序曲《ウーヴァーテューレ》

文字数 1,165文字

「ジーザスが死んだのは誰かの罪のせい でも私のじゃない」
パティ・スミス

 ベルリンの空は黒く、街の空気は淀んでいる。
 それは神が天地を分かつ以前のように、今日も混沌としていた。
 針の山のように空へ突き出されたドレッセル社の解析機関(アナライティッシュ・マシーネン)の煙突は、もうもうと黒い煙を絶え間なく吐き出していた。日中であるにも関わらず空は濃く、日差しは厚く遮られている。その煙突を分け入るように巨大な、黒い建造物が、暗い天空を穿つかのように幾つもそそり立っている。鋼鉄の骨格を持つその建物は、装飾の入った巨大な支柱を何本も突き出し、異様な風体で眼下を威圧していた。
 ゴシック建築をさらに歪にしたようなその外観は、見る者の遠い記憶の最中にある先祖への郷愁と、漠然とした闇への不安を感じさせた。それはベルリンの街中で縦に積み上げられた、人口の黒い森だった。
 
 街の一角、ぽつりと灯るガス灯の下で少女が一人、空を見上げている。長い亜麻色の髪を両側で束ね、白い襟を覗かせる真紅のドレスを着た美しい少女である。涼やかな碧眼は淀んだ空を穿つようにそびえ立つ摩天楼(ヴォルケンクラッツァー)を感嘆とした様子で見つめている。
「ソドムとゴモラ……いえ、バビロンかしら。だとしたら、あの下で生きるドイツ臣民はみんな俘囚って訳ね」
 クスクスと小鳥のように笑いながら少女はつぶやいた。
「いい時代になったものね。文明の爛熟、頽廃と享楽を貪る文化、また神が怒りに身を任せて人を滅ぼす日が近いのかしら」
「人を滅ぼすのはあくまで人よ、お姉さま」
 路地の奥の暗がりから、別の少女の声がする。
「……また食べ散らかしたのね? アリーセ」
 路地の奥から錆びた鉄の匂いと、生々しい有機臭が交じり合った嫌な空気が、おびただしく漏れ溢れている。
「だって、退屈な男なんだもの」
「やるなら目立たないようにやりなさい。せめて日が暮れてから」
「……本当、いい時代ね。私達がこんな時刻、本来なら陽の光が差すような時間に外を出歩けるんだから」 
「話をそらさないで、アリーセ。私、貴方の尻拭いはしないわよ?」
 金髪の少女は路地へ向かってそう言ったが、語気からは怒りのようなものは感じられない。しかし路地の奥にいるらしきアリーセと呼ばれる少女の返事には、わずかな動揺が感じ取られた。
「ごめんさない……。気をつけるわ」
「行きましょう。ロッテとヒムラーが待ってる」
「はい」
 赤いドレスの少女は路地へ向かうと、闇の中へ吸い込まれるように、その場を去っていった。
 日中の大都会であるにも関わらず人通りは少なく、たまに通り掛かる人間も皆目を伏せている。奇妙な少女達とその会話に気付いた者はなく、ただ静寂だけがそこであった不穏な何かを物語っていた。
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