第1話

文字数 1,976文字

 ぼくの名前は篠村セイ、小学校五年生。お父さんはサラリーマン、お母さんは専業主婦。ぼくの家はごく普通の一般家庭だと思っていた。

 ところがある朝、ごく普通でも、一般的でもないことが判明してしまった。

「セイ、お父さん出掛けるから、起きてお見送りしなさい」

 その朝はお母さんのそんな言葉からはじまった。

 寝ぼけまなこで起きて来たぼくをよそに、お母さんは押し入れから風呂敷包みを取り出してお父さんに渡す。お父さんが黙って頷いて、神妙な顔で包みを開いた。

 ぼくはお父さんの背中越しに、中身を覗き込む。

 年季の入った重そうなマント、傷だらけの鞘に入った細身の剣。

 あれ?……何だか本物っぽい?

 お父さんが立ち上がってマントをバサリと羽織ると、小さなつむじ風が巻き起こった。

 コタツの上に置いてあった学校のプリントが舞い上がって、食器棚がカタカタと揺れる。
 お父さんのメガネがキラキラ光りながら、顔の下半分を覆う兜に変わってゆく。マントの下のスーツが金属の鎧に変わってカシャンと鳴る。

 ぼくが父の日にプレゼントしたネクタイは、青い宝石の付いた額当てに変わった。額当てが頭にジャキンと収まると、お父さんの呑気そうな目が、引き絞るように鋭くなった。

 スーパーの二階で買ったネクタイ……元に戻るのかな。せっかくおこずかい貯めて買ったのに。

 気にするの、そこじゃないだろうって?

 たぶんそれはね、ぼくの心の危機管理が、現実感を求めて確かな記憶に縋ろうとしているんだよ。いわゆる、現実逃避ってやつ?

 目の前には、テレビのヒーローの変身シーンみたいな光景。ぼくのうちのお茶の間には、致命的に似合わない。

「ミーコ」

 お父さんが呼ぶと、コタツの中から飼い猫のミーコが顔を出した。のそりと這い出して、みるみるうちに大きくなる。

 ミーコ、猫じゃなかったんだ……。

 ぼくが赤ちゃんの頃から一緒に育った茶トラの猫は、コタツよりもソファよりも大きくなって、背中の羽根を羽ばたかせた。

「ミーコ……ドラゴンなの?」

 ぼくは何だか悲しくなって、俯いて呟いた。ぼくだけ、なんにも知らなかったんだ。

 ミーコは「みゃーん」と鳴いて、いつも通りぼくに顔を擦り付けて来た。ウロコが痛いよ!

 しかもなんでドラゴンなのに「みゃーん」なんだよ。いいよ! ぼくに遠慮なんかしないで「ガオー」って言えばイイじゃないか!

 めちゃくちゃ強そうな鎧も剣も、そんな引き締まった顔も、お父さんには似合わない。

 泣き虫で、悲しい映画を見ると必ず鼻水を啜ってるの、ぼくは知っている。虫が苦手で、クモがお風呂場にいた時、裸で飛び出して来たのだって知っている。

 そのお父さんが、その格好いい剣で、誰と戦うの? 何を切り裂くつもりなの?

 ぼくは深呼吸をして、最初の質問を口にした。もう、黙って見ているのも限界だ。

「お父さん、出張……どこへ行くの?」


       * * * *


「お父さんは、異世界の勇者さまなの。魔王の軍勢が移動をはじめたらしくて……昨日、あっちの人が呼びに来たの」

 異世界ラノベによく出てくる、スタンピードというやつだろうか?

「でもさ、今日、月曜日だよ? お父さん、仕事どうするのさ」

 お母さんの恐ろしく情報量の多い説明と、ぼくの質問の落差が酷い。

「一週間、有給を取ったから大丈夫。セイ、心配してくれてありがとうな」

 お父さんが少し微笑んで言った。そうしたらいつも通りの呑気な顔になって、ぼくは涙が出そうになった。

 冗談でも、ぼくを騙して笑おうとしているのでもなければ、お父さんは今日、戦いに行く。ぼくの知らない場所で、知らない世界のために、ぼくを置いて行ってしまう。

「ま、魔王って、強いの? お父さんが戦わないとダメなの?」

 もう止まらなかった。現実感なんて一欠片(ひとかけら)もないけど、お父さんが怪我をするのも嫌だし、誰かを怪我をさせるのも嫌だ。

「魔王は強いけど、お父さんは負けない」

 お父さんがぼくの頭の上に手を置いて言った。

 そんな、ヒーローみたいなことを言わないで。

「負けたっていいよ! 勝たなくていいよ……。帰って来てよ!」

 ぼくの言葉にお父さんは振り返ることなく、軽く手を挙げてミーコに乗って行ってしまった。


       * * * *


 一週間後、お父さんはボロボロになって帰って来た。聞けば、厳しい戦いだったらしい。

 その晩、ぼくとお母さんの大好物が食卓を彩った。毎年、春になると必ず食べていた我が家のご馳走唐揚げ。プリプリとした歯応えと、独特の風味がたまらなく美味しい。

 ぼくは今日、初めてこの料理の正式名称を聞いた。

『魔王カエルの唐揚げ』。毎年春に群れで北上をはじめるらしいそのカエルは、異世界でもなかなか手に入らない高級食材らしい。


 ぼくのお父さんは、異世界勇者さまだ。


 カエルよりも強くて、誰よりも格好いい。
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