貴子さんの夢

文字数 1,997文字

「今日アヤが夢に出てきた!」
「どんな夢ですか?」
「なんだったっけかなー、忘れちゃった」
貴子さんは笑った。わたしもね、夢に出てきたよ。貴子さんと一緒にいる夢。それ以外のこと、どこにいたとか、どこに行ったかとか、何を食べたとか、何を話したとか、うまく思い出せないけど、わたしにとって貴子さんと一緒にいる時間は生きている中で一番楽しい時間だから、それ以外わたしにとって大事はなことは何ひとつとしてなくて、それだけは間違いようもなくはっきり覚えていることだから。

 貴子さんがわたしの上司になってから二ヶ月がたった。出会ったときの貴子さん。コピー用紙のように白い肌。長い睫毛。ぱっちり二重まぶた。そして、ほのかにするタバコの匂い。
「こんな綺麗な人が世の中にいるんだ」
そう思った。

 貴子さんのことを貴子さんと呼ぶまでにそんなに時間はかからなかった。最初は部下としてかわいがってくれたが、仕事以外の私生活の話もするようになった。どこに住んでるとか、最近何を食べたとか、おいしいお店がどこそこにあるとか、好きな映画、好きな小説、そんな話。平日の夜もたまに休日も二人で会うようになって、一日中、喫茶店でおしゃべりした。
「敬語疲れない?今日からアヤはトモダチ!」
「はい!トモダチ嬉しいです。でも、敬語はもう少しだけ、いいですか?」
わたしは貴子さんとトモダチになった。


「東京に彼氏がいるの」
「その人と結婚して東京で暮らそうかな?って思ってて」
貴子さんの誕生日の夜にレストランの席で貴子さんはそう言った。わたしはいつか来るこの日がなぜこの日なのかと思った。
「アヤはわたしが東京行ってもトモダチだからね!トモダチ〜!」
貴子さんは小さい子どもが甘えるようにそう言った。
「良かったです!東京に行ってもわたしたちトモダチですからね!」
声はふるえていた。

 貴子さんはわたしが何か言いたそうにしているとき、心の中が見えるみたいに何を言いたいのか正確に言い当ててくれた。辛い?苦しい?いつだって貴子さんはわたしのことをなんでも知っていた。貴子さんは他の人とは違う。わたしのことを受け入れてくれる。今日もきっとそうだ。
「貴子さん、お話があります。聞いてくれますか」


 部屋に戻ると真夜中だった。乾いた涙が顔にへばりつき、湿った涙が全身をくしゃくしゃにした。灯りをつける気にもなれなかった。しばらくして、ほこりだらけのカーペットの上に座り込んだ。

 貴子さんがわたしの心の中に行ってしまう前に、記憶の中の人になる前に、わたしは貴子さんのことを必死に思い出そうとした。白い肌、タバコの匂い、右目の方が広い二重まぶた、茶色い髪、細い指。仕事のことを教えてくれた。わたしが作った書類も見てくれた。入札の案件がとれなくても次はがんばろうねって言ってくれた。一人だった時間も貴子さんと一緒にいることが多くなった。わたしは貴子さんがする貴子さんの話を聞くのが好きだった。20代の頃に夜職をしていたこと。お酒が好きだってこと。いつか二人で飲みに行ったとき、貴子さんのペースでお酒を飲んだ。貴子さんと一緒のお酒を飲みたかったから。お酒の本も買って勉強した。でも、わたしはお酒に弱くて吐いてしまった。トイレで貴子さんに嫌われないように必死にハンカチとトイレットペーパーで拭いたけれど、ゲロの匂いはとれなかった。でも、貴子さんはゲロ塗れのわたしの背中をさすってくれた。ずっと、だまって、さすってくれた。


 貴子さんの誕生日の夜、わたしは貴子さんに全てを話した。女性が好きだということ。貴子さんのことが好きだということ。でも、トモダチのままでいられたらそれで十分幸せだということ。貴子さんはだまって聞いていてくれた。
「話してくれてありがとうね。アヤはこれからも大事なトモダチだよ!」
貴子さんはトモダチという言葉をその後何度も使った。自分に言い聞かせているみたいだと思った。どうしたらわたしが傷つかないか。貴子さんがそれしか考えていないことに気づいたとき、待ち焦がれていた涙が溢れた。


 貴子さんは東京に行ってから連絡がとれなくなった。知り合いを通じて連絡先を知ることはできたがそれはしなかった。貴子さんがなんで連絡を断ったのか分かっていたから。

 貴子さんはもう心の中にいて、記憶の中の人で、ふっと思い出すときしか会えないのであって、ふっと思い出さなければもう会えないのであって、夢に出てくれば思い出して、起きてしばらくしたら貴子さんはいなくなって、貴子さんはたしかにわたしの中にいるはずで、でもどうしたって見つからないので、もうすぐ朝がわたしを迎えにくるので、残されたわずかな夜を全部使いはたして、貴子さんに処方された夢の中で、貴子さんに会えるのを願って、眠りの中で、目を閉じて、眠った。
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