第3話 官による整備

文字数 741文字

 1882(明治15)年に浅草公園の築造が始まり、田圃の埋め立てや大池の造成を行って、公園地を6区画に分けた。
 一区が浅草寺本堂、二区が仲見世、三区が伝法院、四区が園内林泉地、五区が奥山花屋敷、そして六区が興行街となる。
 東京府は、奥山の賑わいを支えていた出店・小屋掛けをこの六区に移転させた。
 五区の花屋敷は植物園のようなもので、鳥獣もいくらかいたという。女性や子供に人気の場所となった。ここで営業を許可されたのは、料理店、写真店、菓子屋、果物屋などである。現在の遊園地「浅草花やしき」になるのは戦後のことだ。
 六区は観音堂周辺からは離れた付属地で、ここへ興行物を移すことで、「一方では浅草公園から江戸以来の見世物性をなるべく除去して「公園」としての体裁を保ち、他方では六区の区画地からの地代収入を期待するという、一石二鳥を狙っていた」(吉見俊哉著『都市のドラマトゥルギー』河出文庫、2008年)ようだ。
 明治19年から20年代にかけて、六区には見世物小屋が次々に現れる。玉乗り、都踊り、子供芝居、電気仕掛けの見世物や写真館なども軒を連ねるようになる。
 実際に繁盛するようになるのは、明治20年代末から30年代にかけてで、東京の見世物場数36のうち六区には22あって、年中興行を休むことがなかったという。

 仲見世の土地は浅草寺から東京府へ移管され、1885(明治18)年には煉瓦造りの洋風店舗に生まれ変わるが、関東大震災で倒壊する。震災復興により鉄筋コンクリート造で再建され、15棟148戸が入る商店街となり、現在に至っている。
 また、上野公園の整備に伴い、山下の見世物小屋が浅草寺境内へ流れ込み、奥山をはじめ浅草寺界隈は出店、小屋掛けが一時250を超える賑わいをみせたという。

 
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