文字数 1,886文字



 駅に向かう途中のカフェで、契約書を吟味する。
「いやー、すごい口説かれたねー」
 佳奈がカフェラテをすすりながら笑った。
「ちょっと怖かった」
「それだけ仕事熱心なんでしょう」
 契約書には、とくに不審なところもなく契約自体も玲奈にとっては格好の条件だった。
「でもなあ、そんなに年とるまでやるのはなあ。覚悟できないなあ」
「そのときは更新しなければいいだけじゃない」
「そんな簡単でいいのかな」
「そのための一年更新じゃないの」
「そっか」
「このタイミングでこの話が出たのなら、引き受けるべきでしょう。めぐりあわせというやつよ」
「めずらしいね、佳奈がそんなこというの」
 佳奈は現実主義である。
「この話に限ってはね。なにか特別な感じがするのよ。あんたの危機でもあるしね。やってみなさいよ。バリバリのボディでだんな見下してやりなよ」
「うん、わかった。やってみる。悪かったね、休み潰しちゃって」
「だいじょうぶよ。小学校教師は中学高校教師とちがって、部活がないからね。土日はフリーなの。今日は非日常的でワクワクしたわよ」
「ありがとう」
 どこをどう転がるのか想像すらできないが、決断は下した。
 その日のうちに涼太郎に引き受ける旨、電話で伝えた。涼太郎はよかったよかったととても喜んでくれた。背後で悠人の雄たけびのようなものも聞こえた。

 週明けの月曜日、仕事を終えた玲奈は本契約のためふたたび事務所を訪れた。前回同様、涼太郎はドアを開けて待っていた。
「いやー、引き受けてくれてありがとう。一安心だよ」
 そういいながら玲奈を招き入れた。今回は悠人も玄関まで出ていて、顔を見るなり玲奈の手をとるとありがとうありがとうと、はげしくその手を振った。
 この前もだったけれど、この人は感情表現が豊かというか、激しいというか。クリエイターとはこういうものなのだろうか、とやはり玲奈はやや引いている。
 そして今日は、ロングヘアーのきりりとした顔つきの女がいた。背はそれほど高くないけれど、スレンダーである。このまま会議にでてもいいくらいのきちんとしたスーツを着ている。メイクはもちろん、ネイル、アクセサリーまで抜かりがない。こういうおしゃれブランドで働くには見た目にも相当気をつかうんだろう。
「マネージャーの古田摩季(ふるたまき)だよ」
 涼太郎が紹介する。
 いかにも敏腕マネージャーといったいで立ちである。
「藤沢玲奈です。よろしくお願いします」
「古田摩季です。こちらこそおねがいします」
 そういうと軽く握手をした。
 じゃあさっそく、とテーブルに着き契約書に署名捺印をする。とくに保証人も必要ないから契約自体は簡単だ。契約が終わると摩季からタブレットで今後のスケジュールを見せられる。
「このアプリでみんなのスケジュールを共有するから」
 なるほど。そのアプリはインストール済みだ。結婚してはじめの一年は陽介と共有していたが、いまはまったく使っていない。意外なところで役に立つものだと、玲奈はハハっと小さく笑った。
「どうかした?」
 摩季にいわれて、いえと答える。玲奈のいやEVEのスケジュールは先にいわれた通り、三日後からエステや脱毛、審美歯科などでみっちりうまっている。午前十時から十二時までは空白になっているが。
「その時間はジムに行ってね。予約は必要ないから、空き時間があったらいつ行ってもいいわよ。はい、会員証。最初はトレーナーがついて指導してくれるから安心してね」
 そういって会員証や診察券を何枚かわたされた。
「事務所に請求が来ることになってるから、支払いはしなくていいわよ」
 さすが敏腕マネージャー。
 それから週に二、三回事務所となっているのはなんだろう。
「そこは、ここにきてもらって、悠人にポージングを教えてもらってね」
「ポージング?」
「そう、ポージング。撮影のときのポーズの取り方よ」
 そんなのもあるのか。で、悠人に教わるのか。
「安心しろ。俺が手取り足取り教えてやるよ」
「はあ、おねがいします」
 いくばくかの不安を覚えながらも玲奈は返事をした。
「ああ、でも悠人にも涼太郎にも手を出しちゃだめよ」
 いきなり摩季にいわれた。どういうことだ。理解しかねる。顔に出ていたのだろう。もう一度摩季がいった。
「そういう関係になっちゃだめってこと。まあ、あなたはだいじょうぶそうだけどね」
 なるほどと思った。二人ともいいルックスをしているから仕事の上でも、いい寄られることが多いのかもしれない。
「わたしはそういうのないんで、だいじょうぶです。そもそも既婚者ですし」
「あら、結婚しててもほかの誰かを好きになることもあるでしょう」
 瞬間凍結。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み