第1話

文字数 8,777文字

   眼

 目の前に宇宙人が現れた。
 灰色のビニールっぽい肌質で、頭にはプルンとした大きい(しずく)みたいな角が生えていた。子供くらいの背丈の彼が、自動読み上げソフトみたいな声で「私は宇宙人です。ご迷惑はおかけしませんので、お邪魔したいのです」と言ったのだ。
 まん丸い目が心なしか(うる)んでみえる。
 かわいい。是非(ぜひ)もない。お願いしたい。
 彼には宇宙人くんと名づけた。宇宙人くんとの生活は奇妙なものだった。私と一緒に動画を観たり、通勤についてきたり、会社を物珍しそうに見て回ったり。宇宙人くんは私にしか見えないみたいだった。けれども、会社の人も、街の人たちも、なんだか少し変。あっちこっち見回したり、急に笑ったり。
 驚くことに、世界中の人全員に、自分だけに見える宇宙人がいることがわかった。姿形は人によって全然違うらしい。私のように宇宙人グレイに毛が生えたみたいなのから、人間そっくりでほんの一部だけ違う人型、映画に出てくるモンスターに、口では形容しがたいもの、各人がそれぞれ最も宇宙人ぽいと思っている姿になって現れたみたいだ。
 気分としては、頭の中に猫でも飼っている感じで、悪くはなかった。
 世の中も丸くなってきた。
 いつも誰かに見られていると、他人に(つら)く当たったり悪いことをしにくくなるっていうことだ。もちろん、例外な人はいるけれど。

 宇宙人くんの存在が日常の一つになった頃、ある政府広報があっちこっちで大々的に流された。
 人々が宇宙人だと思っているもの。それは由来は不明ながらも何らかの寄生生物であり、視神経から脳にかけての神経細胞を中心にとりつき、主に視野に幻を見せているという。
 あなたに見えているものは本当の姿ではありません。姿も声もニセ者です。そんなわかりきったことを、どこか後ろめたい声色で広報の人は読み上げた。宇宙人くんはその動画を面白そうに眺めている。
 宇宙人くんは宇宙人くんではありません、と言われたって、むつかしいことはどうでもいいし、私はこれからも宇宙人くんと呼ぶ。それ以外にどう呼んだらいいのかわかんない。



   膚

 ドアを開けると、何かにぶつかった。
 朝、駅へ急ごうと玄関を開けた時だった。
 何だ? 手の中に(いや)な感触が残っている。
 ドアをいったん戻して、ゆっくりと押し開けた。
「どうしたの?」リビングから声をかけられる。
「いや」ドアがぶつかる。「何でもないよ」何かを引きずりながらゆっくりと開けていく。重くはない。逃げていく様子もない。
 鳥でも死んでいたら厭だな、と思いながら、そっとドアの向こう側を覗き込んだ。無い。コンクリートで固められた地面があるだけだった。
 やっぱり何か動物がいて、逃げていったのか。そう考えたが、そんな気配はなかった。
 何だったんだ。納得がいかない。
 門扉(もんぴ)までのわずかな庭を渡り、振り返ってもう一度確かめる。やはり何もない。向き直って道へ出ようとしたとき、何かを蹴飛(けと)ばした。
 転びそうになった。踏みとどまる。見回した。何も見当たらない。
 さっき、ドアで押したときよりも、重いものだった。猫か小型の犬くらいの重量。だが視界には何も見えない。じゃあ、まだ足の上にあるものは何だ。
 温かくはない。革靴だから感じないのか。手で触りたくはない。足を抜き出し、そっと乗せてみる。柔らかい。毛が生えているんじゃないだろうか。形はいまいちわからない。真ん中がへこんでいるような。
 クラクションが聞こえた。そうだ、時間が無い。
 駅へ行かなければ。だが、どうやって。
 転んでスーツを汚したくはない。見えないものに足を引っかけて転ばないためには。
 足を引きずってゆっくり前へ出す。重心を落としていれば、つまずいても大丈夫なはずだ。
 路地から通りに出るまで、四つほど蹴っ飛ばした。重さはまちまちだった。
 通りではそこここで人が転んでいた。立ち止まって少し横に避けてから歩き出すような人もいる。
 自動車の衝突音がした。ボディ前面が(つぶ)れ、煙を噴いている。その白煙が見えない物体の輪郭をわずかに浮かび上がらせる。腰ほどの高さのある、饅頭(まんじゅう)のような形状に見えた。
 スマホで写真を撮り出す人が現れた。足下がおろそかになって転ぶ。そうか、と思ってスマホを取り出してみるが、電波が届いていない。
 木が裂けるような音が響きだした。見上げると、そばの家の屋根が(かたむ)いて見える。違う。家が沈み込んでいるのだ。窓枠が(ゆが)んでガラスが割れた。やがて強度の限界が訪れて、一階部分が(つぶ)れた。二階は持ちこたえるが、明らかに変形している。柱が斜めに(かし)いで今にも押し潰されそうだ。
 これは会社どころではない。
 だが、何が起こっているのか。
 大通りへ出れば、駅の方が見える。人通りも多い。もっと何かわかるかもしれない。
 家へ戻ることも考えたが、周りでは頑丈そうな建物は持ちこたえている。ウチはヘーベルだ。大丈夫だろう。
 足が何度も物体を蹴飛ばす。焦って気がせく。転びそうになる。だが止まれない。あともう少しで大通りだ。
 交差点は大混乱だった。停電していた。渋滞している車列の中を人が行き交う。車の中にはバンパーがへこんでいるものもあった。苛立(いらだ)たしげなクラクションが響き渡る。運転手の視線が突き刺すように鋭く注がれるのを感じながら、車列をぬって大通りの中心へ出て駅前の方を眺めた。
 駅近くの高層マンション群が見える。周囲には黒煙が幾筋(いくすじ)も上がっていた。
 遠くにまばらに雲があった。表面にニキビのような(ふく)らみが無数にあった。ぴゅっと一つ、火山のように雲が真下に噴出した。何かが突き抜けたのだ。いや、今まさに、あれが落ちてきた瞬間だ。
 もう帰るべきか。それとも。
 ごった返す歩道を見つめていると、突然強い風が吹き付けた。思わず目をつぶる。続いて大音響が体を震わせる。
 上半身が何かに突っ込んだ。
 顔が(うず)まる。
 飛び退いて地面に尻をついた。肌が粟立(あわだ)っていた。悲鳴が口からほとばしった。
 手で何度も顔を(ぬぐ)う。少し落ち着いて両手を広げる。()れてはいない。
 視線を上げると、車が潰れていた。屋根が完全に潰されていて、ボディは圧縮しきっていないがタイヤが破裂して車体が底をついている。
 そして、歩道といわず、車道といわず、道いっぱいに潰れた人の体があった。血で路面が染まっていく。
 帰ろう。帰らなければ。
 立ち上がったとき、空気が震えているのを感じた。大地を圧する重い音は上から響いてくる。
 真上を見ると、無数に立ち上る火災の煙が、見えない天井に(はば)まれ滞留(たいりゅう)していた。煙自体が天上のようだった。それが、低くなってくる。濃くなり太陽を隠していく。
 岩が転がり落ちるような音がした。高層マンションが倒壊する音だった。木材の燃える匂いと樹脂の焼ける刺激臭を感じた瞬間、上から降ってきた煙に巻かれた。家々を押し潰す音が地鳴りのように空気を震わせ、全身を包んだ。



   舌

 ある朝。ご飯の味がなくなった。
 チューブのバターを()ったトースト。少し()がしたベーコン。砂糖を入れたスクランブルエッグ。トマトとレタスに胡麻(ごま)ドレッシングをかけたサラダ。サイフォンでいれたコーヒー。
 どれも布や砂利(じゃり)でも()んでいるようだった。
 サラダには少し味があるようだけれど、野菜の味ではない。
 なにか病気だろうか。冷や汗が吹き出た。(のど)(かわ)く。コーヒーはやめて水を飲んだ。美味しい。思わずコップを見つめた。虹色に光っている。()ぐとフルーティーな香りがする。口に含むとほんのりとした甘みに(うま)み、後味はかすかに酸味を残す(さわ)やかさ。
 その日は水ばかり飲んで出社した。
 似たような人は他にもいて、(みょう)な視線が飛び()っていた。デスクワークの(かたわ)ら、水の入ったコップをしょっちゅう空にする。昼食は申し訳程度におかずを食べ、水で流し込む。味がしなくても栄養は()るべきだと思ったのだ。
 周りからの視線は痛い。けど、水を飲む人は意外に多い。からかう人はいなかった。次の日からは仲間で集まって食事をした。人数は日々増えていった。

 五日目、政府から発表があった。宇宙から持ち帰った物質に付着(ふちゃく)していたらしいウィルスが、研究所から()れ出す事故があったという。風に乗って広範囲に拡散(かくさん)した。対策がわかるまでパニックを恐れて公表できなかったそうだ。
 このウィルスは、あるありふれた化学物質を摂取(せっしゅ)して活動するが、一ヶ月ほど供給(きょうきゅう)途絶(とだ)えれば死滅(しめつ)する。水に混じっていることがあるので、関係機関と協力して水道水から除去(じょきょ)する。大げさに作業服を着た政治家がカメラのフラッシュを浴びながら宣言した。
 次の日。水道水から味が消えた。コンビニに行くとミネラルウォーターが光っていた。買い込んで一部は駅のロッカーに預け、会社へ持っていった。すぐに警察がミネラルウォーターを回収していった。寂しくなったスーパーやコンビニの棚を念入りに探して、コーヒー飲料や牛乳に味が残っているのを確かめると買い込んで仲間と分け合った。加工日の古いご飯のパックや缶詰、少しでも味がするものを探して回った。雨水や川の水を飲むまでには(きゅう)しなかった。ペットボトルの水を売って回る仲間が出てきたのだ。法外な値段ではなかった。その水を飲むと、初めの日に味わったときの感動を思い起こした。
 押収(おうしゅう)した水を横流しした警官や、許可無く飲料水を生産した業者が摘発(てきはつ)された。それでも水の供給は続いた。やがて水道水に味が戻った。美味しい食べ物が売り場の棚に並び始めた。食事風景は何も変わらなくなったので、私たちは食事時に仲間で集まるのをやめた。
 ある日、新聞の片隅に小さな記事が()った。いくつかの化学物質が政府によって所持に規制がかけられることになったというものだ。
 だが、もう遅い。人間なんてどれだけ残っているっていうんだ。



   耳

 予想時刻までに、全人類はなるべく頑丈な建物の中に入った。紛争地帯では停戦となった。遊牧民はできるだけ深い谷間へと避難した。
 強力な磁力線が観測されたのは数日前。地球へと近づいてきた物体からだった。こんな強力な磁力は人類の知識では説明不可能だった。磁力線は波打つように変化を見せていた。巨大な惑星が爆発してできたコアの破片ではないか、時空に開いた穴ではないのか、更には地球外生命体だなどという憶測(おくそく)が無責任に流れたが、熟考(じゅっこう)する余裕は無かった。
 電波望遠鏡はノイズを拾ってしまって観測が難しい。光学式宇宙望遠鏡のハッブル宇宙望遠鏡をはじめ、様々な光学式望遠鏡が進路を割り出すため物体に向けられた。X線望遠鏡でも観測できたという。地球をかすめ飛ぶ進路をとっていることがわかった。その進路が変化し、地球衝突(しょうとつ)が確実になった。そのことも、誰にも説明のつかないことだった。悲鳴のように様々な説が、地球衝突に至る経緯(けいい)を説明しようとした。が、大規模な避難計画が発動し、発電所の職員が避難して電力供給のほとんどがストップしたことで、議論そのものが打ち切られた。
 磁力線による電波妨害(ぼうがい)で、宇宙望遠鏡からの観測情報が途切(とぎ)れ、自動追尾していた地上の観測施設からの情報もひどいノイズが混じった。衝突地点は海上だった。陸地に落ちて大量の土砂が大気を(おお)うよりはいい、とみな(なぐさ)め合った。
 衝突。衝撃波が何波(なんぱ)も地上を駆け巡る。津波が何日も大地を洗い、多くの街や人を飲み込んだ。地球が震えているようだった。生き残った人々も、十分な避難計画が()られなかったために不足した物資を巡って争い、地獄の様相(ようそう)(てい)した。
 悪夢に似た災害が一段落し、生き残った人類は互いに確認を取るため無線通信を交わした。(ひど)い雑音が入った。音声も映像もノイズが酷い。脈動(みゃくどう)のごとく変化するノイズ、その大本(おおもと)の磁力線はやがて地球に大きな影響を与え始めた。
 地磁気が乱れ、渡り鳥は大洋の真ん中で力尽きて溺死(できし)した。海洋生物は浜に打ち上げられた。帰巣(きそう)本能が混乱させられたために、多くの動物が死滅した。食物連鎖が破壊され、爆発的に増える昆虫や死滅する生き物などによって植生(しょくせい)が激変した。
 大気中に放出された大量の水蒸気によって気象が変化したことに加え、太陽風を防ぐ磁気圏が乱れたために放射線が地上へ降り注ぎ、赤外線量も増したため地表温度が上昇した。嵐が吹き荒れ、地震や噴火も頻発(ひんぱつ)した。人類は地下深くへ潜らねばならなくなった。
 洞窟に(ひそ)み、松明(たいまつ)の下で、残量(とぼ)しいバッテリーを気にしながら隣のコロニーと音声通信する時、無線に混じる鼓動(こどう)めいたノイズを耳にすると、誰もがここはすでに地球ではなくなったのだと実感する。ここは腹の中だ。あの、宇宙からやってきた物体に乗っ取られたこの星の。



   鼻

 チャイムが鳴って玄関へ向かったとき、ふと(なつ)かしさに(おそ)われた。胸がぎゅっと苦しくなって思い出したのは、幼い頃の光景だった。柔らかい日差しの中、床に寝転がって足を壁に()わせたり日なたへ投げ出したりと、心と体を思うさまに動かす日々。やんわりと暖かい世界に抱かれて生きていたあの頃。
 そんな幸せな予感を覚えながら玄関に立ち、どなたですか、と声をかける。返事は無い。予感は高まる。ドアノブを握ってひねり、力を入れると、幸せが(あふ)れてきて周囲を取り巻いた。
 かつて住んでいた家の匂い。庭にあった草花が混じり合ってできた自宅の庭の匂い。早朝に洗濯機に使われていた洗剤の匂い。家族みんなの布団の匂い。母の匂い。子供の頃の空気が全身を包んだ。
 玄関の外に立つ者から、そんな匂いが漂ってきた。だから、たとえ手足が何本も何本もあっても、どんな目鼻立ちをしていようと、関係なかった。彼を家の中に招き入れた。



   意識

 みんなが空を見上げていた。日本では夜だった。
 古いアパートの廊下。玄関を背にして手すりにもたれ、缶コーヒーを片手に北の空を見つめる。少し離れたところには、隣室の女性が部屋着でタバコを吹かしていた。廊下に出たときに視線が合って、互いに軽く頭を下げただけで、あとはただ黙って空を見ていた。
 星が見えない夜空。街明かりに照らされて灰色に染まった空には、数えるほどしか星が無い。それが今日は悲しい。火星は見えると言われているが、どれだろうか。
 火星には今、人類が初めて訪れている。残念ながら日本人宇宙飛行士は参加していないけれど、日本企業とJAXAが関わっている国際プロジェクトだ。宇宙進出を進める中国との間で激化する開発競争のおかげで実現したプロジェクトでもある。
 現地からは動画が送られてくる。数時間後には公式で日本語字幕付きの動画がリリースされるが、それより前に翻訳(ほんやく)された個人の非公式動画が(あふ)れた。せっかくのお祭り騒ぎだからと黙認されていた。
 三日前、その火星近傍(きんぼう)を通過して地球をかすめ飛ぶ軌道(きどう)を取る小惑星が発見された。ごく小さな天体だけれど、タイミングがいいので、これを火星と地球で同時観測するイベントが企画された。個人で観測できる大きさではないにも関わらず、量販店から天体観測機器が消え去ったことが話題に加わって盛り上がった。ところが、小惑星が火星に最接近する時刻に火星から行われた生中継のさなか、混乱が起こった。
 火星チームは、小惑星が近づくにつれて感情を乱した。火星表面にいる着陸チームも、上空で周回する指令チームも同じだった。これは小惑星などではない。もっと偉大(いだい)なものだ。そう主張を始めた。生中継で全世界に伝わった。感(きわ)まって涙する宇宙飛行士もいた。だが、あらゆる観測データを見ても特に異常を示すものは無い。宇宙飛行士に何がどう違うのか(たず)ねても、要領(ようりょう)を得ない。
 地球では大騒ぎになった。宇宙飛行士の精神を疑ったところで、帰還(きかん)するまで診察はできない。そもそも強靱(きょうじん)な精神の持ち主でなければ宇宙飛行士にはなれないのだ。
 一方で、小惑星の正体について様々な妄想が語られた。地球外生命体とのファーストコンタクトなのだという説が大半を占めた。宇宙飛行士たちの証言が曖昧(あいまい)なために、妄想には拍車(はくしゃ)がかかった。
 精神的な進化がもたらされるのだ。いや、精神を支配されるのだ。素晴らしいアイデアが与えられて科学や芸術の分野に革命が起こるのだ。否、想像力が破壊されて人類は滅ぶのだ、なぜなら人類は宇宙にとって害悪でしかないのだから……。
 妄想する当人の思想や境遇(きょうぐう)が入り交じった説が、電波やケーブルによって全世界に満ちた。更にはそれらを分析して世相(せそう)を占う自称評論家までが現れたところで、今日を迎えた。
 夜空は相変わらず汚れている。人間の生活が生み出す光が星々を消している。大地震があった後、この光が消えたことがあった。大変だった記憶ばかりで、夜空がどうであったか覚えていない。だが、光はこうして戻ってきた。多くの人々が生きている(あかし)である。多くの光の下では、同じように空を見上げる人間がいるのだ。
 夜の匂い。子供の頃、家族旅行で遠くに出かけたとき、深夜の高速道路のサービスエリアで感じた非日常のイメージと強く結びついている。懐かしさと昂揚感(こうようかん)を思い起こさせる匂い。
 隣室の女性が吸うタバコの匂いがそれに混じる。時折、早朝に見かける時の、体にピッタリあったスーツ姿、その清潔感とのギャップを感じるくらい、煙が()えない。
 視界が、近づいてくる車のヘッドライトで(まぶ)しくなり、やがて去って行くタイヤの擦過音(さっかおん)。どこかから()れてくるテレビ番組の笑い声。
 手すりが少しずつ体温で暖められていく。昼間よりだいぶ冷え込んだ空気がそよ風でゆっくり体にまといついて、また流れていく。
 ぬるくなったコーヒーの味。コーヒーの味さえすればよいという安物の、あまり風味の感じられないその飲み物の後味。
 そんな現実に取り巻かれながら、予想の付かない何かを待っていた。
 その時が訪れた。
 天頂(てんちょう)から何かがやってきた。濃密で巨大な気配がある。自分が(あり)となって人間に(のぞ)き込まれているさまが頭に浮かんだ。目の前の景色が、遠くの街明かりが、小さなミニチュアめいて見える。近づいてくる存在を(とら)えるためか、自分を中心に感覚が急速に広がっていく。自身を上から見下ろす感覚から、やがて地球を眺めるスケールへ。更に月の外側へと意識は広がっていく。太陽を周回する他の惑星が遠くに(かろ)うじて感じられるようになった時、近づいてくる存在がわかった。とても(した)しげで暖かく、少し悲しげな存在。こちらに眼差(まなざ)しを向けながらそばを通り過ぎていく。(いと)おしい。抱きしめたい。けれど手は届かない。ほんの鼻先をかすめて過ぎ去っていってしまう。この広い宇宙で奇跡的に起こった出会いは、終わってしまった。
 気がつくと自分はちっぽけな(ひと)りの人間だった。目の前の景色がやけに安っぽく見えた。あの(かがや)かしい時間は二度と味わえない。あの恍惚(こうこつ)を超える体験は無いだろう。
 すっかり冷えてしまった缶コーヒーを指でつまんでぶら下げながら、動けずにいた。今の出来事をどう受け止めたらいいのか、頭の中で幾度(いくど)も出会いの瞬間を反芻(はんすう)しながら考えた。今のは現実だったのだろうか。それとも妄想の(たぐい)だったのか。
 あの意識の広がりは。
 自分が地球と化して、やってきた者と対峙(たいじ)して見つめ合ったあの体験は、人間にはあり得ない体験は、一体なんだったんだ。
 近くで何か音がして、我に返った。隣室の女性が鼻をすすっている。泣いているらしい。
 声をかけた方がいいだろうか。そう考えたとき、彼女の名前を知らないことに気づいた。
 そうか。相手のことを何も知らないという点においては、あの星もこの女性も同じなんだな。未知との出会いは、その気になればどこにでもあるに違いない。見つめ合って、声をかければ、出会いはどこでだって起こるのだ。
 手の甲で子供のように何度も何度も涙を(ぬぐ)っている女性に、私は声をかけた。
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