ジキル博士とハイド氏

文字数 8,548文字


【考察論】
 原作は〝ロバート・ルイス・スティーヴンソン〟が1886年に発表した空想科学怪奇小説。
 古くから邦題は『ジキル博士とハイド氏/ジーキル博士とハイド氏』でしたが、近年では『ジキルとハイド』とされる事も珍しくありません。
 原題は『Dr.Jekyll and Mr.Hyde』なので旧訳の方が正しくもあり(ちなみに言うまでもなく〝Dr〟と〝Mr 〟の韻が言葉遊びとなっています)。

 あまり声高には語られませんが、この作品もまた『フランケンシュタイン』同様に〈SF〉という形骸カテゴライズ化が発生していない(と思われる)頃の『空想科学小説』ですから『SFの元祖的作品』と呼んでも差し支えない。
 また、同じく『怪奇小説』ですから『古典ホラー』でもあります……が『フランケンシュタイン』に比べれば、それは結果論にも映りますね。
 本作の本質は、どちらかといえば『サスペンス/ミステリー』とした方が正しい気がします。
 そこに独自性として『空想科学』や『怪奇』が付随され、結果として『空想科学怪奇小説』として形成されているのだと思いますし、そこが『文学』として重きを置かれて語られるか否かに於いて『フランケンシュタイン』と明暗を分けた起因だと私的には感受しています(『フランケンシュタイン』の場合は『文学性の高い怪奇小説』と語られる傾向が強いのに対して『ジキル博士とハイド氏』は『古典文学』として語られる傾向も強い)。
 しかしながら、やはり本作にしても『古典怪奇作品』と語られる趣を同等に孕んでいる。
 これは視点による差で、文学史的観点からは『古典文学作品』として見なされ、ホラー史観点主導に見られれば『古典怪奇キャラクター』と見なされるという事。
 要するに身も蓋もなく言えば〝見る側〟の嗜好方向性如何という事でもあり〝評論者が〈ホラーオタ〉か否か〟という背景にも繋がっているのですが『フランケンシュタイン』『吸血鬼ドラキュラ』『吸血鬼カーミラ』等に比べると、この作品像評価に於ける二面性は顕著にも思えます。
 宛ら本作の命題を反映したかのようで面白い事象です。



 今更語るほどの雑学ではありませんが、このキャラクターは『高潔紳士〈ヘンリー・ジキル〉が自ら作った禁忌薬品によって悪徳の申し子〈エドワード・ハイド〉へと変貌した姿』です。
 ですが、その薬品開発背景までは意外と知られていないのではないでしょうか?
 何故、ジキルは、このような禁忌薬品を作ったのか?
 実は『いい子ちゃんでいる閉塞感に疲れたから』なのです。
 常に〝高潔誠実な模範的紳士〟で在る事に限界を感じ、何処かで〝本心〟を解放したかった……まぁ〝ストレス発散〟ですね。
 ところが〝自分自身〟や〝社会的地位〟を棄てる勇気も無かったので、いっそ〝別人〟として行動できる自由度から欲した。
 つまり〝科学薬品の予期せぬ副作用〟とかではなく、最初から〈ハイド〉へと変身する事そのものが〝目的〟であったワケで〈ヴィクター・フランケンシュタイン:『フランケンシュタイン』〉のように「人類のために生命創造を!」とか〈アンドレ博士:『蝿男の恐怖』〉のように「この転送装置で科学を更に発展させるぞ!」といった大義的動機ではなく個人的な私利欲求。
 映画ではストレートに描かれていますが、原作では詩文的高尚さで『善悪二元論の分離実験』と難解に独白しています……が、本音を要約すれば〝同じ事〟です。
 しかしながら、ある意味では非常に〝等身大〟とも言えます。
 我々とて〝社会的倫理に在る自分〟と〝内に秘めた欲望〟は違う(だからと言って、倫理放棄に溺れていい理由にはなりませんけれど)。
 むしろ近代の方が共感に判り易いのではないでしょうか?
 現実世界は言うに及ばず、最も似通った環境は〈ネット社会〉で、そこでは〝匿名性〟という仮面にて悪意のままにストレス発散する輩も多い。
 ジキルの心理としては、そういう事。

 ところが、予想外の二重苦によってジキルは追い詰められていきます。
 ひとつは〝薬品に不備が生じた〟という事。
 この変身は〝どちらの姿〟になるとしても薬品の服用が必要となるのですが、調合材料に純度の低いものが混在していた為に〈ハイド〉から戻れなくなっていったのですね。
 もうひとつは〝裏人格〈ハイド〉の蛮行が制御不能なほどのものであり、遂には殺人事件までもを犯してしまった〟という点。
 こうした背景からジキルは悲惨な自滅へと追い詰められていくのです。
 ですから、最終的にはキチンと教訓を帯びている啓蒙的キャラクターと呼べます。



 サブカルチャーに於いては、やはり『映画』という媒体による印象定着が大きいでしょうか。
 むしろ今日まで流布している作品像は〝映画版設定からの漠然とした先入観〟が一般認知に独り歩きとなっている気がします。
 そう言えるのが〝オチ〟の在り方。
 基本的に『ジキル博士とハイド氏』は〝ハイドと同一人物と明かされたジキルが、これまでの悪行のツケとばかりに自滅の非業死を迎える〟という形です。
 恋人の眼前で〝秘密〟が露呈し、ハイド化したところを警察によって銃殺──最期はジキルへと戻り罪悪感の吐露にて息を引き取る。
 これが大多数の層が思い浮かべるラストでしょうが、実は映画版のラスト展開であり原作とは異なる。
 原作では〈ハイド〉はジキルの既知〝ヘイスティー・ラニョン博士〟に材料を揃えるように依頼し、彼のラボにて調合──その眼前で変身を披露して、彼を呆然慄然とさせるのです。
 そして、幕引きは親友〝ゲブリエル・ジョン・アタスン弁護士〟に残した手紙で締められており、そこには一連の背景を独白吐露に綴ってありました。
 原作に於いて〈ジキル/ハイド〉は失踪して終わっていますが、内容文から推察するに、おそらく破滅の悲嘆に自害しているものと思われます。
 しかしながら明確な生死は不明のままであり、そこも含めた宙ブラリ感が釈然としない余韻を生んで〝如何にも怪奇物語(現代怪談)らしいオチ〟と仕上がっています。



 映画版に於いては殊更に初作『ジキル博士とハイド氏(1931年作品)』は有名であり、またホラーマニアからも『不朽の名作』と称賛され続けられる作品です。
 本作はユニバーサル社のメガヒット作品『魔人ドラキュラ(1931年作品)』に対抗すべくパラマウント社が製作したホラー映画になります。
 高評価となる主な理由としては、主演俳優〝フレデリック・マーチ〟による好演(怪演)に依る部分が大きく、また初の本格的特殊メイクで〝迫真の異形変身を見事に視覚表現化した〟という功績が大きい。
 まだ、特殊メイクの代名詞『狼男(1945年作品)』すら登場していなかった時期ですから、この〝野人然と完全なる変貌を遂げた特殊メイク(及び、変身シーン)〟は、実に驚嘆にも値する演出です(前身映画『倫敦の人狼(1931年作品)』は在りましたが)。
 ただし、それのみならず、やはりフレデリック・マーチの演技力──つまり〝高潔誠実な紳士ジキル〟と〝野蛮な背徳の申し子ハイド〟の二面性を見事に演じ分けきっていたという点を看過してはいけない。
 そして、この秀逸な奇異性を以て、フレデリック・マーチは『1931年度アカデミー賞最優秀主演男優部門受賞』という快挙を果たしました。
 現在では〈ホラー〉〈SF〉〈ファンタジー〉といったいわゆる『通俗娯楽作品』が受賞するケースも珍しくはなくなっていますが、それはこうした作風も市民権を得た背景に在るからであって、当時のアカデミー賞は特撮を用いたような通俗娯楽等は俗悪レッテルの蔑視偏見を抱いていて冷遇だったと云われています。
 そうした渦中に於いて、これは相当な偉業と呼べましょう。
 また、本作は同年に於いて『ヴェネチア国際映画祭最優秀主演男優部門及び独創的映画部門』も受賞しています。
 古典ホラー映画に於いて頭ひとつ違う格に在る……というか、現代でもこれだけの格式高い受賞を数々果たした『ホラー映画』というのは特異ではないでしょうか。

 やや後年(1941年)にはパラマウント社自身が〝スペンサー・トレイシー〟主演によるリメイク版を作成しました(こちらもモノクロ映画です)。
 ホラーファンからはイマイチ評価が奮いませんが……私的には全然悪くない。
 むしろ〝胃の下から込み上げてくるような胸糞の悪いゲス〟の描写としては、コチラの方がやや上な感もあり。
 本作に対する多くの酷評は、私的に分析すれば「ジキルが〈怪物〉っぽくない/異形性に乏しい」という主張に要約出来るんですよね。
 あーだこーだ映画論的に建前飾っていても、本音としては「そこでしょ?」って看破出来ちゃう。
 まぁ、確かに私にしても(怪物オタですから)本作〈ハイド〉の異形性の乏しさには些か食い足りない感も拭えませんが……そもそも原作準拠前提ならば〈ハイド〉は〈怪物〉ではなく〝野卑な醜男〟に過ぎませんから的外れではない(この〝ハイド=怪物然〟という先入観は、それこそ『フレデリック・マーチ版映画』から派生した観念です)。
 むしろトレイシーは特殊メイク過多に依存しない確かな演技力のみで見事に演じていましたから、そこは素直に力量を称賛すべきでしょう。

 平成期には『ジキル&ハイド(1996年作品)』が製作されています。
 とはいえ、この作品は『ジキル博士とハイド氏』のリメイク映画化ではなく、実は〝ヴァレリー・マーティン〟によるフォロワー小説『メアリー・ライリー』の映画化──そもそも『ジキル&ハイド』は邦題で、映画原題は『Mary Reilly』です。
 この『メアリー・ライリー』は出版当時プチスマッシュヒットとなった小説で、最大の特徴はジキル博士に仕える女給〝メアリー〟の実体験視点を以て『ジキル博士とハイド氏』の全容が語られているというスタイル。
 映画は名女優〝ジュリア・ロバーツ〟を据えての製作でしたが、私的にはどうもイマイチでしたね。
 悪くはないものの、かといって満足に足る出来でもない。
 終始重厚な雰囲気で〝大作感〟を推して来るものの〝それだけ〟という感じで、少なくとも私的に『ジキル博士とハイド氏』を観ている充足感には至らなかった。



 近年に於ける〈ハイド像〉は、何故か〝野性味溢れる粗暴なマッチョ巨体〟になっています。
 例えば『リーグ・オブ・レジェンド 時空を越えた戦い(2003年作品)』然り『ヴァン・ヘルシング(2004年作品)』然り……。
 これはおそらくアメコミヒーロー『超人ハルク』からのインスパイアでしょう。
 ですが、そもそも『超人ハルク』自体が『ジキル博士とハイド氏』のコンセプトに『フランケンシュタイン』を混合して再構築したヒーロー像ですから、ある意味、逆輸入的な着地。
 一方で『超人ハルク』との明確な差もあり、それは〈巨躯型ハイド〉は〝凶暴狡猾な悪意〟が根底に潜在しているという〈ダークヒーロー型性質〉です。
 ま、その〝悪意〟こそが〈ハイド〉というキャラクターのアイデンティティーですから、そこを喪失してしまっては本末転倒な別物ですし、これは当然と呼べましょう(失念した場合は、よほどのヘッポコアレンジです)。
 こうした変質は、偏に近年主流が『ヒロイックなアクション娯楽』に比重を置かれているという証明でもあり、ともすれば〈モンスター〉にとて〝ヒーロー性/善玉的感情移入〟が求められているという事。
 で、それを最重視すれば〝目を惹くアクションスター性〟〝奇怪ながらもカッコイイ印象〟が求められ、だから〈ハイド〉も〝そうなった〟ワケです。
 しかしながら、本来の〈ハイド〉は真逆の像に在ります。
 体躯は巨体でも筋骨隆々でもなく、むしろ小柄な醜男。
 身体能力面でも〝ストロングスタイルのパワーファイター〟ではなく〝俊敏〟の方です。
 顕現している内在は〝芯から滲み出ている性根の腐った悪意〟のみ。
 その風貌や言動は見るだけで不快感を誘発し、それは特に理由が無くても生じる〝オーラ〟のようなもの。
 どうして〝そうした不快な心境になるのか〟は釈然としない不思議な存在なのですが、読者視点にて分析すれば〈ハイド〉とは〝人間の悪そのものを表層具現化した特異存在〟ですから至極当然な忌避嫌悪感誘発性質なのです。
 これは〈フランケンシュタインの怪物〉や〈リヴィング・デッド〉のような〝グロテスクな外見による生理的嫌悪〟とは異なり〝誰しもが心底に秘めていながらも黙殺封印している性質をダイレクトに直視感受させる存在〟という事で、やや強引な言い方をすれば〝万人共通の近親嫌悪〟とも定義できる。

 上記のような〈アクション性質に在るハイド〉が何処から存在したかを私的記憶に手繰れば、マイナーながらも興味深い作品に当たります。
 ファミコンソフト『ジーキル博士の彷魔が刻』です。
 何故か『逢魔ヶ刻:おうまがとき』ではなく『彷魔が刻:ほうまがとき』と独自の読みとなっています。
 タイトル通り『ジキル博士とハイド氏』を題材とした横スクロールアクションで、要するに『悪魔城ドラキュラ』や『魔界村』タイプのゲームですね。
 最大の売りは、やはり〈二面性変身〉にあるのですが、それを反映した構成は(ファミコン時代にしては)チト独自性が高い。
 通常は〈ジキル〉で進む右方向強制スクロールとなっていて、最終目的は〝恋人が待つ教会へと辿り着いて結婚式を挙げる事〟です。
 しかし、この手のゲームの御約束として進行障害が立ちはだかります。
 爆弾魔やら、パチンコ攻撃してくるガキやら、近隣喧嘩に物品投げてくるアパート住人やら、ライフル撃ちまくるオッサンやら……治安悪いなロンドンw
 で、これらにダメージを受けるとジキルのストレスゲージが溜まっていき、フルになると〈ハイド〉へと変身します。
 一応は攻撃手段として〈ステッキ〉がありますが、反撃を仕掛けるだけでもジキルのストレスゲージが加算されるので、どうやっても〈ハイド〉へと変身するように仕組まれている(ストレスを溜めないようにクリアするには〝回避〟の一択しかない……が、まず無理w)。
 そして、ハイド化するとステージが一変。
 ジキルとは逆の左方向強制スクロールとなり、街並みも魔界然と変貌して敵も〈魔物〉になります。
 設定としては『ハイドを通したジキルの目には、普段の光景が〈魔界〉と映っている』そうですが、という事は〝街人が〈魔物〉として感じられている〟という解釈でしょうか。
 つまり〝ハイドは自分に排斥攻撃を加える害敵として世間を認識している:現実への否定攻撃心から来るフィルター〟という事だとしたら、なかなか原作の意向を汲んだ面白い表現方法です。
 ただしファミコンレベルの淡白さでは伝わり難く、説明書の設定を読まなければ知る由も無い(況してやストーリー演出デモも無い横スクロールアクションゲームだし)。
 で、ハイドステージはジキルステージと別物カウントであり、魔界然としたロンドンを改めてスタート地点から進みます。
 ハイドの場合は〝反撃上等〟のスタイルとなり、敵を排除すればするほどストレスゲージが減少──消費尽くすと再びジキルステージへと戻り、中断していた進行を再開する事となります。
 この相互的な繰り返しで各自の鏡写しステージを進めていくワケですが、仮にハイドの進行地点がジキルと同地点に追い付くと、神の審判が落雷と落ちて死亡──ゲームオーバーです。
 独自性は高いですし原作尊重の上で『ヒロイックアクション』へと新生構築した設定は好感を抱けますが、ともかく難易度は高いので『難ゲー/クソゲー』のレッテルを貼られています。
 私自身も当時友人にプレイさせてもらいましたが『魔界村』『夢幻戦士ヴァリス』『トランスフォーマー コンボイの謎 』に匹敵する難ゲー度でしたね……当時は「ビギナーには進められない難度に!」っていうのが製作マストだったのかしら?
 それはともかくとして、おそらくコレが初の〈アクション性質ハイド〉だったと記憶しています。
 しかも、このゲームに於けるハイドは〈サイコウェーブ:思念波〉という遠距離攻撃手段を備えており、私の知る限り〈戦闘異能力〉が備わった〈ハイド〉は本作のみ。
 とはいえ、このマイナーゲームが後年のサブカル像に影響を及ぼしたとは考え難く、やはり〈アクション性質ハイド〉の起点は先述した『超人ハルク』からのインスパイアだとは思いますけれど。



 さて、話は少し脱線的に変わりますが……かつて『文学作品を描き下ろし漫画で刊行する文庫シリーズ』が在りました。
 出版社側も「新たなムーブメントに育てるぞ!」とばかりに大々的に推していましたね(大コケしたけどw)。
 私的には「いや、それで〝原典読んだ気になる〟って……邪道だろ」と否定的でしたが、試しに触手が動いた作品だけ読んでみた……酷過ぎたwww

 まず本項の『ジキル博士とハイド氏』。
 このコミカライズでは語り部が〝助手〟で、彼の視点を以て〝ジキルの禁忌実験/ハイドの悪行三昧〟を綴るスタイルを取っていました。
 ま、明らかに『メアリー・ライリー』のパク……コホン……模倣です。
 が、コイツ中盤でハイドに殺されちゃうの!
 うん、文庫本中盤で!
 ダメだろ!
 そんな降板確定のキャラクターを〝語り部〟に据えちゃ!
 劇中に於ける〝語り部〟というポジションには、終始一貫して〝作品を語り続ける役割/見届ける役目〟があるんだから!
 そんな〝ザブン ● ル→ウォーカーギャ ● ア〟〝エ ● ガイム→エ ● ガイムMKⅡ〟〝ガ ● ダムMKⅡ→Zガ ● ダム〟みたいな軽々しいノリで降板させるな!
 ってか、コッチの方が、まだマシだわ!
 だって〝スポンサーの商業意向ワガママ〟で製作スタッフ側が振り回されただけの不本意な結果論だからね?

 続けて、カフカの『変身』。
 ま、極力ネタバレ防ぐ為に物語詳細には触れませんけど……何で家族が「あー、やっと解放された ♪ 」とばかりに晴れやか大団円に染まっているんだよ!
 違うだろ!
 そこも〝込み〟で相反する感情とか……愛憎の矛盾とか……家族愛と自己防衛の葛藤とか……諸々混在する〝割りきれないモヤモヤ感〟が本作の肝だろ!
 読者にアレコレ考察する余韻を含ませるのが肝だろ!
 何で最大の肝となる〝着地〟で〝アレンジャーの短絡的主観〟を押し付けてるんだよ!

 んで、一番酷かった『ティタノマキア』ね。
 ……。
 …………。
 ……………………。
 ただの〈熱気バサラ:登場作品『マクロス7』〉ぢゃねーか……この〈ゼウス〉。
 熱気バサラが『超常異能バトル』してるだけぢゃねーか。

 もう、ね?
 どれもこれも〝コミカライズ漫画家の主観押し付け〟や〝中二病な同人漫画〟でしかない。
 物語自体も脚色拡張しすぎで〝原作のコミカライズ〟ではなく〝原作を便宜的にイメージソースと名乗った別物〟でしかない。
 確かに『漫画』や『映画』というのは臨機応変な多角的視点に描ける『小説』と違って〝読者代行となる主観担当〟が必須になってきますし、また、そうした面からアレンジも避けては通れない……けれど、コレだったら同じく〝主観強要アレンジ〟でも『映画』の方を観た方がマシ。
 っていうか『まんが歴史偉人伝記』でも読んだ方がマシ。
「あの名作、マンガなら読めた」と〝劇団ひ ● り〟が笑顔にキャッチコピーする帯が、実に空々しく感じましたとさw
 いや、もう、コレ読んでも『原作に触れた』形にはならんだろ……爪先ほども。
 こんなんで〝読んだ気〟になるぐらいなら、是非とも『原作』を〝読んで〟下さい。
 実際に割く読書時間は、そんなに変わらないんですから。



 本作『ジキル博士とハイド氏』は『異形変身もの』の始祖的作品とも言えます。
 後年のホラー映画『狼男』も本作と『狼少年事件』を混合的に織り混ぜて誕生していますし(『モンスターコラム:狼男』参照)、同じくユニバーサルホラー映画『透明人間(1933年作品)』も本作を踏襲している事実がメイキングにて語られています(ともすれば、リメイク作品『インビジブル(2000年作品)』のゲスっぷり変貌なんかは顕著な演出と呼べるかもしれない)。
 この『ジキル博士とハイド氏』にて大きなポイントなのは、その〝異形変身〟に〝負の側面〟〝価値観の逆転〟〝レゾンデートル直視の自己葛藤〟等が『古典』でありながらも既に織り込まれていた点で、これは『デビルマン』『凄ノ王伝説』『手天童子』等で〝永井豪〟が日本サブカル市場に導入して、ともすれば社会風評から異端視に「過激で低俗な有害作品」「倫理観念破綻の精神異常漫画家」と難癖攻撃され続けた方向性。
 だけど、それが開花に市民権を得た事で『新世紀ヱヴァンゲリヲン』『東京喰種』『チェンソーマン』等が系譜として派生する土壌へと結実しました。
 そうした流れを俯瞰に見れば、本作『ジキル博士とハイド氏』こそが紛れもなくルーツと呼べるでしょう。


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