第48話 北斎と広重

文字数 2,723文字

 蔦屋さんとお栄さんは一緒に暮らしながら、それぞれの仕事をこなしていた。お栄さんは幾つかの寺子屋で絵を教えていたし、その合間に北斎さんの「富嶽百景」を手伝っていた。
「富嶽百景」の全三巻あるうち、最初の二巻の発行が早かったのはお栄さんが協力していたからだ。実際絵の手伝いだけでは無く、富士に纏わる故事来歴等も調べたらしい。
 最後の三巻が遅れたのは北斎さんがお栄さんの手伝いを拒み一人で作業を続けたからだ。この時期はお栄さんは蔦屋さんと一緒に暮らし始めた頃で、北斎さんも気を使ったのだろう。
 またこの時期は「百人一首乳母が絵説」を書いていて、その仕事の分量の多さに驚かされる。結局このシリーズは、版元の西村与兵衛が版行途中で没落した為、予定の百枚を刊行する事は出来なかった。二十七枚を持って終了している。但し、北斎さん自身は下絵として全百枚を書き上げていた。それを描き終わって北斎さんは信州に旅立っている。

 そんな事が起きるとは思ってもいない天保の江戸の街。何十回目か判らない引っ越しをして、その新居で北斎さんは仕事をしていた。そこに蔦屋さんが一人の絵師を伴って現れた。何故俺がそれを知っているかと言うと実は引っ越しの手伝いをしていたのだ。家財の少ないこの頃は、大八車が一台あれば事足りてしまう。弟子の誰かが大八車を借りて来て、幾つかの荷持を載せてしまえば終わりで、近所の引っ越し先で荷を下ろせば引っ越しそのものが終わりなのだ。
 今度の物件は三軒長屋の一番端で二階もあった。
「どうだい、この前よりか少しは広いだろう。これなら大作も広げて描けると言うものだ」
 北斎さんはそんな事を言って嬉しそうだ。俺から言わせれば、広くてもすぐに塵で一杯になってしまうのだろうと思った。
「これで片付きましたね。何時でも作業が始められますね。
 俺がそんな事を言った時だった
「御免なさい」
 そう言って蔦屋さんが家の軒先に現れた。
「おお蔦屋さんか、どうぞ……誰かお連れかな?」
 北斎さんの声に蔦屋さんの方を見て見ると、三十代半ばの男の人が後ろに立っていた。髷を見ると武士の髷をしている。役人かと思ったが、着ている物が役人のものでは無かった。更に浪人にしては小さっぱりしていると思った。
「どうぞ一立齋(いちりゅうさい)殿」
 蔦屋さんに促されて、男の人は入って来た。蔦屋さんの呼び名でこの人物が後に歌川広重と呼ばれる人物であると悟った。この頃広重さんは一立齋と名乗っていたからだ。
「これは、これは歌川の」
「暫く振りでございます。その節はどうもありがとうございます!」
「いや、礼になんか及ばねえよ。それより『東海道五十三次』良かったねえ。売れて売れて他にも注文が沢山入って大変じゃないのかい」
 北斎さんは、広重さんの「東海道五十三次」が売れた事を純粋に喜んでいるみたいだった。
「それもこれも「富嶽三十六景」を参考にさせて戴いたからでございます」
「なぁに、それもこれもあんたの力量さ。ささ、こちらへ上がりなさい。引っ越したばかりで何も無いが」
 北斎さんは広重さんを上がらせた
「しかし、あなたと蔦屋さんが知り合いだとは驚いた」
 正直言うと俺も驚いている。確かに組織としての蔦屋さんの仕事は、まず色々な絵画を見て、組織として有能な絵師、画家を見つけ出す事。それにより未来世界での絵画の価値を上げる事。またそれを保護する事。
 次に、過去の世界でも同じように有能な絵師と接触して、それを援助すること、だった。蔦屋さんは二番目の仕事として色々な絵師と接触を持ったのだと知ってはいたが、まさか大物の広重さんにも接触してるとは思わなかった。
「先年、家督を譲りましてな、絵師一本にり申した。そこで、北斎殿に挨拶をせねばと思っていた所、この蔦屋殿が案内してくれ申したのでございます」
「北斎はやめてくだされ、あれは一時の画号、鉄蔵で一向に構わない所存でございますよ」
 北斎さんはそう言って笑っていた。良く考れば、こうやって二人が出会っているシーンは実は歴史的な光景では無いだろうか。
「この前、大岡雲峰先生に就いて南画を少々学び申したのでございます」
「ほう、南画でございますか。それは良いですな。南画を学べば風景に人の暮らしを取り入れる事ができ申す。あなたの力量なら造作もない事でございますよ」
「鉄蔵様は今は『富嶽百景』の続きでございますか?」
 広重さんの質問に
「それは大体終わり申した。今は西村与兵衛殿の注文で百人一首を乳母が読んで説明している絵を書いております。これは大体百枚にもなろうと言うもので、先が楽しみでございますよ」
 俺は引っ越したばかりの家でお湯を沸かし、茶を入れて二人の前に差し出した
「おお、こうすけさんが茶を入れてくれましたな。どうぞ」
「これはかたじけない」
 広重さんは礼を言ってお茶に手をつけて
「この御方は、江戸のお方ではありませぬな。何処か西国の方でいらっしゃいますかな」
 俺の顔をまじまじと見てそんな事を言った。どうして、すぐに判ってしまうのだろうか、姿形は完全に江戸の人間と同じなのに。すると蔦屋さんが
「この御方は、こうすけさんと申しまして、私の仕事を手伝ってくれている方でございます。西国と言うより北国の出でございます」
 そう言ってくれたので、それ以上追求はされなかった。しかし、どうして広重さんと接触したのだろうか、俺は北斎さんと広重さんが話している間に蔦屋さんに訊いてみた
「どうやって広重さんと接触したのですか?」
「実は、買い付けの件がありましてね。それで、耕書堂に繋がりを求めたのですよ」
 蔦屋さんはそう言って涼しい顔をしているが
「まさか、自分が祖先だと話したのですか?」
「まさか、そこは秘密にしてありますが、今の当主より私の方が絵に関する知識も見聞も広いのですから、すぐに信用されました。今ではちょっとした顧問ですよ」
 それを訊いてさすが蔦屋さんだと感心をした。
「歴史的にはこの後、耕書堂も色々な絵を広重さんに頼む事になるのですが、今の当主は役者絵や美人画それに危な絵等を中心に扱っており、これからの風景画が流行る事を見逃していたのですよ」
 なるほどと感心をする。歴史の陰に蔦屋重三郎ありだと思った。
 広重さんと北斎さんの話は尽きる事が無かった。俺と蔦屋さんは二人の天才絵師の会話を何時迄も聴いていたのだった。
 俺はこの期に直接ある質問をしてみる積りだった。最初の仕事の時からずっと思っていた疑問だった。まさか直接広重さんと話せる機会が訪れ様とは思わなかった。
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