青の一滴

文字数 4,995文字

「我ここにありと叫びぬ 千よろずの中の一つの星と知りつづ」

 微かに薬品の匂いがする部屋の中をそんな言葉がぽつりと落ちてきた。今この部屋には私と、同僚の山崎さんしかいなかった。必然的にこの言葉の主は山崎さんで、私に何らかの反応を求めているのだろう。
 山崎さんは私の二つ年上の女性の先輩だ。スラリとした高身長の白衣姿はとても良く似合っていてクールな格好良さを感じさせる。一方で、そのほっそりとした体躯と小枝のような指先がまるでガラス細工のような儚さをも感じさせた。そのアンバランスさはある意味とても美しく、私はいつも見とれてしまうほどだった。
「何ですか? それ」
 私は試験管を振る手を止めずに、山崎さんから発せられた言葉の真意を問う。しかし作業に集中しているのか返答はない。目をやると、彼女の繊細で今にも壊れてしまいそうな指はピペットと呼ばれるガラス製の試験器具を扱っていた。細くて透明なそのガラスの筒は青色の薬液を吸っては複数のフラスコに吐き出している。
「香川不抱って詩人が昔いたのだけれど」
 暫く間があって、彼女はまたぽつりと言葉を吐き出した。
「自分は幾千もの星々の一つにすぎないと知ってはいるけれど、私はここにいるんだって叫ぶんだ。っていう意味なんだって」
 文学の良し悪しが分からない私は、詩の意味よりも彼女の伝聞口調の方が気になった。彼女の交遊関係を探りたい気持ちにかられたが、ただの一後輩である自分がどこまで踏み込んで良いものか分からないから結局、
「はぁ……そうなんですね」
 とだけ答えるしかなかった。そこへ部屋の扉が開かれて、
「あー、おっさん腹減ったなぁ」
 と呑気な恰幅の良いおっさんが入ってくるものだから、その話は終わってしまった。
「森さん、お早うございます。あと五分でお昼ですよ」
 私は残念に思いながらも内心ほっとして、本日初対面の自称おっさんこと、森さんに挨拶をした。
「おうっ、おはよう……今日はじめてやったな。最近そっちの部署はどうよ?」
 森さんは笑いつつお決まりの挨拶を返してくれた。森さんは六十代後半の大ベテランで部署は違うがその気さくな雰囲気が、私にとって彼を職場で一番気の許せる人にせしめている。森さんの広い面倒見の良さと豊富な経験値は私だけでなく部署・立場の関係なしに周囲の者達からいつも頼りにされているものだった。
 何だかんだと話しているうちに五分経ったらしく、鐘が鳴った。昼休憩だ。

――

 食堂でお昼を食べていると、またもやおっさんこと森さんがトレイを持って私の前に現れた。
「さっきは悪かったな」
 森さんは私の対面にトレイを置いて、いつもの豪快な口調とはうってかわった申し訳なさそうな口調で開口一番に謝るものだから私は面食らってしまい、寸時言葉が出なかった。
「山崎ちゃんとなんか話してたの邪魔しちゃったかなって」
 森さんが続けて言った言葉から、あぁ、と私も合点がいった。森さんは私と山崎さんが仲良く話しているところを邪魔してしまったと思っているのか。
「そんなことないですよ。寧ろ助かったくらいです」
 言ってから、助かったという表現は山崎さんに悪いかなと思ったが、後の祭りだ。森さんの目がくるりと回って不思議そうにこちらを見る。
「そうかい? なら良いけど。でもあんた山崎ちゃんと仲良うしたいんちゃうの?」
 言われて胸の辺りがドギリとする。それを気取られない様に、ははっと笑って、そう言えばと私は続けた。
「自分は数多の星の中の一つでも、ここにいるんだって叫びたいって……」
「山崎ちゃんとそんな話してたの?」
「はい。昔の人の詩らしいんですけど、よく分かんなくて」
「ははぁ、大層崇高な話してんな。おっさんには難しいわ」
 会話が進み、食事も進む。お互い食べ終わって、さあ戻ろうかとなった時に森さんが声のトーンを落として囁いた。
「そういや、山崎ちゃん、最近元気無さそうやんな。悩みでもあるんやろか」

――

 食堂舎から出ると日の光が眩しかった。組んだ両腕をすっくと上に伸ばして息を深く吸い込む。空が青い。アスファルトの照り返しが熱く、夏が来たと実感する。工場内に植えられた路樹の新緑やあちらこちらの建屋の屋根が陽光を反射して煌めいている。
 私は自分の建屋に戻る道中、伸ばした両腕を右に左にと揺らしながら、そう言えばあの倉庫で作業中に梯子から落ちて怪我した人がいたらしいな、とか、この間の火災訓練でそこの広場に集まった従業員はえらい数だったなぁとか、ぼんやり考えながら歩いた。

 ――

 昼休憩の後には必ず部署内でミーティングがある。これは日々のルーチンの一つだ。ミーティングのはじめにリーダーが口を開いた。
「上からのお達しで、再度注意喚起することになった。皆くどいけどよく聞いてな。
 ひとつめ、『我が○○製薬会社、品質管理部門は医薬品を使用するお客様の安全安心のため原料及び製品の分析・検査試験は薬局法に基づき、正しく信頼のおけるよう行います。得られたデータは誠実に取り扱い、改竄等の不正が起こらないことを誓います。』ってことだけど、皆言えるようにしとくように」
 品質管理の不正問題は度々ニュースで耳にするが、近年消費者の不安が高まる中うちの品質管理部門もより厳しい管理体制が求められはじめてきた。その対応に追われて最近はバタバタ過ごす毎日だ。
「そんでふたつめ、今度は製造の方でまた労災があったらしいわ。皆も気を付けてな」
 また労災か。そう思ったが、同じ工場内での出来事なのに私はどこか実感が湧かなかった。労災は当人にしたら大事件だ。もちろん会社としても。けれど大勢の従業員の内のよく知らない現場で起きた出来事はどこか遠い世界のことようで、実際至極身近な出来事であるはずなのに自分とは無関係にも思えてしまう。まるで大海の一滴だ。それを気に留めない自分がいることにハタと気がついてしまった。同時に午前中の山崎さんの言葉が頭をもたげる。自分もまた幾千の星々の一つ、つまり大海の一滴にすぎないのだ。そう思ってしまったら、真夜中に静まり返ったトンネルを独りで歩いているような、何とも言えない不安が込み上げてきた。

 「我ここにありと叫びぬ 千よろずの中の一つの星と知りつづ」

 山崎さんは何故、どこか孤独を感じるこの詩を私に溢したのか。気まぐれか。森さんの言葉が脳裏にひっかかる。何かSOSが隠れているのだろうか。

――

「あ、山崎さん。今日派遣会行きますよね?」
 午後の仕事が始まると、午前の続きをしながら今度は私から山崎さんに声をかけた。
 「派遣会」とは、「派遣社員が集う会」の略である。実は、私も山崎さんも森さんもこの○○製薬会社の一員ではない。某派遣会社の社員としてここにいるのだ。アウトソーシングという形態でクライアント先に科学的な専門技術を提供するための派遣社員。それが私達なのだ。この会社には私達の他にも同様の派遣社員は沢山いるし、近隣会社にも沢山いる。
 「派遣会」は年に一度、周辺地域に派遣された仲間が仕事帰りに集まって親睦を深める食事会のことだ。また、派遣会社に対する我々の帰属意識を高める救済措置でもあった。
 私は今日開催される「派遣会」に山崎さんが来ると良いな、と思った。そしたら悩みを何か聞き出せるかもしれない。
 しかし返事はない。目をやると山崎さんは青色の薬液が入ったフラスコに今度は透明な液を入れていた。繊細かつ素早い手つきで次々とフラスコに液をいれていく。フラスコの中の青色が薄まってスカイブルーになっていく様はとても美しかった。
「綺麗ですね」
 思わず言葉が溢れてしまった。発した言葉が何故だか内心の動揺を誘い、頭の中で「青色が」と言葉を付け足す。そして、そう言えばこんなに綺麗な分析試験がルーチンにあったかなと不思議に思った。
 少しして作業に一段落がついたらしく、山崎さんから一寸前の答えが返ってきた。
「この銅の青色が綺麗よね。……派遣会は行くよ」
 やはり滴がぽたりと落ちてくるような、そんな喋り方だった。

 ――

 腕時計を見ると針は二十時半を指していた。本日の業務も派遣会も無事終わり、私は遂に山崎さんと二人で二次会に来てしまった。
「何か悩みでもあるの?」
 どうにか山崎さんの悩みでも聞けたらと思っていたところ、先に山崎さんに聞かれてしまった。
「実は……」
 私はなんと切り出したものかと逡巡し、咄嗟に出たのは……。
「仕事に自身が持てないんです。派遣と言っても正社員だし、仕事に誇りはあるけど、派遣って響きが……お前大学院まで出て何やってんのって、世間様に笑われてるんじゃないかって。友達にもちゃんと言えてなくて」
 愚痴だった。お酒のせいか、言葉は止まらない。
「それに、○○製薬会社にとって私は沢山の派遣のうちの一人にすぎないから。私は社会の中でどこを漂っているのか分からなくなりました」
 私は吐き出してしまった愚痴の着地点に困惑して、視線を手元から山崎さんへそっと移す。山崎さんの心配そうな眼差しとかち合った。顔が熱い。私は内心の動揺を落ち着かせるために、そして頬の熱さを誤魔化すために、残りのお酒をぐいと飲み干してさらに言葉を続けた。
「なんて、案外他人の事なんて皆どうでも良いから気にしなくて良いんですけどね。黙って働いてればお金も入るし。それよりも、山崎さん最近元気無いから何か悩みでもあるのかなって思ったんですけど」
 一気に話を変えると、山崎さんはいきなり自身の話題になったからなのか、やや眉間に皺が寄った細い目は一転して、大きく開かれ、そしてまた細まる。照れた様子でふふっと笑って、相も変わらずぽとりと言った。
「私、結婚するの」

 ――

 山崎さんは結婚を機に○○製薬会社を離れてしまった。今は別の地のクライアント先で働いている。結局山崎さんが元気が無かった訳は、ここを離れるのが寂しかったかららしい。残された私達も山崎さんが離れていくのをとても惜しんだ。
 彼女の仕事は新しく来た派遣仲間と彼女の後輩である私に振り分けられることとなった。私の目の前には今、彼女の名残であるスカイブルーのフラスコが並んでいる。あの時はルーチンとして見たことのない分析試験だから不思議に思ったのだけれど、山崎さんは発売予定の新製品の分析方法がちゃんとうまくいくかを検討していたのだった。彼女の特別な仕事は、今は私の特別な仕事としてここにある。
 このスカイブルーの液体は、青色の薬液の一滴と検査する製品の試液一滴を水で薄めて出来ている。青色の一滴は透明な水にいくら薄められようと、そこに存在していることを誇示するように淡く色づく。あの夜の山崎さんの言葉を思い出す。
「派遣って言葉は確かに偏見の目で見られることもあるし、私達は大勢いる派遣社員の中の一人にすぎない。けれど、それぞれがクライアントの力として必要とされて、その仕事はクライアントのお客さんにまで役立てるのよ。川島さんは自信を持って良いんだよ」
 山崎さんは結婚報告した後に私の愚痴に気を遣ってか心配してくれたからなのか珍しく饒舌に、必死に私を励まそうとしてくれた。その口から自分の名前が出てきた瞬間、私は何故だか涙が一筋垂れてしまった。きっと酔っぱらっていたせいに違いない。そうに違いない。
 物思いにふけりながらも手は動かす。スカイブルーのフラスコにさらに一滴薬液を垂らすと、液体はみるみる青紫色に変化していく。これは検査する製品にちゃんとした成分が含まれているという証だ。この深い深い青紫色は、試液一滴分の成分が見つけてくれと叫んでいるようで、それは力強い訴えに聞こえた。

――

 お盆、私は久しぶりに故郷に帰った。学生時代の友人がどうやら夏風邪を引いたらしいと聞いたので、お見舞いに出掛けて互いに語らった。古い話に花が咲き、そして互いの近況に話題は移ろう。
 私は近況に言い淀んで視線を動かすと、友人の脇に見覚えのある薬があった。思わず、あっと声が出てしまう。ちょうど私が検査している薬じゃないか。私は勇気を出して近況を話した。
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