ペンネーム:ラブテスター
タイトル:たぬきはなんと鳴くでしょう
登山中、斜面を滑落した。
すでに昨日のことだ。
折れた足を抱え、夜の極寒を生きのびた。
皮膚の割れた頭からの出血が、上半身を濡らし、衝撃で起きた失禁が下半身を濡らしていた。その水気が、とり憑く幽鬼のようにさらに体温を苛んだ。
地獄の夜だった。
私は生きる気力で夜を越えたのではなかった。この凍える恐怖と苦痛からいま逃れたい、一刻も早く死にたいと目を剥き、歯をうち鳴らして死の入り口を探すうち、いつか昇る朝日を見つけていた。
臆病の執念が私を死なせなかった。極寒がゆるみ、じわりとぬくまる大気を感じて私はぼろぼろと涙を零した。
柚子を嚙み、渇きをやり過ごす。
凍った果肉が軋み、苦みの暴力が意識を覚醒させる。
登山口に向かう途中、民家の老婆がくれたものだった。
——きょうは冬至だからよ。
大きいけれど、傷んで変色し、ひしゃげた柚子を紙袋に詰めてくれた。
——風呂に入れんの。あったまっから。
温泉の予定であるし今日は家風呂には入るまい、駄目にするかもと思ったが、受け取った。好意を受け取りたかった。
ちりん。
あの音を思い出す。
夜のうちに、夢のように狸と会った。
あの地獄の夜、幾度とない気絶から飛び起きると、そばで鈴の音がした。また、ふんふんと鼻を鳴らす音があり、圏外のスマホ画面で照らすと狸がいた。
今のは狸が鳴いたのか、狸はちりりと美しく鳴くのかと思っているうちに姿を消していた。
また柚子を嚙む。私はまだ生きるのだろうか。
でも、また夜が来るなら。救けもなくあの絶望をまた味わうなら、死んでしまいたい。
「あんたァ!!」
見上げると、薪を背負った初老の男がいた。
男は片手になにか抱えていた。
狸だった。
赤い首輪を付け、可愛い鈴を揺らすころころと丸い狸だった。
男は何事か叫びながら器用に斜面をすべり降りてくる。
ああ。
私は、柚子の風呂に入れるのだろうか。
狸が、きゅうと鳴いて答えた。