第3話 もう一晩寝たら真新しい朝がやってくる?

文字数 2,452文字

「綾香、綾香」
 自分を呼ぶ声が聞こえる。薄く貼られた幕の間から一人の男の顔が浮かんできた。どうやら私は深い眠りの海で漂流していたらしい。
「やっと目が覚めたみたいだね。看護師さんに訊いたら、昨晩寝られないとかで眠剤を飲んだらしいね」
 自分の中でははっきりしないけど…。
「そうかも」
「僕は芽衣と紗英と入れ違いで来たんだけど、ママ爆睡してたって言ってたよ」
「えっ、そう」
 確かに、三日間、いやもっともっと長く寝ていた感覚がする。今回綾香が入院したのは、ずっと体調がすぐれなかったので、何か悪い病気だと怖いと不安になったからだ。確か…。
「あれ、どうしたんだよ。涙の跡があるけれど」
 さっきから綾香の顔を覗き込んでいるのは平凡な顔をした夫の大貫治夫。
「そんなはずないと思うけど…」
 目頭に触れると、夫の言うように涙の跡が…。そこへ一人の女医が入ってきた。
「あっ、院長先生」
 夫が女医を振り返って言った。女医の顔を見ると、中原陽子だった。
「どうも、大貫さん。検査結果ですけど、やっぱりただの疲労です。他にはどこも悪いところはありませんでしたので、ご安心ください。姉には私のほうから伝えておきます」
「お姉さん?」
 綾香の問いかけに陽子は疑念の表情を浮かべながら続けた。
「ええ、今回は姉からの紹介で入院なさったわけですから」
「そうでしたね。失礼いたしました。それで、お姉さんはお元気ですか?」
 自分でも間の抜けた質問をしていると思う。
「あれ、姉と話したのですよね」
「ええ、まあそうなんですけど…」
「今は札幌にいますけど、いたって元気ですよ」
「そうでしたか」
「では、私はこれで」
 そう言って、陽子は部屋を出て行った。陽子の姿が見えなくなるのを確認して、夫は綾香に向き直る。
「先生との会話を聞いていて思ったんだけど、今日の綾香なんかへんじゃない? その涙の跡といい}
「そう?」
「そうだよ。その涙の跡はひょっとして、またあの夢見たんじゃないの。もう勘弁してよ」
「そうなのかな?」
 かなたに押しやっていたぼやけた記憶がどんどん色濃くなっていく。あの時、交差点に入った綾香の乗る自転車に気づいた大貫治夫の運転するトラックは、早めに急ブレーキをかけてくれた。お陰で事故にはなったものの、綾香のけがは比較的軽傷で済んだ。もとはといえば、よく確認せずに交差点に突っ込んだ綾香のほうが悪いのだが、交通ルール上は車の罪のほうが重いらしい。そんなこともあってか、治夫は入院している綾香のもとへ毎日見舞いに訪れた。
 一方、晴久のほうは綾香が軽傷とわかると、たまにしか顔を出さなくなった。そもそも、あの日晴久が電話で綾香に話そうとしていたのは、それまでの恋人関係から友人関係に戻したいというものだったのだから、あの時点で晴久の綾香に対する関心はその程度のものだったのだろう。
「今日はだいぶ顔色がいいですね」
「そんなに変わらないわよ。だいたい毎日見舞いに来てるんだから、変化なんてわからないと思うけどね」
「そんなことないですよ。私は綾香さんのちょっとした変化も見逃しません」
 治夫は一応加害者になるため、もし見舞いに来なかったら憤慨しただろうと思う。しかし、毎日見舞いに来られても、それはそれで鬱陶しい。人間って勝手な生き物だと自分でも思う。でも、いつしか綾香は治夫が見舞いに来るのを楽しみに待つようになっていた。それは、治夫の人柄や優しさに次第に惹かれていたからだった。
 毎日の会話の中で、治夫が脱サラして運送会社を経営しているということや、綾香より5歳年上の独身であること、趣味が綾香と同様に絵を描くことだということを知った。
 退院日が決まった翌日にやってきた治夫は、花束と手紙だけを渡して何も言わずに帰ってしまった。手紙には、結婚を前提に付き合ってほしいと書かれていた。それだけでなく、預金通帳の残高が刻印されたページのコピーと所有資産の評価証明書、人間ドッグの検査結果のコピーまで同封されていた、そして、最後に運送会社を経営していると今回のような事故に会うこともあるので止めて、IT関係の会社を経営すると書かれていた。
 いかにも治夫らしいと思う。真剣さはわかったけれど、ちょっと重いところがあるとも思った。でも、憎めない性格でかわいらしいところのある男の告白を断ることなどできなかった。こうして、綾香は治夫のことを好きになると決めて付き合うことにした。
 実際に付き合ってみると、治夫の魅力は他にもたくさんあった。とにかく楽しい人だった。この人となら一緒にいても疲れない。交際は順調に進み、1年後には結婚式をあげた。
「さあ、そろそろ退院の支度をするよ」
「うん、そうね」
「娘たちは帰っちゃったけど、もうすぐ翔が来るから」
「翔?」
「おいおい、息子の名前を忘れちゃったわけじゃないだろうな。ボケるには早いし」
 そう言えば、自分は紗英が産まれた3年後に男の子を産んでいた。…ようだ。芽衣は夫に似て、紗英は私に似ている。翔はどちらに似ているんだっけ…。
「失礼ね、ボケてなんかいないわよ」
「そう願います。あっ、それからさっき展覧会の打ち合わせがあるからということで、絵画教室の生徒の増渕夫妻が自宅まで来て待ってるよ。とりあえず、紗英が対応しているけど」
「絵画教室? 増渕夫妻?」
 足元が沈み込んでいくような疑問。時間の流れに弄ばれて、現実に近づいているというより、現実から遠のいているような不思議な感覚になる。見えるものや思い出されるものがいっそう不確かになる。
「何、そのとぼけた顔。まさか本当に認知症になっちゃったんじゃないだろうね」
「それはないわ、はっきりわかるもの。今の状態わね。ただ、また一晩寝たら真新しい朝がやってくるような気がして…。それとも、元に戻るのかもね」
「何を言ってるわけ」
 窓の向こうに見える桜の木から花びらが舞い下りている。
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