第四章 同盟国の計画

文字数 23,418文字

 意識が醒める。少年が自分を膝枕して子守唄の様な聖歌を口ずさんで居た。
 少女は舌打ちし、牧師は宣言する。
「さて、賭けは我々の勝ちだ。大人しく引き下がってくれると嬉しいものだが」
 少女は一瞬苦い顔付きをしたが、すぐに不気味な嗤い顔になって宣言する。
「ま、良いわ。人生は短い様で長い。いつでも堕落させる機会は訪れるわ。歴史は物語っているもの、どんなに高潔な人間だろうと堕落する」
「だけど、それでも人は祈り戦うよ。どれ程の苦難があろうと人々は理想と平和を諦めない」
 少年は天を仰いで呟いた。
 その言葉を聞きながら少女は霞の様に消えていった。
「さて、青年よ、貴公を案内せねばならんな」
「何処に?」
「その問いは愚問だぞ。貴公は見た筈だ。我が国の最新鋭の兵器を。答えはこの空母の中に存在する」
「空母じゃなくて空中要塞が的確な言い方だけどね」
 少年は付け加える。
 再び艦内に入り研究所みたいなフロアを恐る恐る歩く。牧師は道すがら説明してくれた。同盟国が古い時代から近代に至るまで悪魔と戦い続ける機関を保有していたこと。その機関が同盟国の各機関と太く繋がっていること。
「キング・ソロモンズプロジェクト」
 牧師はこれらの計画の総称をこう言い表した。国家安全保障局のエシュロンからの情報と国家情報局などの機密情報を総合して複数のビッグデータに収める。これらの細部まで満ちた記録を複数の人工知能が一般性量子コンピュータを使って随時未来を予見するシステム。マクロの世界のみならず、ミクロの領域の計算も含む為にバタフライエフェクトの効果も想定内に収める。
 もっと正しく言えば、同盟国が自分達に都合の良い世界を造る為の代物だ。それがソロモン・システムと言うものらしい。オートマータ軍もズムウォルト艦も最新の戦闘機計画もこのシステムを効率良く運用する為の下地作りにしか過ぎないと言うことだ。現段階では一部の地にのみ適用される計画だが、行く行くは世界規模で計算を行うと言う腹積もりらしい。
 そう話している内に司令室に着いた。先程の人の艦長用の司令室ではない。
 機械の司令室。
 無機質に並べられたパネルに地図らしきものや図形や言葉が目を回すばかりに複雑に計算されているのが見て取れた。それが何を意味しているのかまでは読み取れないが。
「青年よ、我が国は連合国なのは知っているな。各州が独立した国家として成り立ち、連合国の体を成している。連邦政府はこれらを束ねる中央機関なのだ。現在、一部の州の協力によりソロモン・システムはそれらの州内の未来予見に運用されている。敗戦国も同様だ。将来の独立と引き換えに丁度良いデータ集めになっている」
 だが、と一拍置いて牧師は重々しく答える。
「神のいない国々でも同様の計画が進められている。我々は世界の人々の基本情報を集めるのはエシュロンを通して一歩進んでいる。だが、このデータすらも一般量子コンピュータの前には意味を成さなくなる。今の時代は非常に危うい時代なのだよ。新冷戦は既に始まっている。それに」
 牧師は少年をチラリと見て溜め息を吐いた。
「長曰く、『キング・ソロモンズプロジェクトは神の逆鱗に触れる懼れがある』だそうだ」
「それは当然。こんな皆の生活を覗き見して都合の良い道化みたいに操っちゃ駄目だよ。お父様が人にお与えになった『自由意志』にも抵触するじゃない」
 少年の言葉を聴いて牧師が気難しい顔をする。彼の忠誠は何処にあるのか? それがいまいち読み取れない。少年の側にいる様で同盟国の側にいる様な。そんなあやふやさを牧師から感じ取れる。
 ふと疑問が過ぎる。
「あんたらの使っている『ダビデの神託』は神の逆鱗に触れないのか?」
 少年は困った表情をして説明を始める。
「『ダビデの神託』と『ソロモン・システム』は基幹となる技術も違うし、使いたい目的も異なるんだ。僕達は『ダビデの神託』を遣わせて頂いている感じなんだ。ありふれた言い方をすれば、神託の基となる情報の開示は限定的で僕達は必要最低限なことしか知らない。使用目的もお父様の御心の下で行われる。大雑把な言い方で申し訳ないけど、『ダビデの神託』は世界に生きる存在の幸せの為に遣われるシステムであって僕達に使用決定権はないんだ。でも、『ソロモン・システム』は違う。一部の人達が神の様に世界中の情報を集め、世界の運命を意図的に操作しようとする計画なんだ。これは駄目なことなんだよ。世界中の信徒達が築き上げた自由と平等の理念に反する」
 牧師が言葉を引き継ぐ。
「有体に言ってしまえば、神は人類の一部が神の真似事をされるのが気に喰わん、と言うことだ。今回は利害が一致したから良かった。だが、その後は? 神はアロンの使用すら頑なに拒んだ。キング・ソロモンズプロジェクトにはもっと頑なに意志を示すだろう」
「アロン?」
 先程聞いた聞き慣れないその単語は何を意味するのか。牧師は気不味そうに顔を顰めた。自分からは説明出来ない。表情が訴えるのはそんな感じだ。
 少年が溜め息と共に代弁する。
「アロン。国際宇宙条約においては宇宙に兵器を存在させてはならない。でも、同盟国は密かに反物質機関の技術を元手に戦術核以上の破壊力を持った軍事衛星を保有した。同盟国は情報を摩り替え敵対諸国に情報を流した。神のいない国々の報道機関は情報を掴んだけどね、実際の計画はもっと大掛かりで同盟国が今後半世紀に亘って宇宙戦略を有利に進める為の計画だったんだ」
「だった?」
 少年の代弁に対する疑問である自分の言葉に少年も牧師もどういって良いのか判らない様子だった。
 牧師は重々しく口を開いた。
「……アロンは破棄した。皮肉にもそれが神の御意志だった。我々は大幅な計画修正を迫られている。キング・ソロモンズプロジェクトもそうだ。だから、貴公が選出された」
「は?」
 思わず、間抜けな声を出す。それ程唐突な前振りだったのだ。いきなり意味が解らない。その時、フロアの何処でもない心から聞きなれた声がする。
「要するにことは単純なのよ」
 それは少女の声だった。驚き、周囲を見渡すが少女の姿はない。
「『ソロモン・システム』の利用目的は私達の人類利用に近い。基幹となる技術も程度の差は大きくあれども、使用目的は近い。坊やは解る? つまり、『ソロモン・システム』を告発しても坊や的には何の一セントの効果もない訳。何故なら坊やは精神を病んだ者だからよ。気の狂った者が社会に何か訴え出たところで無駄よ。社会は『ああ、統合失調症ですね、はいはい、妄想が出ない様にお薬出しときますね』とか『君は狂っている。検査入院が必要だ』で終わっちゃうもの。幾ら現実性があろう出来事だろうとその事実を告発するのは権力ある者でなくてはならない。つまり、あなたが選ばれたのも『ソロモン・システム』のお墨付きなのよ」
 少女は姿こそ視えないものの冗長に語っていることから良い気分なのだろう。
 つまり簡単だ。
 真実に近い出来事も自分が社会に発信すれば気の狂った精神病患者の戯言と看做してくれる。そして、それは『ソロモン・システム』を動かす一部の権力者にとって都合の言い訳となる。つまり、彼らの目的とは。
「これはキング・ソロモンズプロジェクトの隠蔽よ」
 少女は愉快そうに声を響かせる。
 そうなのだ。隠蔽は簡単だ。ないと言い張れば良いだけの話だ。同盟国政府は可能性上の在り得る未来の想定としては認めるかも知れないが、飽くまで机上の空論だと言い張るだろう。実体がどうであろうと。そして、同盟国政府は自分の負の弱みを握っている。それどころか、弱みすら握らなくても情報操作でいつでも逮捕出来るし、牢の中にぶち込むことが出来るのだ。告発さえも成立しないと見通しが立っており、仮に告発されたとしてもシステムの計算内に収める方法を意図的に選別している。
「卑怯だ……」
「世の中の大人とはそういうものだ。私としても信徒個人として見るならキング・ソロモンズプロジェクトは赦し難い計画だ。だが、綺麗ごとは通用せんのが社会と言うものだ。そういうものは子供の内に学んでおくが常だが、若造よ、学びが足りなかった様だな」
 牧師が冷徹にそう言うと少年が少し吹き出した。少年の笑いに何があるのだろうか? 牧師は若干顔を赤らめた。 
「自分で志願したのに軍での扱きに耐えられなくて僕の赴任していた教会に手紙を何通も寄越してきたウォリアーも随分怖いことを言う様になったねえ」
 牧師は更に顔を赤らめる。厳めしい面構えが子供に戻った様に感じさせる雰囲気だ。手紙の内容こそ話さないものの相当恥ずかしい文面だったことが容易に想像出来る。少年は牧師に優しい顔で尋ねる。
「ウォリアー自身も本当はこの計画を快く思っていないんでしょ。でも、立場上明確に反対出来ない。だからせめてもの賭けとして彼を選んだんだ」
 そして、少年は改めて牧師に頭を下げる。
「ありがとう、そして君にも」
 少年はこちらにも謝意を伝えてくる。
 困った。これでは断る言い訳をしにくい。安全を第一とする自分には少々危険な道だ。
「あ、そうだ。どうせだから物語形式にして伝えちゃったらどうかな?」
 少年はにこやかに尋ねるが、どうだろう? そもそも物語に天使や悪魔なんて出て来たら誰も信じないのではじゃないか? 自分でも言うのも何だが胡散臭い。だが、少年は無邪気に告白する。
「いっそ告白するなら君の信仰も告白しちゃおうよ」
「それは無理だろう」
 自分はダメ押しした。更にダメ押しする。
「大体、私の信仰告白なんて無理だろう。『神のパラドックス』も包まれているのだから」
「神は全てを厳かに糺し、裁かれる。そして、同時に神は全てを慈悲深く愛し、救い給う。この二つの条件が成立しない信仰だからかな?」
 その答えに自分は頷く。
 それに対して少年は不思議なことを言い出す。
「マルティン・ルターの九十五ヶ条の問題は知っている?」
「いや、あんまり」
 正直言えば、ほとんど知らない。宗教腐敗に対し、ルターが持ち出した議題と言うことは判る程度で後はさっぱりだ。
「その中にこんな言葉があるんだ。『信徒に勤めなければならないのは、彼らの頭である神の独り子に罰、死、そして地獄を通ってでも懸命に従おうこと。従って又、安全な平安によってよりも、寧ろ多くの苦しみを経て神の国に入るのだと信じることである』」
 そう言ってから少年は自らの懐にある十字架を取り出した。銀であしらわれた左右対称白黒の十字架。少年はそれを見詰めながら語り始める。
「生も死も繋がっているんだ。『全てに救い』が訪れるのを確信するなら、それは僕達自身が救われることだけではなくて僕達の『家族』が皆救われることでもあるんだ。だからこそ、主に休む所が地上になかった様に僕達は主と共に地獄においても福音の宣教をなすんだ。主がお命じなったからじゃなくて自らの意志で選択するんだ」
 まさか自分を悩ませていた問題の一つをこうも易々と解き明かされるとは思いもしなかった。信じて洗礼を受けることは確かに救いの要件の一つだ。だが、裁きを否定せず、救いも否定せず、ただ自らの弱さと愚かさを要石とし、自らが世界の最期まで地獄で福音を述べ伝える。
 まさか、そんな発想があったとは。
「君には僕達と志を共にする者としてその十字架を贈った。これは善なる者も悪なる者も全てが罪人でありながら義が認められ救いに至ると言う象徴なんだ。君の中にある矛盾を少しだけ解決する象徴として。もし、君さえ良ければ『方舟』の一員として世界に貢献して欲しい」
 自分の胸ポケットにしまっている十字架を取り出し、少し考える。そして、答える。
「『方舟』に入るのは暫くお預けにさせてくれ」
 少年は嫌な顔もせず、微笑んで返した。
「良いよ、いつまでも待っているから。したいことがあるんだね?」
 この少年は流石に何でもお見抜きの様子だ。自分の持っていた十字架を少年にそっと手渡しする。これは未だ受け取れない。自分は『方舟』などと言う大層な組織に仕える資格は未だない。その日が来るのかさえも知らない。
 自分は未だ世界に信仰告白すらしていない。
「先ずは私に出来ることからやってみようと思う」
 悪魔は言った。自分が病んだ者故に誰からも信頼されないなら、その世界は変える必要がある。信仰告白とは神から与えられた言葉だ。自らの意志で織り成す言葉であると同時に神と想いを一致させねばならない。
 弱い呻きかも知れない。だが、やらないよりやった方がましだ。
「物語形式の伝え方か……果たして伝わるだろうか?」
 自分がぼやくと少年は言う。
「それは誰にも判らない。後の歴史が判断し、主が判断する」
「パウロの様に牢なんかに打ち込まれた日には終わりだな」
 自分は少し疲れた様に息を吐く。牧師は何も言わず、少年は微笑んで語った。
「そういうのは良くないよ。人の価値は誰が決めるのでもない。お父様は全ての人を愛おしいと想っているんだから」
 殺人者も偽善者も善人も神の前では等しく愛されているか。頭では解っていても心では中々理解出来ないものだ。
 牧師は咳払いをして自分に向いて言う。
「若造よ、自らの心を世界に叫ぶ心があるか? ならやってみよ。人は挑戦する。たとえ、そこにどんな過酷な道があろうとも。キング・ソロモンズプロジェクトに挑んでみよ。たとえ、勝ち目のない戦いだとしても人は立たねばならん時がある。貴公も、我々もな」
 牧師は徐に金槌を取り出した。そして、少年に語り掛ける。
「そして、若造が答えを決めた直後に起きる出来事はこれだ」
 突然、周囲が暗闇に変わった。
 冷たい。とても冷たい世界だった。そこに少女が立っていた。先程去った筈なのに何故と言う疑問が頭を過ぎった。少女は実験が上手く行ったと云わんばかりの怖い嗤い顔で話し始める。
「坊や、偉いわねえ。良く判断出来ました。お利口さん、よしよし」
 何が良く出来たのだ? その疑問に牧師が悟ったかの様に答えを口にする。
「キング・ソロモンズプロジェクトは我が国にとって必要な存在だ。こやつらにとってもそれは同然と先程の会話で明らかだ。だが、別に我が国でなくても良い。神のいない国でやってくれた方が遙かにこやつらにとって有用だ」
 つまり、それは同盟国の計画は潰し、共産圏において計画を活かすと言うのが少女の腹積もりか。
「良いわ、良い。同盟国の全軍をここに呼び出しても構わないわよ。その方が手間も省けて結構結構」
 少女はあっさりと死刑宣告を仄めかす。
「随分、人を見縊ってくれるではないか。その油断は命取りになるぞ」
「人類は悪魔に勝てない。歴史が証明しているわ」
「では、『イスカリオテ』の十三人を呼んでくれるかね? 神の力を借りた人類に悪魔は勝てない。それを証明しようではないか」
 少女はニヤリと笑って応える。
「お望みとならば」
 漆黒の暗闇に十三の人影が浮かび上がる。その内の一つの人影が牧師の前に跪く。
「『使徒』ウォリアー卿、御命令を」
「ピーター卿、そなたらの力を揮え。相手が粉微塵になっても更に砕いてやれ、原子までと言うな、素粒子まで切り刻め。敵の霊性を砕け。恐れることなどない。我々には神の御加護があるのだ」
「承知しました。我らが『イスカリオテ』は神の御名の下において敵をソドムの如く滅ぼし尽さん」
 ピーターと呼ばれた男が音もなく少女に歩み寄る。少女は不気味に笑って静観している。男は少女の前に立つと手を掲げた。手には何か握られている。その赤黒いドクドクと脈打つものは何か。答えは少女にあった。少女の胸の心臓辺りがスッポリ空洞と化していたのだ。
 だが、驚くべきところはそこではない。
 そんな状態にある少女が平然として拍手をしているのだ。
「中々面白い奇術を使うじゃない。でも、残念ねえ。私達には臓器と言う概念がないの。だぁからぁ、それは紛い物」
 少女は縦一閃に男を両断する。
 続いて現われた男はどういう原理が少女を空で回転させてしまい、そのまま床に叩きつけた。合気道と言う代物か。少女は痛みも感じず、感想を述べる。
「ピーターとやらの業に近いわね、彼の近親者かしら?」
「私は彼の弟だ。名はアンドリュー」
 そう言って彼は踵で少女の膝を砕いた。それに対し少女は嗤って答えた。
「ああ、言い忘れたわ。私達は臓器だけじゃなくて骨も似た様な状態なのよ」
 少女はヒョイと立ち上がる。そうして男の頭を握り締めトマトを潰す様に潰した。
 続いて現われた男は手に黒いナイフを握りしめ、少女に肉迫し首を圧し折り。首に黒いナイフを突き立てる。
 しかし、やはり驚くべきは少女の方か。あの細いしなやかな首の何処にそんな力があるのか。圧し折れた首を自力で元の位置に戻す。男を見て笑って言う。
「差し詰め、あなたはジェイコブと言ったところかしら?」
 少女は男の頭の上下を掴んで圧し折り、捻じ切った。
「あら、ごめんなさいね。名前を確認する前に潰してしまったわ」
 そこで少女は少し笑みを止め、牧師の方を向いた。牧師は不動にして何か祈っている様で何か呟いていた。その言葉を理解出来ないのは自分だけか、他の者達は牧師が何をしようか理解している様子だった。少女は少しだけ感心した表情を見せた。
「成程、代表的なアンクル・サムね。あなたは一人で一つの国位を落すと看做していたのだけど、どうして少しやるじゃない。あなた一人居れば神のいない国々を落すどころか星位破壊出来る能力はあるみたいね。一騎当千、いいえ、一騎当億ね。典型的な戦闘型の『使徒』ね」
 少女は肩を竦め、相手を評価した。
 次の瞬間、凄まじい雷撃が彼女を襲った。『イスカリオテ』の一人から雷撃が放たれていた。
 しかし、少女は驚きもせず、寧ろ電気マッサージでも体験しているのかの様に反応し、語る。
「ふむ、ウォリアーのそれと比べ、格は落ちるわ。因みに雷を扱うところを観るとジョンと言ったところね」
 冷静に反応した少女は雷に対し、雷を返した。その質量は先のそれとは比べるまでもない質の濃い雷だった。男に直撃するのみならず、他の『イスカリオテ』とも巻き添えにして焼き尽くしていた。
 『イスカリオテ』はほとんど壊滅した。ただ一人を除いて。
 白い透き通った肌をした乙女を除いては。乙女を見て少女は舌打ちした。
「『死の聖女』ジューダリアね。『使徒』の番外が『使徒』に付いているとは聞いていたけど、あなたのことね。『使徒』の番外」
 乙女は祈りの姿勢を執る。
 牧師は一気呵成に叫ぶ。
「『イスカリオテ』諸公らよ! 貴公らが立ち上がらずして何を成しえよう? 貴公らが立ち上がるからこそ同盟国は不屈なのだと言う意志を示すのだ! 敵の強大さは如何なものであろうと我々は立つ! 今こそ立ち上がる時だ!」
 その言葉に反応したかの如く体を両断された者も頭を潰された者も首を捻り切られた者すらも傷を癒して立ち上がった。
「これは一体……」
 訳が解らない。確実に死んだ筈の人間が回復して立ち上がっている。これは一体いかなる理屈なのか奇跡なのか? 表情に表れていたのか少年が言葉を添える。
「あれはジューダリアの力だよ。祈りと言う念じる想いによって世界の因果律に干渉する力なんだ。尤もその魂に呼びかけたのはウォリアーなんだけどね」
 少年は状況を静観していた。
 乙女は確認する様に言葉を唱える。
「量子間移動開始。大西洋オートマータ軍移転開始」
 唐突に巨大な戦艦の群れが現われ、先程のドローンの様な兵器が無数に出てきた。
「一斉正射開始」
 戦艦の群れは大電磁砲を少女に直撃を浴びせた。兵器も無数にレーザー砲を浴びせる。一つの国を容易く落せるこれ程の業火の前に自分は全く無傷なのが不思議だった。良く見ると少年が自分の前に立って薄い膜の様なもので全ての火力を防いでくれる。
 だが、それ程の火力を以ってしても少女は嘲う。
「無駄ね。どれ程火力を私に降り注ごうとも私は次元が違うのよ。星に住まう小さい愚かな生命達よ、宇宙そのもの、いや、それ以上の存在に抗う術があなた達にはないのよ」
 牧師は少女を無視し、自分に語り掛けた。
「若造よ、今貴公の成そうとしていることは我々が成そうとしている状況に近しいのは理解出来るか。怖いであろう。私も怖い。だが、誰かが立ち上がらねばならん。世界は自ら変わることを望まん。たとえ、自分が卑しい者と看做されようと叫ばなければならん。人が罪の奴隷から解放され神の子として、人として歩むには一歩踏み出さなければならん。世界は貴公を気の狂った者として看做すかも知れん。だが、人でありたいなら踏み出せ。這いずってでも良い。神は人を自由と平等の中に置かれた。人が人である為に、だ。それ故に我々も人として古くから居る敵に立ち向かって来たのだ」
 少女は牧師の言葉を聞き、吹き出した。業火に包まれながらも焦げる気配さえ見せず、兵器を片手間の様に切り刻んで行きながら牧師に語り掛けた。
「なあに? 馬鹿なのねえ。じゃあ、世界は変わらないわね。あなた達は負けるもの。『ソロモン・システム』もほとんどそうなる可能性を提示しているのでしょう? それこそ奇跡でも起こらない限り、あなた達に勝ち目はないわよ」
「奇跡とは必然だ。誰もが奇跡を眼にしている。ただ人は奇跡に気付かないだけだ」
「そういう意味の奇跡じゃないでしょう? あなた達の勝敗についてよ」
「それはどうかな。我々には勝利の天使が付いているのでね」
 少女はチラリと少年を見遣る。
「何も期待しない方が身の為よ」
 牧師にそう言い放った少女はレイピアを牧師に向ける。
「やれやれ、先程去って欲しいと一応言ったのだが、悪魔とは嘘と約束破りの特許の持ち主だ」
「そうよ、悪魔にも天使にも期待しないこと。先の者から送る人生を生きる為のささやかな知恵よ」
 少女は刺突の構えを見せ、牧師は雷電を放ち、金槌を振り被る。
 両者共に同時に動いた。
 理論的には直線運動である少女の突きが先に届く。だが、牧師はそれを利用する。金槌の軌道を無理矢理修正し、レイピアの横に合わせる。すると電流はレイピアを通って少女に直撃する。ほんの僅かだが、少女に戸惑いが生まれ、レイピアを止める。すると牧師はその隙を突いて金槌を少女に突き出したのだ。
 少女は言葉を発する。それは驚愕のものでもなく、慄きのものでもなかった。
「塵芥も少しは成長したのかしらねえ。所詮は土塊から生まれた塵芥に過ぎないのだけど」
 何処にそんな力があるのか。少女は人差し指だけで金槌を抑えている。そこから溢れる雷も恐れるに足らないと云わんばかりに嗤っているのだ。少女はレイピアを途中で収めて拍手と共に褒め言葉を贈る。
「でも、素晴らしいわ。私の人差し指を焦がすなんて。銀河を支配する屑共もここまで出来ないわ。本当に称賛に値するわ。あなたは今宇宙さえ狭い箱庭程度にしか思わない私達に僅かな傷を負わせた。それは本当に名誉なことよ、あなたはその誇りを抱いて死ね」
 少女が再度レイピアを動かす。それは死刑宣告だった。
 血飛沫が舞い散る。
 だが、それは牧師の血ではなかった。
 牧師を庇う少年の背から流れた血飛沫だった。
 その現象は少女にも理解出来なかったらしい。流れた血は牧師と少女の双方に掛かっていた。
 瞬時に少女は理解した様子で顔を青ざめて言った。
「お前は何て恐ろしいことを……」
 少年は微笑んで答える。
「こうまででもしないと姉様はウォリアーを殺しちゃうでしょ?」
 牧師の形相が変わる。気難しい顔が怒り狂った悪魔の様な形相に変貌していく。
「それがどうしたと言うの? 体の中に血さえ入らなければ……!」
 刹那、少女は気付く。微かに焦げた切れ目のある指に天使の血が降りかかっていることに。
 少女が初めて驚愕の表情を浮かべ、制止の手を掲げようとする。
「まっ……!」
 その瞬間には牧師の拳が少女の顔にめり込んでいた。少女は勢いのまま床に叩き付けられる。床は強固なシールドを発生させたが、それでも床に亀裂が入る程の衝撃を避けられなかった。
「あがっ!」
 少女は初めて醜い声で喘いだ。牧師は意に介せず少女に対してマウントポジションを取り、打撃戦に持ち込んだ。
 気のせいか少女の動きに精彩さが消えている気がする。
「悪魔にとって天使の血は毒。毒だから悪魔の能力が一時的に極低質なものにされてしまうのです。だからウォリアー卿の拳でも悪魔の障壁や肉体に打撃を与えることが出来るのです」
 乙女が粛々と説明をする。そして、少年の背中を擦り、祈りを捧げる。すると忽ち少年の傷は癒された。
「ありがとう、ジューダリア」
「あまり無理はなされぬ様に。あなたを養父と慕う者達は気が気でなりません」
「そうだね、気を付けるよ」
 そう言う乙女は何処か感情が希薄だった。だが、乙女の微かに引き攣った表情を見るとその中に何かもどかしい感情を抱えていそうなものだが。
「まあ、兎に角も勝敗は決しそうだね」
「はい」
 少年の言葉に頷く乙女だったが、実際その通りだった。
 牧師は鬼気迫る形相で少女に殴りかかっていた。
 何が牧師をああさせるのだろう? 
 気難しい顔をしている牧師だったが、今では別人だ。
 切っ掛けは明らかだった。少年の血を目撃した瞬間から激変したのだ。
「ウォリアー卿はミカエル様の養子です。親が手を出されたら子も怒ると思いませんか?」
「……いや」
「そうですか」
 希薄の乙女に答えに複雑な心境だった。家族が傷付けられたら怒る。これは自然の感情だ。
 でも、自分の人生にはそれがなかった。なかった訳ではないが家族と呼べるものは少ない。
 人は自分も含めて大抵自分勝手で本当の意味で認め合えた仲など人生に数える程しかいない。
 自分は本当に誰かを真剣に愛したことなどあったろうか。
 あの牧師は真剣に少年を愛しているのだろう。でなければ、あれ程劇的に感情を表せない。
「こっ……に、にんげっ……如きがあ!」
 打撃が体に効いているのか呂律が回らなくなりつつある少女はレイピアと取り出して牧師の腹部に突き刺した。
 打撃が止む。喘鳴する少女は微かに勝ち誇ったかの表情を見せる。
 それに対し、牧師は宣言する。
「それがどうした? それでアンクル・サムが止まるとでも?」
 牧師は何故か出血しない。それどころかレイピアを使い、膨大な電流を流す。力を行使出来ない少女は焼け落ちていくばかりだった。
 少女はボソリと呟く。
「敗北か。だけど、我々は敗北を認めない。勝つその瞬間まで戦ってやるわ。そして。いつの日か勝利を手にするのよ」
 少女は不気味に笑み、灰へと変貌していった。

 いつの間にか元の空間に戻っていた。
「終わった……か?」
 そう呟いた牧師に少年と乙女が駆け寄る。乙女は祈りにて牧師の傷を癒し、少年は半ば心配半ば呆れ気味に牧師に語り掛けていた。
「ウォリアー! 無茶し過ぎだよ! 筋肉でレイピアを固定して出血を抑えたって無理があるんだよ!」
 そう言って少年は牧師の服を脱がす。少年は手を牧師の腹部に当て不思議な光を放った。
 何となく少年は牧師の体に異変がないか探っている様な気がした。それともに驚くことが起きる。乙女の治した傷口、これは傷跡が残ってしまった代物だが、少年が触れると綺麗な肌に変わっていた。
「親から貰った体なんだから大事にね」
 少年が心配そうにそう覗き込むと牧師が気難しい顔をして沈黙してしまった。
「ウォリアー卿、お見事です」
 乙女を含めて『イスカリオテ』の面々が跪いて頭を垂れていた。
「今日は我々にとって偉大な歴史の一頁となるでしょう。歴史上、人が悪魔の誘惑を退けられた日はあっても悪魔そのものを退けられる日はなかった。『使徒』であるあなた様は我らの力など必要なかった」
 『イスカリオテ』の面々が恭しく礼をする。その面持ちの中には微かな畏敬が見え隠れしていた。
 だが、牧師は言う。
「ピーターよ、貴公らが居なければ私はあの悪魔に一撃とて加えられなかったであろう。これは貴公らの功績でもあるのだ。そして」
 牧師は少年を見て咳払いをして言う。
「神が御遣わしになった天使の加護なくしてはこの勝利は在り得なかった。感謝する、長よ」
 少しぎこちない感じで礼を述べる牧師は礼を言うことに慣れていないと言うより少し気恥ずかしい感じだった。
 少年は微笑んで賛辞の言葉を贈る。
「君達の信仰が君達を救ったんだよ」
 牧師はこちらを見遣る。『イスカリオテ』の一人が自分に尋ねる。
「これでも我が国に刃向かいますか?」
 怖い。人外の者達に明確に敵意を向けられたことはない。ましてや、相手は同盟国。余りの恐怖に意識が飛ぶ。目の前が暗転する。暗くなる視界の中で見えたのは慌てて駆け寄って来る少年だった。

       *

「ここは……?」
 気付くと周りの風景は何故かぼんやりしていた。その中で一人光り輝く者が居た。直感が告げる。この者は天使であり、ミカエルと言う名の少年であることに。
 少年は照らす。そこに世界各地で起動しつつあるキング・ソロモンズプロジェクトがここからでも見えた。
 これが世界を支配するシステムなのか。オートマータ軍を、多目的型分子機械を、暗殺用ナノマシンを駒として使って人を言う駒を動かす世界のチェスゲーム。
 だが、少年は首を横に振った。
 これは少年の望むものとは違うものなのか。
 少年は異なる景色を見せる。それはオートマータが災害による人命救助派遣の為に用いられる光景であり、分子機械が更なる発展を遂げ、人々の生活や学びの為に用いられている光景であり、ナノマシンが建築や医療、そして環境開発の為に用いられている光景であった。
 そして、『ソロモン・システム』は起動していた。人々を監視する為ではなく、人々の情報を集め、人々がその中から適した才能を見つけていく。『ソロモン・システム』は一部の人々の為ではなかった。世界の人々が己の賜物を発見し、支えられ、機械と共に生きる未来だった。
 その世界には支配も従属も関係なかった。造られしもの達は皆支えあって生きている。
 『ソロモン・システム』は支配せず、人に支えられ、人を支える。
『私が求めるのは憐れみであっていけにえではない』
 そんな言葉がふと思い浮かんだ。
 すると少年は微笑んで光の中に溶け込んでいった。


「ここは……?」
「目が覚めたか」
 傍らに牧師が居た。
 少年も居た。
 乙女も居た。
 『イスカリオテ』の他のメンバーは居なかった。
 医務室。と言う巨大な医療センターの様だった。自分の眠っていた医療用カプセルは扉からすぐ近くにあるが、果ては広そうで一番遠く離れた扉が点に見える。
「済まないことをした。仮にも神に仕える者達が社会的弱者を威嚇するのは良くないことだ。部下に代わって非礼を詫びる。済まん」
 乙女は言った。
「それであなた様は何か良案を見付けましたか? 『ソロモン・システム』から真っ向から立ち向かうのでしたら奇跡でも起きない限り、あなた様の未来は閉ざされます」
 ただ、淡々と事実を述べているだけと言う印象だった。
 奇跡か。ありふれた現象でいて滅多に起きない現象。
「『ソロモン・システム』は滅ぼさない。神の為、人の為に運用して貰うのは?」
 牧師と乙女は顔を見合わせる。
 意味が解らないと言う風だ。
 だが、それで良い。自分にだって意味は理解出来ないのだから。
 稚拙な言葉で夢の中の言葉を説明していく。夢で視たと言う表現は伏せたが。何故か そうした方が良い気がした。
 牧師は気難しい顔をして思案する。
「『ソロモン・システム』の有用性を逆手に取っている……一つ訊くが、それは本当に貴公の案か?」
「さあ、何となく思い付いたことを言ってみただけだが」
 牧師も乙女もジィッと少年を見詰めている。少年は困り顔で微笑んでいた。牧師は困った様に溜め息を吐く。
「昔からこれだ。決めたら岩の様に動かん」
 それは恐らく少年に対して言った科白なのだろう。
「ウォリアー卿、それは仕方がないことです。御二方はとても良くお似合いですよ」
 初めてクスッと笑う仕草を見せた乙女。無機質な乙女が初めて見せる感情的なもの。その笑みは何処か少年と似ていた。
「ですが、提案は必ずしも同盟国の未来を無視したものではなさそうです」
「ああ、従来の考えていたシステムとは異なるが、同盟国の国民の潜在的可能性を引き出すものとしてはありかも知れんな」
 乙女の言葉に同調する牧師だが、「だが」と一拍置いてこちらに問い質す。
「提案するのは簡単だ。問題は上役をどう納得させるのか、と言うことだ。貴公の回答の中にはそれがない」
「私は種を蒔くだけです。後は世界に、神に、人々に委ねますよ」
「究極の甘えたがりだな。何処かの誰かと同じだ」
 牧師は少年をジィッと見てこちらの言葉に呆れながら言葉を返す。
 恐らく、この提案は宗教改革と同じ構造を持っているのだろう。当時の人々は聖典を人々に返すのかが問題になった。今回返すものは果たして何だろうか? 情報か? 自由か? 平等か? 賜物か? もしかしたら色々なものを返すのかも知れない。
 旧教において宗教改革は異端者の行いだった。宗教改革とは別にルターやカルヴァンが始めたことではない。それ以前から種は蒔かれていた。異端の烙印を押されたウィクリフやフス達も世界に叫んだ。フスは異端の烙印を押されようとも「真実は勝つ」と言葉を残した。それ以前にも恐らく多くの叫んだ者達が居ただろう。歴史に決して名を残さなかった目に映らない信徒達の叫びがあったのだろう。
 不可思議な紡ぎだ。人は二千年近くに亘り、こうしてあらゆる可能性を紡いできたのだ。自分も歴史に名を残せる程の者でもない。
 自分は小さく呻き、祈る。
 花開くのは後の人々に委ねよう。
「貴公の話は解った。貴公は貴公なりの方法で世に発してみるが良い」
 牧師が初めて疲れた表情を見せた。
「ジューダリア、彼を自宅に帰してやれ」
「はい……?」
 言葉の疑問符を感じた乙女は何かを感じ取った様子で扉を凝視していた。その無機質な表情に初めて恐怖が宿る。
「やれやれ、と言うべきか。やはり、と言うべきか……とかく、しつこいものだ」
 牧師がそう愚痴ると扉が突然蹴っ飛ばされた。乙女が障壁を展開し、扉だった飛来物を防ぐ。
「ウォーリーアァーくぅん、お仕置きの時間よお」
「そんな馬鹿な!」
「うん? 何がそんなに不思議なのかしら、坊やは。私が居るのがそんなに不思議かしら?」
「あなたは死んだ筈だ!」
 自分でも信じられなくて叫ぶ。
 何故、塵と化した少女がここに居る?
「そうね、確かに死んだわ。肉体は」
 肉体? と言うことは。
「正解。霊は少ししか削られなかったのよ。もっと言えば、我々の核を成す魂に傷を与えるのは神の領域にいる存在にしか出来ないのよ」
 少女はせら嗤って語った。まるで実験体を弄ぶ者が実験体を観る様に嗤っていた。少女の瞳は暗に語っていた。「お前達は我々の掌の上で踊る道化に過ぎない」と言いた気な表情だった。
「そうそう、お土産を持ってきたのよ」
 少女がそう言い手を翳すと迷彩服を着た軍隊が雪崩れ込んで来た。この巨大な医療センターを埋め尽くさんばかりの勢力だ。
「神のいない国の連邦軍か……」
 牧師は重苦しそうに呻いた。
 見るから疲労の色が濃い。傷そのものは回復しても体力までは回復していないのか? それは明白だった。牧師の足下は微かに覚束ないものだった。
「新聞を読む様に聖典を読み、聖典を読む様に新聞を読みなさいと言う言葉があったわね。でも、私達はこう言うのよ。支配者の様に合法的に、独裁者の様に冷徹に、そして悪魔の様に嗤って人々を殺しなさい、とね。全く、人と言う塵屑を掃除する楽しさと来たら愉快で仕方がないわ」
 そう言った少女は楽しそうだった。
 軍は機関銃を構えてこちらを狙い澄ましている。すると少年が自分達を庇う様に前に踏み出た。少年はハッキリと言う。
「姉様は約束を守らないの?」
「頭の悪い忌み子。狡賢い人と言うのはね、約束を守らないものなのよ。法の穴を掻い潜る如く人を陥れる、聖典にもあるでしょう? 蛇の様に賢くあれ、と」
「同時に、鳩の様に素直であれ、っても書いているけどね」
「全く、どちらが狡賢い者か判ったものじゃないわ、それで? お前は戦うのかしら?」
 それは明らかな威嚇だった。容赦するつもりはないらしい。それでも少年は一歩も引かず、徒手空拳のまま構える。
 少女はニタリと嗤って合図を送る。その一瞬で軍は発砲しようとした。同時に奇妙なことが起きた。
 敵の手元に機関銃がない。神のいない国の兵達は動揺したが、瞬時に戦略を切り替え、ナイフを構えて順序良く襲撃する。
 ところが少年に襲い掛かる者、少年を越えて自分達を襲い掛かろうとする者に奇妙な現象が起きる。襲い掛かった者達が次々にバランスを崩して空を舞い、床にみっともなく倒れてしまったのだ。
 敵も自分達も何が起きているのか解らない。それを少女は淡々と見物し、牧師は凝視して、乙女は事態を把握しようと集中し視ていた。
 敵が訳の解らない事態に混乱しつつあった時、乙女が「あ」と言う声を上げて何かを察知した様子だった。
 牧師はもう既に気付いていた様子で頷く。
「足払い……」
 乙女は呟く。
「は……?」
 足払い? こんな馬鹿げた足払いなどあるものか。第一、目視で確認出来ない程の速度でそんな動きをされたら連邦軍とて無事で済む筈がない。
 起動と動作終了に間がないに等しく少年は佇んでいるだけに見える。
 だが、足払いだけでは説明出来ない。何故、敵のナイフは尽く折れていくのか? そもそも機関銃は何処に行った?
「機関銃ならそこにあるじゃない」
 こちらの考えなどお見通しと云わんばかりに少女はいやらしく嗤いながら少年の足下を指差す。
 少年の足下には小さな黒い玉があった。
 牧師が納得して頷く。彼は微かに手を帯電させ。黒い玉を引き寄せる。黒い玉は宙に浮く訳でもなく鈍い音を立て転がってきた。
「超鉄練成か」
 牧師が微かに驚いて呻いた。超鉄練成? 何だ、それは? 聞き慣れない単語だ。
 自分の表情を見て疑問を悟ったのか、乙女は解り易く説明してくれる。
「超鉄練成。簡単に言えば超圧縮した鉄のことです。鉛筆の芯は解りますね。それが私達の使っている鉄の強度としましょう。では、金剛石はどうですか?」
 まさか。この黒い玉は連邦軍の機関銃を圧縮したなれの果てだと言うのか? 乙女は炭素の密度を引き合いに出して語ったが、この玉も同じだと言うのか。
 微かに畏れが生じるのが自分自身でも感じた。
 人類は大昔に鉄を発明した。現代ではもっと技術が進み、良質の鉄が造れる。それどころか炭素の性質に着目し、鉄より強固な素材の開発に成功した。
 だが、この玉は未知の領域だ。まだ少なくとも人が踏み入れていない領域だ。それ程強固な素材なのだ。それを易々と造れる少年が如何に凄まじい存在であるか、僅かに知った。
 牧師は足下まで来た玉を持ち上げようとするが、ゆっくりとしか持ち上がらない。この牧師を持ってしてもこの小さな玉から余程の重量を感じると見得る。
「地上では一番硬い物質の炭素系だと思っていたが。さて、如何したものか」
 牧師の言葉に少女はニヤニヤと嗤って見詰める。
 目の前にあるのは未知の技術で造られた代物だ。大国の者達なら誰もが欲しい。だが、これを取ることは状況を不利にすることに等しい。この様な重さ故に動きを鈍くするだけの玉なら現状況では必要なしと判断するだろう。戦いにおいては殊更である。
 そうこうしている内に連邦の軍は無力化されていく。
 そうなれば、今度は少女自身が動くだろう。そんなことになればより緊迫した戦いを強いられるのは火の海を見るより明らかなものだった。
 少年と少女の力の違いが解らない限りは不確定因子を持ち込むべきではない。
 だが、牧師は何を考えたかこう答える。
「解った。これは頂いておこう。上層部もこれを引き換えに『ソロモン・システム』の運用法を一部位見直してくれるかも知れんな」
 少年と牧師に何があったかは解らない。だが、無言のやり取りがそこにはあった。
 そして、最期の連邦兵士が倒れて気を失った時、拍手が聞こえてきた。その音源は少女からであった。
「お見事。ウォリアーも坊やも消しても良かったのだけど、どうにもお前が守るとなると我々も手が出し辛いのよね」 
 少女は少し困った様に嗤った。そして次の科白を平然と口にする。
「だからこそ局地的に闘うのであれば、人質は多いに越したことはないのよ」
 一瞬、呆然とした後すぐに答えは解かった。少女は味方として連邦の軍を連れてきた訳ではない。少年に対する人質として連れてきたのだ。
 少年はきっと連邦兵さえ殺したくない筈だ。それを逆手に取って少女は優位に立とうとしている。
 少女はレイピアを床に突けた。
 次の瞬間、凄まじい衝撃が艦内を走った。
 このフロアだけでもあちらこちらに亀裂が入っている。
 だが、どういう訳か自分も牧師も乙女も連邦兵達も無事だ。
 牧師は呻く。
「化け物めが……」
「それはどちらを指し示しているのかしら? ウォリアー元大将? 私、それともこの子?」
 そう言った少女はニタリと嗤いながら少年と向かい合っていた。
 少年が何かしたのか?
 気が付くと薄い光の膜が自分達を包んでいる。この光の膜が自分達を護ってくれた。
少年が護ってくれたのと瞬時に直観した。この少年は誰も見捨てるつもりがない様子だ。
 少年は自分達を護り、少女を引き下がらせようとしているのだろう。
 だが、少女はそれを逆手に取る様にレイピアを先程と同様に床に突いた。
 次の瞬間、衝撃波で艦が崩壊した。
 不味い。自分は泳げない。海に落ちれば一巻の終わりのだ。足場を失い、恐怖と共に落ちていく。
 だが、溺れることはなかった。不可思議なことに心地良い床に座り込んだかの感覚を受ける。
 それは海の上に立つ、と言う奇妙な事実だ。他の者達もそうだ。海に沈まず、光の膜で護られた儘海の上に居た。
 上空では無人兵器が蠢いていた。更に上空を見渡すと戦闘機が無数に飛び代わっていた。
「ふむ、無人戦闘機ね」
 睥睨した少女はそれらに興味を示さず、少年に向かい直った。機械が操作する精密な爆撃ですら少女は怯まない。怯む必要さえも感じてないのだろう。
 爆撃を無視して少女は少年を凝視していた。
「不器用ねえ」
 少女は呟く。少年は困った風に苦笑する。少女はその表情に苛立った様子で詰り始めた。
「愚かだわ。人のキング・ソロモンズプロジェクトを有用して人を活かす為の神のキング・ソロモンズプロジェクトを坊やに啓示するなんて。ウォリアーにでも直接伝えれば良かったでしょうに。その方がまだ可能性は有った。その辺りはウォリアーの事情を察しての行動でしょうけど、それを愚かと言うのよ」
 何だ? 少し寒い? 
 見上げると上空の戦闘機が次々落下していく。海が瞬く間に凍っていく。氷上に直撃した戦闘機は全て粉々に砕け散った。発火すらしない。と言うことは。
「氷結地獄の再現か」
 牧師が呟く。少女は嘲る。
「そう歴史上の愚かな信徒共が『全てに救い』が訪れていることを確信して宣教している場所。それが地獄と言う場所よ。皮肉でしょう? 坊や?」
 少女は嘲り、こちらに訊ねる。
 少年だったら喜んで地獄でも宣教に行くだろうが、生憎だが自分はそれ程高潔な人物ではないのは重々承知していたつもりだった。
 そうだった筈だが、見通しが甘すぎた。人は誰かを傷付けるのは気にしないが、己が傷付くのは最も嫌う。そう学んだ自分だったが、これ程生命が存在しない凍て付いた場所で宣教するなんて。だが、自分が知る限りでも一人は居たのだ。二千年前に磔刑にされた男が死に満ちた世界を訪れ、多くの人々に慰めと希望を与えた伝承は今も残っている。そして、後に続いた者達も多く居たのだろう。
 皮肉だ。皮肉過ぎる。自分が希望を以って持とうとした信仰が呪いそのものだとは。死すら旅の終わりにならないとは。
 少女は皮肉る。
「呪いそのものが、愚かさそのものが、そして、弱さそのものが神の祝福とは常々狂っているわね。神とその天使達は」
 少年を見据えて嘲嗤う少女は圧倒的な強さに満たされている様に見える。
 それは罪であり、罪人たる自分が憧れる強さそのものだった。
 対して少年は強さではない。では少年を少年たらしめるものとは何なのか? それは不可思議な強さだった。
 呪いこそが祝福。愚かさこそ賢さ。弱いこそ強い。
 少年はその祝福が神の愛だと言いた気だ。
 そんな少年に少女は凝縮された氷柱の群れを叩き付ける。それは不可思議な手品だった。少女はレイピアを指揮棒の様に振ると氷上から氷柱が湧き出て硬縮化していくのだ。氷柱の群れが少女の周りを高速回転し、障壁そのものとなっている。その回転から弾き出された無数の鋭い氷の牙が次々と少年を襲う。
 だが、少年は何もしない。ただ少女の攻撃を受けるのを良しとしたらしい。
 しかし、攻撃を受け終わった瞬間の少年を見た時、驚いた。
 全くの無傷。衣服さえ破れることさえなく少年は佇んでいた。
 その姿に疑問が頭の中で過ぎる。
 弱さこそ強さ?
 果たして本当に強いのはどちらか。
 少女は嘲って嗤っているが、今までの発言からして少年と闘いたくない発言をしていた。少女が面倒臭がっていたのだと解釈していたが実は違うのではないか。
 もしかしたら少年は少女の領域さえ及ばない何かを持っている。だからこそ少女は闘いを避けたかったのではないか。
 そう考えている内に少女は瞬時に少年の間合いに入る。間髪入れず、少女は少年にレイピアを突き刺そうとした。だが、逆にレイピアが砕け散り、少女は一旦距離を取った。砕けたレイピアを見て少女は歯軋りする。
「道化の振りをして実は最高の被造物でした、なんて洒落にもなっていないわね」
 砕け散ったレイピアの破片を見ず、少女は何もない空間からレイピアを取り出す。空中の至る所からレイピアの先端が顔を覗かせる。先端は全て黒い何かで覆われていて不気味な放電を放っていた。
 少女は人差し指で少年を指し示すと漆黒の雷が電磁砲の様に解き放たれた。
 少年の体が一瞬にして黒い雷に取り込まれていく。
 だが、攻撃を続ける少女の表情は芳しくない。
 暗い雷の隙間から光が燃え出でている。少年はまるで卵の殻が割れる程度だと云わんばかりにあっさりと暗き雷を破って見せた。
 やはりだ。少年と少女の実力差は歴然としている。少女が攻撃繰り出そうとも無傷なのだから少年は敗れる心配がない。
「果たして無傷なのかしらね?」
 少女がこちらの心の内を読んでいるかの如く、その疑問を誰にともなく語り掛ける。すると牧師も乙女も目を伏せて沈黙した。
 その反応からすると無傷ではない?
 しかし、少年は何ら傷を負うことなく平然としている。
「この方だからこそ耐えられるのだ。我々だったら当の昔に精神が廃人になっていた」
 牧師は呟いた。その口調は呪詛を唱える様な忌々しいものだった。乙女は伏したまま、口を開かない。少女は嘲り、彼らを見下しながら自分に対して言う。
「旧教で何故教皇の言葉が絶対不可侵にして神聖なのか解るかしら?」
 唐突に少女は質問してきた。
「神から天国の鍵を与えられたからです」
 辛うじて答えるも少女は嗤いを止めない。
「とても模範的解答ね」
 嗤いを止めない少女を不気味に思った。何故だ? 使徒ペトロは天国の鍵を与えられた初代教皇の筈。故に教皇の言葉こそ絶対である、と中世の人々は考えていた筈だ。現代でも教皇の発言は世界に多くの影響を与えている。
「とても模範的解答。では、教皇とは何かしら? いいえ、もっと端的に尋ねるわ、使徒ペトロとは何?」
 何者と尋ねない辺りに少女の悪の傲慢さが覗い見えるが、その答えは明白なものだった。
「使徒の長、神の直弟子です」
「では、聴くわ。神と言った。あなたの知っているあの男はどんな男だったの?」
「その答えは……」
 考えるだけでも怖ろしい。二千年前に来たあの男は凡そ人が歩めない道を示したからだ。だからこそ使徒ペトロですら裏切ったではないか。苦難と言う言葉で片付けるのさえ出来ない。ただひたすら受難の日々だったとすら言ってしまって良いものか。使徒にも裏切られた挙句、最も残酷な死を選んだ神だ。
 だが、待て。使徒ペトロは最期には殉教した筈だ。詳しいことは知らないが、後の教皇達も殉教者が多かっただろう。教会が地下に潜って陽の光を浴びるまで苦難の時代だったとは噂位には聞いている。
 まさか。
 こちらの表情に気付いた少女は嗤い返した。
 使徒は神の受難の代理者。教皇もまた使徒の継承者、故に受難の代理者。ならば、少年は。
「お気付きの通りよ。教皇の言葉が絶対のものとして保障されるのは地上における受難の代理者である限りにおいて。なら、この子は何の受難を背負うのかしら?」
 少女は今まで気付かなかった自分に呆れ返って端的に答える。
「殆どよ」
 殆ど? どう言う意味だ? 少女はサラリと砂を床に落す様に呆気なく語る。
「世界における死、病、障がい、傷を常時体感しているのよ。肉体的なものも精神的なものも。勿論、坊やの絶望も」
 少女は黒いレイピアを空の具現化し、嵐の如く降らせた。
 少年は瞬時に動きを全てのレイピアを叩き折った。余りにも速過ぎて見えないが、レイピアが次々に粉々になるのを見てそうなったのだとしか予想の仕様がない。
「本来なら激痛や絶望感で立って居られない筈なのに、つくづく哀れだわ。神の呪いを受けし忌み子よ」
「これは祝福だよ、姉様。お父様が皆と全てを分かち合える為にお与えになられた贈り物だよ」
「それを世間一般では呪いと言うのよ」
 少女は新たにレイピアを構える。不可思議な構えだ。まるで一撃で突き刺すことだけを目的とした構えだ。
「いかん!」
 牧師が吠えた。
 何だ? 少女の周りが揺らいで見える。熱の揺らぎとも違う。何か異質な、もっと危ない代物だと本能が感じ取った。
 少年は危険を察知して尚少女に肉迫した。同時に少女はレイピアと突き出す。凄まじい爆風が吹き荒れる。氷上に亀裂が生じ、少年の周囲の氷が気化していく。
 あれは何だ。熱エネルギーではない。そうならば、光の膜に護られても微かに気温の変化を感じる筈だ。先程、寒いと感じたのだから。
「分解の力よ。原子は電荷により他の原子と結合、分離を行う。私のやったことはその応用。電荷も無茶苦茶に設定し直して全ての結合を解いた」
 魔法を披露する仕草で少女は説明した。
 だが、少年は無事だ。
「流石は大天使長。一旦崩れた物質世界を立て直したのね。ところで、原子の痛みを感じたのかしら? それは勿論感じているわよね。だって神の呪いだもの」
 思えば少年が痛がる風景を見たことがない。少年は真摯に黙して少女に対峙する。少女は何か薄気味悪いものでも観ている視線で少年に対して攻勢に出る。
「天使の血は悪魔には猛毒だけど、悪魔の血は天使にどう反応するのかしら?」
 そう言って彼女は敢えて己の手を切り付けた。深紅の血が滴り落ち小剣に浸み込ませる。そして、少女は剣を振り下ろした。だが、そんなことでは少年の体は傷付くことはなかった。寧ろ、剣が破壊されている。
 ふと、疑問が湧く。先程、少年は間違いなく怪我を負った。しかし、今は傷を付けることさえ敵わない。少年は己の体の強度を自在に変化させられるのか?
 その疑問に答える為に少女は出血している手で少年の口元を押さえた。少女の血が少年の口に流れて行く。
「現代でこそ魂が宿る場所は脳と考えられているわ。昔は心臓に、それより昔は喉に。どうかしら? 旧き者にして忌み子、私の血の味は気に入って頂けたかしら?」
 少女は少年の体に変化が起きたか確かめる為に心臓打ちをする。
 するとほんの僅かであるが、少年の体が微動する。少女はそれを視て一気に肉弾戦に持ち込む。咄嗟に少年は上半身を亀の様に丸くして防御に徹する。
 一方的に撃ち付けられている少年を見て自分は呟く。
「どうして?」
 神の使いである天使が悪魔の血如きで弱体化するなんて信じられない。いや、それ以上に疑問なのは少年が闘わないことだ。悪魔が警戒する程の力を持ちながら行使しない。それは愚かさの極みだ。
「窺っている」
 牧師はそう言った。
「少年は何を窺っているんだ?」
 正直、何を窺っているのかさえ解らない。牧師はこちらに尋ねた。
「あの悪魔が約束を守ることがあったか?」
 確かに。退却する様なことを仄めかしながら次の瞬間に嗤って侵攻を始める少女だ。約束も何もない。牧師は嘘吐きの専売特許と少女を評していたが正しくその通りだ。自分勝手な強欲な人間の様に少女も又悪魔らしく自分の都合でしか動いていない。人は倫理や良心に縛られるが、少女にはそれが欠落している。
 少女の行動は正しく己こそ法と云わんばかりのものだ。
「あの悪魔は約束など守るつもりは最初からない。だからこそ長は約束を守らせる為に機会を窺っているのだ」
「そんな方法があるのですか?」
 乙女も同じ疑問を感じていた様子だ。
 乙女も同じ疑問を感じていた様子だ。乙女も牧師に投げ掛ける。本当にその様な都合の良い手段が存在するのか? 牧師は少年を黙視していた。牧師はふと呟く。
「あるにはあるが……」
「そう、あるわね」
 少女はニタリと嗤って距離を置いて挑発してくる。
「古より使い古された契約がある。誰でも出来る契約で誰もがそう簡単に出来ない契約よ」
 それは何だ? 牧師が重々しく言葉を選ぶ。
「自己犠牲だ。自らの身体の一部、或いは命そのものを神に捧げる行為。だが……」
「そうよね。問題だわ。命そのものまで捧げてしまっては元も子もない。だから、必然的に肉体の一部を捧げる行為に限定されるわね」
 少女はその先の言葉を言わなかった。
 恐らく、歴史の中でこういった場面は幾度となくあったのだろう。その度に少年は捧げものをしてきた。
 だが、少女はそれを見抜いている。
 少年は祈りの姿勢を取り、捧げものの準備をする。すると次の瞬間二つのことが同時に起きた。少年の右腕から鮮血が迸り、同時に少女の手がそれを抑えた。
 その瞬間、初めて少年から強張った表情が微かに見て取れた。それは痛みに耐えている姿でもあり、躓きでもあった。
 その表情を観た少女は嗤って感想を尋ねる。
「どうだったかしら?捧げる筈の右腕を修復されてしまった気分は? いや、それより切断面に押し込んだ私の血入りの指突は如何だったかしら?」
 少年は微かに息継ぎをし、微笑む。その表情を観た少女は値踏みする眼で少年を見詰め、こう言い放った。
「良い。宜しい。あれ程我慢強いお前がこれ程反応するのなら余程の痛みなのでしょう。で、それで? この痛みは神からの祝福かしら?」
 少女は心底意地悪そうな表情で少年を詰問する。
 それでも少年は祈りの姿勢を止めない。
 今の出来事は少年の腕を少女が修復し、修復する間に悪魔の血を少年に流し込んだのだろう。人間で例えるなら王水を掛けられた場所をハンマーで殴られたみたいなものだ。痛みは想像を絶するものだろう。
 それでも、少年は微笑みを崩さない。
「無駄よ。この為に治癒方法を我々は開発してきたのだから。お前が幾ら捧げものをしようとしても我々はそれを止めてしまえるのよ」
 少女は余裕綽々の表情を覗かせながら宣言した。
 だが、逆に少年の方が余裕綽々の表情だった。少年は再び右腕を捧げようとする。次の瞬間に少女が詰め寄り、再び同じことを繰り返そうとする。
 しかし、少年は天に向かって祈る。
「主よ、今日は喜ばしき日です。貴方様の敵が滅びの呪いを覚えず、人々を治癒する業を覚えたのは正に主の嗣業です。この証を以って姉様に憐れみを御示して下さいます様に。又、姉様が滅ぼそうとしている子等に憐れみを」
 すると天が開けて炎が雪の様に燦燦と振りし切ってきた。その仄かな温かみは氷上をゆったり溶かしていった。
「とんだ憐れみだわ」
 少女はその光景を目の当たりにし、失望した様に言った。
「お前は最初からこういう道筋を立てていたのかしら? 前代未聞だわ。神が悪魔に微かとは謂えども義を認めてしまうなんて。お陰でその義やらに縛られて私はそこの坊や共を殺すのを禁じられるとはね」
 少年は微笑んで言う。
「お父様は慈悲深いです。罪そのものを滅ぼしても罪を創られた方々までは滅ぼさない」
「憎むべきは悪であって悪魔ではないとでも?」
 少女の問いに微笑みで答えた。
「狂信者ね……」
 少女は舌打ちしながら、闇の中に消えて行く。
「済まんな」
 牧師は少年にそう言った。少年はその言葉に対し、首を横に振った。気にしないで欲しい、と伝えたいのだろう。それでも、牧師は頭を垂れる。あの少女がアンクル・サムそのものだと形容した牧師が少年の前では何故か小さく見えた。どうしてだろうか? これ程体躯に恵まれ、星すらも破壊出来る男が、言ってしまえば巨人そのものが小さい少年と比べると小さい巨人にしか見えないのだ。この不可解さは何なのか。恐らく、原因は少年の方にあるのだろう。小柄な体躯でもその中身は宇宙さえも足下に及ばない人智を超えた何かがあるからだ。畏敬すべきはその爪を隠していることだ。だが、それは果たして爪なのか? 剣なのか? それとも盾なのか? 自分にはそこまで判らない。
「ウォリアー、お頼みして良いかな?」
 少年の声に牧師が頭を上げる。そして、少年は頼みごとを口にする。
 牧師はその言葉に暫し黙って思案し、空を見上げてから「分かった」とだけ言った。
 少年は笑むと自分の方を向き、「良かったね、これで小説が書けるじゃない」と言い、少年は空高く天に昇っていった。

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登場人物紹介

自分……教会の信徒であり、介護職であり、同時に同盟国の末端でもある。同時に精神的な病も患っており、無気力な人物。少年との出会いで諦めていた人生と信仰に一つの灯火が与えられ、『全てに救い』の信条に触れていくことになる。



少年……風の様に現われ、風の様に去る可愛らしい少女の様な凛々しい少年の様な少年。語り部である『自分』を受け容れ、『全てに救い』の教義を教えることに力を貸す。同時に語り部である『自分』の危機的状況を救ったりもしてくれる不可思議な少年。(アイコンはあくまで参考用イメージ像です。読者様のお好みの姿で物語をお楽しみ下さいませ)





少女……同盟国の関係者らしいが、実体は不明な少女。(アイコンはあくまで参考用イメージ像です。読者様のお好みの姿で物語をお楽しみ下さいませ)





ウォリアー……同盟国の重要人物で『使徒』と呼ばれる存在。重々しい口調が特徴的な牧師の格好を纏った軍人の様な男。実際に軍人でもあり、新しい計画にも携わっている。典型的な戦闘型の『使徒』で実際には星一つ滅ぼせる程の力を保有していると思われる。少年と付き合いは古い。(アイコンはあくまで参考用のイメージ像です。読者様のお好みの姿を思い描いてお楽しみ下さいませ)



 



ジューダリア……ユダとマリアを合わせて取られた名で『イスカリオテ』の中でも別格の存在。祈りを具現化する能力に長けており、『使徒』の番外と呼ばれる。

ジ・オーダー……第二部の語り部。オーダー・オブ・オーダーの中核。自分のことを我々と称する。「人は『全てに滅び』をお与えになる」の信条を創り上げたと言われる。世界の破壊者。

クリストフォロス……第二部の登場人物。『使徒』である。ジ・オーダーにとって先が読めない人物と考えられている。恩恵能力『絶対結界』(アイコンはあくまで参考用イメージ像です。読者様のお好みの姿で物語をお楽しみ下さいませ)

ソロモン……第二部の登場人物。『使徒』の一人。恩恵能力『ソロモン・システム』但し、精確には恩恵能力ではない。より厳密に言えば彼女の家系が築き上げた。『ソロモン・システム』については第一部参照。( アイコンはあくまで参考用イメージ像です。読者様のお好みの姿で物語をお楽しみ下さいませ)

ジョシュア・エイブラハム・ノートン……現代の最古の『使徒』の一人。恩恵能力は不明。判ることは通信系の能力。古典的な通信手段のみならず現代の科学水準を以てしても理解出来ない通信手段を使用している様子。(アイコンはあくまで参考用イメージ像です。読者様のお好みの姿で物語をお楽しみ下さいませ)

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