第二話「その夢は、量子もつれのように」

文字数 7,658文字

 一つの数式と戦っているうちに、いつの間にか青磁色に空が染まっていた。私、ユニス・ド・ロレーヌは一息つくために書斎の椅子に腰かける。そして、紅茶が入ったティーカップを手にしながら昨日の夢について思考にふけることにした。あの夢はなんなのだろうか。
 それは一人の少女がでてくる夢だった。しかも、鏡に映る自分は私そっくりだったので
ある。夢の中の私は学生らしく、……学校だろうか、妙な服装を着た人物たちが授業を受
けていた。少女が同級生と歓談している様子を垣間見た。見慣れない箱状の機械、見慣れ
ない車、見知らぬ街……。どれもこれも私の世界とは違う風景だったのである。
 夢にしては現実感があった。意識も明瞭で、教室内の机と椅子さえの感触を憶えていた。
夢にしては驚くほど精緻に構成された世界だったのである。
 彼女は何者だろうか?それとも私の生き別れの双子なのだろうか?とにかく、いろいろ
と疑問は尽きないばかりである。
 あの少女と私に何かしらの因果関係を見出すにせよ、いろいろと根拠となる部分が欠け
ていた。あの世界が別世界だとして、何かしらの係累を見出さなければならないと思案す
ることにしたのだった。
 さて、夜が明けるにつれ、街々が橙に染まりゆくのを見るのは朝の楽しみでもある。街々に躍動と調和が入り混じって、まるで抒情詩のような風光明媚な風景画ができる様は見ていて飽きなかった。秩序に並び立つ建築物と、無秩序に入り乱れる人々とが織りなす風景は、まさしく交響曲に思えるほどである。秩序と無秩序。それは普通に暮らす人々が風景を審美的に観察するのと同様に、多くの学者が興味と関心を持って研究している部分と似通っているのかもしれない…。
 そう考えたところで、私は手元の紅茶を飲み終える。そして、書棚の前に行き一般相対性理論の専門書に目を通した。
 相対性理論は、かの有名なアインシュタインが構築した理論である。その理論は重力なしで考える特殊相対性理論と、重力ありで考える一般相対性理論で構成されており、私はその後者の方に関心が深かった。より分かりやすく言えば、一般相対性理論の方は重力とは何かを説明した学問と言っても差しつかえない。
 いまここで、私が殊更に興味があったのは一般相対性理論の中の宇宙論の話である。というのは、私が大学において研究テーマにしているのは宇宙物理学の分野で、様々な宇宙モデルに関心を抱いているためでもあった。
 本の中でも特に関心があったのが、フリードマン宇宙モデルである。ソビエトの数学者であり物理学者でもあるフリードマンが一九二二年に提示した宇宙膨張に関するモデルとして知られている。物理学的な条件を付与することで、宇宙が加速膨張や減速膨張、あるいは収縮しているのかどうかを想定することが可能となった。歴史的には、ハッブルの観測により宇宙膨張が示されたことで、フリードマン宇宙モデルは注目を集めたのである。
 このようにして、一般相対性理論の本に目を通していると、来訪者のノック音が聞こえた。私はその来訪者を迎えるべく、音のする扉の方に歩いていき、ゆっくりとドアを開けた。
 早朝からの来訪者は友人のティエリだった。ティエリは、違う研究室の同期ではあるが、なんだかんだで幼少期以来付き合いが長い、いわば腐れ縁である。
 「やあ、お嬢さん。ご機嫌いかがかな?」
 開口一番、一輪の花を持って諧謔的に友人が挨拶をする。私は半笑いの表情を浮かべると、淡々とした口調でこう答える。
 「なんだ、ティエリか。生憎だが、君の分の紅茶はないぞ」
そう言って扉を閉めようとする。すると、ティエリは慌てた様子で、扉の間に足を入れて閉じるのを制した。
 「おいおい、ジョークだよ、ジョーク。この僕がせっかくいい本を持ってきたというのに」
 「君のジョークはさして面白くないからな。……それでいい本ってなにかな?」
 「重力波にまつわる本だよ、君が前読みたがってたやつ」
 重力波、その言葉に私の好奇心はくすぐられたと言っていい。結局、私はその好奇心に
勝てなかったので、仕方なく彼に紅茶を出すことにした。
 「しかし、あれだな。せっかくの休日なのに、君がやってくるというのは珍しいな。大抵
は女遊びにふけっているもんだと思っていたが」
 「僕だってちゃんと日々の現象について思考にふけっているさ。第一、君のためにちゃん
と専門書を持ってきたじゃないか」
 彼はそう言うと、その専門書を私に差し出した。私はその専門書をざっと目を通した。なるほど。確かに重量波について、子細に渡って説明された中々の良書らしい。その本は、色あせてなく、なかなかの重みのある本である。背表紙は金字で題名が刻まれた重みのある本だった。
 専門書をぱらぱらとめくっていると、彼は興味深そうに聞いてくる。
 「専門外で申し訳ないが、重力波というのは一体どういう波なのか、この僕にもご教授願いたいかな」
 ふむ、と私は考え込むそぶりを見せる。彼はある程度一般相対性理論にも素養があるか
ら、大雑把に説明することにした。
 「……そうだな、言うなれば宇宙の深淵から来る時空のさざ波といったところだ」
 「時空のさざ波?ということは、時空の歪みが波として押し寄せるということなのかな」
 「ああ、そうだ。そして、その波が観測地点に到達することで、空間が伸縮を始める。その空間の伸縮を検出できれば重力波の直接観測というわけだ」
 「なるほど。しかし、その波の直接検出は未だなされていない。だからこそ、こうして記事になるほど騒がれるわけだ」
 「そういうことだ。しかも、太陽と地球の間の距離で、ようやく水素原子一個分ほどだけ空間が伸縮するぐらいの小さな波だ。故に、直接観測のためには大掛かりな装置を必要とする。いずれにせよ、観測するのはそう容易ではないだろう」
 その話を受けて彼は、何やら考え込んでいるようだった。本来、ティエリの専門分野は量子力学である。それはハイゼンベルグやボーアらが切り開いた物理学の一分野として知られている。
 ひょっとしたら、彼は彼なりに思うところがあるのかもしれない。物理学の議論において多角的な視点は重要である。だから、彼なりの考えを聞いてみることは影の部分を明るくする可能性さえ秘めている。
 「大雑把には理解できたが、やはり理解していない部分があるな。もう少しそこら辺を掘り下げないと全体像はまるでわからん。それで自分なりに思ったんだが、その波の小ささからすると測定には限界があるのではないかな?」
 「もしかして、ハイゼンベルグの不確定性原理のことか?」
 「そう、それ。それだけ小さな波の観測だと量子揺らぎが存在するからね。正確な測定ができるかは怪しいものがあるかもしれない」
 ハイゼンベルグの不確定性原理は、大雑把に言えば粒子の位置と速度が同時に観測できないという原理のことである。
 それはドイツの理論物理学者であるハイゼンベルクから端を発している原理である。例
えば、位置が観測されると同時に運動量は求まらず、その逆も然りなのである。
 「しかし、測定の定義が明確にされていないから、不可能とも言い切れん。まあ、これは今後示されていくだろうが。ところで、その本は大学の図書館から借りてきたものか?」
 「いや、友人から譲り受けた。礼ならそいつに言ってくれ」
 「友人?」
 「ほら、あいつだよ。君の親友であるところのね」
ティエリと同様に、その彼は親友でもあり、私と専門分野が同じである。違う研究室ではあるが、よくたびたび私と議論を交わしては互いに切磋琢磨する仲間である。
 「ああ、例のあいつね。わかった、彼には私から直接礼を言っておくよ」
 このようにして、私たちのような物理学者の卵は、仲間内で議論や世間話をして過ごすことが多かった。異なる分野同士が集まり、物理学の進展について語り合うことは、暗澹たる動乱の中でも、お互いを鼓舞し、学問への意識を高めるのに重要となるコミュニケーションでもあったのである。
 こうしたしばしの会話のあと、私たちは各々読書をして過ごしていた。私は引き続き重力波についての本を、ティエリはイングランドの冒険小説を、それぞれ各自で読みふけった。しばしののち、昼になるとティエリが口を開く。
 「久々に二人で表に出ていかないか?…まあ、気分転換ってやつだな。家にいるよりは外に出てカフェでゆっくりするのもありだと思うんだ」
 「……ん、もう少し読んでいたかったのだが。しかし、久しぶりに珈琲が飲みたくなったのも確かだし、たまには外に足を運んでみるか」
 そこのカフェというのは私の行きつけの場所である。そこの店主は私と顔見知りであり、よく午下のカフェの一杯を頼んでいる店であった。
 私はさっそく余所行きの服に着替えると、ティエリとともに、暖かな日照りの中、街中にあるそのカフェに立ち寄った。
 カフェの主人は中老年の男性で恰幅のいい装いをしている。彼は悩める人々に時には優しく助言をくれるれっきとした紳士である。彼は私たちの顔をみるとにこやかに出迎えてくれた。
 「やあ、よく来たね。ティエリに、そしてユニスか。久々だね」
 いつものように店主が莞爾たる笑顔で迎えてくれた。
 幼少期のころからここの主人にはお世話になっており、時々人生の路地で迷ったときはよく相談に乗ってくれる人でもある。
 店主は周りを見渡すしぐさを見せると静かにこう言った。
 「彼は……流石に来てないか」
 「彼は外出はおろか、ここに来るのも遠慮気味のようだからね」
 私は彼が置かれている状況を説明した。
 ティエリも、そして私もいつでもこの店に来てもいいと促してはいるものの、とある事情で店主に迷惑をかけるかもしれない、そういう想いが彼の胸中にあって顔を見せることはなかった。私たちは彼の心境を慮って、店に来るように強制はしなかったのである。
 「そういえば、我が国ではついに右翼の火の十字団が政権のかじ取りをするらしい」
と、店主は口火を切るかのように話題を振った。
「ああ、ラジオで聞いたよ。いよいよもって、私たちはかの国の一部になるようだから
ね」
と、私はラジオで聞きかじった内容を返した。
 このニュースに対し、ティエリは些か不安そうな顔をしていた。というのは、彼はあの友人のことをとても心配していた。なぜならば、彼らに対して国の監視の目が光っており、いつ危害が加えられないかと、私たちは常日頃から危惧していた。
 ティエリはコーヒーを一口飲むとこう口火を切った。
 「やはり、あいつを国外に送り出すことは難しいのかね?」
 「国境線は封鎖されているし、なにより奴らの監視の目が強い。今のところ国外亡命は難しいだろう。それに彼は故郷にとどまることを選択した。だから、僕らが後ろから支えてやらんとな」
 「そうだね。そのために僕たちが後ろ盾になってやらないと」
 店主は私の考えにいくらか同調したようだった。
 彼のように迫害されている民族は、国内に数多く存在した。政府主導のもと、我が国は民族浄化に走りつつあった。彼らに対する迫害が日に日に酷くなっていくのを、私たちは見守るしかなかったのである。
 しかしながら、そのような情勢下でも私たち学生はいつものように日常を送っていた。たとえ多くのものを失ったとしても、数式は輝きを失わず、むしろ美しさを保持していたのである。ひょっとしたら、このような情勢下だからこそ、数式は輝いて見えるものかもしれない……。私にはそう思えてならなかった。
 「しかし、あれだな。このような情勢下だからか、いつもより人が少ないな」
 ティエリが店内を見まわしながら言うと、ポーロは正確に状況を説明する。
 「仕方がないさ。我が国は、目下のところ逼迫していた経済が悪化の一途を辿っているんだ。さすれば国民は緊縮生活を強いられるほかないからね」
 ティエリは淹れたての珈琲を一口飲むと、店主にこう尋ねる。
 「それで、店主はどう考えているんだ?無論、例の排斥運動についてだが」
 私は内心ではまずいと感じたが、あえて制することもなかった。私自身、その話題を避けようとするのは、彼らに屈服したような気分になってしまうと思っていたのである。
 店主は一人一人にウインナーコーヒーを淹れながら、微笑みながらこう返した。
 「あまり大っぴらなことは言えないが、うちはああいった思想とは相反する構えだがね。馬鹿げた話さ、入店お断りの店が出てきているというのはね」
 このように、民族主義的思想は街中の店にも表れてきていた。国民の間でも彼らに対する排斥デモが発生している。さらに言えば、本来彼らを庇護する側である総連合ですら対政府協力に傾きつつあったのである。
 「まあ、私たちが解放されないことには、この状況を打破するのは困難を極めるだろう。できれば数年内に決着がついていればいいが」
と、私が心配そうに口にすると、店主は堂々たる口調でこう言ってのける。
 「私たちとしては人種や信仰にかかわらず、お客様にこのカフェで寛ぎの時間を送ってもらいたいだけのことさ。そのために僕らはいつも新鮮で美味しいコーヒーをテーブルに提供する。ただそれだけのこと、何も変わりはしない。……さて、僕は仕事があるし、これにて失礼するよ」
 店主はすごすごと店内の奥の方に作業をしに戻っていくと、私たちは淹れたての珈琲を再び口にした。そして、私たちはいつものように世間話や他愛のない話をしていくのであった。

 カフェで話に夢中になっていると、いつの間にか夕暮れ時になっていた。私はティエリの提案で、海岸を二人で散歩することになり、砂浜に足を運んだ。私たちは言葉を交わさずに幾分の間夕日を眺めていた。太陽が地平線に隠れて半分になったあたりでティエリが口を開いた。
 「こうして夕日を見ていると、動乱と混乱の中だということを忘れてしまう」
 「全くだ。こうしていると昔を思い出さないか?まだ俺たちが幼かった日のことを」
 「ああ、そうだな。昔はティエリなんかも泣き虫ティエリなんて呼ばれててさ。よく下級生に泣かされてたっけ」
 「おいおい、僕がいつ、どこで、誰に泣かされてたのさ」
 ティエリが困ったように苦笑すると、私は意地の悪い笑みを浮かべながら、
 「そうだな、私の記憶だと、冬の日に、下級生に川の中に靴を投げられてさ。それで、ティエリが泣き出したんだっけな。今でも明確に思い出せるよ」
 「そんな昔の話なんて覚えてないよ。まったく、ユニスは変なことばかりは覚えてるだから」
 ティエリは幾分不貞腐れたかのように肩を落としたが、再び前を向くと灼熱のような太陽が橙色を放ちながら沈んでいく様を眺めながらこう言い放った。
 「なあ、ユニスはさ。もしこの街に平穏が訪れたら、どうするつもりなんだ?」
 「どうするもなにも、私は彼とともに研究を続けるつもりだよ。無論、ティエリもそうするんだろ?重力波の研究ほど面白いものはないからね」
 「そりゃそうなんだろうけどさ。研究室、というか研究所選びはどうするのかちょいと気になってね。いやなに、女性研究者がちゃんと優遇されて、十分に暮らしていけるだけの給与が貰える所なのか、ちょっと気がかりになっててさ」
 「そういうティエリはどうなのさ?」
 「俺はほら、とびきりの美人研究員がいる研究所選びには抜け目はないのさ。少なくともユニスよりは美人な研究員がいるところがいいかな、とは思ってはいるよ」
 「全く、言うに事欠いてこいつは……。少しはあいつのことを見習ったらどうだ」
 そうだ、あいつならきっと、誰よりも模範生である彼ならティエリに対してきっと苦言
を呈するだろうと。
 そう思ったところで、私は頭の中に記憶のようなものが流れ込み、唐突に痛みが走った。そして、頭の中に人々の悲鳴の声と血みどろの映像が流れ込む。私の腕の中で抱かれている朱に染まった人物の映像が。そして、私の中で彼の声が蓄音機のように再生され始めた……。
 『……共苦して知に至らん。俺が考えていた通り…、……は君だったのだ。君の声が……、君だけの声が俺の中で鮮明に……君ならば必ずや……が聞こえることだろう』
 そうして、彼のかすれた声が途切れる。
 どうやら幾分時がたっていたらしい。いつ間にやらティエリが心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
 「おい、大丈夫かよ。急にどうしたんだ?ずいぶん苦しそうにしていたが」
 私は頭に手をやり、胡乱げに瞳を動かしながら
 「いや、大丈夫だ。少し頭痛とめまいがしただけだ」
と静かに答えた。ティエリは少し不思議そうな表情をしていたが、私のいつもの口調に安心したのか居直って明後日の方を剥いて踵を返しながら、
 「大丈夫ならばよし。さて、俺はそろそろ帰ることにするよ。家に帰って資料の整理をしなきゃいけないんでな。ユニスは気をつけて帰るんだぞ」
 と言って街の方に足早に歩んでいった。
 私はティエリの背に向けて、
 「ああ、ティエリも気をつけてな」
と言葉を返した。ティエリは後ろを振り返らずに手を挙げて、それに応じたのだった。
 私はティエリの姿が街々の雑踏の中に消えていくのを確認すると、再び海岸の方を向いて地平線の彼方を見つめた。日はとうに沈み、古びて塗装があちこち剥げた複数のガス灯が、係りの者によって点火棒で次々に灯されていく。
 このようなきらびやかな日没にもかかわらず、私はふいに訪れた静寂な夜の始まりにそこの知れない恐怖を感じていた。もし明日が突然に変わってしまったら、私はどうなってしまうだろうか、と。さきの血塗られた映像のように我々の明日が死んでしまい、未来が不安定で危ういものであったなら、と。
 有り体に言えば、無限遠に深い井戸の中を覗き込んでいるかのような心境だった。あの見知らぬ少女の記憶と、さきの映像がそれぞれ独立して存在しており、両者の関係性が見えてこなかったのである。
 私は歩きながらこの関係性を解き明かそうと思索にふける。私には幾分心当たりがあり、ティエリが以前に言っていたものに近いのかもしれないとさえ思った。
 しかしながら、確証はなかった。その現象を裏付ける証拠が私には持ち合わせていなかった。なぜならば、このような超常現象に対する知識が皆無だったし、信じてすらいなかったのだから。
 ひょっとしたら、あの夢の中の少女こそが鍵なのかもしれない。そう考えに至ったところで、私はこれ以上思索に入るのを止めて明日のことを考え始めていた。願わくば、明日も明後日も、幸福な日々が続かんことを……。
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