第7章・悲喜劇

文字数 15,746文字

 スヴェルトの長櫃の中は悲惨を通り越していた。
 落としても落ちなかったであろう汚れが付着した衣服が、でたらめに押し込んであった。捨てて来ても良かった布までが入っていた。律儀に持ち帰ったのか、何も考えずに突っ込んだのか…恐らく後者であろうとジョスは思った。
 その中に、左袖が大きく切り裂かれている物を見付け、ジョスは思わずその服を抱き締めた。怪我をしていた時に、着ていた物だ。どのような戦いを生き残って来たのかと思うと、涙が出そうになった。自分は、そんなに泣く方ではなかったはずなのに、と思いながら、服に染み込んだ潮と血の香りを吸った。スヴェルトの事となると、別らしい。
 母が、遠征後の父の長櫃から衣服を取り出し、丁寧に広げていた姿が甦った。母も、同じ気持ちだったのだろうか。出来る限りの殺戮は避ける海神の民だが、刃向かう者と奴隷商人には容赦はしない。優しい母には辛い仕事だっただろうと思った。
 薬は全て、使い切ってあった。あの怪我にも使ったのだろう。
 底には、鎖帷子と予備で持って行った武器が納められていた。鎖帷子には繋ぎが壊れた部分もあった。これは、スヴェルトがどうにかするだろう。
 櫛や鏡といった身だしなみを整える道具は、全て今朝の身支度に使われていたので、点検の必要はなかった。壊れていれば、交易島で新調しているはずだった。北海の男にとっては、それも大事な道具だ。
 帰って来た時に着ていた服以外は、どれも捨てるしかなかった。火にくべてしまうのが、一番だった。
 焚き付けにする為に衣服をほどいて裂いた。それを厨房に持って行くと、戸口からスヴェルトの呼ぶ声がした。
 慌てて向かうと、昨日見た二人の子供を連れたスヴェルトがいた。既に、その首には奴隷の印である鎖が巻かれており、痛々しかった。
「お前の望みだろう」
「ありがとうございます」
 そう言うと、ジョスは改めて二人を見た。良く似た顔立ちで、身を寄せ合っているところを見ると、兄妹(きょうだい)なのだろう。
「あなたたち、名前は」
 ジョスは、子供に対していつもするように、しゃがみ込んだ。
「ショーズとマルナ」
 年上の男の子の方が答えた。その声は震えていた。
「兄妹なのね。歳は」
「十歳と八歳」
「お腹は、空いていない」
「おい」
 スヴェルトが何かを言いかけたが、ジョスはそれを手で制した。
 何も答えない子供達を、ジョスは厨房へ連れて行こうとした。
「もう一人、農夫が欲しい、と言っていただろう」
 スヴェルトが合図をすると、スヴェルトよりも年長と思われる男が入って来た。
「手を、奥方に見せろ」
 スヴェルトの命に、男はおずおずと手を差し出した。かつて、農夫の手は見れば分る、という話をしたのを、憶えていたのだろう。
「働き者の手ね。あなたの名前は」
「ソールトです」
「あなたも、厨房へいらっしゃい。まずは清潔にしましょう」
 ミルドが来て、三人を裏へと連れて行った。ジョスは厨房へ向かい、湯浴みの用意をした。衣服は、取り敢えず、ドルスとミルドの物を着せる事にした。
 まずはソールトに身体を洗わせ、二人の子供を順番に、ミルドが世話した。その間にジョスは食事の支度だった。
「子供用に、いるわね、やっぱり」
 ジョスは苦笑した。ソールトはドルスと同じ物で大丈夫だったが、さすがに子供に大人用は大きすぎた。「また、準備しましょう」
「ジョス」
 スヴェルトの声がした。
「あの方が、ここの旦那さまのスヴェルト。私はジョス。それから、この人はミルドよ。あと、家畜小屋と納屋の棟に、ドルスという人がいるわ。ソールトは、ドルスと同じところで休んでちょうだい。ショーズとマルナは、まだミルドと一緒の方がいいでしょうね」
「おい、ジョス」
 再び、スヴェルトが呼んだ。少し、声に苛立ちが混じっていた。
「じゃあ、後は頼めるかしら」
 ミルドに任せておけば、子供達も安心だった。
 ジョスが食堂へ行くと、スヴェルトが不機嫌そうにしていた。
「何を手間取っているんだ。奴隷の事など、放っておけば良い」
「そういうわけにもいきませんわ」ジョスは微笑んだ。「蚤や虱を持ち込まれても、よろしいのですか」
「…それは、困る」
「なにか、ご用でしょうか」
「ああ」
 スヴェルトは、思い出したように剣帯に下げた革の物入れから、袋を取り出した。
「開けてみろ」
 不審に思いながらも、ジョスは袋を受け取り、開けてみた。
 中には、銀の櫛と飾り留めが入っていた。細かな装飾が施された美しい物だった。
「これは――」
「昨夜、話しただろう」
 照れたように目を合わせないスヴェルトに、ジョスは笑みを浮かべずにはいられなかった。
「とても、素敵です。でも、高価だったのではありませんか」
「お前が何も欲しがらんから、大した事はない」
「ありがとうございます」
 ジョスは思わず、スヴェルトに抱きついてその頬に唇付けた。
「おいおい、そんなに喜ぶ程の物ではないだろう」
「あなたからの贈り物ですもの」
 スヴェルトの腕が、ジョスを抱いた。幸せだ、とジョスは思った。遠征の間も、スヴェルトはジョスの事を忘れてはいなかったのだ。その事が、嬉しかった。そして、贈り物が掠奪品でなかった事も、スヴェルトが自分を理解してくれている証なのだと思った。
「今から、出かけてくる」
「今日はお休みにならなくても大丈夫ですか。お疲れでしょうに」
「大した事ではない。鍛冶屋に行くだけだ、直ぐ戻る」
 鎖帷子と武器の事だろう、とジョスは思った。


 それからの日々は平穏だった。
 ジョスはマルナに竪機(たてはた)と紐織りを教えた。簡単な無地が織れれば、少しでも助かるからだ。そして、ショーズはドルスを手伝った。ソールトと共に、農園の冬支度と夏に向けての種の保存、家畜の飼料の確保を手伝った。男手の増えたついでに、湯殿も建てた。
 ジョスは、収穫した薬草や香草をミルドと共に乾燥させた。夏用の麻の衣服をしまい込む長櫃には、乾燥させた香草と花とを袋に詰めて入れた。
 家の冬支度は滞りなく進んでいた。
 そして、スヴェルトも、以前程には酔わずに帰る事が増えた。女の匂いもしなくなった。ヒュルガとの事はどうしたのだろう、とジョスは思ったが、訊ねられようはずもなかった。
 その代わりに、スヴェルトはジョスと夜を過ごした。
 新しく建てた湯殿で、スヴェルトの湯浴みを手伝った。
 やはり、何かあったのだろうかと思った。
 タマラからは、音沙汰はなかった。遠征から帰るまでに子が出来ていなければ、と言っていたにも関わらず、それを探るような事もなかった。スヴェルトは何かを知っているのかもしれない。だが、何も言わなかった。
 そこに何があろうと、スヴェルトが自分の側にいてくれる事がジョスは嬉しかった。
 帰還からふた月も経っただろうか、雪はまだだったが、日中もすっかり冷え込んで来ていた。暖炉には一日中火が入った。島とは異なり、泥炭は用いなかったが、乾燥させた家畜の糞を粗朶(そだ)に混ぜて使うのは変わらなかった。寝床にも多めに毛皮を敷いた。
 その夜、スヴェルトはジョスを抱き寄せて言った。
「俺は、お前が一生を賭けるだけの価値のある男か」
 なぜ、この人は、戦い以外ではこのように自信がないのだろうかと、不思議だった。
「わたしは、あなた以外は考えておりません」
「俺には、女を魅きつける物は、猛者だという事以外にないのにか」
「皆、見る目がないのです」きっぱりとジョスは言った。「あなたの笑顔と笑い声は、見る者聞く者を幸せな気分にさせます」
「お前は、戦場(いくさば)での俺を知らん」
 この人の笑い声は、戦場では味方を鼓舞し、敵を恐れさせるだろう。
「戦場でどうあろうと、今、ここにいらっしゃるのは、とても優しい方です」
「思い違いだ。俺は優しくなどない」
「いいえ」ジョスはスヴェルトを見上げた。「婚礼の日、人々からわたしを守ってくださったのは、どなたでした。饗宴で、わざわざ、料理を取り分けてくださったのは、どなた」
「忘れたな」
 スヴェルトは笑った。
「当たり前のようにあのようなことができる方は、そう多くはいないと思います」
「お前の家族は違うだろう」揶揄うようにスヴェルトが言った。「海狼殿やイルガスは、もっと気遣いが出来るだろうに」
「父はあれで無頓着な人ですから。遠征から帰った時の長櫃の中は、あなたと変わりません」
 喉の奥でスヴェルトは呻いた。ジョスは笑みを浮かべて、スヴェルトの困ったような愕いたような顔を眺めた。
「今も、いい顔をしていらっしゃいます」
 心臓の規則的な音がする。生命の響きだ。
「生涯を共にする方に、顔の美醜は関係あるのでしょうか。老いれば、容色も衰えましょう。あなたは、どうなのでしょうか」
 最も心配な事だった。
「お前は最高の女房だ」
 スヴェルトはジョスの言葉を一笑に付した。
 恋人、ではないのですね。
 その言葉を、ジョスは呑み込んだ。そして、スヴェルトの頬に手を延ばした。
 だが、頬に触れる前にスヴェルトはその手を取り、掌に唇付けた。
「お前の様に綺麗で、しっかりとした女が妻で良かったと、俺は思うぞ。お前以外には、考えられない。だが、お前は、幾らでも男を選べただろうに」
 そして、その返事を聞きたくないかのように、スヴェルトはジョスに再び覆い被さって来た。


 翌朝、ジョスは普段通りに朝の支度をした。
 香草入りの麵麭に、羊肉の羮だった。冬にはどうしても野菜の種類が限られてくるので、豆と煮た。甘藍や玉葱はそのまま、青野菜は酢漬けにして食料庫に入れてあったが、注意して使わなくてはならなかった。
 ミルドは卵を取りに行った。もうすぐ、ドルスとソールトは厨房に来るだろう。子供達は、もう少し寝かせておこうとジョスは思った。スヴェルトは二人の不在にも気付かないだろう。
 食器を揃えようとした時、腿に生温かいものが流れる感触があった。
 遅れていた月の物が始まったのか、直ぐに手当てをしなければ、と思った。
 だが、身体が動かなかった。そんなものではない、と分った。どんどんと、何かが脚を伝って流れていた。全身の血が引き、震えが来た。頭が真っ白になった。
「奥さまっ」
 ミルドの悲鳴が聞えた。
 その声に、ジョスはゆっくりと足下を見た。
 血溜まりだった。そして、長着にも、血が染みて来ていた。
「どうした」
 スヴェルトが、普段は足を踏み入れない厨房に姿を現した。そして、ジョスの姿を見るや、怯んだようになった。その顔は、ジョスが見た事のない蒼白なものだった。
 ジョスは、声を上げる事も出来ずにスヴェルトに手を伸ばした。
「おい、直ぐに療法師を呼んで来い」
 スヴェルトはミルドに命じた。
 ミルドは震えながらも、頷いて飛び出して行った。
「動くな」
 そう言うと、スヴェルトはジョスを抱き上げた。「とにかく、血を止めなくては」
 ゆっくりと、スヴェルトはジョスを寝室に運んだ。ジョスを寝かせると、毛布を腰の下に押し込んだ。
「心臓より上にしていれば、血は止まる」
 怖かった。とにかく、恐ろしかった。
「スヴェルトさま」ジョスは震える声でようやく、言った。「スヴェルトさま」
「大丈夫だ。直ぐに、あの女が療法師を連れて来る」
 だが、その顔からは、決してスヴェルト自身が大丈夫だと思ってはいない事が分った。
 ようやく、ミルドが女療法師を連れて戻って来た。療法師は、ジョスを見るなり、さっと顔色を変えた。
「ここは、とりあえず、わたしと奥方さまだけにしてください」
 療法師の言葉は厳しかった。
「スヴェルトさまも、どうか部屋を出てください」
 それには、スヴェルトも大人しく従った。療法師と二人きりになると、ジョスの心には不安が大きく広がり始めた。

    ※    ※    ※

 スヴェルトは、苛々と寝室の扉の前で行きつ戻りを繰り返していた。女奴隷は、少し離れた所で両手を胸の前で組んで不安げな表情をしていた。
 戦場での血なら、見慣れている。
 あれしきの血、と言うだろう。だが、ここは戦場ではない。しかも、ジョスは女だ。
 それなのに、あの血はどうした事だろう。
 女の月の物で、そういった話は聞いた事はない。また、それならば、ジョスや奴隷女がこれ程までに慌て、青くなる事もないだろう。何かの、悪い病なのか。時に聞く、血の道の病という物なのか。だとすれば、どうすれば良いのか。決して治らぬ病とも言うではないか。
 ジョスを失うのか。
 スヴェルトの頭は真っ白になった。
 それだけは、駄目だ。
 やがて扉が開き、スヴェルトは隙間に手をかけた。
「まだです、スヴェルトさま。奥方さまの清拭に使う物を、あの者に持って来させてください」
 奴隷女は、その言葉が聞えたのか、頷くと小走りに去った。
「女房はどうなんだ。大丈夫なのか」
「もう少し、お待ちください。奥方さまとご一緒に説明させていただきますから」
 湯を入れた桶を下げて、奴隷女が戻って来た。
「手伝いなさい」
 二人はスヴェルトを残して扉の中へ消えた。
 服を脱がせて血を拭き取っているならば、中に入る訳にはいかない。そのような姿を、ジョスも見られたくはないだろう。
 じりじりとしながら待った。
 明るく笑うジョスの顔がちらついた。
「スヴェルトさま、どうぞ」
 ようやく、療法師がスヴェルトを招じ入れた。
 部屋の中は血の臭いがしていた。そして、見たくはないと思っても、自然と血を拭いた後の布や着ていた服が目に入った。
 スヴェルトはジョスの側に立ち、その顔を見た。蒼ざめたその顔は、虚ろだった。自分の身に起きた事の原因を、既に知っているかのようだった。
 跪くと、スヴェルトはジョスの手を取った。そうする事しか、思い浮かばなかった。
「スヴェルトさま、奥方さま」療法師が静かに言った。「大変、残念な事ではございますが――」言い淀む療法師に、スヴェルトは息の詰まる思いだった。「奥方さまは、流産なさいました」
 スヴェルトは言葉が出なかった。奴隷女が息を呑む音が、やけに大きく聞えた。
 この療法師は、何と言ったのだろうか。
 流産。
 産まれる前に、子が胎から流れて死んでしまう事、か。
 スヴェルトの思いは、なかなかまとまらなかった。
 ジョスに目をやると、空色の目からは涙が溢れていた。
初子(ういご)には、ままあることでございます。お力おとしのないように。二、三日安静になさってください。それからは、無理のないようにお過ごしください」療法師の言葉は、スヴェルトの耳を通り過ぎて行くだけだった。「月の物が始まりましたら、以前の生活に戻られても大丈夫でしょう」
 ジョスの目からは、涙が流れ続けている。
「では、何だ、懐妊していた、と言うのか」
「初子は何かと難しゅうございます。それに、どうしても育たぬ胎子(はらご)もおります。ゆっくりとお休みになることで、次の子も早くできましょう」
 次の子云々という問題ではない。
 ジョスが、泣いているではないか。哀しんでいるではないか。
 スヴェルトには、そちらの方が大事だった。
 重苦しい空気から逃げ出そうとするかのように、療法師が部屋を出た。
 スヴェルトは、直ぐにそれを追い掛け、腕を摑んだ。
「おい、お前、この事は他言無用だ。兄上にも義姉上にも報せるな。俺は女は斬らん主義だが、そのような事があれば、躊躇わんぞ」
 スヴェルトよりも年上の女療法師は、蒼い顔で頷いた。
 寝室に戻ると、奴隷女がジョスに毛皮の上掛けを、そっと掛けているところだった。
「ジョス」
 それ以外に、何と言葉を掛けて良いのか分らなかった。
 ジョスの目は天井を見つめたままだった。血の気のない唇が、震えながら動いた。
「もうしわけ、ありません」
「なぜ、謝る」スヴェルトは、再び跪いてジョスの手を両手で包んだ。「お前が悪い訳ではない」
「あなたの大事なお子を…」
「初子は難しい、と療法師も言っていただろう。仕方のない事だ」
「予兆を見逃した、わたしの責任です」
 はらはらと流れるジョスの涙が、スヴェルトを苛んだ。
 悪いのは、ジョスではない。
 初めての事なのだから、分るはずもない。だから、難しいのだろう。
 だが、そうだと言って、ジョスの心は休まるまい。また、直ぐに次の子をという訳にはいかないだろう。自分も、そうだ。ジョスの子を、そう簡単に切り捨ててはしまえない。
 これ程までに自分が衝撃を受けるとは、スヴェルトは思いもしなかった。
 子供など、足枷にしか過ぎぬ、と思っていた罰なのか。
「大丈夫だ。お前は、まだ子を産める年齢(とし)ではないか」自分に対する気休めでしかない事も、分っていた。「流れてしまった子の分も、他の子を幸せにしてやれば良い」
 ジョスさえ無事で、元気になってくれれば良かった。だが、それは口にしてはいけない事くらい、分らぬスヴェルトではなかった。
 それ程までに、ジョスは子が欲しかったのか。
 側女を持て、という兄の言葉。それを義姉から言われたのかもしれない。そもそも、あの言葉は義姉のものだった。だが、スヴェルトはそう言われたからヒュルガと手を切り、ジョスと共寝をする事を選んだ訳ではない。
 細い身体を抱くのは、はやり、恐ろしい。
 そして、ますます恐ろしくなった。
 女を抱く、という事は、こういう結果を伴う事でもあるのだと、身を以て知った。女は、何時でも生命を賭して子をこの世に送り出すのだ。自分も、そうして産まれて来たのだ。
 男は、後継ぎを作るにも、女から快楽を得られさえすれば、それで満足できる。妻や側女とは、そういう物だ。だが、その後、女の身に何が起こるかを、スヴェルトは考えてもみなかった。いや、普通、男はそこまで考えたりはしないだろう。子は、当たり前に産まれて来るものとしか見てはいなかった。それどころか、奴隷女に子が出来て、妻が庶子として認めなかった場合には、男がその腹を蹴ってでも子を流す事があるくらいだ。それが、男には当然の世界だった。
 スヴェルトの脳裏に、ジョスの身体から流れた血が甦った。
 気付くと、ジョスは目を閉じ、眠っていた。
 スヴェルトはそっと手を放し、起こさぬように静かに部屋を出た。
 これから、どうすれば良いのか分らなかった。取り敢えずはジョスの側から離れたくはなかった。しかし、スヴェルトが行かねば、ヨルドが使いを寄越すだろう。誰にも、この状況を知られたくはなかった。
 食堂には、朝餉の準備が調っていたが、食欲はなかった。
 厨房を見ると、床の血を奴隷女が涙を流しながら拭き取っていた。女の傍らには、血の色をした水を湛えた桶と、ジョスの服があった。
 足音も荒々しく、スヴェルトは厨房に入り、ジョスの血に染まった衣を手に取った。
「旦那さま」
 女は怯えたように言った。
「このような物は、始末しろ」
 そう言うや、スヴェルトはジョスの服を炉に投げ入れた。ジョスの気に入っていた長着、スヴェルトも好きだった衣は、炎に包まれた。
「跡を残すな。使った道具は全て、処分しろ」
 女は頷いた。
「俺は出かける。お前は、ジョスの側から離れるな」
 そう言い置くと、スヴェルトは家を後にした。

 戦士の館から戻ると、家は静まり返っていた。食堂に夕餉の支度はしてあった。
 スヴェルトは、まず、ジョスの様子を窺った。命じた通りに、奴隷女が側にいた。その目が赤く、泣き腫らしているのが、鯨油蝋燭の明るい光の下では良く見えた。
 ジョスは、この女にそれ程までに慕われていたのかと。スヴェルトは愕いた。奴隷にとり、主人は畏れるべき存在であるはずなのに。
 眠っている様子のジョスに、そっと扉を閉め、スヴェルトは大して欲しくもない食事を済ませた。
 久し振りに、正体のなくなるまで呑みたい気分だった。それは逃げだと分ってはいたが、他にどうすれば良いのかも思いつかなかった。
 だが、蜜酒をいくら呑んだところで、酔えそうにもなかった。
 暫くすると、女奴隷がやって来た。
「奥さまが、お目醒めです」
 スヴェルトは慌てて立ち上がった。そして、ジョスの元へと向かった。
 相変わらず、蒼白い顔だった。そして、やはり虚ろだった。
 スヴェルトがその手を取ると、哀しげな表情が浮かび、空色の目が向けられた。
「スヴェルトさま」
「どうだ。痛みはないか。出血は」
「大丈夫です」
 初めて聞く弱々しい声だった。
「でも、お願いがあります」
「何だ」
 スヴェルトは、どのような願いでも叶えようと思った。
「今夜は、どうぞ、一緒にいてください。一人でお待ちするのは、できそうにありません」
 ジョスの目は潤んでいた。
「ああ、そうしよう」
 そう答えると、スヴェルトは女奴隷に火の始末をして休むよう言い渡した。
 そして、上の服を脱ぎ捨ててジョスの横に潜り込んだ。亜麻の夜着を来たジョスを抱き寄せると、ジョスはスヴェルトの胸に顔を埋めた。
 胸が濡れるのを、スヴェルトは感じた。
「もうしわけありません。泣いてばかりで」
 震える声のジョスを、スヴェルトは抱き締めた。
「構わない。こういう時だ。思い切り泣けば良い。そして、明日には少し、元気になれば良いのだから」
 ジョスは頷いた。
「わたしの具合が少し、良くなりましたら、誰も来ない浜へ連れて行ってください。そして、それまでに、あなたは小さな船を作ってください」
「子供が遊ぶようなのか」
 そう言ってしまってから、しまったと思ったが、ジョスは気にしなかったようだった。
「はい」
「それを、どうする」
「わたしたちの島のやり方で、せめて送ってあげたいと思います。どうか、お許しください」
 否やは、なかった。


 数日後、スヴェルトはジョスを伴って集落の外れにある小さな浜へと行った。
「ここは、俺達の新しい館に属している。誰も、来る事はない」
 岩場を降りるのに、スヴェルトはジョスを抱き上げた。まだ、無理はさせない方が良いだろう。元気な時ならば、蝶の舞うように軽々と降りて行っただろうにと思うと、やり切れなかった。
 砂浜にジョスを降ろすと、ジョスは砂浜で小さな貝殻を幾つか拾った。
「小船をこちらに」
 ジョスの言葉に、スヴェルトは網籠から玩具のような船を取り出した。ジョスが臥せっている間に作った小さな竜頭船で、帆柱も帆も、ある。
 ジョスはその船に、布で出来た小さな人形(ひとがた)を乗せた。
(かく)り世でも、幸せに暮らせるように、海神にお願いいたします」
 そう言って、ジョスは拾った貝殻を乗せ、その他の、籠に入れてあった細々とした物を入れた。
「海より産まれた生命を、海へと還し奉ります。どうぞ、この、現世(うつしよ)を見ることもなく、永遠の夢の中に消えた生命を慈しみ賜わんことを」
 ジョスはそう言って、籠から小太刀を取り出した。嫁入り道具の一つだった。
 あの時の事を思い出し、スヴェルトはぎくりとした。だが、ジョスは自分の髪を少し切っただけだった。そして、それも小船に乗せた。スヴェルトは、自分もそうしようと思った。異教の儀式だが、神々は気にはなさらないだろう。それ程、心は狭くはないはずだ。自分の小太刀で髪を切り、ジョスの髪に重ねた。
 少し愕いたような顔で、ジョスはスヴェルトを見た。それから少し微笑んで「ありがとうございます」と小さな声で言った。そして、小船を高々と差し上げた。
「海狼ベルクリフの娘ジョスよりお願い奉ります。海神よ、この嬰児(みどりご)の魂を受け取り賜わんことを。巨熊スヴェルトとジョスの子に永遠(とわ)なる生命を授け、海の眷属の一員として迎え入れられんことを」
 小船を波打ち際に置き、粗朶をその上に乗せた。
 火打箱を取り出し、ジョスは何度も火を起こそうとしたが、手が震えていた。
「替わろう」
 スヴェルトはジョスの手から道具を受け取ると、打ち合わせた。二度三度、それを繰り返すと、しっかりと火が着いた。
「海神よ、どうか、この小さな魂をお受け取りください」
 そう言うと、ジョスは小船を海へと押し出した。慌てて、スヴェルトもそれに手を添えた。
 まるで、誰かが操船しているかのように、小船は燃えながら海上を滑って行った。
 初めて見る葬送だった。ジョスは、やはり、あの島の異教の女なのだ。
 だが、そうであっても、スヴェルトは気にはならなかった。ゆっくりと立ち上がったジョスの身体を支え、背後から抱き締めた。
「あれで、幸せになれるのか」
 沈黙は、耐えがたかった。
「船が、燃えながら外洋に行きます。大丈夫です。海神に受け入れられたのですから。それに、父親の愛情もいただきましたもの」
 初子を失う、という事が、こんなにも大きな事だったとはスヴェルトは思いもしなかった。男か女かも、定かではない、小さな存在であったというのに、心は苦しかった。父親、という意識もなかった。
 そうか、俺は親父になり損ねたのか。
 そう思った。それでも、実感はなかった。腹の中で子を育む母親との差を、思い知らされた。
 二人の見守る中、小さな船は燃えながら、やがてその姿を海の中に消した。
 だが、そこから立ち去る気持ちは、いつまで経ってもスヴェルトの中に起きなかった。

    ※    ※    ※
 
 ようやくジョスは日常に戻りつつあった。だが、それと共に、スヴェルトの家に戻る時間は遅くなる一方だった。以前にように千鳥足で帰る事も、酔い潰れて運び込まれる回数も増えた。
 そのいずれにしても、女の影はなかった。
 それだけは、ジョスの救いだった。
 スヴェルトも、子を亡くしてしまった喪失感を何とか埋めようとしているのだろう。そこから立ち直ろうとしているのだろうと、ジョスは思った。
 スヴェルトは、すっかり心を閉ざしてしまったように見えた。だが、それはジョスにしたところで同じかもしれない。スヴェルトは自分が許せないようだったが、元はと言えば、月の物がふた月も遅れていた事に気付かずにいたジョスの責任でもある。女が気付かぬものを、男に気付け、と言うのは無理だ。あの時、ジョスは、スヴェルトが自分の側にいる事に有頂天になっていたのではないのだろうか。
 どうしても育たぬ胎児もいる。そう療法師は言った。
 それも、分かる。だが、頭では分かっても心は違う。
 母もそうだったのだろうか、とジョスは思った。まだ幼くて記憶にはなかったが、この島に嫁ぐ前に、母から、自分とフラドリスとの間に二度、子を亡くしている事を告げられた。最初は流産、次は死産で。だが、それが自分の身に降りかかった際に、これ程の苦しみと哀しみを味あわねばならないとは、思いもしなかった。また、母には運命である父がいた。二人は共に手を取り合って、その悲劇を乗り越える事が出来た。
 深く傷付いているであろうスヴェルトに、慰めを求める事は出来ない。自分も、スヴェルトに慰めを与える事は出来ない
 ジョスは、無性に母に会いたい、思った。
 母の膝に頭を預け、子供の頃のように甘えてみたいと思った。
 父でも良い。
 二人ならば、何も語らなくてもジョスの心中を察してくれるだろう。
 以前、ドルスの提案で、鶏に雛を孵させた時の事を思い出した。その中に、どうしても孵らない卵があった。ドルスに訊いてみると、ドルスは黙ってその殻を割った。強烈な腐臭と共に現れたのは、どろりとした濁った液体にまみれた黒ずんだ雛だった。まだ羽毛もなく、閉じた瞼の下には大きな黒目が透けていた。それでも、小さな翼を持ち、足には爪もあった。中止卵。そう、ドルスは言った。どうしても育たない雛がこうしているのだ、と。例え、卵の中で無事に育ったとしても、殻を破る途中で力尽きてしまう雛もいるのだ、とも。
 そうした育たぬ子であったとしても、親鶏はずっと抱き続ける。ジョスは哀しい思いでその死んだ雛を見たのだった。
 以前と変わりなく、日々は過ぎていた。ドルスとソールトは、ジョスの身に起こった事を知っているだろうが、表には出さない。それは、救いだった。
 霜も降りるようになったというのに、スヴェルトの遅いのは心配だった。いかに慣れている道とは言え、夜道は危なくなる。担ぎ込んでくれる者も危険だ。一旦、雪が降り始めれば北の涯の島程ではないにせよ、深く積もるだろう。
 ジョスがスヴェルトよりも先に休む事もなくなった。仕事も殆ど今まで通りにに戻ったが、水を使う仕事は身体に触るからと、ミルドは絶対にさせてはくれなかった。
 真冬でも、この島の気候は北の涯ほど荒れないと聞いていた。港も凍る事がない。洞窟がないので、冬の間、軍船(いくさぶね)は陸揚げされ、専用の小屋へ入れられていた。必要とされるのは、沿岸での漁に必要な小さな漁船くらいだった。
 全ての日中の仕事を終えてミルドを下がらせ、一人でスヴェルトを待つ時間が、ジョスの最も辛い時間だった。
 この悲劇を乗り越えられたら、恐らく、本当の意味での絆が二人の間に出来るのかもしれない。だが、どちらか一方が立ち直る事が出来なかった場合には、どうなるのだろうか。
 考えたくはなかった。

    ※    ※    ※

 スヴェルトにその知らせをもたらしたのは、奴隷女だった。
 戸口から出たばかりのスヴェルトを呼び止めたのだ。本来ならば、余程の事がない限り、奴隷の方から一家の主人に話しかける事は許されない。この、普段はスヴェルトを恐れているような女の方から声を掛けて来るのは、その余程の事なのだろうと思った。
 だが、おどおどとした態度には苛々させられた。スヴェルトは立ち止まって女を見下ろした。
「奥さまのことですが」
「何だ」
 スヴェルトはつい、勢い込んだ。ジョスに関する話ならば、どのような話でも聞きたい。何よりも、この家で最もジョスに近いのはこの女だ。
「実は――」
 話し難そうに両手を組み、少し顔を赤らめている。
「わたしの口からは申し上げにくいのですが、奥さまはご自分ではおっしゃらないと思いますので」
「早く言え」
 つい、語気が荒くなった。びくりと女が肩を震わせた。
「奥さまの、月の物が始まりました」
 急にスヴェルトは気まずくなった。慎み深い女ならば、例え相手が夫であろうと口には出来ない言葉だろう。良く見れば、この娘はまだ若い。十代かもしれない。
 スヴェルトは自分の思いを切り替えた。
 では、ジョスは以前の生活に戻っても構わないのだ。あの女は、絶対に無理をするだろう。考えない為に、哀しみに囚われ過ぎないように。
「良く知らせてくれた。確かに、言わんだろう。だが、まだ、気を付ける事だ」
「はい」
 女奴隷の返事に、スヴェルトは満足して頷いた。この女は、裏表なくジョスに仕えている。信用がおける。奴隷としては、珍しい女だ。それとも、ジョスの奴隷の扱いが上手いのか。
 スヴェルトは女に背を向けて、戦士の館へ向かった。
 戦士階級の子弟は、十二歳になると親元を離れてそこで訓練を受ける事になっている。冬の訓練は厳しい。だが、それを乗り越えなくては、戦士としての評価は上がらない。スヴェルトは十五歳で一人前と認められた、これまでに最も早い戦士だった。それでも、決まりで十八になるまで遠征には連れて行っては貰えなかった。
 力や技がものを言う戦いの世界では、スヴェルトの右に出る者はいない。呑み較べや食べ較べにも自信がある。饗宴で、何人の他部族の戦士をひっくり返したか、憶えていない程だ。もはや、スヴェルトに挑戦しようという者はいない。
 唯論、ジョスの作る食事は味わう。いかに大量に食べようとも、味の差は歴然としていた。ただ、食欲を満たす為だけの物ではないという事も分かっていた。
 それが、ジョスの世界だ。スヴェルトには、決して理解は出来ないだろう。イルガスにしたところで、良き友だが、自分達との違いを意識させられる事も多い。海狼ともなると、全く以て不可解だった。
 違う神を奉じ、儀礼や考え方も他の北海の部族とは違う。
 ジョスの母は魔女の目をしていると言った。スヴェルトは否定したものの、ジョスは魔女の娘だ。亡くした子を送る異教の儀式を目の当たりにして、スヴェルトはジョスと自分達との違いをひしひしと感じていた。
 それが嫌な訳ではない。
 ジョスの、この島での暮らしがいかに困難かを、今にして知った気がした。何かと権威を振りかざす義姉とは、馬が合わないだろう。
 ジョスを守りたい。
 スヴェルトはそう思った。
 だが、この家から離れる、という方法しか思い付かなかった。
 それが可能になったからと言って、直ぐに次の子を、というのは、ジョスには辛かろう。自分は、良い。だが、ジョスの哀しみや心に負った傷は、簡単に癒える類いの物ではない事くらい、スヴェルトにも分かった。

    ※    ※    ※

 相変わらず、スヴェルトの帰りは遅かった。
 雪も降り出し、ジョスは心配だった。
 革の外套の上に外衣を羽織り、更に毛皮を肩に掛けているとは言え、いつも冷え切って帰って来るスヴェルトが、いつか風邪をひく事になりはしないかと気が気ではなかった。この島では、性質(たち)の悪い風邪はないのかもしれない。体力のあるスヴェルトは罹る事はないのかもしれない。それでも、用心に越した事はないだろう。
 その夜は、何時まで待ってもスヴェルトは戻らなかった。
 いつものように夕餉を平らげた後、戦士の館に出かけた。そこには、普段との違いはなかった。気まずい沈黙も、困惑したような顔も、同じだった。ジョスも、何も考えずに送り出した。
 何も、変わらないはずだった。
 どのように酔っていても、酔い潰れても、戻る時間は殆ど変わらなかった。それが、今日に限って遅いのが気にかかった。
 再び、ヒュルガの許に通っているのだろうか。
 そう思うと、胸が締め付けられた。
 嫌な事を忘れるのに、酒に逃げるのならば良かった。だが、他の女に慰めを求めるのは、我慢出来なかった。
 もし、そうだったとすれば、そうさせたのは、ジョス自身なのだろう。久しくスヴェルトの大きな笑い声は聞いてはいない。笑顔を見せる事はあっても、以前のような、何の屈託もない笑顔ではなくなっていた。
 全てはジョスの招いた事だ。
 スヴェルトは、優しい。自分では気付いてはいないようだったが、とても優しい人だ。酔い潰れた時以外は、ジョスを抱き締めて眠ってくれる。まるで、守るかのように。
 ジョスはまだ、スヴェルトに自分の身体の事は話してはいなかった。自分の中で、まだ癒えぬ傷を抱えたままに告げたくはなかった。産まれる事のなかった子の事を忘れようと、また忘れさせようと、スヴェルトは考えるかもしれない。
 葬送を行った時、最もスヴェルトを近く感じた。背後から抱き締められて、ただ、黙っていただけなのに、心が通じ合った気がした。
 だが、その間だけだった。戻れば、やはり同じだった。
 どうすれば良いのか、ジョスには分からなかった。
 相談の出来る相手もいない。
 そういう時には、必ず、島を思い出した。今はあの峡谷も氷に閉ざされ、何者もあの島に立ち入る事は出来ない。しかし、炉辺には慣れ親しんだ人が集い、語り合う。父や母に書の読み方を教わる事もあった。詩人の語りや歌を楽しみ、義姉妹と蜜酒を飲んだ。
 それが、ここにはなかった。
 ミルドやショーズ、マルナが一つ屋根の下にいても、家族ではなかった。飽くまでも、スヴェルトは奴隷と見なし、必要以上にジョスが関わるのを嫌がる。そういう場所で育った人なのだから、仕方がなかった。また、三人も巨漢の戦士を恐れている。ジョスには懐いてくれてはいても、一線を越えようとはしない。
 島へ、戻りたい。
 そんな思いがジョスを支配する事もあった。
 だが、スヴェルトを置いて、そのような事は出来なかった。
 スヴェルトは運命だった。例え、このようにして一人でその帰りを待とうとも、離れる事は出来なかった。
 スヴェルトの心は分からない。
 それでも、ジョスには自分の心ははっきりと分かっていたし、また、決まってもいた。
 元々、覚悟を決めてこの島へやって来たのだ。相手も分からぬままにでも、帰らぬ覚悟を決める事が出来たのだ。スヴェルトならば、猶更だった。
 スヴェルトと添い遂げる事。
 スヴェルトの気持ちがどうあろうと、ジョスは生涯、スヴェルトを想い続けるだろう。もはや、子供の憧憬でも、好きという気持ちではなく。
 自分達は、両親のように比翼連理とは行かないかもしれない。それでも、穏やかに日常を重ね、共に年月を経るだけでも良かった。
 何度か、うとうととしながらも、ジョスは完全に眠りに落ちる事はなかった。手仕事も手につかなかった。ふと立ち上がって、ジョスが臥せっていた間にスヴェルトが作っていた、鯨の骨を削った遊戯盤の駒を並べてみたりした。
 スヴェルトの身に何かあったのでは、という不安と、ヒュルガの存在が必ずジョスを目醒めさせ、落ち着かなかった。
 そのまま、外からは一番鶏の声が聞え始めた。
 余りにも、おかしい。
 一晩、戻らない事は、今までなかった事だ。
 不安に突き動かされて、ジョスは立ち上がり、戸口を開けた。
 雪が、積もっていた。まだ、夜は明けてはいない。だが、物の形は判別出来るようになっていた。どこにも人の気配はなかったが、そろそろ奴隷達が仕事を始める時間だった。
 時間が遅くとも真冬にも太陽が昇る事に、ジョスは毎日のように愕かされた。夏に陽が落ちる事にも愕いたが、薄明の中で冬の日中を過ごす事に慣れたジョスには、ここがより南にある事の証拠なのだと頭では分かってはいても不思議な事だった。
 探しに出た方が良いのだろうか。
 独り身の頃にそうであったと言うように、どこかの納屋で眠りこけているのではないだろうか。それならば、もうすぐ帰って来るのかもしれない。
 そう思った時だった。
 裏から、ドルスの声がした。
 何事なのかと、ジョスは戸口を閉め、裏に通じる扉へと向かった。ちらりと寝室の扉に目をやると、寒風を遮る為に下げた綴織を上げて外へ出た。
 家畜小屋の扉を開けて、ドルスとソールトが立っているのが分かった。
「どうしたの、何か、あったの」
 ジョスは慌てた。
 この二人を愕かすような何が、家畜小屋に起こったというのか。どこかの犬が入り込んで鶏や山羊を殺したというのならば、夜中の間に二人が気付かぬはずがない。戸口に茫然と立ち尽くすドルスを見ると、只事ではなさそうだった。
「奥さま、いけません」
 ソールトがジョスに気付き、止めようとした。女主人に手を触れる事のできないソールトは、両手を広げて通させないようにした。だが、ジョスは巧みにその腕を避けた。
「ドルス、何があったというの」
 動こうとしないドルスを押し退けて、ジョスは家畜小屋を覗いた。
 そこには、最も見たくはなかった光景があった。
 スヴェルト。
 そして、見知らぬ若く美しい女奴隷。
 訳が分からぬ、という顔付きで、干し草まみれでスヴェルトはいた。
 女奴隷は、泣き顔で座り込んでいた。
 二人とも、身には何一つ着けてはいなかった。
 スヴェルトは、ただ、茫然とジョスを見上げていた。
 ともすれば遠くなりそうな意識を必死で繋ぎ止め、ジョスはスヴェルトの茶色の目を見返した。
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