決意
文字数 5,989文字
そう言ってみのりの手作りマドレーヌを幸せそうに頬張るのは、真帆だ。
「クッキーもサクサクしててうまい……何枚でもいけるな」
意外と甘いものが好きな翼も、喜んでクッキーを口にしている。
「翼くん、紅茶のおかわりあるよ」
「あ、悪い」
みのりは空になった翼のカップに、ポットから熱い紅茶を注いでやった。温かな香気が立ち上る。
週末に、久しぶりに力を入れて焼いたマドレーヌとクッキーだ。
真帆と翼が気に入ってくれて、みのりはとてもうれしかった。
「ところでさ、すっごく楽しいんだけど、私たちに何か話があって呼び出したんじゃないの?」
唐突に真帆に突っ込まれ、みのりは目を泳がせた。
──明日、用事なければうちで遊ばない?
──マドレーヌとクッキーが美味しくできたから、ふたりに食べてもらいたくて……
昨日、そう言って真帆と翼を家に招待したみのり。
真帆の言う通り話があったのだが、どうやって切り出そうか迷っているところだった。
「え、どうしたんだ……何か深刻な話か?」
翼に心配そうに見つめられ、みのりはついに口にした。
「私、強くなりたいの」
「…………」
一瞬、その場に沈黙が流れる。
やや間があって、真帆と翼は同時に吹き出した。
「な、何を言い出すかと思えばみのりってば──いきなり漫画のキャラみたいなこと言うんだから」
「おいおい、何があったんだよ。まさか次は旅に出るとか言わないよな」
しまった、ちゃんと整理してから言えばよかった。
真帆と翼に大笑いされたみのりは恥ずかしくなり、言い直す。
「い、今のは
みのりの必死さに、ふたりは笑うのをやめた。
「どういうこと?」
「うちのお兄ちゃん、家を出て松山にある学校に編入学するんだって。最近悩んでるっぽかったけど、それは今の学校にいたら、やりたいことができなかったからみたい」
「えっ、そうだったの? それは寂しくなるね……」
「だけど、お兄さんが家を出ることと、みのりが強くなりたいことと、どう関係があるんだよ」
「それは──私、思うようになったの。お兄ちゃんはなりたい自分があって、目標に向かって進んでる。それに比べて私は、どうせ自分なんてっていじけてるだけ。──クラスマッチもあの三人組と一緒にされて、悪口言われまくるのは目に見えてて。正直すごく嫌だな、逃げ出したいなって思ってる。今も」
みのりの意図をなんとなく理解したのか、はっとする真帆。
彼女は口を開きかけるが、最後まで黙って聞いてやれということなのか、翼に制止されてやめた。
「お兄ちゃんだけじゃない、私はこれまで、いろんな人のことをうらやましいって思ってきた。ふたりだってそうだよ。明るくてみんなに好かれる真帆も、勉強も運動も得意な翼くんも。だけど、本当はわかってる。うらやましがってるだけじゃ、何も変わらないって」
ふたりと友達になってから二年以上の月日が経過したが、彼らにこれほど真剣に思いを訴えたことが今まであっただろうか?
真帆も翼も、みのりの真摯な気持ちを感じ取ったのか、神妙な顔で耳を傾けてくれている。
「真帆、翼くん、お願い──力を貸して。今の私じゃダメなの。強い心を持ちたい。時間があるときでい
いから……私が本番まともにプレーできるように、バスケの練習、付き合ってくれないかな」
みのりは一気にしゃべって、軽く息が切れてしまった。
ドキドキしながら、ふたりの返事を待つ。
先に感慨深げに口を開いたのは、真帆だ。
「こんなに真剣なみのり見るの、初めて。そこまで言われたら、親友としてサポートしないわけにいかないわね。練習が必要なら付き合うって言ったの、そもそも私だし。やっぱりみのりは、頑張りたいって気持ちをちゃんと持ってる。えらいよ」
「真帆──」
「俺もびっくりした。みのりがここまではっきりものを言うなんて──知り合ったばかりの、いつもおどおどしてた感じが嘘みたいだよな。そうと決まれば、俺も応援する! 本番であの女子たちがぐうの音も出せないくらいのプレーを見せつけてやろうぜ」
翼も、笑って言った。
頼もしい親友ふたりに、みのりは感謝の気持ちでいっぱいになった。
「ふたりとも本当にありがとう! 私頑張るね」
「でも、無理しすぎちゃダメよ」
「みのりに教えるなら、俺ももっと筋トレ頑張らなきゃな」
「あんたはそれ以上頑張らなくていい」
なぜか嬉しそうな翼に、即座に真帆がツッコミを入れる。
翼は超がつくほどの筋トレ好きで、部屋には無数のトレーニング器具が転がっている。
特別何かのスポーツをやっているというわけではなく、無心で筋トレしている瞬間が幸せという翼らしい理由である。
そうこうしているうちに、日が暮れそうになり、みのりはふたりを見送ることになった。
キッチンにいる母に声をかけ、帰ろうとしたとき。
「スマホ忘れちゃった」と言い出した真帆が部屋に戻ってしまい、みのりは翼とふたり残された。
「おまえ、無理してないよな」
突然翼に切り出されて、みのりは言葉に詰まった。
「なに、無理って?」
「いや、あれからちゃんと話してなかったけど……あいつのこと、ショックだったんだろ。なんか軽薄そうで正直印象よくなかったけど、みのりは好きだったんだもんな」
「あ──」
翼の言わんとしていることが、ようやく理解できた。
翔太に失恋したみのりを気遣ってくれているのだ。
彼は確かに、同性である男子(ロダンでさえ)からの評判はあまりよろしくなかったらしい。
翼も彼をよく思っていなかったようだが、それでもみのりの気持ちを尊重し、応援してくれていた。
「うん──もう、大丈夫。心配ないよ」
「本当かよ? おまえ中学の頃から、言いたいことひとりで抱えすぎて爆発する癖あったじゃん。つらいならつらいって、正直に言っていいんだぞ」
内心苦笑する。
それなりの付き合いがある分、翼はみのりの言葉に隠された少しの強がりと嘘を、ちゃんと見抜いていた。
「そうだね。正確には、まだ完全に大丈夫じゃない。だけど、もうどうにもならないことにグダグダ言ってる私は嫌なの。この気持ちに蹴りをつけて、前に進みたい──なりたい自分になるために」
「みのり……」
「私はこういうことになったけど、翼くんにはうまくいってほしいってすごく思ってる。だって真帆とほんとにお似合いだもん」
「な、何言ってんだよ──」
翼は若干顔を赤らめ、落ち着かない様子で髪に手をやる。
みのりは、いつもクールな彼が、等身大の男子らしい表情を見せる瞬間がとても好きだった。
「実際に行動に移すかどうかはしばらく置いといて──たまには、ふたりでどこか遊びに行ってみたらどうかな。ちょっとデートっぽい感じで!」
「で、デート……か」
真帆の階段を降りてくる足音が聞こえて、ふたりはそれ以上話すのをやめた。
「みのり、お菓子ごちそうさま。練習の件は、またメッセージでも話し合おうね」
「俺も、すごく美味しかった。明日から頑張ろうな」
「よろしくお願いします。また明日ね」
翼に「そっちも頑張って」という意味を込めた視線を送ったが、伝わっただろうか。
ふたりを見送ったあと、家に入ろうとしたみのりは、いつのまにか後ろにいたロダンを見つけ、ぎょっとした。
「ちょっと、びっくりさせないでよ! 何で今出てくるの」
「今日はとても翼の相手する気分じゃなかったんだよ──あいつが来たら疲れる」
「ああ……」
ロダンに会いたがっていた翼だったが、いつもならその辺にいるロダンがどこを探しても見つからず、残念ながら彼の希望は叶わなかったことになる。
翼の人柄そのものは高く評価しているロダンとはいえ、猫好きの彼と接するのはかなり疲れるらしい。
「しかし、ずいぶん
ロダンはみのりをからかうとき、わざと「みのりちゃん」と呼んでくる。
例によってさっきの会話を聞いていたのか、ロダンはいつもの調子で挑発的に言ってきた。
しかし、みのりは動じない。
「そうしようと思ったのは、ロダンの言葉がきっかけだよ。なりたい自分が何なのか、まだよくわかってないけど──今のままの私では違うと思うの。だから、ありがとね、ロダン」
「ふーん……まぁ、頑張れよ」
真面目に返されて、困惑したのだろうか。
調子狂うぜ、とでも言いたげにロダンはそっぽを向いてしまった。
もしかすると、ロダンはあまり感謝されることに慣れていないのかもしれないな、とみのりは思うのだった。
* * *
甘辛ジューシーなしょうが焼き、シャキシャキの千切りキャベツ、優しい甘さの大根のお味噌汁。
お漬物、そして……炊き立てほかほかの白ごはん。
「おいしい!」
大好きなしょうが焼きをかき込み、みのりは幸せそうに言った。
お茶碗に山盛りよそったごはんは、あっという間に空になっていく。
そうだ、たくさん食べて、明日も頑張らなきゃ──
「みのり、今日はいつにも増してよく食べるな……」
三回目のおかわりをするみのりを引き気味に見つめてくるのは、兄だ。
料理をするのも好きだが、食べるのもまた好きなみのりは、見た目に反してなかなかの
勢いよくお茶を飲み干して、ひと息つく。
「だって、お腹空いてたんだもん」
「そんなに喜んで食べてくれるなんて、お母さんうれしいわ」
「みのりも成長期だからな、いっぱい食べるのはいいことだ」
みのりの食べっぷりに、ニコニコしている両親。
ダイニングの隅で丸まっていたロダンが、可愛く鳴き声を上げる。
もっとも、みのりにだけは彼の言葉が聞こえていた──「横に成長しなきゃいいけどな!」と。
面と向かって反論できないのが悔しくて、みのりはせめてもの抵抗とロダンを睨みつけてやった。
「でもみのり、最近毎日帰るの遅いじゃない。お兄ちゃんの次はあなたなの?」
「私は……」
母の質問に、みのりは一瞬言いよどんだ。
「真帆や翼くんに付き合ってもらって、毎日バスケの練習してるの。もうすぐクラスマッチがあるから」
「えっ!」
案の定、それを聞いた両親と兄は固まる。
もっとも、みのりには十分想定内の反応ではあった。
「いったい何があったんだ。小学校のときから運動会の前日には行きたくない行きたくないって大泣きしてたみのりがそんな──」
「そうそう、マラソン大会のときも球技大会のときも陸上記録会のときもそうだったよな」
「へえ〜」
それを聞いたロダンがニヤニヤしながらこっちを見ている。
お父さんもお兄ちゃんもロダンの前で丁寧に解説しないでよ! と、みのりはムッとしたが、仕方ない。
彼らはロダンが人間の言葉をわかっているなんて、思ってもいないのだから。
「それでそんなにお腹が空いているのね。みのり……本当に何かあったの? もちろん努力することは喜ばしいことだけど、お母さんちょっと心配だわ」
「大丈夫よ。お兄ちゃんも頑張ってるし、私も今のままじゃダメだなって思っただけ! ごはんほんとにおいしかった、ごちそうさま。お皿洗っとくよ」
母の心配を笑ってごまかし、みのりはその場を離れた。
確かにみのりはここ数日、毎日お腹が空いて仕方ない。翼と真帆による特訓が始まったからだ。
バスケ部が試合をしていると、当然体育館を使えない。
そのようなときはバスケットゴールのある近所の公園で、真帆と翼がコーチ役を交代しつつ練習をしていた。
──とりあえず基礎の基礎、ドリブルが続くようになること。話はそれからだ。シュートの練習はもっとあと。
──全然ダメだ! そんなんじゃすぐ相手チームにボール取られるぞ。
──みのりには基礎体力がそもそもない。初心者向け筋トレメニューも取り入れてみるか……
真帆のトレーニングは優しかったが、翼は違った。
スポーツが得意で、運動部から引く手あまただった翼。
女の子相手とはいえ彼のスパルタ指導には容赦がなく、見かねた真帆が「みのりは初心者なんだから、もう少しお手柔らかに教えてあげたら」とたしなめるほどだ。
だが翼は「やると決めたからには、徹底的にやらなくては」と譲らず、みのりも倒れそうになりながら「大丈夫。頑張れる」と諦めない。
珍しく熱くなっている幼なじみと、これほどの真剣さを初めて見せる親友に、「休憩も大事だよ……」と真帆は肩をすくめるのだった。
その甲斐あってか、最初はすぐにバテていたみのりも、数日すると少しずつ思い通りにボールを操れるようになってくる。
「よし、いいぞ、いい、そのまま……やった!」
投げたボールが、綺麗にゴールに入って、音を立てて床を跳ねる。
「やるじゃない、みのり!」
翼も真帆も喜んで駆け寄ってきたが、当の本人は転がったボールを茫然と見つめている。
「うそ……入った」
自身の投げたボールがゴールに入ったことを信じきれていないみのりに、翼が笑顔で言う。
「そりゃ、あんだけ練習したんだ。それも俺らの特訓でだぞ。上達しない方がおかしいっての」
「結構遠くから入れられたよね。体育での試合も、いい感じになってきてるんじゃない? パスもすごく上手くなったよ」
「できるようになるって、気持ちいいだろ。俺らもうれしいよ。みのりが頑張ったからだ」
真帆と翼の言葉に、じわりと目頭が熱くなる。
みのりは思わず、ふたりにしがみついた。
「翼くん、真帆──ありがとう! 私のために、こんなに時間を割いてくれて。ほんとにふたりのおかげだよ。私、頑張るからね」
「ふふ、みのりったら」
「おい、やめろよ──あ、」
苦笑いした翼が、ふと体育館の出入口に目をやって、眉をひそめた。
つられてみのりもそちらに目を向けると、見覚えのある人物がいた。
あの三人組のリーダー格の少女、マナミだ。
彼女はみのりたちと目が合った瞬間、気まずそうな顔をして足早に去っていった。
首をひねる翼。
「いつから見てたんだろうな──そうだ、あいつらにも一泡吹かせてやらなきゃだよな」
「ううん……ひどいこといわれたから見返してやりたいとか、そんなんじゃないの。私はただ、今までの私から脱却したいから」
そう語るみのりの顔は、晴れやかだった。
ロダンの声がよみがえる。
「大事なのは、自信を持つこと」
みのりは、ロダンのあの言葉の意味がなんとなくわかり始めたような気がした。
──私も、ロダンみたいに……
クラスマッチ本番まで、あと一週間になろうとしている。