第1話
文字数 7,240文字
ここはオーヴィル公国の北の辺境のブラックタートル地区。
広漠たる土地に岩石が無数に散らばり、蕭殺たる土塊だらけのカンヴァスに無数にアクセントをつけている。
殺伐とした雰囲気の大地に流刑地の史跡に町が出来、一応、殷賑している。
その名も無き町の目貫き通りの片隅に人力車を引いている男がいる。いや、男と呼ぶには若すぎるかも知れない。
少年の廉潔さと、青年の諦念さを兼ね備えた色の瞳をし、キャップを真後ろに被り、フォックス型のサングラスをカチューシャ代わりに額に掛けている。上背は5フィート4インチ位であり、この国の平均値よりやや小柄といった所か。この若者の職業は運送関係なのだろう。
単純な力仕事であるから、まだ春先だが、こめかみから顎にかけて幾筋の汗が滴り落ちている。
その若者が懐からメモを取り出し乍ら、路地裏に、右折した瞬間に事件は起こった。
ドッターーーン!!!
曲がり角に丁度、通行人が居たのだ。若者も、通行人の方の男も同時に尻餅をついた。
「いてて・・・この野郎!!どこ見て歩いてやがるんだ!!!」通行人の男が猛る。見る」と、両腕にタトゥーが入った、見るからにガラの悪そう感じの長身の男だった。しかし、軽装といえ公国の正式の鎖の着込みを着ている。
この男はオーヴィル公国軍人のようだ。若者は「いや、仕事中なので、届け先の住所が書いてあるメモを見てました。」と坦々と、答えた。
一瞬、軍人の男は、呆気にとられた顔をしたが、すぐに真顔に戻り、こう言い放った。
「ふざけやがって!!!おい、お前らこっちに来い!!」
そう男が叫ぶと群衆の中から5人ほどの男達が踊り出てきた。皆、一様に色をなしている。
呼び出された男達は皆、屈強な公国軍人であった。
周囲の人々は騒然としてきて、その場の空気が凍りついてきた。
しかし、若者は全く動揺の色を浮かべない。・・・いや、と言うよりもまるで現在の状況が理解出来て居ないようだ・・・。
長身の軍人が言った。「おい、貴様!!我々を誰だと思っているのだ!!我々は先の大陸大戦で常に前鋒で戦い続けた、あの千軍万馬の勇将、グレコ将軍率いる斬り込み部隊だぞ!!」
この一言で民衆は完全に沈黙してしまった。この若者と事を構えてしまった者の素姓がよりにもよってこの国で最も荒っぽい人種で有ることが判然としてしまったからだ。
数分前から若者を中心に人屏風が幾重にも出来ていたが、それも分解しはじめ、方々に散りはじめたころ、長身のタトゥー軍人が嗜虐的に破顔し、こう続けた。
「フェーデだ!!フェーデで決着をつけるぞ!!お前も男ならば、異存はないな!!」
と言った。
フェーデとはもともとは、自力で救済する決闘を意味していたのだが、このタトゥーの軍人の様に金品を巻き上げるだけの暴挙を正当化させる手合いもいる。
若者は、また何の反応も無い。半眼でタトゥーを入れた軍人の眼を見ているだけだ。
次の瞬間、予想だにしない事が起こった。突如どこからともなく小石が飛んできてタトゥーの軍人の額に炸裂したのだ。
「うぐっ!!!一体誰だ!!??」とタトゥーの軍人が叫ぶ。衆目が一致した所には、一人の少年が居た。
「このろくでなしが!!そのお兄ちゃんは真面目に仕事をしていただけだろ!!それに比べあんたらはなんだ!!いつもそんなくだらねえ事で、一般庶民から金を巻き上げやがって!!軍人なら軍人らしく真面目に調練でもしろよ!!!調練するのが軍人の仕事だろうが!!!」
その少年は間違いなく少年だった。年は10歳くらいであろう。愚直なほどの剛直さを中核とする精神は周囲の大人達がいつしか、忘れてしまったものだった。いや、換言するならば、その剛直さ、木強さを忘却出来たから大人になれたとも言えるのかも知れない。
ともかくタトゥーの軍人は激昂した。額から血を滴らせ乍ら、「このクソガキ、生意気な事を言いやがって!!公国軍人の恐ろしさを思い知らせてやる!!」
と言う科白を吐き終えると懐から、短剣を取り出した。諸刃のダガーである。刃渡りは10インチ程であろうか。漆黒の刀身から禍々しい殺気が迸っている。
さっきから、人力車の若者は何の反応も無く、俯いたままだ。
流石に少年は血の気が引き、この一角を囲繞していた人々は悲鳴を上げ始めた。
この国を代表するような、命知らずの荒くれ者を完全に怒らせてしまったのだ。
酸鼻をきわめる地獄が現出するかとその場の誰もが思ったのだが、またここで意外な事が起こった。
「おい!!貴様!!いい加減にしろ!!!いくら頭に血が上ったとはいえ、年端もいかぬ、少年に刃物を向けるなど、言語道断の愚行だぞ!」
暗く澱みきった空気の中に、清冽な声が響いた。その残響音の中に、確かに凛とした正義感が漲っている。
「頭に血が上ったと言うよりは、飛礫で頭から流血して血が下ったんだから、俺は冷静な筈なんだがな。」流石に最前線にいた軍人である。余裕の反応だ。「下らぬ諧謔はよせ!!」
今度は周囲の視聴がその声の主に集約された。そこには全身を白金の鎧兜で纏った、騎士がいた。その騎士は長い青地に金色の槍を携え、タトゥーの軍人に歩を進めた。
周匝している国民は皆、沈黙を守り、その騎士の一挙手一投足に注視している。
タトゥーの軍人に2メートルほどまで近づいたとき、白金の騎士がまた、口を開いた。
「貴様、グレコ・ローマン将軍の隷下のブライアン軍曹だな・・・!悪名はかねてから聞き及んでいる。しかし、聞きしに勝る悪態振りだな。」と落ち着いた声で話し始めた。
それに対し、勿論、ブライアンの方も黙っては居ない。
「そういう、あんたは最近この辺で勇名を馳せている白金の騎士様か、何でも草賊を狩って過激な生計を立てているらしいな・・・。」
「ああ。そうだ。私はその白金の騎士だ。草賊を狩る事を主な生業としているが、時には悪辣な軍人を狩ることもあるかもな・・・。」
2人の間に異常な緊迫感が走る・・・。周囲も事の流れを見守るしかない。
「チッ!!余計な邪魔が入ってしらけちまっぜ!!おい、おまえら!いくぞ!!」大柄な躰をくねらせ、ダガーナイフを懐にしまいながらブライアン軍曹はこの場を去った。その後ろ姿を追いかける様に5人の部下達が付いていく。
ようやく、この街区に平穏な空気が蘇ったようだ。
人力車の若者はまだ地面を見つめ、俯いている。呆然としているのか?魯鈍のようである。
一人の中年男性がブライアン軍曹に小石を投げつけた少年に駆け寄っていく。
「おい、エピ!大丈夫か!?」エピと呼ばれた少年もあまりの恐怖感の為、腰が抜け、その場から、立てなくなってしまったのだ。」
人力車の若者の方には老年の女性が近寄り、安危を確かめているようだが、こちらもぶつかって倒れただけであるから、怪我をしていたとしても、擦過傷程度であろう。
しかし、この若者の異様な挙措、動作はまだ続く。
自分の危地を救ってくれたエピと呼ばれた少年にも、白金の騎士と呼ばれた者にも、一瞥もくれず、仕事に戻ろうとしたのだ。これだけの騒動が有りながら、周囲の人々は呆気に取られていたが、エピの方に近寄っていった中年男性が、その答えを話し始めた。
「ああ、あいつはリッケン爺さんの所の奴だな。何でも5年前の大陸大戦の時に記憶喪失になっちまったらしいぞ・・・。」
一同はそれでようやく納得した。
人々はこの国における戦争の後遺症に対し 、慄然せざるを得なかった。
夕陽に向かって人力車を黙々と若者は引いていく。その背中をエピ少年も
白金の騎士もいつまでも見続けていた。
2
リッケンと云う老爺はこの町の外れに小さな運送業を営んでいる。70歳を過ぎて数年たつ。
だが、矍鑠としている。3か月程前のある日、いつもの時間に起床し、いつものように倉庫を開けて仕事を始めようとしたら、あの若者が泥のように眠っていたのだ。
一瞬、不審者かと思い、怒りがこみ上げてきたが、この前の騒動のような反応しか、しないので、要領を得ない。すぐに、怒り等の悪感情は消え失せて、意思の疎通を図ろうと思った。この若者は若者らしい実直さと謙虚さを兼ね備えていたから、話しても気分が悪くならないし、もう先に妻を亡くし、子供も独立してかなりたつので、寂しさを紛らわすには丁度良い話し相手になった。
聞けば完全な記憶喪失で自分の名前すら思い出せない。しかし、その事以外、機能は正常らしく、与えた仕事は極めて正確にこなせる。そこでリッケン爺さんはこの若者を従業員として雇う事に決めた。
仕事は愚直なくらいに実直にこなす。この小さな町の住所が有る程度、覚えた頃にこの前のブライアン軍曹との事件に巻き込まれたのだ。
それから数日後・・・。
若者は午前中の仕事を終えて、いつものレストランに昼食を取りに出かけた。どこにでもあるようなレストランで取り立てて自慢のメニューなども無く、基本的な物ばかりなのだが、この若者にはそんな事はどうでも良かった。
なぜなら、この若者は毎回、野菜ジュースとハンバーガーとフライドポテトしか頼まないからだ。他にどんな美味しそうなものが眼に入っても、この若者の興味は無く、食事自体も仕事と同じ作業をするかのごとく、カロリーや栄養素以外の機械的な処理しか、しない思考回路の持ち主の様であった。
いつもの様に食事を済ませ、席を立とうとすると意外な人物に声を掛けられた。
やや大柄な若い女性・・いやまだ少女と言った方が正しいかもしれない。
「こんにちは。・・・はあ、やっと見つけた・・・。」少女は言った。若者は困惑した。はて、この娘は誰だっただろうか・・・?
若者は言った。「人違いじゃないですかね?僕は貴方が誰なのか分からない。・・・いや、もしかすると昔は知っていたのかもしれないのですが・・ある時から僕は・・・」そこで彼女が割って入ってきた。
「いや、知ってるわ。大丈夫よ。そんな昔からの知り合いじゃないから・・・って言うかまだ、貴方は私の事を知らないのよ。」と言うと彼女は、いきなり笑い出した。
「いや、ごめんなさい。おかしいわよね。知らない女が出てきて、貴方が私の事を知らない・・・って言ったら、そうよ。貴方は私の事を知らないって、鸚鵡返しになったものだから・・・あははは・・・。」娘はまだ、笑っている。
流石に若者もうんざりしてきた。いきなり出て来てなんなんだ、この女は。
「あのどういう事ですかね?さっきから、訳が分からないのですけど・・・。」
「わかったわ。今から説明するわね。2,3日前、貴方、ブライアン軍曹っていう男と揉め事を起こしたでしょ。街角で。」その時の野次馬の中に、この女は居たと云うのか?
「揉め事を起こしたっていうか、路地裏に入る所で、接触して危うい目に遭いそうだったことは有りましたが・・・。」
「その窮地に白金の騎士って奴が出て来たでしょ?」
「はい。何処の誰だか知らないですけど・・・お陰様で・・・。」
「その白金の騎士って奴が私よ。」
「えええ!!!!???本当に!!!!???」
「へえー・・・意外と、感情表現豊かなんだぁ・・・君・・・。」
流石に若者は瞠目している。あまりに驚嘆してしまったために、接ぎ穂が出ない。
しかし、少女は若者の丸くなった、目の奥にある何かを、この時感じた。その直後若者はその少女に丁重な礼をしたが、何か心に引っかかる物を感じた。いつもは弱者が強者に見せる畏敬の念がこの若者には全く無いように思われた。
やや、不可解だったものの、少女はその事には触れず、そっとしておいた。この若者の真率さが気に入ったからである。
少女はアイバァと名乗った。
3
栗色のショートカットに、エメラルドグリーンの瞳。深紅の鉢巻きをして、若い娘らしく活発で明朗な性格。諸刃の二本の短剣を腰の裏側で交差させ、差料としてる様だ。あの白金の騎士の威風堂々とした重厚さは全く無い。軽装備の時と白金の鎧甲を纏った時は性格まで180度変わるらしい。
若者は午前の職務中であった。人力車に配送先の積み荷を積んでいる所だ。そこにアイバァが訪れてきたのだ。
「こんにちはーフェーデ君!」
「俺の名前はいつからフェーデになったんだ。」
「でも、名無しの権平とかジョン・スミスとかじゃあね・・・。」
「・・・って言うか仕事中に尋ねてくるな。非常識だろうが。せいぜいこの前みたに昼休みにすべきだろう。こっちは忙しいんだよ。」
「あー・・・もーう、命の恩人になんて口の利き方するんだろねえーこの男はまったく・・・」
流石に若者は二の句が継げず、押し黙ってしまった。
「それに今日はお目出度い事も有るんだよ!。」
「なんだよ・・・。お目出度い事って・・・。」
「なーんと!!今日は君のお給料日なのです!!」
「なんだそんなことか・・・。」
「ちょっと!!なによ!!その言い方!!」
「違うよ。俺、日雇いだから、毎日給料日なんだよ。」
「あ、いや、ごめん、そう言う事じゃあなくてね・・・。運送屋さんからではなくてね、私から君にあげる給料なのよ。」
「いきなり何言いやがんだ。俺はいつあんたの部下になって仕事をした?気味が悪いことを言うなよ。」
「本当にあんたって冗談通じないわよね・・・。まあ、いいわ。今から説明して上げるから。」
っと言うとアイバァは説明を始めた。まず、この公国内には、秘密警察的な組織がある事。そして、その広汎な情報網にあのブライアン軍曹との奇禍が露見していた事。それを関知され、庶民の助勢に入ったアイバァが報奨金を貰ったという事。そもそも白金の騎士は群盗や土冠を狩る事を職能とした賞金稼ぎなので、命懸けの稼業ゆえに報酬は良いこと。
「まあ、秘密警察の存在の是非はともかく、失礼かもしれないけど、あんたお世辞にも裕福な生活してないでしょ。これでたまには美味しいものでも食べたら良いんじゃない?」
アイバァが差し出した金額はこの国の貨幣価値で10万テスコ。若者の十日分の給与に当たる。
「・・・。悪いけどこれは受け取れない。俺はもう誰にも迷惑を掛けたくないんだ・・・。、じゃあ、これから配達しなきゃならないから、今日はもうこれで。」
「うん・・・。分かったわ・・・。でも最後に命の恩人として我が儘を聞いて。」
「なんだい。お手柔らかに・・・あと、手短かに頼むよ。」若者は半ば面倒になっていた。
「君の名前・・・、いや、ニックネームでも良いからフェーデ君って呼んじゃ駄目?」
「ああ、良いよ。好きにしてくれ。」若者は不承不承、肯った。
4
鶏鳴が聞こえる。
曙光が闇を凄まじい勢いで放逐していく。近所の陋屋の煙突も、雲煙遙かな重畳とした山脈の山巓も差別は無い様であった。
少年は起床した。良い夢を見た。
ただ、どういう内容かは思い出せなかった。
この近所の陋屋の住人の少年は、あのエピである。まず顔を洗い、気合いを入れる。目脂を綺麗に拭い取り、木綿のタオルで水気を良く拭き取った。そうしてすぐに外に出て、お湯を沸かす為の薪を割るために斧を手に取った。季節はもう春であるが、まだ早朝はかなり冷え込む。
そこで暫くエピはいつもと違う思念が脳内をよぎった。
そこには、雄偉な白金の騎士が四方八方に槍を振り回し、流賊を掃滅していく。小少らしい想念であった。
極めて純呼たる強さへの憧憬であり、その想いは渇望といえる。
自分なりに斧を槍にみたてて、振り回してみる。冷静になって考えてみれば、白金の騎士が、眼前で勇壮に悪徒をなぎ倒していく場面を目にしては居ないのだが、なんとなく想像していく事、自体が楽しいのである。
勿論、白金の騎士はこの子にとって命の恩人であり、英雄である。自然、無我夢中になっている。
すると、次の瞬間、急にドアが開いた。
危うく、ドアを開いた人物と斧がコンタクトしそうになった、刹那、少年は慌てて斧を引いた。
「うわっ!!!危ねえっ!!!」
ドアを挟んで少年と壮年が同じ言葉を発した。斧の刃はギリギリの所で、当たらなかった。
「あー・・・、良かった・・・。」
また、2人の人間が異口同音に嘆じた。
「・・・って、良かったじゃねえよ!!危ねえじゃねえか!!!」
壮丁が赫怒する。当然である。すんでのところで、大怪我をする所だったのだから・・・。しかも、この子供は家事を途中で、投げ出していたのである。
少年は身を強ばらせたが、意馬心猿にはなっていない。そこには頑健な意志力を感じさせる。ようするに、瞬息に動揺はせず、殴られても仕方が無いと腹を括った精神状態を構築出来たのである。
それを見たこの四阿の主人の頭の中は、激怒と感心が角逐しあっている。無論、その後で二言三言、痛罵されたが・・・。
しかしエピは有り難い部分も感じている。この40過ぎの男の悪罵にはちゃんと愛情が裏地として縫いつけられていたからだ。
エピの母親は彼が3歳の時に鬼籍に入った。病没であった。この40過ぎの男は実は彼の実の父親では無く、実の父親の方は野鍛冶であった。しかし、腕の方は相当だったらしく、数多の顧客が居た。白金の騎士の正体のアイバァ・ニーズの門地のニーズ家も顧客の一つだったが、勿論この時点では、彼は知る由もない。
実父は職業柄、この大陸を彷徨っていたが、大陸大戦の端緒のころに、応召され、戦場に駆り出され、左腕を下膊から先の全部と右手の親指、人差し指、中指の3本を喪失してしまった。職人としては致死的であった。
それ故に実父はエピの記憶には極めて悪い印象としてでしか登録されてはいない。いつも二本しか指が無い右手で博打をやり、人生そのものを射倖的、投機的にしか考えない人間の醜さはいつ思い出しても反吐が出そうになるだけだ。
いつしかエピも世間に対し斜に構えるようになり、経済的な理由からも悪事を働くようになっていった。
全てが破滅していくかのようだった。
広漠たる土地に岩石が無数に散らばり、蕭殺たる土塊だらけのカンヴァスに無数にアクセントをつけている。
殺伐とした雰囲気の大地に流刑地の史跡に町が出来、一応、殷賑している。
その名も無き町の目貫き通りの片隅に人力車を引いている男がいる。いや、男と呼ぶには若すぎるかも知れない。
少年の廉潔さと、青年の諦念さを兼ね備えた色の瞳をし、キャップを真後ろに被り、フォックス型のサングラスをカチューシャ代わりに額に掛けている。上背は5フィート4インチ位であり、この国の平均値よりやや小柄といった所か。この若者の職業は運送関係なのだろう。
単純な力仕事であるから、まだ春先だが、こめかみから顎にかけて幾筋の汗が滴り落ちている。
その若者が懐からメモを取り出し乍ら、路地裏に、右折した瞬間に事件は起こった。
ドッターーーン!!!
曲がり角に丁度、通行人が居たのだ。若者も、通行人の方の男も同時に尻餅をついた。
「いてて・・・この野郎!!どこ見て歩いてやがるんだ!!!」通行人の男が猛る。見る」と、両腕にタトゥーが入った、見るからにガラの悪そう感じの長身の男だった。しかし、軽装といえ公国の正式の鎖の着込みを着ている。
この男はオーヴィル公国軍人のようだ。若者は「いや、仕事中なので、届け先の住所が書いてあるメモを見てました。」と坦々と、答えた。
一瞬、軍人の男は、呆気にとられた顔をしたが、すぐに真顔に戻り、こう言い放った。
「ふざけやがって!!!おい、お前らこっちに来い!!」
そう男が叫ぶと群衆の中から5人ほどの男達が踊り出てきた。皆、一様に色をなしている。
呼び出された男達は皆、屈強な公国軍人であった。
周囲の人々は騒然としてきて、その場の空気が凍りついてきた。
しかし、若者は全く動揺の色を浮かべない。・・・いや、と言うよりもまるで現在の状況が理解出来て居ないようだ・・・。
長身の軍人が言った。「おい、貴様!!我々を誰だと思っているのだ!!我々は先の大陸大戦で常に前鋒で戦い続けた、あの千軍万馬の勇将、グレコ将軍率いる斬り込み部隊だぞ!!」
この一言で民衆は完全に沈黙してしまった。この若者と事を構えてしまった者の素姓がよりにもよってこの国で最も荒っぽい人種で有ることが判然としてしまったからだ。
数分前から若者を中心に人屏風が幾重にも出来ていたが、それも分解しはじめ、方々に散りはじめたころ、長身のタトゥー軍人が嗜虐的に破顔し、こう続けた。
「フェーデだ!!フェーデで決着をつけるぞ!!お前も男ならば、異存はないな!!」
と言った。
フェーデとはもともとは、自力で救済する決闘を意味していたのだが、このタトゥーの軍人の様に金品を巻き上げるだけの暴挙を正当化させる手合いもいる。
若者は、また何の反応も無い。半眼でタトゥーを入れた軍人の眼を見ているだけだ。
次の瞬間、予想だにしない事が起こった。突如どこからともなく小石が飛んできてタトゥーの軍人の額に炸裂したのだ。
「うぐっ!!!一体誰だ!!??」とタトゥーの軍人が叫ぶ。衆目が一致した所には、一人の少年が居た。
「このろくでなしが!!そのお兄ちゃんは真面目に仕事をしていただけだろ!!それに比べあんたらはなんだ!!いつもそんなくだらねえ事で、一般庶民から金を巻き上げやがって!!軍人なら軍人らしく真面目に調練でもしろよ!!!調練するのが軍人の仕事だろうが!!!」
その少年は間違いなく少年だった。年は10歳くらいであろう。愚直なほどの剛直さを中核とする精神は周囲の大人達がいつしか、忘れてしまったものだった。いや、換言するならば、その剛直さ、木強さを忘却出来たから大人になれたとも言えるのかも知れない。
ともかくタトゥーの軍人は激昂した。額から血を滴らせ乍ら、「このクソガキ、生意気な事を言いやがって!!公国軍人の恐ろしさを思い知らせてやる!!」
と言う科白を吐き終えると懐から、短剣を取り出した。諸刃のダガーである。刃渡りは10インチ程であろうか。漆黒の刀身から禍々しい殺気が迸っている。
さっきから、人力車の若者は何の反応も無く、俯いたままだ。
流石に少年は血の気が引き、この一角を囲繞していた人々は悲鳴を上げ始めた。
この国を代表するような、命知らずの荒くれ者を完全に怒らせてしまったのだ。
酸鼻をきわめる地獄が現出するかとその場の誰もが思ったのだが、またここで意外な事が起こった。
「おい!!貴様!!いい加減にしろ!!!いくら頭に血が上ったとはいえ、年端もいかぬ、少年に刃物を向けるなど、言語道断の愚行だぞ!」
暗く澱みきった空気の中に、清冽な声が響いた。その残響音の中に、確かに凛とした正義感が漲っている。
「頭に血が上ったと言うよりは、飛礫で頭から流血して血が下ったんだから、俺は冷静な筈なんだがな。」流石に最前線にいた軍人である。余裕の反応だ。「下らぬ諧謔はよせ!!」
今度は周囲の視聴がその声の主に集約された。そこには全身を白金の鎧兜で纏った、騎士がいた。その騎士は長い青地に金色の槍を携え、タトゥーの軍人に歩を進めた。
周匝している国民は皆、沈黙を守り、その騎士の一挙手一投足に注視している。
タトゥーの軍人に2メートルほどまで近づいたとき、白金の騎士がまた、口を開いた。
「貴様、グレコ・ローマン将軍の隷下のブライアン軍曹だな・・・!悪名はかねてから聞き及んでいる。しかし、聞きしに勝る悪態振りだな。」と落ち着いた声で話し始めた。
それに対し、勿論、ブライアンの方も黙っては居ない。
「そういう、あんたは最近この辺で勇名を馳せている白金の騎士様か、何でも草賊を狩って過激な生計を立てているらしいな・・・。」
「ああ。そうだ。私はその白金の騎士だ。草賊を狩る事を主な生業としているが、時には悪辣な軍人を狩ることもあるかもな・・・。」
2人の間に異常な緊迫感が走る・・・。周囲も事の流れを見守るしかない。
「チッ!!余計な邪魔が入ってしらけちまっぜ!!おい、おまえら!いくぞ!!」大柄な躰をくねらせ、ダガーナイフを懐にしまいながらブライアン軍曹はこの場を去った。その後ろ姿を追いかける様に5人の部下達が付いていく。
ようやく、この街区に平穏な空気が蘇ったようだ。
人力車の若者はまだ地面を見つめ、俯いている。呆然としているのか?魯鈍のようである。
一人の中年男性がブライアン軍曹に小石を投げつけた少年に駆け寄っていく。
「おい、エピ!大丈夫か!?」エピと呼ばれた少年もあまりの恐怖感の為、腰が抜け、その場から、立てなくなってしまったのだ。」
人力車の若者の方には老年の女性が近寄り、安危を確かめているようだが、こちらもぶつかって倒れただけであるから、怪我をしていたとしても、擦過傷程度であろう。
しかし、この若者の異様な挙措、動作はまだ続く。
自分の危地を救ってくれたエピと呼ばれた少年にも、白金の騎士と呼ばれた者にも、一瞥もくれず、仕事に戻ろうとしたのだ。これだけの騒動が有りながら、周囲の人々は呆気に取られていたが、エピの方に近寄っていった中年男性が、その答えを話し始めた。
「ああ、あいつはリッケン爺さんの所の奴だな。何でも5年前の大陸大戦の時に記憶喪失になっちまったらしいぞ・・・。」
一同はそれでようやく納得した。
人々はこの国における戦争の後遺症に対し 、慄然せざるを得なかった。
夕陽に向かって人力車を黙々と若者は引いていく。その背中をエピ少年も
白金の騎士もいつまでも見続けていた。
2
リッケンと云う老爺はこの町の外れに小さな運送業を営んでいる。70歳を過ぎて数年たつ。
だが、矍鑠としている。3か月程前のある日、いつもの時間に起床し、いつものように倉庫を開けて仕事を始めようとしたら、あの若者が泥のように眠っていたのだ。
一瞬、不審者かと思い、怒りがこみ上げてきたが、この前の騒動のような反応しか、しないので、要領を得ない。すぐに、怒り等の悪感情は消え失せて、意思の疎通を図ろうと思った。この若者は若者らしい実直さと謙虚さを兼ね備えていたから、話しても気分が悪くならないし、もう先に妻を亡くし、子供も独立してかなりたつので、寂しさを紛らわすには丁度良い話し相手になった。
聞けば完全な記憶喪失で自分の名前すら思い出せない。しかし、その事以外、機能は正常らしく、与えた仕事は極めて正確にこなせる。そこでリッケン爺さんはこの若者を従業員として雇う事に決めた。
仕事は愚直なくらいに実直にこなす。この小さな町の住所が有る程度、覚えた頃にこの前のブライアン軍曹との事件に巻き込まれたのだ。
それから数日後・・・。
若者は午前中の仕事を終えて、いつものレストランに昼食を取りに出かけた。どこにでもあるようなレストランで取り立てて自慢のメニューなども無く、基本的な物ばかりなのだが、この若者にはそんな事はどうでも良かった。
なぜなら、この若者は毎回、野菜ジュースとハンバーガーとフライドポテトしか頼まないからだ。他にどんな美味しそうなものが眼に入っても、この若者の興味は無く、食事自体も仕事と同じ作業をするかのごとく、カロリーや栄養素以外の機械的な処理しか、しない思考回路の持ち主の様であった。
いつもの様に食事を済ませ、席を立とうとすると意外な人物に声を掛けられた。
やや大柄な若い女性・・いやまだ少女と言った方が正しいかもしれない。
「こんにちは。・・・はあ、やっと見つけた・・・。」少女は言った。若者は困惑した。はて、この娘は誰だっただろうか・・・?
若者は言った。「人違いじゃないですかね?僕は貴方が誰なのか分からない。・・・いや、もしかすると昔は知っていたのかもしれないのですが・・ある時から僕は・・・」そこで彼女が割って入ってきた。
「いや、知ってるわ。大丈夫よ。そんな昔からの知り合いじゃないから・・・って言うかまだ、貴方は私の事を知らないのよ。」と言うと彼女は、いきなり笑い出した。
「いや、ごめんなさい。おかしいわよね。知らない女が出てきて、貴方が私の事を知らない・・・って言ったら、そうよ。貴方は私の事を知らないって、鸚鵡返しになったものだから・・・あははは・・・。」娘はまだ、笑っている。
流石に若者もうんざりしてきた。いきなり出て来てなんなんだ、この女は。
「あのどういう事ですかね?さっきから、訳が分からないのですけど・・・。」
「わかったわ。今から説明するわね。2,3日前、貴方、ブライアン軍曹っていう男と揉め事を起こしたでしょ。街角で。」その時の野次馬の中に、この女は居たと云うのか?
「揉め事を起こしたっていうか、路地裏に入る所で、接触して危うい目に遭いそうだったことは有りましたが・・・。」
「その窮地に白金の騎士って奴が出て来たでしょ?」
「はい。何処の誰だか知らないですけど・・・お陰様で・・・。」
「その白金の騎士って奴が私よ。」
「えええ!!!!???本当に!!!!???」
「へえー・・・意外と、感情表現豊かなんだぁ・・・君・・・。」
流石に若者は瞠目している。あまりに驚嘆してしまったために、接ぎ穂が出ない。
しかし、少女は若者の丸くなった、目の奥にある何かを、この時感じた。その直後若者はその少女に丁重な礼をしたが、何か心に引っかかる物を感じた。いつもは弱者が強者に見せる畏敬の念がこの若者には全く無いように思われた。
やや、不可解だったものの、少女はその事には触れず、そっとしておいた。この若者の真率さが気に入ったからである。
少女はアイバァと名乗った。
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栗色のショートカットに、エメラルドグリーンの瞳。深紅の鉢巻きをして、若い娘らしく活発で明朗な性格。諸刃の二本の短剣を腰の裏側で交差させ、差料としてる様だ。あの白金の騎士の威風堂々とした重厚さは全く無い。軽装備の時と白金の鎧甲を纏った時は性格まで180度変わるらしい。
若者は午前の職務中であった。人力車に配送先の積み荷を積んでいる所だ。そこにアイバァが訪れてきたのだ。
「こんにちはーフェーデ君!」
「俺の名前はいつからフェーデになったんだ。」
「でも、名無しの権平とかジョン・スミスとかじゃあね・・・。」
「・・・って言うか仕事中に尋ねてくるな。非常識だろうが。せいぜいこの前みたに昼休みにすべきだろう。こっちは忙しいんだよ。」
「あー・・・もーう、命の恩人になんて口の利き方するんだろねえーこの男はまったく・・・」
流石に若者は二の句が継げず、押し黙ってしまった。
「それに今日はお目出度い事も有るんだよ!。」
「なんだよ・・・。お目出度い事って・・・。」
「なーんと!!今日は君のお給料日なのです!!」
「なんだそんなことか・・・。」
「ちょっと!!なによ!!その言い方!!」
「違うよ。俺、日雇いだから、毎日給料日なんだよ。」
「あ、いや、ごめん、そう言う事じゃあなくてね・・・。運送屋さんからではなくてね、私から君にあげる給料なのよ。」
「いきなり何言いやがんだ。俺はいつあんたの部下になって仕事をした?気味が悪いことを言うなよ。」
「本当にあんたって冗談通じないわよね・・・。まあ、いいわ。今から説明して上げるから。」
っと言うとアイバァは説明を始めた。まず、この公国内には、秘密警察的な組織がある事。そして、その広汎な情報網にあのブライアン軍曹との奇禍が露見していた事。それを関知され、庶民の助勢に入ったアイバァが報奨金を貰ったという事。そもそも白金の騎士は群盗や土冠を狩る事を職能とした賞金稼ぎなので、命懸けの稼業ゆえに報酬は良いこと。
「まあ、秘密警察の存在の是非はともかく、失礼かもしれないけど、あんたお世辞にも裕福な生活してないでしょ。これでたまには美味しいものでも食べたら良いんじゃない?」
アイバァが差し出した金額はこの国の貨幣価値で10万テスコ。若者の十日分の給与に当たる。
「・・・。悪いけどこれは受け取れない。俺はもう誰にも迷惑を掛けたくないんだ・・・。、じゃあ、これから配達しなきゃならないから、今日はもうこれで。」
「うん・・・。分かったわ・・・。でも最後に命の恩人として我が儘を聞いて。」
「なんだい。お手柔らかに・・・あと、手短かに頼むよ。」若者は半ば面倒になっていた。
「君の名前・・・、いや、ニックネームでも良いからフェーデ君って呼んじゃ駄目?」
「ああ、良いよ。好きにしてくれ。」若者は不承不承、肯った。
4
鶏鳴が聞こえる。
曙光が闇を凄まじい勢いで放逐していく。近所の陋屋の煙突も、雲煙遙かな重畳とした山脈の山巓も差別は無い様であった。
少年は起床した。良い夢を見た。
ただ、どういう内容かは思い出せなかった。
この近所の陋屋の住人の少年は、あのエピである。まず顔を洗い、気合いを入れる。目脂を綺麗に拭い取り、木綿のタオルで水気を良く拭き取った。そうしてすぐに外に出て、お湯を沸かす為の薪を割るために斧を手に取った。季節はもう春であるが、まだ早朝はかなり冷え込む。
そこで暫くエピはいつもと違う思念が脳内をよぎった。
そこには、雄偉な白金の騎士が四方八方に槍を振り回し、流賊を掃滅していく。小少らしい想念であった。
極めて純呼たる強さへの憧憬であり、その想いは渇望といえる。
自分なりに斧を槍にみたてて、振り回してみる。冷静になって考えてみれば、白金の騎士が、眼前で勇壮に悪徒をなぎ倒していく場面を目にしては居ないのだが、なんとなく想像していく事、自体が楽しいのである。
勿論、白金の騎士はこの子にとって命の恩人であり、英雄である。自然、無我夢中になっている。
すると、次の瞬間、急にドアが開いた。
危うく、ドアを開いた人物と斧がコンタクトしそうになった、刹那、少年は慌てて斧を引いた。
「うわっ!!!危ねえっ!!!」
ドアを挟んで少年と壮年が同じ言葉を発した。斧の刃はギリギリの所で、当たらなかった。
「あー・・・、良かった・・・。」
また、2人の人間が異口同音に嘆じた。
「・・・って、良かったじゃねえよ!!危ねえじゃねえか!!!」
壮丁が赫怒する。当然である。すんでのところで、大怪我をする所だったのだから・・・。しかも、この子供は家事を途中で、投げ出していたのである。
少年は身を強ばらせたが、意馬心猿にはなっていない。そこには頑健な意志力を感じさせる。ようするに、瞬息に動揺はせず、殴られても仕方が無いと腹を括った精神状態を構築出来たのである。
それを見たこの四阿の主人の頭の中は、激怒と感心が角逐しあっている。無論、その後で二言三言、痛罵されたが・・・。
しかしエピは有り難い部分も感じている。この40過ぎの男の悪罵にはちゃんと愛情が裏地として縫いつけられていたからだ。
エピの母親は彼が3歳の時に鬼籍に入った。病没であった。この40過ぎの男は実は彼の実の父親では無く、実の父親の方は野鍛冶であった。しかし、腕の方は相当だったらしく、数多の顧客が居た。白金の騎士の正体のアイバァ・ニーズの門地のニーズ家も顧客の一つだったが、勿論この時点では、彼は知る由もない。
実父は職業柄、この大陸を彷徨っていたが、大陸大戦の端緒のころに、応召され、戦場に駆り出され、左腕を下膊から先の全部と右手の親指、人差し指、中指の3本を喪失してしまった。職人としては致死的であった。
それ故に実父はエピの記憶には極めて悪い印象としてでしか登録されてはいない。いつも二本しか指が無い右手で博打をやり、人生そのものを射倖的、投機的にしか考えない人間の醜さはいつ思い出しても反吐が出そうになるだけだ。
いつしかエピも世間に対し斜に構えるようになり、経済的な理由からも悪事を働くようになっていった。
全てが破滅していくかのようだった。