第一章・第一話 間隙《かんげき》
文字数 8,834文字
熱を帯びた声が、
肌を這う掌が、指先が、唇が、
互いに愛を囁き合って、温もりを共有している
もう何も考えたくない。いっそ、抱き合った身体が溶けて一つになってしまえばいい。そうしたら、二度と離れずに済む。
――離れたくない。放さないで。
そう、何度か家茂に訴えた気がするが、記憶は曖昧だ。
その
――放さねぇよ。何があっても、絶対に。
白く溶けた意識が
***
幾度か互いに果てたあと、意識を手放した和宮から、家茂はようやく身体を離した。
何度抱いても、この瞬間は名残惜しいような気がしてしまう。今夜は、それが格別だった。
目を閉じた和宮の頬に優しく手を添え、
今、
行為のあとの気怠さに、家茂は
白い頬に影を落とす長い
――攘夷推進に関し、即時ご返答、またはご説明がなき場合、
だが、その一言は、公知、及び三条
夕刻になって、最初に彼女を半ば強引に抱いたのは、彼女が思うより取り乱して見えた所為もあった。こんなに取り乱した彼女を見るのは、初めてだったような気がする。
家茂が
家茂自身、公知の言葉を聞いた時、不覚にも狼狽しなかったと言えば嘘になる。ただ、最初の婚約を破壊され、周囲の人間の命をすべて
とにかく、早急にその言葉の真偽を確かめなくてはならない。
――嫌よ、二度と嫌。あんたと別れるくらいなら死ぬ!
和宮が、『死ぬ』などという、深刻な言葉を使ったのも、初めて聞いた。
無理もない。もし、本当に離縁ということになれば、周囲の都合で、想う相手と別れさせられるという体験を、二度もする羽目になるのだ。
そっと溜息を
(……まあ、そうなったら、それは俺も同じなんだけど)
もっとも、家茂としては、それを現実にするつもりは微塵もない。そうならない為に、実権を奪いに行くと決めた矢先、こんなこと――いざとなれば、将軍の座なんて慶喜にでもくれてやるという事態――になるのも皮肉なことだが、愛する女を二度も奪われるような、間抜けな状況には、死んでも陥るわけにはいかない。
いつの間にか脱ぎ捨てていた着衣を拾って身に着ける。改めて床へ膝を突くと、身を屈めて和宮の唇に柔らかく口付けた。
それから、隣の
家茂は引き返して和宮を抱き上げると、
少し迷った末、そのまま、彼女の身体に布団などは掛けずに、
「……桃の井。その辺にいるんだろ」
低く呼ぶと、程なく衣擦れの音と共に、妻に忠実な侍女が姿を現し、無言で廊下に
小さく息を
「悪いけど、あいつの身支度、してやってくれるか」
汗だくのまま布団を掛けると、多分風邪を引いてしまうだろう。その辺に、汗を吸うような適当な布もない。
だが、主人夫婦の
「心得ております」
短く答えた桃の井は、珍しく嫌みを言わず、ぼやきもしなかった。
一人で準備したのか、
「俺も身仕舞いしてくる。その
「もちろんです」
「悪いな。すぐ戻るから」
苦笑と共に肩先を竦め、彼女とすれ違う。
「上様」
「ん?」
「もしよろしければ、お湯殿においでくださいませ。川村殿がお待ちです」
その言葉から、どうやら桃の井が手を借りた相手は
「分かった。ありがと」
また一つ肩先を上下させ、きびすを返そうとするが、再度、桃の井が「上様」と呼び止めた。
「何だよ」
「恐れながら此度の件、上様には何か、解決の為の策がおありでしょうか」
「どの件の話か、心当たり多過ぎんだけど」
「偽装出火事件以降、すべての件です」
いつしかこちらへ顔を向けていた桃の井の顔は、硬く曇っている。
考えてみれば、彼女は和宮にとっての最側近だ。桃の井に言わせると、二人は姉妹同然の仲らしいから、和宮の精神状態が今、不安定になっているのを、桃の井が知らないはずもない。
彼女にとっては、偽装出火よりも心配なのは、帝がこの結婚をなかったことにすると言い出したことによって、和宮が傷付いていることなのだろう。
「偽装出火事件に付いちゃ、あんたの調査の進捗次第だな。どうだ?」
問い返すと、桃の井は自分から話題を振ったくせに、「詳細は、のちほどということで宜しいでしょうか」と言った。
和宮の身支度を早くしたいと、気が
「……分かったよ。またあとでな」
***
うっすらと意識が浮上する。だが、まだ目覚めたくない。夢の甘い余韻に
意識が徐々にはっきりしても、和宮はしばらく目を開けずに身を縮めていた。けれど、夢の続きのように、布団の中には自分以外の温もりがあるのに気付く。
そっと目を開けると、白い
視線を上げると、家茂の整った美貌がある。閉じられた瞼から伸びた睫毛が、滑らかな頬に影を落としていた。
しばらくは何も考えられずに、彼の胸元にそっと額を押し付けていた。が、次第に昨夜の醜態も思い出されて来て、和宮は何とも言えない気分になる。
可能なら、今すぐに彼の記憶から弱音を吐きまくっていた自分を消し去りたい。それが無理なら、ひとまずこの場から逃げ出したいが、後者を実行すれば、まず間違いなく彼を起こすだろう。
起きた彼から逃げるのも難しいし、第一昨日、散々彼に
一人悶々としていると、不意に身体に彼の腕が巻き付くように抱き締められる。
「……
「え」
出し抜けに、耳元で囁かれた。寝言だろうか。少し腕に力を入れて、彼の顔を確かめると、最近切れ上がって来た目元に縁取られた漆黒の瞳は、和宮をしっかりと見つめていた。
「えっ……えぇえっと」
「……おはよ」
「おっ……おはようゴザイマス」
平板に返しながら、和宮は家茂から慌てて視線を逸らす。とてもではないが、彼と目を合わせていられない。
しかし、彼はそれを許してくれなかった。
「こーら」
彼の細くて長い指先が、和宮の顎先を捕らえ、顔を上げさせる。
「何、目ぇ逸らしてんだよ」
「だっ、だって……」
顔を固定されていては、目を伏せるしか彼の目を見ない方法がない。
「昨日はあんなに積極的だったのに」
からかうような笑い混じりに言われて、頬に熱が昇る。
「いっ、言わないでよ」
「何で」
「もう忘れて、あんなみっともない……」
「何が」
もう一度抱き締められ、耳元へ落ちた声音からは、先ほどのからかうような色は消えていた。
「想う相手と離れたくないって思うのは、当たり前じゃねぇの?」
「それは……そうだけど」
「お前を放さないって言った俺は、みっともないのか?」
「違っ……そんなことない!」
反射で叫んでしまって、慌てて口を押さえる。今、
「そんなこと……あたしだってあんたを放したくないのに」
「じゃ、俺もお前をみっともないとは思わない」
自然、顔を上げてできていた距離を詰めるように、家茂が再度、和宮を抱き寄せた。彼は和宮の肩先を愛おしげに抱いて、こめかみにそっと口付けを落とす。
「……攘夷の推進しないことで離縁されそうになるようなら、考えるよ。お前も手放さないで、民を巻き込まないように」
「家茂……」
「訊きたいんだけど、主上はそんなに話の分からない
「……そんなこと、ないと思うけど……」
和宮は、家茂を抱き返すように、彼の腰に腕を回しながら言葉を継いだ。
「前にも言ったけど、あたし、
「ああ、聞いてる」
「初めて
「
「うん。結婚前に、内親王の位を授かるんで参内したのが、あたしの認識としてお兄様の顔をはっきり見た、最初で最後。考えてみればお兄様の人となりって、実はあたし知らないって言ったほうが正しいかも」
説明する内に、何となく納得してしまった。だから、兄帝は最終的に、和宮の降嫁を承諾したのだ。道具として、政略の駒として差し出すことに、『帝』として了承し、『兄』としては『妹』のことを考えてはくれなかったのだ。
政治という大きな『力』の前に、家族の情や恋慕のそれは、何と
そう思うとまた不安になって、家茂の胸に頬をすり寄せる。彼は、和宮の
「……大丈夫だよ。何とかなる」
「……本当に?」
「とにかく、端から片付けてくしかない。主上が本当に、俺らの結婚をなかったことにするって言ってるのかも、確かめないと」
「どうする気?」
和宮は、家茂の腕の中から、彼の顔を見上げる。目が合うと、彼は微苦笑した。
「まずは、偽装出火事件からだな。遅くても
「何で
和宮は、素朴な疑問を発しただけだった。
だが、先程までと違い、家茂の反応には若干の遅れがあった。けれど、彼は和宮に表情を確認させまいとするかのように、和宮を抱き寄せ、後頭部を押さえ込むように抱える。
「……あれから
「……家茂」
返答に取り繕うような意図を感じ、問い
「お前は今日一日寝てろ。またあとで来るから」
和宮の唇に、軽く自分のそれを落とした家茂は、それ以上和宮に何か言う隙を与えず、布団を滑り出て行った。
***
切形之間の障子を閉じて、家茂はホッと息を
(……
つい、漏らしてしまうところだった。
実は、勅使に返信を持たせて、彼らが江戸を発つまでの
和宮にはまだ言っていないが、家茂が江戸を発って都へ向かう日取りも、勅使には伝えてある。帝への、
家茂は、背にした障子の向こうへ横たわる和宮を、障子を通して見るように、チラリと背後へ目を向けた。
(……まだ、言えねぇよなぁ……)
もちろん、いつかは告げなくてはならない。少なくとも出発前、しかも日にちに余裕を持って伝えないと、余計不安定になり兼ねない。
しかし、今はまだ時期尚早だ。
つい今し方は少し落ち着いていたようだが、『長く傍を離れなくてはならないかも知れない』なんて告げた日には、涙が涸れても泣き続けるに決まっている。そんな場面を目の前で見るのは、家茂のほうが耐えられない。
(……とにかく……
細く長い指先が、無造作に前髪を掻き上げる。
家茂の脳裏には、つい先日まで後見職にいたあの男――慶喜が浮かんでいた。
彼は、去る十一月一日〔一八六二年十二月二十一日〕付けで、将軍後見職から
それを阻む正当な理由もない為、同行を許可するならするで、偽装出火事件の容疑について、何らかの処分は下しておきたい。
あれだけの騒ぎを起こしておいて、何の処罰もせずに同行を許すのは、相手が握った抜き身の刀の切っ先を、背筋に突き付けられながら旅をすることに等しい。いつ相手が力を入れ、自分の背中から胸に掛けて刃が貫き通るか分からない旅路など、
それに今時、仮に彼が刀をきちんと鞘へ納めていたとしても、道中の危険は彼だけではない。
(……あいつに刀持たせとくだけでも、危険っちゃあ危険なんだけど……)
はあ、と溜息を
少進のほうは、小さく会釈して桃の井を追い越すと、家茂の背後にある障子に手を掛ける。家茂は、少進が和宮に声を掛けるより早く、その場を立ち去った。
少進が「宮様」と室内に呼び掛ける声を背に聞きながら、急いで通路の角を曲がる。背後に、桃の井が無言でついて来ているのは分かっていた。
切形之間から死角になってから、家茂はやっと足を止め、背後を振り返る。家茂から
「……桃の井」
「はい、上様」
「支度はできてるよな」
「はい。いつでも出られます」
「
「承知しております」
***
その日の四つ
家茂と崇哉、桃の井は連れ立って、全力で警戒しながら大奥を出た。
偽装出火事件で使われたと思しき抜け道は、あのあとすぐ塞いだので、別の抜け道を使った。
あれから
証拠が
そんな中の昨夜、桃の井が一冊の本を差し出した。
――何だこれ。
――ご覧の通り、書物でございます。貸本屋から借り受けました。
――
若干苛立って問うと、桃の井は悪びれることなく言葉を継ぐ。
――あの偽装出火の日の数日前に、宮様の為にお借りした書物です。あとで宮様にもお
――紙片? 栞かなんかじゃねぇのか。
暗に、その紙片の現物を見せろと言ってみたが、桃の井は硬い表情で首を振った。
――申し訳ございません。現物はあの騒ぎの中、紛失してしまいました。当時はさほど重要と思っておらず、わたくしも動転しておりましたもので……落ち着いてから捜してみましたが、見当たりませんでした。恐らく、宮様のお部屋に来た
――その紙片が書物に挟まれてたってことは、貸本屋と関わりがあるってことか?
――恐らく。この書物は連作もので、宮様も続きを待っておいででした。たまたま、あの日亡くなった火之番の一人が返却するのを見ておりましたもので、そのまま貸してもらえるよう、貸本屋に頼んだのです。最初は渋られたのですが、あとの予約が入っているのでなければ貸していただけるだろうと言うと、最終的には貸してくださいました。その渋った態度に引っ掛かるものはあったのですが、その時は大して気には留めておりませんでした。
だが、貸本屋に限らないが、元来、外部の業者が出入りできる七ツ口へ、奥女中の中で行くことを許されているのは、外部の者との取り次ぎの役職である
加えてそのあと、あの日付の書いた紙が書物の中から見つかり、続けて偽装出火事件があり、更には熾仁と慶喜が侵入して和宮が誘拐され掛けた。そして、紙片は行方不明、となれば、貸本屋が関わっていないとは考えられない。
昨夜の内に一度中奥へ取って返した家茂は、崇哉に『できるだけ早く』と条件を付け、桃の井の持っていた書物について調べさせた。
崇哉の調査が完了せずとも、今日は外で出向いて調べるつもりだったが、崇哉は家茂が朝食を済ませる頃にはもう、調べを終えて来た。
そして今、抜け道から大奥を出た三人は、崇哉の調べで判明した書物屋へ向かっている。桃の井が持っている貸本を扱っている貸本業者が、提携している書物屋だ。
家茂も今回のことがあって初めて知ったが、そもそも貸本屋は、行商が商売の基本らしく、店を構えている業者は少ないと言う。商品は、結局は書物屋から仕入れなくてはならないので、書物屋と提携している業者が大半のようだ。
その中で、大奥御用達をしている貸本業者は、江戸市中では限られる。
とにかく、まずは貸本業者の住所と名前を訊かねばならない。
目的の書物屋は、店名を『
「……すみません」
昼前、店の前で掃除をしていた女性に、桃の井が余所行きの声を掛けた。
「あの、こちら桐詠堂さんですよね」
「はい」
女性は、明らかに営業用の笑顔で応対した。年の頃は、二十代の半ばだろうか。いや、もう
桃の井が、もう一度頭を下げ、改めて口を開いた。
「恐れ入ります。わたくし、先日こちらと提携されている貸本屋さんから本を借りていたんですが、ゴタゴタしていてうっかり返すのを忘れていて……貸本屋さんの連絡先が分かればと思って、お訪ねしたのです」
普段、やや低めの声で、淡々と言葉を紡ぐ彼女からは、考えられない声音と話し方だ。
他方、店員らしき女性のほうは、もちろんそんなことは知りもしない。如才なく、
「そうでしたか。では、お持ちの本、ちょっと見せていただいてよろしいかしら」
本の題や内容から、誰が貸し出した本かを確認する為だろう。桃の井もそう思ったのか、「お願いします」と言いつつ、本を差し出した。
女性は、桃の井から本を受け取ると、題を確認し、パラパラと頁をめくった。
「……まあ、わざわざ
本から顔を上げると、女性がすまなそうな表情で頭を下げる。彼女の言葉に、家茂はどこか引っ掛かるものを感じた。
が、何に引っ掛かったのか、自分でもよく分からない。一体、何の違和感だろう。
相対している桃の井は、スッと女性に上体だけを近付け、声を
「……あの、すみません。わたくしが、その……
桃の井の言う『お城』が、江戸城だということは伝わったらしい。女性は、あっさりと頷き、同じように潜めた声で答えた。
「ええ。貸本業界の
「……ちなみに、その
桃の井が、間合いを伺うように踏み込むと、女性はハッと我に返った表情になった。
「……さあ、どうでしたでしょう。とにかく、七ツ口まで行っても、お客様に取り次いでもらえない時があったらしいと、風の噂で聞いただけです」
取り繕うような笑顔で、早口に言った女性は、急に左右へ目を泳がせた。
「本当に、ご足労様でした。こちらは、あたしのほうから貸本屋さんにお返ししておきます。先に言った通りですので、延滞のお代は結構ですよ」
あくまで普通を心掛けたと思える仕草で女性は頭を下げると、さっさときびすを返して店の奥へ消えた。
©️神蔵 眞吹2024.