ユキちゃんとの出会い、僕の奸計、山登り(2/3)

文字数 4,020文字

 話が逸れた。
 で、とにかく僕たちは白馬村に行った。
白馬村、そう、それは霧の村だった、霧、霧、霧。とにかく白馬村には霧が立ち込めていた。森があって、樹がたくさん生えていて、道路のアスファルトは湿っていて、空気はツンと澄んでいて、どこからか川のせせらぎが聞こえてきて、小鳥も鳴く。でもそれら全部を繋げているのが濃い霧で、濃い霧を抜きにしては、この景色はまったく平板なものになるのではないかと思われるほどだ。はじめに霧あれ、と言った。すると霧ができた、というまさにそんな感じだ。僕はその後、二度ほどサッカーの遠征で白馬村に行ったのだが、その時もまた霧がかかっていたものだ。霧がかかっていて、空気が澄んでいて、川のせせらぎが聞こえてくる。それが白馬村なのだ。
 村に着くとすぐ僕たちはペンションに向かった。それは洋風の、大きなペンションだった。白と赤と茶色の色で出来た木造の家。建物の前には、看板が掲げられていた。車寄せは広くて、もう一軒隣にもまたペンションがあった。そのあたり一帯が観光地、という具合なのだ。
 ペンションの内部は広かった。木と煉瓦で出来た、剛健だけど温かみのある家だ。入ってすぐ右手がダイニングになっていて、正面が遊具の置いてある子どものプレイスペースになっていて、そして、プレイスペースの奥が階段になっていて、階段の上に宿泊客の客室があった。細かいところは覚えていないが、大方そんな感じだったと思う。あと暖炉や牧なんかもあった。
 そして僕たちは荷物を客室に置き、夕食をとった。
 どんな夕食だったか?たしかフレンチだ。とは言っても、もちろん母好みの宿で出てくる料理だからぜんぜん気取りのない質素なフレンチだ。ただ質素ではあったが、あるいは、質素だからこそだろうか、どれもうまかった。堅いパンと、温かいスープと、とろとろの鶏肉。そんなものがたくさん出てきた。僕はものすごく食べた。そして旅先の食事はいつもそうであったように、案の定、食べ過ぎて吐きそうになった。
 で、言い忘れていたのだけれど、大型のペンションだったから当然僕ら以外の客もそこにはいる。僕たちが夕食を食べているとき、向かいの席に、もう一組、家族連れが来ていた。僕と同じくらいの歳の女の子がいる、三人家族だ。その子は黒い髪をポニーテイルにしていて、赤いTシャツに、黒いスキニージーンズを履いていた。この子に関しては僕はあまり覚えていないのだけど、とにかくなんとなく闊達で、そしてその手の闊達な子にありがちなように、あまり可愛くはなかったように記憶している。
 だが僕はというと、もうその頃から、女の子というのに目が無かった。僕はもうその頃から、見る女の子、出会う女の子、みんな運命の女の子だと思い込んでしまうという、めでたい癖があった。だから当然僕はそのポニーテイルも運命の子だと思い込み(あんまり好みの容姿ではないにせよ)、なんやかやと話しかけた。まったく、ポニーテイルからしたらいい迷惑である。だがとにかく僕は話しかけた。そうすべきだと強く感じていたからだ。
 で、そこに現れたのが、ユキちゃんなのだ。
 ユキちゃんはプレイスペースの奥の階段の上から、手すりにもたれかかりながら、スーッと降りてきた。そして階段を降り切ると、近くの木の柱に抱き着き、ゆらゆらと体をゆすりながら、積木かパズルかで遊んでいる僕とポニーテイルの方をちらちらと見た。まるで猿が登山客を伺うようにして。
 ユキちゃんはそのペンションの管理人夫婦の一人娘だった。僕は事前に両親に、ペンションには僕と同じくらいの一人娘がいるということを聞いていた。だから女の子がひとり階段の上から前触れなく現れても、そのこと自体にはそんなに驚かなかった。
 だけど、ユキちゃんのそんなあどけない、だけどどこか艶っぽいそんな挙動を、そしてその白くてまっさらなワンピースといじらしいショートカットを目にした瞬間、僕の頭はバチッとなった。僕の照準は完全にポニーテイルからユキちゃんに切り替わった。
 要するに、僕はユキちゃんに一目惚れしたということなのだ。

 何を馬鹿なことをやっているんだオマエは――。
 いやもちろん僕だって、そう思う。たかだか六歳か七歳かの子どもが、なにをいっちょまえに一目惚れなんかしているんだ、と。しかも相手は旅先の宿の娘だ。生意気にもほどがある。だけど考えてもみれば、舞台は長野のペンションだ。そして僕はまだ六歳か七歳かのほんの小童だ。だったらまだ可愛らしいもので、大目に見られるというものではないか。これがもし、舞台が伊豆かどこかの温泉宿で、相手が芸者か何かで、僕がインテリ階級の男子学生だったら、それこそ大事件だった。生意気だとかなんとか言っている場合ではないだろう。そうだったら僕は今ごろ文豪になっていて、ノーベル賞を取っていて、そして練炭で自殺してしまっているに違いない。
 ――冗談はさておき、とにかく先にも述べたように、僕はその頃から少し惚れっぽいところがあった。女の子みんなと恋に落ちることを求めていた。特に、その相手が、特別な立場にある特別な娘ならなおさらだった。なにか複雑な家庭環境にいる女の子だとか、何か病気を持っている女の子だとか、そういう子だ。そしてそんな僕のセンサーに、旅先の宿の女の子というのは、見事に引っかかった。そしてユキちゃんは、そんな僕のロマンスの幻想にまったくふさわしい、謎めいた、可憐な、いじらしい容姿をした女の子であったのだ。
 で、どうなった?
 僕はもちろんアタックした。冷静に、かつ、大胆に。巧妙に、そしてずるがしこく。ただ僕にとってユキちゃんそのものはそれほど重要じゃなかった。大事だったのは、僕とユキちゃんがロマンスを起こすこと、それだった。僕はその目的のためだけに行動した。ポニーテイルをうっちゃって、妹を放ったらかしにして、ユキちゃんになんやかやと喋りかけ続けた。どんなことをどんなふうに喋ったかは覚えていない。ただひとつひとつの会話に、ひとつひとつのやりとりに、とても神経を使った、ということだけは覚えている。
 だが、まあ、当然ながらというべきか残念ながらというべきか、ユキちゃんはそんな下心満載の僕なんかの言葉にはほとんど耳は貸さなかった(ように記憶している)。女の子というのは、そんな子どものころから本当に、大した観察眼を持っているのだ。とにかくユキちゃんは僕を適当にあしらって、ポニーテイルとばかり喋っていた。あるいはそれは僕の思い違いで、本当は僕を警戒してというよりは、ただ男の子と喋るのが苦手でシャイなだけであったというのかもしれない。だがユキちゃんが僕よりポニーテイルを選んだということは事実だった。僕はすぐにそのことに気付いた。そして僕は、まったくそのためだけにポニーテイルを憎み、ポニーテイルに嫉妬した。なんだお前、なんでそんなに可愛くないのにユキちゃんと仲がいいんだ、というふうに。全く馬鹿げた話だ。
 もちろん僕はそれで諦めるようなことはなく(僕は女性に関しては結構執念深い)、あの手この手を使って二人の間に割って入ろうとした。だが二人はまるで結託したように僕を退け(そういうふうに僕に思えた)、二人だけで何やら二人にしか通じない言葉を用い、通じない遊びを始めた(ように僕には見えた)。
 僕はもう嫌になった。そして年上のお姉さん二人に気圧されて、一人で未だにパズルやら積み木やらを触っている可哀想な妹の手をぐいと引っ張り、寝室に引き返した。
 まったく、ユキちゃんは実に賢明な判断をしたというわけだ。

 ところで我が家の白馬村旅行のそもそもの目的は、登山だった。
 そう、翌朝、僕たち一行は、山に登った。それがなんという名前の山なのかは、おおかたの遠い記憶と同様に、残念ながらもう覚えていない。だがとにかく、そこそこ名のある山だったことは確かだ。そこにはきちんとした舗装された登山道があり、実に多くの登山客が来ていた。僕は一旦ユキちゃんのことは忘れ、喜び勇んで山を登った。
 だがいかんせん、その日は天気が悪かった。空は終始雲がかかっていて、実際、歩き始めたころに、早くも雨がぱらぱらと降り始めた。まあ小雨だからそのうち止むかもしれない、そんなことを両親と言い合いながら、僕たちは山を登っていった。
 だがダメだった。山の六合目付近で一休みしていたころ、谷間を越えた向こうの山の上で、雷がごろごろと鳴った。
 これが合図だった。諦めきれずに山を登り続けていた人々が、みな一斉に踵を返して引き返していった。雨はまだ降っていなかった。だが雷雲はもうすぐそこまで来ていて、土砂振りに見舞われるのはもう時間の問題だった。僕の父も、登山の中止を決定した。そして一家にその旨を通達した。だが無知で愚かな僕は当然ごねた。旅のメインイベントがそのような中途半端な形で終わるのが許せなかったのだ。僕たち一家は有名な山を踏破し、山頂では何かはよく分かっていなかったが楽しいイベントをこなし(そういうものがあると親から何か言われていたのだろう)、そして悠々と下山する、そういう心づもりだったのだ。まだ行ける、まだ行けるよ、と僕はごねた。だが僕の要求は当然棄却された。当たり前だ。もう誰も登っていないのだ。父はごねる僕を無理矢理におぶり、母は訳も分からず戸惑う妹をおぶり、僕たち一家は下山の客の流れに混じって急いで山を降りた。ごろごろ、と、空で雷が不機嫌そうに鳴っていた。
「山の上は雷に撃たれやすいんだ」
 と、誰かが言った。
「どうして?」
「空に近いからだよ」
 周囲の人々の会話を聞いて、僕はようやく事の重大さを把握した。そこからあとはもうごねなかった。僕だって雷には撃たれたくなかった。僕は今更何を言うこともできず、ただ口を閉ざしたまま、父の背中におぶさりながら山を降りた。
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