大宮寿能城

文字数 3,142文字

2021/03/09 04:18
 室町時代には、鎌倉府関東管領かんれいを務める上杉氏が、関東地方を統治していましたが、室町末期の戦国時代に突入すると、上杉氏は山内(やまのうち)扇谷(おうぎがやつ)などに分裂し、抗争を繰り広げる事態になります。北武蔵・上州・越後を占領した山内上杉軍には、若き日の上杉謙信も所属しています。これに対し、南武蔵・相模を実効支配する扇谷上杉軍には、太田神社の由来とも伝わる太田氏が参陣しました。武蔵で睨み合っていた両軍は、遂に御沼の地でも衝突する事となり、1529(享禄二)年頃に北区吉野町で、関東管領の山内 上杉 憲房(のりふさ)岩付城太田 大和守やまとのかみ 資高(すけたか)が戦い、太田軍が勝利したそうです(吉野原合戦)。その際、戦場となった御沼に関して「時雨しぐれが降り続いて湖水が増水し、白波が岸を洗うようにみなぎり、底の深さが分からないほどだった」と記録されており、当時の御沼湿地は、降水量に応じて面積が増減する「流水沼」だったと思われます。
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 その後、相模小田原城後北条氏が台頭し、扇谷上杉氏は河越城で敗死しますが、上杉謙信が山内家の関東管領を継承し、北条氏との戦闘を継続します。そして1560(永禄三)年、岩付城太田 源五郎(げんごろう) 資正(すけまさ)は、上杉軍の関東出兵に乗じて御沼へと進撃し、一宮氷川神社の北東を制圧して、ここ大宮に寿能じゅのうという砦(平山城)を建築し、後継者の潮田うしおだ 出羽守でわのかみ 資忠(すけただ)を城主に任命しました。
2021/03/09 03:34
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 かくして御沼の地に、大宮の軍事拠点である、戦国武将の城砦(じょうさい)が誕生したのです。寿能城は、現在の寿能公園に当たる「本丸」を中心とし、今は中学校舎が建っている「大手」と、大宮第二公園に進出した「出丸」で構成されています。そして、南西の隣には一宮氷川神社があります。武蔵一宮である氷川神社には、御沼を支配する権力に対して、権威を授ける中心的役割があったと思われます。と、言う事は…。
2021/03/09 03:36

「一宮氷川神社の隣に築かれた寿能城は、宗教的権威としての『(やしろ)』と、政治的権力としての『城』を並立させた、祭政一致の『御沼王国』を現出し得たのかも知れないわね。そんな景観が御沼に存在したのは、恐らく寿能城が最初で最後よ」

2021/03/09 03:36
 残念ながら、一宮氷川神社の御加護は長く続きませんでした。1564(永禄七)年、太田氏が小田原北条氏に降伏したので、寿能城も上杉派から北条軍に転属しました。しかし桃山時代、北条氏は豊臣秀吉と対立し、遂に1590(天正十八)年、豊臣軍の関東出兵(小田原征伐)が動員されます。武州埼玉には、豊臣政権の五奉行に数えられる浅野長政や、徳川軍の本多忠勝らが侵攻し、太田氏房うじふさの岩付城を陥落させ、寿能城も焼失しました。
2021/03/09 03:38

「本多忠勝って、戦国ゲームでもチート級の最強キャラだし、さすがの太田軍でも、あいつには勝てねえよなあ…」

2021/03/09 03:39
 広さに余裕がある寿能城は、大宮住民の避難所でもあったのですが、武士団は決戦の末に壊滅し、非戦闘員である多くの子女も、その身を御沼に投げて入水自決した…と言われています。この悲劇を以て、寿能城は30年の歴史に幕を閉じ、戦国時代も終局へと向かいます。しかし後に、あの戦いで亡くなった人々が、龍神の慈悲でに転生し、今も御沼を舞っている…と云う伝承が語られるようになり、ある夏の晩にそれを知った少女は、村民と共に犠牲者を供養したと言われます。御沼の龍神様も、乱世の終焉を御覧になっていたんですね…そして、数少ない生存者である遺臣は、潮田家の慰霊祭を執り行いながら、大宮集落の発展を支えました。
2021/03/09 03:42
2021/03/09 03:43
 寿能城はその後、太平洋戦争で高射砲陣地に改造され、再び軍事機能を担いました。そして、現代…かつて寿能城の大手門であった場所は、中学校の正門に生まれ変わり、平和な時代の若人達を、龍神様と共に見守っています。本丸跡地の寿能公園では、多くの家族・友達が幸せそうな時間を過ごしていますが、少し奥の一角には、潮田氏の墓碑が安置され、今でも献花を供えられています。戦争で犠牲になられた方々の生命を、決して忘れない…!それこそが、寿能の地に刻まれ続ける想いです。
2021/03/09 03:44

普遍(あまね)く全ての一切衆生に、祝福あれ…」

2021/03/09 03:45
 因みに後北条氏は、多摩丘陵にも八王子城を築きましたが、前田・上杉軍に攻め落とされています。豊臣政権は、天下統一を成し遂げても「武力や謀略で戦闘に勝利し、領土を拡大する」と云う戦国武士道を変える事ができず、国内の敵を殲滅すると、今度は海外に敵国を見出し、遂に朝鮮・明国との戦争を引き起こします。しかし…寿能城を滅ぼした豊臣家も、諸行無常に滅亡し、御沼は江戸時代を迎えます。ようやく、泰平の世が訪れました。豊臣政権と異なり、江戸幕府は武士を軍人から官僚へと「転職」させる事に成功し、武士道も儒教と結び付き、実戦での勝利には手段を問わない武術よりも、礼を重んずる道徳に落ち着きました。これが武道であり、明治時代内村鑑三新渡戸稲造が、キリスト教と両立し得る倫理としての『武士道』を著したのも、こうした文脈で理解する必要があります。江戸時代の御沼は「三沼」と表記され、元来は三つの湖沼に分かれていたとの説もあります。江戸幕府は、浦和・大宮を紀州和歌山藩鷹場に指定し、大宮台地は旗本(将軍直属家臣)の領地とし、どちらも無断の開発を厳しく禁じたので、この政策が結果的に、三沼の自然保護に貢献しました。
2021/03/09 03:55
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火山爆発とアトランティス伝説

―見沼代用水とフランス革命は「天明の浅間山噴火」で結ばれていた―


 古代ギリシャ、アテネ都市国家の倫理学者プラトンは、その著書『対話篇』において、かつて大西洋に存在したと云う「アトランティス」島の文明に言及している。アトランティス伝説との関連を指摘されるのが、エーゲ海のサントリニ島である。当時、地中海ではエーゲ文明クレタ王国が繁栄していたが、紀元前1628年にサントリニ島が大噴火し、津波・気候変動・食糧不足という壊滅的被災を受けた。クレタ人の精神も退廃し、吸血鬼など邪教が流行する中で、前1470年、再びサントリニ噴火が襲い掛かり、遂にクレタ文明は滅亡した。


 一方、エジプト新王国では、こうした火山灰が太陽光を遮断し、寒冷と不作に悩まされていた。そこで、アメンホテプ四世イクナートン国王(ツタンカーメン国王の父君)は、唯一の太陽神を信仰し、その復活を祈るアトン教を創始した。この一神教に影響されたのが、当時エジプトに服属していた、預言者モーセを始めとするヘブライ人(ユダヤ人の祖先)であり、彼らは「我々も天主の御心と、約束の地イスラエルを取り戻そう!」と決意し、紀元前13世紀に『出エジプト記』の戦いが始まった。その途上、噴火や地震が発生し、大津波で紅海の水が動き、これに乗じてヘブライ人は、エジプト軍の追撃を振り切って脱出できたので、モーセの奇跡として謡われる事になった。


 そして1783(天明三)年、我が国で天明の浅間山噴火が発生し、その火山灰は、見沼代用水の機能を破損し、更に全国的な天明飢饉を引き起こして、遂には幕府老中の田沼意次を失脚させた。同年にはアイスランドも噴火しており、浅間山とアイスランドの火山灰は、ヨーロッパを中心に世界的な食糧不足を引き起こした。追い詰められた市民達は、豪華なベルサイユ宮殿の王制政治を憎み、遂にフランス革命が勃発した…このように自然環境変動の観点から、神話と歴史、文明の興亡を読み解く仮説が研究されている。


火山噴火と小天体の類似性」要約・加筆

2021/03/09 04:11
 日本スペースガード協会(2013)の仮説を、作者が要約・加筆した。
2021/03/09 04:12
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登場人物紹介

【神霊矢口】とさみや じゅのうじょうだい アキラ

十三宮 寿能城代 顯

関東州 東京府 東京市 蒲田区


蠍座♏11月1日トパーズ

・一人称「私」

・二人称「あなた様

・地位 中級生?

・専攻 地理学(共生科学士)

・属性 

・武技 レーザー剣・自動小銃

・愛機 ステルス攻撃機ナイトホーク(誘導爆弾)


 十三宮聖の義弟、また星川初の養子。本名は「富田巌千代」で、宗教信仰者としての法号(生前戒名)が「アキラ」。東京の大森・蒲田で生まれ育ち、地理学などの探究に基づき文芸作品を創る「地球学(地理学文芸)作家」を称す。同人サークル「スライダーの会」を結成した会長であり、一心同体の校長(マネージャー)である春原あきらと共にサークルを運営。


「天主と神仏に感謝を、あなた様に幸福を…合掌」

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