第8話 人間の道は、その人によるのでなく

文字数 4,689文字

 その日の夜、愛心はヤンに借りてもらった宿屋の一室で聖書を読んでいた。もちろん、キリスト教への信仰に目覚めたからではなく、大洪水から生き延びるヒントを見つけられればと思ったからだ。愛心の手元にある元の世界の物は制服服と靴、そしてこの聖書だけ。なぜこの本が一緒について来たのかは分からないが、愛心は使えるものは何でも使うつもりだった。
 ヤンが文句を言っていたように、宿屋の主人は節約家で親指サイズのろうそくしか渡してくれず、夜中に小さな字を読むには不十分だった。幸い、木窓を開けるといくつもの満月が空に輝いており、月明かりで何とか字を読むことができた。月が複数あるというのも悪くはない。

 愛心が読んだのは聖書の創世記第六章から第八章。神は地上の人間を絶やそうと決意し、ノアに箱舟の作り方と全ての生き物のつがいを箱舟に載せるように指示した。そして大洪水が起き、ノアとその家族は箱舟に避難、一年ほど船の上で暮らした後、ようやく地上の水が引いた。そしてノアは地上に戻り、神は『わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない』と洪水を起こさない約束した。

 「やっぱり役にも立たないかあ」

 愛心は聖書を窓際に残したまま、硬いベッドに身を横たえた。ベッドは小さく古びていて、体を動かすごとにギシギシ鳴った。それでも昨日の柔らかい岩のベッドに比べると、幾分かマシだ。何より身体に掛けられる毛布があるのがいい。
 聖書に書かれた内容は、ノアが箱舟を作って洪水から身を守ったということ。寸法は載っているが実際の作り方、どんな設計図で何人くらいがどれくらいの時間をかけて作ったのかは書かれていない。愛心が欲しかった具体的な情報は特になかった。ただ役に立つ情報もあった。まず人間以外の家畜や動物も載せるべきだし、一年とは言わずとも数ヶ月分の食料を積み込んでおいた方がいいだろう。伝説は誇張されがちとはいえ、現代の日本で起きた大津波ですら、直後は何日も食料不足が続いたと聞いた事がある。そして、箱舟だ。大洪水から生き延びるには箱舟を作るしかないと思われた。
 愛心は映画で、現代の世界で大災厄を箱舟を作って逃れるという作品を見たことがあった。あれはSFだが、洪水を箱舟で生き残るという手段は一定の合理性があるのだろう。テレビのバラエティー番組で見たことのある、津波対策のシェルターも小さな箱舟だった。問題は、この見知らぬ世界でどうやって箱舟を作るかだ。

 「明日、ヤンさんに聞いてみよう」

 困ったときは経験のある年長者を頼るに限る。愛心はそう決めると、ちくちくとする毛布を被って目を閉じた。

 翌日、昨晩と同じ食堂で朝食を取りながら、愛心は箱舟の事をヤンに相談した。朝食は麦がゆで、ヤン老人は壺一杯のはちみつをかけて食べていた。愛心も試しにはちみつ麦粥を食べてみたがとても食べれる味ではなかった。仕方なく、愛心は昨日読んだノアの箱舟の話を食事中のヤン老人に熱心に話して聞かせた。

 「……そういうことで大洪水から生き残るには大きな箱舟を作るしかないんです」
 「ふむ」

 ヤンは朝食の麦粥を木のスプーンですくいながら首を傾げる。

 「それは無理じゃろうて」
 「どうしてですか?」
 「そもそも誰が作るんじゃ? あらゆる動物と人を乗せた巨大な舟なんぞ、国中の大工を集めなければできないし、それは莫大な金がかかるぞ? ワシの知っている大きな船は五十人乗りくらいじゃったが、銀貨二十万枚ほどの価格じゃったぞ? その金はあるのかの」

 銀貨一枚を一万円くらいと仮定すると、二十億円。愛心が一人で働いて稼げる額ではなさそうだ。

 「でも、そうしなければ皆死んでしまうんですよ?」
 「アコよ、神の予言は往々にして大げさなものなんじゃ。考えてもみなさい。大地を全て覆うような大洪水など起こるわけがない。ワシは世界のあらゆる地域の歴史書を読んだことがあるが、洪水の被害が世界を覆ったなど聞いたことがないぞ」
 「でも、あの船からお告げが来たんですよね? あれの人たちは宇宙を、黒き海を渡ってきたんです。それだけの技術があれば、神様なら大洪水だって予言できます」
 「ふむ」

 ヤンはゆっくりと麦粥を咀嚼しながら愛心に何と返そうか考えていた。

 「ワシには信じられんが、嘘をついているようには見えんの。それで、神託が真実だとしてアコはどうしたいのじゃ」
 「だから、今から箱舟を作らないと間に合わないんです」
 「どうやって?」
 「それを聞いているんです。ヤンさんは知識神の神官なんですよね?」
 「知識を得るには対価が必要なんじゃが、まあいいじゃろう。そうじゃな、もしワシがおぬしなら、パトロンを探すの。どこかの王様か大金持ちを説得して金を出させるんじゃ。百万人は無理でも、百人くらいなら救えるじゃろうて。ちなみに、その本では何人が命を拾ったのじゃ?」

 愛心はショルダーバッグから聖書を取りだし、該当部分を確認した。

 「ノアと、ノアの奥さん、その三人の子供の家族らしいので、多分十人と少しだと思います」
 「ふむ、たったそれだけか。仮に二十人だとして、二十人分の食料を、ええと何日分じゃ?
 「一年です」
 「ふむ、食料を一年分。全ての動物は無理じゃろうから牛と豚と羊と鶏くらいかの、それを数匹ずつ、さらにそれらの飼料に、洪水が終わった後に蒔く種も必要じゃな。それを載せる船は、さっき話した大型船が……二隻あればいけるかの。銀貨四十万枚、どこぞの王家や大貴族ならだせるじゃろうて」
 「ヤンさんは神託を信じて知識の保存をしているんですよね。なのに洪水は信じないんですか?」
 「昨日も言ったであろう。ワシにとって神託は世界を巡って知識を集める、そのための口実じゃ。洪水が起こるなど誰も信じてはおらんよ」
 「……それじゃあ、私が王様にあって話をしても無駄ですよね?」
 「じゃろうて」
 「ヤンさんが話をしたら?」
 「アコよりは信憑性が上がるじゃろうの。じゃがワシは変わり者で有名じゃからの、酒の席に笑い話を提供するのがせいぜいじゃ」

 ヤンの話していることはもっともな事だ。当然世界が滅びるからみんなで箱舟を作りましょうといったところで誰が信じるのだろうか。愛心だって、そうだ。駅前で世界の終わりを説いていた人を鼻で笑ってた。それと同じだ。
 悩む愛心を見て、ヤンが「ふむ」と首を傾げた。

 「ではこういうのはどうじゃ? 二年ほどワシと世界を回り、その間に良き伴侶を見つけるのじゃ。そしてその夫と一緒に良い船大工を見つけ、アコと愛心の家族のための船を作ればいい。なあに、動物や植物も欲張らなければ人家族分くらい何とか積めるじゃろう。まあ、金持ちの夫を見つけることが条件じゃがの」
 「それができても、他の大勢を見殺しにすることになりますよ?」

 愛心の言葉を聞いたヤンは、スプーンを食器の中に置き、空になった右手をまっすぐ前に突き出した。手はテーブルの上で止まる。何をしているのかと怪訝な顔をするとヤン老人が穏やかに笑った。

 「人の手はな、テーブルを挟んで目の前に座る人間にすら届かんのじゃよ? おぬしの近しい人だけを助けることが悪いことかの?」
 「でも、私は知って知ってしまったんです」

 その言葉が、愛心の胸にすとんと収まった。この見知らぬ異世界で、宇宙船から下された大洪水の神託。その意味を理解できるのは愛心しかいない。なんの目的で愛心がこの世界に飛ばされたのかはわからなかったが、宇宙船が見える夜中にこの世界に来て、次の日には神託を知るヤン老人に出会った。偶然と呼ぶにはあまりにも出来過ぎている。

 「私、箱舟を作ります。それもできるだけたくさんの人を助けられる箱舟を」
 「ふむ、無駄かもしれんぞ? たとえ箱舟を作れても、洪水は起きんかもしれん」
 「その時はその時です」
 「ではどうやって資金と人を集める? どうやってお主の言葉を人々に信じさせる?」

 見知らぬ世界を知る愛心の決意がとても興味深く思えたヤンは楽しそうに聞いた。

 「それは……」

 ノアは人々に呼びかけなかった。いやもしかしたら呼びかけたのかもしれない。洪水が来るからみんなで箱舟を作ろうと。でも誰もそれに応えなかった。だから、ノアは家族だけで箱舟を作り、洪水を生き延びた。でも私はノアとは違う。少なくとも、ノアが何をしたかを知っている。だから、彼よりももっとうまくやれるはずだった。

 「王様に頼んでも、多分無駄なんですよね?」
 「金貨を賭けてもいいの」
 「王様よりも偉くて、お金を持っている人っていませんか? 教皇とか石油王とか」
 「キョーコー? 知らん言葉じゃな。それはだれじゃ」
 「キリスト教で一番偉い人です」
 「ああ、そういう意味であれば知識神様の最高司祭はおるぞ。じゃが、王様より力があるかといえば無いの。一応、各国の王からは敬意は払われておるがの。そういう意味では神々の長たる支配神キャプテン様の最高司祭がこの世界で一番権威があるかもしれんが、まあ知識神よりもちょっぴり偉い程度じゃぞ」
 「キャプテンですか」

 おそらく船長という意味なのだろう。二十四柱の神々があの宇宙船の船員なら、船長が一番偉いというのも納得がいく。

 「ところで、先ほどのキリスト教とはなんぞ?」
 「私のいた世界にあったこの本の宗教です」
 「どんな神様なのじゃ?」
 「うんと、唯一絶対の神様らしいです」
 「それ以外には? 勉学とか豊作とか、どんな御利益があるんじゃ?」
 「わかりません。信じる者は救われるって聞いたことがありますけど」
 「信じると洪水から救ってもらえるのかの?」
 「いえ、洪水ではなく、何か。何かです」

 それ以上は愛心にはわからなかった。愛心にとってキリスト教徒はヨーロッパのどこかで二千年前の十二月二十五日に生まれた男が始めた宗教で(だから今年は二〇十八年だ)、ローマに教皇がいて、アメリカや韓国で流行っている、そんな宗教だ。

 「そのキリスト教なるものを信じているものは大洪水も信じたのかの?」
 「どうでしょう。数百年前は信じていたかもしれませんが、今は多分、」

 多分だれも信じてはいないだろう。何せ二千年前の話だ。アメリカやヨーロッパでも宗教離れが進んでいるとニュースで見たことがある。二十一世紀の科学文明の世界に神様が入り込む余地はほとんどないのだ。だが、この世界なら?

 「……」
 「どうしたのじゃ?」
 「今は信じていないと思います。でも数百年前は信じていたって聞きます」
 「うむ、さきほど聞いたぞ」
 「ヤンさん、人とお金を集める方法、見つけたかもしれません」
 「ほう、どうするのじゃ?」
 「私がこの世界にキリスト教を広めます」

 そういって愛心は聖書を握りしめた。王様も最高司祭も頼れないのなら自分でやればいいのだ。何も神になろうというのではない。聖書に神様の言葉を伝えるくらいなら自分にもできるだろう。そして、もし愛心が箱舟を作っていることを宇宙船の人々が知れば、何らかの接触をしてくるかもしれない。少なくとも、キリスト教の存在しないこの世界で布教する愛心を見て関心を持つはずだった。
 愛心は決心した。この世界を救うため、そして自分自身が救われるため、キリスト教の宣教師になることを。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み