うぁん、うぁん、ぶはぁ、ぶはぁ

文字数 1,998文字

 夏が来る度に、あの頃に聞いた子供のせせら笑うような声を思い出す。

 うぁん、うぁん、ぶはぁ、ぶはぁ

 その声が聞こえたのは三十年ほど前。私が小学六年生の頃だった。
 冷夏の真っただ中で、エアコンを使わずに窓を開けて過ごすのが当たり前だった年のことである。

 その声は、私が住むマンションの隣にある神社から聞こえてきた。
 午後五時とはいえまだ日は高く、涼しさも相まって外で遊ぶ子供がたくさんいたからだ。インドアな私は涼しいリビングでぼうっとテレビを眺める毎日だったが。

 うぁん、うぁん、ぶはぁ、ぶはぁ

 その声が再び聞こえたのは最初の数分後だったと思う。
 同級生のいたずらだと思ってベランダに出て下を眺めたが、誰もいなかった。

 うぁん、うぁん、ぶはぁ、ぶはぁ

 しかし、声は聞こえる。先ほどとは違って、少し小馬鹿にするような響きに変わっていた。

「誰?」

 私は声をかけたが、それへの返事の代わりに別の言葉が聞こえた。

 いーれーれー

「入れて」と私は理解した。
 姿は見えないが、きっと同級生がお菓子をせびりに来たのだろう。お中元やお歳暮の時期になると、我が家は菓子折りであふれていることを同級生達は知っている。
 当時は携帯など普及していなかったので突然友達が遊びにくるのは普通のことだった。

「いーよ! 鳴らして!」

 鳴らしてとは、マンションのオートロックを開くために、ロビーからインターホンを鳴らしてくれという意味だ。
 しかし、同級生がインターホンを鳴らすことはなかった。
 理由は覚えていないが、一人で留守番をしていた私は声の主に少し怒りを覚えていた。
 夏休みに友達と遊べると期待していたのだ。一人でも会うことができれば、それからしばらくは次の約束をして遊べるからだ。

「来るなら来いよ!」

 ベランダに出て叫んでから、私はマンションを出て神社へと走った。
 しかし、そこには小さな子供とその親が何組か遊んでいるだけで、同級生の姿は見当たらなかった。
 悪態を吐きつつ部屋へと戻り、私はソファに横になって寝てしまった。

 うぁん、うぁん、ぶはぁ、ぶはぁ

 その声に飛び起きたのは夜中だった。家中真っ暗で、テレビも消えていた。

 悪い奴らだ。
 私の中で悪人と認定をしている同級生の顔がいくつか浮かんだ。
 明かりを点けようとスイッチに手を伸ばそうとした時、私の手は止まった。
 今リビングの明かりを点けたら、自分が起きていることを知らせてしまう。
 そう判断した私は静かにリビングのすべての窓を閉じ、自室へと行こうとした。

「うぁん、うぁん」

 かなり近くで聞こえたその声が、私の体を硬直させた。
 暗いリビングか隣のダイニングに、誰かがいる。

「ぶはぁ、ぶはぁ」

 慌てて四つんばいになり、ソファの影に隠れた。

「うぁん、うぁん」

 声の後に、べちんという音が聞こえた。ダイニングテーブルをたたいたかのような音だった。

「ぶはぁ、ぶはぁ」

 べちん。

 テーブルを叩く音がまた聞こえた。
 少しだけ顔を上げると、電話機がダイニングの横で充電完了ランプを光らせていた。
 110番に電話しないと。必死に隙をうかがっていた瞬間、そのランプの光を何かが一瞬さえぎった。

 確実に、何かがいる。

「うぁん、うぁん」

 急にその声の主は怒りに変化した。姿を見せない私に怒っているかのようだった。

「ぶはぁ、ぶはぁ」

 その何かはぱたぱたとリビングの中を歩き回っていた。

 やがて、カラカラと窓が開く音がした。何かがベランダに出たと思った。
 私の体は驚くほど速く動き、窓を閉じてロックもかけていた。

 バン!

 外の街灯の明かりが当たっているのに、黒いままの何かは窓を叩いた。

 いーれーれー

「嫌だ!」

 子供くらいの黒い影だったが、窓を叩く黒い手は恐ろしく大きかった。

 いーれーれー

 バン!

 大きな手がガラスを叩き続けていたが、突然ベランダの壁を乗り越えて消えた。
 私の住む部屋は三階だったので、窓を開けて下を確認しようと思ったが、ロックに手をかけた瞬間、大きな手がバンとガラスを叩いた。

 いーれーれー

「嫌だ!」

 再び叫ぶと、黒い何かは消えていた。


 それから、私は自らリビングの窓を開けることはなかった。
 窓を開けていると、あの声が聞こえたからだ。

 あの夜、私は大切なことを学んだ。
 正体が分からない誰かを受け入れてはならない。
 私は一度受け入れ、自分の中に隙を作ってしまった。油断すれば彼らはきっと、その隙を突いて私を仕留めに現われるだろう。
 あの小さな影の持つ大きな手に掴まれてはならない。
 三十年も経過した今でも、私はそれを恐れながら生きている。
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