八郎再び

文字数 4,247文字


結局次の日も出勤した。
なんて偉いんだ私は。

本当は映画にでも行って、前から目をつけていたレストランのテラス席でゆっくりランチビールでも…と思っていたけれど、朝から雨が降っていたのでそんな優雅な妄想は消えた。携帯のスヌーズに舌打ちしながら布団の中で丸まってため息をついていると、美和からメールが届来た。

「明日から休みだし、昨日行けなかったダブリン、今日行かない?」

ああそうだった。明日から大型連休に入るんだった。今日はさぼる気満々だったから昨夜は仕事を多めにこなしてきたので、残業もせずに退社出来るはずだ。
榊が出張先でトラブルを起こさなければ、の話だけど。

「昨日はごめんねー。今日はギネスビールとコテージパイは必ず!楽しみ!」

美和に返信した後、寝違えた首をキコキコさせながら起き上がる。布団はたたまずそのままにして、顔を洗いに洗面所へむかった。
以前は2つ並んだ布団は毎回畳んでからどちらかのを上に重ねて部屋の隅に置き、布団カバーをかけていた。そうしないと邪魔だったから。でも今はそこまで邪魔じゃない。2組が1組になると、こんなにスペースに余裕が出るんだなと、彼が出て行ってすぐの頃は悲しくなったっけ。

そんな気持ちを振り払うように伸びをすると、百均で買ったヘアターバンを頭から被り、出し過ぎた洗顔フォームを少し水で流してから泡立て、水をバシャバシャとかける。
万年床でも誰にも迷惑かけるわけじゃなし、ダサいターバン巻いたって誰が見てるわけじゃなし、なんだっていいのよ。

バシャバシャやりながら、少し前の記憶を呼び覚ました。

「水出し過ぎだよ、さわ。ほらほら、水大事にしなよー」
笑いながら蛇口を閉めてくれたのに。
「歯磨き粉がシンクに残ると取りにくいから、ちゃんとティッシュで拭いておいてよ」
これまた笑いながら言ってくれたのに。
かつては仲良く2つ並んでいた歯ブラシも、今は1つだけ、コップの中でなんとか倒れずに耐えている。

こんなに朝から色々思い出すのは、昨日の榊の心ない言葉のせいだ。いつもは思い出さないのに。

もっと細かい事に気づける性格だったら、彼ともっと一緒にいられただろうか。もっと丁寧に暮らしていれば、彼に愛されていただろうか。
昨日の榊の言葉があってからやけに感傷的になっているな。涙は目に入ってしまった洗顔フォームのせいにして、タオルで強めに顔を拭いた。
シリアルとインスタントコーヒーの軽い朝食を終えた後、カーテンレールに洗濯物を干そうと洗濯機から昨日着ていた黄色い小花柄のワンピースを取り出す。
手洗い推奨マークがあるが、洗濯機の手洗いモードを使えばなんとか洗える。
「手洗いなんて面倒だよ」
私は大きな声で独り言を言いながらワンピースを広げた。
そのとき、ポケットに何か入っているのに気がついた。

ありゃ、またやったよ…

ティッシュかな…ハンカチか?ティッシュにしては他の洗濯物に絡んでないな…なんだろ?
恐る恐る取り出してみると、綺麗な緑色の紙が折り畳まれた状態で出てきた。この紙、なんだっけ?

よく会社のメモ用紙をポケットに入れちゃう事はあるけど、こんな綺麗な色の紙あったかな?
取引先から頂いた名刺は流石に折らないだろうし。にしても、今の状態では開けないから…

「ドライヤー!」
私は叫ぶと、洗面台の棚を開けた。

ブォーンという音と共に、温かい風が指先に当たる。やがてゆっくり開いた紙には、暗号のような言葉が残されていた。

喫茶ブッ
千代田区麹
6
ビル4階




「なんのこっちゃ」
独り言にしては大きな声を出した。打ちっぱなしの壁、角部屋だからお隣に響く事は気にしなくて大丈夫。公平が学生時代からやっているベースの練習をするからと、防音には特にこだわって部屋を探した。なのに公平は、この部屋よりもあの子を選んだ。私よりも、あの髪の毛の綺麗な、可愛い子を選んだ。

その時、携帯のアラームが鳴った。
「うわ。もうこんな時間!」


一昨日干したスカートとカットソーをハンガーから外しおざなりに袖を通すと、カーテンを閉め、カバンを引っ掴んで外に出た。

出社時間にギリギリ間に合う急行電車に飛び乗ったときには、座席の前のスペースにまで人がぎっしりと立った状態だった。相変わらず混んでる車内を見渡すと、少し先に見覚えのある赤茶色の髪の毛とギターケースを見つけた。私は少しの気まずさを感じながら下を向き、ドアのすぐ横に立った。

スマホでSNSをチェックしているうちに、次の駅についた。ドアが開き、また沢山の人が流れ込んでくる。私はイヤホンをつけると携帯をカバンにしまい、目を閉じた。

しばらくして、腰のあたりに違和感を覚えた。何かがぶつかるような、変な感じ。
(混んでいるもんね。傘もあるし仕方ない)
と自分に言い聞かせながらも、嫌な予感がして腰に手を回す。と、その黒い予感が当たった。明らかにわざと、その手は私の腰をさすっている。
(ちょっと)
声に出したと思ったが、どうやら周囲には聞こえていないようだ。慌てて周りをみると、皆、私と同様にイヤホンを付け、携帯の画面に見入っている。
後ろを振り返ってみるが、真後ろはセーラー服の女子高生で、スマホに何か一生懸命に入力している。どこから伸びているのか分からないその手を探しているうちに、そのいやらしい手は腰から下へと降りてきた。
「ちょっと!」
慌てて払い除けようにも、急行電車の混雑は手を動かす余裕などないほどだった。
まずいな…次の駅は反対のドアが開くし、もっと人が乗ってくる。どうしよう…
いやらしい手は私が騒がないのをいいことに、大胆にもスカートの下を触ってきた。
雨の蒸した空気と、手の生ぬるい感覚に、気持ち悪さが限界に達した。
もう嫌だ。
下を向いて涙を堪えた。
その時だった。

「おいお前、何やってんだよ!!」
聞き覚えのある声がすぐ後ろで響いた。驚いて顔を上げると、そこに赤茶色の髪の毛と黄色のギターケースがあった。
「次の駅で降りてもらうから。俺、許さないから」
その声の力強さに安心して、涙が頬をつたった。
「いやいや、俺がやったって証拠ないだろ。何言ってんだお前!」
赤茶色の髪の人は、スーツを着て慌てる男性の手からスマホを取ると、顔に近づけた。顔認証で開いた画面にあったのは、私のスカートのアップの写真だった。
「ちょっと見ますよ」
続けて出てきたのは、すぐ後ろにいた女子高生の制服のスカート。彼女のものはその後に下着が写っている。
「こんなに証拠があるのに、まだなにもしてないっていうのかよお前!」
赤茶色のこの言葉に、女子高生は下を向いて泣き出した。
「何かしてるなとは思って友だちにメールしてて…すごい怖かった…」
そばにいた女性が、声をあげて泣き出したその子の肩に手をかけて
「大丈夫だよ。もう大丈夫」と、背中をさすった。

「うわ、最低だな」
「完璧にチカンじゃん」
「おっさんキモッ」
車内のあちこちから声があがる。車内全体の視線がサラリーマン風の男を睨んでくれているように感じた。そいつはもう言い逃れ出来ないと諦めたのだろう。がっくりと頭を垂れた。

次の駅に電車が停まると、私は女子高生の手をとり、赤茶色の髪の黄色いギターケースに連行されるサラリーマン風の男の後に続いて駅員さんの所に向かった。



「ありがとうございました」
駅の事務室から出ると、女子高生の友だち数名が待っていた。きっと先程のメールを送っていた相手だ。
「楓、大丈夫?」
知ってる顔を見て安心したのか、不安そうだった彼女の顔に笑顔が戻った。
「本当にありがとうございました」
女子高生は赤茶色の髪の毛の人に何度も頭を下げて、友だちに手を引かれて改札を抜けて行った。
「私も。助けてくれて本当にありがとうございました」
小さく息をはいて照れくさそうに髪をかき上げた赤茶色に向かって、私は頭を下げた。そして自分でも信じられないほどの大胆さで、私は思わず彼の左手に両手をそえた。久しぶりに男の人の目を見つめて、私は心を込めて言った。
「私、あの時怖くて、気持ち悪くて。あなたが助けてくれなければ、あの場で吐いていたかもしれない。そのくらい嫌だった。きっとあの女子高生も一緒。そんな所からあなたは助けてくれた。本当に感謝します。ありがとうございましたっ!」
ここまで一気に言って、私は顔を下げた。
手は触れたままだった。
顔を上げると、赤茶色の髪の毛と区別がつかないくらい真っ赤な顔をした彼がいた。
「あいつ、俺の横に立ってたんだ。最初は。でも、あの女子高生と君が乗ってきてから、ちょっとずつ移動してて。おかしいなと思いながら俺も移動して。そしたらやっぱりだった。気づけて良かったです。本当に」
彼は赤い顔のまま言った。
「おれ、木本八郎と言います。今度また、あの店ででもお会いしましょう」
「あの店って…」
そういう私に答えようとした木本さんは繋いだままだった手にようやく気づくと、今度は耳まで赤くなってしまった頭を下げ、
「じゃ!」
と言うと、走って改札を出ていってしまった。
私はその後ろ姿を目で追いながら、木本さんの左手を思い出していた。
今日は指輪してなかったな…忘れたのかな…。
そう思っていたところに、メールの着信音が鳴った。美和からだった。
「おーい、さわ、どうした?具合でもわるい?」
いけない!始業時間とっくに過ぎてる!
私は慌てて、職場に電話をかけた。




「えのもっちゃん、大変だったね…」
「榎本さん、大丈夫でしたか?」
会社に着いたのは10時頃だった。あまり接点のない営業マンや、普段は部屋から出てこない部長までもが心配して優しく声をかけてくれる。
「同じ車両に乗ってた人が助けてくれたんで、大丈夫です。ご心配をおかけしました」
「今日はなるべく早く帰って、ゆっくりしなさい」
部長のその言葉に、残業の二文字が吹っ飛んだ。
何通かのメールのやり取りをして、面倒な榊との電話をサンドイッチを食べながら乗り越え、いくつかのミーティングを片付けると、ようやく終業を知らせるチャイムが鳴った。
「さわ、大変だったね!」
待ってましたと言わんばかりのスピードで、美和が駆け寄って来てくれた。
「本当、朝から最悪だったわ。スカートなんか履くもんじゃないね!でもさ、助けてくれた人いてさ。日本もすてたもんじゃないわ。感謝だわ!」
「さわ、夕飯のダブリンも大丈夫?私奢る!」
「当たり前!行く行く!美和、ありがとうー!」
ダブリンのコテージパイとギネスビールと美和とのくだらないお喋りのおかげで、今朝の嫌な出来事が少し薄まった気がした。


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