第2話
文字数 4,200文字
おかしな日だ、と思う。
彬さんのようすもだけど、わたしもちょっとどうかしている。気が付いたらまったく知らない場所にいて、そこでかつてのクラスメイトに再会したり。
柘植くんは変わっていなかった。相変わらず親切だったし、やはり少し不思議なひとだった。
彼に助けてもらったときのことは今でもよく覚えている。
わたしは子どものころから原因不明の頭痛に悩まされていた。なんの前触れもなく突然頭が割れるように痛みだしたり、ひどいときには痛みのあまりそのまま気を失うこともあった。
父と母がとても心配して病院で検査を受けることになったけれど、脳に異状はなく、結局原因はわからないまま鎮痛剤で痛みを紛らわす日々がつづいていた。
その日も、授業中に急に頭痛に襲われて、ぎりぎりまで我慢したけれどついに痛みに耐えかねて、教師に断りを入れて保健室へ向かった。
が、途中で立っていられないほどの激痛に変わり、冷たい廊下にしゃがみ込んだ。だめだ、もう吐く、と思ったとき。
肩を叩かれた。
それは、たまたま目に付いた埃を払うような軽い接触だったけれど、その瞬間、嘘みたいに呆気なく頭痛が消えた。治まった、ではなく、まさに「消えた」という感じだった。
びっくりして振り返ると、さっきまで同じ教室にいたはずの柘植くんが立っていた。なにが起きたのかわからず、わたしは呆然と彼を見あげた。
「大丈夫?」
特徴のあるハスキーな声で彼が尋ねてくる。目を見開いたままゆっくりとわたしはうなずく。
たった今、大丈夫になりました。
座り込んだままのわたしに手を差し延べて、柘植くんはよくわからないことをいった。
「今日のはたちが悪かったからつい手を出してしまったよ。大変そうだね、海棠さん。つらかっただろう」
彼の手を掴んで立ちあがる。その言葉の意味は理解できなかったけれど「つらかっただろう」というそのひとことが、思いがけず心に沁みた。視界がにじむ。
「わたし、おかしい?」
鼻を啜りながら、ずっと不安だったことを口にしていた。
柘植くんはクラスメイトだけど、とくべつに親しい間柄ではなく必要以上に言葉を交わしたことさえない。そんな相手からいきなり「わたし、おかしい?」と聞かれても返答に困るだろう。
そう後悔しかけたわたしに、柘植くんはあっさりと返事をした。
「おかしくないよ。海棠さんはちょっと敏感なだけだと思う」
きょとんとするわたしを見つめたまま柘植くんは尋ねた。
「海棠さんは、視えるのかな」
「え?」
「なんというか、人間でないものを目にすることはある?」
「えっと、それはつまり」
霊とかそういうもののことだろうか。思いがけない話の展開に戸惑いながら首を傾げる。
柘植くんはうなずく。
「霊的なものというよりは、棲む世界が違う、一般的には目に見えない、存在しないとされているもののことだけど」
わたしはふるふるとかぶりを振る。
「見えません」
そう、と柘植くんはつぶやく。
なんだろう。それがわたしのこの頭痛と関連があるのだろうか。頭のなかが疑問でいっぱいになったけれど、とりあえず、ふと気になったことを尋ねてみる。
「柘植くんは、その、視えるの?」
うん、とあっさり肯定されてわたしは絶句する。言葉をなくして立ち尽くすわたしに彼は問いかけた。
「ぼくのこと、気持ちが悪いと思う?」
ふいの言葉に驚いたけれど、少し考えてからわたしは首を振った。
「気持ち悪いとか、そんなふうには思わないよ。それに、さっき助けてくれたんだよね? なにがなんだかわからないけど、柘植くんに肩を叩かれた瞬間、嘘みたいに頭痛が消えたの。ありがとう」
お礼をいっていなかったことに気付いてあわてて頭を下げる。
「いや、それはたぶんぼくの力じゃないから。これを」
制服のポケットからなにかを取り出してわたしに差し出す。反射的にてのひらを向けてそれを受け取ったとたん、身体が軽くなった。澱んだ空気を一掃したように清々しい気分になる。
びっくりしててのひらを見ると、そこには小さな丸い石がのっていた。なんの変哲もないふつうの石に見える。
「なにか感じた?」
「うん、すごくすっきりした。これはなに?」
「よかった。効果があるみたいだね。たぶん、海棠さんは影響を受けやすい体質なんだと思う。そういうものを引き寄せやすい。海棠さん自身に問題があるわけじゃないから気に病むことはないよ。ぼくの知り合いにも似たようなひとがいる。本人は自覚していないようだけど」
そういって柘植くんは微かに笑う。きっとそのだれかを思い浮かべて零れた笑みなのだろう。やさしい表情だ。
どうしてか、胸がチクリと少し痛んだ。
「そのひとは、大丈夫なの?」
「うん。力のあるひとがそばにいてずっと守っているから」
この石も、と彼はつづける。
「そのひとの力を受けているから魔除け代わりになると思う。海棠さんが持っていて」
「えっ、いいの?」
「うん」
その石を、今もわたしは大事に持っている。
効果はてきめんで、その日以来、あれほどわたしを苛んだ頭痛や吐き気はぴたりと止んだ。
いったいどれほどの力がこの石に作用しているのだろう。
柘植くんには聞きたいことがまだたくさんあったけれど、それからしばらくしてわたしの母が他界し、自分の身に起きたさまざまな変化によって、その日以降、柘植くんと個人的に話をすることはなかった。
今日、あの場所で再会するまでは。
うとうとしていたらしい。
隣に彬さんの姿はなかった。
視線を巡らせてわたしは息を呑む。彬さんはいなくなっていたけれど、彼の秘書の乃木坂さんが座敷の戸口に立ち、わたしを見下ろしていた。
感情の読めない抑制された表情に冷たい眼差し。彬さんの右腕といわれるくらいだから有能なのだろう。
だけど、わたしは彼が苦手だった。
乃木坂さんは青白い顔をしてじっとわたしを見ている。
彼は彬さんを迎えに来るとき以外にも、わたしに食料や生活用品を届けるためという、彬さんのごく私的な使いで定期的にこの家を訪ねてくる。
その役目は、乃木坂さんにとって不本意以外のなにものでもないはず。それを証明するように、彼は必要最低限しか口を開かないし、決してわたしの顔を見ようとしない。
その彼がわたしを凝視している。忌まわしいものを見るような眼差しのなかに、わずかに覗いた感情のかけら。
動揺。そして、恐れ?
なぜ。
はだけた衣服を掻き合わせて、わたしはそろりと身体を起こす。びく、と微かに後退した乃木坂さんの口から漏れた言葉。
「なぜ」
驚いて目を瞠る。それはわたしの台詞だ、と思う。
なにかがおかしい。彬さんといいこの乃木坂さんといい、なにか、いつもとようすが違う。
厭な感じだ。わたしひとりだけがなにも知らずにいるような気がする。それは、わたしの世界がとても狭い、限られた部分でしか機能していないせいかもしれない。
彬さんと乃木坂さん。ふだんのわたしの生活には、このふたりしか存在しないといっていい。だから彼らに異変が起きると、それに比例してわたしの足許も不安定になる。
「彬さんは、どこに」
そう問いかけたけれど彼が答えてくれるとは思えなくて、途中で口を噤む。
額を押さえる。それはわたしの癖だった。
柘植くんからまだあの石をもらっていなかったころ、頭痛に襲われるたびにてのひらで額を押さえ付けた。それで症状が軽くなるわけではないのだけど、無意識のうちに手が動いた。
そのせいか、いつからか、不安になると額に手をあてる癖が付いていた。
石は。
いつも肌身離さず持っているあの石が見当たらないことに気付いてあわててあたりを見まわす。部屋の隅に置いてある鏡台のうえにそれを見付けてほっと息をつく。
布団から出て鏡台に向かって手を伸ばしたとき。
後頭部に衝撃を受けた。
畳に両手をついた姿勢で肩越しに振り返る。背後に、見覚えのある細長い花瓶を手にした乃木坂さんが立っていた。
撲られた痛みは感じなかった。
ああ、そうだったのか。
腑に落ちた。
もう一度、凶器を振りあげた彼を見あげてわたしはいった。
「無駄です。もう、わたしを殺すことはできません」
彼の動きが止まった。
「なぜ」
色をなくした唇がふたたびつぶやいたその言葉。
「なぜあなたがまだここにいる? 私が」
殺したはずなのに。
能面のような顔をした男はそういって手にした花瓶を落とした。鈍い音がして畳のうえを転がる。
不思議なほど冷静な心持ちでわたしは応えた。
「わたし、気付いてなかったみたい。自分が死んだことに」
あの日、いつものように荷物を届けてくれた乃木坂さんは、珍しく、わたしが用意したお茶に手を付けた。もちろんそんなことはそのときがはじめてだった。嬉しくて、急いで茶菓子を用意して戻ったわたしは緊張しながら自分の湯呑みに口を付けた。
そして。
わたしは死んだのだ。
おそらくお茶に毒が盛られていたのだろう。けれど間抜けなことに、わたしは自分が死んだことに気付かなかった。そのままふつうに生活をつづけていた。
そう考えると彬さんのようすがおかしかったことも、先ほどの乃木坂さんの反応も納得できる。
乃木坂さんがわたしを疎ましく思っているのは知っていた。彼が彬さんを大事に思えば思うほど、わたしの存在は許し難いものだっただろう。
彬さんは将来を嘱望された有能な嫡子。わたしは彼の父親が愛人に生ませた異母妹。それだけならばまだしも、なにを思ったのか、彬さんはわたしを恋人にした。半分とはいえ、たしかに血の繋がった妹を、彼の父親がそうしたように愛人として囲ったのだ。それはこの世では絶対に許されない禁忌。もしこの秘密が他人に知れたら、彬さんの社会的地位は失われて彼の人生は破滅する。
彬さんが父親の跡を継ぐ前から公私共にずっと彼に仕えてきた乃木坂さんにとって、それはあってはならない結末。
こんな致命的な不安要素をいつまでも容認できるはずがない。彼はいつかわたしを排除するために行動を起こすだろうとわかっていた。
それでもいいと思っていた。
彬さんのようすもだけど、わたしもちょっとどうかしている。気が付いたらまったく知らない場所にいて、そこでかつてのクラスメイトに再会したり。
柘植くんは変わっていなかった。相変わらず親切だったし、やはり少し不思議なひとだった。
彼に助けてもらったときのことは今でもよく覚えている。
わたしは子どものころから原因不明の頭痛に悩まされていた。なんの前触れもなく突然頭が割れるように痛みだしたり、ひどいときには痛みのあまりそのまま気を失うこともあった。
父と母がとても心配して病院で検査を受けることになったけれど、脳に異状はなく、結局原因はわからないまま鎮痛剤で痛みを紛らわす日々がつづいていた。
その日も、授業中に急に頭痛に襲われて、ぎりぎりまで我慢したけれどついに痛みに耐えかねて、教師に断りを入れて保健室へ向かった。
が、途中で立っていられないほどの激痛に変わり、冷たい廊下にしゃがみ込んだ。だめだ、もう吐く、と思ったとき。
肩を叩かれた。
それは、たまたま目に付いた埃を払うような軽い接触だったけれど、その瞬間、嘘みたいに呆気なく頭痛が消えた。治まった、ではなく、まさに「消えた」という感じだった。
びっくりして振り返ると、さっきまで同じ教室にいたはずの柘植くんが立っていた。なにが起きたのかわからず、わたしは呆然と彼を見あげた。
「大丈夫?」
特徴のあるハスキーな声で彼が尋ねてくる。目を見開いたままゆっくりとわたしはうなずく。
たった今、大丈夫になりました。
座り込んだままのわたしに手を差し延べて、柘植くんはよくわからないことをいった。
「今日のはたちが悪かったからつい手を出してしまったよ。大変そうだね、海棠さん。つらかっただろう」
彼の手を掴んで立ちあがる。その言葉の意味は理解できなかったけれど「つらかっただろう」というそのひとことが、思いがけず心に沁みた。視界がにじむ。
「わたし、おかしい?」
鼻を啜りながら、ずっと不安だったことを口にしていた。
柘植くんはクラスメイトだけど、とくべつに親しい間柄ではなく必要以上に言葉を交わしたことさえない。そんな相手からいきなり「わたし、おかしい?」と聞かれても返答に困るだろう。
そう後悔しかけたわたしに、柘植くんはあっさりと返事をした。
「おかしくないよ。海棠さんはちょっと敏感なだけだと思う」
きょとんとするわたしを見つめたまま柘植くんは尋ねた。
「海棠さんは、視えるのかな」
「え?」
「なんというか、人間でないものを目にすることはある?」
「えっと、それはつまり」
霊とかそういうもののことだろうか。思いがけない話の展開に戸惑いながら首を傾げる。
柘植くんはうなずく。
「霊的なものというよりは、棲む世界が違う、一般的には目に見えない、存在しないとされているもののことだけど」
わたしはふるふるとかぶりを振る。
「見えません」
そう、と柘植くんはつぶやく。
なんだろう。それがわたしのこの頭痛と関連があるのだろうか。頭のなかが疑問でいっぱいになったけれど、とりあえず、ふと気になったことを尋ねてみる。
「柘植くんは、その、視えるの?」
うん、とあっさり肯定されてわたしは絶句する。言葉をなくして立ち尽くすわたしに彼は問いかけた。
「ぼくのこと、気持ちが悪いと思う?」
ふいの言葉に驚いたけれど、少し考えてからわたしは首を振った。
「気持ち悪いとか、そんなふうには思わないよ。それに、さっき助けてくれたんだよね? なにがなんだかわからないけど、柘植くんに肩を叩かれた瞬間、嘘みたいに頭痛が消えたの。ありがとう」
お礼をいっていなかったことに気付いてあわてて頭を下げる。
「いや、それはたぶんぼくの力じゃないから。これを」
制服のポケットからなにかを取り出してわたしに差し出す。反射的にてのひらを向けてそれを受け取ったとたん、身体が軽くなった。澱んだ空気を一掃したように清々しい気分になる。
びっくりしててのひらを見ると、そこには小さな丸い石がのっていた。なんの変哲もないふつうの石に見える。
「なにか感じた?」
「うん、すごくすっきりした。これはなに?」
「よかった。効果があるみたいだね。たぶん、海棠さんは影響を受けやすい体質なんだと思う。そういうものを引き寄せやすい。海棠さん自身に問題があるわけじゃないから気に病むことはないよ。ぼくの知り合いにも似たようなひとがいる。本人は自覚していないようだけど」
そういって柘植くんは微かに笑う。きっとそのだれかを思い浮かべて零れた笑みなのだろう。やさしい表情だ。
どうしてか、胸がチクリと少し痛んだ。
「そのひとは、大丈夫なの?」
「うん。力のあるひとがそばにいてずっと守っているから」
この石も、と彼はつづける。
「そのひとの力を受けているから魔除け代わりになると思う。海棠さんが持っていて」
「えっ、いいの?」
「うん」
その石を、今もわたしは大事に持っている。
効果はてきめんで、その日以来、あれほどわたしを苛んだ頭痛や吐き気はぴたりと止んだ。
いったいどれほどの力がこの石に作用しているのだろう。
柘植くんには聞きたいことがまだたくさんあったけれど、それからしばらくしてわたしの母が他界し、自分の身に起きたさまざまな変化によって、その日以降、柘植くんと個人的に話をすることはなかった。
今日、あの場所で再会するまでは。
うとうとしていたらしい。
隣に彬さんの姿はなかった。
視線を巡らせてわたしは息を呑む。彬さんはいなくなっていたけれど、彼の秘書の乃木坂さんが座敷の戸口に立ち、わたしを見下ろしていた。
感情の読めない抑制された表情に冷たい眼差し。彬さんの右腕といわれるくらいだから有能なのだろう。
だけど、わたしは彼が苦手だった。
乃木坂さんは青白い顔をしてじっとわたしを見ている。
彼は彬さんを迎えに来るとき以外にも、わたしに食料や生活用品を届けるためという、彬さんのごく私的な使いで定期的にこの家を訪ねてくる。
その役目は、乃木坂さんにとって不本意以外のなにものでもないはず。それを証明するように、彼は必要最低限しか口を開かないし、決してわたしの顔を見ようとしない。
その彼がわたしを凝視している。忌まわしいものを見るような眼差しのなかに、わずかに覗いた感情のかけら。
動揺。そして、恐れ?
なぜ。
はだけた衣服を掻き合わせて、わたしはそろりと身体を起こす。びく、と微かに後退した乃木坂さんの口から漏れた言葉。
「なぜ」
驚いて目を瞠る。それはわたしの台詞だ、と思う。
なにかがおかしい。彬さんといいこの乃木坂さんといい、なにか、いつもとようすが違う。
厭な感じだ。わたしひとりだけがなにも知らずにいるような気がする。それは、わたしの世界がとても狭い、限られた部分でしか機能していないせいかもしれない。
彬さんと乃木坂さん。ふだんのわたしの生活には、このふたりしか存在しないといっていい。だから彼らに異変が起きると、それに比例してわたしの足許も不安定になる。
「彬さんは、どこに」
そう問いかけたけれど彼が答えてくれるとは思えなくて、途中で口を噤む。
額を押さえる。それはわたしの癖だった。
柘植くんからまだあの石をもらっていなかったころ、頭痛に襲われるたびにてのひらで額を押さえ付けた。それで症状が軽くなるわけではないのだけど、無意識のうちに手が動いた。
そのせいか、いつからか、不安になると額に手をあてる癖が付いていた。
石は。
いつも肌身離さず持っているあの石が見当たらないことに気付いてあわててあたりを見まわす。部屋の隅に置いてある鏡台のうえにそれを見付けてほっと息をつく。
布団から出て鏡台に向かって手を伸ばしたとき。
後頭部に衝撃を受けた。
畳に両手をついた姿勢で肩越しに振り返る。背後に、見覚えのある細長い花瓶を手にした乃木坂さんが立っていた。
撲られた痛みは感じなかった。
ああ、そうだったのか。
腑に落ちた。
もう一度、凶器を振りあげた彼を見あげてわたしはいった。
「無駄です。もう、わたしを殺すことはできません」
彼の動きが止まった。
「なぜ」
色をなくした唇がふたたびつぶやいたその言葉。
「なぜあなたがまだここにいる? 私が」
殺したはずなのに。
能面のような顔をした男はそういって手にした花瓶を落とした。鈍い音がして畳のうえを転がる。
不思議なほど冷静な心持ちでわたしは応えた。
「わたし、気付いてなかったみたい。自分が死んだことに」
あの日、いつものように荷物を届けてくれた乃木坂さんは、珍しく、わたしが用意したお茶に手を付けた。もちろんそんなことはそのときがはじめてだった。嬉しくて、急いで茶菓子を用意して戻ったわたしは緊張しながら自分の湯呑みに口を付けた。
そして。
わたしは死んだのだ。
おそらくお茶に毒が盛られていたのだろう。けれど間抜けなことに、わたしは自分が死んだことに気付かなかった。そのままふつうに生活をつづけていた。
そう考えると彬さんのようすがおかしかったことも、先ほどの乃木坂さんの反応も納得できる。
乃木坂さんがわたしを疎ましく思っているのは知っていた。彼が彬さんを大事に思えば思うほど、わたしの存在は許し難いものだっただろう。
彬さんは将来を嘱望された有能な嫡子。わたしは彼の父親が愛人に生ませた異母妹。それだけならばまだしも、なにを思ったのか、彬さんはわたしを恋人にした。半分とはいえ、たしかに血の繋がった妹を、彼の父親がそうしたように愛人として囲ったのだ。それはこの世では絶対に許されない禁忌。もしこの秘密が他人に知れたら、彬さんの社会的地位は失われて彼の人生は破滅する。
彬さんが父親の跡を継ぐ前から公私共にずっと彼に仕えてきた乃木坂さんにとって、それはあってはならない結末。
こんな致命的な不安要素をいつまでも容認できるはずがない。彼はいつかわたしを排除するために行動を起こすだろうとわかっていた。
それでもいいと思っていた。