⒓  言えない過去

文字数 2,879文字

 上着を無造作(むぞうさ)に投げ捨てたギルは、豪快に水飛沫(みずしぶき)を飛ばしながら、一人で川の浅瀬を走り回っていた。

 一方エミリオはというと、川のほとりに腰を下ろして、そんなギルの姿を、ただ目を細くして眺めているばかり。
 そうしながら、エミリオはふと周囲の風景を眺めた。

 川の澄み切った清流は、突き出している岩に(まと)わりつくようにして緩やかに流れていた。所々に散在する岩の陰には、突然乱入してきた人間に驚いた川魚たちが、じっと身を潜めている。抜けるような青空と、陽光を受けて輝く水面。そして、木々の色鮮やかな緑の葉が落とす、幻想的な木漏れ日と影。誰が手を加えたものでもない、自然が創り上げたえもいわれぬ絶景。

 周りの自然にしばらく見惚れていたエミリオは、またギルに視線を戻すと、微笑して言った。

 「あんまりはしゃぐと、足をすくわれるぞ。」
 「見てないで、お前も入ったらどうだ。気持ちいいぞ。」

 ギルは少年のように目を煌かせて応えた。
 そう言われても、エミリオはただ微笑(ほほえ)んでみせるだけである。

 「こんな子供じみた真似はできないか。」

 エミリオは初め何も返さなかったが、おもむろに空を(あお)ぐと、こう答えた。

 「そうだな・・・水遊びも悪くない。」

 腰を上げたエミリオは、ギルに倣って上着を脱ぎ、ズボンの裾をたくし上げた。それからゆっくりと川に入っていき、澄んだ水をそっと両手ですくい上げた。指の隙間からきらきらと水が零れ落ちるのを、彼はぼんやりと見つめた。
 やがてエミリオは、足場に気をつけながらギルのそばまで歩いて行った。
 エミリオはそこで、下から上へとまた周囲を見渡した。視線が移りゆくにつれて、眩しそうに顔をしかめながら。だが景色にすっかり魅入(みい)っている様子で。

 「いいだろう、自然は。」
 まるで自分が創り上げたもののように、ギルはそう声をかけた。

 「ああ、素晴らしいな。」

 スッ・・・

 一瞬、ギルの足元をよぎった影。それを目で追っているギルの顔が、急に何か面白い悪戯(いたずら)を考えついた腕白(わんぱく)小僧のようになる。

 「よし、朝飯(あさめし)はこいつらだ。」
 「え・・・。」 

 エミリオは〝朝飯〟という言葉よりも、ギルが何をしようとしているのかが分からずに、戸惑ったような声を上げた。

 「エミリオ、魚を捕まえろ。」 

 まさか・・・と思い、信じられずにエミリオはきょとんとしている。

 「食べるのか・・・これを。」

 これまで、一流の料理番の手で調理されて、様々な食材で綺麗にあしらわれた魚介類ばかりを口にしてきたエミリオは、こういう何も無い場所での調理法の見当がつかず、馬鹿な、とは思いながらも、生の川魚にそのままかじりつく気では・・・そう思ったのだ。

 「ほかにどうかできるか?」
 「・・・動いているが。」
 「当たり前だろが。」

 なにボケてるんだと(あき)れたあとで、ギルは、エミリオのそんな不安にやっと気づいた。

 「心配するな、俺に任せておけ。」

 そう軽く(なだ)めただけのギルは、もう最初の一匹に狙いをつけている。

 「待ってくれ、ギル。」と、エミリオはあわてて言った。

 (かが)んでいたギルは背筋を伸ばして、顔を向ける。
 エミリオは少し苦笑しながら、立ち並ぶ木々の方へ優雅に手を動かしてみせた。

 「恵み深き森の神に、許しを乞うてからだ。」

 あっ・・・という顔をしたギルは、強くうなずいた。
 「そうか、そうだな!」 

 二人は肩を並べて、清流の中に(たたず)んだ。そのまま静かに目を閉じる。

 しばらくそうして気持ちを落ち着かせていると、せせらぎの音や小鳥のさえずり、そして、青々と葉を茂らせた木々の葉擦(はず)れの音が浮かび上がった。二人は、自然が(かな)でる癒しのハーモニーに、いつの間にか聴き入っていた。

 共にまだ語り合えず、(なぐさ)め合うことのできない傷がある。だから、こうして溢れんばかりの緑に囲まれている今は、そんな自然の合唱や神聖な空気から安堵(あんど)感を得て、気持ちを和ませるしかなかった。
 二人は、森の神に抱かれているような、そんな気持ちで佇んでいた。

 やがてギルは、エミリオに弱い自分を見せるのは抵抗があるが、いつか悩みを打ち明けられる仲になれるだろうか・・・そう思い、おもむに(まぶた)を上げた。
 すると、示し合わせたようにエミリオも目を開けた。
 二人は、何気なく顔を見合わせる。そして思った。
 同じことを考えていたのかもしれない・・・。

 ギルはニヤリと微笑みかけた。
 「そら、魚を捕まえろ!」

 育ち盛りの少年さながら、ギルは瞳を輝かせて川魚のつかみ取りを開始。そっと近付いていくと、それらは大あわてで岩の陰から陰へと逃げ惑った。

 一方、要領が分からず、どうしたものか・・・と、逃げ回る食材を目で追っていたエミリオ。突っ立っていても仕方がないので、ぎこちなく手を差し伸べてみるが、そうなかなか上手くいくものではない。やはり剣を手に戦うのとはわけが違う。エミリオは腰に手を当てて、ため息をついた。川魚はひょいと身をかわして、すぐわきをあっさりすり抜けていったのだ。

 「エミリオ、その岩の陰だ。抜かるなよ。」
 たった今エミリオが逃した獲物を目で捉えていたギルは、そこを指差しながら助言してやった。

 エミリオはうなずき、慎重に息を殺して近付いていく。そして、今度は「よし。」というところで一気に両手を突き出した。
 結果、勢い余って倒れかけたところを、そばにある岩にとっさに手を付いて(なん)を逃れた。

 その一部始終を見ていたギルは、声をたてて笑った。
 「相手が魚だと、お前もまだまだだな。」

 エミリオは照れくさそうな笑みで応えた。

 だが英雄と言われていただけあって、呑み込みの速さとキレる頭脳を(あわ)せ持つ二人。狼狽(ろうばい)しているのか翻弄(ほんろう)しているのか、とにかく見事な逃げっぷりをみせる相手でも、間もなく協力して追い込むことに成功した。コツさえつかめば、朝飯にできるくらいにはしとめられる。特にギルは、楽しくて仕方がないという笑顔をいつまでも浮かべていた。

 突然、悲鳴が聞こえた。

 驚いて顔を上げたエミリオは、ギルが大きくバランスを崩し、後ろへ倒れかかって、どうにか体勢を立て直そうとあがいている姿を見た。エミリオはすぐさま駆け寄った。だが流れに足をとられていては、むやみに手を伸ばすだけがやっと。ギルもまた(わら)をもつかむ思いで、よく確かめもせずにその手をとった。

 「おわっ!」
 「ああっ!」

 派手な水飛沫(みずしぶき)が上がった。差し伸べられたのは救いの手でも何でもなく、ただ道連れができただけだ。

 二人はずぶ濡れで、川底に尻餅(しりもち)を付いていた。

 片手で前髪をかき上げたギルは、首を振って水滴(すいてき)を飛ばした。その隣では、エミリオもまた琥珀(こはく)色の髪をオールバックにかき流していた。
 そして、ふと顔を見合わせる。

 ギルは、「水も滴る何とやらだな。」と、思わず吹きだし、エミリオは、「

も・・・悪くない。」と、苦く笑った。

 二人は奇妙におかしくなって、たまらんとばかりに大笑いした。
 そんな彼らをあざ笑うかのように、目の前を川魚が悠々(ゆうゆう)と泳ぎ去っていく。

 朝飯のはずが、太陽はもう真昼近くにまで昇ってきていた。





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