第3話 由美子

文字数 1,101文字

 ――運気が上がるわよ――

 パート仲間から聞かされてから、由美子(ゆみこ)はトイレ掃除を欠かさなかった。

 風水にも凝り出し、トイレグッズはピンクで統一した。
 中学生の息子の部屋の窓は、赤いカーテンにした。
 嫌がられたが、東側だからと押し切った。

 昔から迷信深かったわけではない。
 去年自分が犯した過ちが原因なのか、奇妙な家に関わったせいなのか、由美子は見えないものにすがるようになっていた。

 (どうか賢人を立派に成人させられる力を、私に下さい)

 由美子は祈りながらトイレを磨いた。

 幼子を連れて夫の元を出てからは、息子の成長だけが由美子の支えだった。



 
 夏の夕刻、開け放した窓から心地よい風が吹いていた。

 由美子の住まいは都営アパートの四階、風の通りが良い。
 大きな公園も学校も近くにあり、由美子は今の住まいが気に入っていた。
 アパートにエレベーターはなかったが、それも日々足腰のトレーニングをしていると思えば苦にはならなかった。

 洗濯物をたたみながら、ベランダに置かれたペチュニアの鉢植えを眺め、由美子は何事もなく過ぎていく、今日という一日に感謝した。

 たたみ終えた洗濯物を手に立ち上がった時、食卓に置きっぱなしのスマートフォンから、電話の通知音が聞こえた。

 (……賢人かしら)

 足早に台所に向かいながら嫌な胸騒ぎがした。
 そろそろ息子が部活から帰って来る時間だが、何かあったのではないか……。

 由美子は急いでスマホを手にした。

 だがそれは、古い知人からの電話だった。

 『由美子さん、元気? 急に電話して、ごめんね』

「……野々花(ののか)さん」
 由美子は声の震えが伝わらないように気をつけた。
「……どうも……ご無沙汰しています……」

 
 結婚後ほんの数年だけ、由美子はS県の外れにある小さな町に住んでいたことがあった。
 野々花はその町でパンケーキの店を開いている女だった。

 『由美子さん、一輝(かずき)さんのスマホのこと、誰かから、きいた?』

 (えっ⁉)

 別れた夫、一輝の名前を聞き、由美子は一瞬で凍りついた。

 足が震えてきた。

 『一輝さんのスマホが出てきたの。それで今、智和さんがデータの復元を依頼してるのよ……ねえ、由美子さん、聞こえてる?……この辺りも電波が弱いのかな……』

 ――あの人のスマホが見つかった!

 いよいよ自分が裁かれる時がきたのだと、由美子は怯えた。

 賢人はどうなってしまうのか、誰に託せばいいのか。
 ……それより、賢人が知ったら……父親を死なせたのは、母親の自分だと知ったら。

 賢人はどんなに辛い思いをするだろう……。

 由美子は力なくその場に崩れ落ちた。

 罪の意識よりも、頭に浮かぶのは息子の将来のことだった。

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登場人物紹介

鷲宮秀一、主人公の高校生

九我正語(くがしょうご)、秀一の従兄弟、警察官

九我正思(くがしょうじ)正語の父親。人の恋愛感情を瞬時に見抜く特殊能力を持つ。

九我光子、正語の母親。秀一の伯母。

雅、介護士。雅は熟女スナックにいた時の源氏名。本名は不明

夏穂、秀一の幼馴染。秀一に片思い。

涼音(すずね)、秀一の幼馴染

武尊(たける)、秀一の幼馴染

賢人、秀一の甥っ子

真理子、みずほ中学の教師

コータ、真理子の弟、秀一の幼馴染

野々花、パンケーキ店の女主人

岩田、秀一のテニスの師匠

鷲宮一輝(故人)秀一の兄

鷲宮輝子(故人)秀一の母親。正語の母親、九我光子の妹

水谷凛、夏穂の従姉妹

鷲宮智和、秀一と一輝の父親

鷲宮高太郎、智和の兄

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