第一章・第一話 間隙《かんげき》

文字数 8,834文字

「――(ちか)

 熱を帯びた声が、耳朶(じだ)をくすぐる。
 肌を這う掌が、指先が、唇が、和宮(かずのみや)の身体を溶かしていく。熱い吐息と、甘い悲鳴を漏らしながら、和宮は家茂(いえもち)にしがみついた。
 互いに愛を囁き合って、温もりを共有している(あいだ)は幸福だった。この幸せな時間が、終わって欲しくない。
 もう何も考えたくない。いっそ、抱き合った身体が溶けて一つになってしまえばいい。そうしたら、二度と離れずに済む。

 ――離れたくない。放さないで。

 そう、何度か家茂に訴えた気がするが、記憶は曖昧だ。
 その(たび)に、彼の腕が絡み付くように和宮の身体に回ったのは覚えている。

 ――放さねぇよ。何があっても、絶対に。

 白く溶けた意識が(はじ)ける瞬間、そう囁かれた気がした。

***

 幾度か互いに果てたあと、意識を手放した和宮から、家茂はようやく身体を離した。
 何度抱いても、この瞬間は名残惜しいような気がしてしまう。今夜は、それが格別だった。
 目を閉じた和宮の頬に優しく手を添え、(ひたい)へ唇を落とす。
 今、何時(なんどき)だろう、と無意識に考える。周囲にはいつしか闇が落ちていて、行灯(あんどん)の明かりが頼もしく思える時間帯だということは間違いない。
 行為のあとの気怠さに、家茂は手枕(たまくら)しながら床へ散らばった彼女の髪の毛を、無意識に指先に巻き付けて(もてあそ)んだ。
 白い頬に影を落とす長い睫毛(まつげ)を、見るともなしに眺めながら、眉根にしわを寄せる。

 ――攘夷推進に関し、即時ご返答、またはご説明がなき場合、近々(きんきん)に、主上(おかみ)は公武合体のご政略はなきものにするとお考えです。

 姉小路(あねがこうじ)公知(きんとも)が言い放ったことは、あるいは、本当に単純な脅しだけだったかも知れない。真実、帝が言ったことか、今は知る(すべ)がないのだから。
 だが、その一言は、公知、及び三条実美(さねとみ)が考える以上に、和宮の精神(こころ)を鋭く深く(えぐ)ったようだ。
 夕刻になって、最初に彼女を半ば強引に抱いたのは、彼女が思うより取り乱して見えた所為もあった。こんなに取り乱した彼女を見るのは、初めてだったような気がする。
 家茂が慶喜(よしのぶ)()り合って重傷を負った時でさえ、ここまでではなかった。
 家茂自身、公知の言葉を聞いた時、不覚にも狼狽しなかったと言えば嘘になる。ただ、最初の婚約を破壊され、周囲の人間の命をすべて(しち)に取られ、その上、兄帝の進退まで背負わされるという形で江戸へ嫁いで来た和宮よりは冷静だったのではないか。
 とにかく、早急にその言葉の真偽を確かめなくてはならない。

 ――嫌よ、二度と嫌。あんたと別れるくらいなら死ぬ!

 和宮が、『死ぬ』などという、深刻な言葉を使ったのも、初めて聞いた。
 無理もない。もし、本当に離縁ということになれば、周囲の都合で、想う相手と別れさせられるという体験を、二度もする羽目になるのだ。
 そっと溜息を()いて、ノロノロと身を起こす。
(……まあ、そうなったら、それは俺も同じなんだけど)
 もっとも、家茂としては、それを現実にするつもりは微塵もない。そうならない為に、実権を奪いに行くと決めた矢先、こんなこと――いざとなれば、将軍の座なんて慶喜にでもくれてやるという事態――になるのも皮肉なことだが、愛する女を二度も奪われるような、間抜けな状況には、死んでも陥るわけにはいかない。
 いつの間にか脱ぎ捨てていた着衣を拾って身に着ける。改めて床へ膝を突くと、身を屈めて和宮の唇に柔らかく口付けた。
 それから、隣の切形之間(きりかたのま)に通じる襖へ目をやる。立ち上がった家茂はそこへ歩み、襖を静かに滑らせた。思った通り、室内には(とこ)が延べてあり、枕元には水差しと湯呑みが置いてある。
 家茂は引き返して和宮を抱き上げると、(とこ)の上へそっと彼女の身体を横たえた。
 少し迷った末、そのまま、彼女の身体に布団などは掛けずに、切形之間(きりかたのま)の出入り口へ足を向ける。障子を細く開くと、縁側の向こうにある庭先には、すでに青い月明かりが()していた。
「……桃の井。その辺にいるんだろ」
 低く呼ぶと、程なく衣擦れの音と共に、妻に忠実な侍女が姿を現し、無言で廊下に(ひざまず)いた。
 小さく息を()いた家茂は、障子の片側に背を預けるようにしながら、もう片側を大きく(ひら)く。
「悪いけど、あいつの身支度、してやってくれるか」
 汗だくのまま布団を掛けると、多分風邪を引いてしまうだろう。その辺に、汗を吸うような適当な布もない。
 だが、主人夫婦の閨事(ねやごと)に関して人払いに()けたこの侍女が、家茂が声を掛けるまで何の準備もしていないはずはなかった。
「心得ております」
 短く答えた桃の井は、珍しく嫌みを言わず、ぼやきもしなかった。
 一人で準備したのか、乳母(めのと)の藤――奥では『少進』と呼ばれている――の手を借りたのか、彼女の足下にはすでに、湯気の立った盥と、清潔な布が鎮座している。
「俺も身仕舞いしてくる。その(あいだ)、あいつ任せてもいいか」
「もちろんです」
「悪いな。すぐ戻るから」
 苦笑と共に肩先を竦め、彼女とすれ違う。
「上様」
「ん?」
「もしよろしければ、お湯殿においでくださいませ。川村殿がお待ちです」
 その言葉から、どうやら桃の井が手を借りた相手は崇哉(たかなり)だったと悟る。
「分かった。ありがと」
 また一つ肩先を上下させ、きびすを返そうとするが、再度、桃の井が「上様」と呼び止めた。
「何だよ」
「恐れながら此度の件、上様には何か、解決の為の策がおありでしょうか」
「どの件の話か、心当たり多過ぎんだけど」
「偽装出火事件以降、すべての件です」
 いつしかこちらへ顔を向けていた桃の井の顔は、硬く曇っている。
 考えてみれば、彼女は和宮にとっての最側近だ。桃の井に言わせると、二人は姉妹同然の仲らしいから、和宮の精神状態が今、不安定になっているのを、桃の井が知らないはずもない。
 彼女にとっては、偽装出火よりも心配なのは、帝がこの結婚をなかったことにすると言い出したことによって、和宮が傷付いていることなのだろう。
「偽装出火事件に付いちゃ、あんたの調査の進捗次第だな。どうだ?」
 問い返すと、桃の井は自分から話題を振ったくせに、「詳細は、のちほどということで宜しいでしょうか」と言った。
 和宮の身支度を早くしたいと、気が()き始めたのだろう。家茂は、もう一つ肩を竦めた。
「……分かったよ。またあとでな」

***

 うっすらと意識が浮上する。だが、まだ目覚めたくない。夢の甘い余韻に(ひた)っていたい。
 意識が徐々にはっきりしても、和宮はしばらく目を開けずに身を縮めていた。けれど、夢の続きのように、布団の中には自分以外の温もりがあるのに気付く。
 そっと目を開けると、白い単衣(ひとえ)(くる)まれた胸元が視界に入った。
 視線を上げると、家茂の整った美貌がある。閉じられた瞼から伸びた睫毛が、滑らかな頬に影を落としていた。
 しばらくは何も考えられずに、彼の胸元にそっと額を押し付けていた。が、次第に昨夜の醜態も思い出されて来て、和宮は何とも言えない気分になる。
 可能なら、今すぐに彼の記憶から弱音を吐きまくっていた自分を消し去りたい。それが無理なら、ひとまずこの場から逃げ出したいが、後者を実行すれば、まず間違いなく彼を起こすだろう。
 起きた彼から逃げるのも難しいし、第一昨日、散々彼に(とろ)かされ続けた身体は、今日一日くらいは使い物にならないことは分かっている。自力で逃げ出すことなんて不可能だ。
 一人悶々としていると、不意に身体に彼の腕が巻き付くように抱き締められる。
「……(ちか)
「え」
 出し抜けに、耳元で囁かれた。寝言だろうか。少し腕に力を入れて、彼の顔を確かめると、最近切れ上がって来た目元に縁取られた漆黒の瞳は、和宮をしっかりと見つめていた。
「えっ……えぇえっと」
「……おはよ」
「おっ……おはようゴザイマス」
 平板に返しながら、和宮は家茂から慌てて視線を逸らす。とてもではないが、彼と目を合わせていられない。
 しかし、彼はそれを許してくれなかった。
「こーら」
 彼の細くて長い指先が、和宮の顎先を捕らえ、顔を上げさせる。
「何、目ぇ逸らしてんだよ」
「だっ、だって……」
 顔を固定されていては、目を伏せるしか彼の目を見ない方法がない。
「昨日はあんなに積極的だったのに」
 からかうような笑い混じりに言われて、頬に熱が昇る。
「いっ、言わないでよ」
「何で」
「もう忘れて、あんなみっともない……」
「何が」
 もう一度抱き締められ、耳元へ落ちた声音からは、先ほどのからかうような色は消えていた。
「想う相手と離れたくないって思うのは、当たり前じゃねぇの?」
「それは……そうだけど」
「お前を放さないって言った俺は、みっともないのか?」
「違っ……そんなことない!」
 反射で叫んでしまって、慌てて口を押さえる。今、何時(なんどき)か分からない。ほかの人間の眠りを妨げたり、家茂との会話に聞き耳を立てられることになっては気まずい。
「そんなこと……あたしだってあんたを放したくないのに」
「じゃ、俺もお前をみっともないとは思わない」
 自然、顔を上げてできていた距離を詰めるように、家茂が再度、和宮を抱き寄せた。彼は和宮の肩先を愛おしげに抱いて、こめかみにそっと口付けを落とす。
「……攘夷の推進しないことで離縁されそうになるようなら、考えるよ。お前も手放さないで、民を巻き込まないように」
「家茂……」
「訊きたいんだけど、主上はそんなに話の分からない(かた)か?」
「……そんなこと、ないと思うけど……」
 和宮は、家茂を抱き返すように、彼の腰に腕を回しながら言葉を継いだ。
「前にも言ったけど、あたし、おもう様(先帝)が亡くなってから、皇宮の外で生まれたの」
「ああ、聞いてる」
「初めて参内(さんだい)したのは三つの頃だけど、その時のことはよく覚えてない。そのあと、そんなにしょっちゅう皇宮を訪ねたりはしてないから、お兄様とも兄妹(きょうだい)として親しく過ごす時間はなかった。折に触れて(ふみ)のやり取りはしてたけど……」
(つら)付き合わせてってのがなかったってことか」
「うん。結婚前に、内親王の位を授かるんで参内したのが、あたしの認識としてお兄様の顔をはっきり見た、最初で最後。考えてみればお兄様の人となりって、実はあたし知らないって言ったほうが正しいかも」
 説明する内に、何となく納得してしまった。だから、兄帝は最終的に、和宮の降嫁を承諾したのだ。道具として、政略の駒として差し出すことに、『帝』として了承し、『兄』としては『妹』のことを考えてはくれなかったのだ。
 政治という大きな『力』の前に、家族の情や恋慕のそれは、何と(もろ)いものか。
 そう思うとまた不安になって、家茂の胸に頬をすり寄せる。彼は、和宮の不安(それ)を察したかのように、優しく、だが強く抱き返してくれた。
「……大丈夫だよ。何とかなる」
「……本当に?」
「とにかく、端から片付けてくしかない。主上が本当に、俺らの結婚をなかったことにするって言ってるのかも、確かめないと」
「どうする気?」
 和宮は、家茂の腕の中から、彼の顔を見上げる。目が合うと、彼は微苦笑した。
「まずは、偽装出火事件からだな。遅くても二月(ふたつき)以内には、(カタ)ぁ付けてぇトコだけど」
「何で二月(ふたつき)?」
 和宮は、素朴な疑問を発しただけだった。
 だが、先程までと違い、家茂の反応には若干の遅れがあった。けれど、彼は和宮に表情を確認させまいとするかのように、和宮を抱き寄せ、後頭部を押さえ込むように抱える。
「……あれから二月(ふたつき)以上経ってるしな。これ以上決着を引き延ばすのもどうかと思っただけだよ」
「……家茂」
 返答に取り繕うような意図を感じ、問い(ただ)そうとするが、家茂は「そろそろ起きないと」と和宮の言い分を遮った。
「お前は今日一日寝てろ。またあとで来るから」
 和宮の唇に、軽く自分のそれを落とした家茂は、それ以上和宮に何か言う隙を与えず、布団を滑り出て行った。

***

 切形之間の障子を閉じて、家茂はホッと息を()く。
(……(あーぶ)ね……)
 つい、漏らしてしまうところだった。
 実は、勅使に返信を持たせて、彼らが江戸を発つまでの(あいだ)に、家茂と幕臣との間では、御前会議が行われていた。そこで、『攘夷実行について説明する為、上洛する』という内容を返信として渡した以上、近々上洛しなくてはならないということで、その日時を決めていたのだ。
 和宮にはまだ言っていないが、家茂が江戸を発って都へ向かう日取りも、勅使には伝えてある。帝への、言伝(ことづて)として――
 家茂は、背にした障子の向こうへ横たわる和宮を、障子を通して見るように、チラリと背後へ目を向けた。
(……まだ、言えねぇよなぁ……)
 もちろん、いつかは告げなくてはならない。少なくとも出発前、しかも日にちに余裕を持って伝えないと、余計不安定になり兼ねない。
 しかし、今はまだ時期尚早だ。
 つい今し方は少し落ち着いていたようだが、『長く傍を離れなくてはならないかも知れない』なんて告げた日には、涙が涸れても泣き続けるに決まっている。そんな場面を目の前で見るのは、家茂のほうが耐えられない。
(……とにかく……(ちか)のことは別として、旅に入る前に決着(ケリ)付けときたいのも本音なんだよなー……)
 細く長い指先が、無造作に前髪を掻き上げる。
 家茂の脳裏には、つい先日まで後見職にいたあの男――慶喜が浮かんでいた。
 彼は、去る十一月一日〔一八六二年十二月二十一日〕付けで、将軍後見職から権中納言(ごんちゅうなごん)へと転任になっている。将軍の後見という職務から離れたのだから、本来なら無理に家茂の都行きへ同行する必要はないのだが、本人はなぜか行くつもりらしい。
 それを阻む正当な理由もない為、同行を許可するならするで、偽装出火事件の容疑について、何らかの処分は下しておきたい。
 あれだけの騒ぎを起こしておいて、何の処罰もせずに同行を許すのは、相手が握った抜き身の刀の切っ先を、背筋に突き付けられながら旅をすることに等しい。いつ相手が力を入れ、自分の背中から胸に掛けて刃が貫き通るか分からない旅路など、()平御免(ぴらごめん)だ。
 それに今時、仮に彼が刀をきちんと鞘へ納めていたとしても、道中の危険は彼だけではない。
(……あいつに刀持たせとくだけでも、危険っちゃあ危険なんだけど……)
 はあ、と溜息を()いた直後、「上様」と(ひそ)めた声が横合いから掛かった。振り向けた視線の先にいたのは、桃の井と少進だ。
 少進のほうは、小さく会釈して桃の井を追い越すと、家茂の背後にある障子に手を掛ける。家茂は、少進が和宮に声を掛けるより早く、その場を立ち去った。
 少進が「宮様」と室内に呼び掛ける声を背に聞きながら、急いで通路の角を曲がる。背後に、桃の井が無言でついて来ているのは分かっていた。
 切形之間から死角になってから、家茂はやっと足を止め、背後を振り返る。家茂から一間(いっけん)〔約一・八メートル〕ほどの間合いを置いた桃の井は、顎を引いて目を伏せていた。
「……桃の井」
「はい、上様」
「支度はできてるよな」
「はい。いつでも出られます」
朝飯(あさめし)食ったら出掛けるぞ。(ちか)に悟られるなよ」
「承知しております」

***

 その日の四つ(どき)〔午前十時〕。
 家茂と崇哉、桃の井は連れ立って、全力で警戒しながら大奥を出た。
 偽装出火事件で使われたと思しき抜け道は、あのあとすぐ塞いだので、別の抜け道を使った。
 あれから二月(ふたつき)、慶喜が新たに大奥へ間者を送り込んだ――もしくは、新たに間者として女中を勧誘した気配はない。しかし、そもそもそれが簡単に割れるようなら、あの事件は起きていないのだから、こちらの警戒がどこまで当てになるかは、(はなは)心許(こころもと)ない。
 証拠が遅々(ちち)として集まらず、容疑者と認識できている慶喜と熾仁(たるひと)には処罰らしい処罰も下せていない状況で、特に崇哉と桃の井、及び彼らの手の者は神経を尖らせっ放しのはずだ。いい加減何らかの決着を付けないと、彼らが先に疲弊してしまう。
 そんな中の昨夜、桃の井が一冊の本を差し出した。

 ――何だこれ。
 ――ご覧の通り、書物でございます。貸本屋から借り受けました。
 ――()(とぼ)けてんじゃねぇよ。そんくらい、俺だって見りゃ分かる。俺が訊いてんのは、これ(・・)が一体何の手懸かりになるんだってことだよ。

 若干苛立って問うと、桃の井は悪びれることなく言葉を継ぐ。

 ――あの偽装出火の日の数日前に、宮様の為にお借りした書物です。あとで宮様にもお(たず)ねいただいて構いませんが、あの日、半鐘が鳴り出す直前、わたくしも宮様も、この書物に紙片が挟まれているのを確認しております。
 ――紙片? 栞かなんかじゃねぇのか。

 暗に、その紙片の現物を見せろと言ってみたが、桃の井は硬い表情で首を振った。

 ――申し訳ございません。現物はあの騒ぎの中、紛失してしまいました。当時はさほど重要と思っておらず、わたくしも動転しておりましたもので……落ち着いてから捜してみましたが、見当たりませんでした。恐らく、宮様のお部屋に来た火之番(ひのばん)の誰かが持ち出したのでしょうが、紙片には、あの日の日付のみが(しる)されておりました。
 ――その紙片が書物に挟まれてたってことは、貸本屋と関わりがあるってことか?
 ――恐らく。この書物は連作もので、宮様も続きを待っておいででした。たまたま、あの日亡くなった火之番の一人が返却するのを見ておりましたもので、そのまま貸してもらえるよう、貸本屋に頼んだのです。最初は渋られたのですが、あとの予約が入っているのでなければ貸していただけるだろうと言うと、最終的には貸してくださいました。その渋った態度に引っ掛かるものはあったのですが、その時は大して気には留めておりませんでした。

 だが、貸本屋に限らないが、元来、外部の業者が出入りできる七ツ口へ、奥女中の中で行くことを許されているのは、外部の者との取り次ぎの役職である御切手(おきって)と、御年寄り以上の上役のみだ。火之番が、その身分としては出入り禁止の七ツ口で、貸本屋と直接やり取りしているということが、まずおかしい。
 加えてそのあと、あの日付の書いた紙が書物の中から見つかり、続けて偽装出火事件があり、更には熾仁と慶喜が侵入して和宮が誘拐され掛けた。そして、紙片は行方不明、となれば、貸本屋が関わっていないとは考えられない。
 昨夜の内に一度中奥へ取って返した家茂は、崇哉に『できるだけ早く』と条件を付け、桃の井の持っていた書物について調べさせた。
 崇哉の調査が完了せずとも、今日は外で出向いて調べるつもりだったが、崇哉は家茂が朝食を済ませる頃にはもう、調べを終えて来た。

 そして今、抜け道から大奥を出た三人は、崇哉の調べで判明した書物屋へ向かっている。桃の井が持っている貸本を扱っている貸本業者が、提携している書物屋だ。
 家茂も今回のことがあって初めて知ったが、そもそも貸本屋は、行商が商売の基本らしく、店を構えている業者は少ないと言う。商品は、結局は書物屋から仕入れなくてはならないので、書物屋と提携している業者が大半のようだ。
 その中で、大奥御用達をしている貸本業者は、江戸市中では限られる。
 とにかく、まずは貸本業者の住所と名前を訊かねばならない。
 目的の書物屋は、店名を『桐詠堂(とうえいどう)』と言った。何でも、かなり若い女性が、店主として切り盛りしていると聞いた。
「……すみません」
 昼前、店の前で掃除をしていた女性に、桃の井が余所行きの声を掛けた。
「あの、こちら桐詠堂さんですよね」
「はい」
 女性は、明らかに営業用の笑顔で応対した。年の頃は、二十代の半ばだろうか。いや、もう三十路(みそじ)前かも知れない。どこか、生活に疲れている様子が伺える。
 桃の井が、もう一度頭を下げ、改めて口を開いた。
「恐れ入ります。わたくし、先日こちらと提携されている貸本屋さんから本を借りていたんですが、ゴタゴタしていてうっかり返すのを忘れていて……貸本屋さんの連絡先が分かればと思って、お訪ねしたのです」
 普段、やや低めの声で、淡々と言葉を紡ぐ彼女からは、考えられない声音と話し方だ。
 他方、店員らしき女性のほうは、もちろんそんなことは知りもしない。如才なく、相槌(あいづち)を打っている。
「そうでしたか。では、お持ちの本、ちょっと見せていただいてよろしいかしら」
 本の題や内容から、誰が貸し出した本かを確認する為だろう。桃の井もそう思ったのか、「お願いします」と言いつつ、本を差し出した。
 女性は、桃の井から本を受け取ると、題を確認し、パラパラと頁をめくった。
「……まあ、わざわざ()の方がこちらまで……ご足労をお掛けいたしました」
 本から顔を上げると、女性がすまなそうな表情で頭を下げる。彼女の言葉に、家茂はどこか引っ掛かるものを感じた。
 が、何に引っ掛かったのか、自分でもよく分からない。一体、何の違和感だろう。
 相対している桃の井は、スッと女性に上体だけを近付け、声を(ひそ)めた。
「……あの、すみません。わたくしが、その……お城(・・)から来たとご存じで?」
 桃の井の言う『お城』が、江戸城だということは伝わったらしい。女性は、あっさりと頷き、同じように潜めた声で答えた。
「ええ。貸本業界の()ですから。色々大変だった(・・・・・・・)そうで……なので、延滞料金は、当面請求しないと、奥女中様のお得意様に関しては、左様取り決めたと聞いております」
「……ちなみに、その色々大変だった(・・・・・・・)という噂、具体的な内容はお聞きに?」
 桃の井が、間合いを伺うように踏み込むと、女性はハッと我に返った表情になった。
「……さあ、どうでしたでしょう。とにかく、七ツ口まで行っても、お客様に取り次いでもらえない時があったらしいと、風の噂で聞いただけです」
 取り繕うような笑顔で、早口に言った女性は、急に左右へ目を泳がせた。
「本当に、ご足労様でした。こちらは、あたしのほうから貸本屋さんにお返ししておきます。先に言った通りですので、延滞のお代は結構ですよ」
 あくまで普通を心掛けたと思える仕草で女性は頭を下げると、さっさときびすを返して店の奥へ消えた。

©️神蔵 眞吹2024.
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登場人物紹介

【和宮親子内親王《かずのみや ちかこ ないしんのう》(登場時、7歳)】


生年月日/弘化3年閏5月10日(1846年7月3日)

性別/女

血液型/AB

身長/143センチ 体重/34キロ(将来的に身長/155センチ 体重/45キロ)


この物語の主人公。


丙午生まれの女児は夫を食い殺すと言う言い伝えの為、2歳の時に年替えの儀を行い、弘化2年12月21日(1846年1月19日)生まれとなる。

実年齢5歳の時、有栖川宮熾仁親王と婚約するが、幕閣と朝廷の思惑により、別れることになる。

納得できず、一度は熾仁と駆け落ちしようとするが……。

【徳川 家茂《とくがわ いえもち》(登場時、15歳)】

□幼名:菊千代《きくちよ》→慶福《よしとみ》


生年月日/弘化3年閏5月24日(1846年7月17日)

性別/男

血液型/A

身長/150センチ 体重/40キロ(将来的には、身長/160センチ、体重/48キロ)


この物語のもう一人の主人公で、和宮の夫。


3歳で紀州藩主の座に就き、5歳で元服。

7歳の頃、乳母・浪江《なみえ》が檀家として縁のある善光寺の住職・広海上人の次女・柊和《ひな》(12)と知り合い、親しくなっていく。

12歳の時に、井伊 直弼《いい なおすけ》の大老就任により、十四代将軍に決まり、就任。この年、倫宮《みちのみや》則子《のりこ》女王(8)との縁談が持ち上がっていたが、解消。


13歳の時には柊和(18)も奥入りするが、翌年には和宮との縁談が持ち上がり、幕閣と大奥の上層部に邪魔と断じられた柊和(19)を失う。

その元凶と、一度は和宮に恨みを抱くが……。

【有栖川宮熾仁親王《ありすがわのみや たるひと しんのう》(登場時、18歳)】


生年月日/天保6年2月19日(1835年3月17日)

性別/男


5歳の和宮と、16歳の時に婚約。

和宮の亡き父の猶子となっている為、戸籍上は兄妹でもあるという不思議な関係。

和宮のことは、異性ではなく可愛い妹程度にしか思っていなかったが、公武合体策により和宮と別れる羽目になる。

本人としては、この時初めて彼女への愛を自覚したと思っているが……。

【土御門 邦子《つちみかど くにこ》(登場時、11歳)】


生年月日/天保13(1842)年10月12日

性別/女


和宮の侍女兼護衛。

陰陽師の家系である土御門家に生まれ、戦巫女として教育を受けた。

女だてらに武芸十八般どんと来い。

【天璋院《てんしょういん》/敬子《すみこ》(登場時、25歳)】

□名前の変転:一《かつ》→市《いち》→篤《あつ》→敬子


生年月日/天保6年12月19日(1836年2月5日)

性別/女


先代将軍・家定《いえさだ》の正室で、先代御台所《みだいどころ》。

戸籍上の、家茂の母。


17歳で、従兄である薩摩藩主・島津 斉彬《しまづ なりあきら》(44)の養女となる。この時、本姓と諱《いみな》は源 篤子《みなもとのあつこ》となる。

20歳の時、時の右大臣・近衛 忠煕《このえ ただひろ》の養女となり、名を藤原 敬子《ふじわらの すみこ》と改める。この年の11月、第13代将軍・家定の正室になるが、二年後、夫(享年34)に先立たれ、落飾して、天璋院を名乗っている。

生まれ育った環境による価値観の違いから、初対面時には和宮と対立するが……。

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