◎あの時に誓ったこと。(二)
文字数 3,607文字
「お母さん? ……えっ? なんで、どうしたの?」
赤い塊は首から血を流し、開いたままになっている瞳はどこか遠くを眺めていた。
いつものようにこちらを見てくれない。
優しい声で返事をしてくれない。
いまだけ怒ってくれてもいいのに、それすらも叶わない。
余りにも無残な、母親の骸。
ロンはなにがなんなのかわからなかった。
錯乱したまま少女を見る。彼女は眉を歪めて泣きそうな目でロンを見ていた。
「この人、あなたのお母さんなの?」
ロンは頷く。
目の前で母親が死んでいるというのに、実感がまったく湧かない。涙も出ない。
代わりに縋るような目を、少女に向けた。
「……お姉ちゃん……。どうしお母さんが、こんな……」
瞳が揺らぎ少女は地面に視線をやる。口がきつく結ばれた。
彼女はゆっくりと顔を上げると、泣きそうな顔のまま、震える唇を開いた。
「あたしが…………殺したのよ」
その声も震えていた。
「えっ?」
「あたしが殺したの。あなたのお母さんを、あたしが殺してしまったのよ」
いつの間にか、少女の顔にはなにも感情が浮かんでいなかった。無表情だ。
彼女の言ったことが分からず、ロンは母親だった赤い塊を見る。そして少女に視線を戻すと、彼女の胸に刺さっているモノを見る。
「えっ?」
ロンはまた惚けたような声を出す。
少女がなにを言ったのか。ここでなにがあったのか。
どうして胸にナイフを刺しているのに普通に立っていられるのか。それから――どうして、母親が死んでいるのか。
なにも分からない。いや、ひとつだけ、わかったことがある。
母親を殺したのが、目の前にいる少女だということ。
やけに冷静な頭で悟ったロンは、足の力が抜けてその場にへたり込む。
頬を冷たいものが伝っていく。遅れてそれが涙だと気づいた。
爆発、する。
「ど、どどうしてお母さんをッ、殺したんだよぉっ! お母さんがッ、なにをしたっていうんだよおおおおッ。な、なんでどうして、なんでなんでどうしてなんでなんだよぉッ!!」
涙を、乱暴に手で拭いながら、同じことを叫ぶ。
少年の姿を見た少女は一瞬顔を歪めるが、無表情になるとありのままあったことを話し始めた。
「あなたのお母さんが、あたしを殺そうとしたからよ」
「……うぇ?」
「知らないの? ニュースで見なかった? ここ最近、この街に通り魔が現れるってこと。……通り魔はね、あなたのお母さんのことだったのよ」
追い打ちをかけるかのように、少女が繰り返す。
「あなたのお母さんが、通り魔だったの」
衝撃的な言葉。ロンには到底、信じられなかった。
「嘘だ!そんなニュースなんて知らないもん。お母さんは優しい人なんだよ。優しいお母さんが……人殺しなんするわけないじゃん! 嘘をついたらいけないって、お母さんが言ってたんだよ? 嘘はダメだって言ってた! お姉ちゃんは悪い人なんだ。嘘つくなよ!」
「嘘じゃないわ。これは本当のことよ。ここ最近のニュースでは必ずといていいほど通り魔の話題をやっているし。あたしは……この目でこの人が、人を殺すのを見たのよ!」
張りのある声が響く。
ロンは驚いて少女を見ると、彼女は胸にナイフが刺さっているのにも構わず、厳しい表情でロンを見下ろしていた。先刻優しく道筋を指し示してくれた指が、赤い塊に向けられている。
「あたしは、昨日見たの。この人が、人を殺すところを」
彼女は冷静な目で赤い塊を見つめながら話をつづける。
「その時に思わず音をたてちゃったの。この人は顔を上げてあたしを見たわ。危ないと思ったからあたしはすぐに逃げたけど、顔を覚えられていたのね。近道しようと路地に入った瞬間、後ろから襲われたの。……いろいろあって反射神経はいい方だから咄嗟に避けたのだけれど、その時思わず護身用に持っているナイフで応戦しちゃって、躓いて倒れ込んできたこの人の首を斬っちゃったのよ。頸動脈だから一瞬ね。それで……ッ。正当防衛だなんて言わないわ。あたしが悪いんだもの。斬られたってなんともないのに、反応しちゃったんだから。だから、あたしは……」
少女が口を噤む。
ロンは彼女の吐いた言葉に目を大きく見開く。まだ十歳にもなっていない彼には難しい単語が含まれていたけれど、なんとなく少女の言いたいことは理解していた。
涙を流したまま放心しているロンを見ると、少女は寂しそうに言葉を紡いだ。
「だから、あたしは自分を刺したの。この人を殺してしまった報いの為に……」
「……な、なら、どうして生きてるの? 胸を刺されたら死ぬってここと、ぼくにだってわかるよぉ?」
ナイフは心臓に刺さっているように見える。だというのに、どうして彼女は動いて喋っていられるのだろうか。
少女は軽くため息を吐くと、やはり寂しそうに言った。
「あたしは、死なないから……」
「えっ?」
「あたしは不老不死なの。心臓を刺したって、首が切断されたって、たとえ体中の肉片が飛び散ろうとも、死なないの。すぐってわけじゃないけど、体は再生されて元に戻ってしまう。この子供の姿にね」
「そ、そんなこと」
「あるわけがない? ……でも、実際に目の前で起こっているじゃない。あたしの胸にナイフが刺さっている。それなのに生きている。……それは、死なないからよ」
ロンはまだ幼く、世界のことを知らなかった。知っているのは家と学校のみ。
だから、世界にはそういう人がいるのかと、ロンはすぐに信じてしまった。
いや、胸にナイフが刺さったまま動いて喋っている人がいる。それを見て、信じられない方がおかしいだろう。
涙はとめどなく溢れてくる。涙を拭いながらロンは彼女を見た。
おもむろに、少女が胸に刺さっているナイフを引き抜いた。不思議と血は出てこない。
彼女はナイフの刃先を持つと、しゃがみ込んだ。ナイフの持ち手をロンに差し出してくる。反射的にロンは受け取った。
ずっしりと、重りでもつけられたかのような重さを感じる。
「あたしを許すことができないなら、あたしを刺して。何回でも何回でも。あたしは死なないから、だいじょうぶよ」
なにがだいじょうぶだ。
ロンは思った。
本当に彼女が不老不死なのであれば、死にはしないだろうけれど。
受け取ったナイフには母親の血がついている。それに被さるように少女の血もついているのだろう。
ロンは赤い塊を見る。もう動く気配のない、骸を。
目の前には自分の母親を殺した人がいる。もちろん許せない。許せるはずなんてなかった。
そう思った瞬間、ロンは金切り声をあげていた。
「アアアアアアアアッ」
立ち上がると走り出す。
少女に向かって。
赤い胸を見ながら。
ロンは腕を振り上げる。
高く、高く、振り上げる。
ナイフを持った腕を。
思いっきり振り下ろした。
ナイフを、地面に向かって。
キンッと虚しい音がする。ロンは肩で息をした。少女をにらみつける。
「無理だよ。無理だ。ぼくは人殺しになんてなりたくない。人を殺すなんて、絶対に嫌なんだッ」
「……そう。その方がいいわね。人間は、人を殺したら人間じゃなくなるんだから」
――ただの獣よ。
少女は囁くと、ふらふらと歩きだした。胸の傷はもう塞がっている。
彼女はとても悲しそうな顔をしていた。
少女の背を見て、ロンは涙を流したまま少女に声をかける。
「お姉ちゃんの名前、教えてよ」
もう震えてない、低く確かな声で。
「……リリ」
「リリ。リリ。覚えたよ。ぼくはロン。憶えておいて、いつか必ず逢いに行くから!」
このとき彼は決めていた。それを叶えるために、強くなって少女に逢いに行くと。
一瞬、少女が足を止める。そしてすぐに歩き出した。この場で、最後になる言葉を吐き捨てると。
「さようなら」
ロンは落ちているナイフをポケットにしまうと、赤い塊の近くに歩み寄った。
母親の、開いたままになっている目を閉ざしてあげる。もう流すことないだろう涙を袖できつく拭い、赤い塊となってしまった母親の額に顔を寄せ、優しくキスをした。
「お母さんごめんね。そしてばいばい。ボクは決めたんだ。ボクは復讐しない。でもね、決めたんだよ。お姉ちゃんを殺すって。殺して、この世界から解放させてあげるんだ」
もう冷たくなりかけている母親の体を抱きしめたあと、ロンは立ち上がった。
そして骸に背を向けると、走り出した。
いつの間にか降りそそぐ、雨の中を。
ひとりで生きていくために――。
◇◆◇
赤毛の青年は胸の中で何回も反復する。
(これは復讐なんかじゃない。俺に任せられた使命だ)
彼女をこの世界から解放する。
それを、あの時に誓ったのだから。
赤い塊は首から血を流し、開いたままになっている瞳はどこか遠くを眺めていた。
いつものようにこちらを見てくれない。
優しい声で返事をしてくれない。
いまだけ怒ってくれてもいいのに、それすらも叶わない。
余りにも無残な、母親の骸。
ロンはなにがなんなのかわからなかった。
錯乱したまま少女を見る。彼女は眉を歪めて泣きそうな目でロンを見ていた。
「この人、あなたのお母さんなの?」
ロンは頷く。
目の前で母親が死んでいるというのに、実感がまったく湧かない。涙も出ない。
代わりに縋るような目を、少女に向けた。
「……お姉ちゃん……。どうしお母さんが、こんな……」
瞳が揺らぎ少女は地面に視線をやる。口がきつく結ばれた。
彼女はゆっくりと顔を上げると、泣きそうな顔のまま、震える唇を開いた。
「あたしが…………殺したのよ」
その声も震えていた。
「えっ?」
「あたしが殺したの。あなたのお母さんを、あたしが殺してしまったのよ」
いつの間にか、少女の顔にはなにも感情が浮かんでいなかった。無表情だ。
彼女の言ったことが分からず、ロンは母親だった赤い塊を見る。そして少女に視線を戻すと、彼女の胸に刺さっているモノを見る。
「えっ?」
ロンはまた惚けたような声を出す。
少女がなにを言ったのか。ここでなにがあったのか。
どうして胸にナイフを刺しているのに普通に立っていられるのか。それから――どうして、母親が死んでいるのか。
なにも分からない。いや、ひとつだけ、わかったことがある。
母親を殺したのが、目の前にいる少女だということ。
やけに冷静な頭で悟ったロンは、足の力が抜けてその場にへたり込む。
頬を冷たいものが伝っていく。遅れてそれが涙だと気づいた。
爆発、する。
「ど、どどうしてお母さんをッ、殺したんだよぉっ! お母さんがッ、なにをしたっていうんだよおおおおッ。な、なんでどうして、なんでなんでどうしてなんでなんだよぉッ!!」
涙を、乱暴に手で拭いながら、同じことを叫ぶ。
少年の姿を見た少女は一瞬顔を歪めるが、無表情になるとありのままあったことを話し始めた。
「あなたのお母さんが、あたしを殺そうとしたからよ」
「……うぇ?」
「知らないの? ニュースで見なかった? ここ最近、この街に通り魔が現れるってこと。……通り魔はね、あなたのお母さんのことだったのよ」
追い打ちをかけるかのように、少女が繰り返す。
「あなたのお母さんが、通り魔だったの」
衝撃的な言葉。ロンには到底、信じられなかった。
「嘘だ!そんなニュースなんて知らないもん。お母さんは優しい人なんだよ。優しいお母さんが……人殺しなんするわけないじゃん! 嘘をついたらいけないって、お母さんが言ってたんだよ? 嘘はダメだって言ってた! お姉ちゃんは悪い人なんだ。嘘つくなよ!」
「嘘じゃないわ。これは本当のことよ。ここ最近のニュースでは必ずといていいほど通り魔の話題をやっているし。あたしは……この目でこの人が、人を殺すのを見たのよ!」
張りのある声が響く。
ロンは驚いて少女を見ると、彼女は胸にナイフが刺さっているのにも構わず、厳しい表情でロンを見下ろしていた。先刻優しく道筋を指し示してくれた指が、赤い塊に向けられている。
「あたしは、昨日見たの。この人が、人を殺すところを」
彼女は冷静な目で赤い塊を見つめながら話をつづける。
「その時に思わず音をたてちゃったの。この人は顔を上げてあたしを見たわ。危ないと思ったからあたしはすぐに逃げたけど、顔を覚えられていたのね。近道しようと路地に入った瞬間、後ろから襲われたの。……いろいろあって反射神経はいい方だから咄嗟に避けたのだけれど、その時思わず護身用に持っているナイフで応戦しちゃって、躓いて倒れ込んできたこの人の首を斬っちゃったのよ。頸動脈だから一瞬ね。それで……ッ。正当防衛だなんて言わないわ。あたしが悪いんだもの。斬られたってなんともないのに、反応しちゃったんだから。だから、あたしは……」
少女が口を噤む。
ロンは彼女の吐いた言葉に目を大きく見開く。まだ十歳にもなっていない彼には難しい単語が含まれていたけれど、なんとなく少女の言いたいことは理解していた。
涙を流したまま放心しているロンを見ると、少女は寂しそうに言葉を紡いだ。
「だから、あたしは自分を刺したの。この人を殺してしまった報いの為に……」
「……な、なら、どうして生きてるの? 胸を刺されたら死ぬってここと、ぼくにだってわかるよぉ?」
ナイフは心臓に刺さっているように見える。だというのに、どうして彼女は動いて喋っていられるのだろうか。
少女は軽くため息を吐くと、やはり寂しそうに言った。
「あたしは、死なないから……」
「えっ?」
「あたしは不老不死なの。心臓を刺したって、首が切断されたって、たとえ体中の肉片が飛び散ろうとも、死なないの。すぐってわけじゃないけど、体は再生されて元に戻ってしまう。この子供の姿にね」
「そ、そんなこと」
「あるわけがない? ……でも、実際に目の前で起こっているじゃない。あたしの胸にナイフが刺さっている。それなのに生きている。……それは、死なないからよ」
ロンはまだ幼く、世界のことを知らなかった。知っているのは家と学校のみ。
だから、世界にはそういう人がいるのかと、ロンはすぐに信じてしまった。
いや、胸にナイフが刺さったまま動いて喋っている人がいる。それを見て、信じられない方がおかしいだろう。
涙はとめどなく溢れてくる。涙を拭いながらロンは彼女を見た。
おもむろに、少女が胸に刺さっているナイフを引き抜いた。不思議と血は出てこない。
彼女はナイフの刃先を持つと、しゃがみ込んだ。ナイフの持ち手をロンに差し出してくる。反射的にロンは受け取った。
ずっしりと、重りでもつけられたかのような重さを感じる。
「あたしを許すことができないなら、あたしを刺して。何回でも何回でも。あたしは死なないから、だいじょうぶよ」
なにがだいじょうぶだ。
ロンは思った。
本当に彼女が不老不死なのであれば、死にはしないだろうけれど。
受け取ったナイフには母親の血がついている。それに被さるように少女の血もついているのだろう。
ロンは赤い塊を見る。もう動く気配のない、骸を。
目の前には自分の母親を殺した人がいる。もちろん許せない。許せるはずなんてなかった。
そう思った瞬間、ロンは金切り声をあげていた。
「アアアアアアアアッ」
立ち上がると走り出す。
少女に向かって。
赤い胸を見ながら。
ロンは腕を振り上げる。
高く、高く、振り上げる。
ナイフを持った腕を。
思いっきり振り下ろした。
ナイフを、地面に向かって。
キンッと虚しい音がする。ロンは肩で息をした。少女をにらみつける。
「無理だよ。無理だ。ぼくは人殺しになんてなりたくない。人を殺すなんて、絶対に嫌なんだッ」
「……そう。その方がいいわね。人間は、人を殺したら人間じゃなくなるんだから」
――ただの獣よ。
少女は囁くと、ふらふらと歩きだした。胸の傷はもう塞がっている。
彼女はとても悲しそうな顔をしていた。
少女の背を見て、ロンは涙を流したまま少女に声をかける。
「お姉ちゃんの名前、教えてよ」
もう震えてない、低く確かな声で。
「……リリ」
「リリ。リリ。覚えたよ。ぼくはロン。憶えておいて、いつか必ず逢いに行くから!」
このとき彼は決めていた。それを叶えるために、強くなって少女に逢いに行くと。
一瞬、少女が足を止める。そしてすぐに歩き出した。この場で、最後になる言葉を吐き捨てると。
「さようなら」
ロンは落ちているナイフをポケットにしまうと、赤い塊の近くに歩み寄った。
母親の、開いたままになっている目を閉ざしてあげる。もう流すことないだろう涙を袖できつく拭い、赤い塊となってしまった母親の額に顔を寄せ、優しくキスをした。
「お母さんごめんね。そしてばいばい。ボクは決めたんだ。ボクは復讐しない。でもね、決めたんだよ。お姉ちゃんを殺すって。殺して、この世界から解放させてあげるんだ」
もう冷たくなりかけている母親の体を抱きしめたあと、ロンは立ち上がった。
そして骸に背を向けると、走り出した。
いつの間にか降りそそぐ、雨の中を。
ひとりで生きていくために――。
◇◆◇
赤毛の青年は胸の中で何回も反復する。
(これは復讐なんかじゃない。俺に任せられた使命だ)
彼女をこの世界から解放する。
それを、あの時に誓ったのだから。