第4話 千年おばば様

エピソード文字数 2,726文字

 近所にいくつかある公園を(めぐ)ったり、空き地や路地をのぞいたりしてようやく見つけたおばば様は、民家のブロック塀の上で丸まっていた。

「ばば様、千年おばば様」

 庭先から呼びかけてみたが気づく様子はない。隣家の石垣を足掛かりに、たたたっとブロック塀に飛び乗り、「おばば様」と再び呼びかける。

 一度見たら忘れられないその青い目が、気怠げにうっすらとあいた。
「誰だい」
「おやすみのところすみません。僕です」
「僕じゃわからんよ」苦笑を浮かべながらしっぽをくねりと振り、じっと僕を見た。



「うん?」その目がゆっくりと親しみを込めたものに変わってゆく。
「ひょっとしてあんた、モナの?」
「はい、そうです!」

 モナというのは僕の母だ。とても大きくて、とても柔らかで、世界で一番やさしい母だった。それがある日からぷっつりと帰ってこなくなった。

 夜になっても朝が来ても、また夜になって次の朝が来ても、その姿を現すことはなかった。帰りを待ちわびる兄弟たちと、空腹と寒さと寂しさでべそべそと鳴いた。

『お母さんは、きっと死んじゃったんだ。僕たちを捨てていなくなってしまうなんて、あるわけないんだから』

 誰かの推測の言葉に鳴き出す兄弟もいたけど、聞こえないふりをした。当時の僕に、それを受け止めるような力はなかったから。

 おばば様が僕たちの前に現れたのはそんな時だった。

 お前たちを助けてやることはできない。なぜならそれは、他者の生き死にに手出しをしてはならぬという、我ら猫族の(おきて)があるからじゃ。悪く思うなよ。

『今日が雨でも、明日が嵐でも、晴れる。必ず晴れる。生きるのじゃ。何があっても生きるのじゃ。諦めてはならぬ』
 背中を見せて去ってゆくおばば様を、僕たちは呆然と見送った。

『あのおばあさん誰なんだろう』

『助けてくれないなら、何で声なんてかけてきたんだろう。期待しちゃったじゃないか』

『大人なのに子供を助けてくれないなんて、ひどいじゃないか』

 みんながそれぞれ、思いを口した。だけど僕は、見たこともないぐらいきれいな色をしていたおばあさんの目に、ただただ驚いていた。

 ほどなくして、おばば様が戻ってきた。
『おばあさんがまた来たよ。ほら見て、今度は何が(くわ)えてズルズル引っ張ってるよ』

 掟があると言いながらも、僕たちにえさを運んできてくれたのだ。それはその後、何度も続いた。そのたびごとに、『晴れる日が絶対に来る、諦めずに生きるのじゃ』と繰り返した。

『おばあさんありがとう。名前はなんていうの?』
『あたしかい? みんなは千年おばばと呼ぶよ』おばば様は微笑んだ。

『せんねんって何?』
『お前たちが想像もつかない長い長い年月のことさ』
『ながいながいねんげつって何?』

 みんなは口々に質問するけれど、僕はおばば様の目にくぎ付けだった。
そしてなぜだか僕を見て、にっこりと笑った。
『男の子なのにねぇ、お前が一番母親に似ている。やさしく生きなさい』

 やがて僕たち兄弟は、死んでしまったり拾われていったりして散り散りになり、おばば様も現れなくなった。

「おお、そうだったかい。立派に大きくなったねえ。あんた人間と暮らしていると聞いたが」
 おばば様は大きなあくびをした。

「はい。今も暮らしています。今日は相談があってきたんです」
「あたしに相談?」おばば様は怪訝そうに首を傾げた。
「助けたいんです」僕は一歩近寄った。



65t「助ける? いったい誰を」丸まったおばば様が僕を見上げる。
「僕のご主人様です」
「どういう事情だい? 力になれるかどうかは分からんが、まあ、言ってごらん」おばば様は僕の言葉だけを受け止めようとするように目を閉じた。

 話し始めた僕の言葉が聞こえているのか心配になるほど、おばば様は無反応だった。
 眠ってしまったのだろうか。石のお地蔵さんにでも話しかけているような虚しさを感じた。

 やがておばば様は顔を上げた。
「ふむ、男と女の込み入った話しなんだねぇ」くねりくねりと尻尾を振った。
「だから、助けたいんです」
「お前の気持ちもわからんではないがのぉ──人間を助けるのは無理じゃ。我ら猫族にできるのは慰めだけと決まっておる」

「でも」
「その、すずねさんか? 今はどんな状況なのだ?」
「明るさが失せたのです。ふさぎ込むような日もあるのです。泣いている夜もあるのです。ぜったい悪い男なのです」

 立ち上がり、背中を丸めて伸びをしたおばば様は、それは心配じゃの、と空を見上げて座り、情が移ってしまっておるのだな、人間は割り切りの悪い生き物じゃからな、と困ったような顔をした。

 それから大きく息を吐き、心と体、裏腹じゃ。とつぶやいた。

「けど、あたしでは無理だ」ゆっくりと首を振った。
 千年おばば様でも無理な話だったか。どうすればいいのだろう。僕は天を仰いだ。

 おばば様の毛を逆立てるように風が吹いた。おばば様は僕をじっと見ている。断られた。けれど、何か思案しているような目だった。

 僕は期待を込めて、おばば様の青い瞳を見つめた。
 一呼吸、二呼吸。
 何か言いかけたように口が動いたけれど、おばば様は結局その口を閉じた。

 おばば様はヒューっと息を吐き、空を見上げた。

 さらに一呼吸、二呼吸。
 おばば様以外に頼れる猫などいない。

「おばば様」僕はすがるように声を出した。
 おばば様の目が、再び僕を見た。
「お願いします」
「お前は相当本気なのだな。いい主さまに拾われたな」
 うん、わかった、とつぶやき、ようやく決心したように口を開いた。

「では、万年様に会いに行ってみようか」おばば様は、背中を丸めてもう一度伸びをした。
「まんねんさま?」

「地上のあらゆる生き物の中で、最も賢いお方じゃ。我ら猫族の誇りじゃ。今はだれとも会わぬが、あたしが連れてゆけば話ぐらいは聞いてもらえるじゃろう。だがな、くれぐれも失礼のないようにしてくれよ。尊いお方ゆえな」

 あのお方に、不可能はないじゃろう。千年おばば様は自分の言葉を確かめるように、何度も鼻先を上下させた。

「どこにいらっしゃるのですか?」
「気の向くままじゃ。もしもどこにもおらぬなら、万年様は地上を去ったやもしれぬ。万年生きたら龍になり、天に昇るお方じゃからの」
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