや油断は禁物だな。常に細心の注意を払う必要がある」
藤木は格納庫の周囲にマスコミ人間がいないか見ていた。
「ここは部外者、立ち入り禁止だよな」
「そうだけど、万一のために、シートをかぶせておきましょう」
アメリアは、少し離れた所に立っていたスタッフに言いに行っていた。

 馬副首相と密約を交わした一ヶ月後、藤木とアメリアは北京首都空港にいた。二人は空港の展望ロビーから貨物機の荷下しを眺めていた。特別仕様のエアモビリティー5.5は副首相側のスタッフのトラックに載せ替えられていた。
「あのエアモビリティー5.5は、何度見ても優美なデザインだよな。なんか惜しい気がする」
「でも月面で電重力物質が見つかれば、返してもらう約束よね」
「他の場所で、見つかるかな…。それはそれとして、こちらが約束を果たしたのだから、そろそろ田中と王が現れても良いよな」
「エアモビリティー代の1億2000万円が身代金のようなものだけど、ここに来て裏切られる可能性はあるかしら」
「その時はその時だ」
「そうね。あたしたちは極楽女と極楽男だから」
アメリアが言っていると、背後に人影が忍び寄った。
「そこの二人、ゆっくりと振り返ってもらおうか」
「おいおい、その声は田中だろう」
藤木達は、笑顔で振り向いた。アメリアは田中と王にハグしていた。
「藤木さん、ありがとうございます」
王は丁寧な日本語で言っていた。
「とにかく無事で良かった。中国を出ましょう」
藤木は軽く王とハグした。
「田中、お前を助けるために大枚をはたいたからな」
藤木はおどけたように小突いていた。田中はすまなそうな顔をしていた。
「でも気にすんな。そんな顔は似合わんぞ」
「…藤木、お前は中国で指名手配中じゃなかったか」
「空港内なら大丈夫だ。それに馬副首相のお墨付きをもらっているからな」
藤木は、一応周囲を見回したが、誰も藤木たちに関心は払っていなかった。誰に呼び止められることもなく、藤木達は羽田行きの飛行機に乗り日本に戻った。

 この日、沢尻はさいたま市の訓練センターの会議室に来ていた。
「翻訳アプリは全世界に行き渡ってますし、競合他社も出て来たので、売り上げはほぼ頭打ちになりました。そこで沢尻コミュ研は、ルナ・ロジスティックス社の方を親会社にしたいと思います。どうでしょうか」
沢尻は、ホワイトボードに投影されている売り上げ表を指し示しながら言っていた。
「そんなことを言うためにわざわざ、出向いてこなくても良かったのに。沢尻CEOが言うなら、従いますよ」
藤木は、真っ先に同意していた。田中、アメリア、岩田、リアル3D画像の洪とヴィジャイはまだ黙っていた。
「確かに、翻訳アプリを付けるのは当たり前になっているし、他社の自声音声キャンセラーの性能も遜色ないからな。問題ないでしょう」
洪はしみじみ言っていた。
「ルナの方がこれからの儲けが期待できますから、良いんじゃないですか」
ヴィジャイも同意していた。
「田中さん、アメリアさん、岩田統括マネージャーはいかがですか」
沢尻は3人の顔を見ていた。
「もちろん、いいです」
「そうしましょう」
「はい。私も同意します」
「それじゃ、この機会に落合と渋谷、さいたま市の施設を一カ所に統合して、本社ビルを建てませんか」
藤木が唐突に言い出した。
「まとめるわけですか」
沢尻は思わず口走っていた。
「だって行ったり来たりしなくて済むし、ネット回線で盗み聞きされたらことですから」
藤木は沢尻の方を見ていた。
「少なくとも日本国内は一ヶ所にした方が便利なことは確かと言えます」
ヴィジャイの画像はわずかにブレていた。
「でも、かなりの広い敷地がないと…」
岩田統括マネージャーは不安げであった。
「ドーンと100階以上のビルを建てれば、良いじゃないですか」
「日本で一番高いビルにするのね」
アメリアがやっと口を開いていた。
「藤木らしいや」
田中は陽気な笑顔を見せていた。
「それなら、土地が安めで容積率が緩和されている笹塚辺りがお手頃な気がします」
沢尻も頭の隅で考えていたのか、すぐに候補地をあげていた。
「いや、待ってくれ。エアモビリティーでも手軽に移動できるし、100階以上にする程カネをかける必要があるのかな」
洪は懐疑的な顔をしていた。
「洪さんの言うことも、ごもっともなんですが、ランドマーク的な大きなビルを建てる意味があるんです」
「藤木さん、それはなんだね」
「月面に所有権を持っている企業は、これだけ儲かっているとアピールすることができます。こうすれば、他の企業や国も宇宙資源活用条約の改正案に傾くはずです」
「そうか。そう言う意味もあってのことのなのか。さすがに藤木さんだ。異論はありません」
洪はリアル3D画像でも、どっしりとした存在感が漂っていた。
「沢尻CEO、笹塚ですね。わかりました。設計から交渉まで、ここは一つ私に任せてください」
藤木はやる気満々であった。

 翌日、藤木は訓練センターに併設された宇宙科学館の事務所で、建物のラフスケッチを描いていた。
「ヒトシ、どう。形になった」
アメリアがラフスケッチを覗きに来た。
「このルナタワー112は、50階分がルナ社で、15階分を賃貸住居、15階分をテナントオフィス、12階分を商業施設、20階分をホテルにして、アンテナ部を含めて高さ540メートルにするんだが」
藤木は楽しそうに説明していた。
「いいんじゃないの」
「しかしこの高さだと日本一かもしれないが、世界だと56位前後になるだろう。インパクトがないんだ」
「それじゃ、150階ぐらいにしたら」
「…日本は地震国だから、高くすればする程、技術的にカネ食い虫になるからな」
「そう言えば、中国やアメリカの都市に比べて、あまり高い建物は見当たらないわね」
「だからインパクトがある形にして、世界唯一の建物にするつもりなのだが」
「ツインタワーにして回廊でつなぐなんてものじゃダメね」
「そうだ。80階から90階にかけて、透明に見える壁面にするのはどうだろう。90階より上が宙に浮いているように見えないか」
「面白そうだけど、できるかしら」
「できるかしらじゃなくて、誰もやってないことをやるんだよ」
「そうね。あたしとしたことが極楽度が鈍ったかしら。技術開発すれば良いのよね」
アメリアは笑っていた。
 一ヶ月後、施工ゼネコンと契約し、藤木の構想に基づいた建物図面が引かれ『ルナタワー112』プロジェクトが進められた。これに伴い、透明壁面は様々な方法が検討されていた。

 シカゴで開催されている国際宇宙ベンチャー企業展に出展しているルナ・ロジスティックス社。マコーミック・プレイスの北棟にブースが設けられていた。ブースには、リアル3D画像の月面やアイロ操作用のバーチャルスーツ、月の石や月着陸船のレプリカなどが置かれていた。田中はアメリカの宇宙食業者と商談をしていた。
 「田中のやつ、話がまとまりそうじゃないか」
藤木はブースの丸椅子に腰かけていた。
「いや、あそこはちょっと高い気がするけど」
アメリアは奥から丸椅子を持って来て藤木の脇で座った。
「ところで、スペース・トランスポート社のブースはどこだったけ」
「南棟にあるわよ。さっき見てきてけど、うちより派手に飾り付けていたし、アーロン・ボルトはバックヤードでケータリングの豪華なランチを食べてたわ」
「俺もライバル会社の様子を見て来るか」
藤木はゆっくりと立ち上がった。

 かなり離れている南棟までは、自動で動き回っている球輪セグウェイを拾い、スペース・トランスポート社のブースの前で降りた。
 月観光周回船のレプリカや豪華な宇宙食、打ち上げロケットの模型や6分の1重力の模擬体験マシーンなどが置かれていた。ブース中央に置かれている大型モニターには、来年募集する予定の火星観光プロジェクトのシミュレーション映像が流れていた。
 藤木は実写ばりのシミュレーション映像に見入っていた。
「どうですか。我々と一緒に火星に行きませんか」
藤木の翻訳アプリが作動していた。藤木は振り向いた。
「…あのぉ、藤木さんですか」
声を掛けてきた40才前後の男は、藤木の顔を見ていた。
「はい。いゃー、ここでボルトさんにお会いできるとは光栄です」
藤木はボルトと握手していた。
「ここで立ち話も何ですから、どうぞ応接コーナーに行きましょう」
ボルトはブースの片隅にある豪華なソファが置かれた応接コーナーに向かって歩き出した。

 「今日は、ライバル会社の偵察ですか」
ボルトは直球で言ってきた。
「そのものズバリです。しかしお宅はやることなすこと豪勢で素晴らしいじゃないですか」
藤木はボルトのカリスマ的なオーラに、いつものような藤木節が出にくくなっていた。
「何をおっしゃいます。ルナさんも世界的に注目されいます」
ボルトは一見すると笑顔を見せていたが、目は笑っていなかった。
 その後、会場やシカゴの天気など指し障りのないことを言っていたが、どうも打ち解けにくい感じがあった。
「ボルトさん、今回私がここに来たのは、宇宙開発の所有権について忌憚のないご意見を聞きたかったのです」
藤木はたまりかねたように言い出した。
「国際共同開発が望ましいと思います。アメリカ政府もその方針ですから」
「それじゃ、我々が月や火星にホテルなんか建てた場合、どういう感じになりますかね」
「別に土地を所有しなくても問題はないです。ルナさんのように鉱山開発するとなると問題でしょうが」
「なるほど。そうですか。でも、ボルトさんは火星の次は小惑星帯を狙ってませんか」
藤木が言うと、ボルトは少しドキりとした顔になった。
「それは火星観光を収益ベースに乗せてからの話ですよ」
「あそこには、いろいろな資源がありそうですし、まだ発見されていない未知のお宝が眠っている可能性があります」
「それを言うなら、あなた方が一部所有している月面もまだほとんどが手付かずです」
「どこにしても、せっかく苦労して行って掘削したのに、自分のものにならないのは、どうですか」
「確かにそう言う面はあります」
「私は、宇宙資源活用条約は限定的でも個人や企業の所有を認める改正案が必要な気がします」
「民間の活力を利用して宇宙開発することに異存はないのですが、改正案ですか」
「なんか、うま味というか利害が一致しないと無理ですよね」
「ビジネスだけでなく、壮大なビジョンが必要だと思います」
「さすがにアーロン・ボルトさんだけのことはありますね。言うことが違う」
「なんらかのビジョンはお持ちですか」
「ありますけど、笑われそうな気がして…」
「言ってください」
「共同でまず月面に宇宙統合リゾートみたいなものを作りませんか」
「統合リゾートですか」
「お互いに月と地球の間の輸送を担っているわけですから、その行き先が魅力的なものになれば、貨客利用者が増えて、ウィンウィンじゃないですか」
「1社では建設ができなくても2社なら莫大な建設費も賄えますな」
ボルトは、ゆっくりと喋るので翻訳アプリは、言葉にならないニュアンスまで拾っている感じであった。
「それをするには、やっぱり改正案が必要な気がするんですよ」
「時にはライバル会社と手を組むことで、それ以外に対して絶大な力になるわけですか」
「そうなんです。今時、ライバルだからって潰し合うことはないのです」
「初め、あなたを見かけた時、こそこそと様子を見に来たのかと思ってました」
「こそこそですか。ボルトさんから見れば、そうかもしれませんが、あなたの存在が大きいだけです」
「しかし、あなたは素直と言うか、深く考えない極楽ぶりがある。私が今まで会ってきた中で、どこにも当てはまらない人物だ」
「できたら、ボルトさんからアメリカ政府に改正案の働きかけをお願いしたいのですが」
藤木が言うと、ボルトは少し沈黙した。
「やってみましょう。そちらの方はどうなるかわかりませんが、宇宙統合リゾートの件はすぐに計画骨子をまとめたいものです」
ボルトは、だんだん乗り気になってきていた。

 藤木たちはシカゴのリトルイタリー近くの居酒屋にいた。
「海外の居酒屋で飯が食えて、日本酒が呑めるなんて、最高だな」
藤木はほろ酔い気分であった。
「俺もシカゴに居酒屋があるとは思わなかった」
田中はまだそれほど酔いが回っていなかった。
「俺はどうも、あぁ言ったセレブ然とした成功者とは上手くかみ合わないんだ」
「傍から見たら、藤木だって充分に成功者だぞ」
「俺は成功者と言った実感はないし、改正案が通らない限り、犯罪者呼ばわりだからな」
「いいじゃないの、個人資産ランキングでは世界一よ」
「アメリア、それは本当か」
「月の資産価値を含めてだけどね」
「なんだ。未確定分を含めるのか」
「とにかく、ボルトに頼み込めたのだから良かったな」
「それで、田中の方は、商談がまとまったのか」
「あれはダメだ。仕入れ値が高過ぎる。日本の食品メーカーのいいよ」
「展示ブースに出していた、うちの宇宙食は売れたか」
「和食系のものは売れたけど、洋食やスイーツ系はあまり売れてなかったわ」
アメリアは、残念そうに言っていた。
「それよりも、藤木、あそこに座っているのボルトじゃないか」
田中が言ったので、3人はそちらに視線を向けた。
「セレブなのに、こんな所に来るのね」
「贅沢に飽きたか、日本趣味なんだろう」
藤木は、焼酎をごくりと呑みほしていた。しかしボルトの方は藤木たちに気が付いておらず、双方ともそのまま呑んでいた。
 「ヒトシ、あの漢字はなんて書いてあるの」
アメリアは居酒屋の壁面に掛けてある書額を見ていた。
「『武士道』と書いてあるが、まさか新渡戸稲造が書いたわけでもないから、店主か誰かが書いたのだろう」
「上手く書けているのかしら」
「上手いと言えるが、俺の方が達筆だろう」
「おい藤木、店員がこっちを見ているぞ」
少し離れたテーブルを拭いていた日本人の店員は追加注文かと思っていたようだった。
「聞えたかな」
藤木は小声になっていた。
「店員さん、この書は誰が書いたのですか。達筆じゃないですか」
藤木は店員に声をかけていた。
「あっ、それですか。あそこにいらっしゃるボルトさんがお書きになったものです」
店員は、ボルトの方を丁寧に指し示していた。
「ボルトさんが書いたのか」
藤木は思わず声を上げてしまった。その声にボルトも藤木たちに気が付いた。
 藤木はボルトと目が合ってしまったので、お銚子を持って、ボルトのいるテーブルに行った。
「ボルトさんはここの常連さんですか」
「藤木さん、ここでまたお会いするとは運命的ですな」
ボルトは藤木がついだ日本酒を呑んでいた。
「なかなか筆の払いや跳ねがしっかりしていますね。しかし『武士道』なんて言葉はどこで覚えたんですか」
藤木は、少しふらつきながら言っていた。
「私はカナダのバンクーバー出身なんで、近所に新渡戸記念公園があったもので、彼の著書『武士道』を読んでいましたから」
「そうなんですか」
「拝金主義を戒める点は世界共通の人間の精神と言えます。でも最近の日本の経営者は、その点が欠けている気がします」
ボルトは日本人の藤木に説明し始めた。
「しかし、セレブのあなたには、武士道の心はわからないと思います」
藤木が言うと、ボルトは少しムッとした表情になった。田中とアメリアが抑えようとしていた。
「謙譲心を尊び、成功をつかんでも初心を忘れないといった心が大切なんです」
「初心ですか。そのようなことは触れてないようですが…」
「いや、わかっていらっしゃらない。日本語の微妙なニュアンスは読み取れていないようです」
「ええっ、新渡戸は英語で書いたのではないですか」
「そうかもしれないが、訳しきれていないニュアンスがあるのです」
藤木は言い張っていた。
「そういうものですかね」
「アメリカ人のあなたが武士道を語るには、まだ数十年早い。わかりますか」
藤木はヒートアップしてきた。ボルトの警護の男が詰め寄ろうとしていた。ボルトはそれを制していた。
「あぁなるほど、私に怒ったり諭すようなことを言う人物は、このところしばらく見かけませんでした。藤木さん、あなたは新鮮です」
ボルトは、怒らずに冷静に藤木の言葉を受け止めていた。
「ん、なんだぁ、ボルトさんはセレブの仮面をかぶった武士道がわかる人だったのですか」
拍子抜けした藤木はボルトとがっちりと握手していた。その後、藤木とボルトは武士道や宮本武蔵の談議に花が咲いていた。
 取り残されたアメリアと田中はちびちび日本酒を飲んでいた。
「ヒトシって新渡戸や武士道に詳しいのかしら」
「いや、そんなことはないよ。お札になった人物として調べたか、教科書ぐらいだろう。だから宮本武蔵の話に持って行ってるからな」
田中とアメリアは藤木たちの様子を見てくすくす笑っていた。
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