第264話麗のゴールドベルク変奏曲、大旦那がチェロを弾きたいと言う。

文字数 1,172文字

美幸と麗のモーツァルトのK381が終わった。
二人が立ち上がると、全員が笑顔で、大きな拍手。

麗は、頭を下げる。
「お耳汚しで」
美幸に目で合図、ステージから降りようとする。

その麗の動きを止めたのは大旦那だった。
「リクエストがあるんや」
「それと、恥ずかしいけどな、それはリクエストの次に言う」

麗は、そう言われてはステージに残るしかない。
大旦那が客席から麗に近づき、一冊の楽譜を渡す。
美幸も、「譜めくりします」と、ピアノから離れない。

麗が楽譜を見ると、バッハのゴールドベルク変奏曲だった。
大旦那は麗に確認する。
「初見か?」

麗は素直に答えた。
「はい、初見です」
「聴いたことは何度も」と答えようと思ったけれど、万が一のミスタッチもある。
「また、お粗末になるかもしれません」と、一応の言いわけをする。

しかし、大旦那は、そんな麗の肩をポンと叩く。
「謙遜し過ぎや、あんなきれいなモーツァルト初めて聴いた」
「そのまま、大きなステージでも構わん」
「わしも有名どころは、全部聴いとる、そのわしが保証する」

麗は、「大変なことになった」と、ピアノに向かった。
美幸は麗の表情をうかがいながら、楽譜をセットする。
「簡単なようで実は難しい曲、麗様は初見で・・・うちでは出来ん」
「でも、この冷静で、きれいな顔は変わらん」

麗は、美幸に目配せ、そのままゴールドベルク変奏曲を弾き始めた。

最初のフレーズで、まず美幸が溶けた。
「はぁ・・・音の粒が・・・きれいで・・・夢見心地や」
「音楽は心をあらわにするゆうけど・・・麗様は深いわぁ・・・」

大旦那は目を閉じ、聴き入る。
五月は、手を組み、神に祈るかのように額に当てて聴く。
茜は、視線を麗にあてたまま、涙が止まらない。
「桁違いや・・・麗ちゃんのピアノ・・・」
「こんな腕を隠して・・・いや隠さないではいられなくて・・・」
「不憫や・・・不憫過ぎる」
「どれだけ自分を殺して・・・生きて来たんや」

お世話係たち、使用人たちも、麗のピアノの、あまりの美しさに声も出せない。

ゴールドベルク変奏曲は、九条家全ての人を魅了し、余韻を残して終わった。

麗は、美幸に少し頭を下げた。
「譜めくりありがとうございました」
美幸は、感激してしまって胸を押さえる。
「麗様、はぁ・・・天使様に見えました」

客席からも、再び全員が笑顔で、大きな拍手。
麗は、前の曲よりは上気した顔。
「初見で疲れた」と感じていると、大旦那が麗の前に歩いて来た。

大旦那は、少し恥ずかしそうな顔。
「わしがチェロを弾く、伴奏してくれんか?」
「ああ、下手やけど」

麗は驚いた。
大旦那がチェロを弾くなど聞いたことがないから。
ただ、断るわけにはいかない。
「わかりました、何なりと」

大旦那は、心の底からうれしそうな顔。
「少し待ってな、チェロ持ってくるわ」
「実は、この日に備えて練習しとったんや」

麗は、また驚いて、声も出ない
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