二十五

文字数 3,464文字


 翌日、一仕事を終えたあと、わたしは用があると言って、いつも彼と一緒に行く図書館には行かなかった。
 そして原稿用紙「みたいなもの」を十三束だけ出して鞄に詰め、バイクを駆った。
 例の借金を帳消しにするためであった。
 対応した銀行員やカードローン会社の従業員は、延滞していた金利も含めて全額が戻ったというのに、なんだか不服そうだった。
 貸すときは、いかにも嬉しそうにこにこ顔で貸すというのに、一括返済してもらうぶんには浮かぬ顔をする。
 金融業の本質を知った気がした。
 返済金は、わたしが負担したのではないが、彼らがそんな態度を取るのを見るのは小気味がよかった。
「社長、またお願いしますよ。大口やったら、金利安うしまっさかい頼んますわ……」
 カードローン会社の従業員が言った。その眼には、ありありとわたしに対する羨望と口惜しさのようなものが滲んでいた。
「ああ。そんときは、また頼んますわ」
 わたしは、ヨシダ・ワークスの全盛期のときのように、意気揚々と背筋を伸ばして店を引き揚げた。
 これはこれで、スムーズに解決した――。
 美貴も、あの世で見届けて喜んでくれていることだろう……。
 問題は、真崎家へのアクセスをどうするかだった。
 それから三日後に、北白川に行った。
 しかし、何度、部屋番号を押しても、インターフォンに出る人間はいなかった。エントランスを行き来するひとに訊ねても、プライバシーを尊重するためか、さあ、どうでしょうね――と小首を傾げて、通り過ぎるばかりだった。
 度々そうしたことが続くので、顔見知りになった守衛が
「またお留守ですか、届け物も大変ですね」
 と、帰りがけにお愛想を言ってくれる始末だった。
 よほど荷物を預けようかと迷ったが、守衛という職業がそんなことのためにあるのでないのは言うまでもなかった。
 ただ送り届けるだけなら、行く必要はない……。二人の前で頭を下げ、謝罪することに意味があるのだった。
 念のため、電話帳で調べてみると、その住所地に真崎順三の名はあった。だから、引っ越してはいないはずだった。だが、電話に出る者は誰もいなかった。代わりにお手伝いさんでもいそうなものだが、それすら出る気配はなかった。
 親子そろって、外国旅行でもしているのだろうか――。
 いまだ大学教授であれば、外国の大学で教えていることもありうる。それにしても、娘さんくらいはいるはずだった。
 ひょっとして、結婚し家を出ているのかも知れない……。
 いずれにせよ、二人がこれだけ長く不在にしているというのも解せなかった。しかし、現実は現実。なにをどう考えても、いないものはいないのだった。
 そうして一週間が経った……。
 しかし、相変わらず、誰も電話に出ることはなかった。
 このころは、さすがにわたしも賢くなって、直接、出向くことはしなくなっていた。身体も、寒空での寝食が崇ってか、徐々に言うことを聞かなくなっていた。足の甲が腫れあがり、歩くのが苦痛になっていた。
 そんな日が続いたある日、あまりの寒さに眼醒めると、いつの間にか、乾いた雪が宙を舞っていた。路面が凍てつき、バイクや自転車で走行するのは、明らかに危険だった。ましてやアルミ缶のように嵩の張る荷物の運搬は無理だった。
「吉田はん、今日は止めときまひょや――」
「そやね。止めときまひょか」
「そうですわ。転んで怪我しても、つまりまへんしね」
 そんなわけで、この日は、朝から図書館にこもって小説書きに専念することにしたのだが、彼女が死んだあとのわたしは、いままでのような切羽詰った思いで小説を書き続ける気力を失いつつあった。いったい、なんのために書いているのか。書き上げたとして、誰に読んでもらうのか……。
 小説はしかし、エンディングに差し掛かっていた――。
 あとは、主人公のわたしがどのような形で死ぬかであった。
 もともとこの小説は、日記に近いスタンスで書きまとめてきたものであったが、一応の結構はもっていて、当初の予定では妻が自殺し、わたしは殺されることにしていた。
 だが、妻が殺されることにより、事実は小説どおりではなくなってしまった。しかも、保険金の処理という厄介な荷物まで現実世界に背負い込む形になってしまった……。
 エンディングを書き進めるにあたって、大きく立ちはだかってきた障碍は、その保険金をどういう方法で真崎家に届けるかということであった。これが解決しなければ、小説の中のわたしも、現実のわたしも死ぬに死ねないのであった。
 それにしても、こうまで不在が続けば、別の方法を考えねばならなかった。
 色々と考えた末、わたしは、宅配便で送る方法を思いついた。ある意味で、無謀な賭けであったが、まさか荷物の中身が四千万円近い札束で埋まっていると思う人間はいないだろう。そうして謝罪文入りの書簡を入れて送り届けさえすれば、わたしはいつなんどき死に急いでもいいのだ……。
 そう思いついて、あの旦那さんと娘さんに宛てて短い手紙を書いた。そこには、これまでに感じてきた、さまざまの心情と二人の間に起こったできごとを詳細に記した。
 でき上がった手紙は、便箋にして三十枚ほどのものだった。
 その手紙を銀行から持ってきたA4が入る封筒に入れ、封をせずに荷物の中の目立つところに忍び込ませた。そして、郵便局でもらってきた送付状に宛名と住所を書き入れ、差出人の住所を熊本の土肥の住所にし、差出人名を「土肥哲郎さま方 吉田栄一」とした。
 まかり間違って届かなかった場合、転送先もしくは返送先がなければ、宙に浮いてしまうリスクを避けたわけであった。
 これを受け取った土肥は、封のない手紙の中身を読み、すべてを悟ってくれるだろう。そして、遠からず二人の許へ確実に届けてくれるに違いない。
 そして、この荷物が彼の許へ届かなければ、それでよし。二人が受け取ったということになる。
 よし、これで手筈はすべて整った――。
 わたしは、すべてのことをやり終え、満足の笑みを浮かべた。
 あとは、この荷物を郵便局へ持っていくだけだ……。
 今日は無理だが、二日もすれば晴れるだろう。
 乾燥したような粉雪だから、積もりはしない……。
 この二日以内になにがなんでも郵便局へ行き、ちゃんと手続きを済ませよう。
 そして、夜になったら、村上と一緒に最後の晩餐会をやり、思いっきり飲もう。
 彼が酔いつぶれ、寝静まったところを見計らって、あの河川敷から妻の許へ旅立つことにしよう――。
 おそらくこの寒波は、明日の夜も続くだろう。
 川の中に膝まで浸かり、酔いに任せて眠っているうちに、水に浸けた足が徐々に冷え、わたしは冷たくなって行く……。
 寒気が腰から胸へと拡がって行くころには、歯の根も合わなくなるだろうが、意識は朦朧とし、彼女が天使の微笑を浮かべて、ついそこまで迎えにきてくれているのが見えるはずだ。
 ああ。しかし――。
 こういう面倒臭いことを考えたり書いたりするより、一日でも早く彼女のところへ行きたい。もうその気力はわたしにはない。
 美貴よ。わたしはついに、お前のところに行く……。
 お前の望んだ家も買わず、墓も建てず、犬も飼わなかった。
 だが、怒らないでほしい。最後まで手間をかけたわたしだが、決して蔑んだり罵ったりしないでほしい。おまえには、いくら感謝してもしたりないくらい、心から感謝しているのだから……。
 ありがとう。お前と暮らせて、わたしは幸せだった。すぐに行くから、お前の得意な温かい料理をつくって待っていてくれ。ホームレスになったわたしが、お前の作った肉じゃがを食べたとき、これまでのホームレスがどんな気持ちで味わったかを、そのとき初めて知ることができるように……。
    *
 吉田の原稿は、ここで終わっていた――。
 三田は読み終えて、不思議な感覚を覚えた。終わっているといえば、確かに終わっていた。エンディングは、それなりに成功していた。だが、なにかもの足りず、つぎのページをめくろうとしても、そのあとにべージが存在しないのであった。
 ここで文が終わっているということは、どういうことを意味するのだろう。小説に含みを持たせる意味で、敢えてここで終わらせたのだろうか……。
 しかも、最後の行には大抵の作者がするであろう、脱稿の印「完」の字や「了」の文字も存在しないのであった。
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