俺のメイクは。

文字数 3,657文字

「あそこに見えるのが本館。今日は日曜だから、この時間だとあちらにお父様がおられるはずですわ」
「はー……!」

 雅樹が指差した先を見て、俺はただただ感嘆の声を上げた。目の前に広がっているのは、およそ日本とは思えないほどの巨大な屋敷だった。巨大で重厚な門の先には、公園の一つや二つはすっぽりと収まってしまいそうなほど、広い森が広がっている。その森の先にそびえ立つ、大小様々な建築物が、ここから見えるだけでも四つか五つ……。

 個人の家というよりも、大学かテーマパークのような広さだった。
その中でも一際大きな、真ん中に鎮座する御殿に白咲の父親がいるらしい。雅樹が門に近づきカードキーを取り出しながら、小さくため息をついた。

「お姉様は今、婚約者と一緒に会食に出かけてますわ」
「はー……」
「悪いけれど、私はここまで……」

 雅樹がカードキーをかざすと、ゆっくりと門が奥に開いていった。俺は渋りながらもここまで案内してくれた雅樹にお礼を言った。

「ありがとう。あとは任せろ」
「もしこれでお姉様の身に何かあったら……一生、許さないから」
「……ああ」

 時折吹く風に揺らされて、目の前の森がざわめいた。静かに、だが感情のこもった姉の忠告に、俺はもう一度気を引き締め直した。俺には想像も及ばないしがらみに縛られつつ、それでも俺をここまで案内してくれたのは、きっと雅樹も今の白咲に思うところがあるのだろう。
 雅樹に別れを告げ、しばらく道なりに森を進んでいく。正直言って、勝算も計画もあったもんじゃない。だけど俺はどうしても、白咲の親に言っておきたかった。目指す建物をまっすぐ見据えたまま、俺はわき目もふらず他所様の家の中を突き進んで行った。







「……遠ぃい!」

 だがそれもつかの間、気がつくと俺は道の脇にへたり込み、滝のように滴る汗と弱音を吐き出していた。おかしい。目の前に建物が見えているのに、一向に着く気配がない。もうすでに三〇分くらい歩いている気がする。折角のメイクがドロドロだった。こんな事なら、タオルと水筒は持ってくるべきだった。

「はぁ……はぁ……っ! どんだけ広いんだよ!」
「何かお困りですかな? お嬢様」
「あ……!」

 振り返ると、真っ黒に日焼けした庭師が、俺に向かって丁重にお辞儀をしていた。近づいてくる恰幅のいい麦わら帽子のおっさんに、俺は慌てて笑顔を取り繕った。できれば誰にも見つからず直で白咲の親父の下へ行きたかったところだが、こうなってしまっては仕方がない。

「ご……ご機嫌麗しゅう、おっ……おじ様。今日は予定が早く終わったので、一足先に帰らせてもらったところです」
「お一人で? それはそれは……」

 おっさんは蓄えたあごひげを撫でながら、感心したように目を細めた。もしかして、白咲は一人で家に帰ることさえできないと思われているのだろうか? 一体どれほどの箱入り娘だったのだろう。

「そんなに汗をお掻きになって、一体どちらまで?」
「ええ。ちょっとあちらの建物まで」
 俺は目の前にそびえる御殿を指差しながら言った。おっさんは少し怪訝な顔をした。

「本館ですか? お嬢様が本館に出向かれるなんて、なんとまあ珍しや……」
「ちょっとお父様にお話があって……」
「お話?」
「ええ。どうしても、言っておきたいことがありますの」
「言っておきたいこと?」
「……私、婚約を破棄しようかと」
「え?」

 俺の言葉に、庭師は口をポカンと開けた。予想だにしなかった言葉なのだろう。未だ理解が追いついていないおっさんに、俺はふつふつと湧き上がっていた感情をぶち撒けるように捲し立てた。
「だって、ひどいと思いません? 私の気持ちも無視して、勝手に進路や婚約者を決めて。財閥だか本家だか知りませんけど、あまりに一方的過ぎやしませんか?」
「んな……!?」
 ようやく俺の言葉の意味を理解したのか、おっさんはもう一段階大きく、あんぐりと口を開けて俺を見下ろした。

「これじゃあんまりです。何で白……私が家を出たか分かりますか? 俺はきっと、そうやって決めつけられて押さえ込まれるのが、嫌だったからだと思いますよ!」
「お、俺?」
「お……お礼をしたくて!」
「はあ」
「とにかく、一回はっきりとNOと言ってやりゃいいんですよ! 何だよ、悟って諦めたフリして……だったらあんな顔するなっての、白……私の奴!」
「……今日は何だか荒ぶっておられますな、お嬢様」
「……!」

 怒りに肩を震わせ、ドロドロになったメイクで俺に睨まれたおっさんは、少し後ずさりしながら汗を拭った。俺は顔を伏せ、拳を握りしめた。いけない。俺自身も、押さえつけていた感情が溢れ出してしまったようだ。こんなところでもし正体がバレてしまったら、元も子もない。

「失礼……しました。少し取り乱してしまって。お仕事中申し訳ないけれど、あそこまで案内してくれるかしら?」
「畏まりました。いやはや今日のお嬢様は、何かが違うというか、内に秘めたる決意のようなものを感じられますな。あちらに車が用意してあります。僭越ながら私めが、本館までお送り致しましょう」

 そういうと、庭師は足早に何処かへ行ってしまった。




 それから俺は庭師のおっさんに連れられて、何とも荘厳な……何とか調とか、何とか造りとかいう、美術の資料集に載ってそうな……巨大な建物の前にやってきた。俺にはさっぱりその価値がわからないが、きっと壊したら何百万もの金が吹っ飛ぶであろう扉をくぐり抜けると、眩しすぎるほど輝くシャンデリアと赤い絨毯が俺を待っていた。

「体育館ホール……?」

 その広さに、俺は思わず目を奪われた。左右の壁に飾られた鹿やライオンの首の剥製に、黒板よりも巨大な風景画の数々。あまりに遠くすぎて米粒みたいに見えるメイド服姿の女性達が、俺に気づいて深々とお辞儀をしている。真正面に構えるステンドグラスの下で、聖マリア像がこちらに向かって優しげな笑みを浮かべている……。俗世とは切り離された、あまりに場違いな空間に俺は開いた口が塞がらなかった。

「こちらでございますお嬢様。部屋の前までご案内致しましょう」

 麦わら帽子のおっさんが、ぼんやりと立ち尽くしていた俺に声をかけた。マーライオンから流れる人口の滝に見とれていた俺は、慌てて我に返った。

 それから俺は、何故か家の中にあるエスカレーターを昇って、おっさんと二人で最上階の一番奥の扉の前までやってきた。廊下の窓から、さっきくぐってきた巨大な門が遠くに見える。……まだ雅樹は門の前で待っていてくれているだろうか? たかだか家の中に入っただけのはずなのに、何だか小旅行にでも来たようなような気分になって、俺は急に心細くなって来た。

「失礼致します。お嬢様をお連れ致しました」

 一度小さく咳払いをして、おっさんがゆっくりと木の扉を開いた。

「!」

 扉の向こうは書斎になっていた。両脇にずらりと並べられた本棚の前で、背広姿の背の高い男が、こちらを振り向いた。鋭い眼光、漫画に出てくる怪盗みたいな立派にカールした黒ひげ、矍鑠としたその立ち振る舞い……この男が白咲の親父で、財閥のトップに違いない。
 俺は思わず自分の父親に頭を下げようとするのを思いとどまって……いや、ここでは頭を下げた方がいいのだろうか。白咲がここで一体どんな振る舞いをしているのか、雅樹に詳しく聞いておけばよかった。普段の白咲なら、頭をボリボリ掻きながら「ただいまァ、お母さん、ご飯はぁ?」とか言いながら欠伸の一つや二つでもかくところだが……やっぱり俺は頭を下げることにした。赤い絨毯を見つめながら、俺はゴクリと生唾を飲み込んだ。

「あの……お父様! 私、お話が……!」
「…………」

 意を決して口を開いた俺は、その鷹のような目でじっと見据えられもう一度生唾を飲み込んだ。ヤバイ。いざとなったら、予想以上の緊張で言葉が出てこない。

「…………」

 俺が黙ったまま突っ立っていると、突然、目の前の男が俺に向かって深々と頭を下げた。

「お帰りなさいませ、旦那様」
「……え?」

 男はそう告げると、俺の横にいた人物にタオルを差し出した。

「ありがとう、宮地。すまない、これからお嬢様が、何やらこの私に話があるみたいだから、席を外してくれるかな」
「畏まりました」

 宮地と呼ばれた部屋の中にいた老紳士は、おっさんから麦わら帽子を受け取ると、もう一度深々と頭を下げて扉の向こうへと消えていった。

「……は?」

 俺は恐る恐るおっさんを見上げた。ここまで道案内をしてくれた庭師のおっさんは、俺を扱き使っている時の白咲にそっくりの、意味ありげな含み笑いを浮かべ目を細めた。

「どうぞ『お嬢様』。こうして面と向かってお話するのは、一体いつ以来でしょうかな?」
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