第1話   ガイアツがもたらした共同親権

文字数 4,300文字

 2024年、国の法制審議会は夫婦間の婚姻破綻による離婚後の共同親権の導入に向けた要綱案のとりまとめを行い、 引き続き国会の衆参両院で審議が行われた。そして同年5月、参議院で民法改正案が可決され、ついに日本でも共同親権制度が実現することになった。はて、この問題について近年、特段に国内で議論が熟したというわけでもないのに、どうしてといぶかる向きも多いのではないだろうか。実はこの国特有の意思決定過程といわれる、ガイアツがその正体だったのである。
 数年前、家庭裁判所という名の密室で当事者だけで争われる以外では、ほとんど話題になることもなかった共同親権について、世論の関心を集める格好の事例が持ち上がった。数々のオリンピックなどでも活躍し、女子卓球選手として国内外でも人気の高い福原愛のケースである。
 現役時代、愛ちゃんのニックネームで親しまれ、国民アイドル的な存在の福原愛が台湾の卓球選手、江 宏傑と国際結婚したことが報じられたのはリオデジャネイロオリンピック後の2016年のことである。美男、美女同士の国際結婚とあってマスコミなどでも派手に取り上げられ、その後、日本のビールメーカーのCMにも夫婦で仲睦まじく出演するなど、誰もがうらやむようなカップルのように映った。
 二人の間には2017年に第一子の長女が誕生、それを機に福原は現役引退を発表、2019年には第二子の長男を出産した。いずれも当時、夫の母国を夫婦の生活拠点にしていたことから台湾生まれということである。しかしその後、巷で夫婦間の不仲が噂されると2021年に突如として離婚成立が伝えられ、テレビのワイドショーや大衆週刊紙上をにぎわした。
 幸いなことに台湾は日本とは異なり、すでに共同親権を採用していることから別れた夫婦間の親権争いが生じることもなく、二人の子供も母国の台湾で父方に育てられることになった。しかし、福原が2022年の夏休みに台湾を訪れた際に長男を日本に連れて帰り、その後雲隠れして連絡が取れなくなったために、元夫が日本人の依頼人を通して日本の家庭裁判所に申し立てを行い、裁判所からは福原に長男を父親に戻すように命じる「保全命令」が出された。しかし福原は、すぐに引き渡しには応じず長男を連れて中国に渡ったりしたために、元夫は裁判所に対して強制執行を申し立てると同時に、日本の警視庁に刑事告訴を行うに至ったのである。
 台湾人の元夫、江さん側が強気に出た背景には、オランダハーグの国際会議で採択されてから遅れること30年以上、2014年に日本でようやく批准されたハーグ条約の存在がある。世界100か国以上が加盟するハーグ条約とは、国境を越えて片方の親に連れ去られた子供をもとの母国に返還する義務を定めた国際法であり、不名誉なことに日本が批准を迫られたのもガイアツによるものであった。それ以前、国際結婚の破綻に伴う日本人妻による子供の連れ去りが横行していて、関係各国から子供の人権が侵害されているとの非難が集中していたためである。福原の取った行動も、この条約の履行に違反していることは明らかであった。
 紛争が長期化するのではないかと思われたが、このままでは最悪の場合、未成年者略取誘拐罪での国際指名手配という事態を恐れた福原側の弁護士が依頼人の説得にあたった。そして元夫側の代理人に和解を申し入れ、親権を巡る泥沼の争いから一転して和解が成立、福原も記者会見を開いて 「今後は江さんと協力して子供を育てていきたいと思います。」と、わずか4分間の会見の中で反省の談話を発表した。この和解が、父親という存在を消し去られようとしていた被害者の長男の将来にとってどれほど重要な意味を持つことか、この国が単独親権から共同親権へと法律が変わることに、今なお反対する人々にはよく考えていただきたい。
 この問題を議論するときに考えなければならないのは、前述したように国際結婚した日本人女性と外国人夫との間で親権を巡る争いになるのはこれが最初ではないということである。日本人妻が夫の同意を得ないままに子供を日本に連れて帰ったのちに日本の家庭裁判所で離婚を申し立て、そのまま父子が生き別れになってしまうというケースが少なからず起きていたのである。なぜこのような悲劇が起こるかといえば、日本の単独親権の法律の下では他国では誘拐のようなことが法的にまかり通ってしまうためである。残念ながらこの国には、依頼を受けるとまず最初に子供を連れての別居を促す、いわば離婚請負人とも称すべき弁護士も数多く存在する。人の不幸を生業とするハイエナのような存在の彼らにとって、子供と一緒の別居という既成事実化が、親権争いに勝つための方程式であることを知り尽くしているためである。
 
 外国人夫が日本の裁判で争うには、高いハードルを乗り越えなければならない。日本の弁護士に依頼するにしても言葉の問題、訴訟費用の問題、そして何よりも何年にも渡る裁判所での離婚訴訟の実態。その間に子供も新しい環境に慣れてしまうとともに母親からの無言の圧力を受け、父親に会いたいと自らの言葉で発することもできなくなってしまう。そのような絶望的な状況下で頼みとするのは、自らの母国政府から日本当局に対しての政治的働きかけをしてもらうことでくらいであろう。2020年、欧州議会は、ハーグ条約批准後も日本において片方の親による子の連れ去り事例が後を絶たないことから、連れ去りから生じる子どもの健康や幸福への影響について懸念を表明した。また日本の当局に対しては、子どもの保護に関する国際法を履行し、共同親権を認めるよう法制度の変更を行うことを求め続けてきた。ハーグ条約の批准だけでは不十分だったということである。
 実は先進国で、国際的に重要なこのような決議がなされていることを伝えた日本のメディアはほとんどない。彼らもまた日本の法曹界同様、子供の人権に対して無頓着であり、国際法の遵守に消極的な報道姿勢だったと言わざるを得ない。なぜ今なのか、多くの日本人が、国会で共同親権への法改正が審議されていることに唐突感を覚えるのはこのためであろう。そもそも問題意識がなかったためであり、要するにこの国はガイアツがなければ何も決められない何とも情けない国家に成り下がってしまったのである。
 もっともこの国では民主主義制度さえ進駐軍によってもたらされたものであり、自ら勝ち取ったものではない。本当に民心に根差したものではないため、その機会をうかがっている全体主義勢力が易々ととってかわるのではないかいう危うささえ抱えているように映る。最近の武器輸出など国家の将来を左右する重要な法案が、国会審議のプロセスも経ないまま時の与党の閣議決定されてしまうというようなことがまかり通る国が、果たして民主国家といえるのか。そのような政治的怠慢を許している責任の多くは、いとも簡単に権力にすり寄る傾向が透けて見える日本のメディアにあると言わざるを得ない。本題から外れるのでここでは触れるだけにしておくが、毎年発表される世界各国の報道の自由度ランキングで日本は、G7国家の中で最下位、直近のものでは世界第70位という客観的な評価も頷けよう。
 単独親権制度の下での国際結婚の破綻に伴う子供の連れ去り問題は氷山の一角にすぎず、日本人夫婦間の場合は文字通り親権を巡って泥沼の争いとなる。両親同士の、不毛の争いのはざまで数多くの子供が傷つき、幸福に生きるための当然の権利さえ奪われていると言っても過言ではあるまい。その子供たちにとって、例えそれがガイアツによってもたらされたものであったとしても、強制的に片方の親から切り離されるという最悪の事態を免れるための法改正は朗報であるはずだ。
 
 この期に及んでも「ストップ共同親権」を叫んで署名活動を続けているグループも存在するが、この女性たちの本音は離婚によって元配偶者との関係を一切立ちたい、リセットできるはずということなのであろう。確かに二人の間に子供がいなければそれも否定はしない。しかし子供をもうけたのであれば、それは自分だけの専有物であるはずもなく、子供の幸福ために両親が関わって育てるという義務を負っていることを忘れてはいないか。この国では「おなかを痛めて産んだ子ども」などの表現に代表されるように、母親と子供は切っても切れない分身のような関係と捉える傾向が強すぎるように感じる。そうではなく、へその緒を切り離した瞬間から子供は人格を持つ固有の存在であることを認識すべきである。
 父親と生き別れのような環境を恣意的に作って子供を苦しめてきたいびつな法律を、世界常識並みに改めることによって子供の人権を取り戻すことが先決であり、そこに夫婦間のDV問題(家庭内暴力)などを絡めるのは味噌くそ一緒の議論と言わざるを得ない。それは警察など別の場所で解決すべき問題であろう。
 今回の法改正によって懸念されるのは、国会での審議で共同親権の本質を理解しようとしない上記のような勢力がロビー団体となって与野党の国会議員を動かし、新法案が骨抜きにされてしまう恐れが出てきたことである。現行法では、親権者を父母の一方に限る単独親権のみを規定しているのに対して、改正後は父母が協議して合意した場合、離婚後に共同親権も選択できると定めた。この選択的制度化ともいうべき条項の存在が、先んじて原則共同親権を採用している諸外国と大きく異なる点で、合意がない場合は家庭裁判所が親権者を判断するとなっている。親から子への虐待や、父母間のDVなど「子の利益を害する恐れがある」場合には、家裁は必ず単独親権としなければならないとさえ規定した。
 これでは法改正によって夫婦間の親権争いがなくなることは期待できない。今までと同じようにDVの有無を巡って家庭裁判所で延々と不毛な争いが続くことになり、それが決着を見るまでは母親が子供を連れて別居することを認める可能性が高いためである。これまで単独親権制度の下で、母子関係優先の方針に依拠して親権者を判断してきた家庭裁判所に公平な判断ができるとはとても思えない。前述の欧州議会が日本に対して懸念を示したのは、別居に名を借りた子供の連れ去りそのものだったはずで、親権とは親の権利に非ず、あくまでも子供の福祉の向上が主目的なのにである。

 それにしてもと達也は思う。
 「たとえそれが対外向けに体裁を取り繕った色彩の強い、見せかけの共同親権だったとしても、その実現があと20年早かったら」と。

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