第一幕第四場

文字数 1,144文字

(淡々と)先生。私は、鬱[うつ]ではないんです。先生に診ていただくよう、妻にしつこく言われましてね。抵抗するのも疲れるから、こうしてうかがっているだけなんです。――ええ、そうでしょうね。鬱の人間に限って、自分では鬱ではないと、言うものなんでしょうね。自分のことは自分がいちばんよく知っているなどというのは、幻想でしかない。そのとおりです。ですが、それでも私は、本当に、鬱では、ないんです。


何からお話ししたらいいのか。

間。
花にね。水をやっていたんですよ、毎朝。これくらいの鉢が(大きさを手で示す)いくつかありましてね。それに、水を。

窓がない部屋なんですよ。日も射さない、風も入らない。朝、私が、蛍光灯と空調のスイッチを入れるんです。帰るときにスイッチを切ってふり返ると、真っ暗で、しんとして、何もない。そんな部屋です。

二十三年間、勤めた会社でした。

そのあげくに、与えられた仕事が、花の水やりです。


はじめは新聞の切り抜きをさせられました。部屋にも〈資料室〉という札がかかっていてね。ある日それも撤去された。棚のファイルも、机も、何もかもね。〈資料室〉が〈会議準備室〉になった。〈会議室〉じゃない、〈会議準備室〉ですよ。それから、花です。

私はずっと、いわば、地味な畑を歩いてきました。経理とか、在庫管理とか。おとなしい目立たない人間ですよ、ご覧のとおり。それでもね。生涯に何度かは、それこそ清水の舞台から飛び降りたつもりで、上司に口をきいたこともありましたよ、ちがうんじゃないかってね。その結果どうなったか。おわかりでしょう。いつも同じだ。まず、あたりがしんとする。それから、気持ちの悪いひそひそ話やくすくす笑いがさざ波のように広がる。そして声が響く、「他に何かご意見はありませんか」ってね。だから、私が、今、言ってるじゃないですか。この国の人間の得意技ですよ。無視する。何事も、なかったことにするっていうのは。

本当に、人を殺すのに、刃物は要りませんね。無視すればいい。最初からいなかったことにすればいいんです。いっそクビにされたほうがまだましだ。拷問ですよ。私が自分から辞表を出すのを、待っているんだ。
間。
花がね。ある朝、みんな枯れていたんです。あれですね、花っていうのは、水をやりすぎてはいけないんだそうですね。根っこが腐ってしまっていた。やり場に困って、給湯室へ持って行ったら、アルバイトの女の子に笑われましたよ。ヒグチさん、毎日お水あげてたでしょ。真面目すぎですよ、ってね。しばらくその腐った鉢植えを見ていたら、こちらまで、なんだか、笑いがこみあげてきましてね。水さえやっていれば花は咲くものだとでも、思っていたんでしょうかね、私は。(ふっと笑う)
ゲン、消える。
ハツ、浮かび上がる。
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登場人物紹介

リキ(力) 若い男。

タカ(高) 若い男。リキの「同居人」。

ゲン(源) 若くない男。タカの「客」。

ハツ(初) 若くない女。ゲンの妻。

ナツ(夏) 少女。

リキ&タカ(二人同時に)

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