第6話 目白台の激坂、下から見るか?上からみるか?
文字数 2,531文字
ある春の日のことであった。
東京メトロの江戸川橋駅で下車した僕は、西早稲田方面に向かって神田川の遊歩道を取り、そして〈面影橋〉に至った。そこで、この小さな短い橋にまつわる「山吹の里の伝説」や「面影橋の由来」に関する看板に目を通した後で、右手側の神田川の桜を眺めながら、新目白通りを通って、さらに、明治通り方面に向かって歩を進めたのだった。
神田川には幾つもの短い橋が架かっていて、面影橋からすぐ近くにも曙橋という小さな橋があり、僕はその短い橋を渡ってみることにした。
それから、左手側の神田川を眺めながら、遊歩道を進んでいったのだが、その歩道は明治通りにぶつかった所で行き止まりになっていた。そこから引き返した僕は、曙橋に至る前で道を左折してみることにした。そのまま直進した結果、そこに見えたのが急勾配の坂道であった。
江戸川橋駅の近く、その江戸川橋と護国寺を結んでいる音羽通り、その通りと明治通りの間を走っている新目白通りや神田川を左手にすると、その逆側、右手に在るのは椿山荘や肥後細川庭園である。その広大な緑地を間に挟み、神田川と並行に走っているのが目白通りで、その通りに隣接している地区が〈関口台〉や〈目白台〉である。
この「台」という名称が示しているように、この辺りは高台になっている。たとえば、雑司ヶ谷の付近の目白台三丁目の海抜は三十一メートルもあり、神田川から目白台に赴こうとする場合、必然、その道は坂となる。
事実、神田川と目白台の間には何本もの坂道が走っており、この目白台付近は東京都内の坂の名所の一つになってさえいる。
たとえば、肥後細川庭園と椿山荘との間の坂道は〈胸突坂〉と呼ばれている。
実は、都内には幾つもの胸突坂が存在しているらしいのだが、『江戸の坂 東京の坂』という書物によると、「胸突坂は急坂を上ってゆくときの格好から名づけたものらしく(p. 52)」とあり、すなわち、この坂の名称は、坂が膝を胸に突きながら上る程の急勾配であることに由来しているのだ。
また、「江戸時代から冨士見坂という名称を持った坂が、今でも東京の各所に存在(p. 56)」し、〈冨士見坂〉という名の坂は他にも数多く存在するのだが、たとえ今現在、その坂の上から富士山が見えなかったとしても、かつてそこから富士山が見えた事実からその名は来ているそうだ。そして豊島区高田一丁目と文京区目白台一丁目の間にも〈冨士見坂〉という急坂がある。ちなみに、その冨士見坂からは、〈日無坂〉という階段坂が分岐しているのだが、江戸時代から存在する日無坂の名は、樹々が生い茂っていて、そのため日中でも日が当たらないことから来ているらしい。
そのすぐ近くに位置しているのが、目白台の〈稲荷坂〉である。この坂には小さなお稲荷様の社が隣接しており、坂の名はこの社に由来しているらしいのだが、この坂を下り切って、神田川を渡り、さらに新目白通りを渡った所には、甘泉園公園と水稲荷神社があり、稲荷坂の名は、もしかしたら、この水稲荷神社とも関連しているのかもしれない。
そして、明治通りから音羽通りの間を走る何本もの目白台の坂の中でも、明治通りに最も近い所にあり、もしかしたら最も有名なのが、東京メトロの雑司ヶ谷駅三番出口を出て、目白通りを渡った所に位置し、豊島区高田二丁目の十七番と十八番の間を走っている、僕が先ほど目にした急坂で、実は、この坂は東京都内の中でも最も急勾配の激道の一つとしてもその名を馳せている。
一般に、十パーセントを超える斜度の坂道は、ヒルクライマーの間では激坂として制覇すべき坂道の一つに数え上げられるのだが、この雑司ヶ谷の坂の斜度は最大十三度(二十三パーセント)を誇っている。
そして、この激坂は〈胸突坂〉と呼ばれることもあるそうだ。ここで再び、『江戸の坂 東京の坂』を参照してみると、「昔から坂の名というものは、一般には、長い坂だから長坂、大きい坂だから大阪と簡単に名づけられたもので(p. 53)」とあり、さらに著者は、「江戸時代の坂で急坂を意味する坂の名としては、いちばん多いのは高坂(たかさか)で、つぎは胸突坂である(p. 53)」と説明している。つまり、坂の呼び名とは、江戸時代には、固有名詞というよりも、その性質に基づいた、単なる呼称に過ぎなかったようだ。さらに、その少し先を読み進めてみると、江戸っ子たちは急な坂を下るのを避ける傾向があるらしく、それ故に「江戸には上るときの坂の名、胸突坂だけで、下るときの坂の名はない」と書かれている。
要するに、少なくとも江戸時代においては、上る時に膝に胸を突くほどの急な坂の多くは〈胸突坂〉とのみ呼ばれていたということになる。
そして、雑司ヶ谷駅に隣接した坂もまた、その急勾配ゆえに、〈胸突坂〉という別称があるという。しかし、「別称」ということは、他の通称もあるということで、再確認になるが、肥後細川庭園と椿山荘の間の階段坂が今現在〈胸突坂〉と呼ばれていることをここで思い出したい。つまり、位置的に近いこの坂との区別のために、雑司ヶ谷駅の激坂の方は、違う名で呼ばれる事が多いらしいのだ。
その名も〈のぞき坂〉だ。
この名の由来は、坂を下る時に、あまりにも急勾配であるために、恐る恐るのぞき見することに由来していると言う。
江戸時代には、急な坂を下ることを避ける傾向があり、それ故に、下り坂の通称の方は確認できないのだそうだ。それでは、〈のぞき坂〉という名称が、一体どの時代の何時頃に出現したのか、それに関しても是非とも知りたいのだが、その問題はひとまず括弧に入れておくとして、激坂を言い表わすのに、上る時は胸を突くから〈胸突坂〉、下る時には恐る恐る覗き見するから〈のぞき坂〉と名称が変わることに着目したい。
一つの坂を下から見るのか上から見るのかによって名称が変わるのは実に興味深い、と思う僕であった。
<参考資料>
<WEB>
「資料編」,『文京区』,二〇二一年五月三十一日閲覧.
「坂を巡る」,『豊島区』,二〇二一年五月三十一日閲覧.
<文献>
横関英一『江戸の坂 東京の坂(全)』,東京: 筑摩書房,2010年,522頁.
東京メトロの江戸川橋駅で下車した僕は、西早稲田方面に向かって神田川の遊歩道を取り、そして〈面影橋〉に至った。そこで、この小さな短い橋にまつわる「山吹の里の伝説」や「面影橋の由来」に関する看板に目を通した後で、右手側の神田川の桜を眺めながら、新目白通りを通って、さらに、明治通り方面に向かって歩を進めたのだった。
神田川には幾つもの短い橋が架かっていて、面影橋からすぐ近くにも曙橋という小さな橋があり、僕はその短い橋を渡ってみることにした。
それから、左手側の神田川を眺めながら、遊歩道を進んでいったのだが、その歩道は明治通りにぶつかった所で行き止まりになっていた。そこから引き返した僕は、曙橋に至る前で道を左折してみることにした。そのまま直進した結果、そこに見えたのが急勾配の坂道であった。
江戸川橋駅の近く、その江戸川橋と護国寺を結んでいる音羽通り、その通りと明治通りの間を走っている新目白通りや神田川を左手にすると、その逆側、右手に在るのは椿山荘や肥後細川庭園である。その広大な緑地を間に挟み、神田川と並行に走っているのが目白通りで、その通りに隣接している地区が〈関口台〉や〈目白台〉である。
この「台」という名称が示しているように、この辺りは高台になっている。たとえば、雑司ヶ谷の付近の目白台三丁目の海抜は三十一メートルもあり、神田川から目白台に赴こうとする場合、必然、その道は坂となる。
事実、神田川と目白台の間には何本もの坂道が走っており、この目白台付近は東京都内の坂の名所の一つになってさえいる。
たとえば、肥後細川庭園と椿山荘との間の坂道は〈胸突坂〉と呼ばれている。
実は、都内には幾つもの胸突坂が存在しているらしいのだが、『江戸の坂 東京の坂』という書物によると、「胸突坂は急坂を上ってゆくときの格好から名づけたものらしく(p. 52)」とあり、すなわち、この坂の名称は、坂が膝を胸に突きながら上る程の急勾配であることに由来しているのだ。
また、「江戸時代から冨士見坂という名称を持った坂が、今でも東京の各所に存在(p. 56)」し、〈冨士見坂〉という名の坂は他にも数多く存在するのだが、たとえ今現在、その坂の上から富士山が見えなかったとしても、かつてそこから富士山が見えた事実からその名は来ているそうだ。そして豊島区高田一丁目と文京区目白台一丁目の間にも〈冨士見坂〉という急坂がある。ちなみに、その冨士見坂からは、〈日無坂〉という階段坂が分岐しているのだが、江戸時代から存在する日無坂の名は、樹々が生い茂っていて、そのため日中でも日が当たらないことから来ているらしい。
そのすぐ近くに位置しているのが、目白台の〈稲荷坂〉である。この坂には小さなお稲荷様の社が隣接しており、坂の名はこの社に由来しているらしいのだが、この坂を下り切って、神田川を渡り、さらに新目白通りを渡った所には、甘泉園公園と水稲荷神社があり、稲荷坂の名は、もしかしたら、この水稲荷神社とも関連しているのかもしれない。
そして、明治通りから音羽通りの間を走る何本もの目白台の坂の中でも、明治通りに最も近い所にあり、もしかしたら最も有名なのが、東京メトロの雑司ヶ谷駅三番出口を出て、目白通りを渡った所に位置し、豊島区高田二丁目の十七番と十八番の間を走っている、僕が先ほど目にした急坂で、実は、この坂は東京都内の中でも最も急勾配の激道の一つとしてもその名を馳せている。
一般に、十パーセントを超える斜度の坂道は、ヒルクライマーの間では激坂として制覇すべき坂道の一つに数え上げられるのだが、この雑司ヶ谷の坂の斜度は最大十三度(二十三パーセント)を誇っている。
そして、この激坂は〈胸突坂〉と呼ばれることもあるそうだ。ここで再び、『江戸の坂 東京の坂』を参照してみると、「昔から坂の名というものは、一般には、長い坂だから長坂、大きい坂だから大阪と簡単に名づけられたもので(p. 53)」とあり、さらに著者は、「江戸時代の坂で急坂を意味する坂の名としては、いちばん多いのは高坂(たかさか)で、つぎは胸突坂である(p. 53)」と説明している。つまり、坂の呼び名とは、江戸時代には、固有名詞というよりも、その性質に基づいた、単なる呼称に過ぎなかったようだ。さらに、その少し先を読み進めてみると、江戸っ子たちは急な坂を下るのを避ける傾向があるらしく、それ故に「江戸には上るときの坂の名、胸突坂だけで、下るときの坂の名はない」と書かれている。
要するに、少なくとも江戸時代においては、上る時に膝に胸を突くほどの急な坂の多くは〈胸突坂〉とのみ呼ばれていたということになる。
そして、雑司ヶ谷駅に隣接した坂もまた、その急勾配ゆえに、〈胸突坂〉という別称があるという。しかし、「別称」ということは、他の通称もあるということで、再確認になるが、肥後細川庭園と椿山荘の間の階段坂が今現在〈胸突坂〉と呼ばれていることをここで思い出したい。つまり、位置的に近いこの坂との区別のために、雑司ヶ谷駅の激坂の方は、違う名で呼ばれる事が多いらしいのだ。
その名も〈のぞき坂〉だ。
この名の由来は、坂を下る時に、あまりにも急勾配であるために、恐る恐るのぞき見することに由来していると言う。
江戸時代には、急な坂を下ることを避ける傾向があり、それ故に、下り坂の通称の方は確認できないのだそうだ。それでは、〈のぞき坂〉という名称が、一体どの時代の何時頃に出現したのか、それに関しても是非とも知りたいのだが、その問題はひとまず括弧に入れておくとして、激坂を言い表わすのに、上る時は胸を突くから〈胸突坂〉、下る時には恐る恐る覗き見するから〈のぞき坂〉と名称が変わることに着目したい。
一つの坂を下から見るのか上から見るのかによって名称が変わるのは実に興味深い、と思う僕であった。
<参考資料>
<WEB>
「資料編」,『文京区』,二〇二一年五月三十一日閲覧.
「坂を巡る」,『豊島区』,二〇二一年五月三十一日閲覧.
<文献>
横関英一『江戸の坂 東京の坂(全)』,東京: 筑摩書房,2010年,522頁.