眩しい朝陽

文字数 4,990文字

 酷く疲れていた。終電に間に合いホームに降りたはいいが、繰り出す一歩は重く、鉛でも引き摺っているようだ。残業なんて、当たり前だと思ってきた。いや、そうじゃない。ただ、仕方ないことだと割り切っていた。働かなければ家族を養っていけない。
 ズルズルと革靴を引き摺り改札を出ると、同じ電車から降りてきた奴らの背中は、まるでゾンビのようだった。背を丸め、生きる気力などないようだ。前に回ってそいつらの目を見れば、死んだように真っ白く濁り、どこを見ているのかもわからない有様だろう。そして、きっと自分も一緒の目をしているはずだ。

 自販機で買った缶コーヒーを握りしめ、バス停にあるベンチに座り込んでいた。(こうべ)をたれ、さっきのゾンビと同じように背を丸める。脇に置いた書類やノートパソコンの詰まったビジネスバッグは、何かの罰ゲームのようにずしりと重い。こんなものを毎日肩から下げて営業廻りをし、商品説明に精を出していることが馬鹿らしく思える夜だった。
「必死に営業しなきゃ売れない商品じゃなくて、相手が欲しくなるもの開発しろよ」
 ぼそりと漏らした愚痴は空しすぎて、言った自分をみじめにさせた。
「おじさん」
 シンと静まり返った深夜のバス通りに、少女の声が響いた。ゆるゆると項垂れていた頭を持ち上げると、少し先に高校生らしき少女が立っていた。肩までの髪の毛は夜の闇に同調するように黒く、街灯を受け艶があった。ジーンズにTシャツといったラフなスタイルの足元は、この夜には眩しいほどの白。ゾンビオヤジには眩しすぎる。
「おーじさん」
 再び少女がこちらを見たまま呼ぶ。俺以外の誰かに話しかけているんじゃないかと、辺りをきょろきょろと窺った。
「ねぇ。暇そうだよね」
 どうやら俺に話しかけているようだ。こんなしょぼくれ、くたびれたスーツ姿の四十男に声をかけてくるとは驚いた。
「オールしようよ」
 オール? 一瞬、まるで違う国の単語でもぶつけられた気がした。
「ああ、……徹夜か」
「徹夜じゃなくて、オール」
 女子高生に頬を膨らませ訂正されてしまえば、肩の力が抜けていきふっと小さな笑いが零れた。
 まだ、妻と娘と三人で暮らしていた頃。デスクに噛り付き、営業に精を出し、パソコンに向かっている自分に酔っていた。妻はそこまで会社に貢献するなら、もっと家のことに目を向けて欲しいと嘆いていたし、一人でする子育ての大変さんを延々と愚痴っていたが、俺は明日廻る営業先のことや、出した見積もりのことで頭の中を埋め尽くし、少しも家庭を顧みなかった。仕事が全てだった。妻の愚痴や、子供の鳴き声や玩具で散らかるリビングに苛立ちさえ覚えていた。
 娘が小学校低学年になった頃には、会社にいる時間の方が長いくらいで。たまに会うと、他人を見るように妻の背に隠れてこちらを窺うようにしている姿に、苛立ちとも寂しさともいえないものを感じていた。かと言って、娘に触れることも声をかけることもなく、自ら家族との距離を遠くしていた。
 妻と娘が家を出てから八年が経っていた。幸い借家だったこともあり、三人で住んでいた家は引き払い、俺は安いアパートを借り、妻と娘は実家のある山梨に戻っていた。今、二人はどんな暮らしをしているのだろう。俺は相変わらず仕事ばかりだが、それは二人に生活費を送るためだ。やっていることは何一つ変わらないのに、虚しさは以前よりも増していた。
 考えてみれば、娘は今高校生か。節目節目のイベントごとに顔も出さず、電話やメールの連絡さえまともにとってこなかった。おかげで娘が今どんな高校に通っているのか。山梨でどんな生活を送っているのか何も知らない。
 目の前で笑みを浮かべて立つ、娘と同じ年頃の女子高生を見る。
「なぁ、君は幾つだ?」
 訊ねられた少女は、可笑しそうに笑う。
「女性に年訊くとか。おじさん冴えない顔のまんま、言うことも冴えないじゃん」
 言われたことに苛立ちを覚えたが、少女の楽しげに笑う表情を見ればどうでもよくなった。
 少女は、本当に楽しそうに笑った。冴えない四十オヤジといて何がそんなに楽しいのかわからないが。とにかく少女はよく笑い、楽しそうにしていた。
 俺は、特に気の利いた話もできず、無心に仕事だけをしてきたつまらない大人だ。そんな俺に話しかけて、夜通し遊ぼうなどと誘うとは本当に変わっている。
「君さ」
「君じゃなくて、みゆき」
 みゆき……。娘のみさきと一字違いだ。
 妻が妊娠して間もなく、千葉にある犬吠埼灯台に行った。真っ白で綺麗な灯台は、昇りゆく朝陽を受け凛とし、とても眩しかった。なぜ犬吠埼灯台に行くことになったのだろう。妻にねだられたドライブだっただろうか。記憶しているのは、妻のお腹の中に小指の先ほどの命が宿ったばかりだったということだ。
 真っ白な灯台は、綺麗で無垢な心のように純粋に見えた。海は朝陽の輝きを受け、感動を与えてくれた。隣に立つ妻の手を握り視線をやると、瞳を潤ませていたことを思い出す。そして俺は誓ったはずだった。家族を大切にしていくと、誓ったはずだったんだ……。

「家に帰らなくていいのか? 誘拐なんてことになっても困るんだが……」
 仕事ばかりのつまらない人間だが、考えることも同じだ。警察沙汰で総てが台無しにでもなったら人生終わりだ。
「ちっさいよ。ちっさすぎ」
 少女は、俺の中にある常識ばった考えや、人間の小ささを思いっきり笑い飛ばした。
「じゃあさ、パパって呼ぶよ。そしたら、親子みたいでしょ?」
「いや、まぁそうかもしれないが……」
 パパっていう響きには、違う意味も込められる場合があるからな……。
「お父さん」
 ドクリと心臓が跳ねた。お父さんと躊躇いなく呼ぶ少女を凝視した。
 一緒に暮らしていた小学三年生まで、俺はみさきに”お父さん”そう呼ばれていた。目の前の少女は、みゆきだ。娘のみさきではない。しかし、たった一文字違いの同じ年頃の少女が、こんな夜中に見知らぬ大人に声などかけてくるものだろうか。一度疑問を覚えると、この少女は自分の娘ではないかと勘繰ってしまう。
 まさか、な……。今娘は山梨にいるんだ。こんな場所に居るなんてありえない。ただ、会っていない八年の間に娘がどんな風に成長したのか、俺は全く知らない。妻は写真も送ってこないし、俺も送って欲しいと言ったこともなかった。本当は娘の写真が欲しかった。けれど、節目節目に顔を出さないのに、妻に頼むことができなかった。
 娘は、二重のクリっとした愛らしい目をしていた。俺の一重を受け継がなくてよかったと、妻に言われたことがある。今目の前にいる少女、みゆきはどうだ?
 ケーキが食べたいとはしゃぐみゆきの顔を観察すれば、瞼は綺麗な二重だった。
 やはり、この少女はみさきなのではないか?
 しかし、訊ねることが出来ない。もしも、本当に娘だったらと考えると怖くなってしまった。わざわざ山梨から自分と母親を捨てた父親に会いに来る理由など、恨み言以外思いつかないからだ。盛大に罵られて涙など流されてしまったら、立ち直れる気がしない。
 そんな風に考え、なんて勝手なのだろうと鼻白む。自分がしてきたことを棚に上げて、何を今更怖がる必要がある。盛大に文句をぶちまけられて、それを受け止めるくらいの覚悟がなくてどうする。みさきが抱える思いの全てを聞くくらい、できなくてどうする。
 覚悟を決めて大きく深呼吸をしたが、目の前で笑顔を浮かべるみゆきと名乗る少女に訊ねることはできなかった。やはり俺は、ちっぽけな男だ。

 みゆきは、天真爛漫だった。俺がどんな大人なのかもわからないのに、人懐っこく笑い、話し、楽しそうにそばにいる。
 とうに日付も変わり、深夜営業のカフェに入った。みゆきはカウンター横にある、ケーキの並ぶガラスケースを真剣な眼差しで眺めている。
「お父さんは、何にする?」
 娘ではない少女からお父さんと呼ばれると、どんな顔をしていいのか解らない。
「俺は、いいよ。君は好きな物――――」
「みゆき」
「あ……、そうか。えっと……みゆきは、好きなものを頼みなさい」
 知らない少女を呼び捨てにすることに背徳感を覚え。それでも、満面の笑みを向けられれば、悪い気などしなかった。
 店内はとても空いていた。二人掛けのテーブル席を選んだみゆきは、ケーキとフラペチーノを目の前に口角が上がりっぱなしだ。
「深夜に食べる甘い物って、親に隠れてちょっとだけ悪いことしてるみたいだよね。きっと後悔するんだけど、今この目の前にある誘惑には勝てないんだよぉ~。って思いながら食べるのが美味しいの」
 ふふ、と笑みを漏らす表情は、出会った頃の妻に似ている気がしてどきりとした。だが、みゆきはみさきではないのだから似ているはずなどないと、言い聞かせるように心を落ち着かせた。
 嬉しそうにケーキやフラペチーノを交互に頬張りながら、みゆきはよくしゃべった。今は、夏休み中で。宿題も済ませ、部活にも入っておらず、仲のいい友達はみんな家族旅行で留守だからとても暇なのだと。
「お母さんは?」
「んー。あの人、忙しい人だから」
 たくさんのことを話してくれたのに、母親の話はその一言で締めくくられてしまった。お父さんは? という単語を口から出すことはできなかった。

 カフェを出た後も、みゆきは楽しそうにはしゃいでいた。
「白いところだけ踏んでね。黒いところを踏んだらアウト!」
 女子高生にしては幼い遊びを考えついて、横断歩道の白線を跳ねるように踏み歩きながら笑っている。
「私ね。父親と遊んだ記憶がないの」
 不意の言葉に、みゆきの顔を凝視した。彼女の口角は変わらず上がっていが、瞳に陰りが見えたような気がした。
「家にはほとんどいないし、一緒にご飯を食べたのなんて数えるくらい。お母さんは、私たちのために頑張って働いてくれてるんだからって言うけど、ご飯は一緒に食べたほうが絶対にいいと思うんだよね」
 みゆきの言葉に胸が痛んだ。本当にそうだ。生活していくためには確かに金は必要だ。けれど、家族が一緒にいられないんじゃ、何の意味もない。
 罪悪感に駆られていると振り返ったみゆきが、今のは嘘で、作り話だと笑う。可哀そうな話って、オジサン受けがいいでしょと。
 しばらく歩くと、公園が現れた。みゆきはいくつかある遊具の中から滑り台を選び、階段を上っていく。
「小さい頃は、すっごく高く感じたけど、今はそうでもないな」
 天辺にある手摺に掴まり、白み始めた空を見上げる。気がつけば、もうすぐ夜明けだ。
「オジサンも来て」
 いつの間にか、お父さんはオジサンに変わっていて、少しばかりの寂しさを感じていた。
 階段をのぼり、天辺に立つ。
「朝陽が昇ってきた」
 公園に陽の光を届けながら、朝陽が顔を出し始めた。それは、懐かしい気持ちを呼び起こさせる。
「犬吠埼灯台って、知ってるかい?」
 訊ねても、みゆきはただ黙って朝陽に目を細めていた。
「日本で最初に朝陽を見ることができる場所なんだ。真っ白に塗られた灯台と、海を輝かせる朝陽は、本当に眩しくて綺麗なんだ」
 公園を染め上げていく朝陽を、みゆきと並んで眺めていた。あの日、妻と眺めた輝きには到底敵わないけれど、それでも綺麗だと感じていた。
 こんな風に空を眺めたのは、いつ以来だろう。もしかしたら、犬吠埼灯台で見た朝陽以来かもしれない。こんなにも眩しくて綺麗なものがずっとそばにあったのに、なんてつまらない人生を送ってきたことか。妻や娘に嫌な思いをさせて、仕事一筋が格好いいと思い込んできた。思い込みなど、自分についた嘘だ。
「つまらない嘘を纏い続けたもんだ……」
 俺が呟きを漏らすと、みゆきがひょいっと体を浮かせて滑り台を滑り降りて行った。
「三人で観たらいいんじゃない?」
 疑問を口にする間も与えず滑り終えたみゆきは、天辺にいる俺を振り仰ぐ。
「じゃあね。お父さん」
 止める間もなく公園を走り出て行く後姿を、俺はただ目で追うことしかできなかった。
「消化していない夏休みでも取るか」
 朝陽の眩しさが俺を照らしていた。
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