スタッフルーム(1)
文字数 8,586文字
満員電車の車両からはじき出され、鈴木須間男 は新橋駅のホームへと降り立った。体を焦がすような日差しを一端避けて、一息つきながらデオドラントシートで汗を拭う。おろしたてのシャツはすっかりくたくたになり、肌にまとわりついていた。
昨年──二〇一三年の猛暑に比べれば、今年の夏はまだ過ごしやすい方だが、それでも暑いものは暑い。
須間男は決して夏が嫌いなわけではない。日差しも少なく冷え込むだけの冬よりはむしろ好きな方だ。しかし好むと好まざるとに関わらず、汗はかくし体力は奪われる。せめて脂肪が劇的に燃焼してくれればと思うのだが、望み通りには行かない。
東京駅を中心とした都心部は、迷路のような地下網が張り巡らされている。その気になれば屋外に出ることなくオフィスに入ることも可能だ。地下のあちこちにコンビニがあり、食品街やドラッグストアもある。更には本屋や病院も地下入り口を備えている。
それでも須間男は日光が降り注ぐ屋外を歩く。ダイエットのためでもなければ、嗜虐嗜好があるわけでもない。
我が身を日にさらすことで、穢れが落ちるような気がするからだ。
須間男が今の仕事を始めてから身についた習慣だ。
彼は日光に焼かれながら、歩き慣れた道を進む。代わり映えがしないように見える街並みも、徐々に世代交代が進みつつある。古いビルがあっという間に更地になり、気づけば新しいビルが生え、すぐに他のビル群に埋没していく。
テナントもめまぐるしく入れ替わり、たまにコンビニ弁当以外のまともなランチを食べようと足を運ぶが、目当ての店があった場所には別の看板が出ている、なんてこともよくある。わずかな感傷を覚えたのは最初の頃だけだった。
日光に焼かれることと新しい飯屋を開拓すること。それが須間男にとって娯楽以上に大事なことになっていた。
きっと、あの人にはわからないだろう。
須間男は大きなため息をついた。
あの人には一生わからないし、あんな風にはなりたくない。そもそも、全部あの人から始まったことだ──と、須間男の頭の中で堂々巡りが始まる。更に強くなる日差しと反比例して、彼の気持ちは沈み始め、足取りも重くなる。
しかし歩みを止めない限り、目的地へ辿り着くのは当然のことだった。
まるで墓標だ。
彼は目的地である古びた雑居ビルを見上げる。くすんだ灰色をした、五階建ての細いビル。外壁に施されたひび割れの補修痕が、ビルを覆う蔦のようにも見える。隙間なく立ち並ぶビルの中でも特に古びていて、エントランスには扉もなければ管理人室もない。安アパートにあるような錆びたポストと階段だけがそこにあった。
須間男はポストの中身をわしづかみにすると、人ひとり通るのがやっとの階段を上り、四階へと辿り着く。壁と同じ安い灰色のペンキで塗られた鉄製の扉には、差し込み式のネームプレートが申し訳程度に付いている。
すっかり黄ばんだプレートには、油性マジックだとすぐにわかる殴り書きの字で『カオスエージェンシー』と書かれていた。
下請けの映像編集プロダクション。それが須間男の勤める会社だった。
須間男は口元を押さえてから重い扉を素早く開き、屋内へと飛び込む。彼はまっすぐ廊下を駆け抜けて台所の換気扇を回した。室内に充満したタバコの煙が抜けていくのを確認すると、全ての部屋の窓を開け放ち、消臭スプレーを振りまく。特に編集室へと念入りに。
「鶴間さん、ここは禁煙です。いい加減覚えてください」
須間男は編集室へと声をかけた。
しかし編集室からは、なんのリアクションもなかった。
編集室の──いや、カオスエージェンシーそのものの主と化したその女が、須間男に何か含むところがあって注意を忘れ去っているのかと言えばそうではない。仕事に集中すると他のことを忘れてしまう。ただそれだけのことだというのは、注意している須間男自身がよくわかっていた。
無駄に終わることがわかっていながら何故、毎朝毎朝同じ苦言を繰り返すのだろうかと、彼は自分に問いかけてみたが、明瞭な答えは得られなかった。
応接室の事務椅子に腰を下ろした須間男は、相変わらず編集室で作業を続ける女──鶴間千 美 の背中を眺めた。とは言っても千美の姿は、ハイバックのOAチェアにすっかり覆われていて、病的に細い両腕がせわしなく動く様子しか確認できない。
日差しも注がず照明が落とされた編集室で、椅子と一体化して作業に没頭する彼女の姿は、須間男の気持ちを更に重くさせた。
「おはようさん」
フロア内を覆っていた嫌な空気を霧散させたのは社長の一声だった。せっかくの長身を台無しにする猫背、無造作にジェルで立てた金色のショートヘア、剃り残しにしか見えないあごひげ、金魚柄のアロハにカーキ色のハーフパンツ、ピンク色のサンダルという、あまりにも肩書きにそぐわないファッションに身を包んだ社長は、二人の姿を涼しげな顔で見比べると、にんまりと笑った。
「さあ、今日も一日頑張りますか、っと」
社長はそう言って編集室に入ると、事務椅子に身を沈めた。総勢三名。これがカオスエージェンシーの全社員である。
「んでチミちゃん、なんか面白いのあった?」
社長は千美に声をかけた。チミというあだ名は社長がつけたものらしいが、単に音訓を読み替えたものなのか、正確な由来は定かではない。須間男は勝手に魑魅魍魎 のチミと解釈している。
「まだ作業中です」
社長の質問に素っ気なく答えつつ作業を続ける千美の傍らには、段ボール一杯の封筒の山があった。中身はビデオテープやDVD、メディアカードの類だ。それらの媒体に記録されているのはいわゆる投稿映像の類で、日に日にその量は増えている。須間男がポストから回収した配達品もその一部だ。記録媒体が増え続ける原因は、千美が持ち込んだ仕事にあった。
カオスエージェンシーは様々な映画会社やセルビデオ会社の依頼を受けて編集作業を行ったり、素材映像を提供したりするのがこれまでの本業だった。しかし今、業務のほぼ全体を占めているのがホラー映像作りである。
何気ない風景に一瞬だけ映る怪奇現象。その映像の撮影者に取材を行い、原因を究明していくという、現代ではテレビ番組の素材になるほど定番となったセル/レンタルDVD。今まで他社のヘルプとして関わったことはあっても、メインで制作したことがないこの手の映像作品を手がけることになったのも、千美の経験とつてがあったからだ。
しかしその方向転換の原因を作った鶴間千美の存在が、須間男にとっては不快で仕方がなかった。モチベーションも否応なく下がる。仕事は仕事。わかってはいるが、やはり千美のようにはなりたくない、というのが彼の本音だった。
艶を忘れて久しい長髪。三十四年の人生で一度でも化粧をしたことがなさそうな顔。白いシャツ、ややローライズ気味のジーンズ、黒のパンプスと、字面だけ見ると清涼感があるように感じるが、実際のところは機動性と無難さを重視したコーディネイト。入社時から同じような格好だったと彼は記憶している。
そして機関車のように吹かし続けるきついフレイバーの洋モク。場末のバーのママのようなだらしなさはなく、それなりに絵になる吸い方なのが、逆に彼を苛立たせた。
仕事は確かに出来る。完成度も高い。それは彼も認めざるを得ないし、大いに見習うところがあるのも確かだ。
それでもやはり、須間男は千美のことを認めたくはなかった。
「仕事熱心なのは助かるけどさ、たまにはサボったって構わないよ?」
千美へのねぎらいのつもりなのか、部屋の中央にあるテーブルに腰掛けながら、社長がろくでもないことを言う。須間男は入社して六年目になるが、未だにこの社長の性格をつかみきれずにいる。昼行灯とか太公望と言った二つ名が似合いそうだが、案外、裏も表もなくこういう性格なのかもしれない。
入社時にはまだ何人かいた先輩の話だと、大手テレビ局のチーフプロデューサーだったとかイケメン俳優だったとか、出自ですら噛み合わないのだから尚更怪しい。
不意に千美が立ち上がった。社長の呼びかけに答えたと言うよりは、たまたま作業が終わっただけなのだろう。そして社長のそばまで行くと、彼の傍らにあったリモコンのボタンを押した。
電源が入った大画面の液晶テレビに、パソコンのデスクトップと同じ画面が映し出される。吸い殻がこぼれた灰皿と違い、デスクトップには「ごみ箱」以外のアイコンが全くなかった。その整然とした画面の中央に、ひとつのフォルダが展開されていた。
千美がマウスをクリックすると、フォルダ内にある映像データの一つが再生された。
映像はモノクロだった。誰もいない更衣室らしき部屋の全景を俯瞰で撮影している。恐らく監視カメラの類だろう。左下に表示されている時刻表示は午前三時五十分。
やがて扉がゆっくりと開き、何者かが室内に入ってきた。暗視カメラモードなのか、男の全身は緑がかっていて、その目は緑色に光っているように見える。
男は整然と並んでいるロッカー一人分よりも、縦幅も横幅も大きかった。巨漢という言葉がぴったり当てはまる。男はゆっくりと室内のロッカーを見渡していく。窃盗犯か何かにしては堂々としたものだ。
やがて男はあるロッカーの前に立ち止まり、扉の取っ手を掴んだ。男は何度か引っ張ったが開かないらしく、最後にはロッカーを蹴った。どうやら鍵を蹴り壊したらしく、扉はすんなりと開いた。男はポケットから何かを取り出し、ロッカーの中に放り投げた。
その時である。彼の背後にあったロッカーの扉がゆっくりと開き、中から白い手が伸びた。手は彼の足下に何かを落とした瞬間、扉は勢いよく閉まった。
男はびくっと身を震わせた。次にゆっくりと背後を振り向き、足下に目を落とした。そこから数秒ほど、男はまったく動かなかった。再び動き出した姿は下手なパントマイムのようにぎこちなかった。
男はゆっくり身をかがめると、背後に落とされた何かを拾いあげた。それを無造作にポケットに突っ込むと、あたりの様子をうかがいながら外へ出て行った。
「……よくできてるな」
映像が終わると、社長がぼそりとつぶやいた。
投稿映像のチェックは須間男もやっているが、確かに社長の言うとおり、大半は「よくできた映像」だった。つまり、誰でも作れてしまう程度の映像ということだ。CGによる加工などせずとも、死角を用いたりカメラアングルを不安定にして「見切れ」を意図的に作り、幽霊役の人間が顔を出し瞬時に身を隠すと「よくできた映像」は作れる。昔ながらの映像技術のひとつだ。
投稿映像の大半は「よくできた映像」、残りは「たまたま不気味に見えるもの」「投稿者にしかわからないもの」「制作陣をからかうもの」などだ。
「これ、よくできてはいるけど、そのまま使うの?」
社長が千美に問うのも無理はない。映像レベルとしては下手な加工品よりはいい出来だが、この程度の映像なら映像ストックに腐るほどあるし、何よりインパクトがない。
しかし千美は再びデスクに戻ると、マウスを操作した。画面上では先ほどとは別のファイルが選択され、再生を開始した。
先ほどの映像とは違い、映像も音声も賑やかな動画だった。
どうやらカラオケボックスの大部屋らしい。ハンディカメラが室内をくまなく映すが、男ばかりで華がない。彼らが声を揃えて歌っているのは、最近CMで耳にする機会が増えた有名アイドルグループ『@LINK(アットリンク)』の新曲だった。部屋の傍らでは数人の男が歌に合わせて「オタ芸」に興じている。
オタ芸は七十年代からアイドル親衛隊が行っていたコールに動きを合わせたもので、今は亡き竹の子族やよさこいソーランに近い。揃った動きが見事だという反面、アイドルの方を見ていない独りよがりと批判を受けることも多く、禁止行為に指定するグループや事務所もある。また、ライブの前後に会場近辺でCDを再生し、オタ芸の練習やライブの熱を再燃させるなどの行為も問題視されている。
映像に映る彼らも、どうやらライブ開けにカラオケボックスにやって来たらしい。オタ芸を打っている面々には目もくれず、座っている面々も合いの手を間違うことなくかぶせている。
「おたく、初顔だよね?」
右側から野太い声がした。カメラが声の方を向くと、坊主頭の強面が映し出された。
「あ、ええ。箱には一年くらい前から来てるのですが、オフは初めてで」
恐らく撮影者の声だろう。緊張しているのか、上ずっている。
「それじゃ俺のこと知らねーか。知ってたらビデオなんか回さないからな」
強面はそう言ってニヤリと笑ったが、目は全く笑っていない。
「イサッチ怒らせるとヤバいっすよー」
「そうそう、つぶした親衛隊いくつになったっけ?」
他の面々がはやし立てるが、イサッチと呼ばれた強面はそれに合わせて笑った。
「先週か、新参が俺に敬語がどーこー言ってたな。あいつらあっさり土下座したけど元気かなあ? 今度お見舞いに行ってやるか?」
「イサッチ鬼畜ぅ! そこにしびれるあこが」
有名な漫画の台詞を模した茶々が不意に途切れ、ピーという雑音に取って代わった。強面を映し出していた映像に、デジタル映像特有のブロックノイズが乗った。それは様々に模様を変えていったが、不意に雑音が消え、まともな映像が映った。
それはどこかの、朽ちかけた廃屋を捉えた映像だった。
『つぎはあなたのばん』
声が途切れると、映像が再び乱れ、ようやく元に戻った。
しかし、再び映し出された強面の顔と、ドリンクを撮るためにフレームインした撮影者の左手は、真っ赤に染まっていた。
「うわっ!」
撮影者のものと思しき叫び声が上がり、映像が激しく揺れた。
「どうした、びびったか?」
カメラが再び強面の顔を映したが、何の異変もなかった。
「うーん……これは、かなーり、よくできてる映像だな。俺たちいらなくないか?」
社長が苦笑する。「よくできた映像」の中には、「かなりよくできている映像」がまれにある。カメラアングルだけではなく演技、素材をつかったザッピングなどといった、ホラー映像のノウハウをよく知っている人が、それを模して送ってくることもある。
中には「よくできてると自分でも思います。将来監督になりたいです!」と熱烈な就職活動(ラブコール)に発展していくケースもある。
「んでチミちゃんは、何でこれらをピックアップしたわけ?」
社長の問いにマウスのクリック音が答える。画面には二枚の静止画が表示された。
「お、おい、これ」
社長がテーブルの上に四つん這いになる格好で、画面に顔を近づけた。
二枚の映像のうち、左が最初の監視カメラの映像に映っていた男のアップ、右が先ほどのカラオケボックの映像に映っていたた男のアップだった。
それは間違いなく、同一人物の顔だった。
「お、送り主は? 住所は?」
「監視カメラの映像は秋葉原にある貸しスタジオの社長、カラオケボックスの映像は長野県の会社員の方からの送付です」
興奮する社長に、千美は事務的な口調で答える。
「こいつらグルじゃないよな? な? な?」
「調べますか?」
「あったりまえでしょ。そのつもりでこの映像をピックアップしたんだろ?」
千美は否定も肯定もしない。だがどうやら、これらの映像に興味を示していることは確かなようだ。
須間男は嫌な予感がした。
「ちょっと待って下さい」
「ん? スマちゃん、どうした?」
「どうしたも何も、調べてどうするんですか?」
「どうって、そりゃ……」
言いかけて、社長は言葉を詰まらせた。
「言いたいことはわかるよ。うん。俺たちはあくまでもフェイク屋だ」
あごひげをいじくりながら社長が言うとおり、カオスエージェンシーは素材屋であり、現存する人物を取材するということは、今まで一度もなかった。
「ですよね。だから僕たちはずっと『現物』は使わないようにしてきたじゃないですか」
「もしかしてスマちゃん、怖いのかい?」
「社長。僕は冗談で言ってるのじゃありません。〈本物〉を取り扱わない理由は、この仕事を始めるときに、社長ご自身が僕に説明してくれたことじゃないですか」
須間男がこの仕事を始めるまでは、『〈本物〉は使ってはならない』という映像業界の噂話を信じていたが、社長が彼に教えた現実はもっと単純な話だった。
投稿者のプライバシーと、リスクマネジメントの問題。
それが、フェイクドキュメンタリー作品制作時に、〈本物〉を取り扱わない、最大にして唯一の理由だった。
例えば投稿者を仮名にし、モザイクを入れたとする。それでもその気になれば、場所どころか人物の特定まで出来かねない。特に情報過多な現代のネット社会に置いては尚更だ。投稿者の個人情報が判明すれば、それはあっという間にネット上に拡散され、投稿者に多大な迷惑がかかる。
また、投稿者自身が採用されることや、契約書の内容などをネット上に暴露するという、新たなリスクもある。
それらのリスク回避のため、撮影は全て有名どころや撮影用貸し施設、場所が特定されない山中などで行い、劇団員や小さな事務所のエキストラを雇い、スタッフが作成したシナリオ通りに演じてもらう方法をとっている。
エンドロールやホームページに記載している「投稿募集」というのは、あくまでもリアリティを演出するためのものだ。
つまり、事務所に陣取っている投稿映像の山は、本来ならゴミでしかない。
しかしどういうわけか、千美は泊まり作業をしてまで、それらの映像をパソコンへ取り込んでファイル整理を行い、全ての映像に目を通そうとしているのだ。
千美の無駄としか思えない行為もまた、須間男を苛立たせる原因のひとつだった。
──まるで〈本物〉を探し求めているかのような、その行為が。
「鶴間さんはこの仕事、長いんですよね? 僕の言ってること、おかしいですか?」
須間男はあくまでも冷静に、しかし逃げ場を与えない言葉を選んで、千美に問いかけた。
室内に静寂が訪れた。
「あの、どうなんですか? 答えてくだ」
「……気になるんです」
追い打ちをかけようとした須間男の言葉を遮り、千美がぽつりとつぶやいた。
「気になるって……何がですか?」
須間男の更なる問いかけに、千美は沈黙で答えた。
画面をじっと見つめる千美の姿は、須間男を無視しているというわけではなく、問いかけに対する答えを画面の中に求めているかのようだった。
言語化までに至らない、漠然とした、何かを。
「……まさか、〈本物〉だって言うんですか……?」
須間男は問いかけながら、視線を画面に向けた。
彼はこれまでの人生で、霊体験と呼ばれるものを体験したこともなければ、霊を見たりしたこともない。大学の映画研究会でも、『カオスエージェンシー』に入社してからも、千美が心霊フェイクドキュメンタリーの仕事を持ち込んでからも、〈本物〉を撮影したことも、撮影に伴う何かがあったこともない。
それどころか、この仕事を始めてからは、〈本物〉なんてない、と思うようになっているくらいだ。
しかし、自分よりも業界経験の長い千美が、同じ結論に至っているのかどうか、須間男にはわからなかったし、わかりたくもなかった。
「まさかチミちゃんが〈本物〉を引き当てるとはねえ」
「社長!」
「まあまあ。で、チミちゃんはこれを追ってみたいのかい?」
社長の問いかけに、千美はこくりと頷いた。
「どうしても、かい?」
次の問いかけに、千美は答えなかった。しかしその視線は、ずっと画面に向けられたままだった。
「……やれやれ。仕方がない、次の『ガチ怖』までは三ヶ月ある。あくまでもロケハンという体で、本業に支障を来さない範囲でなら、好きに動いていいよ」
社長は大げさに両手を上に上げて降参のポーズを取った。
「社長!」
「仕方がないじゃないか。社員のやる気を尊重するのが我が社のモットーでもあるし」
「そんなモットー、初耳なんですが」
「そうだっけ?」
社長は笑ってごまかした。
「モットーはともかく、相手は台本のない『現物』なんですから、いろいろと想定外のことだって起こりえるじゃないですか。そんな危険なロケに」
「そうだよね。そんな危険なロケに、か弱い女の子をひとりで行かせるような、そんな薄情な男じゃないよね、鈴木須間男君?」
社長がにっこりと微笑む。
「何で僕なんですか……」
社長にまんまと誘導された須間男は、深く大きなため息をついた。
ちらりと画面に目を遣ると、あの強面の顔が映っている。その顔を見て、ザッピングのように差し込まれた映像と音声が脳内に蘇った。
『つぎはあなたのばん』
その言葉が自分に向けられているような気がして、須間男は陰鬱とした気持ちになった。
昨年──二〇一三年の猛暑に比べれば、今年の夏はまだ過ごしやすい方だが、それでも暑いものは暑い。
須間男は決して夏が嫌いなわけではない。日差しも少なく冷え込むだけの冬よりはむしろ好きな方だ。しかし好むと好まざるとに関わらず、汗はかくし体力は奪われる。せめて脂肪が劇的に燃焼してくれればと思うのだが、望み通りには行かない。
東京駅を中心とした都心部は、迷路のような地下網が張り巡らされている。その気になれば屋外に出ることなくオフィスに入ることも可能だ。地下のあちこちにコンビニがあり、食品街やドラッグストアもある。更には本屋や病院も地下入り口を備えている。
それでも須間男は日光が降り注ぐ屋外を歩く。ダイエットのためでもなければ、嗜虐嗜好があるわけでもない。
我が身を日にさらすことで、穢れが落ちるような気がするからだ。
須間男が今の仕事を始めてから身についた習慣だ。
彼は日光に焼かれながら、歩き慣れた道を進む。代わり映えがしないように見える街並みも、徐々に世代交代が進みつつある。古いビルがあっという間に更地になり、気づけば新しいビルが生え、すぐに他のビル群に埋没していく。
テナントもめまぐるしく入れ替わり、たまにコンビニ弁当以外のまともなランチを食べようと足を運ぶが、目当ての店があった場所には別の看板が出ている、なんてこともよくある。わずかな感傷を覚えたのは最初の頃だけだった。
日光に焼かれることと新しい飯屋を開拓すること。それが須間男にとって娯楽以上に大事なことになっていた。
きっと、あの人にはわからないだろう。
須間男は大きなため息をついた。
あの人には一生わからないし、あんな風にはなりたくない。そもそも、全部あの人から始まったことだ──と、須間男の頭の中で堂々巡りが始まる。更に強くなる日差しと反比例して、彼の気持ちは沈み始め、足取りも重くなる。
しかし歩みを止めない限り、目的地へ辿り着くのは当然のことだった。
まるで墓標だ。
彼は目的地である古びた雑居ビルを見上げる。くすんだ灰色をした、五階建ての細いビル。外壁に施されたひび割れの補修痕が、ビルを覆う蔦のようにも見える。隙間なく立ち並ぶビルの中でも特に古びていて、エントランスには扉もなければ管理人室もない。安アパートにあるような錆びたポストと階段だけがそこにあった。
須間男はポストの中身をわしづかみにすると、人ひとり通るのがやっとの階段を上り、四階へと辿り着く。壁と同じ安い灰色のペンキで塗られた鉄製の扉には、差し込み式のネームプレートが申し訳程度に付いている。
すっかり黄ばんだプレートには、油性マジックだとすぐにわかる殴り書きの字で『カオスエージェンシー』と書かれていた。
下請けの映像編集プロダクション。それが須間男の勤める会社だった。
須間男は口元を押さえてから重い扉を素早く開き、屋内へと飛び込む。彼はまっすぐ廊下を駆け抜けて台所の換気扇を回した。室内に充満したタバコの煙が抜けていくのを確認すると、全ての部屋の窓を開け放ち、消臭スプレーを振りまく。特に編集室へと念入りに。
「鶴間さん、ここは禁煙です。いい加減覚えてください」
須間男は編集室へと声をかけた。
しかし編集室からは、なんのリアクションもなかった。
編集室の──いや、カオスエージェンシーそのものの主と化したその女が、須間男に何か含むところがあって注意を忘れ去っているのかと言えばそうではない。仕事に集中すると他のことを忘れてしまう。ただそれだけのことだというのは、注意している須間男自身がよくわかっていた。
無駄に終わることがわかっていながら何故、毎朝毎朝同じ苦言を繰り返すのだろうかと、彼は自分に問いかけてみたが、明瞭な答えは得られなかった。
応接室の事務椅子に腰を下ろした須間男は、相変わらず編集室で作業を続ける女──鶴間
日差しも注がず照明が落とされた編集室で、椅子と一体化して作業に没頭する彼女の姿は、須間男の気持ちを更に重くさせた。
「おはようさん」
フロア内を覆っていた嫌な空気を霧散させたのは社長の一声だった。せっかくの長身を台無しにする猫背、無造作にジェルで立てた金色のショートヘア、剃り残しにしか見えないあごひげ、金魚柄のアロハにカーキ色のハーフパンツ、ピンク色のサンダルという、あまりにも肩書きにそぐわないファッションに身を包んだ社長は、二人の姿を涼しげな顔で見比べると、にんまりと笑った。
「さあ、今日も一日頑張りますか、っと」
社長はそう言って編集室に入ると、事務椅子に身を沈めた。総勢三名。これがカオスエージェンシーの全社員である。
「んでチミちゃん、なんか面白いのあった?」
社長は千美に声をかけた。チミというあだ名は社長がつけたものらしいが、単に音訓を読み替えたものなのか、正確な由来は定かではない。須間男は勝手に
「まだ作業中です」
社長の質問に素っ気なく答えつつ作業を続ける千美の傍らには、段ボール一杯の封筒の山があった。中身はビデオテープやDVD、メディアカードの類だ。それらの媒体に記録されているのはいわゆる投稿映像の類で、日に日にその量は増えている。須間男がポストから回収した配達品もその一部だ。記録媒体が増え続ける原因は、千美が持ち込んだ仕事にあった。
カオスエージェンシーは様々な映画会社やセルビデオ会社の依頼を受けて編集作業を行ったり、素材映像を提供したりするのがこれまでの本業だった。しかし今、業務のほぼ全体を占めているのがホラー映像作りである。
何気ない風景に一瞬だけ映る怪奇現象。その映像の撮影者に取材を行い、原因を究明していくという、現代ではテレビ番組の素材になるほど定番となったセル/レンタルDVD。今まで他社のヘルプとして関わったことはあっても、メインで制作したことがないこの手の映像作品を手がけることになったのも、千美の経験とつてがあったからだ。
しかしその方向転換の原因を作った鶴間千美の存在が、須間男にとっては不快で仕方がなかった。モチベーションも否応なく下がる。仕事は仕事。わかってはいるが、やはり千美のようにはなりたくない、というのが彼の本音だった。
艶を忘れて久しい長髪。三十四年の人生で一度でも化粧をしたことがなさそうな顔。白いシャツ、ややローライズ気味のジーンズ、黒のパンプスと、字面だけ見ると清涼感があるように感じるが、実際のところは機動性と無難さを重視したコーディネイト。入社時から同じような格好だったと彼は記憶している。
そして機関車のように吹かし続けるきついフレイバーの洋モク。場末のバーのママのようなだらしなさはなく、それなりに絵になる吸い方なのが、逆に彼を苛立たせた。
仕事は確かに出来る。完成度も高い。それは彼も認めざるを得ないし、大いに見習うところがあるのも確かだ。
それでもやはり、須間男は千美のことを認めたくはなかった。
「仕事熱心なのは助かるけどさ、たまにはサボったって構わないよ?」
千美へのねぎらいのつもりなのか、部屋の中央にあるテーブルに腰掛けながら、社長がろくでもないことを言う。須間男は入社して六年目になるが、未だにこの社長の性格をつかみきれずにいる。昼行灯とか太公望と言った二つ名が似合いそうだが、案外、裏も表もなくこういう性格なのかもしれない。
入社時にはまだ何人かいた先輩の話だと、大手テレビ局のチーフプロデューサーだったとかイケメン俳優だったとか、出自ですら噛み合わないのだから尚更怪しい。
不意に千美が立ち上がった。社長の呼びかけに答えたと言うよりは、たまたま作業が終わっただけなのだろう。そして社長のそばまで行くと、彼の傍らにあったリモコンのボタンを押した。
電源が入った大画面の液晶テレビに、パソコンのデスクトップと同じ画面が映し出される。吸い殻がこぼれた灰皿と違い、デスクトップには「ごみ箱」以外のアイコンが全くなかった。その整然とした画面の中央に、ひとつのフォルダが展開されていた。
千美がマウスをクリックすると、フォルダ内にある映像データの一つが再生された。
映像はモノクロだった。誰もいない更衣室らしき部屋の全景を俯瞰で撮影している。恐らく監視カメラの類だろう。左下に表示されている時刻表示は午前三時五十分。
やがて扉がゆっくりと開き、何者かが室内に入ってきた。暗視カメラモードなのか、男の全身は緑がかっていて、その目は緑色に光っているように見える。
男は整然と並んでいるロッカー一人分よりも、縦幅も横幅も大きかった。巨漢という言葉がぴったり当てはまる。男はゆっくりと室内のロッカーを見渡していく。窃盗犯か何かにしては堂々としたものだ。
やがて男はあるロッカーの前に立ち止まり、扉の取っ手を掴んだ。男は何度か引っ張ったが開かないらしく、最後にはロッカーを蹴った。どうやら鍵を蹴り壊したらしく、扉はすんなりと開いた。男はポケットから何かを取り出し、ロッカーの中に放り投げた。
その時である。彼の背後にあったロッカーの扉がゆっくりと開き、中から白い手が伸びた。手は彼の足下に何かを落とした瞬間、扉は勢いよく閉まった。
男はびくっと身を震わせた。次にゆっくりと背後を振り向き、足下に目を落とした。そこから数秒ほど、男はまったく動かなかった。再び動き出した姿は下手なパントマイムのようにぎこちなかった。
男はゆっくり身をかがめると、背後に落とされた何かを拾いあげた。それを無造作にポケットに突っ込むと、あたりの様子をうかがいながら外へ出て行った。
「……よくできてるな」
映像が終わると、社長がぼそりとつぶやいた。
投稿映像のチェックは須間男もやっているが、確かに社長の言うとおり、大半は「よくできた映像」だった。つまり、誰でも作れてしまう程度の映像ということだ。CGによる加工などせずとも、死角を用いたりカメラアングルを不安定にして「見切れ」を意図的に作り、幽霊役の人間が顔を出し瞬時に身を隠すと「よくできた映像」は作れる。昔ながらの映像技術のひとつだ。
投稿映像の大半は「よくできた映像」、残りは「たまたま不気味に見えるもの」「投稿者にしかわからないもの」「制作陣をからかうもの」などだ。
「これ、よくできてはいるけど、そのまま使うの?」
社長が千美に問うのも無理はない。映像レベルとしては下手な加工品よりはいい出来だが、この程度の映像なら映像ストックに腐るほどあるし、何よりインパクトがない。
しかし千美は再びデスクに戻ると、マウスを操作した。画面上では先ほどとは別のファイルが選択され、再生を開始した。
先ほどの映像とは違い、映像も音声も賑やかな動画だった。
どうやらカラオケボックスの大部屋らしい。ハンディカメラが室内をくまなく映すが、男ばかりで華がない。彼らが声を揃えて歌っているのは、最近CMで耳にする機会が増えた有名アイドルグループ『@LINK(アットリンク)』の新曲だった。部屋の傍らでは数人の男が歌に合わせて「オタ芸」に興じている。
オタ芸は七十年代からアイドル親衛隊が行っていたコールに動きを合わせたもので、今は亡き竹の子族やよさこいソーランに近い。揃った動きが見事だという反面、アイドルの方を見ていない独りよがりと批判を受けることも多く、禁止行為に指定するグループや事務所もある。また、ライブの前後に会場近辺でCDを再生し、オタ芸の練習やライブの熱を再燃させるなどの行為も問題視されている。
映像に映る彼らも、どうやらライブ開けにカラオケボックスにやって来たらしい。オタ芸を打っている面々には目もくれず、座っている面々も合いの手を間違うことなくかぶせている。
「おたく、初顔だよね?」
右側から野太い声がした。カメラが声の方を向くと、坊主頭の強面が映し出された。
「あ、ええ。箱には一年くらい前から来てるのですが、オフは初めてで」
恐らく撮影者の声だろう。緊張しているのか、上ずっている。
「それじゃ俺のこと知らねーか。知ってたらビデオなんか回さないからな」
強面はそう言ってニヤリと笑ったが、目は全く笑っていない。
「イサッチ怒らせるとヤバいっすよー」
「そうそう、つぶした親衛隊いくつになったっけ?」
他の面々がはやし立てるが、イサッチと呼ばれた強面はそれに合わせて笑った。
「先週か、新参が俺に敬語がどーこー言ってたな。あいつらあっさり土下座したけど元気かなあ? 今度お見舞いに行ってやるか?」
「イサッチ鬼畜ぅ! そこにしびれるあこが」
有名な漫画の台詞を模した茶々が不意に途切れ、ピーという雑音に取って代わった。強面を映し出していた映像に、デジタル映像特有のブロックノイズが乗った。それは様々に模様を変えていったが、不意に雑音が消え、まともな映像が映った。
それはどこかの、朽ちかけた廃屋を捉えた映像だった。
『つぎはあなたのばん』
声が途切れると、映像が再び乱れ、ようやく元に戻った。
しかし、再び映し出された強面の顔と、ドリンクを撮るためにフレームインした撮影者の左手は、真っ赤に染まっていた。
「うわっ!」
撮影者のものと思しき叫び声が上がり、映像が激しく揺れた。
「どうした、びびったか?」
カメラが再び強面の顔を映したが、何の異変もなかった。
「うーん……これは、かなーり、よくできてる映像だな。俺たちいらなくないか?」
社長が苦笑する。「よくできた映像」の中には、「かなりよくできている映像」がまれにある。カメラアングルだけではなく演技、素材をつかったザッピングなどといった、ホラー映像のノウハウをよく知っている人が、それを模して送ってくることもある。
中には「よくできてると自分でも思います。将来監督になりたいです!」と熱烈な就職活動(ラブコール)に発展していくケースもある。
「んでチミちゃんは、何でこれらをピックアップしたわけ?」
社長の問いにマウスのクリック音が答える。画面には二枚の静止画が表示された。
「お、おい、これ」
社長がテーブルの上に四つん這いになる格好で、画面に顔を近づけた。
二枚の映像のうち、左が最初の監視カメラの映像に映っていた男のアップ、右が先ほどのカラオケボックの映像に映っていたた男のアップだった。
それは間違いなく、同一人物の顔だった。
「お、送り主は? 住所は?」
「監視カメラの映像は秋葉原にある貸しスタジオの社長、カラオケボックスの映像は長野県の会社員の方からの送付です」
興奮する社長に、千美は事務的な口調で答える。
「こいつらグルじゃないよな? な? な?」
「調べますか?」
「あったりまえでしょ。そのつもりでこの映像をピックアップしたんだろ?」
千美は否定も肯定もしない。だがどうやら、これらの映像に興味を示していることは確かなようだ。
須間男は嫌な予感がした。
「ちょっと待って下さい」
「ん? スマちゃん、どうした?」
「どうしたも何も、調べてどうするんですか?」
「どうって、そりゃ……」
言いかけて、社長は言葉を詰まらせた。
「言いたいことはわかるよ。うん。俺たちはあくまでもフェイク屋だ」
あごひげをいじくりながら社長が言うとおり、カオスエージェンシーは素材屋であり、現存する人物を取材するということは、今まで一度もなかった。
「ですよね。だから僕たちはずっと『現物』は使わないようにしてきたじゃないですか」
「もしかしてスマちゃん、怖いのかい?」
「社長。僕は冗談で言ってるのじゃありません。〈本物〉を取り扱わない理由は、この仕事を始めるときに、社長ご自身が僕に説明してくれたことじゃないですか」
須間男がこの仕事を始めるまでは、『〈本物〉は使ってはならない』という映像業界の噂話を信じていたが、社長が彼に教えた現実はもっと単純な話だった。
投稿者のプライバシーと、リスクマネジメントの問題。
それが、フェイクドキュメンタリー作品制作時に、〈本物〉を取り扱わない、最大にして唯一の理由だった。
例えば投稿者を仮名にし、モザイクを入れたとする。それでもその気になれば、場所どころか人物の特定まで出来かねない。特に情報過多な現代のネット社会に置いては尚更だ。投稿者の個人情報が判明すれば、それはあっという間にネット上に拡散され、投稿者に多大な迷惑がかかる。
また、投稿者自身が採用されることや、契約書の内容などをネット上に暴露するという、新たなリスクもある。
それらのリスク回避のため、撮影は全て有名どころや撮影用貸し施設、場所が特定されない山中などで行い、劇団員や小さな事務所のエキストラを雇い、スタッフが作成したシナリオ通りに演じてもらう方法をとっている。
エンドロールやホームページに記載している「投稿募集」というのは、あくまでもリアリティを演出するためのものだ。
つまり、事務所に陣取っている投稿映像の山は、本来ならゴミでしかない。
しかしどういうわけか、千美は泊まり作業をしてまで、それらの映像をパソコンへ取り込んでファイル整理を行い、全ての映像に目を通そうとしているのだ。
千美の無駄としか思えない行為もまた、須間男を苛立たせる原因のひとつだった。
──まるで〈本物〉を探し求めているかのような、その行為が。
「鶴間さんはこの仕事、長いんですよね? 僕の言ってること、おかしいですか?」
須間男はあくまでも冷静に、しかし逃げ場を与えない言葉を選んで、千美に問いかけた。
室内に静寂が訪れた。
「あの、どうなんですか? 答えてくだ」
「……気になるんです」
追い打ちをかけようとした須間男の言葉を遮り、千美がぽつりとつぶやいた。
「気になるって……何がですか?」
須間男の更なる問いかけに、千美は沈黙で答えた。
画面をじっと見つめる千美の姿は、須間男を無視しているというわけではなく、問いかけに対する答えを画面の中に求めているかのようだった。
言語化までに至らない、漠然とした、何かを。
「……まさか、〈本物〉だって言うんですか……?」
須間男は問いかけながら、視線を画面に向けた。
彼はこれまでの人生で、霊体験と呼ばれるものを体験したこともなければ、霊を見たりしたこともない。大学の映画研究会でも、『カオスエージェンシー』に入社してからも、千美が心霊フェイクドキュメンタリーの仕事を持ち込んでからも、〈本物〉を撮影したことも、撮影に伴う何かがあったこともない。
それどころか、この仕事を始めてからは、〈本物〉なんてない、と思うようになっているくらいだ。
しかし、自分よりも業界経験の長い千美が、同じ結論に至っているのかどうか、須間男にはわからなかったし、わかりたくもなかった。
「まさかチミちゃんが〈本物〉を引き当てるとはねえ」
「社長!」
「まあまあ。で、チミちゃんはこれを追ってみたいのかい?」
社長の問いかけに、千美はこくりと頷いた。
「どうしても、かい?」
次の問いかけに、千美は答えなかった。しかしその視線は、ずっと画面に向けられたままだった。
「……やれやれ。仕方がない、次の『ガチ怖』までは三ヶ月ある。あくまでもロケハンという体で、本業に支障を来さない範囲でなら、好きに動いていいよ」
社長は大げさに両手を上に上げて降参のポーズを取った。
「社長!」
「仕方がないじゃないか。社員のやる気を尊重するのが我が社のモットーでもあるし」
「そんなモットー、初耳なんですが」
「そうだっけ?」
社長は笑ってごまかした。
「モットーはともかく、相手は台本のない『現物』なんですから、いろいろと想定外のことだって起こりえるじゃないですか。そんな危険なロケに」
「そうだよね。そんな危険なロケに、か弱い女の子をひとりで行かせるような、そんな薄情な男じゃないよね、鈴木須間男君?」
社長がにっこりと微笑む。
「何で僕なんですか……」
社長にまんまと誘導された須間男は、深く大きなため息をついた。
ちらりと画面に目を遣ると、あの強面の顔が映っている。その顔を見て、ザッピングのように差し込まれた映像と音声が脳内に蘇った。
『つぎはあなたのばん』
その言葉が自分に向けられているような気がして、須間男は陰鬱とした気持ちになった。