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文字数 1,811文字

 一通りの訓練を終え、麓丸はいそいそと帰り支度をはじめた。
「師匠、父上が巡業から帰ってくるので、今日はこれにて失礼します。母上も今ごろ、わくわくしたりそわそわしたり忙しいはずなので」
「構わんよ。わしも(がん)ちゃんと呑みに行くしな」
 はて、それは誰だったかと考え、すぐに浮かんだがさして衝撃はなかった。きっと誰も知らないところで、二人だけの折り合いがついているのだろう。想像でしかないが、師の和やかな様子からして、そう的はずれでもないと思えた。
 急に唯良乃がぽんと手を叩いた。
「そうだわ、いいこと考えた」
「はいダウト。嘘はよくない」
「わたし、お母さまに術を習おうかしら。そうしたら眠っている時も会えるものね。今夜は寝かさないゾ」
「冗談っぽく絶望に追い込むのをやめろ!」
 ぎゃあぎゃあと痴話喧嘩とは似て非なるやり取りが始まったが、嵐蔵としては、先ほどから焼いている餅の焼き加減が気になる。裏返す前に麓丸を呼んだ。
「醤油くれ」
 プライバシー保護の観点における精神世界の侵害についての議論を即座に中断し、麓丸は誇らしげにやってきた。
「そういえば、大事なことを師匠にはまだ伝えてませんでしたね。今までさんざ苦労をおかけしました。おれみたいな出来損ないをここまで鍛えてくれたことには、感謝してもし足りません。ようやくですよ。ようやく、師匠の一級品を受け継ぐ時が来たのです。信じられないでしょう、おれもです。でも、これが本来の飛騨麓丸なのです。そう、なんとおれ、術が使えるようになったんですよ。だから、いやあ、師匠には悪いのですが、ご要望には」
「何を寝ぼけとる」
 嵐蔵が指をひねると、ごく自然に黒い液体が出てきた。
「あるえええええ?」
 必死に印を結んでみるも、うんともすんともにっちもさっちもどうにも以下略であり、どの指からも各種料理のお供が遺憾なく出てくる。確かに掴んでいたはずの感覚は急速に失われ、蜃気楼(しんきろう)のような記憶の残滓が、淡い光に溶けていく。
「なんっ……で……」
 膝をつき、呻きとも嘆きともつかぬ声をもらす麓丸の耳元で、唯良乃がささやいた。
「いい夢は見れたかしら」
「くそったれえええ!」
 やけになった悲愴感が放たれ、虚空(こくう)に散る。蒼穹(そうきゅう)は揺らがず、雲は流れ、あるがままに日は傾く。黄昏(たそがれ)の空の切れ間に引かれた(しゅ)稜線(りょうせん)は、やがて沈みゆき、そしてまた飽きずに、懲りずに夜がくる。いつもそうだ。
 ぐらりと倒れこみそうになる。身体を支えたのは、白く細い腕だった。
「夢なんて無くてもいいじゃない」
 柔らかに抱きとめ、慈しむように、頭の後ろまで回されていく。何もかもを無償で、一切を受け容れるのだと、腕ごしに伝わってくる。甘い微香がした。そこにはいつも、安寧へと誘う引力があった。
「わたしは、ずっとあなたの傍にいる。夢でも(うつつ)でも、どこにいようとあなたを愛してる。たとえあなたが信じなくてもね」
 思い描く未来は夢の中にある。なのに夢は、叶えてしまうと夢じゃなくなる。()めてしまう。
 夢が純粋で、長く見ているほど、醒めた後の世界はより冷たく残酷に襲いくる。
 その差を現実と呼ぶのなら、あまりに過酷で、あまりに救いがない。だったら最初から夢なんて見ない方がいい。
 唯良乃はぎゅっと腕に力を込めた。
 だが――。
「……どうだっていいことだ」
 そっと麓丸は立ち上がった。絡みついていた腕が(ほど)かれ、離れていく。
「おれは救いなんかいらない。たとえ野垂れ死のうが、理想を追いかけていくだけだ」
 むしろ救いになるのなら、余計にすがるつもりなどなかった。
「……そう」
 唯良乃のうつむいた瞳に影が落ちた。けれどそれは、ほんの一瞬のことだった。
 歩き始めた麓丸の背中は迷いなく、なんと頼もしいことだろう。もうずっとだ。唯良乃はずっとこの背中を見ている。つまらない現実から連れ出してくれた、あの日から。
 私はやっぱりあなたが――。
「何か言ったか?」
 麓丸が振り返ると、唯良乃は微笑んだ。
「ううん。何も」
「そうか、じゃあ帰るぞ」
 麓丸は進んでいく。確かな足取りで、これからも一歩一歩を繋げていく。
 立ち止まらない。打ちのめされようと、誰に何を言われようと、忍ばぬ夢を追いかけていく。
 進む先に何があっても、求める先を信じている。たったひとつのことくらい願い続けられなければ、幻はどうしたって幻だ。そうでなくて、何を望む資格が得られようか。
 やがて現実が夢を凌駕(りょうが)し、夢は現実となる。
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