トイレ

文字数 5,332文字

「トイレ」

 最初から嫌な予兆はあった。
 明日から旅行という夜にトイレは突然に壊れた。
 何十年と経つ建物の古いトイレだからいつ壊れても不思議はない。
 でも、だからと言ってそれが旅行前夜であってもいい理由にはならない。
 夕食を終えた21時。
 不動産屋はとうに閉まっている時間だった。
 自分たちで緊急対応の水道屋を呼ぶことも考えたが、緊急かと問われれば、緊急でもない気がした。
 トイレは水道管が破裂して水浸しになっているわけではない。
 タンクの水が溜まらずに、ただ流れないだけなのだ
 それに賃貸のアパートでは、修繕の契約上のこともある。
 旅行のための荷造りもしなくてはいけない。
 結局、僕らは、旅行から戻るまでトイレのことは放っておくことにした。

 「ここの弁葢が壊れているからタンクに水が溜まらないんじゃないかしら」
 妻がタンクの底の弁葢に触れるとそれに付随していたフロートを上下させるための基軸が折れた。
 「あまり触らない方がいいよ」
 そう言ったのに、僕が給水管を閉めるためのドライバーを取りに行って戻って来た時には、弁葢は完全に独立して彼女の手の平の上にあった。
 「見て。おたまじゃくしみたい」
 彼女はそう言って、黒いゴム製の弁葢を僕に手の平ごと差し出した。
 もうここまで壊れてしまっているのだ。今さら彼女に何を言ったところで仕方ない。
 僕は給水管のバルブのネジを締め、2つの大きめの鍋に水を張った。
 「もしもの時にはこれで流すのね」
 「そうだよ」
 「私はいいわ。お鍋におしっこをするなんて真似したくないもの」
 「お鍋におしっこをするんじゃないよ。お鍋の水でおしっこを流すんだよ」
 「どっちにしても、私は出かけるまで我慢するわ」
 そう言うと彼女は鍋の一つにおたまじゃくしを放した。
 そうして僕らは旅行に出かけた。
 
 数日の休日を楽しんだ僕たちは、陽のあるうちに住まいのアパートに戻った。
 もちろん、トイレのことが気になったからだ。
 不動産屋に電話をしてしばらくすると、担当の社員がやってきてトイレの様子を確認して、明日業者をよこすと約束して帰った。
 「今日中に直らないのなら、もっと向こうでゆっくり遊んでくればよかったのに」
 「でも今日、不動産屋に連絡したから、業者は明日くるんだ」
 「明日なんて、、」
 妻は鍋の水でトイレの汚物を流すことを嫌い、都度、近くのコンビニエンスストアまでトイレを借りに行った。
 そしてそのたびにいらないものが部屋に増えていった。
 「あなたは私のこういうところが気に入らないのかもしれないけど、何も買わないでトイレだけ借りるわけにもいかないのよ。ご近所の店だし」
 「わかってるよ。ただ、めずらしいものを買ってくるなと思って」
 「どうせだから、買ったことがないものを買ってみようと思ったの」
 「なるほど」
 「あなたはコンビニはただの店だと思っているかもしれないけど、あそこには時代そのものが反映されていると思うの」
 「だから?」
 「そういうところにも目を向けなきゃ」
 「わかったよ」
 妻はまだ何か言いたそうだったけれど、僕は話を終わらせた。
 
 翌日、僕は業者の対応を妻に任せて仕事に出かけた。
 「水道屋はきたかい?」
 僕は昼休みに電話を入れてみた。
 「まだよ」妻は言った。でも、もうすぐ来るんじゃないかしら」
 「どうしてそう思うの?」
 「わからないけど。ただそういう気がするの」
 そんな会話をしている間に本当に玄関の呼び鈴が鳴って僕は電話を切った。
 ひとしきりすると、今度は妻の方から電話がかかってきた。
 「きたわ。二人も」
 「どんな人だい?」
 「それがおじいさんなの」
 「おじいさん?なるほど、熟練の職人といったところだな」
 「違うわ。ただのおじいさんよ」
 「まあ、頼んだよ」
 話の的を得ないので僕は電話を切った。
 それから3時間ほどして、別件で再び僕は妻に電話をかけた。
 「ところで、トイレの修理の人たちは帰ったの?」
 「それがまだなの」妻は小声で言った。
 僕は少し驚いた。
 「ええ。そんなに時間がかかる修理なの?」
 「そんなこと私に聞かれてもわからないわよ。でも、まだいるんだから。私なんて、朝からもう4回もコンビニにトイレを借りに行ってるんだから」
 「何をやってるんだ」
 「知らないったら」
 「ちょっと覗いてごらんよ」
 「ダメよ。だってドアを閉め切っているもの」
 「あの狭い個室に二人で篭っているっていうのか?信じられない」
 僕はまた驚いた。自慢じゃないが、我が家のトイレの個室は、便座に座ると壁に膝がぶつかるくらいとても狭いのだ。
 「ちょっと声をかけてごらん」
 「わかったわ」
 電話の向こうで妻が呼びかける声がした。
 返事はなかった。
 「ダメよ。聞こえないんじゃないかしら」
 「うん。ところで何だい?バリバリとかゴリゴリとか聞こえる大きな音は?」
 「トイレのドアの向こうからずっと聞こえてくるの」
 「床を剥がして穴でも掘ってるんじゃないか?」
 「わからないけど」
 「ノックしてみた?」
 「えっ?」
 「ノックだよ。ノックをしてごらんよ」
 妻がドアをノックをすると中の音は止んだ。しかし、老人たちは出てくる様子はなく、しばらくすると再び音が聞こえてきた。
 妻が蹴破るような勢いでノックをした。
 僕の留守中に家を壊されたらたまったものじゃない。

 早々と仕事も切り上げアパートに戻ると、部屋は静かだった。
 「水道屋は?」
 「帰ったわ。でも、また明日来るって」
 僕はトイレのトアを開けた。
 「何だ。何も変わってないじゃないか」僕は驚いて言った。
 「仕方ないわよ」妻は言った。
 「何が」
 「だって、おじいさんなんだもの」
 旅行で連休をとったばかりだったが、翌日僕は仕事を休むことにした。
 これ以上、妻に任せておくわけにいかない。
 やってきた水道業者の作業員は確かに年を取っていた。
 「ね、本当におじいさんだったでしょう?」と妻は目配せをした。
 「よろしくお願いします」僕は礼儀正しく二人に頭を下げた。
 二人は僕を一瞥すると、唇を強く結び並んでトイレの個室に入っていった。
 そしてドアを閉め、内側から鍵をかけた。
 しばらくすると、昨日同様にバリバリゴリゴリという音が聞こえてきた。
 妻が面白そうに僕を見た。
 「昨日よりも大きな音みたい」
 「一体、何をしているんだろう」
 「わからないけど、きっと張り切っているのよ」
 「どうして?」
 「あなたがいるから」
 「どうして僕がいると張り切るんだ」
 「知らないわよ」

 昼を過ぎても音は鳴り止まなかった。
 そこで僕はドアをノックし、声をかけた。
 「お昼にしませんか?出前をとりますから」
 音は止み、しばらくすると二人は出てきた。
 そして後ろ手にドアを閉めた。
 扉の隙間から覗き込んだが、中の様子はわからなかった。
 「そば屋でいいですか?鍋焼きうどんでもとりましょうか?」僕は言った。
 「カツ丼」と一人が言い、「上天丼」ともう一人が言った。
 僕は彼らのためにソファのある居間を提供し、店屋物をテーブルの上に並べた。
 妻は温かい緑茶を入れて運んできた。
 「ゆっくりと休んでね、おじいさん」
 妻がそう言うと二人の顔はみるみるうちに沸騰したように真っ赤になった。
 僕は妻を追い立てて慌てて部屋を出た。
 「あんなことを言っちゃダメじゃないか」
 「何がよ」
 「おじいさんだなんて」
 「だって、本当におじいさんなんだもの」
 妻は唇を尖らせた。

 それからしばらく経っても作業が再開される様子はなかった。
 「まだ食べているのかしら?」
 「おじいさんだからか?まさか。いくら何でも遅すぎるよ」
 居間を覗いてみると、二人が折り重なるように床にうつ伏せて倒れているのが見えた。
 「大丈夫ですか?おじいさん!」僕は思わず駆け寄った。
 一人の老人が薄目を開け、頭を振って起き上がった。
 「しまった。寝てしまったか」
 やがて、もう一人も起き上がった。
 僕は心底ほっとした。本当にいつ死んでもおかしくないと思うぐらいにおじいさんなのだ。
 しかし、ほっとすると同時にだんだん腹が立ってきた。そしてすぐに不動産屋にクレームの電話をかけた。
 「申し訳ありません。すぐに回収に伺います」
 不動産屋は言葉通りにすぐに車でやってきて、僕らに平謝りすると、明日、別の業者をよこすと約束をした。
 車に乗せられた老人たちは、窓ガラスから不満げな顔で僕を睨みつけていた。
 「ごめんなさいね。私は明日も来てもらってよかったんだけど」
 妻はお詫びのつもりかオタマジャクシのようなタンクの弁葢を、老人の一人の手の平に乗せた。
 そうして車は走り去っていった。
 次の日、やってきた業者はわずか15分足らずで、タンクと便器を丸ごと交換して帰っていった。
 「やっぱり自分の家のトイレがいちばんね」と妻はよろこんだ。

 しかし、本当の問題はそこからだったのだ。
 まず第一に妻が便秘になってしまった。
 慣れない旅先に続き、数日間、近所のコンビニでトイレを借りる生活が続いていたせいだろう。
 気付いた時には押しても引いてもピクリともしない頑固な便秘になってしまっていた。
 「せっかく新しいトイレになったと言うのに、いくら座っていても出ないのよ」妻は悔しそうに言った。
 そして、第二の問題として、僕は老人たちの亡霊を見るようになった。
 トイレに行くと老人たちが不満げな顔で僕を睨みつけているのだ。
 老人とはいえ、男三人がトイレにひしめき合えば、圧迫感も相当だった。
 「君には見えていないの?」
 「見えないわよ。私には出ないのよ。だって、恨まれるようなことをしていないもの」
 妻は意地悪そうに言った。
 「もう、そういう嫌がらせはやめてほしんだよな。大体にして悪いのは向こうじゃないか」
 「私にはわからないけど。きっと相当に心残りだったんじゃないかしら。あの二人、もうお仕事がもらえなくなっちゃうかもしれないわね?生きがいを失ってボケちゃったらどうするの?もっと優しくしてあげればよかったのよ。だって、おじいさんなんだから」
 「しかし、君だって少しは感じているんだろう?じゃなきゃ、、」
 僕は玄関先を指差した。
 「君はいつも、いくら僕が言ったって、玄関の中央に靴を脱ぎ散らかすじゃないか。それがどうだ?ここ数日は、端っこにしかも綺麗に並べているじゃないか。それは、あの中央に安全靴が二足置いていあるが見えているからなんだろう?君は外面がいいから、客が来ているとなると靴を綺麗に並べるんだ。違うかい?」
 「はあ?そんなもの見えていないわよ。あなたが、いつもいつもいつも口うるさいから言うことを聞いてあげたんじゃない」
 「しかし君は、今まで僕がいくら言ったって、、、」
 「ねえ、つべこべ言ってないで、あなたは今よろこぶべきなんじゃないかしら?私に言うことをきいてもらって」
 僕は口をつぐんだ。
 妻は便秘でイライラしているのだ。
  状況は悪くなる一方だった。
 亡霊はちっとも消えてくれないし、妻の下腹が膨れ上がるほど、僕への当たりもきつくなっていった。

 次の週末に僕は妻を水泳に誘った。
 「行こうよ。気晴らしに」僕は言った。
 「こんなお腹で行けって言うの?」
 「水泳は便秘にいいらしいよ。お腹の筋肉が無理なくマッサージされて便通を促すんだって」
 「私のことを心配してくれているのね?」
 「もちろん」
 「わかったわ。笑ったら殺すから」
 こうして僕らは区が運営している室内プールに向かった。
 水着姿で見ると妻の腹は本当にビーチボールでも入れているみたいにまん丸だった。
 「わはは」僕は思わず声に出して笑ってしまった。
 妻は呪い殺すかのように僕を睨みつけながら、水中に入っていくと黙々と泳ぎはじめた。
 プールに来て、最初から最後まで妻は僕と一言も口をきかなかった。
 出かけたのが午後早くで、アパートの部屋に戻って来たのは夕方遅くだった。
 妻は部屋に着くなり、玄関先で僕を突き飛ばしトイレに駆け込んだ。
 中からバリバリゴリゴリと音が聞こえてきて、しばらくするとすっきりした顔の妻が出てきた。
 「やっと出たわ。水泳のおかげかもしれないわね」
 妻はそう言うと、久しぶりに笑顔を見せた。
 
 次に僕がトイレに入った時、二人の老人の亡霊の姿は消えていた。
 これは僕の憶測だが、きっと老人たちは妻が腹に溜め込んだモノのあまりの臭さに気を失っているうちに、流されてしまったのだ。
 便器の底にはオタマジャクシのようなゴム製の黒い弁葢が残されていた。
 いづれにしても、僕は彼らに最後まで仕事をさせてあげるべきだったのだ。
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