第十七章 ㉖
文字数 3,318文字
彼と私は、電車に乗って、出かけた。
彼は、言った。
「どうしても、いかないといけない
場所があるんだ。
東京を離れる前に……」
そして、彼は―無職の彼は―、家の近くの
老舗和菓子屋さんで、一番高い菓子折りを
買って。
若い妻の私は、正直、「無駄だなぁ!
節約してヨ!!」と思った。
まだ、どこに行くかは教えてもらえて
いなかったから……。
電車内でも訊いてみた。
「どこ行くの?誰のところ?」と。
でも、やっぱり、彼の答えは、
「着いたら分かるよ」の1つだった。
そして。
辿り着いたのは、東京の一番北の地域。
私自身は、初めてだった、足立区。
足立区の千住北駅だった……。
かなり、ガヤガヤ賑やかだった。
私たちの住んでいた街の最寄りの駅
よりも。
「さて……。ここから、どこに?」と
思う私を横に。
彼は、コートのポケットをさぐって、
メモを取り出して。
そして、彼は、駅前にあった小さな
交番の方を見て、私に言った。
「ちょっと待ってて。
あそこの交番で、行き方訊いてくる
から」と。
そう言う、彼が、右手に持つ真っ白な
メモには、住所と名前が書かれている
のが、分かった。
詳しくは、読み取れなかったけど……。
私は、交番の方へ駆け足で向かう彼を
見ながら、思った。
「知り合いのとこ行くんだよね?
でも、初めての訪問なのかな?」と。
まだ、その時に至っても、私は、彼の
『目的』を全然わかっていなかった。
ただ……寒い。
早く戻って来い、早く行こう……、と。
交番から出てきた彼は、さっきと同じく
駆け足で私のもとに戻ってきた。
ある方向を指しながら、「分かった、
分かった!あっちだって!」と言いながら。
そして。
2人で、私たちは、足立区を歩いた。
あまり良いイメージがない、地区だった。
1人じゃ絶対に来ない……。
横を歩く、彼に訊いてみた。
「ここ、来たことあるの?」
「うん、学生時代、何度かね」
彼は、前を向いたまま、答えた。
思い切って、歩きながら訊いてみた。
「ねぇ。お世話になった先生の家が近くに
あるの?
それとも、学生時代の友達の家?」
もう近くまで来たからなのか、彼は、
何も隠さずに、答えてくれた。
これからどこに、何の理由で行くのかを。
歩を進めながら、彼は、教えてくれた。
つまり、『あの手術室にいた一員』と
して、どうしても、あの親子に、謝罪を
したいんだ……、と。
「それをせずには、愛媛なんかに、
のうのうと、行けないッ!!」
いつになく、熱く、彼は語った。
彼の気持ち、正義心が、伝わってきた。
「この人と、一緒になって、本当に
良かった」
歩きながら、若い私は思った。
駅からは、寒空の下、予想以上に歩いた。
はっきり言えば、思ってた通りの地域
だった、足立区は。
まぁ、そうは言っても、千住北駅の周辺
だけなのだけれど、歩いたのは…。
とにかく、若い私が、「来るような場所
じゃないな」と、「一人じゃ絶対に来ない、
こんなところ!」と思いながら、彼の横に
ピタッとついて、歩いた。
地面も、そして、周囲の雰囲気も汚らしくて
暗い感じの、飲み屋街。
それから、寂れたキャバクラやらスナックの
通。
あと、ソープランドの前を何軒も通過した
……。
それで。
辿り着いた、そのアパートは。
ボロボロの、今にも、そう、強い風が吹いて
きたら、崩れ落ちそうな感じの、
木造二階建て、だった……。
目的は、104号室。
1階の一番奥。
かび臭くて、陰気な感じの通路を、彼の
後に着いて、歩いた。
正直、1人だったら、そそくさと逃げる!
でも。
彼が、目をパチクリさせた。
そして、メモを見て、アパートの入り口の
ところに駆け足で戻って、住所を確認して。
私は、1人、その、104号室の前で、
取り残されたのだけれど、彼が、そうして
いる理由が、分かった。
ボロボロの木製の扉のドアポストの
差し入れ口が、ガムテープで、
封じられてた。
誰でも、一目でわかる。
「もう、ここに、人、住んでないな」って。
私は、チャイムを押そうとしてみたけれど
……。
ボロで、安い、アパートなのだろう。
チャイムさえ、なかった。
「扉を叩くしかないんだ……」
ビックリした。
彼が、やってきた。
「引っ越したのかな?」と言いながら。
私は、「そうだろうねぇ。もう、
この部屋には誰も住んでないねぇ」と
答えながら、念のためボロボロの
今にも壊れそうな扉を、ちょっとは
力を抜いて、遠慮気味に、叩いてみた。
でも、やっぱり、中から、何の反応も
ない。
「あぁ、もういないかぁ……」と、
気落ちする彼。
そう。彼からすれば、ここで、すべての、
手がかかりを失ってしまうことになるの
だから。
それに、時間すらない。
もう、明日は、東京を発つのだから……。
仮に、私たちが、刑事だったら。
隣室の人間―いればの話だけど―なり、
ボロアパートの管理業者―不動産屋―に、
警察手帳を示して、話を聞いて、親子の
引っ越し先を簡単に聞き出せるだろうけど。
そうはいかない。
意気消沈、まさに、絶望的表情をする
彼を見て、私は、周囲への遠慮心などが
一瞬で吹っ飛んでしまった。
まぁ、若かったのもあるし……。
それで、隣、周囲を気にすることを
やめて、まさに、ドンドンと叩くことに
した。
ドラマや映画である、まさに、取り立て屋
級に。
3,4度連続で、強く叩いた。
手が痛くなった。
彼が、「おい、迷惑だから…」と、妻である
私に声をかけてくるのと、それは、同時
だった。
急に、隣の部屋―103号室―の古く、
汚く、今にも壊れそうな扉が、耳が痛くなる
ような音を立てながら、開いて……。
心底、そう、全身から『迷惑オーラ』を
発散させた中年女性が、顔を覗かせた。
明らかに、イラついている感じ。
私たち―いや叩いている私―を胡散臭げに
睨んでいる。
そして、その人は言った。
「うるさいヨッ!
隣は、もう、いないよ!!」
彼が、謝っていた。
「そうですか。
お騒がせして、申し訳ありません
でした」
「静かにしてよ。こちとら、人生で
ただ一つの趣味の読書に耽ってるん
だからさ……」
その人は、ぶっきらぼうに言って、扉を
閉めようと。
彼は、その人に、もう1度、頭を下げて
……。
でも!
私は、気づいたら、声を上げていた。
多分、無意識。
これも、若さゆえ。
「すみませんッ!!
ここの部屋の親子、いつ、出て行った
んですか!?
あと、どこ行ったか分かりますか!?」
その女性は、心底いやいやそうな表情を
浮かべ、そして、心底いやいやそうに
だけど、答えてくれた。
まずは、嫌味を言われたけれど……。
「あんたは、そちらの男性とは違って、
本当、声も態度も行動も騒がしいねぇ。
こんなボロアパートで、そんなこと
したら、全室に響くし、下手すると
壊れるよ、ここは……」
そして、蔑むような視線を104号室に
向けて続ける。
「いつ出て行った?
どこ行った?
そんなの、私が知るわけないでしょう。
あのピーナのお水の女と、その悪ガキ
なんて、いつの間にか、夜のうちに出て
行ってさ、居所なんて、大家さんも、
近くの不動産屋の親父さんも分らなくて
困ってるよ!
本当、外人って言うのはさ……」
そのまま、ブツブツ言いながら、今度は
完全に、扉を、強く―ああ言いながらも
自分は建物全体が壊れるかと思える位に
強く―閉めてしまった。
残された私たちは……。
あまりにも女性が、強く扉を閉めたから、
そのせいで、通路の上のボロ天井から降って
きた、得体のしれない白い粉やら埃に
心底ビックリして…。
若い女の私は一目散に、逃げた。
後から、ゆっくりと、後ろ髪を引かれる
ようにして、彼もトボトボと歩いてくる。
彼の髪の毛について埃やら白い粉やらを
拭い取りながら、私は、彼と一緒に、
最後に見た。
彼が持ってきていたメモ。
そこには、書いてあった。
どうしても、彼が会って、謝罪したかった
親子の名前と住所が。
今でも、思い出せる。
彼の几帳面な字で、書いてあった。
『東京都足立区千住4丁目2番…
松堂アイリーン&覚 』
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