第1話

文字数 4,163文字

夕暮れ、霧雨の中に私は立っていた。
目のそろわない古い石畳の、薄暗いけれどキレイな小路。
むせかえる甘ったるい匂いを纏いながら、茂り咲いたキンモクセイの、
その葉越しに影が見えた。
親友とその彼氏が、

――キスしてる…

そして、彼女に唇を重ねたまま、彼は私に視線を移し微笑んだ。

ドクンっ…

心臓の鼓動が半拍ズレる。

――気づかれたっ…

落とさないようにだけ握りしめられた傘は、すでにその役目を果たしていない。
水分を含んだ制服は重く、さらに重く、私の足を石畳にへばりつかせる。
温度を失い白く退色していく指先と心。

もう終わりだ…と、思った。
知られたら、私はとても生きていけない。

でも、おしまいは来なかった。
代わりに始まった裏切りは、今はもう終わりが見えなくなっている。


「聞いてる?のばら」

ギシリ……

軋んだ古いベッドの音で我に返った。
目の前には見慣れた音楽室の天井と、

「……聞いてなかった。なに?佐伯先輩」

覆いかぶさるように私を覗きこむ、やわらかな笑顔があった。
腰から下にシーツが引っかかっているだけの裸体。
夕焼けに染まる先輩はキラキラしていて、その影に完全に隠れてしまう私は、なんだか惨め。

「樹里の誕生日プレゼント。一緒に買いに行こう?」

樹里は私の親友で、先輩の彼女。

「こんな口実でもないと、のばらと外で会えない」

整いすぎた顔立ちは、普段は少し冷たいとさえ感じるのに、
今は、少し拗ねた表情で視線を逸らす。

それがなんだか可愛くて、
思わず笑うと、どうも機嫌を損ねたみたい。

ダメもヤメテも聞こえぬフリで、先輩は楽しげに何度も私を抱いた。

宝物みたいに優しく、
先輩の甘い匂いが私を包み込む。

――こんなふうに樹里も抱くのかな?

うらやましくて、泣きたくなった。


逢瀬に使う旧校舎の音楽室は、そもそも学校の施設ではない。
二階建ての洋館であるそれは、つるバラに覆われた鉄柵で囲まれていて、よく見ると学校の敷地とは分けられている。それなのに、多くの学生が『旧校舎の音楽室』と認識しているのは、学校側に洋館を隔てる塀などがないことと、鬱蒼とした林のせいだろう。結果、学校西側の塀を洋館の鉄柵が兼ねる形になっていて、『旧校舎の音楽室』の出来上がりという訳だ。
グランドピアノどころか応接セットにベッドやら、シャワールームまでついている。作曲家だった佐伯先輩の曾祖父のアトリエということは、ここで何度目か抱かれた後に知った。

カシャン…

バラの門扉に手をかける。
次の日も。また、次の日も。

そして訪れた、何度目かの次の日に、
錆びた蝶番の音とどこか同質の、耳をふさぎたくなるような鋭い声がした。

「何してるの?のばらちゃんっ」
「樹里…」

と、彼女をいたわるように寄り添う佐伯先輩が、私の後ろに立っている。

「…何って、ピアノをお借りしているの」

私の神聖な部分で嘘をつくことに躊躇われたが他に手がなかった。
樹里の瞳の奥深くに疑念が揺らいでいる。

「のばらちゃんの家にもあるでしょ」
「調律がまだで…、リハビリがてら最近弾き始めたから」
「随分と時間がかかるのね。調律って」

確信に近い物言いに、かなり以前から見られていたのだと悟る。
ざわりっ…、心が粟立った。

「申し訳ないけど、そういう訳だから。カギは返して貰うね。柴姫さん」
「…わかりました」

佐伯先輩へと、鍵を差し出す指が震える。

「何?私が悪いの?2人でコソコソ会ってるのがいけないんじゃない!」

まさか、知られたのだろうか。
私と佐伯先輩の関係を?
樹里に?
一体、どこまで?

その後のことは、あまり覚えていない。
気付くと自宅のピアノの前に座っていて、
鍵盤蓋に落ちた、自分の影をじっと見つめていた。

「別に2人きりで会っていたことはないけどね」
「僕がいなくても自由にピアノを弾けるようにと、鍵は渡してあったんだ」
「樹里の親友だったし。力になれればと思ったのだけれど」
「樹里が不安になるくらいなら、もうやめてしまおう」

平然と、恋人の前で嘘をつく。
佐伯先輩の囁きが、耳に残って離れない。

反復する声を掻き消そうと鍵盤に触れるけれど、
怪我をした数本の指は、やはりもう動かなかった。

それでも鍵盤を叩き続けると、
テンションのかかったピアノ線が振動するごとに、
固定されていた私の心も震える。

想いを綯い交ぜながら、空気を揺らし生まれる音。
正常の中に狂った調子を含みながら、
広がる旋律が私の心をも解放していくようだと思った。

歪み、うなる。
これが今の私の姿。
音酔いと吐気が、現実を突きつける。

あの日見た2人の姿を、
見てはだめだと目がいった。
だから私は目を閉じた。

嗅いではだめだと鼻がいった。
だから私は息を止めた。

なのに聴くのもだめだと耳が言うから、
だから私は逃げ出したのに、

いつの日か、彼に捕まれた腕の温もりは、
いとも簡単に易々と、
私の心を破壊する。
今も、破壊してる。

そして、おそらくこれからは、
破壊は、私だけにとどまらない。

ようやくその事実に思い至った私は、
深い、深いため息をアウトロに添えた。


「昨日はごめんなさい。のばらちゃん」

翌朝、家の前に立っていた樹里は、開口一番に頭を下げた。
佐伯先輩と付き合うようになってからは、私と一緒に登校しなくなっていたので、
わざわざ一番に謝りに来てくれたのだろう。

「私のほうこそ、樹里に嫌な思いをさせてごめんなさい」

同様に頭を下げると、樹里の右手の薬指にシルバーのリングが輝いているのが見えた。
おそらく佐伯先輩からの誕生日プレゼント。
樹里の誕生日には少し早いが、抜け目のないご機嫌取りに、つい笑いがこぼれた。
その様子に、樹里がホッと緊張を解く。私も解く。

――ああ、よかった。佐伯先輩との関係は知られていない。

「のばらちゃん、またピアノ始めたんだね」
「うん」
「それなのに、私ってば、ごめんなさい」
「…樹里?」
「よかった。本当によかった…」

優しいのね。
泣いてくれるの?
こんな私のために。

2年前の冬、左手を怪我したことでピアノを生涯とすることはできなくなった。
不登校になった私の元に、毎日プリントを運んできたのが、当時クラス委員をしていた樹里だった。他愛のないクラスの出来事を、女の子らしい字で毎日添えて、家のポストに入れていく。学校に行こうとは一度も書かれたことはなかった。教師が諦め、進級し、クラス委員じゃなくなっても、樹里は毎日訪れた。季節がキンモクセイの匂いを運ぶ頃、一緒に登校するようになったのは、正直言って根気負けだったと思う。

大好きな樹里。
彼女は、可憐ながら芳しく匂い立つ、色鮮やかなキンモクセイ。

学校につくと、樹里が私の目の前に、昨日手放した鍵を差し出した。

「…いらないわ」
「佐伯先輩から預かったの。私の好きにしていいって、だから、これは樹里ちゃんが使って」
「佐伯先輩が?」
「でも、その…、できれば早めに調律がおわってくれると、うれしいんだけど…」

不安に揺れながら微笑む樹里は、なんてきれいなんだろう。
そう思った自分に絶望した。
なんて、自分は浅ましい。
目の前が真っ暗になる。

放課後、旧校舎の音楽室に向かうと、樹里から受け取った鍵を使って2階に上がる。
佐伯先輩がソファに体を沈めてくつろいでいた。

「昨晩、ピアノ弾いてたね」

私の家は旧校舎のある林の向こう側で、比較的学校に近い。
とはいえ、距離的に聞こえるはずがない。
怪訝な顔を浮かべる私とは対象に、佐伯先輩はうれしそうに笑うと、窓の外を指さした。
林の奥に湖が見える。灌漑用のため池だ。

「湖風が吹くんだよ。知らなかった?」

――知らない

「どんな子が弾いてるのかな…って、いつも子どもながらに想像してた」

――そんなことは、初めて知った

「のばらは、僕の恋心を甘く見過ぎだよね…」

ソファから立ち上がり、換気のためにあけていた窓を閉じる。
振り向いた佐伯先輩は笑っていない。
私がこれから吐露する言葉を、切なげに待っている。

「もう…やめたい…」

ボロボロと溢れ出した涙が止まらない。

佐伯先輩は距離を詰めると、怯えさせないように、そっと私の手をつかんだ。
手のひらに、シルバーのペアリングの片割れを乗せられる。

リングの内側に、“JYURI”の刻印。

今朝見た樹里のリングには、先輩の名前が刻まれているのだろう。
そして、

「…え?」

佐伯先輩の手のひらに乗せられた、3つめの指輪。

“NOBARA”
――私の名前の入った指輪。

それを、佐伯先輩は当たり前のように自分の指にはめると、
“JYURI”と刻まれた指輪のほうを、私の薬指にひそかにつけた。

――樹里に触れられてるみたい……

そう思うだけで、私の薬指がとたんに熱を帯びる。

「あの日の約束、覚えてる?のばら」

約束を忘れるわけがない。
だって、ここは、私達のはじまりの場所だ。

「僕の目は、のばらの目」
――気づかれた私の恋心と、先輩とかわした約束が、

「俺の耳は、のばらの耳」
――今も当たり前のように横たわる。

耳元で囁いたあと、頬を伝って落ちた佐伯先輩の落とす優しいキスに、
決して告げることのできない告白が漏れた。

「 …好き。ぁあ、ごめんなさい。樹里が好きなの」

「俺の唇は、のばらの唇」

怯え震える私の体を佐伯先輩が抱きしめる。

「のばらを想う気持ち以外、僕の全部をのばらにあげる。……だから」

大好きな匂い。
佐伯先輩から、愛しい樹里の残り香がする。

「樹里を想う気持ち以外の、のばらの全部を僕にちょうだい」

彼は私。
私は彼を通して彼女を犯す。

「どんな事をしても、絶対に手に入れるって決めていた」
「ごめんなさい……」
「絶対に離さない」

薄れていく意識の中で、樹里の声を聞いた気がした。

カタン…

「…絶対に…許さない」


FIN

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