消費者ダニーの憂鬱 第2部 

文字数 31,649文字

消費者団の報告会の様子 動画 (消費者ダニーの憂鬱 第2部 )

「それでは消費者団、月例消費報告会を開始します。進行は団長であるダニーこと茶谷雄介が執り行います。今日は動画で記録しますが、気にせずにお願いします。それでは私から消費報告を行います。えーっと、五月二日に早期支給され祖父のアレを手持ち資金として、すでに半分以上使用しております。内容は、風俗関係、飲食代、宿泊費などです。風俗に関しては、今回は大衆店である「ピンキー」で優奈嬢を指名しており、濃厚なプレイを堪能し、しかも延長までしております。飲食代としてはチェーン店、コンビニ等、既存開発店舗しか使用しておりませんが、セブンイレブンの新商品である「抹茶タピオカ大福」は良品でした。四月中旬の私宛の生保に関しては、順調に支給されております。ただし、ご存じのとおり生保に関しては受給者増加に伴い審査が厳しくなっております。皆さんもライセンスをお持ちとは思いますが、今後はライセンスの等級をあげる必要があると思われます。使用状況に関しては祖父のアレと内容は似たようなものですが、ブックオフでのコミックのコンボ買いに捻出もしております。今回は避けてきた「ワンピース」にチャレンジしました。まあ、読んだ感想としては、ルフィーも海賊という消費者でした。」
ここで消費者団一同失笑。笑いは天井の高い公民館のロビーに響いた。腰の高さぐらいの観葉植物に囲まれたロビーの長椅子に五人の男が向かい合って座っている。公民館を管理するシニア職員である館長の大滝は受付窓口からロビーを不愉快な顔して覗き込んだが、主婦の井戸端会議程度のことに注意する理由も見つからず、それに二十代から三十代の五人の男が平日昼間から公民館のロビーに集っている様子は異様で、関わりを持つと面倒だと、見て見ぬふりを決め込んだ。大滝は区役所で市税課を勤め上げ、公民館に天下ったが、区役所でも昼間からやってくる職業不詳の連中は、声のボリュームが壊れている非常識な人間が多く、一方的な持論の展開を得意げに披露し、それはほぼ間違っているという面倒なことが多かった。そういった経験上、生活保護とかで生活していることを大笑いしている消費者団とかいう連中に注意でもしようものなら、終わりの無い、湿った反応と煩わしい反抗が目に浮かんだ。ただ、ここ半年、毎月第一月曜日に彼らが現れて、朝十時から正午までの二時間、ロビーを占拠されるのにはほとほと困っていた。月曜午前は公民館に予約が入ることは少ないのがせめてもの救いだった。これが水曜だったらシニアパソコン教室と重なるし、金曜だったら幼児と母親のサークル、ちびっこクラブと重なる。今でも住民から「変な連中が集まって入りづらい。公民館はみんなのものだからちゃんとして下さい。」と小うるさい暇な主婦から指摘があるのに、人が集まる日なら問題が大きくなる。それだけは避けたかった。
「一応、私の報告はそういうことです。じゃあ次は、博士、お願いします。」
池上は身長百八十センチ、体重百三十キロの巨漢だった。一年の殆どを黒いTシャツと黒い七分丈のスウェットのズボン、赤いナイキのバスケットシューズという格好だった。ただ、それは同じものではなく、それぞれ微妙に違うものを複数持っていた。一番お金を掛けているのがナイキの赤いバスケットシューズで、普通は未使用コレクションするレアものを平気でかかとを踏んで、だらしなく履きつぶしていた。真っ黒な長髪を掻き分けると太くつり上がった眉毛に、ぎょろりとした大きな二重の目が印象的な顔をしていた。まるでねぶた祭りの山車のような顔。しかしそれ以外は二重顎で顔が脂肪にうずまったような肥満アメリカ人のそれで、消費者団では表向きは「博士」と呼んでいたが、裏では無駄に国立大学で経済学を学んでいたことを揶揄して「インテリデブ」と呼んでいた。
「・・それでは、私の消費報告ですが・・」
「博士、声が小さい。もっと頑張って。」
茶谷が団長らしく声をかける。池上はその声にぎょろりとした目を睨み付けるように向けたが、そこには反抗心なんてものはまったくなく、ただ注視しただけだった。この一見厳しい視線が誤解を招くことが多くあった。池上は新日のレスラーのように体が大きく、塾通いなくストレートで国立大学を余裕で受かるほど勉強も良くできたが、コンビニのレジでお釣りが違っても、そのことを店員に話しかけることができないほどの極度の小心者でもあった。それにもかかわらず時代劇役者の睨みを常時世間に突きつけ、少ない口数が誤解を生んだ。彼には大きな壁が立ちはだかり、世界はその壁の向こうにあった。その為、学校を出てからも就職出来ず、寂しく退屈しているところで、ネット掲示板で消費者団の存在を知り参加に至った。
「・・ダニー団長、すいません。大きな声で頑張ります。今月の私の消費活動ですが、先月末に二十八歳の誕生日を迎え、趣味であるミニ四駆のコースの改修とパーツの購入に充てました。パーツはベアリング、ギア、シャフト、軽量ホイールの購入、パーツ代に関しては微々たるものですが、コースに関しては精度が高いものを作りたかったので、カーブ形成の治具などを加工屋に頼んだりしたので、けっこうかかりましたが、万足いく消費活動が行えました。また、経済関連の書籍購入もしております。美津島正明先生の「FTA参加による金融経済の着地予測」が非常に面白かったです。これは農産物とか車とかの物財でのFTAではなく金融商品のFTA導入、その効果について論じ予測したものです。スケールが大きいほど金融商品の影響は大きく、結局のところ、淘汰が始まるという結論でした。金融商品の消費という観点では、消費者にとって有利な展開が期待できると大方は予測しておりますが、私見ではそれは嘘だと思っています。第一に」
「博士、長くなる?金融商品の消費者価値の予測に関しては、消費活動報告のあとのフリー会議でお願いします。」
「・・・わかりました。」
池上は話の本筋はこれからという盛り上がりを茶谷にストップをかけられ、散りそびれた桜の花のように無残な姿で停止した。隣に座る茶谷、目の前に座る団員三人に静かに注目され池上は脱ぎかけで扉を開かれたような恥を感じた。「早く壁に隠れないといけない。」急いで逃げ場を探していた。同時に、団長の指摘にやる気になって、飛び出し、調子に乗って自分の演説に酔いしれ期待した自分が情けなくなった。ここでは感じないであろうと思っていた人に晒される恐怖をしっかりと感じた。やさしい消費者団でさえ、こんなにつらい思いをするのなら、世知辛い世の中に出て、自分の意見を言うことに対して不可能という言葉しか思い浮かばなかった。
「博士、ここは落ち込むところじゃないよ。ちゃんと報告してもらったし、団長として金融商品の消費というのに興味はあるよ。長くなりそうだから、あとでしっかり聞かせてもらうってことであって、ウザいとか空気読めとかそういうわけじゃないから。」
茶谷は気にするなといいたかったのだが、他人に気を使うことも、使われることも経験少なく、こういったケースでの発言に苦慮した。池上は団長である茶谷の気持ちを受け止めることが出来た。気遣いと面倒くささ、しかし悪意はない。刃を向ける必要も無いが、腹を出して寝転ぶほどでもない。それは淡々としたもので、ただ、黙ってその場に座っていてもいいという、解釈が無限に広がる都合のいいものであった。池上は髪をかき上げ、黙って下を向いた。
「じゃあ、次、大佐。」
大佐と呼ばれる男、藪下は払い下げの黒い軍靴を行き先無くぶらぶら揺らして、枯れて硬直したゴム底をリノリウムのひんやりとした床の表面に擦りつけ、いつものようにカサカサと落ち着かない音を立てている。その為、藪下がいないときには「兵隊こおろぎ」と消費者団のメンバーにあだ名で呼ばれていた。藪下が着用する、死んだ軍人から剥ぎ取られたアーミーパンツのポケットは、金属で出来た内容物で重力に負けて垂れ下がっていた。上着もベトナム戦争で使われたM65の払い下げ品で、背中に自作ステンシルペイントにより「SHYOHISYA・BASE」と白文字で大きく書かれていた。顔は頼りない日本の三等兵みたいにひょろ長かったが、坊主頭に色の濃いサングラスをかけ、八十年代の角川映画に出てくる自衛隊員のような粗暴な印象が少しはあった。
「活動報告ですが、特定アジアの卑しい連中が領土問題等で馬鹿騒ぎしてもいいように、自警装備の充実に努めた。東京マルイとマルシンのコルトパイソンを掛け合わせ、藪下的改善を施した「藪下式パイソン」二丁の製造に成功した。筒の精度とハンマーの強度の確保にコストがかかったが、タチバナの協力により何とかなった。試し撃ちはまだだが、計算上では殺傷能力は高い。あと、これは装備品購入になるのだが、ナイフを数本購入した。予算は国家から支給されたものを使用した。そうだ、その予算に関してだが、最近、スパイの活動が活発になっている。実家まで来て「一緒に住んでいるのか?」「補助をしているのか。」などの尋問を年老いた両親にしていた。それを裏で聞いていたが、なかなかしつこかった。アリバイ工作は綿密にしたほうがいい。以上、報告終わり。」
日常生活でまともに人と話す事が無い藪下はぶつ切りの語尾で、無理やり楽しそうな顔を作って話をする。初対面なら怪訝な顔で対応するが、慣れた団員たちはそれを見てなんとも思っていなかった。藪下は話し終わると軽く敬礼をした。そのあと、ポケットから藪下式パイソンを取り出し、得意げにちらりと見せた。茶谷はそれを満足そうなふりをして見て、池上は食い入るように見た。しかしタチバナは思わず「あっ!」と声を出し、手を伸ばして改造銃を隠そうとした。
 「いちいち声を上げるな!」
 茶谷はタチバナに厳しく命令口調で注意した。タチバナはそれに子犬のようにビクつき、気まずそうに手を引っ込めた。その手厳しい声に小心者の池上は自分が怒られてもいないのに、心臓をバクつかせ、下を向いて自分の赤い靴をじっと見た。落ち着くまでは顔を上げるわけには行かない。怖いのは嫌だ。
 「人の作品を後ろめたいもののように隠そうとするな。消費者は堂々としていないといけない。じゃないと、やましい乞食と一緒になるぞ。」
 茶谷は大事なことを話すように小さな声で言った。タチバナは改造拳銃を見世物にしようとしたことに対して、当然の危惧を持ったのにも関わらず否定されたことが悔しかった。他の団員は団長の言うことをもっともだと思った。怯えてビクつくから黒い鳥が振り向くのであって、堂々としていれば黒い鳥は去っていくことを経験上よく理解していた。
 「じゃあ、今度は見習いのタチバナの報告を聞こう。」
 タチバナは前回から消費者団の活動に加わっていた。父親が経営する金属加工会社が不景気で倒産し、三十前で専務の肩書を持つタチバナは無職となった。下手に取締役となっていたために、いつの間にか経営者責任を取らされる羽目になり、破産宣告するに至った。だが、会社は残っている。常務であるタチバナの兄が別会社を設立し、業務を受け継いだのだった。つまり、タチバナは負債だけ背負わされて家族から消費された格好になった。このことで途方に暮れている時に学生時代からの知人の藪下から消費者団に誘われた。
タチバナは潰れた会社では、朝、スライス盤による金属加工を二時間ほど手伝うぐらいで、後は新聞読んだりインターネットを閲覧したりブラブラしていて、どら息子としての無気力、無能ぶりを遺憾なく発揮していたが、実力ないのに権力を持たされた人間特有の自分を特別視する傾向が強く、人一倍会社のことを考えているふりをして、たまたま見つけた社内のどうでもいいことの批判ばかりしていた。業務に支障ある人間だったが、そのくせ、専務という肩書に合う給料を父である社長に要求していた。比べて常務の兄は、金作で恥辱にまみれ、作業で油にまみれ、納品先の突き上げで血まみれになっていた。ただ、そんな対照的な兄弟でも、問題の本質は理解していた。利益が止まらないのも、受注が減るのも、わがままで煩い気まぐれな消費者が原因であることは理解していた。中国の製品が安ければ中国の製品を買い、それが悪いと戻ってくるが「価格は中国製程度にしろ、そうしないと取引しない。そうしないと消費者は買ってくれない。」と納品先は恫喝してくる。古い商売人の社長は仕事を頂ければと安い仕事でも飛びついて、そのあとに期待したが、今の時代、その後の期待は何処にも無かった。簡単に約束は反故され、あとには不良在庫と設備に費やした借金だけが膨れ上がる。倒産を機にタチバナは生産者であることを捨てて消費者に徹することにした。対照的な兄は生産者としてやり直す決心をした。そのため弟であるタチバナを犠牲にし、そのかわり生活費の面倒を見ることにした。大昔にあった「家長である長男に対する日陰者の二男」を今更ながらに実行していた。
「消費者報告ですが、生活保護費は、家賃と食費に消えました。あと、体がなまるといけないので金属バットを購入して素振りを始めました。今後の目標としては野球チームを作ることです。以上、終わります。」
「それだけ?消費生活をしての感想とかも盛り込んで欲しいんだけど。」
茶谷は、正直なところタチバナが嫌いだった。理由は簡単で、タチバナは破産しているが、それまでは金持で、無理なく消費者をしていた雰囲気が身についているからだった。団員の殆どが消費に対して過剰な期待と多少の我慢を強いられた一般的、もしくは平均以下の家庭で育ち、消費について憧れをもって接しているのに対して、タチバナだけが消費に対しての憧れ、ショッピングセンターを目の前にしての高揚感みたいなものが欠けていた。格好からしてそうだった。センスとこだわりのない高価な服装、あのチノパンは三万円、よれよれのシャツとカーディガンは合わせて二万円する。それを自慢することなく着ている。余裕の消費者、しかし本人には自覚がない。生活保護だって当たり前でもらっている。くらべて自分たちは、生活保護に多少のやましさを持っている。「何もしないでお金をもらってもいいのだろうか、いや、ここまできたら、やけくそだ、もらってやる、はみ出てやる。」こういった複雑なメンタリティーを持たないふりを必死でしているのに、タチバナには最初からそれが欠けている。だが、このことをタチバナに説明すると、消費者団の誇りのようなものが一気に剥される。本物の消費者だから歓迎すべきなのだろうけど、歓迎することによって、自分たちが抱えた社会に対する劣等感と優越感を一気に突き崩されるような気がして、タチバナの存在は言ってみれば恐怖だった。茶谷は意識的に強くそう思っていた。他の団員達も薄ら「タチバナは違う」と思っていたが、藪下も誘っておいて来るなとも言えなかった。
タチバナは団長である茶谷がいちいち絡んでくることに正直ウンザリしていた。それに自分は立派な生産者側に立っていて、今は仕方なく役立たずの消費者団に身を落としていると思っていた。だから、誘ってくれた藪下には悪いと思っていたが、働こうとしない消費者団が心底嫌いだった。だが、タチバナは一人でいる精神的な強さは持ち合わせていなかったし、だからと言って、破産者になった身では恥ずかしくて社会に出られない。まともな場所で帰属して、破産していることを知られたくない。それに、消費者団という働いたことが無い、働こうとしない穀潰しの消費者団に所属することによって、働いた経験、専務という肩書を持っていたことに優越感を持って、団員を見下すことができると思って参加していた。タチバナは中途半端に育ちが良い分だけ、自分の存在を確認するために、誰かを見下す必要があった。
「・・それでは捕捉します。食費に関しては、有り余る時間を利用して、評判の味の良い店に並びました。ラーメンでは南区にある老舗、ザ・中華そばに並び、名物のチャーシューメン大盛りを頼みました。チャーシューがどんぶりから溢れ、麺が見えないほどでした。スープは鶏がらと豚骨、あと香味野菜をベースにして甘口醤油で味付けされてコクとまろやかさがあり、麺も細く、しかし歯ごたえがあり、しっかりスープに絡み、うまいラーメンでした。それを写真にとってブログにアップしました。あと、中区のカレー専門店のムーンカレーのカツカレー大盛りもブログで内容報告しております。最近のスパイス重視の本格的なカレーではなく、昭和のカレースタンドの辛みと旨味が分かりやすい、さらっとしたとろみの少ない美味しいカレーです。ご飯がもう少し固めに炊いてあったら完ぺきでしたが、カツもサクサクで脂身もたっぷりでうまいカツカレーでした。最近、ぼくのグルメブログ「タチバナし」の訪問者数が一万人突破しました。よかったら皆さんも見てください。以上報告終わります。」
タチバナは一般的な消費者としての活動を当たり前にしているつもりで発表した。美味しいものを食べて、それをブログ等で世間に伝える。消費者が消費者にとっての有益な情報を発信する。その活動は消費者としては優秀と考えていた。「所詮、働いたことのない消費者団の連中には思いもつかない前向きな行動だろう。」と勝ち誇ってさえいた。
「おい、タチバナ、誰がグルメリポートをしろって言った?なんか得意満面だけど、何か勘違いしてないか?もしかして、お前はまだ、社会に未練があるのか?」
茶谷は蔑みに充ちた、意地悪な含み笑いを漏らした。それにつられて池上も目を細めて口を歪めてニタニタ笑いを浮かべる。
「気持ち悪いんだよ。」
池上が小声で呟くが、間近なので全員にその声は伝わった。深夜のタクシー乗り場で、酔っ払いが行列に加わることが出来ないで一人乱れるみっともない様を見るようなそっとした視線を集めるタチバナは、まるで足元の地平が自分の体重で脆く崩れ去るような不安感を覚えた。足の先から白く力が抜けていく。同時に頭から血の気が引いた。気持ち悪いとはどういうことだろう?この人たちは、何を笑っているのだろう?僕が何か変なのだろうか?足元から抜けて、頭から引いてきた酸素を失った真っ黒い血が、腹の底に重油のように重く溜まる。腹の皮は突っ張り、今にもどす黒い血の重さで引き裂かれそうだった。
「・・えっ、何か可笑しいですか?」
笑おうとして引きつった顔で死にもの狂いで返した言葉は、タールのような黒い血まみれで、熱く、ドロドロとして、飛沫を上げることなく、その場にへばり付き、行儀よく座って薄ら笑う四人に対して、足元にさえ届かなかった。口から言葉が出たが、その分、唇は水分を一瞬に失いカサカサに乾いて、ひび割れた。もはや深い呼吸は不可能で金魚のように口をパクパクして忙しなく酸素を求めた。なんで、自分がこれまでに築き上げた常識を否定されるような、こんなに嫌な思いをする必要がある?タチバナは考えてみたが、答えは消費者団に対する一方的な怒りしか浮かばなかった。何も知らないこいつらは僕の人生を否定して馬鹿にしようとしている。働いてもない、社会に吸い付くダニが、社会に貢献してきた僕を笑うことなんて出来ない!真っ黒い血が、怒りで腹の中で渦を巻き、煮えたぎる。
「おい、こいつ自分が間違っていること認めようとしないんだけど、消費者の意味、判っているのかね?」
「すいませんダニー団長、タチバナ氏は、まだ日の浅い素人なので、事情を飲み込めていない。悪い人間じゃない、よって、勘弁してください。」
藪下がぶつ切れに茶谷にタチバナの開放を嘆願した。茶谷もまだ始まったばかりで突っかかるのも時間の無駄とも思えたので、これ以上の追求はここでは放棄した。眉毛を上げて口を尖らして仕方なく納得したという表情を藪下に送る。藪下は無表情のまま敬礼した。その一連の動作はタチバナをさらに苛立たせた。まるで自分の能力が劣り、全体の足を引っ張っている印象を受けたことも原因だが、同時に自分よりも劣る消費者団の思想を理解できない自分に対する焦りのような感情も存在していた。それに、ここで不平をこれ以上表に出すと、幼児がファミリーレストランで一人前を要求するような、自意識過剰が要因の不甲斐ない怒りを持つようで、今以上に情けなることはなんとなく理解していた。それは避けたい。しかし、消費者団、とくに団長の茶谷に対する怒りは水気の多い雪みたいにずっしりと冷たく屋根の端に積もっている。
「じゃあ、最後にももやんから報告。」
百地の背丈は百五十センチと小柄、顔も小さく童顔で、生まれたてのひよこのような色素の薄い柔らかい毛の坊主頭をしているが、茶谷と年齢は変わらない。どうみたって男子中学生にしか見えなかった。そう見られるのが嫌で、昔のチンピラのような格好、刺繍の入った銀と青銀のスカジャンにビンテージのジーンズ姿をしていたが、その小さな悪者っぷリが、余計に反抗期入りたての中学生のように見えた。百地はタチバナに対する団長ダニーの追い込みが意味不明で、なんだか面白いなあと思っていた。本当はもっと笑いたかったが、タチバナがなんとなく眉間の付近に不穏な影を持っていたので、この中で一番力が無く小さな自分への被害を直感的に想定して、なるべく笑わないように努力した。
「消費報告させてもらいます。今回は障害ライセンスが上昇したことにより、配給が増えています。その代わりお母さんの体の不自由加減も増して、介護が大変になっています。トイレの中まで付き添うことになっています。お母さんは重たいです。戸籍上では夫婦でない僕のお父さんに受けた暴力のせいで、右半分がダメになってしまいました。飲んだくれての事件でした。お母さんは、ぼこぼこに殴られて、可哀想だったけど、ぼくは正直、すっとしました。だって、これは、仕方の無いことです。お父さんは一緒に夫婦で住みたかったのに、母子手当てをもらうために離婚して、しかし、本当は色々な男を連れ込むための口実で、ぼくは小さなころからツマラナイ思いばかりしてきました。だから、ぼくはお母さんのことがこの世で一番嫌いですが、ご存知のように、お母さんがいないと、ぼくは社会で成り立たないので、お母さんが大好きです。それに、お母さんはお金なのです。お母さんがいないと好きなお菓子も買えません。団長のおかげさまで、ぼくのぶんの生活補助が受けられるようになったので、買い物が増えています。ぼくはお金を払わないと誰にも相手にされないので、もらうお金が増えただけ、たくさん相手にしてもらっています。みんな、買い物をするとありがとうと言ってくれて、うれしいです。今回はジャンパーとジーパンを買いました。そのとき女の人がぼくのことを褒めてくれたので、消費は大事なことだと思いました。それに、団長に教えてもらったエッチな場所でもお金を多目に払うと優しくしてもらえて、気持ちもよかったので、消費は嬉しいし、いいことだと思いました。給付金に感謝します。」
百地は言いたいことを思いつくまま並べて口に出し、それが全部出てしまって、自分では言い終わったつもりだったが、発言に終わるための語尾が下がる抑揚が欠けていたので、団員たちにはまだ続きがあるように思えて、飛んでいる蚊を待ち構えるように沈黙で身構えた。一瞬、公民館のひんやりとしたロビーが静まり返った。数秒経ってもすっかり言い終えた百地は当然のように黙ったままなので、茶谷は腕を少し上げ、肩の高さで手をロボットのように固い動きで、ゆっくりとぎこちない拍手をした。よどんだ空気が掻き回され、対流が生まれる。続いて池上と藪下の疎らな拍手が加わり、手を叩く音が重なり、ぎこちない拍手の音の角が取れて、まろやかな拍手喝さいへと繋がった。自分より間抜けな発言だと見下したタチバナは腑に落ちない様子で拍手を拒んだが、そのうち仕方なく投げやりに手を叩いた。
「いや、ももやん、いい報告だったよ。そうなんだよ、タチバナ分かった?消費者団にとって一番感謝すべきこと。消費に徹するための給付金、それに感謝。これなんだよ。俺たちは消費者だから、消費するためのお金をもらって当然の権利を持っている。これは公務員が国から給料を貰っているのと同じことなんだ。いわば、国から金を貰って消費するってことは、公務員みたいなものなんだ。でも、俺たち消費者団のメンバーであれば、「支給が少ない」と文句言う公務員と違って、消費するために国から貰ったお金に感謝する。当然の権利なのに、謙虚に感謝するんだ。だから、さっきから仕事もせずにこっちに聞き耳立てているそこの受付やってるおっさんなんかよりずっと人間的に優良。上等でマシなんだ。ももやんは直接感謝したし、藪下は妨害工作を掻い潜り、給付金を貰うための努力をしている。なおかつ、腰抜けの防衛省と違って、単独で特定アジアの侵略者から日本を守ろうとさえしているんだ。それに池上は貰ったお金で経済の勉強している。社会に出るあても無いのに、無職なのに経済の勉強をしているんだ。お前が金属バットを素振りしているのとはわけが違うんだ。それに俺は・・」
死んだじいさんの分まで金を貰って消費しているんだ!と続きを言いたくなったが、茶谷はこの場で言うべきではないと咄嗟に判断し口を真一文字に噤んだ。その様子を見ていた大滝は憤慨した。何もしていない公務員と指摘され、尚且つ、あの連中より人間的に下等と非難された。久々に頭に血が上る。たいしたこともせずにお金をもらっているという指摘に対して大滝は反論したかったが、よく考えると、思い当たる節が無いわけでなく、取り乱すことによってその疚しい部分が透けては困ると腹立ちながらも、大人の対応と自分に言い聞かせ、怒りを飲み込み腹の中に仕舞い込んだ。怒りは腹の中でいったん暴れて見せたが、それは本気の一所懸命でなく、ただの体裁のためのポーズで、ちっとも力強さは無かった。しかし、言われるままでは悔しいのか、大滝は消費者団、とくに団長のダニーの行く末を考えてみた。このまま働くことなく年を取り、何も残さず、誰にも相手にされず、寂しく消えていくだろう。当然の報い!と考えてみたが、じゃあ、公民館で死んだように受け付けやっている自分は何を残すことが出来るか一瞬だけ考えて、その後思考停止に行き着いた。目の前の利用者ノートを開き、意味も無く明日の利用者予約の名前を見て、物思いにふけるようにため息をついてみた。するとそのため息に吹かれた文字が驚いてノートの上で字体を揺らした。大滝は目を見開き、それが本当か確かめるために、もう一度ため息を拭きかけよと思ったが、もし、文字が動いたら、厄介な仕事が増えるだけなので、思ったことを実行せず、壁にかかった時計に視線を動かした。休憩まであと二時間を切っていた。今日の給食弁当はなんだろうと自分の机に戻って、机の透明マットに挟んだ弁当会社の献立をじっと見た。
五月六日のシニア給食弁当献立、アジのフライ(ハーフ)、ほうれん草のおひたし、春雨の炒め物、ご飯、総カロリー526カロリー。
大滝は献立に大変満足した。そうなると騒ぐ消費者団など遠くで鳴いている蝉のようにどうでもよくなり、早く時間が経過することを願った。じっとしていれば、なんとなくご飯が食べることが出来た。学校に通いだして、役所に入って、その間、ずっとそうだった。消費者団と名乗る奇妙な若者たちに賛同は出来ないが、自分も似たようなところがあるので、完全に否定することが出来なかった。それに、今の時代、これは仕方の無い、不幸なことなんだと大滝は思った。何が仕方なく、何が不幸なのかは、うまく言い表すことは出来ないが、それは間違いないことだけは自信があった。その自信によれば、消費者団と名乗る若者たちが気の毒な存在だと思えてきたし、消えればいいのにとさえ思った。あんな奴らは消えてなくなり、自分はバランスの取れた健康的な日替わりのおいしい弁当にありつければ良い。そうなると、出来ることは、彼らを見なければいい。大滝は首を引っ込めて、夕方書く、誰も読むことがない公民館日誌を付け始めた。
日付、五月六日、天気、晴れ、来館者、三十二名、空調の設定温度二十八度、クレーム等利用者の声、季節の花を植えて欲しい。掃除が行き届いていて利用者に優しい。五人の男が午前十時より二時間ほどいて注意をしたところ帰った。毎月来るが、不審なところもあるので、警官立ち寄りを希望。
一日はまだ始まったばかりだが、いつものような終わりに消費されていくだろうと、大滝はモデルのいない模写のように見てきたように今日の日誌をゆっくりと描いた。書いている間は、実在は消えて、文字に起こされることが真実になろうと努力する。何か起こりそうだが、自分の判断により、なんとなく無事に済んだ。これが優れたシナリオだった。優れたシナリオに一日を落とし込んで消費してしまえばいい。大滝の握るボールペンは日誌ノートの上で踊る。もう、現実の世界がどうなろうと、日誌に書かれたことが現実として大滝の中に浮かび上がってきた。大滝はまだ何にもしていないのに、仕事を終えたように一人満足した。
一方、批判される立場で、仕方ないようにチラチラと公民館の高い天井を見上げながら、タチバナは持ってきた金属バットを足元に隠そうとしていた。団員たちに自分の日頃の行動を想像してもらうために、わざわざ黒いバットケースに入れて背負って来ていたのだ。茶谷によって、後ろに立てかけた金属バットを見せるタイミングを消されてしまった。タチバナはバットを持ってきたことを今更ながら悔やんでいた。もしバットを持ってきたのを見られたら、また、批判の対象となることは目に見えていた。自慢するつもりで張り切った自分が間抜けに思えた。
タチバナはひざの上に手を置いて、素直に疑問に思う。「なぜ自分が思ったように回りが動かないんだろう?なぜ彼らは僕のしてもらいたい事を理解できないんだろう?少しは人の思うところを汲み取る努力をする必要がある。消費者団の連中は馬鹿だから、それが出来ない。それどころか感謝しろと迫ってくる。あいつらは足し算は習っているが引き算は存在さえ知らない。そんな連中に期待するのが間違いなのか?」タチバナはどんなお店に入っても、その身なり振る舞いから「いらっしゃいませ」と聞かれて育って、それに慣れてしまったので、欲望をごっそり引き受けてくれる引き算を期待するしかなかった。だから期待して待って、いつまでたっても「いらっしゃいませ」が聞こえないと、何も思いつかなくて、八方塞がれた中、一方的な立腹を抱えるしかなかった。
タチバナが花のしぼむように勝手に孤立する様を茶谷はじっと見て取った。冬の午前中の温度計のように判りやすく変化している。タクシー乗り場で手を上げても、タクシーは減速することなく無視して通り過ぎるような苛立ちをタチバナが募らせている様子を見て、茶谷は蟻地獄に落ちた蟻のもがき、苦しみ、食い散らかされる残酷な様子を黙って見ているような底意地悪い嬉しさを感じていた。大事にされることになれている人間は無残な姿を無意識に曝す。大事にされなかった人間は泥水の飲み方を知っている。その違いを理解している自分に対して茶谷は勝ち誇ったように満足した。
「今回の議題だが、消費者の立ち位置について議論しちゃう?」
茶谷は、色々と理解していないだろうタチバナを笑いの種にすると同時に、消費者団内での理解度の確認をするために議題を設定した。
「・・現在の社会の歪みを救えるのは活発な消費者しかいません。そういった意味で消費者は貪欲に消費するという立場にいる必要があります。もっと言えば、生産者こそ立ち位置を確認すべきです。」
池上がまじめに語りだす。小さな声だが、茶谷をはじめ、隣の部屋のテレビの音を聞こうとするように、神経を尖らせて黙って耳を傾ける。
「世間のみんな、アメリカを見習うべきだ。アメリカが何で、強くて大きな国でいられることを、今こそ考えるべき。日本が生産者、アメリカが消費者、その関係が重要と思われる。その関係では、消費者が強くなる。生産者がいくらいいものを、沢山作ったとしても、消費者がいないと、生産者の意味が無い。消費者はお金を払い、生産者はお金をもらって生活する。つまり、生産者は消費者によって生活が成り立つ、だから消費者は絶対的な存在。アメリカは借金してまでも、消費しつづける。こんなことを出来る国は、世界中にアメリカしかない。だからアメリカは強い国になるのだ。日本は、お金が沢山あるんだから、そろそろ我儘な消費者であるアメリカを見習うべき。中国の製品、韓国の製品を買い叩き、アメリカのように横柄にするべき。下手にあいつらに商品売るから、対貿易黒字になろうとするから、あいつらが消費者になって、結果つけあがる。アメリカは、買い叩いて、文句言って、訴訟ばかり起こして、国債売りつけて、金を巻き上げて、その金で作った軍事力で睨み付けるって、相当我儘だろ?でも、頂点に君臨する消費国だから誰も逆らえない。それどころか、アメリカは愛されている。お金くれるのだから、お客様だから。」
藪下が興奮気味にまくし立てた。まるで自分がアメリカの息子のように自信を漲らせた。茶谷は藪下の訴えに異論は無いが、理想主義、社会主義の教師である両親に育てられたせいか、何処か赤く洗脳されていて、心の奥では違和感を抱えていた。その違和感について茶谷は気がついていた。
(支配者などいない、人は平等、金は汚れている、消費は悪であり、生産こそ崇高なことである。人々は分け合い、欲張らない。地球は公害で悲鳴をあげている。過剰な消費が温暖化を生み、人はこのままだと死に絶える、滅亡する。)
これらの戒めのような呪いが頭に植え付けられ、しっかりと根を張っている。しかし、それが理想であり不可能であり決して正しくないということも理解していた。
(支配者はいる、人は不平等、金は大事、消費しなくてはならない、生産は疲れる、人々は奪い合う、欲張ったほうが生き延びることが出来る。地球の公害は減った、温暖化は嘘、人口は増加して減る要素が無くて困っている。滅亡できない。)
頭の奥では理想が小さくなって、頭の表面では現実を捉えている。奥の理想がなければ、殺伐とするが、ずいぶん人生が楽になるような気がしている。これは戦いなのだろう。学校で理想を植え付けられ、社会に出て、その理想が都合のいい嘘だったり、内容の無い奇麗事だと思い知らされる消費的な戦いなのだろう。その戦いに勝者はなく、消費者だけが座っている。
「大佐が言うことは正しいね。でも、無駄に学校が嘘を教えるから、みんな、落ち込むんだ。なんで本当のことを教えないんだろうね。この世界は残酷なことだが、当たり前に暴力によって支配されている。暴力とは大きな力のことで、戦時中は軍事力だったけど、現在は経済力、消費力が強いほうが支配している。これが現実なのに、学校ではみんな平等、助け合うって理想ばっかり。力による支配という現実を隠すんだ。結果として寒いテレ笑いをだけを教えて、生徒たちは学校出てから、いや、ある程度分かってきたら、嘘だと気がつくけど、もうすっかり洗脳されているから手遅れなんだ。ダブルスタンダードを平気で作るようになる。知っているか?現在はうつ病が世界で三億人以上いるってことを。二十一世紀の精神異常者が山ほどいるんだ。1969年のキングクリムゾンは正しかったんだ。社会を統制するためにすぐにメッキのはげる奇麗事を教えて、でも、やっぱりメッキはもろくて、結果、その理想との反動で、世界に絶望するする人が絶えない。初めから知っていたら問題ないんだ。変な夢見て、現実直面して、絶望。それでも鬱から逃れるためには、社会を変えるしかない。社会を変えるためには、自分を・・おっと、これ以上はいけない、いけないよ。だめだめ。」
まじめに論を展開していた茶谷はごまかす様に笑い出す。池上も藪下も意味がわかって大笑いする。主張がふざけた冗談に変化した。百地とタチバナは理解できずに間誤付いていた。
「・・団長、何処に黒い鳥がいるかわかりませんよ。気をつけないと。」
池上が半笑いで辺りを見回す。藪下は立ち上がり、ポケットから改造銃を取り出し天井の四隅に目掛けて打ち構えるアクションを取った。四隅を狙った後に銃を水平に構え、思い出したかのようにタチバナに銃口を向けて座った。
「タチバナ氏、お前は黒い鳥に、なるのか、変身するのか、しないのか、ハッキリさせろ。このままだと、お前はいずれ、反乱を起こす。俺には、分かる。反消費者同盟を立ち上げ、反乱を企てるに、違いない。」
銃口の中はまだ銃弾が通過した焦げ跡もなく、削りたての鉄の臭いが漂い、鼻先に突きつけられたタチバナは鼻を突く鉄の酸っぱさに、家業であった金属加工に用いる旋盤機と真っ黒い床に落ちる光る鉄屑を思い出した。金属が削られる音が内側から響いてくる。炭酸水が泡立つような決めの細かい音から始まり、蛇が締め付けられる悲鳴を思わす耳に付く金属が崩壊する音。しかしそれは一定で、リズムがあり、生きているようだった。その音が体の奥で響き、金属が削られ、回転する轆轤の上の粘度が滑らかに変形するように変形していく様が目の前に現れ、藪下に突きつけられた銃口に段々と重なっていく。タチバナは藪下が言う黒い鳥が目の前に現れたような気がした。その現れ方は唐突に飛んできたわけでなく、それまで視界に入っていたのに、気が付かなくて、何かのふしに発見したような現れ方だった。だから黒い鳥に対する驚きはなく、いつの間にか存在したという親しみさえ感じた。そんな親しみある黒い鳥が敵視されている。見方の敵は、敵になるのだろうかと考えた。だとすると藪下は、敵だ。それにこのままだと反消費者同盟を立ち上げると宣言さえされてしまった。意味はわからないが、正直、消費者団、消費者という括りにイラ付き始めていた。何にもしないのに、偉そうにしている連中、そいつらに馬鹿にされている。黒い鳥になると予告される。ところで黒い鳥は何だ?鉄砲が黒い鳥なのか?深く考えないで思いつくように答えを探す。
「うわわわわ」
突然目が覚めたようにタチバナは銃口に死の恐怖を感じた。ムカデが顔に落ちてきたみたいに銃口を急いで手で払う。
「やめてくれよ。危ないだろ!やめろ!今度やったら・・殺す、殺す。」
驚き、懇願、怒り、殺意、タチバナの様子の変化に気が付いた隣に座った百地が右手で遮るようにタチバナを抑えようとした。百地はタチバナの様子の異変に、母に暴力を振るった父である男の雰囲気を感じた。あの、やり場のない怒りを自分では消化しきれず、腹は腫れ、苦しみ、吐き出しそうになり、理性で平静を装うことに勤めようとするが、すでにホースは破けて水圧で暴れている。あとはその力が誰かに向かうかだけだった。対象が定まらないうちは被害は出ない。百地はそっとタチバナの肩を触った。タチバナは人の手の感触にいったん体を硬直させて、次の瞬間、反発し飛び出そうとしたが、百地はその直後に体重をかける様にタチバナの肩を押さえつけた。いきり立ったところを押さえつけられたタチバナは冷静さを取り戻し、席に着いた。しかし、心は穏やかではなく苛立ちがマグマのように熱を持って渦巻いていた。押さえつけた百地はタチバナの肩の硬直具合、熱の持ち方から抑えようが無い苛立ちを帯びていることはすぐに分かった。
百地は働きもしないでカーテンを閉めた薄暗いアパートの一室でくすぶっていた父親を思い出していた。昼から酒を飲み、何かに怯えたような顔をして苛立っていた。父親は働きもしないで失業手当や生活保護で生活する消費者だった。行動パターンは、いつもぼんやりとして、それが、激しい夕立のように突如として怒り出し、行くところもないのか、百地と母親が済むアパートに来ては暴れ、母親を殴ったり蹴ったりして、お金を当然の権利を行使するように取り立てて去って行った。母親にしても、母子手当を受け、気が向いたらパート仕事に働きに出て、その間は、自動車のエアクリーナーのろ紙を枠にはめ込み、段ボールに詰めたり、端子に電線を繋ぎ、通電チェックをして検査済みの箱に部品を詰めたりしている間は明るく穏やかだったが、ある程度お金がたまり、生活が安定してくると、職場で些細なこと、例えば鋏を借りて返し忘れたとか、あいさつしたが無視されたとか、そんなことで争いになって、挙句の果てには派手にケンカして、出勤しなくなる。そのうち仕事を辞めて家にいると、父親のように母親も昼間から部屋を暗くして、見るわけでもないテレビをつけっぱなしにして、さすがに昼から酒を飲むことはしなかったが、苛立ちを帯びて、癇癪を起して「お前なんか生むんじゃなかった!」と百地を罵り、憂さを晴らすように夜中に飲み歩くようになった。酷い時には家に男を連れ込むこともあった。
働かなくてもお金があるのに百地の両親は、いつも苛立っていて、それが百地には理解できなかった。この消費者団でも、百地は気が付いていた。みんな働かないで国からお金をもらって生活できているのに、いつも何処か苛立っていて、同じ境遇にある団員たちに攻撃的だった。百地は、その殺伐とした雰囲気が嫌いだった。何もしないで生活できることに対して、なぜ、感謝しないんだろうと常々疑問に思っていた。家庭では苛立つ両親を横目に見て、せっかくの同類の集まりでも、苛立つ団員を押さえつけたりしている。うんざりしたが、百地は、残念なことに、ここから出るすべを知らなかった。
百地が抑えたのでタチバナは大人しく座った。しかし苛立ちは収まっていない。茶谷はそれを見て、バス停で順番を守らない態度の悪い男を見るように不機嫌な顔をした。同時に物足りなさも感じていた。どうせならもう少し暴れて、取り返しのつかないことにしてほしいと、頭では理解せずに心の底では思っていた。もう少しタチバナを攻めてみよう、タチバナが原因で、この場が壊れることを強く望んでいた。黒い鳥が獲物を見つけてギィーギィーと騒ぎ立てる程の大騒ぎ、秩序が乱れる様が、携帯電話のように常に身に着けている終わりない苛立ちを消してくれるような気がしてきた。
「・・大佐がアメリカは大消費国家だから皆に愛されるっていったけど、昔は違ったんだよ。生産と消費、どっちが先か問われる問題に似ているけど、戦前の1920年代、アメリカでは、沢山生産して、沢山消費する「永遠の繁栄」と呼ばれる時代があったんだ。すごく景気が良くて、金持ちは毎晩のようにパーティーをして消費を楽しんだ時期、日本で言うバブル景気みたいな感じだったんだけど、それが、突然、終わったんだ。恐慌があってね。ところで、この恐慌って説明できる?」
池上が思い出したかのようにボソボソ話はじめ、茶谷はすぐに「グレートギャツビー」の蒸し暑い部屋で殺人をどうやって誤魔化すか、エアコンの無い部屋で、消費者集団がイライラしている様子を思い出した。しかし、質問の矛先はタチバナに向けられていた。恐慌の意味という問いかけを急に問われたタチバナは、聞いた事がある言葉なので、そのぐらいは知っている!と息巻いて答えようとした。
「そのぐらい知ってるよ。恐慌って急に不景気になることでしょ!」
「なんで不景気になったの?」
「そりゃ、景気は上がったり下がったりするじゃないか・・上がりすぎて・・弾けたんだよ。・・不景気になったのは消費者が悪いんだよ。安くしろとかして、値が崩れたんだ。」
「まあ、そんな答えしか出来ないと思ったよ。景気は空気みたいなものみたいだから、我侭な消費者によって、そんな空気が作られて、流れが変わったとかそういうことがいいたいんでしょ?」
やり取りする池上は尻尾を掴んだように余裕を持って念押しをする。タチバナは常識の虚を突かれ、なんとなく、それらしい言葉を、自分にも言い聞かせるように分かったように答えた。茶谷は池上の狙いを理解して、野蛮な上流階級育ちのトム・ビュキャナンのようにニヤリと笑った。その笑いに気が付いたタチバナは嫌な汗を背中にじっとりとかき始めた。タチバナは公民館のロビーの酸素が急に薄くなったように浅い息を繰り返し、酸素を取り入れようと懸命になった。
「ようするに、あれでしょ、不景気になって・・インフレになるんだよ。需要と供給のバランスが崩れて・・紙幣が紙切れになるんだ。」
「・・恐慌っていうのは、簡単に言うと、生産が消費を超えることなんだよ。生産余剰状態。でね、モノが溢れて経済がパンクしたんだ。解決策は、大量の消費、戦争するしかなかったんだよ。戦争ってねえ、貧困から生まれるんじゃないんだ。物が余るから始まるんだ。これが世界大戦の原因。そうなると、言えることは、世界平和のために消費者は必要って理屈が成り立つ。」
「そうだ。だからアメリカは膨大な借金してまで、旺盛に消費する。世界を安定させる。だから日本も早くアメリカを見習うべき。お客様が神様なら、アメリカは世界の神。」
藪下が池上の話しにくっついて、アメリカ賛歌を始めた。池上は経済の仕組み上、アメリカは必要と思っていたが、日本を食い物にしているアメリカのことが好きではなかった。あんなものは神ではない、ただのジャイアンだ。日本は漫画とおもちゃを持っているスネ夫。そのうち、漫画もおもちゃも、ついには金も取りつくしたら、ドラえもん不在の、のび太扱いになる。池上は、藪下がアメリカを背景に思い上がる様子に苛立った。こいつはアメリカ人ではない、アメリカに奴隷扱いされる日本人だ。なのに、支配者であるアメリカを愛する大馬鹿者。知恵と力のない軽薄な視野の狭い田舎者。一緒にいることが恥ずかしくなってくる。
茶谷は池上が苛立っている様子がよく分かった。ただ、その怒りを藪下でなく、タチバナに向けるようにしたかった。もう、徳三が死んで三日たっていた。あれからアパートには寄り付かず、ビジネスホテルに泊まったり、ネットカフェで夜を明かしたりして、ひどく疲れていた。加えて連休で街が賑わっていたのも神経を疲弊させていた。そんな中で徳三のことを少しでも思い出すと、黒い腐った汁が体中に駆け巡るようで嫌な思いがする。それを誤魔化したいが、うまくいってなかった。その場から消えてしまいたいぐらい、焦って苛だっていた。そういう時は、一番弱い奴を、分かってない奴を、徹底的に苛めたくなる。自分よりずっと下の存在を作り出し、そいつを苛め抜くことで、苦痛を、苛立ちを、そいつにそっくり移すことが出来るような気がしてくる。
「でも、アメリカが与えてくれるのは、フランクザッパがハングリーフリークスダディーで歌っているように、♪スーパーマーケットドリーム♪だけだよ。大佐がアメリカを思うほどアメリカは大佐のことなんて思っていないよ。」
藪下がレイバンのサングラスをかけていても分かるぐらい唖然とした表情で茶谷の方をじっと見た。明らかに苛立ち、親の悪口を言われたように怒っている。茶谷は自分の間違いにすぐに気が付いたが、もうどうしようもなかった。それに、思ってもないことは口から出ることはないので、藪下への否定は、真実であり、素直な意見なので、引っ込める必要が思い浮かばなかった。人間関係でもまれたことがない茶谷にとっては仕方のない選択だった。
「団長、それは、言い過ぎ。ここは消費者団。だからアメリカを肯定するべき。私は、かつて、働いていた。販売員として。たまにくる本部の人間は、生産性を上げろと僕に言いった。でも、僕は何も生産していない。ただ、冷やかしばかりの冷たい消費者に大声で「いらっしゃいませ。」というしかなかった。でも、誰も買おうとしない。ただ、時間だけが過ぎてた。カウンターの向こうに誰もいないときもあった。何もしないでカウンターで立っていた。生産性を上げろと本部の人間はいうけど。そのとき、ぼくは思った。アメリカなら、借金してでも笑顔で買ってくれるだろうと。アメリカは買い物がすき。だから優しい。優しい人間は好かれる。」
藪下は黙っていなかった。藪下にとっては、アメリカ型の旺盛な消費が究極の目標であり、憧れであり、心の支えにさえなっていた。雲ひとつ無い青空にたなびく星条旗を否定されることは未来を踏み潰されるような思いがした。
「大佐、アメリカじゃなくても、日本だって消費者に関しては、優れているんだ。昔から、消費者のことを考えている。生産過剰に、恐慌にならない仕組みを作っていたんだ。それも、いまから三百年以上前、江戸時代には消費者優先社会を実行していたんだ。士農工商って身分制度があったことは、学校で習ったと思うけど、一番上が武士、侍、次に百姓、その下、職人、一番下に店員。これがじゃんけんみたいにうまく出来ている仕組みなんだ。まず一番上の侍、侍は米を政府から配給され、何も生産することなく、しかし、社会的に一番上の身分を与えられている。つまり消費者が威張ることが出来るんだ。それで世の中が安定するって、徳川家は理解していたんだ。戦う必要が無い、何にもしない侍が威張ることで秩序が出来るって、知っていたんだ。なんにも生産しない層が、生活を国から保障され、勉学とか武芸に励み、良識、知識を持った層を作り、それによって江戸時代という文化を向上させていった。それに、なんにも生産しない消費者である侍を養うためには、年貢を納める農業生産者が人一倍がんばる必要がある。これによって技術も進んだ。その生産者によって出来た米は幕府に入って、そっから武士に石高という形で分配する。市場に出る量をコントロールすることが出来る。管理されて自由が無いんだ。生産過剰に陥っても、これなら値崩れは起こしにくい。まあ、生産性が悪かっただけかもしれないし、米自体が足りないことはよくあったみたいだけど、余って仕方が無いってのっは聞いたことが無い。恐慌が起きにくいようにしていたんだ。日本だってアメリカに負けてないよ。まあ、今はしっかりと負けているけどね。大佐のアメリカ万歳の気持ちも分からんことも無い。でも、俺はアメリカ嫌い。」
茶谷は藪下に何を説明したかったのか分からなくなっていたが、思いつくことは忘れない様に並べてみた。ただ、自分の考えが、この消費者団では中心的な思想とはならないことを改めて知ることになった。それに、自分の考えも、消費者は絶対権力者であるというアメリカ万歳的な前提があっての消費者団であったが、その思想の根本となるアメリカが嫌いと言い出したら、思想の行き着く先、到着するはずの新大陸の港を見失ったことになる。茶谷は、三日前からいろいろ失っていた。帰る場所を見失い、徳三がいなくなったという事実と、徳三の年金という収入がなくなる現実が、茶谷の消費者団団長としての、心の安定、支えを奪い、これまでに自分が作り上げた生活がいつ途切れてもおかしくない状況に陥って、どう対応していいか、うまく考えられないようになっていた。
自分の生活を消費しきる。
自分の生活の消費期限が過ぎる。
どちらにしても生活の終わりが見える。
茶谷は、長年の消費者生活を過ごしていくうちに、生きることに対する充実感を失い、始まってもない人生に飽きてしまい、全く別の生き方を密かに望んでいたし、消費者であることしか出来ない今の生活が終わることを望んでいるところもあったが、いざ待ち焦がれた終わりが近づくとなると、夏休み最終日の午後のように、時計の針が、夏の午前中のまぶしい照り返しを失って、色を失い、止まっていたはずの時間が進んでいることに気が付き、現実的な時計の針の進行を見上げて、時間を奪われたように落ち着かなかった。時間を取り返す行動に出ようにも、結局はその場で考え込むばかりで、取るに足らない些細な遣り残した事を探して、あてどない検索という無駄に時間を消費する。もしくは、これから始まる新しい生活に溶け込めないのではないかという恐怖心さえある。
「侍が消費者、生活保障されていた?そのころ、アメリカは、まだ無かった。」
藪下は絶対的なアメリカという存在に対して疑問を持ち始めていた。アメリカが消費者こそチャンピオンという発見をしたはずだったのに、日本はその前からはっきりと分かる形で実施していた。しかし、支配者を消費者とする身分制度を利用した統制はローマの時代にもあったはずだ。アメリカには身分制度は無かった。そこは優れている。
「でも団長、身分制度って、良くない。そうでしょ?」
藪下は独り言を続ける。茶谷はこの独り言に対する答えだけを考えて、口を開いた。
「身分制度が物事をはっきりさせる場合もある。それに、アメリカには身分制度はないかもしれないが、人種差別があるだろ?かなり根強く一方的なのがあるよ。でも、さっきも言ったように、日本の士農工商の身分制度はじゃんけんみたいにうまく出来ている。一番上が消費者である侍、二番目は食を支えるから百姓、肉体労働はきついから、二番目って言いくるめみたいな気もしないでもないが、百姓が侍を養うってことは、つまりは国や文化を支え、秩序を作ることだから、身分的には高いということにすべきだ。その次の階級が工、職人。侍が治安を安定させ、米だって作ってくれる人がいる。安心してものづくりに没頭できる。まあ、なんとなしの三番目、四番目が何も作らず右から左で一番楽して金をもうけている商人。でも、商人も大変だったみたいで、丁稚奉公から始まり、一人前になるのは寿命が五十そこそこの頃に、四十過ぎぐらいでのれんわけしてもらって嫁さんもらって子供を作れる身分になる。現在のサラリーマンみたいに、忙しすぎて結婚できなかったらしい。商人が集まる活気ある江戸という町は、どんどん地方から人が集まり、しかし人を生むことなく、繁殖せず死んでいく町だったんだ。商人は、肉体労働しなくてよかったけど、江戸で流行の文化に触れ楽しく暮らせたけど、日々の仕事に忙殺され、年取っても結婚できずに、家族も持たずに消えていくって消滅パターンが多かったみたい。徳川は江戸という都市とそこで働く商人を人口抑制の仕組みに使っていたんだ。一番上の侍だって、本家じゃなかったら、家を持つことが出来ないから、そのまま途絶える、人口抑制の道具にされていたみたいだね。江戸は人口のゴミ箱だったんだ。農業やってる生産者だけが、自分以外の知らない人を養う米まで作らされているけど、結婚したり、子供生んだり、生き物としてまともな生活を許されていた。一部の権力者だけが、完全に幸福で、大多数が、何か、足らない状況に陥っていた。今の俺らと同じだろ?それに言い方を変えれば、士農工商の順番って、社会を安定させる順位でもあるんだ。文化、武力が一番上、次に食い物、つぎに家とか道具などの生活必需品、最後にお金。うまく出来ているよ。もし、これがお金が一番上だったら、社会は荒れていたよ。食をもっと後回しにしていたら飢えがでて、やっぱり社会は荒れる。でも食を一番にすると、豚小屋のような社会になる。それに消費者が知識と権力を持ったほうが、社会が引き締まるよ。生産者が謙虚でまじめになるからね。」
茶谷は江戸時代の消費者のことを説明しながら、何か、自分に対する大きな言い訳をしているようで、その恥ずかしさに苛立っていた。それを説明させた藪下に対しても怒りにも似た感情を勝手に抱き始めた。そんなの常識と涼しげに聞き入る池上に対しても裂き殺したいほどの激しい衝動を覚えたし、説明に必死に追いつこうとしている百地の理解の遅さも気に入らなかった。タチバナはじっと聞いている様子だったが、それがフリであることは茶谷にはすぐに分かった。実際、タチバナは学生時代に勉強をおろそかにしたため、士農工商という制度さえ知らなかったので、茶谷のいうことは全く理解が出来なかった。団員たちは理解している、しかし自分は、働いたこともあるし、会社で役員さえしたことのあるのに、無職の連中の会話に着いていけない。タチバナはそれに対して猛烈に腹が立ってきた。自分が働いているうちに、回転する旋盤に向かっているうちに、あいつらはテレビでも見て教養を深めたのだろう。それによって、優越感さえもっているのだろう。働きもしないで、侍を名乗るなんて、おかしいじゃないか!タチバナの苛立ちは眉間に表れ、茶谷はそれが一番気に入らなかった。知らなくて、理解してなくて、自分以外に勝手に腹を立てている人間、見ていて気が滅入る。が、それは、社会の生産を経験することなく、世間知らずで、開き直ったように消費者であろうとする自分に重なり、見ているだけでも、そのいやったらしさ、惨めさ、恥ずかしさ、間抜けさ、考えられるあらゆる負の感情が爆発しそうで、みるみる血圧が上昇した。内部では爆発が起こったように心拍数が上がる。不思議なもので怒りの雰囲気は伝染しやすく、一見、感情は平坦なまま会話が進んでいるようだが、藪下、タチバナの二人もそれぞれの理由で、いつの間にか溜まった不満が煮えくり、意味もなく苛立ち、当たり前のように怒りを帯びていた。逆に百地は長く消費者を続けた人間の焦りや苛立ちが茶谷たちから靄のように発せられていることに気が付いており、両親に感じた寂しさを感じており、一方で池上は雰囲気の悪さのようなものをなんとなく感じていたが、それが消費者特有の苛立ちとは気が付いてなく、ただ、アメリカ批判という意味の無い話の流れが良くないものだと思い始めていた。
 「・・まあ、アメリカのことは置いといて、ベーシックインカムの話をしよう。政府公認の消費者優先時代が来るよ。官僚も馬鹿じゃない。早く導入すればいいのに。そうしたら生活補助のために色々と嘘付かなくても良くなる。大手を振ってもらえるわけだから、やましさないし、消費者のモラルの改善につながる。」
 池上が会話を変えようと努力してみた。小さな声だったが、茶谷は聞き逃さなかった。
 「ベーシックインカムって、無産階級の為の「パンとサーカス」だろ?そんなのやったら、みんな堕落するよ。一億総消費者になって、生粋な消費者である我々の優越感が無くなる。高みの見物が出来なくなるんだ。それに、貰う金額減るし。」
 茶谷は冷静さを失っていた。そこには消費者団の哲学などそこには既になかった。自分さえ楽に、他人は苦痛にまみれろ。池上は自分勝手な意見をおおっぴらに言う茶谷に本当のダメ人間の姿を見た気がした。
 「・・でも団長、ベーシックインカムって恐慌から逃げるための暴力的ではない唯一の方法ですよ。それを否定したら消費者団の意味がない。」
 池上の指摘に茶谷は我に返った。苛立ちによる高ぶりから身も蓋もない本音を言ってしまい恥ずかしい思いをした。
 「あのう、博士、ベーシックインカムってなんですか?」
 百地が雰囲気の悪さを承知で、恐る恐る藪に入るみたいに初めて聞く言葉の意味を尋ねた。藪下は意味を知っていたので、今さら何をという感じで苛立ったが、タチバナはベーシックインカムなんて言葉を聞いたことが無く、解らない言葉でやり取りされる様子に不安と苛立ちを覚えていたので、百地が尋ねたことに藪のトンネルから顔をだす隙間を見つけた気がした。
 「・・ベーシックインカムっていうのは、最低限の収入のことで、国がお金をみんなに配ることなんだ。最低限の収入、それを国が保障する。そうなれば、国民すべてが消費者として優遇されることになるんだ。これは消費者が生産者に勝ったことを意味する。消費者団の希望が達成されることになるんだ。そうなれば、ももやんのお母さんも母子手当を期待して離婚する必要がなくなるし、お父さんも一緒に暮らせる。僕だって精神科に通って頭がおかしくなったフリをしなくて済む。支給金額は減るけど、やましさだって減るんだ。日陰者から解放されるんだよ。」
 池上はぎこちなく笑顔を作りながら、ぼそぼそと百地に語る。耳を澄ませて聞いている百地は砂漠でオアシスを見つけたように目を輝かせた。
 「そんなすごいことが起こっているの!すごいなあ。僕はね、小さいころからアニメや漫画を見て思っていたんだ。ロボットとかが進化して、便利になって、そのうち、人間は働かなくても良くなるってことを。絵を描いたり歌を歌ったりして仕事をせずに暮らせる日が来ると信じていたんだ。だって、その為に進化しているんでしょ?それに、お母さんもロボットが入ったから仕事が無くなりリストラされたりしていたから、もしかしたら、仕事はロボットがして、人は働かなくてもいい時代が本当に来るんじゃないかと思っていたんだ。でも、そのとき、お金はどうするんだろうって不思議に思っていて、でも、その答えは、偉い人達が考えていたんだね。みんなが楽しく暮らせるようにって考えてくれていたんだね。それって、いつなるの?楽しみだなあ。」
 「無理だなあ。絶対無理だよ。ベーシックインカムなんて不可能だよ。」
 間髪入れずに意地悪に茶谷が返した。百地の顔が悲しそうに曇った。茶谷の血走ったケンカ前の猫のような目つきを見て、中学生の頃、執拗にいじめてきたクラスメートのことを思い出した。百地はブカブカの制服を着て、ただ座っているだけなのに、いきなり頭を叩いてきて、止めてほしいと意思表示しようとしたら、その道を更なる暴力で塞ぐ。どうすれば許してくれるのだろうかと考えたが、何も悪いことをしていないのだから、許すも許さないもなくて、ただ、嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。何も出来ない辛さだけが残る。まるで人がいる世界から取り残されるような寂しさを感じた。相手に憎しみはあったが、憎んだところで終わりは見えない。
「そうだろうね、無理でしょうね、そんなの無理ですよ。だいたい、国に、そんなお金ないでしょ!会社でも税金払っていたけど、赤字だったら払わなくてもいいし、払わないようにしていたし。あんたらみたいに働きもしない連中に無条件でやる金はないよ。」
タチバナが勝ち誇ったかのように茶谷の意見に同調した。タチバナは茶谷に対して働いたこともないくせに生意気言うなと言わんばかりの横柄な態度を取った。公民館のヒンヤリとしたロビーの空気がいつの間にか湿気と熱気を帯びてきた。不快に空気がまとわりついてくる。ここで誰かが冷たいものでも飲もうと提案すれば、空気は、その緊張を緩めることが出来ただろうけど、ここにいる全員が固まった空気の粘度に捕らわれ、蜘蛛の巣に引っかかったハエのように身動きが取れず、狙われる恐怖と苛立ちに耐えられない緊張感を高めていった。
「おい、タチバナ、なに偉そうに言っている。おまえ、ベーシックインカムの意味、今知っただろ?それを何勝ち誇っているんだ?ああ?お前は何にも知らないで、何かをしているつもりで、何もしてなくて、負債だけ背負いこまされて、ああ?お前、底抜けの馬鹿だろ!人生かけて狭い範囲でグルメリポートでもやってろ!間違いなく、お前はいらない人間だ。」
怒りに満ちた大声が上がった。苛立ちが限界にきた。緊張がこれ以上なく腫れ上がり、不意に茶谷の怒りが爆発した。特定の相手に対してではないが、自分を含めるすべてに対しての訳の分からぬ怒りだった。何か自分を苦しめている存在がいる。そいつが憎かった。黒い鳥の視線に疲れ果てていた。誰かが監視して抑え込もうとしている。そうとしか思えない。それが誰なのかは解らなかったが、我慢の限界だった。一度放出したものは元には戻らない。
「ああ?ダニ!何言ってんだ?気に入らないんだよ。何が消費者団だ!働きもしない馬鹿の集団じゃないか!藪下が言うように、俺は反消費者同盟を今から始めるよ。消費者団をぶっ壊してやる。俺はなあ、専務やってたんだ!」
タチバナは立ち上がり、怒りに歪んだ顔で牙を剥いたように凄んで見せた。それからしゃがんで金属バットを拾おうとした。しかし、床下に置いた金属バットはケースに入っていて、うまく取り出せなかった。茶谷は怒りに対して怒りを持って身構えていた。池上は大声に恐れて半分立ち上がり逃げる用意をしていた。百地は、自分が原因で騒動が起こったことに対して泣きそうになっていた。手間取るタチバナに藪下はポケットから改造銃を取り出し、銃口を頭に突き付けた。
「お前、馬鹿だろ?ああ?同盟って一人じゃできない。わかるか?それになあ、イラついても、行儀悪いのは、俺は許さない。気に入らない。そういう客は、殺したい。客は、消費者は、優良でなくては、ならない。わかるか?」
藪下は洋菓子チェーンで店員をしていた。女の子と話がしたかったから勤めていたが、誰からも相手にされず、行儀の悪い客が来た時だけは男という理由だけでカウンターに引っ張り出されていた。大声出して自分の正当性を暴力的に押し付けてくる客に無限の謝罪を要求され精神的に壊れてしまい、終には精神に異常をきたし、ぶつ切りの会話しかできなくなり、退職した。だからいきり立つ人間が嫌いで、そういう人間を殺傷するために改造銃造りを極めていった。しかし、いざ突き付けた銃の引き金を引くとなると、胃袋の下あたりが重く、残り物のケーキを食べすぎた時みたいに胸が悪くなった。設計は完全だった。引き金のカーブは指に密着し、直径六ミリの鉄の弾は指先ひとつで、殺傷能力を持って飛び出す用意はできていた。しかし、いざ、人を殺すとなると藪下は躊躇した。
「藪下、おまえ、まだ、後の事とか考えているのか?そんなことだから消費者団なんてくだらないとこに所属してんだよ。社会に未練なんてもつなよ。」
タチバナは藪下の銃を払いのけると金属バットを足元から拾い上げ、いたって冷静に縮めた膝を飛び上がるように思い切り伸ばし、金属バットを両手にしっかりと握りしめ、藪下の顎を目がけて勢いよく突き上げた。ロケットのように発射されたバットの先は見事に藪下の顎を捉え、突き上げ、卵が割れるような音を立てて、破壊した。一瞬、藪下の長細い顔はひしゃげ、絵の具の赤色チューブを潰したように口から歯と血が飛び出した。藪下は仰け反り、ゆっくりと前に戻ると同時に口をだらりと開けた。真っ赤な血が噴き出た。すっぱりと舌が千切れていた。激しい痛みが藪下を襲うが、痛みというより、感じたことが無いような痺れを口に感じていた。血を止めようと手で押さえてみたがヌルヌルと血は止まらず、その両手を見て、藪下は死を身近に感じてパニックを起こした。血まみれでロビーをのた打ち回る藪下、リノリウムの床は筆で書き乱したかのように擦れた赤が広がっていく。血まみれの藪下を見て、茶谷は怒りが引いて、徳三のとは違う死の恐怖を感じた。キンキンと金属音が頭に響き、恐怖で心臓が破裂しそうになっていた。痺れが全身を侵食していく。ふっと視線を逸らすと足元に藪下が落とした銃が転がっていた。急いで拾い上げるとポケットにしまった。金属の重量感がポケットを撓ませ、存在感のある重さに冷静さを少しだけ貰えた。
「やめろよ!」
百地の上ずった声が公民館のロビーに響いた。その声はタチバナの胸に刺さるように響き、十分に驚かせたが、逆上したタチバナにとっては火に油を注ぐことになってしまった。
「うるせえぞ!クソちび!」
タチバナは無限の力を感じていた。血が沸いて、筋肉は引きつり、体中がギシギシと痛みを感じているようだった。溜まりたまった苛立ちと怒りに火がついて、必要な酸素が足りなかった。口を歪ませて開けて目を釣り上げていた。鬼の形相だが、胸に砂が詰まる苦しみが重く、感情を暴れさせておかないと、自らの熱で蒸発しそうだった。もう我慢することは無い。金属バットをふりあげると、怯える小動物のような百地の頭めがけて思い切り振り落とした。ヒュンとバットが空気を裂く音を上げ、すぐにカボンと水中で大きな石同士をぶつけるような音がした。百地の頭が事故に遭った車のバンパーのようにべっこりとへこみ、破けた頭の皮の隙間から血が吹き出た。ケチャップまみれの小さなひよこ、百地は口を金魚のようにパクパクし、最後の酸素を吸おうと必死だった。
茶谷は危険が、死が近づいているのにも関わらず、怒る人間の暴力、殺された人間の流れる血、日常が破壊される様子を見て、残酷な漫画を見たように、興奮し、見入ってしまった。見てはいけないとは思っていたが、どうしても目が離せなかった。白いリノリウム張りの床に散った血しぶき、広がるどす黒い血溜まり、流血の中で、首を切られた鶏のように激しくのた打ち回る血まみれの藪下、頭がすっかり変形した残酷な蝋人形のような百地。まさに地獄絵図。おぞましい顔をしたオニが金棒を持ってこっちを睨んでいた。息が詰まるほどの暴力が剥き出しの絵の中に、捕らわれたい衝動が湧く。殺してほしい。茶谷は酔ったようにそう思った。足から力が抜け、心臓が裏返ったように切なく苦しい。当たり前のように血の池地獄に吸い込まれていく。
「団長、早く逃げよう!」
今まで聞いた一番大きな池上の声が響いた。それでも茶谷は、二日酔いの朝の寝起きのように頭が覚めてなかった。
「えっ、何?」
池上は茶谷の手を引いて、黒い革張りの長椅子を蹴飛ばして、大きな左右に開くガラスドアの入り口に向かって走り始めた。池上と茶谷が逃げる背中を見て、潰し損ねた虱を見つけたようにタチバナが金属バットを振り回して追いかけてきた。池上はガラス戸を開き、公民館の外に出た。外の光は眩しく、一瞬世界が真っ白に消滅した。しかし、池上は怯むことなく、活路を見出そうと、光の中に茶谷の腕を引っ張り飛び込んだ。が、茶谷は腑抜けて、閉まるドアに引っかかった。勢いで手が離れた。閉じるガラスドア、残される茶谷。迫ってくる返り血浴びた鬼のようなタチバナ。ひん剥かれた目は茶谷を睨み、金属バットは軽々と振り上げられた。
「殺してやる!」
おぞましい声とともに金属バットが振り下ろされた。茶谷はその声に驚き足を縺れさせ、その場にへたり込んだ。寸前で金属バットは茶谷の頭を捕らえることが出来ずに窓ガラスを砕いた。ガシャンと壊れる音が真上で弾けた。茶谷は見上げた。金属バットがガラスを破って橋のように外の世界に一直線に伸びていた。雨のように煌めくガラスの破片が体中に散らばっていった。茶谷は体制を立て直すべく瞬時に中腰になるとタチバナに向かってミサイルのように飛び出してタチバナを突き倒した。簡単に突き飛ばされたタチバナは床に叩き付けられ、金属バットが派手な音を立てた。ロビーに響く金属バットが転がる音、その音が消える前に茶谷は割れたガラス戸を開けて外に飛び出した。眩しすぎる外の世界は、目を眩ませ、太陽の光は目の奥まで焦がした。その刺激が新鮮だった。視界は思ったよりも早く一瞬で回復した。目の前には池上が焦った顔して立っていた。待っている人が池上であることに、何か違う気がしたが、誰もいないよりましだった。
「団長、大丈夫ですか?」
「ああ、それより走るぞ。」
「どこまで?」
「生き残れる場所まで。いくぞ!」
言い終わる前に二人は走り出していた。公民館を出ると、山の中腹を削り南斜面に造成された住宅地が一面に並び、色とりどりの屋根が太陽の光を浴びて強い光を反射していた。住宅地の向こう、眼下には灰色の街が広がり、その向こうには海が青く広がっていた。左手には普通科の高校が建っていて、グランドには体育の授業を受けているジャージ姿の学生たちが茶谷たちとは無関係な世界でトラックを走っていた。茶谷はそれを見て文句を言いたくなったが、目の前にはずっと下の街まで伸びる乾いたアスファルトの坂道が白く焦げて伸びている。アスファルトは古びて風雨にさらされ、タイヤに踏みつけられ、油が抜け切り、白けて弾力を失っていた。硬くなった道路は駆け下りる膝にハンマーで打つような衝撃を加えた。膝をガクガクさせながら茶谷は白く眩しい学校の弾力あるグランドで一列になって走る学生達を見て、自分が失ったものを何となく理解した。もう、それは取り戻すことは出来ない。それが悔しかった。後悔を振り払うように前を向き、池上と共に昼間の硬い坂道を空気を掻き分け飛ぶように駆け下っていく。池上は作成した時速十五キロ出るミニ四駆とどっちが速いか揺れる視界の中で考えてみた。もしかしたら、追いつけるかもしれない。普段運動なんてしない池上にとっては全速力で坂道を駆け下りるのは苦行だった。心臓が喉元まで競りあがり、酸素は消滅し、額や背中から大量の汗を滲ませていた。百メートル下ったところで左に折れ曲がった。曲がり角を曲がり住宅の塀に身を隠し、そっと、もと来た坂道を覗いてみた。
「はあはあ、タチバナ、出てきて無いじゃん。はあはあ、博士、戻ってみるか?」
「・・・・はあはあ、無理だよ。もう、走れないよ。団長、もう三百メートル下ったら警察署があるから、行きましょうよ。あそこなら大きいから刑事とかもいるだろうし。」
「でも、駆け込んだら、俺達も調べられるぞ。面倒なことになる。」
「別に面倒なことは無いでしょ?こっちは被害者でしょ?行かないと、タチバナに殺される。あいつ、マジだよ。大佐、ももやん、殺したんだよ。早く行こう!」
茶谷は警察には行きたくなかった。警察に行けば、住んでいるアパートを聞かれ、身元引き受人としての同じ建物に住む祖父・茶谷徳三の存在が浮き出てくる。無職の殺人事件と老人の死体遺棄事件、二つの事件に関連性は無いが、茶谷は二つの事件に関連性を持っている。判明すれば、黒い鳥の集団が一気に襲ってくる。
「駄目だ、黒い鳥が見ている。」
「・・・団長、いいかげんにしてよ。黒い鳥なんて、いませんよ。あるのは監視カメラでしょ?」
「黒い鳥は、監視カメラじゃない。そうじゃない。黒い鳥が少ない大きい国では、失敗すれば、次の大地を目指せるけど、黒い鳥だらけの狭い日本では、無理なんだ。逃げることが出来ない。一度失敗したら、取り返しが出来ない。「末代までの恥」になるんだ。タチバナはもう終わった。あいつは破産したし、人も殺した。秩序を守る黒い鳥にばっちり見られたから、もう終わった。警察に行けば、俺も黒い鳥の餌食になる。終わってしまう。」
「団長、終わるって、まだ始まっても無いでしょ?僕は警察に行きますよ。」
池上から映画「キッズリターン」のマサルの名セリフを言われて驚いた。池上とマサル、あまりにも役者が違うので、茶谷は思わず大笑いしてしまった。腹を抱えて高らかに笑い声を五月の日差しが照りつける真昼の静かな住宅街に響かせた。呼吸と笑いが重なるぐらい笑いが止まらなかった。
「駄目だ!」
池上の大声が上がった。振り向くと返り血に塗れたタチバナがすぐ近くまで迫っていた。タチバナは、苛め抜かれた野犬が反撃に転じるような鋭い目つきで、温かい日差しの中、一人、周囲の温度を下げようとしていた。茶谷は目が合ったとたん、笑いを、笑い方をトランプの大事なカードを抜かれたように奪われてしまった。笑いが消えると、寒気が訪れた。目前まで迫ったタチバナが雑音のような雄たけびを上げて走りながら金属バットを振り下ろした。バットは空を切り、住宅の外壁にキャンと高い音を立てて打ち付けられた。その衝撃にタチバナはバットを手放した。茶谷は急いで金属バットを拾うと、道路を挟んで向かい側の白い壁のモダンな新築の家に投げ入れた。金属バットは回転しながら宙を舞い、リビングの大きな羽目殺しのガラス戸をガシャンと破った。タチバナはもがれた腕が投げられたように焦り、体の一部となった金属バットを取り戻すべく、垣根を飛び越えてガラスの割れた家に入っていった。坂を上る低いディーゼルエンジンの唸りが響いた。ちょうどそこへバスが通りかかった。バスの運転手も何か気が付いたのか乗客が三人しかいないバスを止めた。すぐに扉が開かれた。茶谷は当然のようにバスに乗り込んだ。
「金属バットを持った異常者に追われています。すぐに離れてください!」
制帽を被った四十代の運転手、上山はいきなりの茶谷の訴えに一瞬戸惑ったが、ダイヤを崩すわけにいかないので、何事も無かったようにすぐにバスを出発させた。上山は気になったのでバックミラーを覗いてみた。そこには赤いペンキが散ったようなタチバナが金属バットを持って立っていた。見たけど、見えなかったことにしよう。離れれば、普通に運行すればいい。問題は誰かが始末するだろう。上山はそう自分に言い聞かせ、アクセルを踏んだ。距離が離れた分だけ関連性が薄れていく。
池上はすでに坂を百メートルほど駆け下りていた。池上はうさぎとかめの話を思い出しながら「立ち止ったら追いつかれる。」と一人自分に言い聞かせながら、住宅地の坂道を懸命に駆け下り、息も絶え絶え警察署を目指した。茶谷が乗ったバスが走り出し、坂道を下る。窓際に座った茶谷は髪をなびかせ跳ねるように坂道を下る池上に手を振りながら見送った。池上も茶谷がバスに乗っていた姿を見つけ安心した。池上は走りながら笑顔で手を振った。茶谷は何本もの色とりどりのカラーテープが舞う船の別れの見送りを思い出した。池上がどんどん小さくなっていく。もう帰れない気がした。池上は見えてきた警察署前の停留所でバスが止まりバスから飛び出た茶谷が一足先に警察署に飛び込むのかと思っていたら、バスは警察署を急行列車のように通り過ぎて小さくなっていった。五月の暖かい日差し、希望にあふれる新緑の風を浴びて走りながら、池上は、結局、消費者団の消費期限がとっくに切れていたことに気が付いた。
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